大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)
大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)
飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒は講談・浪曲・大衆演劇でおなじみの人物です。私は大衆演劇がきっかけで知りましたが、大衆演劇を観始めた頃の私には予備知識がなく、これらの人物がなぜよく芝居に登場するのかがわかりませんでした。
その後、関連する映画や浪曲などに触れるようになって、これらの話は実際の出来事が元になっており、「天保水滸伝」という名でかつての日本で人口に膾炙していた物語だと知りました。
そこで天保水滸伝について基本的なことをおさえておこうと思ったのですが、わかりやすくまとまっている文章がなかなか見つかりませんでした。
同じような思いをしている大衆演芸ファンが他にもいるのではないかと思い、私のわかる範囲で天保水滸伝についてまとめてみました。また、飯岡・笹川を訪ねた時の写真もあわせて掲載します。(飯岡・笹川・銚子の旅のブログはこちら)
【もくじ】
※項目をクリックするとその項へ移動します
≪史実編≫
■主な人物
■場所
■時代
■なにが起こったか
助五郎と繁蔵/助五郎、岩井不動で闇討ちにあう/笹川の花会/繁蔵・富五郎の召し捕り状/繁蔵、助五郎宅を襲う/飯岡勢、笹川へ/飯岡方の惨敗、深喜の死/繁蔵の放浪、助五郎の入牢/笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす/勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
■人物伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒
■時代背景
飯岡・笹川の繁栄/なぜ博徒が多かったのか/関東取締出役(八州廻り)の設置/二足の草鞋
≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
■近世侠義伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒/勢力富五郎/清滝佐吉/夏目新助/洲崎政吉/神楽獅子大八/荒生留吉
■講談
戦前戦後の講談
現代の講談
■浪曲
二代目玉川勝太郎
二代目玉川福太郎
玉川奈々福
■映画
座頭市
■演劇(戦前)
■歌謡曲
■大衆演劇
■長谷川伸作品と天保水滸伝
瞼の母/関の弥太っぺ
≪史実編≫
■主な人物
【飯岡方】
・飯岡助五郎(いいおかすけごろう)
…飯岡一家の親分
・洲崎の政吉(すのさきのまさきち)=永井の政吉
…助五郎一の子分
・石渡孫治郎(いしわたりまごじろう)=三浦屋孫次郎
・堺屋与助(さかいやよすけ)
…助五郎と妾の子
・成田の甚蔵(なりたのじんぞう)
…政吉・孫次郎・与助・甚蔵が助五郎の四大子分である。
【笹川方】
・笹川繁蔵(ささがわしげぞう)
…笹川一家の親分
・勢力富五郎(せいりきとみごろう)
…本名柴田佐助 繁蔵一の子分
・清滝の佐吉(きよたきのさきち)
…繁蔵の子分
・夏目の新助(なつめのしんすけ)
…繁蔵の子分
・平手造酒(ひらてみき)
…浪人。笹川一家の用心棒
【その他】
・銚子五郎蔵(ちょうしのごろぞう)
…本名木村五郎蔵、十手を預かる銚子の大親分
・荒生の留吉(あらおいのとめきち)
…助五郎の出入りを繁蔵に内通した
■場所
舞台となったのは下総(現千葉県)の飯岡と笹川。
現在の地名では、飯岡は旭市、笹川は東庄(とうのしょう)町にあります。
利根川沿いに笹川、九十九里浜の東端に飯岡があります。

■時代
下の表は、飯岡助五郎・笹川繁蔵・勢力富五郎のそれぞれの生涯を棒グラフ状にして、彼らの生きた年代を示したものです。棒の下に書いてある数字は死んだ時の年齢です。助五郎は繁蔵より18歳年上ですが、繁蔵よりだいぶ長生きしました。
参考までに、大衆演劇でおなじみの国定忠治・清水次郎長・森の石松の生涯も並べてみました(石松は半架空の人物なので死んだ年のみわかるように表記しています)。大衆演劇の人気者はほぼ同時代に生きた人物でした。
平手造酒の生年は不明ですが、天保15年の飯岡・笹川の決闘により命を落とした際の検死記録では37,8歳と記されています。

※勢力富五郎は生まれがもっと早く、死んだとき37歳だったという説もあります
■なにが起こったか
天保水滸伝はどのような史実が元になっているのでしょうか。飯岡・笹川の一件にはさまざまな話が残されており、事実と作り話を区別することは困難です。でも事実がどうだったかを探求した方々による書籍はいくつかあります。それらを読み、大衆演芸において創作されたのであろうと思われる逸話を排除することに留意しつつ、私の思う史実をまとめてみました。
□助五郎と繁蔵
飯岡助五郎は九十九里浜沿いの漁村飯岡の網元であると同時に一帯を仕切る博徒の親分。関東取締出役の道案内として十手を預かる身でもある。
笹川繁蔵は利根川の水運で栄える笹川河岸に住む売り出し中の親分。
助五郎、繁蔵ともに元相撲取り。気心が通じたのか二人は親密になり金を融通しあうなどしていた。十八歳上の助五郎は繁蔵の面倒をよくみた。
繁蔵は、助五郎と妾の間に生まれた長男堺屋与助に羽斗村次郎左衛門の娘お万(お政)を女房に世話した。
□助五郎、岩井不動で闇討ちにあう
しかし博徒に勢力争いはつきもの。大親分となった助五郎と繁蔵との間に縄張りをめぐって緊張関係が生まれるようになった。そんな争点の一つに清滝村の岩井不動があった。この賭場は清滝の佐吉が父親から譲り受けたものとも言われている。ここの縁日で行われる博奕では莫大なテラ銭が入る。助五郎が勢力を広げるなか、若い佐吉には縄張りを維持する力がなく、岩井不動の賭場は自然と助五郎の縄張り下となった。清滝の佐吉は助五郎の対抗勢力の繁蔵の子分となった。清滝の隣村の万歳村に佐吉と同年代の佐助がいた。佐助は江戸に行き勢力富五郎という力士となったが、やがて故郷に戻り繁蔵一家に加わった。
ある日助五郎は、岩井不動で博奕をうった帰りに何者かに背中を斬られた。助五郎は田んぼの中に突っ伏したまま死んだふりをした。結局この闇討ちの下手人が誰かはわからなかったが、犯人は笹川方の佐吉か富五郎の身内に違いないと助五郎は睨んでいた。

岩井滝不動(龍福寺)
□笹川の花会
1842(天保13)年、諏訪明神の例祭日に、繁蔵は相撲の租野見宿彌命(のみのすくねのみこと)の碑を建てるという名目で花会(博奕の大会)を笹川の宿「十一屋」で開いた。
この花会の詳細はよくわかっていない(大衆芸能としては後述)。
元力士で相撲の興行権を持っている助五郎にはこれが気に入らなかったのかもしれない。助五郎は欠席し、名代として子分の洲崎の政吉が出席したと言われている。
この頃から助五郎と繁蔵の関係は険悪になっていったようである。

野見宿彌命の碑(笹川 諏訪大神)

博奕で使われた駒札(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)
□繁蔵・富五郎の召し捕り状
1844(天保15)年、飯岡村が属する大田村三十五カ村寄場組合の申し出により関東取締出役から笹川繁蔵・勢力富五郎他の召し取りの御用状がくだされた。関東取締出役の道案内である助五郎が召し捕ることとなった。召し捕り状は8月3日に村役人に、8月4日に助五郎に渡った。助五郎は5日に召し捕りに向かうことにした。
□繁蔵、助五郎宅を襲う
これを繁蔵と親しい荒生の留吉が知って繁蔵に知らせた。8月4日の深夜、繁蔵は富五郎ら4,5人を連れて先制攻撃を仕掛け助五郎の家を襲った。助五郎は指に軽傷を負ったが玉崎神社に逃げ込み無事であった。

飯岡 玉崎神社にある助五郎の碑
□飯岡勢、笹川へ

助五郎は5日、子分を集めて繁蔵の召し捕りに出立した。総勢22名(50名説もあり)。助五郎は、襲撃の後に繁蔵が銚子に向かったと考えた。7時頃銚子に向かって出発し、途中猿田村の源次郎の所で休息した。休んでいる間、源次郎が繁蔵の消息を調べたところ、銚子にはいなくて笹川に戻っていることがわかった。助五郎は松岸村まで行き、昼飯を食べてから舟で忍村へ移動し、子分の博多川のところへ寄った。助五郎らが夜半まで休息をとっている間、博多川が船頭を手配した。助五郎は腹ごしらえを済ますと舟で笹川に向かった。

笹川付近から見た利根川
助五郎が召し捕りに向かっているという知らせは繁蔵の耳にも入っていて、繁蔵と子分たちは槍などをそろえて周到に用意していた。数日前から笹川勢は拠点を西光寺に構えていたが、6日の早朝は延命寺や繁蔵の家にも子分がいた。
6日、船中の助五郎は夜明けを確認すると笹川河岸に舟をつけた。

現在の笹川漁港
河岸にいた見張りから助五郎踏込の知らせが笹川方にもたらされ、笹川一味は身を潜めた。飯岡方は「御上意、御上意」と叫びながら繁蔵宅に踏み込んだ。繁蔵宅で待ち構えていた者と延命寺に潜んでいた者(あわせて20人足らず)が飛び出して喧嘩が始まった。療養をしていた平田深喜も知らせを受けて現場へ駆けつけた。繁蔵と仲の良かった廻船問屋が屋根の上で爆竹を鳴らして「鉄砲だ」と叫び、飯岡方はひるんだ。笹川方には加勢も加わって、飯岡方はだんだんと劣勢となり退却を余儀なくされた。飯岡方は舟で野尻まで退却した。
□飯岡方の惨敗、深喜の死
この召し捕り失敗で飯岡方は3人が即死した。助五郎一の子分、洲崎の政吉は退却途中の船中で死亡した。他に4名が負傷した。
笹川方は平田深喜が重傷を負ったのみであった。平手は十一か所も斬られていた。医者が手当したが翌日に息をひきとった。

平手造酒の墓(笹川 延命寺 昭和3年建立のもの)

墓には酒が手向けられている
□繁蔵の放浪、助五郎の入牢
召し取りに失敗した助五郎が追手を回すに違いないと察した繁蔵は、子分たちに有り金を渡して逃げるよう指示して自身も放浪の旅にでた。繁蔵がどこに向かったのかはわかっていない。
助五郎は関東取締出役から召し取り失敗の責任を問われ牢屋に入れられた。
助五郎は釈放され再び十手を任される。
□笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす
1847(弘化4)年、ほとぼりが冷めたとみた繁蔵は笹川に戻った。子分らが再び集まり、笹川方はかつての勢いを取り戻し始めた。
助五郎は前回の失敗があるので容易には繁蔵には手は出せない。息子与助の妻の父の岩井常右衛門に繁蔵の動向を報告させた。
7月4日の夜、繁蔵は博奕を終え、妻のお豊のところへ向かった。途中には小川が流れており、ビャク橋という橋がかかっている。繁蔵はここで待ち伏せしていた三浦孫次郎、堺屋与助、成田甚蔵に襲われて命を落とす。繁蔵の首は落とされ、胴体は利根川に流された。首は飯岡に持ち帰られた。

ビャク橋跡
この闇討ちは3人が無断で決行したものであり助五郎は知らなかった。正攻法で繁蔵を捕えようと考えていた助五郎は、子分が持ち帰った繁蔵の首を見て驚いた。助五郎はこのことを秘密にして繁蔵の首を定慶寺に埋めた

笹川繁蔵の首塚(飯岡 定慶寺)
□勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
親分を失った笹川方は、一の子分勢力富五郎が跡目を継いだ。
この頃関東では博徒による悪行が横行し、無宿者を取り締まるお触書が通達されていた。富五郎は親分を抹殺した助五郎および関東取締出役を憎んでいた。鉄砲を武器に武闘派の一軍を結成してお上の権威に歯向い、助五郎の一味は悪逆非道を重ねた。
ついに1849(嘉永2)年3月8日、5名もの関東取締出役が動き、周辺76カ村の役人に勢力召捕の協力を求めた。5,600人もが集まり大捕物を展開したが、富五郎は逃げ隠れ、関東取締出役の鼻をあかした。
4月、新たな召捕作戦により富五郎は追い詰められてゆく。富五郎は小南村の金毘羅山に逃げ込んだ。4月28日、子分と2人となった富五郎は、お縄にかかるよりはと自決の道を選ぶ。ついに富五郎は鉄砲で自殺した。残ったわずかな子分、夏目の新助や清滝の佐吉らも捕えられて江戸送りとなり、小塚原で処刑され笹川方は全滅した。

金毘羅山

勢力富五郎自刃跡(笹川 金毘羅山)
■人物伝
□飯岡助五郎
1792(寛政4)年、相模国三浦郡公郷村山崎(現在の横須賀市三春町)という小さな漁村に生まれる。本姓は石渡(いしわた)。18才の頃、相撲取りを志願して江戸に渡り、綱ヶ崎を名乗るが、親方が死んでしまい、1年程度で廃業した。

助五郎の生家があったところ。今でも近くには石渡姓の家が多い。
その後上総国作田浜の網元のところで猟師として雇われる。頼りの網元が死んでしまい、漁夫仲間とともに飯岡に移る。仕事に精を出しつつも、ずぬけた腕力でヤクザ者を打ち負かす助五郎は兄貴と呼ばれるようになり、やがて船頭になった。漁夫は時化で休みのときは博奕に興じ、助五郎もこれに深くかかわった。博奕場で喧嘩が起これば仲裁して納め、助五郎は男としての貫禄をあげていった。
助五郎は網元半兵衛に見込まれてその娘すえと結婚した。また、助五郎は茶屋女のサイとも深い仲になり、サイとの間には与助という子供をもうけた。
飯岡は銚子の大親分五郎蔵の勢力圏にあった。漁業に精を出しながら博徒として売り出していた助五郎は五郎蔵の子分となり、代貸として賭場の取り締まりをまかされた。助五郎が30歳の頃、五郎蔵の縄張りのうちから飯岡を譲り受け、飯岡一帯の親分となった。
また、銚子の五郎蔵と同じく、関東取締出役の下で働く道案内人を任じられ、助五郎は二足草鞋の親分となった(年代は不明)。

五郎蔵と助五郎が寄進した大釜(銚子 円福寺)
漁業においては、義父の援助を受けて、生まれ故郷の名をとって三浦屋という網元を立ち上げた。助五郎は、漁業の三浦屋を本妻のすえに、博徒の仕事を妾のサイに任せ、二人のもとを往来した。
助五郎は飯岡の漁業の振興につくした。大規模の地引網には水夫が60~70人、浜で綱を引く岡者が200人必要であった。助五郎は、博奕や喧嘩が好きな気性の荒い水夫たちを束ね存在感を高めた。飯岡浜では海難事故が絶えなかった。事故が起これば残された家族は暮らしに困るし、数十人の命が奪われる大きな事故の場合は飯岡の漁業の危機となる。ある時助五郎は故郷の三浦半島に出向き、若い漁師を大勢引き連れて帰ってきた。未亡人には新しい亭主を引き合わせ、飯岡の漁業も救った。
幕府は娯楽について一切禁じていたが、相撲興行だけは認めていた。もと力士の助五郎は相撲に感心が強く、天保十一年に江戸相撲会所から相撲の興行権を得た。相撲の興行は収入面でも勢力誇示の面でも助五郎の存在を大きいものにした。
笹川繁蔵との一件の後、助五郎は一家を息子の堺屋与助に譲る。助五郎は68才で畳の上で大往生を遂げた。
大衆芸能においては繁蔵に対する「悪役」として描かれている。

飯岡助五郎の墓(飯岡 光台寺)
□笹川繁蔵
本名は岩瀬。岩瀬家は代々、羽斗(はばかり)村で醤油と酢の醸造をしていたが、繁蔵の父は笹川河岸の繁栄をみて須賀山村に酢と醤油の蔵を建てて移り住んだ。繁蔵はここで生まれた。繁蔵は7歳の頃、漢学と剣法を学ぶ。体格の良い繁蔵は相撲を好むようになり、村の素人相撲では無敵となった。
笹川の諏訪明神に江戸相撲の千賀ノ浦が巡業に来ていて十一屋を宿にしていた。繁蔵は千賀ノ浦に入門し、諏訪ノ森を名乗った。力士は1年程で廃業し、繁蔵は江戸から故郷の笹川へ戻った。繁蔵は芝宿文吉親分の賭場に出入りをするようになる。男っぷりがよく度胸のある繁蔵は次第に若者達の親分格となってゆく。繁蔵は文吉の媒酌によって、賭場の会場となっていた家の娘豊子と夫婦となった。文吉親分は繁蔵を見込んで縄張りを譲り、自分は隠居した。繁蔵は親分となり、勢力富五郎、清滝の佐吉といった子分を従えて勢力を増していった。

繁蔵が使用していた合羽(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)
□平手造酒
平手造酒(ひらてみき)はある実在の人物をモデルに講釈師が創作した人物です。平手造酒のモデルとなった人物についてははっきりしておりませんが、「平手造酒」という名前でなかったことは確かです。
笹川と飯岡との決闘の後、笹川方で唯一死亡した浪人について地元の名主が役人に提出した検文書には「無宿浪人、平田深喜」と書かれています。
笹川の延命寺には笹川繁蔵の碑や勢力富五郎の碑とともに「平田氏の墓」(嘉永3年建立)があります。
笹川から20km上流の佐原にあった道場の入門帳には「讃岐高松藩中 平田三亀」の記載が残っているそうです。また、平田三亀は松崎村(現在の香取郡神崎町松崎)の名主山口市左衛門のもとにも身を寄せていたらしく、市左衛門が建立したと思われる平田三亀之墓と刻まれた墓石が現在も残っています。また下関にあった笹尾道場に40年の間に訪れた武芸者を記録した古文書が残っており、そこに「讃岐高松家中 平田三亀」と書かれています。このことから平田三亀という名の人物が実在したことは間違いがなく、この平田三亀が平手造酒のモデルとなった人物と推測されます。子母澤寛「遊侠奇談」では佐原の道場の子孫への取材で平田氏が水戸にいたと聞き取ったことが書いてあります。その真偽はわかりませんが、高松藩と水戸藩はつながりが深い(例えば天保の頃高松藩主だった松平頼恕は水戸7代藩主の次男)ことから三亀が水戸にいたとしても納得がゆきます。

笹尾道場に残る姓名録 平田三亀の部分
阿州 関口流 佐藤雄太門人 讃岐高松家中 平田三亀
平手造酒(平田三亀)の実像には謎が多いですが、「浪士であったが笹川繁蔵の食客となった」「天保15年の笹川対飯岡の喧嘩の際に命を落とした」という点は史実とみて間違いなさそうです。

平手塚(笹川 S41建立)
どこまでが事実かはさておきまして、一般的に認識されている平手造酒の人物像は、「江戸神田お玉ヶ池に道場を構える千葉周作の門下生で北辰一刀流の達人であったが、酒グセが悪く破門となって江戸を去り、浪人として下総に居たところ繁蔵に客人として迎えられた。労咳に病み、尼寺で療養していたが、大利河原の決闘の際に駆け付け、命を落とした」というものです。また「白無地の単衣を着ている」というイメージもあるようで大衆演劇ではしばしばそのコスチュームで演じられます。
平手造酒は後世の人々によってさまざまなイメージで描かれた人物であり、むしろそれ故に天保水滸伝で一番魅力ある人物となっています。

