「天保水滸伝」ゆかりの地、飯岡・笹川・銚子旅日記
「天保水滸伝」ゆかりの地、飯岡・笹川・銚子旅日記
2013年12月某日。大衆演劇でおなじみの「天保水滸伝」ゆかりの地を訪ねる旅に出かけました。大衆演劇は好きだけれども天保水滸伝にはさして興味がない私の妻も銚子のうまいものに惹かれて同行しました。
(「天保水滸伝」についてはこちらのブログをご覧ください)
■飯岡へ
朝早く車で東京品川区を出発、首都高湾岸線を東へ。千葉県近くになって渋滞にはまる。ところが右の方の車線は車が流れている。自分のいる左の車線が何故か進まない。車線変更しようにも右車線は走行する車がなかなか途切れなくて出来ない。葛西のあたりで渋滞が解消する。そう、左車線の渋滞は東京ディズニーランドを目指す車の行列だったのです。よけいな時間をくってしまった。
東京と銚子の緯度はほとんど同じ。だから双方を結ぶ交通路を最短距離で整備しようとするならば、真横に直線的な道路なり線路なりを作ればよい。しかし実際は千葉県中西部の線路は大きくうねっている。これは線路敷設の計画があった当時に、最短距離線上に、敷設反対を通すことのできるほど強い力を持った土地があったからだ。飯岡の近くにも鉄道駅はない。線路は飯岡をよけるように北にふくらんだカーブを描いて銚子につながっている。これは当時の飯岡の経済力・発言力の強さを物語っている。漁業で繁栄していた飯岡にとって鉄道に魅力はなく、むしろ近づけたくなかったのだろう。しかしその結果、現在の飯岡はいいようもないさみしい街になってしまった…というような話が山口瞳「巷説天保水滸伝」に書いてありました。
車は高速を降りて国道126号線へ。旭駅の近くを通過。飯岡は旭市にあります。目指す土地が近いことがわかります。
運転中「蛇園」という地名が目に入り、浪曲「蛇園村への斬り込み」を思い出す。
飯岡に着きました。
カーナビにインプットしてあった最初の訪問地光台寺へ。カーナビは「到着しました」と言っているのに、入口と駐車場がみあたらず、ちょっとぐるぐる走ってようやく正面に到着。

光台寺。飯岡助五郎の菩提寺です。
掲示板に助五郎の墓の場所の案内があります。

助五郎の墓。近くに看板があります。
●飯岡助五郎之墓●
助五郎は相模国(神奈川県)三浦に生まれ、若い頃飯岡へ来て漁夫をしていましたが、義理人情に厚いうえ度胸が良いので人々にたてられ関東屈指の大親分と言われるようになりました。笹川繁蔵との大利根河原の決選は、天保水滸伝として世に知られております。
天保年間、この浦で大海難事故があいつぎ漁夫が全滅しかけてたとき、自費で生地の三浦から漁夫を集め復興の礎をつくり、飯岡町再生の恩人として町民より感謝されていましたが、安政六年(1859)四月十四日、当町川端町の自宅で[67歳]を以て大往生を遂げました。

墓に供えられた花
もう何日もたっているよう
次は笹川繁蔵の首塚があるという定慶寺に向かいます。くねくねと細い道をゆかねばならないようです。また車で迷いたくないし近いので歩いて行こうかと考えながら歩いていると、誰かが私を呼び止めました。見ると軽トラックの近くに昔かたぎ風のおじさんがいて、指で地面を差しています。そこには私が落とした手袋がありました。
農作業か何かの途中らしきおじさんは何しに来たのかと尋ね、私は簡単に事情を説明しました。おじさんは飯岡にある史跡について朴訥な言葉でいろいろ教えてくれた後、首塚なら車で行けばいいよ、と助言してくれました。
おじさんにお礼を言って、車に乗り込み、カーナビで定慶寺をチェックしようとしたら、クラクションの音が聞こえました。軽トラックの運転席に乗り込んだおじさんがだまってこちらを見ています。その顔には「俺についてこい」と書いてあるのがわかりました。私が車をゆっくり動かすと、おじさんのトラックは軽やかにターンを描いて光台寺の駐車場を出て行き、私はその後についてゆきました。
雲ひとつない青空の下、2台の車が起伏のある小道をすべりゆき、墓地がある石垣の前を通りすぎたところで止まりました。そこは定慶寺の墓地でした。
おじさんは首塚の場所や助五郎の家があった場所を指差して教えてくれた後、トラックに乗り込み去ってゆきました。
おじさんありがとう~。

笹川繁蔵の首塚
次は玉崎神社に向かいます。
助五郎は玉崎神社の社地を借りて家を建てて漁業の商売を始めました。

玉崎神社入口。
かつての飯岡の街は玉崎神社を中心に賑わっていたのだと思います。
でも今は閑散としてさみしい感じ。

飯岡助五郎の碑があります。

助五郎の碑の下に力石(ちからいし)が置いてあります。昔のひとは石を持ち上げて力比べをしたそうです。ここに置いてあるということは助五郎がこれを持ち上げたということでしょう。石には「六拾貫目…」と彫られています。
私もちょっと持ってみましたがまるで歯が立ちませんでした。

神社の奥の森には助五郎稲荷神社がありました。

玉崎神社近くの待合所。
ガムテープで貼られたポスター。
右:アサヒスーパードライ
左:飯岡観光協会「海よし食よし花火よし」 砂浜をバックに白いビキニの女性が微笑んでいる
飯岡の魅力を伝えようとしているポスターが皮肉にも飯岡のさびれた雰囲気を演出している。
さっきのおじさんは、玉崎神社の近くの洋服屋さんが昔助五郎の賭場があったところ、と教えてくれました。洋服を売っていそうなお店はいくつかあってどこだかわかりませんでした。

次の目的地「飯岡歴史民俗資料館」へ。
資料館は「いいおかユートピアセンター」の敷地内にあります。ユートピアセンターの駐車場がいっぱいだったので、近くの海辺の駐車場に車を止めました。
資料館の見学には事前にユートピアセンターへの連絡が必要とのことで、数日前に電話を入れておきました。
土曜日だからか、センターの事務室には職員さんが1名しかいませんでした。資料館の見学に来たことを告げると、職員さんは窓口をいったん離れて別棟の資料館の入口扉を開錠してくださいました。

