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「講談 国定忠治」(昭和24年 講談研究会編) あらすじ

「講談 国定忠治」(昭和24年 講談研究会編) あらすじ

戦後間もない頃に刊行された講談本「国定忠治」のあらすじです。
講談国定忠治_表紙2_2

私の手元には、講談名作文庫「国定忠治」(昭和51年講談社発行)もあり、こちらの方が物語のボリュームが大きいですが、
講談文庫_国定忠治_2

今回は内容がコンパクトで古典の趣きある昭和24版の講談本を紹介します。

* * *

「講談 国定忠治」(S24) 全二十六席

一 地獄に仏
国定忠治の父忠作は国定村でも立派な家柄であった。しかし不運なことに、忠治が産まれると、忠作と妻お安は病気になってしまった。お安が死んで、忠作は百姓をしながら男手ひとつで忠治を育てていた。それを見かねた名主が二度目の妻としてお辰を世話してくれた。夫婦の仲睦まじかったが忠作はまた病にかかって、貧しい暮らしとなった。
名主の東雲卯右衛門が、自分の家の馬をつかって忠治に馬子をさせる話を持ってきた。忠作とお辰は地獄に仏の話だと喜び、十二三才の忠治も親孝行したいと引き受けた。

二 孝行馬子
忠治は名主の馬を借りて御料の松原まで来た。そこには何人も馬子がいて、国定村の孝行息子と知られていた忠治に馬子の手ほどきをしてやった。なんとかお客をとった忠治。伊勢崎まで運んだ客人からなんと一両をもらった。喜ぶ忠作とお辰。国定村の孝行馬子の忠治の名は近方に知れ渡るようになった。

三 悪い遊び
忠治は十六になった。孝行馬子の忠治も悪い遊びを覚えるようになった。この頃上州では丁半博奕が流行っていて馬子達もやっていたので忠治も手を出した。博奕にのめりこんだ忠治は、負けた日には「今日は客がいなかった」と嘘をついて家に帰った。ある日お辰は忠治が博奕しているのを見てしまう。お辰は家に帰ってきて嘘をつく忠治を詰ってなぐりつけた。病床の父は辛抱して働いてくれと涙ながらに忠治に言う。忠治は死んだ母に会いたくなったとつぶやいた。

四 大天狗額太郎(だいてんぐがくたろう)
博奕に手を出すまいと決めていた忠治だが、馬子仲間にそそのかされて博奕をしてしまい、名主様からいただいた二百文をとられてしまう。
金をつくらないと帰れないが、寒い街道には人通りが少ない。困っていたところ、頭巾をして菅笠をかぶった武士が乗ってくれた。忠治のことを気に入った武士は五両もの金を渡した。びっくりした忠治は名を聞き、顔を拝見させてもらった。男は日光の大谷(おおや)河岸の貸元で大天狗額太郎という親分だった。他人の命を三人助けるために三千両盗んで逃げるところだという。額太郎を見送った忠治は、人の命を助けるために金を盗った立派な親分と感心した。

五 継母お辰
忠治が五両の金を持って帰ると忠作は病の床にいるのにお辰はいない。今ではお辰は薬や飯の用意などろくに忠作の世話をしていない。病人をうちやって夜になっても帰らぬお辰に腹をたてた忠治は家を出た。お辰は、百々村(どうどうむら)の紋治という博奕の親分の子分の蝮の仁蔵と酒を飲んでいた。そこに忠治が乗り込んでゆくと、お辰はきせるで忠治を叩いて忠治の額を割った。お辰が帰っていった後、忠治は紋治親分の家の賭場に飛び込んだ。そこで忠治は三両を元手に八十両ほど儲けた。子分からこのことを聞いた紋治親分は豪(えら)い度胸だと感心した。

六 親の仇
親分の家からの帰り道、藪の中から忠治を槍で突く者があった。忠治はそれを受け止め、一太刀浴びせた。その曲者はお辰であった。仁蔵と共謀して忠治と忠作を殺める計画だったとお辰は息も絶え絶えに供述した。家に帰ると仁蔵がいて、忠治はこれを斬った。忠作はすでに殺されていた。父親が死んでしまってはこの世に何の望みはないと、忠治はいさぎよく死んでしまおうと思ったが、紋治親分の首をもらって死んだ方が父もうかばれるだろうと紋治の家へ乗り込んだ。だが、紋治親分の貫禄の前では忠治は訳を話すので精一杯。名主の卯右衛門も介入して、本件は親を殺された忠治の仇討として役人に届けた。孝行馬子の仇討として忠治の評判はますますよくなってきて、紋治親分は忠治に跡目を継がせることとした。忠治は十五で紋治親分の若親分になり、二十一歳で剣術の免許皆伝となって、立派な親分として村人の話題となった。