作者不詳 昔の人が描いた平手造酒

東庄町制作のアニメ「天保水滸伝neo」の平手造酒
■時代背景
天保水滸伝の史実はその時代背景を把握するとより理解が深まります。関連する出来事をまとめました。
□飯岡・笹川の繁栄
九十九里での網漁(八手網や地引網)は紀州から伝わった。元和・寛永年間(1615~1644)には多くの関西漁民が9月から翌5月にかけて出稼ぎにやってきて主に八手(はちだ)網漁を行っていた。元禄期に関西漁民が撤退し地元漁民による地引網漁が台頭すると、天保にかけてさらに発達し、飯岡をはじめとして九十九里の地引網漁業は全国最大規模となった。
捕れた大量の鰯は干鰯(ほしか=鰯を食用とせず天日干しにした肥料)や〆粕(しめかす=鰯から魚油をとった残り粕の肥料)などに加工された。関西で木綿などの商品作物が発達すると干鰯・〆粕は金肥として重宝され、九十九里の干鰯は江戸、関宿や浦賀の問屋を介して飛ぶように売れた。利根川の河岸にはこれらを扱う問屋が現れた。

飯岡漁港(刑部岬より)
江戸時代、年貢米は江戸に集中的に運ばれた。年貢米や物資の輸送には舟運が重要な役割を果たした(例えば、陸送だと2俵運ぶのに馬1頭に人ひとり必要だが、江戸後期に活躍した高瀬舟は大きいものでは1000俵近くを6人程度で運ぶことができた)。また海上航路は荒天による危険が伴うため安全な川を使った輸送ルートが発達した。関東の大きな川沿いにはいくつもの荷卸し場ができて河岸となった。
かつて東京湾に流れ出ていた利根川は、改流工事により、関宿の北で常陸川の上流に接続され銚子へ流れ出るようになった。1654(承応3)年に銚子~利根川~関宿~江戸川というルートで江戸へ搬送する舟運路が完成した。(その後、上流から運ばれる土砂の堆積により、川水の少ない季節は大型船の関宿通過が困難になり、利根川沿いの河岸と江戸川沿いの河岸を結ぶ街道が発達した)
利根川は江戸への流通経路としてますます重要となり、利根川沿いの河岸が発達した。笹川河岸も年貢米をはじめ物資の集積地として栄えた。
銚子は、奥州から江戸へ物資を運ぶ廻船の寄港地として、利根川高瀬舟への積替地として発展した。また銚子では江戸初期に関西から技法が伝わって醤油醸造が始まり、江戸の人口の増加に伴い発達した。醤油も利根川の水運を利用して江戸に運ばれた。繁蔵の父も醤油の醸造を生業としていた。

銚子の利根川河口付近
繁蔵・助五郎の生きた時代には飢饉が打ち続いていた。離村や潰れ百姓の増加によって、農村の人口は減った。
飢饉が続く時代でありながら、河岸として賑わう笹川と漁業が盛況な飯岡は経済的にも余裕があり、人の流入も多かった。
□なぜ博徒が多かったのか
近世の社会では、盗みや博奕を行う悪者は村内で処理することが一般的だった。幕府による「法度(はっと:禁令)」とあわせて独自の「村掟」が存在しており、村内の問題は村で解決し、盗人が領主に引き渡されることは少なかった。
しかし近世後期になると、まじめに働くことを嫌い、村社会から逸脱する者が増えてくる。村の制度・秩序では手に負えない者は、連帯責任制度から外すために親親族とは縁切りとなり、人別帳(にんべつちょう:戸籍謄本のようなもの)から外され「無宿者」となった。(素行の悪い者は目印として人別帳に札が付けられていた。それが「札付き」の語源である)
村民に暮らしの余裕がでてくると、博奕や村芝居などの遊び心がさかんになる。これにつれて無宿者・博徒も横行する。逆にいうと無宿者は人の多いところに集まる。笹川など賑わった河岸には無宿者が底辺労働者として出入りしていた。
関東地方は一つの村を複数の領主が支配していることが多く、幕府領「御領」、大名領「領分」、旗本領「知行所」、与力・同心(奉行所などで治安維持につとめる役人)領「給地」、寺社領などが錯綜していた。飯岡村は旗本と与力が支配していた。
無宿者・博徒は悪さをすると他の領地へ逃げてしまう。他の領地へ逃げてしまった者を捕らえるにはその土地の領主に照会しなければならない。そうしているうちに悪者はまた逃げてしまう。
領主としては、働き手の村民が、遊びを覚えて無宿者の仲間入りをしてしまうことをなによりも恐れていた。しかし村で手に負えない無宿者や博徒を領主の役人が捕縛するには上記のように困難が伴った。
領主の力では治安を維持することが困難になると、ますます博徒が跋扈するようになり、関東地方の治安は大変悪くなった。
□関東取締出役(八州廻り)の設置
幕府は、領主の支配を越えて博徒を取り締まることのできる役人の必要を認め、1805(文化2)年に「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を創設し、八名が任命された。二人一組で関八州(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡回したことから「八州廻り(はっしゅうまわり)」とも呼ばれた。
しかし関八州という広大な土地を取り締まるにはこれではあまりに不十分で(そもそも八州廻りはたいした武力を持っていない)、無宿・博徒の活動はおさまらない。また、出役が悪者を捕えると囚人番は村が行わねばならず、その人手と費用の負担も大きな問題となっていた。
幕府は1827(文政10)年に関東全域に「改革組合村」の結成を命じた。数カ村を集めて「小組合」をつくり運営人「小惣代」をおく。小組合を集めて数カ村が集まる「大組合」をつくり「大惣代」をおく。この組合の中心となる村を「寄場(よせば)」と呼び、寄場役人をおく。この組合村が関東取締出役の活動に全面的に協力し、悪人逮捕・預りの費用も組合村が負担するかたちとなった。
飯岡村は太田村を寄場とする三十五ケ村からなる組合に入っていた。
□二足の草鞋
関東取締出役の廻村が決まると組合は、地理がわからない出役の活動をたすける「道案内」を選出する。道案内は、手配者を探索するばかりでなく、実際の召し捕りや護送も行う。
八州廻りが遠い土地で警察活動を行うには地元の有力者の力を借りざるを得ない。蛇の道はへびで、力のある博徒が道案内に任命されることが多かった。助五郎も土地の顔役として出役の道案内を任された。
博奕を行った者を取り締まるのが博徒、という考えられない状況が生じた。大衆演芸においては、道案内のこのような矛盾した立場は(多くは否定的な意味合いを込めて)「二足の草鞋(わらじ)を履く」と表現されている。(与力・同心等役人の手先となって取り締まりをたすける者に「目明し」(自分の罪を見逃してもらうかわりに犯人検挙を手助けする者)や「岡っ引」がいるが、目明しも博徒、つまり<二足の草鞋を履く者>であること多かった。なお、助五郎は銚子の五郎蔵と同じく銚子の飯沼陣屋から十手取縄を預かっていたといわれている)
性悪な者が「お上の御用」の権威をきたらどうなるか。当然不正をはたらく。
例えば国定忠治が活躍した頃の上州にはそうした記録がたくさん残っている。身に覚えのある者は道案内に金を渡して見逃してもらう。道案内がさまざまなトラブルに介入しては御用の風を吹かせつつ難癖をつけて金をせびりとる。賄賂を差し出した者には出役の廻村の際に逃亡の手助けをする。自ら博奕場を開いて胴元として寺銭を手中にする。役人の手下となってそんな横暴なふるまいをする者もいて村人も困っていた。忠治が長い年月捕まらなかったのも私欲にまみれた役人の手先を買収していたからである。
悪いのは道案内だけではない。道案内の横暴がまかり通るのも取締出役との癒着があったからである。関東取締出役の給料はそれほど高くなく多くの者が賄賂になびいていた。天保10年には関東取締出役13名と火付盗賊改5人が不正を摘発され処罰を受けている。
助五郎のいた下総はどうであったのか。助五郎と繁蔵との間に不和が生じた際にその仲介に努めたという松岸村の茗荷屋半次が、関東取締出役のいいつけで女の世話をしたという話は残っている。
助五郎には道案内としての悪い逸話や記録はみあたらない。「天保水滸伝」中の一番大きな出来事といえば、助五郎が関東取締出役の召し捕り状を受け取って繁蔵のいる笹川に乗り込むところである。古文書によればこの召し捕り状は、大田村ほか35か村からの訴えを受けて出されたようである。召し取り状が出されるに至った背景にはこの訴えの他に繁蔵への私怨を持つ助五郎の力はたらいていたのかどうか。それはまったくわからない。
≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
飯岡と笹川の争いを「天保水滸伝」として世に伝えたのは江戸の講釈師宝井琴凌(たからいきんりょう=三代目宝井馬琴)です。講釈師というのは現代的に言えば講談の演者で、「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳がありますが(この川柳は初代馬琴の作だそうです)、各地で庶民にうけそうなネタを収集しては、おもしろくアレンジして口演していました。
勢力富五郎が死んで一連の事件に決着がついたのが嘉永二年(1849)です。この事件を知った講釈師の宝井琴凌が下総に行って取材した後に「天保水滸伝」として江戸で発表しました。
なぜ「水滸伝」という名が付けられたのでしょうか。
梁山泊に集結した百八人の豪傑が腐敗した政府と戦う中国の小説「水滸伝」は江戸時代に日本に輸入され和訳本が刊行されました。その後、「水滸伝」の絵本や錦絵のほか「南総里見八犬伝」などの翻訳物が生まれました。
天保水滸伝は勢力富五郎が金毘羅山に籠って中央権力に抵抗した点を「水滸伝」になぞらえて名付けられたようです。実は講談の天保水滸伝が世に出る前に、江戸では勢力富五郎が鉄砲を武器として関東取締出役に抵抗していることが下総の大事件として話題になっていました。当初の天保水滸伝では人々の注目を集める主役の座は勢力富五郎にあったのです。幕末に上演された天保水滸伝を題材とした歌舞伎「群清滝贔屓勢力(むれきよたきひいきのせいりき)」(河竹黙阿弥作)は繁蔵の死後の場面から始まる勢力富五郎を主人公とする話でした。その後講釈師が世間受けするようにアレンジしてゆく中で、元々実像がよくわからなかった平手造酒が魅力的なキャラクターに造形されたり、笹川を善玉として飯岡を悪役とする構図がかたまったりして主役が平手や繁蔵に移ってゆきました。
天保水滸伝は錦絵によっても知られてゆきます。
中国の「水滸伝」の登場人物は歌川国芳などの画家が錦絵にしていました。幕末に二代目歌川豊国が「近世水滸伝」として侠客を人気役者の似顔で描きました。国定忠治は組定重治、飯岡助五郎は井岡の捨五郎、勢力富五郎は競力富五郎など、ヒーローのイメージが仮託されたアウトローが描かれました。

歌川豊国「近世水滸伝 井岡の捨五郎」
天保水滸伝が変容しながら語り継がれる中、飯岡勢が笹川へ乗り込み利根川の河原で大喧嘩が行われたという「大利根河原の決闘」が物語の大きな見所になっていったようです。

大利根河原の決闘を描いた「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(1864年 芳虎画/船橋市西図書館蔵)東庄町HPより転載)
■近世侠義伝
近世侠義伝は1917(大正6)年に図画刊行会錦絵部から発行されたもので、浮世絵師芳年(1839~1892)が版画で描いた天保水滸伝中の人物に講談風の紹介文章が添えられています。

掲載されているのは以下の36名
飯岡助五郎/笹川繁蔵/荒生留吉/風窓半次/洲崎政吉/提緒伊之助/神楽獅子大八/荒町勘太/御下利七/桐島松五郎/鰐の甚助/垣根虎蔵/矢切庄太/地潜又蔵/長指権次/羅漢竹蔵/生首六蔵/波切重三郎/滑方紋弥/蛇柳松五郎/生魚の長次郎/木隠霧太郎/藤井数馬/祐天仇吉/清滝佐吉/猿の伝次/栗柄才助/斑の丑蔵/夏目新助/羽計勇吉/名垂岩松/平手造酒/稲舟萬吉/水島破門/水島宇右衛門/勢力富五郎
大正期の天保水滸伝ですら名前をきかない登場人物もいれば、現代の天保水滸伝では比較的重要人物である三浦屋孫次郎、堺屋与助、成田の甚蔵はおりません。
近世侠義伝の人物譚を読みますと最初期の天保水滸伝の物語世界をうかがい知ることができます。
本ブログでは近世侠義伝に描かれた36名のうち現代においてもよく登場する人物をとりあげてご紹介します。
□飯岡助五郎
銚子五郎蔵の子分で、任侠にして義理に強く、性質温厚であったから万人に立てられた。
飯岡銚子松岸界隈を荒らし回る生田角太夫という浪人をひとりで倒したことから、その名が広まり洲崎政吉はじめ数百人の子分ができて飯岡の大親分とたてられた。
笹川繁蔵と仲違いしてしばしば血戦が起る。繁蔵が討たれ、その子分の勢力富五郎、清滝佐吉らが助五郎を付け狙い、助五郎は幾度も危うい目にあったが、笹川方は全滅し、助五郎は飯岡に長く威を振るい、七十余才の天寿をまっとうした。

□笹川繁蔵
岩瀬源四郎という立派な侍がいたが勘当されて国を去り、下総笹川に流れついて剣道柔道を教えていた。百姓の娘富と結ばれて福松という子供ができた。福松は少年ながら心たくましく力すぐれ、角力で福松にかなう子供はいなかった。ある時荒れ狂って来た一頭の大牛に福松は一人で立ち向かいこれを鎮めた。福松は流鏑馬繁蔵の賭場を荒らして、大勢の者に簀巻きにされて川へ流されたが、それにも懲りず再び流鏑馬に仕返しに行った。その勇気を気に入った流鏑馬繁蔵は福松を養子に貰い受け、福松は二代目流鏑馬繁蔵となり、岩瀬の繁蔵という通り名がついた。諏訪神社に石碑を建てて相撲をやった頃から助五郎と仲が悪くなった。助五郎方が笹川に押しかける大喧嘩があったが荒生留吉の内通もあって繁蔵方は散々に破った。天保十五年七月二十一日夜、助五郎の手下によって殺された。三十六歳だった。その後勢力富五郎、清滝佐吉らの子分らは助五郎を狙い幾度となく流血の惨事があった。

□平手造酒
剣の達人であったが酒のために身を持ちくずし浪人になった。下総銚子への移動の途中に金がつきたとこを笹川繁蔵に助けられ食客となった。
鹿島の祭礼に勢力富五郎と出かけたが、酒楼で酒を飲んでいるときに土浦の剣客高島剛太夫と諍いが生じた。造酒は剛太夫を討ち取って、その子分も富五郎とともに追い散らした。以降造酒は富五郎から酒を戒められた。

□勢力富五郎
繁蔵が諏訪神社に野見宿祢の石碑を建てた日に境内で相撲大会が行われた。その日は助五郎の子分はことごとく負けてしまった。次の日飯岡方は仕返しに相撲が強い者を連れてきた。中でも神楽獅子の大八は笹川方を7人投げ飛ばした。それを見かねた勢力富五郎は土俵に上がって、見事大八を砂に埋めた。
繁蔵が飯岡方に殺されてから、富五郎は仇を討つべく助五郎をつけ狙っていた。しかし、逆に自分の身があやうくなり、金毘羅山に隠れているところを医者に密告され、役人手先五百余人に取り囲まれた。味方二十余人と防戦したが、もうこれまでと思い、富五郎は鉄砲を喉にあてて自殺した。

【講談で読まれた勢力富五郎】
近世義侠伝とは離れますが、講談で描かれた勢力富五郎を紹介します。現在は講談でも浪曲でも勢力富五郎の金毘羅山における事件を中心に組み立てた話は残っていないと思います。以下は講談本(年代不詳)にある「勢力の鉄砲腹」を部分的に抜き書きしたものです。
「勢力は用意の鉄砲小脇にたずさえ、いち早く裏手に向いて一発をどうと放てば、狙いたがわず、血煙り立って倒れたり。つづいて二発、三発打放てば、寄手(よせて)はたちまちおじげつきて、ふもとをさしてなだれ落つ。――このたびは寄手総勢を繰りだせしものと覚しく、八方より攻め登れば、勢力は大声をあげ、性こりもなきうじ虫ども、眼に物見せん、と計りにて、力の限り斬りまくる。――寄手のきたらぬそのうちにと、さいぜん捨てたる鉄砲取り上げ、松の大樹に身を寄せかけ、筒口を咽喉に打ちあて、どうと一発打貫き、血汐にまみれてこと切れたるが、身は死しても、ついに倒れず、両眼かっと見ひらきて、ふもとをにらみし立往生、恐ろしくもまた物すごし――」
□清滝佐吉
清滝生まれの佐吉は銚子の醤油屋で職人をしていて、そこの女中お常とできてしまった。お常には許嫁がいたが、二人は駆け落ちした。お常の父の頼みがあり助五郎が動いて二人をつきとめた。お常は連れ戻され、助五郎は佐吉に手切金を渡した。手切金の少なさに不満のある佐吉は、夏目の新助の紹介で繁蔵の子分になり、繁蔵に仕返しを頼んだ。繁蔵は、江戸にいたお常を探しだして連れ戻し、許嫁には手切金を渡して、お常を佐吉の女房にした。
佐吉は繁蔵の無二の子分となるが、繁蔵が死んでからは富五郎と仲が悪くなった。助五郎への復讐をもくろんだが、逆に飯岡方の計略にあって役人に捕えられ、小塚原で夏目の新助、羽計の勇吉とともに処刑された。


清滝佐吉伝承碑(旭市清滝地区)

佐吉まんじゅう
□夏目の新助
性格が温厚で義理に強い人物だった。清滝の佐吉と親しく、不仲の佐吉と富五郎を仲なおりさせようとしていた。
富五郎が飯岡に斬り込みに行った際、そのことが助五郎にはばれていて、待ち構えていた飯岡方の反撃にあって悪戦苦闘していた。そこへ夏目の新助が羽計の勇吉らを連れて駆けつけ加勢した。
翌日、清滝の佐吉が飯岡に斬り込みに行ったがやはり苦戦した。新助は佐吉と勇吉を助け出した。

□洲崎政吉
ある日繁蔵が富五郎をはじめ5.6人の子分を連れて飯岡にやってきた。助五郎の子分は騒ぎ立てたが助五郎は、喧嘩をしかけに来たのだろうが相手にするなと子分をなだめた。助五郎の右腕の政吉は自分にまかせてくれと一人で外に出た。政吉は家の出入口にあった大碇を片手で持って肩にかけ、海辺に行くふりをして繁蔵とすれ違いにっこり丁寧に挨拶をした。重い大碇を肩にかけながらの丁寧な挨拶に繁蔵は感心して、この日は何事も起らなかった。
飯岡・笹川の大喧嘩の際に奮戦の末亡くなった。28歳だった。

□神楽獅子大八
繁蔵が諏訪神社へ石碑を建てて角力興行をした際、繁蔵の子分の名垂の岩松が飯岡方を四人投げた。神楽獅子が土俵に上がり、岩松ほか名うての者を七名投げ飛ばした。しかし勢力富五郎には負かされて、この勝負が繁蔵と助五郎の確執の原因となった。
笹川の出入りでは神楽獅子は九尺の棒を持って戦い笹川方の飯田兄弟を倒した。繁蔵との一騎打ちで棒を斬られ、神楽獅子も斬られて最後をとげた。

□荒生の留吉
長指(ながざし)の権次の子分。用事があって東金に行った帰りに海岸で重たい財布を拾った。飯岡の三河屋の手代が集金の帰りに落とした財布を探して歩いていたが、その後ろには死神がついていた。留吉は死神を退治して財布を手代に返した。それがきっかけで三河屋が後ろだてとなって留吉は金貸し業を始めて裕福に暮らした。
留吉は兄貴分の風窓の半次との関係がもつれたが助五郎が仲裁にはいって納まった。しかし留吉は助五郎に恨みを持つようになり、助五郎が笹川へ向かう際に繁蔵に内通した。