資料館内部。
助五郎関係の古文書が展示してあります。

資料館内には白い扉があり「天保水滸伝 飯岡助五郎関係資料展示」と書かれた紙がセロテープで貼ってあります。
魅惑の白い扉へイザ。

助五郎関係資料室内部。
浮世絵の複製、明治時代の出版物の複製、新聞の切り抜き、浪曲のカセットテープ、などが飾られています。
飯岡町史編集委員で「飯岡助五郎正伝」の著者伊藤實氏の入念な調査の結晶がこの資料館につまっているようです。
「助五郎・繁蔵の勢力図」など伊藤氏が作成したと思われるわかりやすい資料もたくさん展示してあります。
飯岡にある助五郎の遺跡の地図も展示してありました。先にこの地図を確認してから史跡めぐりをするべきでした。

助五郎の女房が使用していた手鏡

平成7年の朝日新聞に「浪曲 天保水滸伝」という連載記事があったようです。全9回。
天保水滸伝のあらすじを9回にわけて紹介する文章と浪曲における天保水滸伝のレポート記事の2段構成になっています。
①1970年から浪曲定席となった木馬亭の紹介。席亭の根岸さんの談話。木馬亭はもうからないけれども二階を大衆演劇に貸しているので何とかつないでいる。
あらすじ:助五郎と繁蔵の紹介、花会の開催
②浪曲評論家芝清之氏の紹介。吉田奈良丸の「勧進帳」をきいた歌舞伎の中村吉右衛門がそのうまさに感心して祝儀をつけた。
あらすじ:両者の縄張りの境目の清滝村岩井不動尊の縁日の帰りに助五郎は闇討ちにあった。助五郎はそれを繁蔵側の仕業とみた。
③天保水滸伝を研究している郷土史研究家の野口政司さんの話。観光資源として利根川岸に碑を建てることになった。首相が浪曲好きだと聞いて、碑文の揮毫を田中角栄に頼んだ。
あらすじ:助五郎と繁蔵の出自
④三代目玉川勝太郎の紹介。「多少不良っ気もあったし、啖呵をきらせたらおれはだれにも負けないって気持ちがあったもんですから、先代の語り口と違う水滸伝をやってやろうなんてね。考えましたよ」
あらすじ:助五郎は十手持ちとなって笹川へ乗り込んだ。飯岡側は負けたが、平手は死んだ。
⑤天保時代の利根川の様子。富裕商人や地主層と貧しい小作人とにわかれた。食い詰めた農家の次男三男が博徒になった。一つの村に二人も三人も領主がいて警察権が行き届かなかった。情報ネットワークはできており、下総の喧嘩の話は江戸の講釈師のもとにわたったと思われる。
あらすじ:平手造酒の出自。決戦では諏訪神社で殺される。
⑥三代目玉川勝太郎の芸について語る。会場の広さや客層に合った芸をしないと受けない。
あらすじ:座頭市と大原幽学について
⑦飯岡で郷土史研究をしている伊藤實氏の紹介。浪曲や講談では史実とははなれて助五郎が悪役として描かれてることを残念に思う。昔は玉川勝太郎が飯岡に来ると帰れという心無い町民もいた。
あらすじ:繁蔵は放浪の旅に出て、助五郎は牢に入れられた。
⑧玉川勝太郎の「あいじゃみ」の吉野静さんの話。演者がのらない時は三味線がひっぱらなければならないから骨が折れる。演者がのっている時は自然にいい手が出る。これが不思議。
あらすじ:笹川に戻った繁蔵は飯岡側の闇討ちにあう。
⑨浪曲界に入りたての春日井あかりの紹介。弟子の生活は厳しい。アルバイト、恋愛はご法度。三年間は給料なし。師匠の興行について行って身の回りの世話もしなければならない。
あらすじ:笹川一家は勢力富五郎が跡を継いだ。金毘羅山を逃げ回りついには自殺。
資料館で飯岡の探訪はおしまい。これから笹川へ移動します。
飯岡の資料館で思いの他時間をくってしまって、予定の時間を過ぎてしまいました。
途中で清滝の佐吉の碑や岩井不動を見ようかと思っていたのですが、昼食の時間がとれなくなりそうなので、清滝はスルーすることにしました。移動の途中、車窓から「佐吉まんじゅう」の看板が見えました。
■笹川へ
北へ車を走らせ笹川に到着。
まずは腹ごしらえ。

諏訪神社の近くの食堂「青柳」に入りました。

しじみ丼をいただきました。
食事を終えて、諏訪神社へ。神社の敷地内に東庄町観光会館および天保水滸伝遺品館があります。

諏訪神社の駐車場にはためいていたのぼり。

東庄町観光会館・天保水滸伝遺品館
事前に東庄町の観光課に電話を入れて、ここを訪ねる旨とできればガイドしていただきたい旨と伝えてありました。
観光会館には二人の男性がいらっしゃいました。おじさんとかなりお年を召していそうな(けれどもとても元気な)方。(Tさんと老Tさんと呼ぶことにします)
老Tさんが、まず東庄町関係の展示コーナーをご案内してくれました。
ここは主に「相撲」「澪つくし」「天保水滸伝」についての展示があります。
近年は出羽の海部屋が夏合宿でここに来るとのこと。
むかし、NHK連続テレビ小説に沢口靖子が主演していた「澪つくし」という番組がありました。
銚子の醤油醸造家を舞台としたドラマです。撮影は笹川にある入正醤油で行われたそうです。その縁で「澪つくし」という商品を入正醤油で製造販売しています。

展示部屋には浪曲関係の掲示もありました。天保水滸伝を持ちネタとしている浪曲師玉川奈々福さんの写真が2枚貼ってあります。うち1枚は、いつ撮影されたものか、髪に大きな飾りをつけた10代の女の子に見える奈々福さんのかわいらしい写真で私は思わず「若っ」と声を発しました。老Tさんは「奈々福さんをご存じ?」と訊いてきました。自分が浪曲好きで奈々福さんのファンでもあると告げると、老Tさんのテンションがにわかにあがり私に握手を求めてきました。老Tさんは大の奈々福ファンのようです。その後、木馬亭の話や玉川福太郎の話などをしてくださいました。ここ諏訪神社では天保水滸伝のイベントを行うことがあり、近年は玉川奈々福さんが毎年出演されているようです。
東庄町のコーナーを見終えた後、隣の天保水滸伝遺品館をご案内くださいました。こちらは入館料が200円かかります。