七 盗賊様のお通り
忠治が高崎と安中の間の並木道を通っていると、捕らえられた盗賊が籠に入れられて運ばれていた。盗賊は大天狗額太郎であった。忠治は籠のあとをつけ、高崎の城下に入っていった。忠治は額太郎を救い出し、国定村の家へ連れ帰った。額太郎は日光の円蔵と名を変え、忠治の相談相手となった。忠治の勢いはますます強くなり、子分も多くなってきた。

八 島の伊三郎
忠治と同じ上州に島の伊三郎という親分があった。馬方あがりの忠治が売り出しているのがねたましくてたまらない。伊三郎は紋治親分の縄張りを荒してやろうと福島天神に賭場を開いた。子分達が出向こうとしたが忠治はそれを押しとどめた。年の暮れ、忠治はたったひとりで天神の森に行き賭場荒らしをして帰り、子分達はその度胸に感心した。天保二年の正月、伊三郎は涅槃山に賭場を開いた。忠治がまた一人で出かけたが、待ち構えていた伊三郎の子分二三十人に捕らえられてしまい、伊三郎の家に運ばれた。伊三郎は子分に忠治の指をへし折れと命じるが、そこに三河屋の房次郎という大親分が割って入り、この喧嘩は房次郎が預かることとなった。忠治は房次郎に礼を言って帰ったが、喧嘩に負けたことが残念でならなかった。

九 喧嘩あともどり
家に帰った忠治は、円蔵の忠告に従って、二三十人に囲まれても切り抜けられる技量を得るために高崎で半年か一年稽古することとした。忠治が留守の間、伊三郎の子分治三郎と強蔵が天神の賭場で盗られた金を取り戻そうと、忠治の家に押し入った。日光の円蔵と板割の朝太郎は返り討ちに殴り倒して二人を放り出した。伊三郎一家では大騒ぎになって伊三郎はじめ七八十名の者どもが武器を持って忠治の家に向かった。高崎の先生への挨拶を済ませ戻ってきた忠治は、百姓からこのことを聞いて一目散に家に帰った。忠治一家の方では、日光の円蔵、板割の浅太郎、三ツ木の文蔵、清水の岩鉄ら十三四人しかいなかったが綱取明神の坂で伊三郎一家を待ち構えた。忠治一家と伊三郎一家の出入りが始まった。そこに役人が現れ「御用」の声がかかると忠治は引き下がった。役人の前に三河屋房次郎親分が出てきて、この喧嘩は房次郎親分が預かることとなった。
講談国定忠治_見開き本文_2


十 だましうち
忠治の子分に山王堂の谷五郎という男があった。その日は朝から風邪気味で頭痛がしていたが一家の喧嘩の話を聞くと妻のお清が止めるのも聞かず家を飛び出し明神坂に向かった。すでに房次郎が仲人(ちゅうにん)として入って喧嘩が終わった後で、伊三郎一家の身内がどやどや帰るところに谷五郎がすれ違った。伊三郎の子分の謙信治三郎が忠治は斬られて死んだなど谷五郎にでたらめを吹聴した。それがきっかけで口論となり、ついに二人は刀を抜こうとした。その際、何者かが背後から谷五郎を斬りつけて谷五郎はその場に倒れた。
百姓が谷五郎を見つけて忠治を呼んだ。谷五郎は息も絶え絶えに伊三郎の子分の治三郎に斬られたと忠治に言い遺して死んだ。忠治は房次郎のもとへ行き、子分のうらみを晴らしたいから仲人を引いてくれと頼んだ。房次郎は了解し、忠治は伊三郎を討つ機会を今か今かとねらっていた。