■講談
天保水滸伝を作り世に出したのは講釈師宝井琴凌(三代目宝井馬琴)です。琴凌は上州では国定忠治を調査し講談に仕立てていますが、その後下総でも取材し、嘉永三年(勢力が死に事件が収束した翌年)に天保水滸伝を高座にかけたそうです。
琴凌の息子四代目馬琴が昭和三年に都新聞に連載した「講談界昔話」によると琴凌はしばらく自分のまとめた話に納得がいってなかったが慶應3年に五代目伊藤凌潮の協力によって完成され「天保水滸伝」と命名したとのことです。ですから当初は天保水滸伝という演題ではなかったのかもしれません。

明治大正時代の講談本
戦前の講談天保水滸伝
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成する前の流れを感じ取ることができます。
私が確認できた戦前の講談天保水滸伝のあらすじを別ブログにまとめました。
大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門別ページ
「戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝」
上記のリンク先ページには以下の記事を掲載しています。
■「天保水滸伝 初編」 嘉永三年?
大正二年に刊行された「侠客全伝」という本に「天保水滸伝 初編」という実録体小説が収められています。
この小説には序文がありそこには嘉永三年と記されています。
上述のとおり宝井琴凌が講談天保水滸伝を完成させたのが慶應三年です。それ以前に存在していたというこの小説と、琴凌の講談との間にどのような関係があるのかはよくわかりません。ただ、現在残っている最古の天保水滸伝物語(講談天保水滸伝の最源流)と言えるのではないかと思います。内容としては現代の天保水滸伝との隔たりが大きいです。
■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代
大正時代後期に語られた内容だと推測されます。
この頃には現代に残る天保水滸伝の基礎がかたまっているように思います。
■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年
大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり新聞に掲載されました。
■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。
■松の家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年
明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松の家太琉に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。
明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
講談の内容を否定する目的で作られていますから、大衆演芸の天保水滸伝と重ならない部分が多いです。
現代の講談天保水滸伝
戦前では三十講もの連続物として確立していた講談天保水滸伝ですが、現在講談でかかっている天保水滸伝の話は十席もありません。アレンジを繰り返してゆく中、また連続物の講談がかからなくなってゆく中、人気を得た話だけが現代に生き残ったということなのでしょうか。
私の知る限りでは以下の話が現在かかっています。
「相撲の啖呵」「平手の破門」「笹川の花会」「鹿島の棒祭り」「潮来の遊び」「平手造酒の最期」「三浦屋孫次郎の義侠」
外伝的なものは「ボロ忠売り出し」「天保水滸伝外伝 忠太郎月夜唄」
現代の講談天保水滸伝について以下の公演を別ブログ『現代の大衆演芸(講談・浪曲・大衆演劇)における「天保水滸伝」 体験記』でレポートしています。
◆2014年5月3日~6日 神田春陽・神田松之丞 GW特別番組4日連続俥読み「天保水滸伝」(於:お江戸日本橋亭)
◆2015年1月7日 神田愛山・玉川奈々福・玉川太福・神田松之丞 「天保水滸伝車読みの会」(於:お江戸日本橋亭)
◆2015年1月17日 神田松之丞「松之丞ひとり会」(於:赤坂峰村)
◆2016年6月4日 神田松之丞 「ひとり天保水滸伝」(於:紀尾井ホール)
■浪曲
浪曲ではいつ頃から「天保水滸伝」が語られてきたのでしょうか。
講談や芝居では明治の初期から天保水滸伝がかかっていましたから、浪花節に取り入れられたのも早かったのではないかと想像しますが、後述するように現在の浪曲天保水滸伝の原本は一心亭辰雄(1880~1974)によるという説がありますが、それがいつ頃どのような内容で完成したのかは調べがついておりません。。
明治45年に刊行された浪花節台本「日本侠客銘々伝」(京山大教口演)が国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。その中に「飯岡助五郎」という演目があります。
銚子の五郎蔵の子分の八木の新吾が飯岡で賭場を立てた。三浦の助こと助五郎はそこにふらりと入って、賭場荒らしを働いてしまい海に投げ捨てられる。その後助五郎はその度胸を見込まれて五郎蔵の身内となり賭場をまさせられる。
博奕好きの助五郎は賭場の土台銭に手をつけてしまい、五郎蔵の怒りを買い、上州へ逃げる。大前田の栄五郎親分に仲裁を頼み、助五郎は五郎蔵の許しを得る。
五郎蔵は病気が重くなり伊勢に参詣に行けなくなったので、名代として息子の大勝を遣わすこととした。子分を集めて大勝の後見を頼むが引き受ける者がいない。というのは伊勢には五郎蔵と因縁のある鬼熊親分がいるからだ。五郎蔵が名乗りを挙げ伊勢に行く事となった。鬼熊と助五郎の話はまた後日。
という内容で、現在に伝わる浪曲天保水滸伝とはずいぶん違います。連続物の第一話と想像されますが、この頃の浪花節独自で創作された天保水滸伝の物語があったことは興味深いです。
大正期から大衆文化が発達し、ラジオ放送が始まると浪曲は昭和初期に黄金時代を迎えました。
「実録浪曲史」には昭和4~7年のラジオで放送された浪曲の演題の回数表が載っています。
赤穂義士伝関係が圧倒的に多く304、乃木将軍68、寛永力士伝39、佐倉義民伝30、大岡政談30、慶安太平記28、清水次郎長伝28、塩原多助25、伊達騒動24、水戸黄門記23、曽我物語22、寛永三馬術21、天保水滸伝19、壺阪霊験記19、国定忠治17、祐天吉松17となっています。天保水滸伝が人気演目のひとつになっていることがわかります。
先述のとおり昭和2~9年の7年間だけで17本もの天保水滸伝の映画が製作され、昭和初期は天保水滸伝がブレイクした時期と思ってよいでしょう。そしてその人気を決定付けたのは二代目玉川勝太郎の浪曲天保水滸伝であろうと思われます。
二代目玉川勝太郎の天保水滸伝
二代目玉川勝太郎(1896~1969)は浪曲の天保水滸伝を世に知らしめました。
「日本浪曲史」には昭和5年に玉川二郎(昭和6年に二代目玉川勝太郎を襲名)の「天保水滸伝」が四夜連続で放送されたことが書かれています。また、昔の新聞を調べてみますと、1934(昭和9)年から1938(昭和12)年にかけて玉川勝太郎の天保水滸伝ラジオ口演の記事がたびたび掲載されており、この頃二代目勝太郎が天保水滸伝で大活躍していたことが想像できます。
二代目勝太郎の天保水滸伝ヒットにおいて忘れてはならないのが作家・演芸研究家の正岡容(いるる)(1904~1958)です。
1954(昭和29)年6月14日の読売新聞のコラムで、「名文『天保水滸伝』 正岡容との友情」というタイトルで二代目勝太郎が文章を寄せています。
あるレコード会社で吹き込むことになった際、文芸部長が正岡容の天保水滸伝の台本を持ってきたそうです。
「以来、数えきれないほど口演し、今では僕のお家芸になってしまった。このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存じのような名文になった」と書いています。初代勝太郎から二代目へ受け継がれた天保水滸伝は正岡容のアレンジによって人気を博したと解釈してよいでしょう。
正岡容が作った天保水滸伝の外題付け「利根の川風袂に入れて月に棹さう高瀬舟~」は日本中で親しまれた有名な節です。
外題付というのは浪曲作品の歌い出しの節のことで、もともと浪曲には外題付けがありませんでした。初期のレコードは片面3分、両面で6分でした。2枚セット(合計12分)の販売が多かったようです。販売するレコードに収まるように一席の構成が変化したそうです。お客さんはレコード店で試聴してからレコードを購入しました。レコードの最初の3分という尺の中でその浪曲の魅力をしっかり伝えるために外題付けは生まれました。正岡容の天保水滸伝の外題付けはきっかり3分に収まっています。
1941(昭和16)年7月キングレコードより「天保水滸傳」全集が発売されました。前編・後編の8枚組です。演者はもちろん二代目玉川勝太郎。
「若き日の平手造酒」「笹川の花會」「角力場仁義」「笹川の繁蔵」「鹿島の棒祭」「笹川村駆け付け」「蛇園村の斬込み」「平手造酒の最後」の8席。
「笹川の繁蔵」という演目の内容はよくわかりませんが、8席のタイトルを見るに、浪曲天保水滸伝の定番演目はこの時代に確立され、現在に至っているのではないでしょうか。
浪曲天保水滸伝の作者について畑喜代司氏も気になっています。
浪曲評論家の芦川淳平さんの本「浪曲の神髄」に天保水滸伝について次のような記述があります。
「…水滸伝の一連の段に筆を加えた、正岡容、畑喜代司といった手練れの作者たちも、この点を描ききれなかった。下敷きにある名人一心亭辰雄の原本から脱しえなかったということなのだろうか。」
(この点、というのは、屈折した経歴とニヒリズムに満ちた平手造酒の孤高の存在感を指しています)
「一心亭辰雄の原本」がとても気になるのですが天保水滸伝を講談から浪曲にアレンジしたものと推察します。それに筆を加えたという畑喜代司とはどんな方なのでしょう。ウィキペディアによると、畑喜代司(1904~1945)は浪曲作家で、以下の浪曲の作者とされています。
『天保水滸伝 笹川村馳け付け』玉川勝太郎/『天保水滸傳 若き日の平手造酒』玉川勝太郎/『天保水滸傳 鹿島の棒祭』玉川勝太郎/『平手造酒』木村忠衛
正岡容と畑喜代司のふたりのアレンジの違いは私はよくわかっておりません。

浪曲好きだった田中角栄が総理大臣のときに書いた天保水滸伝の外題付け(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)
* * *
二代目玉川福太郎『徹底天保水滸伝』
浪曲で語られる天保水滸伝を、現代において知るには、なんといっても二代目玉川福太郎(2007年に事故死してしまいました)のCD「徹底天保水滸伝」でしょう。以下あらすじです。
『繁蔵売り出す』
繁蔵と助五郎が出会ったのは銚子の五郎蔵の屋敷。助五郎が屋敷にいるときに、繁蔵が身内にしてほしいと訪ねてきた。
繁蔵は江戸相撲で人気力士であったが、それが気に食わない他の力士とのトラブルがもとで、相撲を続けることができなくなった。といって故郷に帰るわけにもゆかず男の道で生きてゆこうと決めた。事情をきいた五郎蔵は繁蔵を身内にする。
3年やくざ稼業に繁蔵のもとに、五郎蔵の兄弟分やぶさめの仁蔵が繁蔵に後を譲りたいと、繁蔵を十一屋に呼び出した・・・
『平手と繁蔵の出会い』
北辰一刀流の道場千葉周作先生に破門となった平手造酒。恋仲のおえんと、おえんの故郷の下総へ。利根川べりの粗末な家に暮らす。
祭囃子に誘われて、諏訪明神の祭を見物にきた造酒とおえん。境内の土俵では素人相撲が行われている。土俵上では、飯岡助五郎の子分で元江戸相撲の神楽獅子大五郎が次から次へと相手を負かして、もう相手をする者がいない。そこへ繁蔵の子分、清滝の佐吉が勢力富五郎にそそのかされて、土俵に上がった。おえんは休み所でそれを見ている。おえんと幼馴染の繁蔵も、おえんが居るとは知らずに祭りに来ている。
多くの見物人が見守るなか神楽獅子大五郎と清滝の佐吉との取組が始まる・・・

諏訪大神にある土俵
『鹿島の棒祭り』
鹿島神宮の祭礼、鹿島の棒祭りはこの土地の名物行事。平手造酒はこの祭を楽しみにしていたが、造酒の酒ぐせの悪いことを知っている繁蔵は、祭で酒を飲んで失敗をしてはいけないと、造酒に留守番を頼む。祭の3日間禁酒することを約束して造酒は勢力富五郎と鹿島神宮に向かった。
祭の3日目。1日2升の酒を吞む平手造酒、2日酒を断って顔色が悪い。心配した勢力は造酒に甘酒を飲んではと店を案内する。
甘酒ではなく酒を飲んでしまった平手造酒。いかんいかん、この一杯で終わりにしようと、湯呑みの中の最後の酒をじっと眺めて別れを惜しんでいる。
そこへ飯岡助五郎の子分3人が店に入ってきてばたばたと服の埃をはたいた。その埃が、造酒が眺めている湯呑みの中に入ってしまって・・・
『笹川の花会』
後述の大衆演劇のあらすじとほぼ一緒なので省略します。
『蛇園村の斬り込み』
小見川の川料理村田屋の奥座敷。繁蔵と子分の夏目の新助とが話をしているのは、今日江戸送りになった名垂(なだれ)の岩松のことである。岩松は繁蔵の子分になって10年、念仏ばかり唱えていた。実は岩松には旧悪があって、雨傘の勘次を名乗っていた10年前に甲州で人を殺して金を奪ったことがある。それが改心して繁蔵のもとでは念仏ばかり唱えていた。なのに、今になってなぜ10年前の兇状がばれたのか、繁蔵はくやしくてならない。
実はこのことをばらしたのは助五郎の身内の甲州者であった。人殺しを匿えば同罪。助五郎は、岩松と同時に繁蔵も捕えさせようと役人に訴人したのだ。けれども繁蔵は農民救済の花会の一件があったからお目こぼしがあって捕えられなかった。
それを知った繁蔵の胸のうちに助五郎への憎しみが湧きあがる。
月夜の晩、繁蔵は平手造酒・勢力富五郎ら十数人を従えて助五郎斬り込みに向かう。
助五郎は蛇園(へびぞの)村の別宅で月を肴に吞んでいる。
繁蔵はその屋敷に押し入った・・・
『平手の駆けつけ』
繁蔵の用心棒平手造酒が病にかかり養生している。その情報を入手した助五郎は繁蔵一家皆殺しを企てる。
助五郎の子分が武器を調達しようと荒生の留吉の家へ槍を借りに来た。留吉の息子の留次郎は、助五郎が笹川に喧嘩に行くことを知って、すぐにそれを笹川方へ知らせた。実は笹川方の清滝の佐吉は留次郎にとって大恩人なのである。
助五郎は300名の軍勢を従え高瀬舟3艘で利根川を笹川へ向かった。
平手造酒が静養している尼寺。笹川の方が騒がしい。事の次第をさとった造酒は、尼僧が止めるのを振り切って月明かりを笹川土手へ駆けつける・・・
以上二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」でした。
玉川のお家芸「天保水滸伝」は、
二代目玉川勝太郎~三代目玉川勝太郎~二代目玉川福太郎~玉川奈々福・玉川太福、と現代に受け継がれております。
* * *
初代東家浦太郎『繁蔵の最期』

日本浪曲協会で買った初代東家浦太郎「天保水滸伝余聞 繁蔵の最期」のカセットテープ。
内容は、講談や大衆演劇でいうところの「三浦屋孫次郎」の話。
多くの浪曲台本を書いた野口甫堂(東家楽浦)の作となっています。ですから、正岡容先生が講談から浪曲化したのとは別の流れでできたネタですね。元ネタは神田ろ山の講談「笹川繁蔵」と思われます。天保水滸伝は玉川のお家芸。浪曲の世界ではある一門のお家芸を他の一門の浪曲師がかけることは基本的にできなかったと聞いておりますが、野口甫堂はどういう背景でこの台本を書き上げたのでしょうか。
現在は玉川太福さんが許可を得て口演しています。
* * *
広沢虎造の天保水滸伝
意外にも広沢虎造が天保水滸伝を残しています。
『大利根川』

浪曲作家・作詞家の萩原四郎の作のようです。
飯岡一家の常吉が、笹川一家の三下安兵衛が世話になっている呉服問屋から300両をゆすりとる。常吉と安兵衛の喧嘩に平手造酒が仲裁に入り平手は300両を取り戻す。安兵衛の妹おみよは平手に恋をする。安兵衛は常吉に斬り殺される。笹川一家でなぐりこみをかけようとするのを制して平手造酒は自分ひとりが仇をうつと去る、という内容。虎造らしい軽妙なタッチで淡々と進む。
平手が「新しい日本を築き、天の声に耳を傾けろ」「日本という大きな国の夜明けが近づいている」などと幕末の志士めいた説教をする。他のどんな天保水滸伝ともテイストが違う異色の外伝。
『洲崎の政吉』
助五郎一家は笹川への喧嘩出入りのため松岸に集まっていたが、助五郎の一の乾分の洲崎の政吉がいない。
政吉は家で女房のお貞にお前と会うのはこれがもう最後だと因果を含めている。他の男と所帯を持って、子供の一太郎はやくざにするなとお貞に伝える。お貞は、後に心が残らぬようにと、一太郎を刺し殺して自害する。政吉はお貞と一太郎の首を斬り落としそれを持って松岸に行く。鬼人のような助五郎もこのときばかりは思わず涙した。
…現在の演芸や芝居にはない場面ですが戦前の芝居ではよく演じられた一幕だったようです。
* * *
玉川奈々福『飯岡助五郎の義侠』
2016年8月玉川奈々福さんが天保水滸伝の新作を発表しました。
飯岡で大海難事故が起き漁夫が全滅しかけた際に助五郎が故郷の三浦から男を集めてきて飯岡の漁業を復興させたエピソードを中心に、伊藤桂一の小説を下敷きにして浪曲に仕立てました。
それまで浪曲では悪役一辺倒だった助五郎が、情と度胸のある魅力的な男として描かれています。特に、助五郎が岩井滝不動の賭場に目をつけたのは、単に強欲だったわけではなく、飯岡を救うために拵えた莫大な借金を返すための苦肉の策だったとしているところが肝で、助五郎の義侠が繁蔵との抗争に発展したという流れを従来の浪曲のストーリーの文脈に追加した点で意義のある作品だと思います。