遺品館内部
笹川の花会が行われた十一屋で使用されていた食器や、繁蔵らが使用していた遺品がたくさん展示されています。

平手造酒が愛用したという尺八
遺品館の見学後、諏訪神社内を散策しました。

土俵

野見宿彌命の碑
神社の見学後、観光会館に戻りそこで販売されている天保水滸伝グッズ(冊子、CD、DVD等)をありったけ購入したところ、こんなに売上がでることは珍しいらしくTさんは喜んでいました。
この後訪ねる予定の勢力富五郎終焉の地(金毘羅山)の場所を訊いたところ、老Tさんは紙に手書きで地図を書いてくれました。
平手造酒が療養していたという尼寺の場所も訊くと、今はもうなく崖の下にお地蔵さんがあるだけだ、とのことでした。
Tさん老Tさんにお礼をして観光会館を後にしました。

諏訪神社近くの延命寺へ。
助五郎らが笹川に乗り込んで来た際に繁蔵一味の一部が潜んでいたという寺です。

笹川繁蔵の碑

勢力富五郎の碑(昭和3年建立)

平手造酒の墓(昭和3年建立)
↓この墓の裏に嘉永3年に建てられた本当の?墓があります

「平田」と書かれています。
延命寺にはその他、お豊(繁蔵の妻)の石碑、繁蔵の墓などたくさんの石碑があります。
浪曲師玉川勝太郎、春日井梅鶯の名が刻まれた柱もありました。
次に、繁蔵がよく出入りしていたという十一屋があった場所を確認します。

桁沼川沿いに十一屋はありました。
諏訪神社・延命寺・十一屋はお互い歩いて3分くらいのご近所にかたまっています。
天保水滸伝では「大利根河原の決闘」が有名です。実際に河原で喧嘩があったかどうかは知りませんが、利根川の河原がどんなところかを見てみたい。
諏訪神社の駐車場に戻り車に乗りました。

笹川近くの利根川沿いは昔とだいぶ変わってしまったようです。今では河原ではなく田んぼが広がっていました。

続いて繁蔵が闇討ちにあったビャク橋の跡へ。すでに川の面影もありません。
きれいに花が植えられています。
次は勢力富五郎が立てこもった金毘羅山と富五郎自刃跡を目指します。

観光協会で老Tさんが手書きで書いてくれた地図をたよりに、ゆっくり車を走らせました。
が、細い道が多くあっという間に迷ってしまいました。カーナビを頼りに行くことにします。
老Tさん、せっかく書いていただいたのにすみません。

老Tさんが目印だと教えてくれた「白い山門」が見つかりました。
その近くに「天保水滸伝遺跡遊歩道」と書かれた案内看板がありました。

遊歩道に入ってすぐ、休日にピクニックに来た家族ための広場、という感じの場所がありましたが、見てのとおりテーブルも椅子も苔むしていて、しばらく人が訪れたような気配がありません。

遊歩道を進みます。
勢力富五郎はこのような林の中を移動しながら潜んでいたのでしょうか。

遊歩道の終点に勢力富五郎自刃跡があります。

「勢力霊神」と書かれた碑
以上で笹川の探訪を終わります。
まだ西光寺跡など史跡は残っているけれども、銚子のうまいもんが自分を呼んでいる。
■銚子へ
銚子駅近くのホテルに着いたときにはもう空は暗くなっていました。
今回の旅のメインの目的はもちろん天保水滸伝の史跡めぐりですが、別の大きな目的は「銚子のうまいもん」です。
特に寿司を最大の楽しみとしていました。
私と妻の共通の友人が銚子出身でそのお姉さんが寿司屋に嫁ぎました。今晩はその寿司屋「辰巳寿司」に行くことに決めておりました。
辰巳寿司は銚子観音の近く、駅でいうと銚子電鉄の観音駅の近くにありますが、銚子駅からも歩いてゆける距離ですので、ホテルから歩いてゆきました。
銚子の夜の街を歩いていると醤油の匂いがしてきます。ヤマサ醤油の工場が近くにあるのです。
銚子の名物の菓子といえば「ぬれせん」
銚子のぬれせんのお店は「柏屋」と「福屋」がいいと聞いておりました。

寿司屋に向かう途中に福屋があったので立ち寄ってぬれせんその他を買いました。
福屋のすぐ近くに「辰巳寿司」はありました。

辰巳寿司。
日本人なら誰しも暖簾をくぐりたくなるような店のたたずまい。
私たちが来ることは友人から伝わっていたようで、大将とおかみさん(友人の姉)が迎えてくれました。
きさくでざっくばらんな大将。お店の雰囲気もよく居心地がいい。

「これ弟から・・」といっておかみさんが持ってきたのはキンキ。
「弟からキンメを出してくれっていわれてたんだけどね、しけでキンメがあがらなかったんだ」と大将。
キンメとは金目鯛のことで、銚子の名物なのです。銚子すし商組合のチラシの文言を引用します。
「銚子沖は金目鯛漁の北限とされ、他の漁場より水温が低いことから、ここで獲れる天然の金目鯛は脂ののりが別格。魚体を傷めずに"釣り"上げる漁法や漁獲制限も影響し、築地ではブランド魚として高値で取引されています。(後略)」
次に来たときは是非キンメを食べよう。
でもこのキンキも美味也。

続いて出てきたのがイワシ。
ちょうど先ほど妻とイワシ食べたいね、と話をしていたところです。
「頭からがりがり食べられますよ」とおかみさん。
絶妙なる焼き加減、香ばしい。イワシでこんなに幸せになれるなんて。

「これも弟から」とおかみさんがキンキの煮付けを出してくれました。
ありがとうF(友人)さん~
これも美味也。

ビールの後はもちろん酒。千葉九十九里の地酒「梅一輪」
「たまんね~な~」とつぶやく私の心。

握り。
美味しいっ!!
ネタはもちろんシャリがまろやかで旨い。
寿司好きの妻も銚子まで来た甲斐があったと大将の腕前に感嘆しておりました。
大将は話をしていると豪快な印象なのですが、料理は繊細。食材にもこだわりを持っている。絵にかいたような職人さん。
銚子であがる一番いい魚はふつう銚子の店にはでないそうです。それらは東京に運ばれて築地で高値で取引される。ここの大将は銚子のうまい魚を東京より安い価格で仕入れる努力をしてクオリティを高く保っているようです。