十一 子分の仇、役人のなさけ
六月十五日、世良田の天王様のお祭りの日。お宮裏の田圃道、ひっそりとした森かげで忠治と伊三郎が対峙していた。それぞれの子分がそれを見守っている。一騎討ちが始まり、ついに忠治は伊三郎を斬り倒した。伊三郎の子分は一家へ逃げ帰った。伊三郎一家の者は、世良田の森で首のない親分の死骸を引き取った。すぐに忠治一家へ親分の首を取り返しにゆこうと子分達ははやったが、結局伊三郎の兄弟分で甲州にいる鬼の大八親分に来てもらうこととした。甲州からやってきた大八は八州の役人中山清一郎に国定忠治を召し捕るよう頼んだ。中山清一郎は、役人のつとめとして罪人を放っておくことはできないが、忠治という立派な男を縄にかけるのは惜しいと思っていた。
中山清一郎は一計を案じて、目明しの勘助を呼んだ。勘助は忠治の子分の板割の浅太郎の伯父である。夕方、勘助は忠治を訪ねて、ひとまず立ち退くよう勧めた。
その夜、忠治は円蔵とともに日光へ立ち退くこととした。稲荷の森まで来たときに、鬼の大八ら二三人が忠治と円蔵の前に現れ「伊三郎の仇だ覚悟しろ」と忠治を取り囲んだ。どうやらあと四五十人はいるらしい。忠治と円蔵は数人と切り結んだ後森の中に逃げ込んだ。その時、目明しの勘助を先頭に中山清一郎の捕手の役人が赤い提灯を手にやってきた。伊三郎の子分は逃げてしまう。捕手は「御用、御用」と呼ぶばかりで忠治らを捕えようとしない。これは「早く逃げろ」の合図だと捉えた忠治と円蔵は役人のなさけをありがたく受け取って日光へ逃げた。

十二 沼の中
忠治は三年日光にいたが故郷が恋しくなり国定村へ帰った。六月十五日に子分三人を連れて刀を差さずに世良田の天王様にお参りにいった。拝殿では伊三郎の子分が参詣者の顔をこっそりと確認していて忠治を見つけると飛んで帰った。帰り道、忠治は鬼の大八らに取り囲まれた。丸腰の忠治はそこにあった下馬札をとって応戦するが、ついに大八に肩先から斬られてしまう。忠治は沼の中に飛び込んだ。そこに役人が駆け付け、大八の一味は逃げてしまう。忠治と子分の四人は代官所へ連れられ牢につながれた。忠治は傷を手当したら江戸へ送られることとなった。

十三 岩鉄
今まで忠治に世話になってきた百姓たちは忠治が召し捕られたと聞いて騒ぎ立った。百姓からせがまれた名主が、忠治を返してもらうよう代官所に嘆願したが聞き入れられなかった。忠治の子分の中でも一番の大男の岩鉄が槍を持って代官所へ乗り込んだ。丸腰の忠治を傷つけた伊三郎の一味を一人も捕えないで忠治を江戸に送ろうものなら、一家の者の命に代えてでも役人を叩き殺すとすごんだ。役人の方も、毎日のように百姓が嘆願に来るし、こんな子分が何人もいるようでは江戸送りは無理だろうと判断した。あらためて名主百姓の嘆願により忠治は解放されることとなった。

十四 百姓のために
忠治が戻ってきたことを知った伊三郎の身内の者は散り散りに逃げてしまった。
天保八年大飢饉が起こり、貧しい百姓の中には飢え死にする者もあった。見かねた忠治は自分の命を捨ててでも百姓の難儀を救いたいと子分を集めて金集めを始めた。多くの金持ちは忠治の名を恐れて金を差し出した。金を出さない富豪からは夜におしかけて刃物をつきつけて金を出させた。それでも金は足りなかった。

十五 お金の雨がふる
忠治は、蔵の中に金が眠っているという噂の上州太田の大光院という寺を目指して旅立ち、桐生の町を通り過ぎた。桐生の町に佐兵衛という米の買い占めをしている悪い商人がいて、佐兵衛の遣いで重兵衛という男が三千両を運んでいた。忠治は重兵衛を襲って三千両を奪い、大光院の蔵からは二千両を盗み出して国定村に帰った。その夜、国定村の百姓達の家に金の雨が降った。忠治一家の者が投げ込んでいたのである。百姓達はその金で麦や米を買って飢饉をしのいだ、

十六 赤城山へ
百姓達は、金は忠治がくれたに違いないと忠治の家にお礼にいったが忠治は自分がやったのではないとしらばっくれた。しかし役人は重兵衛殺しや大光院の蔵破りは忠治の仕業に違いないと、商人に化けて忠治の家の周りを詮索していた。百姓は、忠治を捕えようとする役人が商人になりすまして村に潜入していると見抜いて、怪しい商人はつかまえて池に放り込んでしまうことにした。実際ある役人が池に放り込まれると、役人の方ではこれに加担する主だった百姓を片っ端から召し捕ることとした。これを知った忠治は、自分のために百姓が捕らえられることがあってはならないと村から立ち退くことを決める。忠治は十四五人の子分を連れて赤城山の滝沢不動に立てこもった。役人は忠治が遠くへ国超えしたものと思っていたが、百姓は忠治が近くの赤城山にいることに気付いて、食べ物を持ってこっそり滝沢不動に置いてゆくようになった。