玉川奈々福『亡霊剣法』
同名の伊藤桂一の小説を玉川奈々福さんが浪曲化。
平手造酒を主人公とする怪談っぽいテイストのある新作です。

現代の浪曲天保水滸伝について以下を別ブログ『現代の大衆演芸(講談・浪曲・大衆演劇)における「天保水滸伝」 体験記』でレポートしています。
◆2014年7月5日 玉川奈々福・玉川太福「奈々福・太福のガチンコ!浪曲勝負 天保水滸伝の巻」(於:なってるハウス)
◆2015年3月7日~8日「天保水滸伝の里めぐりツアー」
◆2016年3月26日「天保水滸伝の里めぐりモニターツアー」
◆2016年10月22日 神田愛山・玉川奈々福・玉川太福・神田松之丞「講談と浪曲で聴く天保水滸伝」(於:東庄町公民館大ホール)
◆2017年8月11日~16日 玉川太福 「朝練講談会 灼熱の六日間連続読みの会」(於:お江戸日本橋亭)
◆2019年4月24日・25日 玉川奈々福・玉川太福「二人天保水滸伝」(於:木馬亭)
◆2019年6月19日 玉川奈々福 新曲「刀剣歌謡浪曲 舞いよ舞え」発売
◆2019年8月10日~11日 「天保水滸伝の里めぐりツアー」
■映画
関連する映画も多く製作されました。平成5年に千葉県大利根博物館で開催された「天保水滸伝の世界」展の図録より「『天保水滸伝』関係映画一覧」にある46タイトル(戦前30・戦後16を記載します。なお、東庄町観光会館に掲示してある「天保水滸伝関連映画(戦前・戦後)」という表には戦前34作、戦後34作の映画のタイトルが記載されております。こちらの方がより詳細な調査に基づいて作成された表のようで、「関の弥太っぺ」(4作)や座頭市を主人公とした映画(3作)など設定に天保水滸伝の世界を用いた映画もカウントしています。観光会館の資料によると、戦前映画でみるとタイトルに一番名前がでてくるのが勢力富五郎で9作、次が平手造酒で8作となっています。前述しましたように天保水滸伝が誕生してしばらくは勢力富五郎が主役であり人気のキャラクターであったことがここからもうかがわれます。
<「天保水滸伝」関係映画一覧>
大正3(1914)「天保水滸伝」日活
大正5(1916)「笹川繁蔵」日活
大正7(1918)「勢力富五郎」松竹
大正8(1919)「勢力富五郎」日活
大正10(1921)「勢力富五郎」松竹
大正12(1923)「勢力と飯岡」帝キネ
大正13(1924)「笹川繁蔵」東亜
大正14(1925)「平手造酒」松竹
昭和2(1927)「平手造酒」東亜
昭和2(1927)「平手造酒」帝キネ
昭和2(1927)「天保悲剣録」松竹
昭和3(1928)「平手造酒」日活
昭和5(1930)「天保水滸伝」マキノ
昭和5(1930)「平手造酒」河合
昭和6(1931)「平手造酒」松竹
昭和6(1931)「天保水滸伝」帝キネ
昭和7(1932)「血戦大利根の暁」帝キネ
昭和7(1932)「勢力富五郎」河合
昭和7(1932)「闇討渡世」千恵プロ
昭和8(1933)「白衣鬼剣録-平手造酒」新興
昭和9(1934)「天保水滸伝」新興
昭和9(1934)「平手造酒」日活
昭和9(1934)「大利根の朝霧」宝塚
昭和9(1934)「血戦大利根嵐」日活
昭和10(1935)「利根の川霧」千恵プロ
昭和11(1936)「天保水滸伝」全勝
昭和12(1937)「平手造酒」今井
昭和13(1938)「血戦阪東太郎」大都
昭和14(1939)「春秋一刀流」日活
昭和15(1940)「天保水滸伝」大都
昭和23(1948)「遊侠の群れ」松竹
昭和25(1950)「大利根の夜霧」新東宝
昭和26(1951)「平手造酒」新東宝
昭和27(1952)「利根の火祭」大映
昭和28(1953)「血闘利根の夕霧」松竹
昭和29(1954)「平手造酒」日活
昭和29(1954)「関八州勢揃い」新東宝
昭和30(1955)「大利根の対決」日活
昭和32(1957)「関八州大利根の対決」新東宝
昭和33(1958)「天保水滸伝」松竹
昭和34(1959)「血闘水滸伝怒涛の対決」東映
昭和35(1960)「大利根無情」松竹
昭和37(1962)「座頭市物語」大映
昭和38(1963)「利根の朝焼け」東映
昭和40(1965)「天保遊侠伝代官所破り」東映
昭和51(1976)「天保水滸伝」大映
□座頭市
昔、「市」という風来坊の人物が飯岡にやってきて、助五郎の子分のようなことをやっていた。市は目が見えなかったが、枡を放り投げて落ちてくるところを斬るという芸当はできた。若い娘といっしょになってしばらく飯岡に滞在していたが、助五郎のことが嫌になってこの土地を去った。
「遊侠奇談」の作者子母澤寛が、天保水滸伝のことを調べに飯岡を訪れた際、宿屋のおやじからこの話をききました。これをヒントにして子母澤寛が「座頭市」の話を作り、それが映画化されて人気となりました。

座頭市物語発祥の地の標柱(飯岡 玉崎神社前)

座頭市物語の碑(飯岡)
東日本大震災で津波が飯岡を襲ったとき、この碑につかまって助かった方がいたとのことです。
「座頭市物語」
1962年「座頭市」シリーズの第1作映画が公開されました。
監督:三隅研次、座頭市:勝新太郎、平手造酒:天知茂
日光で知り合った縁で座頭市が飯岡助五郎一家を訪ねる。飯岡一家は笹川一家と抗争中。助五郎は居合の達人の市を一家に迎い入れる。一方笹川一家では江戸から来た剣豪平手造酒が用心棒となる。ため池の釣り場で、市と平手造酒は偶然知り合う。平手は市がただ者ではないこを見抜き、やがて二人の間に友情が芽生える。市は労咳の病が進行している平手を気遣う。
平手が病に倒れたことを知った飯岡一家は笹川への喧嘩出入りを決める。それを知った平手は病をおして笹川の喧嘩場に出向き、飯岡一味を次々に斬る。そこに現れた座頭市に平手は真剣勝負を願い出る。「死に土産に平手造酒と座頭市の真剣勝負がしたい。貴公もわしの太刀筋を知りたくはないか」「やるからには後へは引けませんよ」橋の上で座頭市と平手造酒の一騎打ちが始まる。
ざっとこのような展開です。座頭市は一宿一飯の恩義で笹川には出向いたのではない、むしろ助五郎一家のふるまいを見てやくざ稼業に愛想が尽きた、というのがポイントです。終始筋が通った、それ故に悲哀を背負うしかない座頭市を勝新太郎が好演しています。
■演劇(戦前)
平成5年に開催された千葉県立大利根博物館特別展「天保水滸伝の世界」の展示図録に天保水滸伝関係演劇年表が載っていました。1867(慶應3)年から1989(平成元)年にかけての天保水滸伝関係の公演が並んでいます。大正期以降大衆文化が栄えてからは日本国中の至るところで、記録にも残らないものも含め、多くの天保水滸伝の芝居がかかったことと思います。この表がどのような方法と基準でピックアップしたものかわかりませんが、明治期の歌舞伎の情報などは貴重ですので、ここに戦前の部分のみ記載いたします。
慶應3 守田座「群清滝贔屓勢力」河竹黙阿弥作
明治8 守田座「夜講釈勢力譚話」河竹黙阿弥作
明治14 南座「天保水滸伝」
明治21 千歳座「夜講釈勢力譚話」河竹黙阿弥作
明治29 市村座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治31 演伎座「群清滝贔屓勢力」河竹黙阿弥作
明治33 東京座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治39 明治座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治39 東京座「天保水滸伝」
大正13 公園劇場「平手造酒」
大正13 常盤座「天保水滸伝」
大正14 末広座「天保水滸伝」
大正14 常盤座「笹川繁蔵」
昭和5 角座・演舞場「天保水滸伝」
昭和5 歌舞伎座「笹川一家」
昭和8 角座「天保水滸伝」
昭和14 浪花座「天保水滸伝」出演:中野弘子
前述のとおり、天保水滸伝の演芸における初期の主役の座は勢力富五郎にありました。黙阿弥は勢力を主人公とする歌舞伎を3作作ったようですね。

明治8年「夜講釈勢力譚話(よごうしゃくせいりきばなし)」
戦前の新聞で天保水滸伝の演劇公演の記事が載っていないか探したところ、上記の公演に触れているものがみつかりました。
明治21年7月13日読売新聞
千歳座 同座の二番目狂言天保水滸伝の場割りは栗林縄手の場、勢力住居の場、明神山鉄砲腹の場、鎮守祭礼喧嘩の場にて其役割は水島左門「高福」白滝佐吉「家橘」奇妙院「彦十郎」暗闇の牛蔵「鶴五郎」子分文二「仁三郎」同甚兵衛「幸右衛門」飯岡捨五郎「我堂」下女お虎「芝次郎」勢力富五郎「芝翫」なり又中幕の郷の君と娘しのぶは和三郎の役なりしが今度鶴松勤める事になりしという
大正13年12月22日読売新聞
常盤座の同志座劇二の替わり天保水滸伝は精々目先の変る盛沢山、金井の平手造酒は大菩薩峠の机竜之助の如く、森栄治郎の笹川繁蔵、月形半平太のような処があるかと思うと清水の次郎長然たる箇所もあり、国定忠治じみた点もあるなどは、まるでよせ木細工。
この記事から、新国劇(大正6年結成、大正8「月形半平太」、大正8「国定忠治」、大正10「大菩薩峠」)が当時人気を博していたことが間接的にわかります。
■歌謡曲
天保水滸伝を題材としてヒットした歌謡曲です。
大衆演劇でも舞踊ショーの歌として、また劇中挿入歌としてとても使用頻度が高かったと思われます。
『大利根月夜』 唄:田端義夫
昭和14年10月、東海林太郎の「名月赤城山」と同時に発売されました。国定忠治VS天保水滸伝の股旅物歌謡曲の対決となりました。東海林太郎はすでに昭和9年の「赤城の子守唄」のヒットの実績がありましたが、田端は新人です。この勝負、どちらも大ヒットという結果になりました。
「あれを御覧と指さす方に~」という歌い出しは大衆演劇ファンの耳にこびりついているでしょう。
三番の歌詞の最後に「故郷(くに)じゃ妹が待つものを」とありますが、平手造酒に妹がいるというのは作詞の藤田まさとの創作です。
『大利根無情』 唄:三波春夫
昭和25年に発売された三波春夫のヒット曲。大衆演劇における天保水滸伝のイメージはこの歌に凝縮されているのではないでしょうか。
「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散り際だけは知っており申す。行かねばらなぬ、そこをどいてくれ、行かねばならぬのだ~」というセリフに合わせて、これまでにどれほど多くの役者が踊ったことでしょう。
■大衆演劇
浪曲、映画で人気があった話は当然旅役者による芝居の演目となりました。現在でも大衆演劇においては平手造酒、笹川繁蔵、飯岡助五郎が登場する芝居が残っています。
現在定番演目としてよくかかっている芝居は「笹川の花会」と「三浦屋孫次郎」でしょう。座頭市と平手造酒の二人を主人公とした芝居も昔から演じられています。南條隆とスーパー兄弟は独自の天保水滸伝新作を積極的に発表していますね。
以下、私が観たことのある芝居の一部を紹介します。
『笹川の花会』
飯岡助五郎の子分、洲崎の政吉が主人公。
【芝居あらすじ】
笹川繁蔵主催による花会の案内状が助五郎に届いた。花会というのは親分だけが集まる博奕の会で、近隣の親分衆を集めるとあって主催する親分にとっては名をあげる大きいチャンス。花会には各親分が大金を持ち寄る。繁蔵は飢饉に困窮する農民を救うという名目で花会を開いたのであった。
助五郎は敵対視している繁蔵が開く花会がおもしろくない。子分の洲崎の政吉に代理出席を命じて義理(奉納金)として5両というはした金を託す。
会場の十一屋に赴く政吉。国定忠治・大前田英五郎といった大侠客も来ている。各親分が持参した義理が貼り出される。どれも五十両・百両といった大金である。親分の名代としてわずかな金しか持参しなかった政吉は、身が縮む思いで義理の金額が発表されるのを聞いている。が、政吉はそれを聞いて驚いた。飯岡助五郎金100両、代貸洲崎の政吉金50両、飯岡若衆一同金50両との発表。政吉はこれが繁蔵のはからいだと気づく。
というのが基本的な話です。大衆演劇ではこれにさまざまなバリエーションがあるようです。最後に白無地の単衣を着た平手造酒と政吉が一騎打ちするというものもあります。
【史実は】
十一屋は当時は商人宿で回船問屋も兼ね家の前には馬つなぎ場などがあり渡世人はここをよく利用していたそうです。繁蔵はよくここにいました。

十一屋のあったところ。右は桁沼側。左手近くに諏訪明神がある。
天保13年の7月27・28日の諏訪明神の祭礼日に、繁蔵は、境内に相撲の租、野見宿禰の碑を建てるという名目で花会を催しました。この花会に誰が出席したかははっきりしません。芝居では、国定忠治・清水次郎長・大前田英五郎など大侠客が出席し、忠治が政吉に対して助五郎本人が来ないことを罵るという場面があります。しかし役人に追われて転々と逃亡していた忠治のもとに花会の案内状が届いて忠治が下総まで出かけたということがあるでしょうか。また次郎長はこのとき22歳で一家をかまえる前ででる。大侠客が出席したというのは作り話でしょうけれど、芝居としては面白いです。脇役にも貫禄ある有名な親分が幾人も出てくるので、座長大会の芝居に向いていると思います。
『三浦屋孫次郎』
大衆演劇ではよくかかる定番演目です。
【あらすじ】
助五郎は繁蔵の闇討ちをたくらみ、その遂行を子分の三浦屋孫次郎に命じるが、孫次郎は断る。7年前に母と妹を連れて銚子の五郎蔵に紹介された助五郎を訪ねて旅をしていた。その途中で母が持病で苦しんでいた際に繁蔵に助けてもらったろいう恩義が孫次郎にはあった。助五郎は7年間の義理と1度の義理は天秤にかけたらどちらが大事だと詰問し、孫次郎は闇討ちを承諾する。助五郎は成田屋を後見にさせる。
ある夜。孫次郎は繁蔵に斬りかかる。しかしそれは本気ではない。孫次郎は繁蔵にわざと斬られるつもりでいる。そこに成田屋が背後から現れ繁蔵を斬る。
虫の息の繁蔵は、恩義のために自分の命を捨てようとした孫次郎に、自分の首を助五郎のもとに届けて義理を立てた後にその首を笹川一家に届けてほしいと頼む。
成田屋が助五郎に孫次郎を裏切ったことを告げる。孫次郎は繁蔵の首を助五郎に渡しに行くが、助五郎から盃を水に流すと言われ、母妹ともにこの土地から出て行けと命じられる。
繁蔵の妻が葬儀の準備をしているところに正装の孫次郎が訪れる・・・。
『座頭市と平手造酒』
いくつかの劇団が座頭市と平手造酒が登場する芝居をたてていると思いますが、ここでは私が観た恋川劇団のものを紹介します。上述した映画「座頭市物語」を下敷きとしています。
飯岡助五郎一家に迎えられた座頭市と笹川一家の用心棒平手造酒は、両一家の争点にある釣りの良場で偶然出会う。二人がお互いの立場が敵同士であると知りながらも意気投合し平手が住む尼寺で酒をくみかわす。飯岡一家も笹川一家も用心棒を道具のようにしか思っておらず、用が済めば捨てるつもり。座頭市も平手も一家に服従するつもりはないが一宿一飯の恩義には報いる覚悟。労咳の平手は自分の余命がわずかなこと悟っており、どうせ死ぬのならつまなぬ者の手にかかるより本当に強い者との勝負のうえ斬られたいと願っている。大利根河原の決闘が始まった。双方の一家の用心棒、座頭市と平手造酒は大利根河原で対面する。平手に好意をもっている座頭市であったが、平手の死への思いを諒解する。座頭市と平手の真剣勝負が始まる…。
2019.9 新開地劇場 座頭市:二代目恋川純 平手造酒:恋川風馬
2020.3 浅草木馬館 座頭市:二代目恋川純 平手造酒:初代恋川純
『大利根月夜』
鹿島神宮の祭礼。平手は酒を飲むことを禁じられていたが、お神酒ならいいだろうと飲んでしまう。飯岡の一味が通りかかった際に、平手の酒に埃が入ってしまう。平手は飯岡一味をやっつける。
飯岡助五郎が惚れた女は繁蔵の子分とできていた。そこから喧嘩がおこりそうになるが平手が仲裁する。
労咳にかかり尼寺で養生する平手。平手を千葉周作道場の娘の早苗が訪ねる。夫の兵馬が変わってしまい道場が落ちぶれたので平手に帰ってきてほしいと告げるが平手は断る。出入りがあることを知った平手は繁蔵のもとに駆けつける。
笹川と飯岡の決闘。兵馬は飯岡の用心棒になっていた。平手と兵馬の一騎打ち。兵馬は負けるが平手も深手を負う。平手は繁蔵の腕の中で息をひきとる。
鹿島の棒祭りの場面は講談や浪曲では定番ですが大衆演劇でかかるのはかなり珍しいでしょう。
■長谷川伸作品と天保水滸伝
長谷川伸原作の「瞼の母」「関の弥太っぺ」は大衆演劇の演目としてもおなじみです。どちらの話も物語背景に天保水滸伝を借りています。
□瞼の母
大衆演劇では水熊横丁の場面から始まることが多いと思いますが、原作戯曲では第一場は次のような場面から始まります。
飯岡助五郎の身内の喜八と七五郎が、江戸川沿岸金町にある瓦焼をしている惣兵衛の家を訪ねる。二人は惣兵衛の弟の半次郎を探している。
前の年に繁蔵が助五郎の身内に殺された。その仕返しとして、笹川一家の身内のやくざ2名が助五郎を斬りに行った。それが番場の忠太郎と金町の半次郎。助五郎は掠り傷で済んだが、助五郎身内の友蔵、金四郎が死んだ。喜八と七五郎はその敵討ちのため、半次郎を追ってここまで来たのである。
半次郎の身を案じて、忠太郎も瓦焼の家を訪ねるが、半次郎の妹や母は、半次郎は家にいないと必死に隠す。忠太郎はその親身の情を羨ましく思い、わが身の悲しさ憂う。
忠太郎は、半次郎とともに、喜八と七五郎を返り討ちにする。
忠太郎は紙に「この人間ども 叩ッ斬ったる者は江州阪田の郡 番場の生れ忠太郎」と書くが、字を知らない忠太郎は、半次郎の母に手をとってもらう。その際忠太郎は母を思い出して涙ぐむ。
ちなみに映画「瞼の母」(昭和37年、加藤泰監督)は金町の半次郎(松方弘樹)が飯岡助五郎に斬り込みにゆく場面から始まっています。
□関の弥太っぺ
主役は関の弥太っぺこと弥太郎。準主役が箱田の森介。
戯曲には天保水滸伝でおなじみの人物、笹川繁蔵、勢力富五郎(戯曲では留五郎)、清滝の佐吉、神楽獅子の大八がでてきます。
下総菰敷の原。夜更け。神楽獅子の大八は子分数名を従えて繁蔵を待ち伏せしている。
一方、清滝の佐吉のもとに草鞋を脱いでいた森介と、勢力留五郎のもとに草鞋を脱いでいた弥太郎は今晩勝負をつけることを決めており、それぞれやっかいになった家を出る。佐吉と留五郎が見守る中、森介と弥太郎の一騎打ちが始まる。そこに籠に乗った繁蔵が通りかかる。繁蔵の口ききで森介と弥太郎は仲なおりする。一同は歩いて帰ってしまい、大八の待ち伏せは失敗する。
【あとがき】
忠臣蔵(義士伝)は講談・浪曲・映画・芝居・テレビなど大衆芸能・大衆娯楽によって国民に広く親しまれた物語です。しかし昨今では「国民的物語」というほど広く認知されなくなったように思います。どうしてそうなったのでしょうか。
物語の内容が現代の世相に乖離してきたからという見方が一般的なのかもしれませんが、私は芸能や娯楽に親しむ人々の「楽しみ方」が変わってきたからという側面もあるような気がします。
義士伝に親しんでいた人たちは<自分の義士伝の世界>をそれぞれの心の中に持っていたのだと思います。芸能や映画を通じて義士伝に触れる楽しさは、自分の中の義士伝の世界が広がったり変容したりしてゆく楽しさだったのではないでしょうか。だから同じネタであっても、それが自分の中の世界を色濃くしてくれるものであれば、何度見ても飽きることがない。いろいろな脚色があってもバリエーションとして楽しむことができる。銘々伝など脇役の話もさらに世界が広がって面白い。寄席や映画館に足を運ぶ人々の胸中には、自分の中の物語を育てる楽しみがあったのではないでしょうか。多くの人々が育てて楽しんだ物語こそ国民的物語といえるのだと思います。現代の消費文化では、暮らしの中でたまに思い出したりしながら長い月日をかけて育てるという悠長な楽しみ方はそぐわないのかもしれません。また、物語を育てる楽しみがあっても、その世界に触れる機会が身の回りにないと継続してゆきません。上演・上映の機会が減る→育てる楽しみがそがれる→人気が落ちる→上演・上映の機会が減る、という負のスパイラルも義士伝の人気の衰退の一因のように思います。
天保水滸伝もかつては国民的物語だったのだと思います。かつてのように誰でも知っている物語として人気がよみがえることもないと思います。しかし大衆演芸好きな人々にとっては、おなじみの演目であり自分の中で育てて楽しむ物語であり続けてほしいと私は願っています。しかし現在の大衆演劇では天保水滸伝関係の演目は人気がないのかあまり上演されないのが残念です。
このブログは、大衆演劇ファンの方がもっと天保水滸伝を楽しむきっかけになればという思いから作成しました。大衆演劇は将来の衰退があやぶまれています。何度見ても楽しめて自分で育ててゆけるような物語を劇団とお客さんが共有することはその活路のひとつではないでしょうか。
□参考文献