銚子の名物だという「伊達巻」をお願いして出していただきました。
この写真は伊達巻だけですが、真ん中にご飯が入った伊達巻寿司が一般的なようです。
一般的な伊達巻と違って魚のすり身が入っていません。一口食べてびっくり。つるっとした食感、カスタードクリームのような甘み、まるでプリンのよう。これは初めて体験する美味しさ。
銚子にある寿司屋さんは皆「おれんとこの伊達巻が一番うまい」とプライドをかけて作っているそう。
辰巳寿司はこれを作るためにお正月前に4日間店を閉めるそうです。何日も閉めるのは、ものすごく大量に作るからというより、とにかく手間と時間がかかるからとのこと。なじみのお客さんからの注文分を作るので手いっぱいでもう新規の注文は受けられないようです。
銚子の寿司屋さんのパンフレットをもらいました。そこには伊達巻が「漁師のプリン」と紹介されていました。ちなみにこのパンフレットに写っている伊達巻は大将が作ったものだそうです。
大将の楽しいトークと美味しい料理・寿司・酒。大満喫の一夜でした。
途中で寿司の予約注文の電話も入っていました。地元の方に愛されている店なのでしょう。ネットにもほとんど情報がでてこないし観光客は来ない店なのかなと思います。そのような店をこのようにブログでPRするのもどうかと思いましたが、たいして読者がいるブログでもありませんし、大将からも許可をもらいましたのでブログに書かせていただきました。
銚子の寿司屋はどこもこんなに旨いのでしょうか。余談ですが、翌日は別の寿司屋(風呂で偶然知った元寿司職人さんに教えてもらった店)に行きました。でもそこでは辰巳寿司で得たような感動は味わえませんでした。(大将も「しけで船がでてないから明日寿司屋に行ってもいい地元の魚はないよ」と言っていましたが)
地元の呑み仲間を連れてまた辰巳寿司にくるぞと誓いつつ、歩いてホテルに戻りました。

銚子駅近くのかもめホテルという見た目新しそうな宿。
古いビジネスホテルを若者むけのおしゃれな内装にリニューアルしたようです。
ホテルの諸案内が書かれたカードがリングでとじられています。
翌日は日曜日で、朝7時から銚子市役所前で朝市が行われるという情報をホテルのHPから入手していました。
翌朝。
ちょっと寝坊してしまい、7時20分頃に銚子市役所に行きました。
しーん。
誰もいない。何かが行われる気配はありません。情報を見間違えたのか?
市役所の中でやっているのだろうかと建物に近づく。入口は開いていたものの、中はやはり何の気配もありません。
警備員さんがいたので、朝市のことをきくと、もう終わってしまったとのこと。「まだその辺にいると思うから呼んであげるよ」と警備員さん。私と奥さんが「いや、それは‥」と言おうとするのを、いいからいいからとさえぎって警備員さんはつかつかと建物の外に出てゆきました。

市役所の駐車場のかたわらでおばちゃんたちがお茶菓子を並べて歓談していました。警備員さんがおばちゃんに話しかけ
るとおばちゃんたちがこちらを見て腰を上げました。

おのおののおばちゃんがいったん車に収納した農作物をまた出して私たちに見せてくれました。
大根1本100円。どの野菜も安い。

たくさん買いました。東京に帰って食べるのが楽しみ。ありがとう警備員さん、おばちゃん。
さて、旅の再開です。
銚子にも天保水滸伝に関連した場所があるので、まずはそこをめぐることにします。

坂東二十七番観音霊場 圓福寺。
この付近の土地は飯沼といって飯沼観音として親しまれています。銚子市街は観音様の門前町として発達したそうです。

観音堂からちょっと離れた場所に本坊大師堂があります。ここに銚子五郎蔵と飯岡助五郎が寄進したという釜と五郎蔵の墓があることを調べていました。
まず御朱印をいただきました。俗世のことは興味はありませんといった風情の無表情な若いお坊さんは、明らかに観光客然とした私に御朱印帳を返しながら、どこから来たのかと尋ねました。私は東京から来たことを告げて、五郎蔵の釜のことを聴いてみました。お坊さんの眼鏡が一瞬光り、「ではご案内しましょう」と無表情で沈着な様子をくずさずお坊さんは立ち上がりました。

五郎蔵と助五郎が寄進した釜。「銚子勝五良」「飯岡助五郎」の名が刻まれています。
実は本物の大釜は戦後の物資不足の際に盗まれて、その後有志が復元したものが新たに寄進されたようです。
今度は若いお坊さんに銚子五郎蔵の墓のことを聞きました。
わかりにくい場所にあるのでまた案内してくださるとのこと。本堂を出てお坊さんの後について広い墓地を進みます。
ここですと静かに言うと、無表情なお坊さんは本堂に戻って行きました。親切なお坊さん、ありがとうございました。

銚子五郎蔵(木村勝五郎)の墓
新しそうな花が供されています。
銚子五郎蔵は銚子の陣屋の十手取縄を預けられていました。
利根水運が江戸に通じるようになってから銚子は東北各藩の物資を運ぶ中継港として重要性が増し、幕府は親藩高崎藩を銚子の統治に当らせました。高崎藩の陣屋は飯沼村に置かれ、飯沼陣屋ともいいます。