十七 孝行息子の難
忠治が村からいなくなったと聞いて喜んだのが代官の松井軍兵衛であった。軍兵衛は代官という役を笠に着て百姓をいじめる悪者だが、忠治がいるうちは思うように振舞えなかった。
国定村の隣の室沢村に才助という孝行息子がいて、目の見えない母と妹のお梅と貧しいながらも仲良く暮らしていた。才助が伊勢崎に薪を売りに行っていたとき、軍兵衛に仕えている定助という荒くれ者から喧嘩をふっかけられた。才助は酔っ払った定助を薪で打ち据え、定助は額から血を流して逃げ帰った。軍兵衛は才助を召し捕り牢につないだ。

十八 忠治の徳
百姓達が孝行息子の才助を救おうと代官所へおしかけた。河島慶助という用人は百両の金を出せば代官にお願いして牢から出してやると告げた。村人は金を工面してなんとか六十両は集まった。才助の妹のお梅が自分の身を売って四十両の金を作った。そうして才助は牢屋から出ることができたが、お梅が身を売ったために才助も母も泣き暮らしていた。それから5日目、才助の家に駕篭がかつぎこまれ、中からお梅がでてきた。忠治の代理で板割の浅太郎が店からお梅を身請けしたのである。浅太郎はさらに八十両を才助に渡し、村人への借金を返して母の目の薬を買うように言うと、赤城山に帰っていった。

十九 悪い代官
十二月二十日の雪の日、松井軍兵衛の仲間(ちゅうげん)の定助は無銭飲食をして高崎の町を歩いていた。金を巻き上げようとわざと商人にぶつかり喧嘩をふっかけた。実はそれは国定忠治であった。青ざめる定助を忠治一味は林の中に連れて行き締め上げた。定助は代官松井軍兵衛の悪事を隠さず白状した。その夜忠治一家は定助に案内させて代官所に乗り込むと代官松井軍兵衛と用心河島慶助を斬り殺した。
国定忠治が代官を殺したとあって上州ではお騒ぎとなった。八州の中山清一郎は忠治を召し捕るために厳重に手を配り赤城山を取り囲んだ。

二十 思い違い
何百人の捕手が待ち構える中、忠治は板割の浅太郎を連れて悠々と山を下った。浅太郎と別れて定吉という床屋に入った。そこに運悪く役人がやってきて忠治がいることがばれてしまった。忠治は床屋の屋根の上にのぼった。床屋の周りは百人近くの役人が取り巻いている。そこに浅太郎の伯父で目明しの御室の勘助がやってくる。勘助は忠治に「逃がさねえぞ」と声をかけてはいたが内心では忠治を助けようとしていた。この場を切り抜ける逃げ道を暗に忠治に示唆しながら、逃がすなと仲間にどなった。忠治はそれを聞いて逃げることができた。だが忠治は、勘助の配慮には思い至らず、板割の浅太郎が伯父の勘助に密告したものだと思い違いをした。忠治は浅太郎に親分子分の縁を切ると告げる。浅太郎が弁明するが聞き入れない。そんなに言うなら勘助の首をとってこいと忠治は浅太郎に告げる。浅太郎は赤城山を下って勘助の家を訪ねる。勘助は妻を亡くし九才になる息子勘太郎と暮らしていた。事の次第を知った勘助は自分の首を差し出すことに了解するが、忠治に対する御恩は忘れていないことは伝えほしいと浅太郎に頼む。浅太郎は勘太郎を背負い、勘助の首を持って赤城山に戻り忠治に勘助の言葉を伝えた。忠治は自分の思い違いを知り、一生の誤りを悔いた。浅太郎は勘太郎を育てるために忠治に別れを告げるが、忠治はそれを引き留めた。日光の円蔵はぷいと山をでたまま帰ってこなかった。

二十一 赤城を落ちて
百姓がこっそり忠治の手助けをするために八州の役人はなかなか忠治を捕えられないでいた。中山清一郎は百姓達を三日間村から出さないようにして、百五十人近くの捕手が一気に赤城山を登った。これは山を下りるしかないと覚悟を決めた忠治は、三ツ木の文蔵や清水の岩鉄ら四人に役人の足止めをまかせて、蟻の戸渡りの細道から山を抜けた。十四五人の子分を従えた忠治は信州との国境大戸に来ると加部安左衛門という大金持ちの家を訪ねた。だいぶ昔、赤城明神の祭りの日に娘を助けてもらったことがある安左衛門は喜んで忠治を迎えた。その夜、島の伊三郎の弟分の鬼の大八が安左衛門の家に押し入り、自分は忠治だと騙って三千両を巻き上げた。これを見た忠治は外に出て大八を待ち伏せた。大八と子分を斬って忠治は三千両を持って安左衛門の家に戻った。安左衛門が金を受け取らないというので、忠治は千両だけ受け取り、勘太郎を残して立派な商人にしてほしいと安左衛門に頼んだ。
大戸の関所では、忠治が子分を引き連れてくるというのは役人は逃げてしまい、無事に通り抜けて信州に入った。忠治は、いずれ自分は捕まるので子分は逃がしてやりたいと、子分に金を分け与え一味は散り散りとなった。忠治は一人になった。