「遊侠奇談」子母澤寛
「任侠の世界」子母澤寛
「実禄天保水滸伝」野口政司
「天保水滸伝余録」
「飯岡助五郎正伝」伊藤實
「大原幽学と飯岡助五郎」高橋敏
「博徒の幕末維新」高橋敏
「考証天保水滸伝」今川徳三
「関東侠客列伝」加太こうじ
「民衆文化とつくられたヒーローたち-アウトローの幕末維新史-」
千葉県大利根博物館特別展「天保水滸伝の世界」図録
「八州廻りと博徒」落合延孝
「国定忠治」高橋敏
「河岸に生きる人びと」川名登
「利根川東遷」澤口宏
「笹尾道場と幕末剣士」青柳武明
「浪花節繁盛記」大西信之
「話藝-その系譜と展開」
その他いくつかの書籍を参考にしました。
また小説として次の本を読みました。
「巷説天保水滸伝」山口瞳
「私家版天保水滸伝」高橋義夫
「天保水滸伝」柳蒼二郎
「燃える大利根」伊藤桂二
巷説天保水滸伝は飯岡助五郎と笹川繁蔵がどちらもとても魅力的に描かれており、天保水滸伝に興味がある方に是非おすすめしたい小説です。
2021.8.1最終更新
飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒は講談・浪曲・大衆演劇でおなじみの人物です。私は大衆演劇がきっかけで知りましたが、大衆演劇を観始めた頃の私には予備知識がなく、これらの人物がなぜよく芝居に登場するのかがわかりませんでした。
その後、関連する映画や浪曲などに触れるようになって、これらの話は実際の出来事が元になっており、「天保水滸伝」という名でかつての日本で人口に膾炙していた物語だと知りました。
そこで天保水滸伝について基本的なことをおさえておこうと思ったのですが、わかりやすくまとまっている文章がなかなか見つかりませんでした。
同じような思いをしている大衆演芸ファンが他にもいるのではないかと思い、私のわかる範囲で天保水滸伝についてまとめてみました。また、飯岡・笹川を訪ねた時の写真もあわせて掲載します。(飯岡・笹川・銚子の旅のブログはこちら)
【もくじ】
※項目をクリックするとその項へ移動します
≪史実編≫
■主な人物
■場所
■時代
■なにが起こったか
助五郎と繁蔵/助五郎、岩井不動で闇討ちにあう/笹川の花会/繁蔵・富五郎の召し捕り状/繁蔵、助五郎宅を襲う/飯岡勢、笹川へ/飯岡方の惨敗、深喜の死/繁蔵の放浪、助五郎の入牢/笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす/勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
■人物伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒
■時代背景
飯岡・笹川の繁栄/なぜ博徒が多かったのか/関東取締出役(八州廻り)の設置/二足の草鞋
≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
■近世侠義伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒/勢力富五郎/清滝佐吉/夏目新助/洲崎政吉/神楽獅子大八/荒生留吉
■講談
戦前戦後の講談
現代の講談
■浪曲
二代目玉川勝太郎
二代目玉川福太郎
玉川奈々福
■映画
座頭市
■演劇(戦前)
■歌謡曲
■大衆演劇
■長谷川伸作品と天保水滸伝
瞼の母/関の弥太っぺ
≪史実編≫
■主な人物
【飯岡方】
・飯岡助五郎(いいおかすけごろう)
…飯岡一家の親分
・洲崎の政吉(すのさきのまさきち)=永井の政吉
…助五郎一の子分
・石渡孫治郎(いしわたりまごじろう)=三浦屋孫次郎
・堺屋与助(さかいやよすけ)
…助五郎と妾の子
・成田の甚蔵(なりたのじんぞう)
…政吉・孫次郎・与助・甚蔵が助五郎の四大子分である。
【笹川方】
・笹川繁蔵(ささがわしげぞう)
…笹川一家の親分
・勢力富五郎(せいりきとみごろう)
…本名柴田佐助 繁蔵一の子分
・清滝の佐吉(きよたきのさきち)
…繁蔵の子分
・夏目の新助(なつめのしんすけ)
…繁蔵の子分
・平手造酒(ひらてみき)
…浪人。笹川一家の用心棒
【その他】
・銚子五郎蔵(ちょうしのごろぞう)
…本名木村五郎蔵、十手を預かる銚子の大親分
・荒生の留吉(あらおいのとめきち)
…助五郎の出入りを繁蔵に内通した
■場所
舞台となったのは下総(現千葉県)の飯岡と笹川。
現在の地名では、飯岡は旭市、笹川は東庄(とうのしょう)町にあります。
利根川沿いに笹川、九十九里浜の東端に飯岡があります。

■時代
下の表は、飯岡助五郎・笹川繁蔵・勢力富五郎のそれぞれの生涯を棒グラフ状にして、彼らの生きた年代を示したものです。棒の下に書いてある数字は死んだ時の年齢です。助五郎は繁蔵より18歳年上ですが、繁蔵よりだいぶ長生きしました。
参考までに、大衆演劇でおなじみの国定忠治・清水次郎長・森の石松の生涯も並べてみました(石松は半架空の人物なので死んだ年のみわかるように表記しています)。大衆演劇の人気者はほぼ同時代に生きた人物でした。
平手造酒の生年は不明ですが、天保15年の飯岡・笹川の決闘により命を落とした際の検死記録では37,8歳と記されています。

※勢力富五郎は生まれがもっと早く、死んだとき37歳だったという説もあります
■なにが起こったか
天保水滸伝はどのような史実が元になっているのでしょうか。飯岡・笹川の一件にはさまざまな話が残されており、事実と作り話を区別することは困難です。でも事実がどうだったかを探求した方々による書籍はいくつかあります。それらを読み、大衆演芸において創作されたのであろうと思われる逸話を排除することに留意しつつ、私の思う史実をまとめてみました。
□助五郎と繁蔵
飯岡助五郎は九十九里浜沿いの漁村飯岡の網元であると同時に一帯を仕切る博徒の親分。関東取締出役の道案内として十手を預かる身でもある。
笹川繁蔵は利根川の水運で栄える笹川河岸に住む売り出し中の親分。
助五郎、繁蔵ともに元相撲取り。気心が通じたのか二人は親密になり金を融通しあうなどしていた。十八歳上の助五郎は繁蔵の面倒をよくみた。
繁蔵は、助五郎と妾の間に生まれた長男堺屋与助に羽斗村次郎左衛門の娘お万(お政)を女房に世話した。
□助五郎、岩井不動で闇討ちにあう
しかし博徒に勢力争いはつきもの。大親分となった助五郎と繁蔵との間に縄張りをめぐって緊張関係が生まれるようになった。そんな争点の一つに清滝村の岩井不動があった。この賭場は清滝の佐吉が父親から譲り受けたものとも言われている。ここの縁日で行われる博奕では莫大なテラ銭が入る。助五郎が勢力を広げるなか、若い佐吉には縄張りを維持する力がなく、岩井不動の賭場は自然と助五郎の縄張り下となった。清滝の佐吉は助五郎の対抗勢力の繁蔵の子分となった。清滝の隣村の万歳村に佐吉と同年代の佐助がいた。佐助は江戸に行き勢力富五郎という力士となったが、やがて故郷に戻り繁蔵一家に加わった。
ある日助五郎は、岩井不動で博奕をうった帰りに何者かに背中を斬られた。助五郎は田んぼの中に突っ伏したまま死んだふりをした。結局この闇討ちの下手人が誰かはわからなかったが、犯人は笹川方の佐吉か富五郎の身内に違いないと助五郎は睨んでいた。

岩井滝不動(龍福寺)
□笹川の花会
1842(天保13)年、諏訪明神の例祭日に、繁蔵は相撲の租野見宿彌命(のみのすくねのみこと)の碑を建てるという名目で花会(博奕の大会)を笹川の宿「十一屋」で開いた。
この花会の詳細はよくわかっていない(大衆芸能としては後述)。
元力士で相撲の興行権を持っている助五郎にはこれが気に入らなかったのかもしれない。助五郎は欠席し、名代として子分の洲崎の政吉が出席したと言われている。
この頃から助五郎と繁蔵の関係は険悪になっていったようである。

野見宿彌命の碑(笹川 諏訪大神)

博奕で使われた駒札(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)
□繁蔵・富五郎の召し捕り状
1844(天保15)年、飯岡村が属する大田村三十五カ村寄場組合の申し出により関東取締出役から笹川繁蔵・勢力富五郎他の召し取りの御用状がくだされた。関東取締出役の道案内である助五郎が召し捕ることとなった。召し捕り状は8月3日に村役人に、8月4日に助五郎に渡った。助五郎は5日に召し捕りに向かうことにした。
□繁蔵、助五郎宅を襲う
これを繁蔵と親しい荒生の留吉が知って繁蔵に知らせた。8月4日の深夜、繁蔵は富五郎ら4,5人を連れて先制攻撃を仕掛け助五郎の家を襲った。助五郎は指に軽傷を負ったが玉崎神社に逃げ込み無事であった。

飯岡 玉崎神社にある助五郎の碑
□飯岡勢、笹川へ

助五郎は5日、子分を集めて繁蔵の召し捕りに出立した。総勢22名(50名説もあり)。助五郎は、襲撃の後に繁蔵が銚子に向かったと考えた。7時頃銚子に向かって出発し、途中猿田村の源次郎の所で休息した。休んでいる間、源次郎が繁蔵の消息を調べたところ、銚子にはいなくて笹川に戻っていることがわかった。助五郎は松岸村まで行き、昼飯を食べてから舟で忍村へ移動し、子分の博多川のところへ寄った。助五郎らが夜半まで休息をとっている間、博多川が船頭を手配した。助五郎は腹ごしらえを済ますと舟で笹川に向かった。

笹川付近から見た利根川
助五郎が召し捕りに向かっているという知らせは繁蔵の耳にも入っていて、繁蔵と子分たちは槍などをそろえて周到に用意していた。数日前から笹川勢は拠点を西光寺に構えていたが、6日の早朝は延命寺や繁蔵の家にも子分がいた。
6日、船中の助五郎は夜明けを確認すると笹川河岸に舟をつけた。

現在の笹川漁港
河岸にいた見張りから助五郎踏込の知らせが笹川方にもたらされ、笹川一味は身を潜めた。飯岡方は「御上意、御上意」と叫びながら繁蔵宅に踏み込んだ。繁蔵宅で待ち構えていた者と延命寺に潜んでいた者(あわせて20人足らず)が飛び出して喧嘩が始まった。療養をしていた平田深喜も知らせを受けて現場へ駆けつけた。繁蔵と仲の良かった廻船問屋が屋根の上で爆竹を鳴らして「鉄砲だ」と叫び、飯岡方はひるんだ。笹川方には加勢も加わって、飯岡方はだんだんと劣勢となり退却を余儀なくされた。飯岡方は舟で野尻まで退却した。
□飯岡方の惨敗、深喜の死
この召し捕り失敗で飯岡方は3人が即死した。助五郎一の子分、洲崎の政吉は退却途中の船中で死亡した。他に4名が負傷した。
笹川方は平田深喜が重傷を負ったのみであった。平手は十一か所も斬られていた。医者が手当したが翌日に息をひきとった。

平手造酒の墓(笹川 延命寺 昭和3年建立のもの)

墓には酒が手向けられている
□繁蔵の放浪、助五郎の入牢
召し取りに失敗した助五郎が追手を回すに違いないと察した繁蔵は、子分たちに有り金を渡して逃げるよう指示して自身も放浪の旅にでた。繁蔵がどこに向かったのかはわかっていない。
助五郎は関東取締出役から召し取り失敗の責任を問われ牢屋に入れられた。
助五郎は釈放され再び十手を任される。
□笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす
1847(弘化4)年、ほとぼりが冷めたとみた繁蔵は笹川に戻った。子分らが再び集まり、笹川方はかつての勢いを取り戻し始めた。
助五郎は前回の失敗があるので容易には繁蔵には手は出せない。息子与助の妻の父の岩井常右衛門に繁蔵の動向を報告させた。
7月4日の夜、繁蔵は博奕を終え、妻のお豊のところへ向かった。途中には小川が流れており、ビャク橋という橋がかかっている。繁蔵はここで待ち伏せしていた三浦孫次郎、堺屋与助、成田甚蔵に襲われて命を落とす。繁蔵の首は落とされ、胴体は利根川に流された。首は飯岡に持ち帰られた。

ビャク橋跡
この闇討ちは3人が無断で決行したものであり助五郎は知らなかった。正攻法で繁蔵を捕えようと考えていた助五郎は、子分が持ち帰った繁蔵の首を見て驚いた。助五郎はこのことを秘密にして繁蔵の首を定慶寺に埋めた

笹川繁蔵の首塚(飯岡 定慶寺)
□勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
親分を失った笹川方は、一の子分勢力富五郎が跡目を継いだ。
この頃関東では博徒による悪行が横行し、無宿者を取り締まるお触書が通達されていた。富五郎は親分を抹殺した助五郎および関東取締出役を憎んでいた。鉄砲を武器に武闘派の一軍を結成してお上の権威に歯向い、助五郎の一味は悪逆非道を重ねた。
ついに1849(嘉永2)年3月8日、5名もの関東取締出役が動き、周辺76カ村の役人に勢力召捕の協力を求めた。5,600人もが集まり大捕物を展開したが、富五郎は逃げ隠れ、関東取締出役の鼻をあかした。
4月、新たな召捕作戦により富五郎は追い詰められてゆく。富五郎は小南村の金毘羅山に逃げ込んだ。4月28日、子分と2人となった富五郎は、お縄にかかるよりはと自決の道を選ぶ。ついに富五郎は鉄砲で自殺した。残ったわずかな子分、夏目の新助や清滝の佐吉らも捕えられて江戸送りとなり、小塚原で処刑され笹川方は全滅した。

金毘羅山

勢力富五郎自刃跡(笹川 金毘羅山)
■人物伝
□飯岡助五郎
1792(寛政4)年、相模国三浦郡公郷村山崎(現在の横須賀市三春町)という小さな漁村に生まれる。本姓は石渡(いしわた)。18才の頃、相撲取りを志願して江戸に渡り、綱ヶ崎を名乗るが、親方が死んでしまい、1年程度で廃業した。

助五郎の生家があったところ。今でも近くには石渡姓の家が多い。
その後上総国作田浜の網元のところで猟師として雇われる。頼りの網元が死んでしまい、漁夫仲間とともに飯岡に移る。仕事に精を出しつつも、ずぬけた腕力でヤクザ者を打ち負かす助五郎は兄貴と呼ばれるようになり、やがて船頭になった。漁夫は時化で休みのときは博奕に興じ、助五郎もこれに深くかかわった。博奕場で喧嘩が起これば仲裁して納め、助五郎は男としての貫禄をあげていった。
助五郎は網元半兵衛に見込まれてその娘すえと結婚した。また、助五郎は茶屋女のサイとも深い仲になり、サイとの間には与助という子供をもうけた。
飯岡は銚子の大親分五郎蔵の勢力圏にあった。漁業に精を出しながら博徒として売り出していた助五郎は五郎蔵の子分となり、代貸として賭場の取り締まりをまかされた。助五郎が30歳の頃、五郎蔵の縄張りのうちから飯岡を譲り受け、飯岡一帯の親分となった。
また、銚子の五郎蔵と同じく、関東取締出役の下で働く道案内人を任じられ、助五郎は二足草鞋の親分となった(年代は不明)。

五郎蔵と助五郎が寄進した大釜(銚子 円福寺)
漁業においては、義父の援助を受けて、生まれ故郷の名をとって三浦屋という網元を立ち上げた。助五郎は、漁業の三浦屋を本妻のすえに、博徒の仕事を妾のサイに任せ、二人のもとを往来した。
助五郎は飯岡の漁業の振興につくした。大規模の地引網には水夫が60~70人、浜で綱を引く岡者が200人必要であった。助五郎は、博奕や喧嘩が好きな気性の荒い水夫たちを束ね存在感を高めた。飯岡浜では海難事故が絶えなかった。事故が起これば残された家族は暮らしに困るし、数十人の命が奪われる大きな事故の場合は飯岡の漁業の危機となる。ある時助五郎は故郷の三浦半島に出向き、若い漁師を大勢引き連れて帰ってきた。未亡人には新しい亭主を引き合わせ、飯岡の漁業も救った。
幕府は娯楽について一切禁じていたが、相撲興行だけは認めていた。もと力士の助五郎は相撲に感心が強く、天保十一年に江戸相撲会所から相撲の興行権を得た。相撲の興行は収入面でも勢力誇示の面でも助五郎の存在を大きいものにした。
笹川繁蔵との一件の後、助五郎は一家を息子の堺屋与助に譲る。助五郎は68才で畳の上で大往生を遂げた。
大衆芸能においては繁蔵に対する「悪役」として描かれている。

飯岡助五郎の墓(飯岡 光台寺)
□笹川繁蔵
本名は岩瀬。岩瀬家は代々、羽斗(はばかり)村で醤油と酢の醸造をしていたが、繁蔵の父は笹川河岸の繁栄をみて須賀山村に酢と醤油の蔵を建てて移り住んだ。繁蔵はここで生まれた。繁蔵は7歳の頃、漢学と剣法を学ぶ。体格の良い繁蔵は相撲を好むようになり、村の素人相撲では無敵となった。
笹川の諏訪明神に江戸相撲の千賀ノ浦が巡業に来ていて十一屋を宿にしていた。繁蔵は千賀ノ浦に入門し、諏訪ノ森を名乗った。力士は1年程で廃業し、繁蔵は江戸から故郷の笹川へ戻った。繁蔵は芝宿文吉親分の賭場に出入りをするようになる。男っぷりがよく度胸のある繁蔵は次第に若者達の親分格となってゆく。繁蔵は文吉の媒酌によって、賭場の会場となっていた家の娘豊子と夫婦となった。文吉親分は繁蔵を見込んで縄張りを譲り、自分は隠居した。繁蔵は親分となり、勢力富五郎、清滝の佐吉といった子分を従えて勢力を増していった。

繁蔵が使用していた合羽(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)
□平手造酒
平手造酒(ひらてみき)はある実在の人物をモデルに講釈師が創作した人物です。平手造酒のモデルとなった人物についてははっきりしておりませんが、「平手造酒」という名前でなかったことは確かです。
笹川と飯岡との決闘の後、笹川方で唯一死亡した浪人について地元の名主が役人に提出した検文書には「無宿浪人、平田深喜」と書かれています。
笹川の延命寺には笹川繁蔵の碑や勢力富五郎の碑とともに「平田氏の墓」(嘉永3年建立)があります。
笹川から20km上流の佐原にあった道場の入門帳には「讃岐高松藩中 平田三亀」の記載が残っているそうです。また、平田三亀は松崎村(現在の香取郡神崎町松崎)の名主山口市左衛門のもとにも身を寄せていたらしく、市左衛門が建立したと思われる平田三亀之墓と刻まれた墓石が現在も残っています。また下関にあった笹尾道場に40年の間に訪れた武芸者を記録した古文書が残っており、そこに「讃岐高松家中 平田三亀」と書かれています。このことから平田三亀という名の人物が実在したことは間違いがなく、この平田三亀が平手造酒のモデルとなった人物と推測されます。子母澤寛「遊侠奇談」では佐原の道場の子孫への取材で平田氏が水戸にいたと聞き取ったことが書いてあります。その真偽はわかりませんが、高松藩と水戸藩はつながりが深い(例えば天保の頃高松藩主だった松平頼恕は水戸7代藩主の次男)ことから三亀が水戸にいたとしても納得がゆきます。