圓福寺の近く、陣屋町にある陣屋公園の一隅に旧陣屋跡の碑がありました。
史跡を見た後、食いしん坊のわれわれは銚子にある魚市場「ウオッセ21」に向かいました。

ウオッセ21に隣接する銚子ポートタワー

ポートタワーの展望台から見た利根川の河口付近

同じく展望台から見たウオッセ21

ウオッセ21の水産物直売センターにて。
昨日辰巳寿司で教えてもらったいわしの「アゴ刺し」を見つけ購入。
その他お土産用にたくさんの缶詰を買いました。

続いて、銚子のぬれせんの元祖「柏屋」へ。
ふつうの民家のような場所でした。辰巳寿司の大将はぬれせんではなく「わりわり」という割ったせんべいをおすすめしていました。
車の中はお土産でいっぱいになりました。
この後、犬吠埼で大衆演劇を観て、銚子で再び寿司を食べて東京に帰りました。
とても充実した2日間の旅でした。
この旅以降、早く銚子に連れてって寿司を食わせてくれ、と妻からしばしば催促されています。
2013年12月某日。大衆演劇でおなじみの「天保水滸伝」ゆかりの地を訪ねる旅に出かけました。大衆演劇は好きだけれども天保水滸伝にはさして興味がない私の妻も銚子のうまいものに惹かれて同行しました。
(「天保水滸伝」についてはこちらのブログをご覧ください)
■飯岡へ
朝早く車で東京品川区を出発、首都高湾岸線を東へ。千葉県近くになって渋滞にはまる。ところが右の方の車線は車が流れている。自分のいる左の車線が何故か進まない。車線変更しようにも右車線は走行する車がなかなか途切れなくて出来ない。葛西のあたりで渋滞が解消する。そう、左車線の渋滞は東京ディズニーランドを目指す車の行列だったのです。よけいな時間をくってしまった。
東京と銚子の緯度はほとんど同じ。だから双方を結ぶ交通路を最短距離で整備しようとするならば、真横に直線的な道路なり線路なりを作ればよい。しかし実際は千葉県中西部の線路は大きくうねっている。これは線路敷設の計画があった当時に、最短距離線上に、敷設反対を通すことのできるほど強い力を持った土地があったからだ。飯岡の近くにも鉄道駅はない。線路は飯岡をよけるように北にふくらんだカーブを描いて銚子につながっている。これは当時の飯岡の経済力・発言力の強さを物語っている。漁業で繁栄していた飯岡にとって鉄道に魅力はなく、むしろ近づけたくなかったのだろう。しかしその結果、現在の飯岡はいいようもないさみしい街になってしまった…というような話が山口瞳「巷説天保水滸伝」に書いてありました。
車は高速を降りて国道126号線へ。旭駅の近くを通過。飯岡は旭市にあります。目指す土地が近いことがわかります。
運転中「蛇園」という地名が目に入り、浪曲「蛇園村への斬り込み」を思い出す。
飯岡に着きました。
カーナビにインプットしてあった最初の訪問地光台寺へ。カーナビは「到着しました」と言っているのに、入口と駐車場がみあたらず、ちょっとぐるぐる走ってようやく正面に到着。

光台寺。飯岡助五郎の菩提寺です。
掲示板に助五郎の墓の場所の案内があります。

助五郎の墓。近くに看板があります。
●飯岡助五郎之墓●
助五郎は相模国(神奈川県)三浦に生まれ、若い頃飯岡へ来て漁夫をしていましたが、義理人情に厚いうえ度胸が良いので人々にたてられ関東屈指の大親分と言われるようになりました。笹川繁蔵との大利根河原の決選は、天保水滸伝として世に知られております。
天保年間、この浦で大海難事故があいつぎ漁夫が全滅しかけてたとき、自費で生地の三浦から漁夫を集め復興の礎をつくり、飯岡町再生の恩人として町民より感謝されていましたが、安政六年(1859)四月十四日、当町川端町の自宅で[67歳]を以て大往生を遂げました。

墓に供えられた花
もう何日もたっているよう
次は笹川繁蔵の首塚があるという定慶寺に向かいます。くねくねと細い道をゆかねばならないようです。また車で迷いたくないし近いので歩いて行こうかと考えながら歩いていると、誰かが私を呼び止めました。見ると軽トラックの近くに昔かたぎ風のおじさんがいて、指で地面を差しています。そこには私が落とした手袋がありました。
農作業か何かの途中らしきおじさんは何しに来たのかと尋ね、私は簡単に事情を説明しました。おじさんは飯岡にある史跡について朴訥な言葉でいろいろ教えてくれた後、首塚なら車で行けばいいよ、と助言してくれました。
おじさんにお礼を言って、車に乗り込み、カーナビで定慶寺をチェックしようとしたら、クラクションの音が聞こえました。軽トラックの運転席に乗り込んだおじさんがだまってこちらを見ています。その顔には「俺についてこい」と書いてあるのがわかりました。私が車をゆっくり動かすと、おじさんのトラックは軽やかにターンを描いて光台寺の駐車場を出て行き、私はその後についてゆきました。
雲ひとつない青空の下、2台の車が起伏のある小道をすべりゆき、墓地がある石垣の前を通りすぎたところで止まりました。そこは定慶寺の墓地でした。
おじさんは首塚の場所や助五郎の家があった場所を指差して教えてくれた後、トラックに乗り込み去ってゆきました。
おじさんありがとう~。

笹川繁蔵の首塚
次は玉崎神社に向かいます。
助五郎は玉崎神社の社地を借りて家を建てて漁業の商売を始めました。

玉崎神社入口。
かつての飯岡の街は玉崎神社を中心に賑わっていたのだと思います。
でも今は閑散としてさみしい感じ。

飯岡助五郎の碑があります。

助五郎の碑の下に力石(ちからいし)が置いてあります。昔のひとは石を持ち上げて力比べをしたそうです。ここに置いてあるということは助五郎がこれを持ち上げたということでしょう。石には「六拾貫目…」と彫られています。
私もちょっと持ってみましたがまるで歯が立ちませんでした。

神社の奥の森には助五郎稲荷神社がありました。

玉崎神社近くの待合所。
ガムテープで貼られたポスター。
右:アサヒスーパードライ
左:飯岡観光協会「海よし食よし花火よし」 砂浜をバックに白いビキニの女性が微笑んでいる
飯岡の魅力を伝えようとしているポスターが皮肉にも飯岡のさびれた雰囲気を演出している。
さっきのおじさんは、玉崎神社の近くの洋服屋さんが昔助五郎の賭場があったところ、と教えてくれました。洋服を売っていそうなお店はいくつかあってどこだかわかりませんでした。

次の目的地「飯岡歴史民俗資料館」へ。
資料館は「いいおかユートピアセンター」の敷地内にあります。ユートピアセンターの駐車場がいっぱいだったので、近くの海辺の駐車場に車を止めました。
資料館の見学には事前にユートピアセンターへの連絡が必要とのことで、数日前に電話を入れておきました。
土曜日だからか、センターの事務室には職員さんが1名しかいませんでした。資料館の見学に来たことを告げると、職員さんは窓口をいったん離れて別棟の資料館の入口扉を開錠してくださいました。