二十二 娘は売るな
忠治はただひとり、信州の善光寺にお参りしようと千曲川のほとりにやってきた。そこで身投げしようとしている老人をみつけこれを押しとどめた。聞くと、老人は吉田村の喜右衛門といい、年貢の金に困って二十歳になる娘を山形屋藤蔵という芸妓屋に身請けさせて百両の金を受け取ったが、帰る途中で若い男二人につかまってその金を盗られてしまったとのこと。忠治は、金を盗った若い男が藤蔵の手下ではないかと勘づき、喜右衛門を連れて山形屋へ向かった。はじめは忠治が自分を彦六と名乗っていたので強気にでていた藤蔵だが、忠治が正体を明かすと恐れおののいて百両の金を差し出した。さらに忠治は喜右衛門の娘を身請けして証文を焼かせた。親子には駕篭を手配して自分は悠々甲州路へ向かった。

二十三 猿橋の危難
忠治は甲州の小野沢斧右衛門親分のところに身を寄せた。斧右衛門は以前上州で忠治に助けられたことがあるから喜んでもてなした。忠治は風邪をひいてしまい四五日床についたがなかなか治らない。ある日忠治が裏手の森の方に行くと、斧右衛門と山形屋藤蔵が相談しているのを見つけた。十七日の明神の祭りの際に忠治を連れ出して召し捕るという計画のようだ。忠治はなに知らぬ顔で斧右衛門の家に帰った。忠治の風邪は治り、当の十七日となった。斧右衛門は忠治を連れ出したが、忠治に計画がばれていると気づくと逃げ出した。忠治が甲州上野原の猿橋を渡ろうとした際に役人に取り囲まれた。逃げ場を失った忠治は谷底へ飛び込んだ。

二十四 子分の力
ずぶぬれになった忠治は川上の方へ歩いて行った。一軒家をみつけて訪ねた。そこは美濃の加納の重吉という盗賊の隠れ家だった。なんと忠治の子分の浅太郎もここに一緒に住んでいた。浅太郎は忠治を追って信州から甲州へ来る途中、大菩薩峠で重吉と知り合い、重吉と兄弟分になってこの山中に隠れていたのだ。忠治は元気になり信州に向かう。浅太郎と重吉は山形屋藤蔵を殺した。忠治は信州から越後に出た。以前娘を助けてやった吉田の喜右衛門の世話で、忠治は酒屋の番頭となった。だが、鷲津の音蔵という侠客が、酒屋の番頭が忠治であると見抜いて奉行所に訴え出た。忠治はつかまり、長岡の奉行所に引き立てられて牢に入れられた。忠治は関所破りの罪人として江戸に送られることとなった。
忠治を乗せた籠は高崎で一泊した後、柳瀬川の渡し場に来た。忠治を乗せた籠の船には忠治の子分がいて、船は川下に逃れた。忠治は子分の高崎重吉、板割の浅太郎、清水の岩鉄に助けだされた。

二十五 木隠霧太郎
腹をすかせた忠治一行は、山道の途中、天然の岩屋の広間で飲み食いしている五六十人の山賊に会った。それは、女をあざむく美しい顔で恐ろしい腕前を持つ木隠霧太郎の一味であった。霧太郎は、強欲な金持ちから金を奪い貧しい者に分け与えている義賊であった。忠治も霧太郎もお互い会いたいと思っていた。忠治一家は霧太郎一味を酒を酌み交わし疲れを癒した。

二十六 忠治の最期
忠治は霧太郎と上方に向かった。遠州秋葉で霧太郎と別れた忠治は、伊勢でお参りして大阪に行く。そこで浪花の侠客勢力富五郎と知り合い兄弟分となる。だが富五郎が金毘羅山で自害してしまい、大阪がいやになり、国定村に帰っていった。そこで忠治は役人に捕らえられた。嘉永三年二月十六日、四十二歳の国定忠治は大戸の関所のそばではりつけにされ、役人の突き出す槍を受けて命を落とした。


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東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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