笹尾道場に残る姓名録 平田三亀の部分
阿州 関口流 佐藤雄太門人 讃岐高松家中 平田三亀
平手造酒(平田三亀)の実像には謎が多いですが、「浪士であったが笹川繁蔵の食客となった」「天保15年の笹川対飯岡の喧嘩の際に命を落とした」という点は史実とみて間違いなさそうです。

平手塚(笹川 S41建立)
どこまでが事実かはさておきまして、一般的に認識されている平手造酒の人物像は、「江戸神田お玉ヶ池に道場を構える千葉周作の門下生で北辰一刀流の達人であったが、酒グセが悪く破門となって江戸を去り、浪人として下総に居たところ繁蔵に客人として迎えられた。労咳に病み、尼寺で療養していたが、大利河原の決闘の際に駆け付け、命を落とした」というものです。また「白無地の単衣を着ている」というイメージもあるようで大衆演劇ではしばしばそのコスチュームで演じられます。
平手造酒は後世の人々によってさまざまなイメージで描かれた人物であり、むしろそれ故に天保水滸伝で一番魅力ある人物となっています。

作者不詳 昔の人が描いた平手造酒

東庄町制作のアニメ「天保水滸伝neo」の平手造酒
■時代背景
天保水滸伝の史実はその時代背景を把握するとより理解が深まります。関連する出来事をまとめました。
□飯岡・笹川の繁栄
九十九里での網漁(八手網や地引網)は紀州から伝わった。元和・寛永年間(1615~1644)には多くの関西漁民が9月から翌5月にかけて出稼ぎにやってきて主に八手(はちだ)網漁を行っていた。元禄期に関西漁民が撤退し地元漁民による地引網漁が台頭すると、天保にかけてさらに発達し、飯岡をはじめとして九十九里の地引網漁業は全国最大規模となった。
捕れた大量の鰯は干鰯(ほしか=鰯を食用とせず天日干しにした肥料)や〆粕(しめかす=鰯から魚油をとった残り粕の肥料)などに加工された。関西で木綿などの商品作物が発達すると干鰯・〆粕は金肥として重宝され、九十九里の干鰯は江戸、関宿や浦賀の問屋を介して飛ぶように売れた。利根川の河岸にはこれらを扱う問屋が現れた。

飯岡漁港(刑部岬より)
江戸時代、年貢米は江戸に集中的に運ばれた。年貢米や物資の輸送には舟運が重要な役割を果たした(例えば、陸送だと2俵運ぶのに馬1頭に人ひとり必要だが、江戸後期に活躍した高瀬舟は大きいものでは1000俵近くを6人程度で運ぶことができた)。また海上航路は荒天による危険が伴うため安全な川を使った輸送ルートが発達した。関東の大きな川沿いにはいくつもの荷卸し場ができて河岸となった。
かつて東京湾に流れ出ていた利根川は、改流工事により、関宿の北で常陸川の上流に接続され銚子へ流れ出るようになった。1654(承応3)年に銚子~利根川~関宿~江戸川というルートで江戸へ搬送する舟運路が完成した。(その後、上流から運ばれる土砂の堆積により、川水の少ない季節は大型船の関宿通過が困難になり、利根川沿いの河岸と江戸川沿いの河岸を結ぶ街道が発達した)
利根川は江戸への流通経路としてますます重要となり、利根川沿いの河岸が発達した。笹川河岸も年貢米をはじめ物資の集積地として栄えた。
銚子は、奥州から江戸へ物資を運ぶ廻船の寄港地として、利根川高瀬舟への積替地として発展した。また銚子では江戸初期に関西から技法が伝わって醤油醸造が始まり、江戸の人口の増加に伴い発達した。醤油も利根川の水運を利用して江戸に運ばれた。繁蔵の父も醤油の醸造を生業としていた。

銚子の利根川河口付近
繁蔵・助五郎の生きた時代には飢饉が打ち続いていた。離村や潰れ百姓の増加によって、農村の人口は減った。
飢饉が続く時代でありながら、河岸として賑わう笹川と漁業が盛況な飯岡は経済的にも余裕があり、人の流入も多かった。
□なぜ博徒が多かったのか
近世の社会では、盗みや博奕を行う悪者は村内で処理することが一般的だった。幕府による「法度(はっと:禁令)」とあわせて独自の「村掟」が存在しており、村内の問題は村で解決し、盗人が領主に引き渡されることは少なかった。
しかし近世後期になると、まじめに働くことを嫌い、村社会から逸脱する者が増えてくる。村の制度・秩序では手に負えない者は、連帯責任制度から外すために親親族とは縁切りとなり、人別帳(にんべつちょう:戸籍謄本のようなもの)から外され「無宿者」となった。(素行の悪い者は目印として人別帳に札が付けられていた。それが「札付き」の語源である)
村民に暮らしの余裕がでてくると、博奕や村芝居などの遊び心がさかんになる。これにつれて無宿者・博徒も横行する。逆にいうと無宿者は人の多いところに集まる。笹川など賑わった河岸には無宿者が底辺労働者として出入りしていた。
関東地方は一つの村を複数の領主が支配していることが多く、幕府領「御領」、大名領「領分」、旗本領「知行所」、与力・同心(奉行所などで治安維持につとめる役人)領「給地」、寺社領などが錯綜していた。飯岡村は旗本と与力が支配していた。
無宿者・博徒は悪さをすると他の領地へ逃げてしまう。他の領地へ逃げてしまった者を捕らえるにはその土地の領主に照会しなければならない。そうしているうちに悪者はまた逃げてしまう。
領主としては、働き手の村民が、遊びを覚えて無宿者の仲間入りをしてしまうことをなによりも恐れていた。しかし村で手に負えない無宿者や博徒を領主の役人が捕縛するには上記のように困難が伴った。
領主の力では治安を維持することが困難になると、ますます博徒が跋扈するようになり、関東地方の治安は大変悪くなった。
□関東取締出役(八州廻り)の設置
幕府は、領主の支配を越えて博徒を取り締まることのできる役人の必要を認め、1805(文化2)年に「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を創設し、八名が任命された。二人一組で関八州(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡回したことから「八州廻り(はっしゅうまわり)」とも呼ばれた。
しかし関八州という広大な土地を取り締まるにはこれではあまりに不十分で(そもそも八州廻りはたいした武力を持っていない)、無宿・博徒の活動はおさまらない。また、出役が悪者を捕えると囚人番は村が行わねばならず、その人手と費用の負担も大きな問題となっていた。
幕府は1827(文政10)年に関東全域に「改革組合村」の結成を命じた。数カ村を集めて「小組合」をつくり運営人「小惣代」をおく。小組合を集めて数カ村が集まる「大組合」をつくり「大惣代」をおく。この組合の中心となる村を「寄場(よせば)」と呼び、寄場役人をおく。この組合村が関東取締出役の活動に全面的に協力し、悪人逮捕・預りの費用も組合村が負担するかたちとなった。
飯岡村は太田村を寄場とする三十五ケ村からなる組合に入っていた。
□二足の草鞋
関東取締出役の廻村が決まると組合は、地理がわからない出役の活動をたすける「道案内」を選出する。道案内は、手配者を探索するばかりでなく、実際の召し捕りや護送も行う。
八州廻りが遠い土地で警察活動を行うには地元の有力者の力を借りざるを得ない。蛇の道はへびで、力のある博徒が道案内に任命されることが多かった。助五郎も土地の顔役として出役の道案内を任された。
博奕を行った者を取り締まるのが博徒、という考えられない状況が生じた。大衆演芸においては、道案内のこのような矛盾した立場は(多くは否定的な意味合いを込めて)「二足の草鞋(わらじ)を履く」と表現されている。(与力・同心等役人の手先となって取り締まりをたすける者に「目明し」(自分の罪を見逃してもらうかわりに犯人検挙を手助けする者)や「岡っ引」がいるが、目明しも博徒、つまり<二足の草鞋を履く者>であること多かった。なお、助五郎は銚子の五郎蔵と同じく銚子の飯沼陣屋から十手取縄を預かっていたといわれている)
性悪な者が「お上の御用」の権威をきたらどうなるか。当然不正をはたらく。
例えば国定忠治が活躍した頃の上州にはそうした記録がたくさん残っている。身に覚えのある者は道案内に金を渡して見逃してもらう。道案内がさまざまなトラブルに介入しては御用の風を吹かせつつ難癖をつけて金をせびりとる。賄賂を差し出した者には出役の廻村の際に逃亡の手助けをする。自ら博奕場を開いて胴元として寺銭を手中にする。役人の手下となってそんな横暴なふるまいをする者もいて村人も困っていた。忠治が長い年月捕まらなかったのも私欲にまみれた役人の手先を買収していたからである。
悪いのは道案内だけではない。道案内の横暴がまかり通るのも取締出役との癒着があったからである。関東取締出役の給料はそれほど高くなく多くの者が賄賂になびいていた。天保10年には関東取締出役13名と火付盗賊改5人が不正を摘発され処罰を受けている。
助五郎のいた下総はどうであったのか。助五郎と繁蔵との間に不和が生じた際にその仲介に努めたという松岸村の茗荷屋半次が、関東取締出役のいいつけで女の世話をしたという話は残っている。
助五郎には道案内としての悪い逸話や記録はみあたらない。「天保水滸伝」中の一番大きな出来事といえば、助五郎が関東取締出役の召し捕り状を受け取って繁蔵のいる笹川に乗り込むところである。古文書によればこの召し捕り状は、大田村ほか35か村からの訴えを受けて出されたようである。召し取り状が出されるに至った背景にはこの訴えの他に繁蔵への私怨を持つ助五郎の力はたらいていたのかどうか。それはまったくわからない。
≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
飯岡と笹川の争いを「天保水滸伝」として世に伝えたのは江戸の講釈師宝井琴凌(たからいきんりょう=三代目宝井馬琴)です。講釈師というのは現代的に言えば講談の演者で、「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳がありますが(この川柳は初代馬琴の作だそうです)、各地で庶民にうけそうなネタを収集しては、おもしろくアレンジして口演していました。
勢力富五郎が死んで一連の事件に決着がついたのが嘉永二年(1849)です。この事件を知った講釈師の宝井琴凌が下総に行って取材した後に「天保水滸伝」として江戸で発表しました。
なぜ「水滸伝」という名が付けられたのでしょうか。
梁山泊に集結した百八人の豪傑が腐敗した政府と戦う中国の小説「水滸伝」は江戸時代に日本に輸入され和訳本が刊行されました。その後、「水滸伝」の絵本や錦絵のほか「南総里見八犬伝」などの翻訳物が生まれました。
天保水滸伝は勢力富五郎が金毘羅山に籠って中央権力に抵抗した点を「水滸伝」になぞらえて名付けられたようです。実は講談の天保水滸伝が世に出る前に、江戸では勢力富五郎が鉄砲を武器として関東取締出役に抵抗していることが下総の大事件として話題になっていました。当初の天保水滸伝では人々の注目を集める主役の座は勢力富五郎にあったのです。幕末に上演された天保水滸伝を題材とした歌舞伎「群清滝贔屓勢力(むれきよたきひいきのせいりき)」(河竹黙阿弥作)は繁蔵の死後の場面から始まる勢力富五郎を主人公とする話でした。その後講釈師が世間受けするようにアレンジしてゆく中で、元々実像がよくわからなかった平手造酒が魅力的なキャラクターに造形されたり、笹川を善玉として飯岡を悪役とする構図がかたまったりして主役が平手や繁蔵に移ってゆきました。
天保水滸伝は錦絵によっても知られてゆきます。
中国の「水滸伝」の登場人物は歌川国芳などの画家が錦絵にしていました。幕末に二代目歌川豊国が「近世水滸伝」として侠客を人気役者の似顔で描きました。国定忠治は組定重治、飯岡助五郎は井岡の捨五郎、勢力富五郎は競力富五郎など、ヒーローのイメージが仮託されたアウトローが描かれました。

歌川豊国「近世水滸伝 井岡の捨五郎」
天保水滸伝が変容しながら語り継がれる中、飯岡勢が笹川へ乗り込み利根川の河原で大喧嘩が行われたという「大利根河原の決闘」が物語の大きな見所になっていったようです。

大利根河原の決闘を描いた「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(1864年 芳虎画/船橋市西図書館蔵)東庄町HPより転載)
■近世侠義伝
近世侠義伝は1917(大正6)年に図画刊行会錦絵部から発行されたもので、浮世絵師芳年(1839~1892)が版画で描いた天保水滸伝中の人物に講談風の紹介文章が添えられています。

掲載されているのは以下の36名
飯岡助五郎/笹川繁蔵/荒生留吉/風窓半次/洲崎政吉/提緒伊之助/神楽獅子大八/荒町勘太/御下利七/桐島松五郎/鰐の甚助/垣根虎蔵/矢切庄太/地潜又蔵/長指権次/羅漢竹蔵/生首六蔵/波切重三郎/滑方紋弥/蛇柳松五郎/生魚の長次郎/木隠霧太郎/藤井数馬/祐天仇吉/清滝佐吉/猿の伝次/栗柄才助/斑の丑蔵/夏目新助/羽計勇吉/名垂岩松/平手造酒/稲舟萬吉/水島破門/水島宇右衛門/勢力富五郎
大正期の天保水滸伝ですら名前をきかない登場人物もいれば、現代の天保水滸伝では比較的重要人物である三浦屋孫次郎、堺屋与助、成田の甚蔵はおりません。
近世侠義伝の人物譚を読みますと最初期の天保水滸伝の物語世界をうかがい知ることができます。
本ブログでは近世侠義伝に描かれた36名のうち現代においてもよく登場する人物をとりあげてご紹介します。
□飯岡助五郎
銚子五郎蔵の子分で、任侠にして義理に強く、性質温厚であったから万人に立てられた。
飯岡銚子松岸界隈を荒らし回る生田角太夫という浪人をひとりで倒したことから、その名が広まり洲崎政吉はじめ数百人の子分ができて飯岡の大親分とたてられた。
笹川繁蔵と仲違いしてしばしば血戦が起る。繁蔵が討たれ、その子分の勢力富五郎、清滝佐吉らが助五郎を付け狙い、助五郎は幾度も危うい目にあったが、笹川方は全滅し、助五郎は飯岡に長く威を振るい、七十余才の天寿をまっとうした。

□笹川繁蔵
岩瀬源四郎という立派な侍がいたが勘当されて国を去り、下総笹川に流れついて剣道柔道を教えていた。百姓の娘富と結ばれて福松という子供ができた。福松は少年ながら心たくましく力すぐれ、角力で福松にかなう子供はいなかった。ある時荒れ狂って来た一頭の大牛に福松は一人で立ち向かいこれを鎮めた。福松は流鏑馬繁蔵の賭場を荒らして、大勢の者に簀巻きにされて川へ流されたが、それにも懲りず再び流鏑馬に仕返しに行った。その勇気を気に入った流鏑馬繁蔵は福松を養子に貰い受け、福松は二代目流鏑馬繁蔵となり、岩瀬の繁蔵という通り名がついた。諏訪神社に石碑を建てて相撲をやった頃から助五郎と仲が悪くなった。助五郎方が笹川に押しかける大喧嘩があったが荒生留吉の内通もあって繁蔵方は散々に破った。天保十五年七月二十一日夜、助五郎の手下によって殺された。三十六歳だった。その後勢力富五郎、清滝佐吉らの子分らは助五郎を狙い幾度となく流血の惨事があった。

□平手造酒
剣の達人であったが酒のために身を持ちくずし浪人になった。下総銚子への移動の途中に金がつきたとこを笹川繁蔵に助けられ食客となった。
鹿島の祭礼に勢力富五郎と出かけたが、酒楼で酒を飲んでいるときに土浦の剣客高島剛太夫と諍いが生じた。造酒は剛太夫を討ち取って、その子分も富五郎とともに追い散らした。以降造酒は富五郎から酒を戒められた。

□勢力富五郎
繁蔵が諏訪神社に野見宿祢の石碑を建てた日に境内で相撲大会が行われた。その日は助五郎の子分はことごとく負けてしまった。次の日飯岡方は仕返しに相撲が強い者を連れてきた。中でも神楽獅子の大八は笹川方を7人投げ飛ばした。それを見かねた勢力富五郎は土俵に上がって、見事大八を砂に埋めた。
繁蔵が飯岡方に殺されてから、富五郎は仇を討つべく助五郎をつけ狙っていた。しかし、逆に自分の身があやうくなり、金毘羅山に隠れているところを医者に密告され、役人手先五百余人に取り囲まれた。味方二十余人と防戦したが、もうこれまでと思い、富五郎は鉄砲を喉にあてて自殺した。

【講談で読まれた勢力富五郎】
近世義侠伝とは離れますが、講談で描かれた勢力富五郎を紹介します。現在は講談でも浪曲でも勢力富五郎の金毘羅山における事件を中心に組み立てた話は残っていないと思います。以下は講談本(年代不詳)にある「勢力の鉄砲腹」を部分的に抜き書きしたものです。
「勢力は用意の鉄砲小脇にたずさえ、いち早く裏手に向いて一発をどうと放てば、狙いたがわず、血煙り立って倒れたり。つづいて二発、三発打放てば、寄手(よせて)はたちまちおじげつきて、ふもとをさしてなだれ落つ。――このたびは寄手総勢を繰りだせしものと覚しく、八方より攻め登れば、勢力は大声をあげ、性こりもなきうじ虫ども、眼に物見せん、と計りにて、力の限り斬りまくる。――寄手のきたらぬそのうちにと、さいぜん捨てたる鉄砲取り上げ、松の大樹に身を寄せかけ、筒口を咽喉に打ちあて、どうと一発打貫き、血汐にまみれてこと切れたるが、身は死しても、ついに倒れず、両眼かっと見ひらきて、ふもとをにらみし立往生、恐ろしくもまた物すごし――」
□清滝佐吉
清滝生まれの佐吉は銚子の醤油屋で職人をしていて、そこの女中お常とできてしまった。お常には許嫁がいたが、二人は駆け落ちした。お常の父の頼みがあり助五郎が動いて二人をつきとめた。お常は連れ戻され、助五郎は佐吉に手切金を渡した。手切金の少なさに不満のある佐吉は、夏目の新助の紹介で繁蔵の子分になり、繁蔵に仕返しを頼んだ。繁蔵は、江戸にいたお常を探しだして連れ戻し、許嫁には手切金を渡して、お常を佐吉の女房にした。
佐吉は繁蔵の無二の子分となるが、繁蔵が死んでからは富五郎と仲が悪くなった。助五郎への復讐をもくろんだが、逆に飯岡方の計略にあって役人に捕えられ、小塚原で夏目の新助、羽計の勇吉とともに処刑された。


清滝佐吉伝承碑(旭市清滝地区)

佐吉まんじゅう
□夏目の新助
性格が温厚で義理に強い人物だった。清滝の佐吉と親しく、不仲の佐吉と富五郎を仲なおりさせようとしていた。
富五郎が飯岡に斬り込みに行った際、そのことが助五郎にはばれていて、待ち構えていた飯岡方の反撃にあって悪戦苦闘していた。そこへ夏目の新助が羽計の勇吉らを連れて駆けつけ加勢した。
翌日、清滝の佐吉が飯岡に斬り込みに行ったがやはり苦戦した。新助は佐吉と勇吉を助け出した。