資料館内部。
助五郎関係の古文書が展示してあります。

資料館内には白い扉があり「天保水滸伝 飯岡助五郎関係資料展示」と書かれた紙がセロテープで貼ってあります。
魅惑の白い扉へイザ。

助五郎関係資料室内部。
浮世絵の複製、明治時代の出版物の複製、新聞の切り抜き、浪曲のカセットテープ、などが飾られています。
飯岡町史編集委員で「飯岡助五郎正伝」の著者伊藤實氏の入念な調査の結晶がこの資料館につまっているようです。
「助五郎・繁蔵の勢力図」など伊藤氏が作成したと思われるわかりやすい資料もたくさん展示してあります。
飯岡にある助五郎の遺跡の地図も展示してありました。先にこの地図を確認してから史跡めぐりをするべきでした。

助五郎の女房が使用していた手鏡

平成7年の朝日新聞に「浪曲 天保水滸伝」という連載記事があったようです。全9回。
天保水滸伝のあらすじを9回にわけて紹介する文章と浪曲における天保水滸伝のレポート記事の2段構成になっています。
①1970年から浪曲定席となった木馬亭の紹介。席亭の根岸さんの談話。木馬亭はもうからないけれども二階を大衆演劇に貸しているので何とかつないでいる。
あらすじ:助五郎と繁蔵の紹介、花会の開催
②浪曲評論家芝清之氏の紹介。吉田奈良丸の「勧進帳」をきいた歌舞伎の中村吉右衛門がそのうまさに感心して祝儀をつけた。
あらすじ:両者の縄張りの境目の清滝村岩井不動尊の縁日の帰りに助五郎は闇討ちにあった。助五郎はそれを繁蔵側の仕業とみた。
③天保水滸伝を研究している郷土史研究家の野口政司さんの話。観光資源として利根川岸に碑を建てることになった。首相が浪曲好きだと聞いて、碑文の揮毫を田中角栄に頼んだ。
あらすじ:助五郎と繁蔵の出自
④三代目玉川勝太郎の紹介。「多少不良っ気もあったし、啖呵をきらせたらおれはだれにも負けないって気持ちがあったもんですから、先代の語り口と違う水滸伝をやってやろうなんてね。考えましたよ」
あらすじ:助五郎は十手持ちとなって笹川へ乗り込んだ。飯岡側は負けたが、平手は死んだ。
⑤天保時代の利根川の様子。富裕商人や地主層と貧しい小作人とにわかれた。食い詰めた農家の次男三男が博徒になった。一つの村に二人も三人も領主がいて警察権が行き届かなかった。情報ネットワークはできており、下総の喧嘩の話は江戸の講釈師のもとにわたったと思われる。
あらすじ:平手造酒の出自。決戦では諏訪神社で殺される。
⑥三代目玉川勝太郎の芸について語る。会場の広さや客層に合った芸をしないと受けない。
あらすじ:座頭市と大原幽学について
⑦飯岡で郷土史研究をしている伊藤實氏の紹介。浪曲や講談では史実とははなれて助五郎が悪役として描かれてることを残念に思う。昔は玉川勝太郎が飯岡に来ると帰れという心無い町民もいた。
あらすじ:繁蔵は放浪の旅に出て、助五郎は牢に入れられた。
⑧玉川勝太郎の「あいじゃみ」の吉野静さんの話。演者がのらない時は三味線がひっぱらなければならないから骨が折れる。演者がのっている時は自然にいい手が出る。これが不思議。
あらすじ:笹川に戻った繁蔵は飯岡側の闇討ちにあう。
⑨浪曲界に入りたての春日井あかりの紹介。弟子の生活は厳しい。アルバイト、恋愛はご法度。三年間は給料なし。師匠の興行について行って身の回りの世話もしなければならない。
あらすじ:笹川一家は勢力富五郎が跡を継いだ。金毘羅山を逃げ回りついには自殺。
資料館で飯岡の探訪はおしまい。これから笹川へ移動します。
飯岡の資料館で思いの他時間をくってしまって、予定の時間を過ぎてしまいました。
途中で清滝の佐吉の碑や岩井不動を見ようかと思っていたのですが、昼食の時間がとれなくなりそうなので、清滝はスルーすることにしました。移動の途中、車窓から「佐吉まんじゅう」の看板が見えました。
■笹川へ
北へ車を走らせ笹川に到着。
まずは腹ごしらえ。

諏訪神社の近くの食堂「青柳」に入りました。

しじみ丼をいただきました。
食事を終えて、諏訪神社へ。神社の敷地内に東庄町観光会館および天保水滸伝遺品館があります。

諏訪神社の駐車場にはためいていたのぼり。

東庄町観光会館・天保水滸伝遺品館
事前に東庄町の観光課に電話を入れて、ここを訪ねる旨とできればガイドしていただきたい旨と伝えてありました。
観光会館には二人の男性がいらっしゃいました。おじさんとかなりお年を召していそうな(けれどもとても元気な)方。(Tさんと老Tさんと呼ぶことにします)
老Tさんが、まず東庄町関係の展示コーナーをご案内してくれました。
ここは主に「相撲」「澪つくし」「天保水滸伝」についての展示があります。
近年は出羽の海部屋が夏合宿でここに来るとのこと。
むかし、NHK連続テレビ小説に沢口靖子が主演していた「澪つくし」という番組がありました。
銚子の醤油醸造家を舞台としたドラマです。撮影は笹川にある入正醤油で行われたそうです。その縁で「澪つくし」という商品を入正醤油で製造販売しています。

展示部屋には浪曲関係の掲示もありました。天保水滸伝を持ちネタとしている浪曲師玉川奈々福さんの写真が2枚貼ってあります。うち1枚は、いつ撮影されたものか、髪に大きな飾りをつけた10代の女の子に見える奈々福さんのかわいらしい写真で私は思わず「若っ」と声を発しました。老Tさんは「奈々福さんをご存じ?」と訊いてきました。自分が浪曲好きで奈々福さんのファンでもあると告げると、老Tさんのテンションがにわかにあがり私に握手を求めてきました。老Tさんは大の奈々福ファンのようです。その後、木馬亭の話や玉川福太郎の話などをしてくださいました。ここ諏訪神社では天保水滸伝のイベントを行うことがあり、近年は玉川奈々福さんが毎年出演されているようです。
東庄町のコーナーを見終えた後、隣の天保水滸伝遺品館をご案内くださいました。こちらは入館料が200円かかります。