□洲崎政吉
ある日繁蔵が富五郎をはじめ5.6人の子分を連れて飯岡にやってきた。助五郎の子分は騒ぎ立てたが助五郎は、喧嘩をしかけに来たのだろうが相手にするなと子分をなだめた。助五郎の右腕の政吉は自分にまかせてくれと一人で外に出た。政吉は家の出入口にあった大碇を片手で持って肩にかけ、海辺に行くふりをして繁蔵とすれ違いにっこり丁寧に挨拶をした。重い大碇を肩にかけながらの丁寧な挨拶に繁蔵は感心して、この日は何事も起らなかった。
飯岡・笹川の大喧嘩の際に奮戦の末亡くなった。28歳だった。

□神楽獅子大八
繁蔵が諏訪神社へ石碑を建てて角力興行をした際、繁蔵の子分の名垂の岩松が飯岡方を四人投げた。神楽獅子が土俵に上がり、岩松ほか名うての者を七名投げ飛ばした。しかし勢力富五郎には負かされて、この勝負が繁蔵と助五郎の確執の原因となった。
笹川の出入りでは神楽獅子は九尺の棒を持って戦い笹川方の飯田兄弟を倒した。繁蔵との一騎打ちで棒を斬られ、神楽獅子も斬られて最後をとげた。

□荒生の留吉
長指(ながざし)の権次の子分。用事があって東金に行った帰りに海岸で重たい財布を拾った。飯岡の三河屋の手代が集金の帰りに落とした財布を探して歩いていたが、その後ろには死神がついていた。留吉は死神を退治して財布を手代に返した。それがきっかけで三河屋が後ろだてとなって留吉は金貸し業を始めて裕福に暮らした。
留吉は兄貴分の風窓の半次との関係がもつれたが助五郎が仲裁にはいって納まった。しかし留吉は助五郎に恨みを持つようになり、助五郎が笹川へ向かう際に繁蔵に内通した。

■講談
天保水滸伝を作り世に出したのは講釈師宝井琴凌(三代目宝井馬琴)です。琴凌は上州では国定忠治を調査し講談に仕立てていますが、その後下総でも取材し、嘉永三年(勢力が死に事件が収束した翌年)に天保水滸伝を高座にかけたそうです。
琴凌の息子四代目馬琴が昭和三年に都新聞に連載した「講談界昔話」によると琴凌はしばらく自分のまとめた話に納得がいってなかったが慶應3年に五代目伊藤凌潮の協力によって完成され「天保水滸伝」と命名したとのことです。ですから当初は天保水滸伝という演題ではなかったのかもしれません。

明治大正時代の講談本
戦前の講談天保水滸伝
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成する前の流れを感じ取ることができます。
私が確認できた戦前の講談天保水滸伝のあらすじを別ブログにまとめました。
大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門別ページ
「戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝」
上記のリンク先ページには以下の記事を掲載しています。
■「天保水滸伝 初編」 嘉永三年?
大正二年に刊行された「侠客全伝」という本に「天保水滸伝 初編」という実録体小説が収められています。
この小説には序文がありそこには嘉永三年と記されています。
上述のとおり宝井琴凌が講談天保水滸伝を完成させたのが慶應三年です。それ以前に存在していたというこの小説と、琴凌の講談との間にどのような関係があるのかはよくわかりません。ただ、現在残っている最古の天保水滸伝物語(講談天保水滸伝の最源流)と言えるのではないかと思います。内容としては現代の天保水滸伝との隔たりが大きいです。
■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代
大正時代後期に語られた内容だと推測されます。
この頃には現代に残る天保水滸伝の基礎がかたまっているように思います。
■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年
大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり新聞に掲載されました。
■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。
■松の家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年
明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松の家太琉に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。
明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
講談の内容を否定する目的で作られていますから、大衆演芸の天保水滸伝と重ならない部分が多いです。
現代の講談天保水滸伝
戦前では三十講もの連続物として確立していた講談天保水滸伝ですが、現在講談でかかっている天保水滸伝の話は十席もありません。アレンジを繰り返してゆく中、また連続物の講談がかからなくなってゆく中、人気を得た話だけが現代に生き残ったということなのでしょうか。
私の知る限りでは以下の話が現在かかっています。
「相撲の啖呵」「平手の破門」「笹川の花会」「鹿島の棒祭り」「潮来の遊び」「平手造酒の最期」「三浦屋孫次郎の義侠」
外伝的なものは「ボロ忠売り出し」「天保水滸伝外伝 忠太郎月夜唄」
現代の講談天保水滸伝について以下の公演を別ブログ『現代の大衆演芸(講談・浪曲・大衆演劇)における「天保水滸伝」 体験記』でレポートしています。
◆2014年5月3日~6日 神田春陽・神田松之丞 GW特別番組4日連続俥読み「天保水滸伝」(於:お江戸日本橋亭)
◆2015年1月7日 神田愛山・玉川奈々福・玉川太福・神田松之丞 「天保水滸伝車読みの会」(於:お江戸日本橋亭)
◆2015年1月17日 神田松之丞「松之丞ひとり会」(於:赤坂峰村)
◆2016年6月4日 神田松之丞 「ひとり天保水滸伝」(於:紀尾井ホール)
■浪曲
浪曲ではいつ頃から「天保水滸伝」が語られてきたのでしょうか。
講談や芝居では明治の初期から天保水滸伝がかかっていましたから、浪花節に取り入れられたのも早かったのではないかと想像しますが、後述するように現在の浪曲天保水滸伝の原本は一心亭辰雄(1880~1974)によるという説がありますが、それがいつ頃どのような内容で完成したのかは調べがついておりません。。
明治45年に刊行された浪花節台本「日本侠客銘々伝」(京山大教口演)が国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。その中に「飯岡助五郎」という演目があります。
銚子の五郎蔵の子分の八木の新吾が飯岡で賭場を立てた。三浦の助こと助五郎はそこにふらりと入って、賭場荒らしを働いてしまい海に投げ捨てられる。その後助五郎はその度胸を見込まれて五郎蔵の身内となり賭場をまさせられる。
博奕好きの助五郎は賭場の土台銭に手をつけてしまい、五郎蔵の怒りを買い、上州へ逃げる。大前田の栄五郎親分に仲裁を頼み、助五郎は五郎蔵の許しを得る。
五郎蔵は病気が重くなり伊勢に参詣に行けなくなったので、名代として息子の大勝を遣わすこととした。子分を集めて大勝の後見を頼むが引き受ける者がいない。というのは伊勢には五郎蔵と因縁のある鬼熊親分がいるからだ。五郎蔵が名乗りを挙げ伊勢に行く事となった。鬼熊と助五郎の話はまた後日。
という内容で、現在に伝わる浪曲天保水滸伝とはずいぶん違います。連続物の第一話と想像されますが、この頃の浪花節独自で創作された天保水滸伝の物語があったことは興味深いです。
大正期から大衆文化が発達し、ラジオ放送が始まると浪曲は昭和初期に黄金時代を迎えました。
「実録浪曲史」には昭和4~7年のラジオで放送された浪曲の演題の回数表が載っています。
赤穂義士伝関係が圧倒的に多く304、乃木将軍68、寛永力士伝39、佐倉義民伝30、大岡政談30、慶安太平記28、清水次郎長伝28、塩原多助25、伊達騒動24、水戸黄門記23、曽我物語22、寛永三馬術21、天保水滸伝19、壺阪霊験記19、国定忠治17、祐天吉松17となっています。天保水滸伝が人気演目のひとつになっていることがわかります。
先述のとおり昭和2~9年の7年間だけで17本もの天保水滸伝の映画が製作され、昭和初期は天保水滸伝がブレイクした時期と思ってよいでしょう。そしてその人気を決定付けたのは二代目玉川勝太郎の浪曲天保水滸伝であろうと思われます。
二代目玉川勝太郎の天保水滸伝
二代目玉川勝太郎(1896~1969)は浪曲の天保水滸伝を世に知らしめました。
「日本浪曲史」には昭和5年に玉川二郎(昭和6年に二代目玉川勝太郎を襲名)の「天保水滸伝」が四夜連続で放送されたことが書かれています。また、昔の新聞を調べてみますと、1934(昭和9)年から1938(昭和12)年にかけて玉川勝太郎の天保水滸伝ラジオ口演の記事がたびたび掲載されており、この頃二代目勝太郎が天保水滸伝で大活躍していたことが想像できます。
二代目勝太郎の天保水滸伝ヒットにおいて忘れてはならないのが作家・演芸研究家の正岡容(いるる)(1904~1958)です。
1954(昭和29)年6月14日の読売新聞のコラムで、「名文『天保水滸伝』 正岡容との友情」というタイトルで二代目勝太郎が文章を寄せています。
あるレコード会社で吹き込むことになった際、文芸部長が正岡容の天保水滸伝の台本を持ってきたそうです。
「以来、数えきれないほど口演し、今では僕のお家芸になってしまった。このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存じのような名文になった」と書いています。初代勝太郎から二代目へ受け継がれた天保水滸伝は正岡容のアレンジによって人気を博したと解釈してよいでしょう。
正岡容が作った天保水滸伝の外題付け「利根の川風袂に入れて月に棹さう高瀬舟~」は日本中で親しまれた有名な節です。
外題付というのは浪曲作品の歌い出しの節のことで、もともと浪曲には外題付けがありませんでした。初期のレコードは片面3分、両面で6分でした。2枚セット(合計12分)の販売が多かったようです。販売するレコードに収まるように一席の構成が変化したそうです。お客さんはレコード店で試聴してからレコードを購入しました。レコードの最初の3分という尺の中でその浪曲の魅力をしっかり伝えるために外題付けは生まれました。正岡容の天保水滸伝の外題付けはきっかり3分に収まっています。
1941(昭和16)年7月キングレコードより「天保水滸傳」全集が発売されました。前編・後編の8枚組です。演者はもちろん二代目玉川勝太郎。
「若き日の平手造酒」「笹川の花會」「角力場仁義」「笹川の繁蔵」「鹿島の棒祭」「笹川村駆け付け」「蛇園村の斬込み」「平手造酒の最後」の8席。
「笹川の繁蔵」という演目の内容はよくわかりませんが、8席のタイトルを見るに、浪曲天保水滸伝の定番演目はこの時代に確立され、現在に至っているのではないでしょうか。
浪曲天保水滸伝の作者について畑喜代司氏も気になっています。
浪曲評論家の芦川淳平さんの本「浪曲の神髄」に天保水滸伝について次のような記述があります。
「…水滸伝の一連の段に筆を加えた、正岡容、畑喜代司といった手練れの作者たちも、この点を描ききれなかった。下敷きにある名人一心亭辰雄の原本から脱しえなかったということなのだろうか。」
(この点、というのは、屈折した経歴とニヒリズムに満ちた平手造酒の孤高の存在感を指しています)
「一心亭辰雄の原本」がとても気になるのですが天保水滸伝を講談から浪曲にアレンジしたものと推察します。それに筆を加えたという畑喜代司とはどんな方なのでしょう。ウィキペディアによると、畑喜代司(1904~1945)は浪曲作家で、以下の浪曲の作者とされています。
『天保水滸伝 笹川村馳け付け』玉川勝太郎/『天保水滸傳 若き日の平手造酒』玉川勝太郎/『天保水滸傳 鹿島の棒祭』玉川勝太郎/『平手造酒』木村忠衛
正岡容と畑喜代司のふたりのアレンジの違いは私はよくわかっておりません。

浪曲好きだった田中角栄が総理大臣のときに書いた天保水滸伝の外題付け(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)
* * *
二代目玉川福太郎『徹底天保水滸伝』
浪曲で語られる天保水滸伝を、現代において知るには、なんといっても二代目玉川福太郎(2007年に事故死してしまいました)のCD「徹底天保水滸伝」でしょう。以下あらすじです。
『繁蔵売り出す』
繁蔵と助五郎が出会ったのは銚子の五郎蔵の屋敷。助五郎が屋敷にいるときに、繁蔵が身内にしてほしいと訪ねてきた。
繁蔵は江戸相撲で人気力士であったが、それが気に食わない他の力士とのトラブルがもとで、相撲を続けることができなくなった。といって故郷に帰るわけにもゆかず男の道で生きてゆこうと決めた。事情をきいた五郎蔵は繁蔵を身内にする。
3年やくざ稼業に繁蔵のもとに、五郎蔵の兄弟分やぶさめの仁蔵が繁蔵に後を譲りたいと、繁蔵を十一屋に呼び出した・・・
『平手と繁蔵の出会い』
北辰一刀流の道場千葉周作先生に破門となった平手造酒。恋仲のおえんと、おえんの故郷の下総へ。利根川べりの粗末な家に暮らす。
祭囃子に誘われて、諏訪明神の祭を見物にきた造酒とおえん。境内の土俵では素人相撲が行われている。土俵上では、飯岡助五郎の子分で元江戸相撲の神楽獅子大五郎が次から次へと相手を負かして、もう相手をする者がいない。そこへ繁蔵の子分、清滝の佐吉が勢力富五郎にそそのかされて、土俵に上がった。おえんは休み所でそれを見ている。おえんと幼馴染の繁蔵も、おえんが居るとは知らずに祭りに来ている。
多くの見物人が見守るなか神楽獅子大五郎と清滝の佐吉との取組が始まる・・・

諏訪大神にある土俵
『鹿島の棒祭り』
鹿島神宮の祭礼、鹿島の棒祭りはこの土地の名物行事。平手造酒はこの祭を楽しみにしていたが、造酒の酒ぐせの悪いことを知っている繁蔵は、祭で酒を飲んで失敗をしてはいけないと、造酒に留守番を頼む。祭の3日間禁酒することを約束して造酒は勢力富五郎と鹿島神宮に向かった。
祭の3日目。1日2升の酒を吞む平手造酒、2日酒を断って顔色が悪い。心配した勢力は造酒に甘酒を飲んではと店を案内する。
甘酒ではなく酒を飲んでしまった平手造酒。いかんいかん、この一杯で終わりにしようと、湯呑みの中の最後の酒をじっと眺めて別れを惜しんでいる。
そこへ飯岡助五郎の子分3人が店に入ってきてばたばたと服の埃をはたいた。その埃が、造酒が眺めている湯呑みの中に入ってしまって・・・
『笹川の花会』
後述の大衆演劇のあらすじとほぼ一緒なので省略します。
『蛇園村の斬り込み』
小見川の川料理村田屋の奥座敷。繁蔵と子分の夏目の新助とが話をしているのは、今日江戸送りになった名垂(なだれ)の岩松のことである。岩松は繁蔵の子分になって10年、念仏ばかり唱えていた。実は岩松には旧悪があって、雨傘の勘次を名乗っていた10年前に甲州で人を殺して金を奪ったことがある。それが改心して繁蔵のもとでは念仏ばかり唱えていた。なのに、今になってなぜ10年前の兇状がばれたのか、繁蔵はくやしくてならない。
実はこのことをばらしたのは助五郎の身内の甲州者であった。人殺しを匿えば同罪。助五郎は、岩松と同時に繁蔵も捕えさせようと役人に訴人したのだ。けれども繁蔵は農民救済の花会の一件があったからお目こぼしがあって捕えられなかった。
それを知った繁蔵の胸のうちに助五郎への憎しみが湧きあがる。
月夜の晩、繁蔵は平手造酒・勢力富五郎ら十数人を従えて助五郎斬り込みに向かう。
助五郎は蛇園(へびぞの)村の別宅で月を肴に吞んでいる。
繁蔵はその屋敷に押し入った・・・
『平手の駆けつけ』
繁蔵の用心棒平手造酒が病にかかり養生している。その情報を入手した助五郎は繁蔵一家皆殺しを企てる。
助五郎の子分が武器を調達しようと荒生の留吉の家へ槍を借りに来た。留吉の息子の留次郎は、助五郎が笹川に喧嘩に行くことを知って、すぐにそれを笹川方へ知らせた。実は笹川方の清滝の佐吉は留次郎にとって大恩人なのである。
助五郎は300名の軍勢を従え高瀬舟3艘で利根川を笹川へ向かった。
平手造酒が静養している尼寺。笹川の方が騒がしい。事の次第をさとった造酒は、尼僧が止めるのを振り切って月明かりを笹川土手へ駆けつける・・・
以上二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」でした。
玉川のお家芸「天保水滸伝」は、
二代目玉川勝太郎~三代目玉川勝太郎~二代目玉川福太郎~玉川奈々福・玉川太福、と現代に受け継がれております。
* * *
初代東家浦太郎『繁蔵の最期』

日本浪曲協会で買った初代東家浦太郎「天保水滸伝余聞 繁蔵の最期」のカセットテープ。
内容は、講談や大衆演劇でいうところの「三浦屋孫次郎」の話。
多くの浪曲台本を書いた野口甫堂(東家楽浦)の作となっています。ですから、正岡容先生が講談から浪曲化したのとは別の流れでできたネタですね。元ネタは神田ろ山の講談「笹川繁蔵」と思われます。天保水滸伝は玉川のお家芸。浪曲の世界ではある一門のお家芸を他の一門の浪曲師がかけることは基本的にできなかったと聞いておりますが、野口甫堂はどういう背景でこの台本を書き上げたのでしょうか。
現在は玉川太福さんが許可を得て口演しています。
* * *
広沢虎造の天保水滸伝
意外にも広沢虎造が天保水滸伝を残しています。
『大利根川』

浪曲作家・作詞家の萩原四郎の作のようです。
飯岡一家の常吉が、笹川一家の三下安兵衛が世話になっている呉服問屋から300両をゆすりとる。常吉と安兵衛の喧嘩に平手造酒が仲裁に入り平手は300両を取り戻す。安兵衛の妹おみよは平手に恋をする。安兵衛は常吉に斬り殺される。笹川一家でなぐりこみをかけようとするのを制して平手造酒は自分ひとりが仇をうつと去る、という内容。虎造らしい軽妙なタッチで淡々と進む。
平手が「新しい日本を築き、天の声に耳を傾けろ」「日本という大きな国の夜明けが近づいている」などと幕末の志士めいた説教をする。他のどんな天保水滸伝ともテイストが違う異色の外伝。
『洲崎の政吉』
助五郎一家は笹川への喧嘩出入りのため松岸に集まっていたが、助五郎の一の乾分の洲崎の政吉がいない。
政吉は家で女房のお貞にお前と会うのはこれがもう最後だと因果を含めている。他の男と所帯を持って、子供の一太郎はやくざにするなとお貞に伝える。お貞は、後に心が残らぬようにと、一太郎を刺し殺して自害する。政吉はお貞と一太郎の首を斬り落としそれを持って松岸に行く。鬼人のような助五郎もこのときばかりは思わず涙した。
…現在の演芸や芝居にはない場面ですが戦前の芝居ではよく演じられた一幕だったようです。
* * *
玉川奈々福『飯岡助五郎の義侠』
2016年8月玉川奈々福さんが天保水滸伝の新作を発表しました。
飯岡で大海難事故が起き漁夫が全滅しかけた際に助五郎が故郷の三浦から男を集めてきて飯岡の漁業を復興させたエピソードを中心に、伊藤桂一の小説を下敷きにして浪曲に仕立てました。
それまで浪曲では悪役一辺倒だった助五郎が、情と度胸のある魅力的な男として描かれています。特に、助五郎が岩井滝不動の賭場に目をつけたのは、単に強欲だったわけではなく、飯岡を救うために拵えた莫大な借金を返すための苦肉の策だったとしているところが肝で、助五郎の義侠が繁蔵との抗争に発展したという流れを従来の浪曲のストーリーの文脈に追加した点で意義のある作品だと思います。