遺品館内部
笹川の花会が行われた十一屋で使用されていた食器や、繁蔵らが使用していた遺品がたくさん展示されています。

平手造酒が愛用したという尺八
遺品館の見学後、諏訪神社内を散策しました。

土俵

野見宿彌命の碑
神社の見学後、観光会館に戻りそこで販売されている天保水滸伝グッズ(冊子、CD、DVD等)をありったけ購入したところ、こんなに売上がでることは珍しいらしくTさんは喜んでいました。
この後訪ねる予定の勢力富五郎終焉の地(金毘羅山)の場所を訊いたところ、老Tさんは紙に手書きで地図を書いてくれました。
平手造酒が療養していたという尼寺の場所も訊くと、今はもうなく崖の下にお地蔵さんがあるだけだ、とのことでした。
Tさん老Tさんにお礼をして観光会館を後にしました。

諏訪神社近くの延命寺へ。
助五郎らが笹川に乗り込んで来た際に繁蔵一味の一部が潜んでいたという寺です。

笹川繁蔵の碑

勢力富五郎の碑(昭和3年建立)

平手造酒の墓(昭和3年建立)
↓この墓の裏に嘉永3年に建てられた本当の?墓があります

「平田」と書かれています。
延命寺にはその他、お豊(繁蔵の妻)の石碑、繁蔵の墓などたくさんの石碑があります。
浪曲師玉川勝太郎、春日井梅鶯の名が刻まれた柱もありました。
次に、繁蔵がよく出入りしていたという十一屋があった場所を確認します。

桁沼川沿いに十一屋はありました。
諏訪神社・延命寺・十一屋はお互い歩いて3分くらいのご近所にかたまっています。
天保水滸伝では「大利根河原の決闘」が有名です。実際に河原で喧嘩があったかどうかは知りませんが、利根川の河原がどんなところかを見てみたい。
諏訪神社の駐車場に戻り車に乗りました。

笹川近くの利根川沿いは昔とだいぶ変わってしまったようです。今では河原ではなく田んぼが広がっていました。

続いて繁蔵が闇討ちにあったビャク橋の跡へ。すでに川の面影もありません。
きれいに花が植えられています。
次は勢力富五郎が立てこもった金毘羅山と富五郎自刃跡を目指します。

観光協会で老Tさんが手書きで書いてくれた地図をたよりに、ゆっくり車を走らせました。
が、細い道が多くあっという間に迷ってしまいました。カーナビを頼りに行くことにします。
老Tさん、せっかく書いていただいたのにすみません。

老Tさんが目印だと教えてくれた「白い山門」が見つかりました。
その近くに「天保水滸伝遺跡遊歩道」と書かれた案内看板がありました。

遊歩道に入ってすぐ、休日にピクニックに来た家族ための広場、という感じの場所がありましたが、見てのとおりテーブルも椅子も苔むしていて、しばらく人が訪れたような気配がありません。

遊歩道を進みます。
勢力富五郎はこのような林の中を移動しながら潜んでいたのでしょうか。

遊歩道の終点に勢力富五郎自刃跡があります。

「勢力霊神」と書かれた碑
以上で笹川の探訪を終わります。
まだ西光寺跡など史跡は残っているけれども、銚子のうまいもんが自分を呼んでいる。
■銚子へ
銚子駅近くのホテルに着いたときにはもう空は暗くなっていました。
今回の旅のメインの目的はもちろん天保水滸伝の史跡めぐりですが、別の大きな目的は「銚子のうまいもん」です。
特に寿司を最大の楽しみとしていました。
私と妻の共通の友人が銚子出身でそのお姉さんが寿司屋に嫁ぎました。今晩はその寿司屋「辰巳寿司」に行くことに決めておりました。
辰巳寿司は銚子観音の近く、駅でいうと銚子電鉄の観音駅の近くにありますが、銚子駅からも歩いてゆける距離ですので、ホテルから歩いてゆきました。
銚子の夜の街を歩いていると醤油の匂いがしてきます。ヤマサ醤油の工場が近くにあるのです。
銚子の名物の菓子といえば「ぬれせん」
銚子のぬれせんのお店は「柏屋」と「福屋」がいいと聞いておりました。

寿司屋に向かう途中に福屋があったので立ち寄ってぬれせんその他を買いました。
福屋のすぐ近くに「辰巳寿司」はありました。

辰巳寿司。
日本人なら誰しも暖簾をくぐりたくなるような店のたたずまい。
私たちが来ることは友人から伝わっていたようで、大将とおかみさん(友人の姉)が迎えてくれました。
きさくでざっくばらんな大将。お店の雰囲気もよく居心地がいい。

「これ弟から・・」といっておかみさんが持ってきたのはキンキ。
「弟からキンメを出してくれっていわれてたんだけどね、しけでキンメがあがらなかったんだ」と大将。
キンメとは金目鯛のことで、銚子の名物なのです。銚子すし商組合のチラシの文言を引用します。
「銚子沖は金目鯛漁の北限とされ、他の漁場より水温が低いことから、ここで獲れる天然の金目鯛は脂ののりが別格。魚体を傷めずに"釣り"上げる漁法や漁獲制限も影響し、築地ではブランド魚として高値で取引されています。(後略)」
次に来たときは是非キンメを食べよう。
でもこのキンキも美味也。

続いて出てきたのがイワシ。
ちょうど先ほど妻とイワシ食べたいね、と話をしていたところです。
「頭からがりがり食べられますよ」とおかみさん。
絶妙なる焼き加減、香ばしい。イワシでこんなに幸せになれるなんて。

「これも弟から」とおかみさんがキンキの煮付けを出してくれました。
ありがとうF(友人)さん~
これも美味也。

ビールの後はもちろん酒。千葉九十九里の地酒「梅一輪」
「たまんね~な~」とつぶやく私の心。

握り。
美味しいっ!!
ネタはもちろんシャリがまろやかで旨い。
寿司好きの妻も銚子まで来た甲斐があったと大将の腕前に感嘆しておりました。
大将は話をしていると豪快な印象なのですが、料理は繊細。食材にもこだわりを持っている。絵にかいたような職人さん。
銚子であがる一番いい魚はふつう銚子の店にはでないそうです。それらは東京に運ばれて築地で高値で取引される。ここの大将は銚子のうまい魚を東京より安い価格で仕入れる努力をしてクオリティを高く保っているようです。

銚子の名物だという「伊達巻」をお願いして出していただきました。
この写真は伊達巻だけですが、真ん中にご飯が入った伊達巻寿司が一般的なようです。
一般的な伊達巻と違って魚のすり身が入っていません。一口食べてびっくり。つるっとした食感、カスタードクリームのような甘み、まるでプリンのよう。これは初めて体験する美味しさ。
銚子にある寿司屋さんは皆「おれんとこの伊達巻が一番うまい」とプライドをかけて作っているそう。
辰巳寿司はこれを作るためにお正月前に4日間店を閉めるそうです。何日も閉めるのは、ものすごく大量に作るからというより、とにかく手間と時間がかかるからとのこと。なじみのお客さんからの注文分を作るので手いっぱいでもう新規の注文は受けられないようです。
銚子の寿司屋さんのパンフレットをもらいました。そこには伊達巻が「漁師のプリン」と紹介されていました。ちなみにこのパンフレットに写っている伊達巻は大将が作ったものだそうです。
大将の楽しいトークと美味しい料理・寿司・酒。大満喫の一夜でした。
途中で寿司の予約注文の電話も入っていました。地元の方に愛されている店なのでしょう。ネットにもほとんど情報がでてこないし観光客は来ない店なのかなと思います。そのような店をこのようにブログでPRするのもどうかと思いましたが、たいして読者がいるブログでもありませんし、大将からも許可をもらいましたのでブログに書かせていただきました。
銚子の寿司屋はどこもこんなに旨いのでしょうか。余談ですが、翌日は別の寿司屋(風呂で偶然知った元寿司職人さんに教えてもらった店)に行きました。でもそこでは辰巳寿司で得たような感動は味わえませんでした。(大将も「しけで船がでてないから明日寿司屋に行ってもいい地元の魚はないよ」と言っていましたが)
地元の呑み仲間を連れてまた辰巳寿司にくるぞと誓いつつ、歩いてホテルに戻りました。

銚子駅近くのかもめホテルという見た目新しそうな宿。
古いビジネスホテルを若者むけのおしゃれな内装にリニューアルしたようです。
ホテルの諸案内が書かれたカードがリングでとじられています。
翌日は日曜日で、朝7時から銚子市役所前で朝市が行われるという情報をホテルのHPから入手していました。
翌朝。
ちょっと寝坊してしまい、7時20分頃に銚子市役所に行きました。
しーん。
誰もいない。何かが行われる気配はありません。情報を見間違えたのか?
市役所の中でやっているのだろうかと建物に近づく。入口は開いていたものの、中はやはり何の気配もありません。
警備員さんがいたので、朝市のことをきくと、もう終わってしまったとのこと。「まだその辺にいると思うから呼んであげるよ」と警備員さん。私と奥さんが「いや、それは‥」と言おうとするのを、いいからいいからとさえぎって警備員さんはつかつかと建物の外に出てゆきました。

市役所の駐車場のかたわらでおばちゃんたちがお茶菓子を並べて歓談していました。警備員さんがおばちゃんに話しかけ
るとおばちゃんたちがこちらを見て腰を上げました。

おのおののおばちゃんがいったん車に収納した農作物をまた出して私たちに見せてくれました。
大根1本100円。どの野菜も安い。

たくさん買いました。東京に帰って食べるのが楽しみ。ありがとう警備員さん、おばちゃん。
さて、旅の再開です。
銚子にも天保水滸伝に関連した場所があるので、まずはそこをめぐることにします。

坂東二十七番観音霊場 圓福寺。
この付近の土地は飯沼といって飯沼観音として親しまれています。銚子市街は観音様の門前町として発達したそうです。

観音堂からちょっと離れた場所に本坊大師堂があります。ここに銚子五郎蔵と飯岡助五郎が寄進したという釜と五郎蔵の墓があることを調べていました。
まず御朱印をいただきました。俗世のことは興味はありませんといった風情の無表情な若いお坊さんは、明らかに観光客然とした私に御朱印帳を返しながら、どこから来たのかと尋ねました。私は東京から来たことを告げて、五郎蔵の釜のことを聴いてみました。お坊さんの眼鏡が一瞬光り、「ではご案内しましょう」と無表情で沈着な様子をくずさずお坊さんは立ち上がりました。

五郎蔵と助五郎が寄進した釜。「銚子勝五良」「飯岡助五郎」の名が刻まれています。
実は本物の大釜は戦後の物資不足の際に盗まれて、その後有志が復元したものが新たに寄進されたようです。
今度は若いお坊さんに銚子五郎蔵の墓のことを聞きました。
わかりにくい場所にあるのでまた案内してくださるとのこと。本堂を出てお坊さんの後について広い墓地を進みます。
ここですと静かに言うと、無表情なお坊さんは本堂に戻って行きました。親切なお坊さん、ありがとうございました。

銚子五郎蔵(木村勝五郎)の墓
新しそうな花が供されています。
銚子五郎蔵は銚子の陣屋の十手取縄を預けられていました。
利根水運が江戸に通じるようになってから銚子は東北各藩の物資を運ぶ中継港として重要性が増し、幕府は親藩高崎藩を銚子の統治に当らせました。高崎藩の陣屋は飯沼村に置かれ、飯沼陣屋ともいいます。

圓福寺の近く、陣屋町にある陣屋公園の一隅に旧陣屋跡の碑がありました。
史跡を見た後、食いしん坊のわれわれは銚子にある魚市場「ウオッセ21」に向かいました。

ウオッセ21に隣接する銚子ポートタワー

ポートタワーの展望台から見た利根川の河口付近

同じく展望台から見たウオッセ21

ウオッセ21の水産物直売センターにて。
昨日辰巳寿司で教えてもらったいわしの「アゴ刺し」を見つけ購入。
その他お土産用にたくさんの缶詰を買いました。

続いて、銚子のぬれせんの元祖「柏屋」へ。
ふつうの民家のような場所でした。辰巳寿司の大将はぬれせんではなく「わりわり」という割ったせんべいをおすすめしていました。
車の中はお土産でいっぱいになりました。
この後、犬吠埼で大衆演劇を観て、銚子で再び寿司を食べて東京に帰りました。
とても充実した2日間の旅でした。
この旅以降、早く銚子に連れてって寿司を食わせてくれ、と妻からしばしば催促されています。