玉川奈々福『亡霊剣法』
同名の伊藤桂一の小説を玉川奈々福さんが浪曲化。
平手造酒を主人公とする怪談っぽいテイストのある新作です。

現代の浪曲天保水滸伝について以下を別ブログ『現代の大衆演芸(講談・浪曲・大衆演劇)における「天保水滸伝」 体験記』でレポートしています。
◆2014年7月5日 玉川奈々福・玉川太福「奈々福・太福のガチンコ!浪曲勝負 天保水滸伝の巻」(於:なってるハウス)
◆2015年3月7日~8日「天保水滸伝の里めぐりツアー」
◆2016年3月26日「天保水滸伝の里めぐりモニターツアー」
◆2016年10月22日 神田愛山・玉川奈々福・玉川太福・神田松之丞「講談と浪曲で聴く天保水滸伝」(於:東庄町公民館大ホール)
◆2017年8月11日~16日 玉川太福 「朝練講談会 灼熱の六日間連続読みの会」(於:お江戸日本橋亭)
◆2019年4月24日・25日 玉川奈々福・玉川太福「二人天保水滸伝」(於:木馬亭)
◆2019年6月19日 玉川奈々福 新曲「刀剣歌謡浪曲 舞いよ舞え」発売
◆2019年8月10日~11日 「天保水滸伝の里めぐりツアー」
■映画
関連する映画も多く製作されました。平成5年に千葉県大利根博物館で開催された「天保水滸伝の世界」展の図録より「『天保水滸伝』関係映画一覧」にある46タイトル(戦前30・戦後16を記載します。なお、東庄町観光会館に掲示してある「天保水滸伝関連映画(戦前・戦後)」という表には戦前34作、戦後34作の映画のタイトルが記載されております。こちらの方がより詳細な調査に基づいて作成された表のようで、「関の弥太っぺ」(4作)や座頭市を主人公とした映画(3作)など設定に天保水滸伝の世界を用いた映画もカウントしています。観光会館の資料によると、戦前映画でみるとタイトルに一番名前がでてくるのが勢力富五郎で9作、次が平手造酒で8作となっています。前述しましたように天保水滸伝が誕生してしばらくは勢力富五郎が主役であり人気のキャラクターであったことがここからもうかがわれます。
<「天保水滸伝」関係映画一覧>
大正3(1914)「天保水滸伝」日活
大正5(1916)「笹川繁蔵」日活
大正7(1918)「勢力富五郎」松竹
大正8(1919)「勢力富五郎」日活
大正10(1921)「勢力富五郎」松竹
大正12(1923)「勢力と飯岡」帝キネ
大正13(1924)「笹川繁蔵」東亜
大正14(1925)「平手造酒」松竹
昭和2(1927)「平手造酒」東亜
昭和2(1927)「平手造酒」帝キネ
昭和2(1927)「天保悲剣録」松竹
昭和3(1928)「平手造酒」日活
昭和5(1930)「天保水滸伝」マキノ
昭和5(1930)「平手造酒」河合
昭和6(1931)「平手造酒」松竹
昭和6(1931)「天保水滸伝」帝キネ
昭和7(1932)「血戦大利根の暁」帝キネ
昭和7(1932)「勢力富五郎」河合
昭和7(1932)「闇討渡世」千恵プロ
昭和8(1933)「白衣鬼剣録-平手造酒」新興
昭和9(1934)「天保水滸伝」新興
昭和9(1934)「平手造酒」日活
昭和9(1934)「大利根の朝霧」宝塚
昭和9(1934)「血戦大利根嵐」日活
昭和10(1935)「利根の川霧」千恵プロ
昭和11(1936)「天保水滸伝」全勝
昭和12(1937)「平手造酒」今井
昭和13(1938)「血戦阪東太郎」大都
昭和14(1939)「春秋一刀流」日活
昭和15(1940)「天保水滸伝」大都
昭和23(1948)「遊侠の群れ」松竹
昭和25(1950)「大利根の夜霧」新東宝
昭和26(1951)「平手造酒」新東宝
昭和27(1952)「利根の火祭」大映
昭和28(1953)「血闘利根の夕霧」松竹
昭和29(1954)「平手造酒」日活
昭和29(1954)「関八州勢揃い」新東宝
昭和30(1955)「大利根の対決」日活
昭和32(1957)「関八州大利根の対決」新東宝
昭和33(1958)「天保水滸伝」松竹
昭和34(1959)「血闘水滸伝怒涛の対決」東映
昭和35(1960)「大利根無情」松竹
昭和37(1962)「座頭市物語」大映
昭和38(1963)「利根の朝焼け」東映
昭和40(1965)「天保遊侠伝代官所破り」東映
昭和51(1976)「天保水滸伝」大映
□座頭市
昔、「市」という風来坊の人物が飯岡にやってきて、助五郎の子分のようなことをやっていた。市は目が見えなかったが、枡を放り投げて落ちてくるところを斬るという芸当はできた。若い娘といっしょになってしばらく飯岡に滞在していたが、助五郎のことが嫌になってこの土地を去った。
「遊侠奇談」の作者子母澤寛が、天保水滸伝のことを調べに飯岡を訪れた際、宿屋のおやじからこの話をききました。これをヒントにして子母澤寛が「座頭市」の話を作り、それが映画化されて人気となりました。

座頭市物語発祥の地の標柱(飯岡 玉崎神社前)

座頭市物語の碑(飯岡)
東日本大震災で津波が飯岡を襲ったとき、この碑につかまって助かった方がいたとのことです。
「座頭市物語」
1962年「座頭市」シリーズの第1作映画が公開されました。
監督:三隅研次、座頭市:勝新太郎、平手造酒:天知茂
日光で知り合った縁で座頭市が飯岡助五郎一家を訪ねる。飯岡一家は笹川一家と抗争中。助五郎は居合の達人の市を一家に迎い入れる。一方笹川一家では江戸から来た剣豪平手造酒が用心棒となる。ため池の釣り場で、市と平手造酒は偶然知り合う。平手は市がただ者ではないこを見抜き、やがて二人の間に友情が芽生える。市は労咳の病が進行している平手を気遣う。
平手が病に倒れたことを知った飯岡一家は笹川への喧嘩出入りを決める。それを知った平手は病をおして笹川の喧嘩場に出向き、飯岡一味を次々に斬る。そこに現れた座頭市に平手は真剣勝負を願い出る。「死に土産に平手造酒と座頭市の真剣勝負がしたい。貴公もわしの太刀筋を知りたくはないか」「やるからには後へは引けませんよ」橋の上で座頭市と平手造酒の一騎打ちが始まる。
ざっとこのような展開です。座頭市は一宿一飯の恩義で笹川には出向いたのではない、むしろ助五郎一家のふるまいを見てやくざ稼業に愛想が尽きた、というのがポイントです。終始筋が通った、それ故に悲哀を背負うしかない座頭市を勝新太郎が好演しています。
■演劇(戦前)
平成5年に開催された千葉県立大利根博物館特別展「天保水滸伝の世界」の展示図録に天保水滸伝関係演劇年表が載っていました。1867(慶應3)年から1989(平成元)年にかけての天保水滸伝関係の公演が並んでいます。大正期以降大衆文化が栄えてからは日本国中の至るところで、記録にも残らないものも含め、多くの天保水滸伝の芝居がかかったことと思います。この表がどのような方法と基準でピックアップしたものかわかりませんが、明治期の歌舞伎の情報などは貴重ですので、ここに戦前の部分のみ記載いたします。
慶應3 守田座「群清滝贔屓勢力」河竹黙阿弥作
明治8 守田座「夜講釈勢力譚話」河竹黙阿弥作
明治14 南座「天保水滸伝」
明治21 千歳座「夜講釈勢力譚話」河竹黙阿弥作
明治29 市村座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治31 演伎座「群清滝贔屓勢力」河竹黙阿弥作
明治33 東京座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治39 明治座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治39 東京座「天保水滸伝」
大正13 公園劇場「平手造酒」
大正13 常盤座「天保水滸伝」
大正14 末広座「天保水滸伝」
大正14 常盤座「笹川繁蔵」
昭和5 角座・演舞場「天保水滸伝」
昭和5 歌舞伎座「笹川一家」
昭和8 角座「天保水滸伝」
昭和14 浪花座「天保水滸伝」出演:中野弘子
前述のとおり、天保水滸伝の演芸における初期の主役の座は勢力富五郎にありました。黙阿弥は勢力を主人公とする歌舞伎を3作作ったようですね。

明治8年「夜講釈勢力譚話(よごうしゃくせいりきばなし)」
戦前の新聞で天保水滸伝の演劇公演の記事が載っていないか探したところ、上記の公演に触れているものがみつかりました。
明治21年7月13日読売新聞
千歳座 同座の二番目狂言天保水滸伝の場割りは栗林縄手の場、勢力住居の場、明神山鉄砲腹の場、鎮守祭礼喧嘩の場にて其役割は水島左門「高福」白滝佐吉「家橘」奇妙院「彦十郎」暗闇の牛蔵「鶴五郎」子分文二「仁三郎」同甚兵衛「幸右衛門」飯岡捨五郎「我堂」下女お虎「芝次郎」勢力富五郎「芝翫」なり又中幕の郷の君と娘しのぶは和三郎の役なりしが今度鶴松勤める事になりしという
大正13年12月22日読売新聞
常盤座の同志座劇二の替わり天保水滸伝は精々目先の変る盛沢山、金井の平手造酒は大菩薩峠の机竜之助の如く、森栄治郎の笹川繁蔵、月形半平太のような処があるかと思うと清水の次郎長然たる箇所もあり、国定忠治じみた点もあるなどは、まるでよせ木細工。
この記事から、新国劇(大正6年結成、大正8「月形半平太」、大正8「国定忠治」、大正10「大菩薩峠」)が当時人気を博していたことが間接的にわかります。
■歌謡曲
天保水滸伝を題材としてヒットした歌謡曲です。
大衆演劇でも舞踊ショーの歌として、また劇中挿入歌としてとても使用頻度が高かったと思われます。
『大利根月夜』 唄:田端義夫
昭和14年10月、東海林太郎の「名月赤城山」と同時に発売されました。国定忠治VS天保水滸伝の股旅物歌謡曲の対決となりました。東海林太郎はすでに昭和9年の「赤城の子守唄」のヒットの実績がありましたが、田端は新人です。この勝負、どちらも大ヒットという結果になりました。
「あれを御覧と指さす方に~」という歌い出しは大衆演劇ファンの耳にこびりついているでしょう。
三番の歌詞の最後に「故郷(くに)じゃ妹が待つものを」とありますが、平手造酒に妹がいるというのは作詞の藤田まさとの創作です。
『大利根無情』 唄:三波春夫
昭和25年に発売された三波春夫のヒット曲。大衆演劇における天保水滸伝のイメージはこの歌に凝縮されているのではないでしょうか。
「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散り際だけは知っており申す。行かねばらなぬ、そこをどいてくれ、行かねばならぬのだ~」というセリフに合わせて、これまでにどれほど多くの役者が踊ったことでしょう。
■大衆演劇
浪曲、映画で人気があった話は当然旅役者による芝居の演目となりました。現在でも大衆演劇においては平手造酒、笹川繁蔵、飯岡助五郎が登場する芝居が残っています。
現在定番演目としてよくかかっている芝居は「笹川の花会」と「三浦屋孫次郎」でしょう。座頭市と平手造酒の二人を主人公とした芝居も昔から演じられています。南條隆とスーパー兄弟は独自の天保水滸伝新作を積極的に発表していますね。
以下、私が観たことのある芝居の一部を紹介します。
『笹川の花会』
飯岡助五郎の子分、洲崎の政吉が主人公。
【芝居あらすじ】
笹川繁蔵主催による花会の案内状が助五郎に届いた。花会というのは親分だけが集まる博奕の会で、近隣の親分衆を集めるとあって主催する親分にとっては名をあげる大きいチャンス。花会には各親分が大金を持ち寄る。繁蔵は飢饉に困窮する農民を救うという名目で花会を開いたのであった。
助五郎は敵対視している繁蔵が開く花会がおもしろくない。子分の洲崎の政吉に代理出席を命じて義理(奉納金)として5両というはした金を託す。
会場の十一屋に赴く政吉。国定忠治・大前田英五郎といった大侠客も来ている。各親分が持参した義理が貼り出される。どれも五十両・百両といった大金である。親分の名代としてわずかな金しか持参しなかった政吉は、身が縮む思いで義理の金額が発表されるのを聞いている。が、政吉はそれを聞いて驚いた。飯岡助五郎金100両、代貸洲崎の政吉金50両、飯岡若衆一同金50両との発表。政吉はこれが繁蔵のはからいだと気づく。
というのが基本的な話です。大衆演劇ではこれにさまざまなバリエーションがあるようです。最後に白無地の単衣を着た平手造酒と政吉が一騎打ちするというものもあります。
【史実は】
十一屋は当時は商人宿で回船問屋も兼ね家の前には馬つなぎ場などがあり渡世人はここをよく利用していたそうです。繁蔵はよくここにいました。

十一屋のあったところ。右は桁沼側。左手近くに諏訪明神がある。
天保13年の7月27・28日の諏訪明神の祭礼日に、繁蔵は、境内に相撲の租、野見宿禰の碑を建てるという名目で花会を催しました。この花会に誰が出席したかははっきりしません。芝居では、国定忠治・清水次郎長・大前田英五郎など大侠客が出席し、忠治が政吉に対して助五郎本人が来ないことを罵るという場面があります。しかし役人に追われて転々と逃亡していた忠治のもとに花会の案内状が届いて忠治が下総まで出かけたということがあるでしょうか。また次郎長はこのとき22歳で一家をかまえる前ででる。大侠客が出席したというのは作り話でしょうけれど、芝居としては面白いです。脇役にも貫禄ある有名な親分が幾人も出てくるので、座長大会の芝居に向いていると思います。
『三浦屋孫次郎』
大衆演劇ではよくかかる定番演目です。
【あらすじ】
助五郎は繁蔵の闇討ちをたくらみ、その遂行を子分の三浦屋孫次郎に命じるが、孫次郎は断る。7年前に母と妹を連れて銚子の五郎蔵に紹介された助五郎を訪ねて旅をしていた。その途中で母が持病で苦しんでいた際に繁蔵に助けてもらったろいう恩義が孫次郎にはあった。助五郎は7年間の義理と1度の義理は天秤にかけたらどちらが大事だと詰問し、孫次郎は闇討ちを承諾する。助五郎は成田屋を後見にさせる。
ある夜。孫次郎は繁蔵に斬りかかる。しかしそれは本気ではない。孫次郎は繁蔵にわざと斬られるつもりでいる。そこに成田屋が背後から現れ繁蔵を斬る。
虫の息の繁蔵は、恩義のために自分の命を捨てようとした孫次郎に、自分の首を助五郎のもとに届けて義理を立てた後にその首を笹川一家に届けてほしいと頼む。
成田屋が助五郎に孫次郎を裏切ったことを告げる。孫次郎は繁蔵の首を助五郎に渡しに行くが、助五郎から盃を水に流すと言われ、母妹ともにこの土地から出て行けと命じられる。
繁蔵の妻が葬儀の準備をしているところに正装の孫次郎が訪れる・・・。
『座頭市と平手造酒』
いくつかの劇団が座頭市と平手造酒が登場する芝居をたてていると思いますが、ここでは私が観た恋川劇団のものを紹介します。上述した映画「座頭市物語」を下敷きとしています。
飯岡助五郎一家に迎えられた座頭市と笹川一家の用心棒平手造酒は、両一家の争点にある釣りの良場で偶然出会う。二人がお互いの立場が敵同士であると知りながらも意気投合し平手が住む尼寺で酒をくみかわす。飯岡一家も笹川一家も用心棒を道具のようにしか思っておらず、用が済めば捨てるつもり。座頭市も平手も一家に服従するつもりはないが一宿一飯の恩義には報いる覚悟。労咳の平手は自分の余命がわずかなこと悟っており、どうせ死ぬのならつまなぬ者の手にかかるより本当に強い者との勝負のうえ斬られたいと願っている。大利根河原の決闘が始まった。双方の一家の用心棒、座頭市と平手造酒は大利根河原で対面する。平手に好意をもっている座頭市であったが、平手の死への思いを諒解する。座頭市と平手の真剣勝負が始まる…。
2019.9 新開地劇場 座頭市:二代目恋川純 平手造酒:恋川風馬
2020.3 浅草木馬館 座頭市:二代目恋川純 平手造酒:初代恋川純
『大利根月夜』
鹿島神宮の祭礼。平手は酒を飲むことを禁じられていたが、お神酒ならいいだろうと飲んでしまう。飯岡の一味が通りかかった際に、平手の酒に埃が入ってしまう。平手は飯岡一味をやっつける。
飯岡助五郎が惚れた女は繁蔵の子分とできていた。そこから喧嘩がおこりそうになるが平手が仲裁する。
労咳にかかり尼寺で養生する平手。平手を千葉周作道場の娘の早苗が訪ねる。夫の兵馬が変わってしまい道場が落ちぶれたので平手に帰ってきてほしいと告げるが平手は断る。出入りがあることを知った平手は繁蔵のもとに駆けつける。
笹川と飯岡の決闘。兵馬は飯岡の用心棒になっていた。平手と兵馬の一騎打ち。兵馬は負けるが平手も深手を負う。平手は繁蔵の腕の中で息をひきとる。
鹿島の棒祭りの場面は講談や浪曲では定番ですが大衆演劇でかかるのはかなり珍しいでしょう。
■長谷川伸作品と天保水滸伝
長谷川伸原作の「瞼の母」「関の弥太っぺ」は大衆演劇の演目としてもおなじみです。どちらの話も物語背景に天保水滸伝を借りています。
□瞼の母
大衆演劇では水熊横丁の場面から始まることが多いと思いますが、原作戯曲では第一場は次のような場面から始まります。
飯岡助五郎の身内の喜八と七五郎が、江戸川沿岸金町にある瓦焼をしている惣兵衛の家を訪ねる。二人は惣兵衛の弟の半次郎を探している。
前の年に繁蔵が助五郎の身内に殺された。その仕返しとして、笹川一家の身内のやくざ2名が助五郎を斬りに行った。それが番場の忠太郎と金町の半次郎。助五郎は掠り傷で済んだが、助五郎身内の友蔵、金四郎が死んだ。喜八と七五郎はその敵討ちのため、半次郎を追ってここまで来たのである。
半次郎の身を案じて、忠太郎も瓦焼の家を訪ねるが、半次郎の妹や母は、半次郎は家にいないと必死に隠す。忠太郎はその親身の情を羨ましく思い、わが身の悲しさ憂う。
忠太郎は、半次郎とともに、喜八と七五郎を返り討ちにする。
忠太郎は紙に「この人間ども 叩ッ斬ったる者は江州阪田の郡 番場の生れ忠太郎」と書くが、字を知らない忠太郎は、半次郎の母に手をとってもらう。その際忠太郎は母を思い出して涙ぐむ。
ちなみに映画「瞼の母」(昭和37年、加藤泰監督)は金町の半次郎(松方弘樹)が飯岡助五郎に斬り込みにゆく場面から始まっています。
□関の弥太っぺ
主役は関の弥太っぺこと弥太郎。準主役が箱田の森介。
戯曲には天保水滸伝でおなじみの人物、笹川繁蔵、勢力富五郎(戯曲では留五郎)、清滝の佐吉、神楽獅子の大八がでてきます。
下総菰敷の原。夜更け。神楽獅子の大八は子分数名を従えて繁蔵を待ち伏せしている。
一方、清滝の佐吉のもとに草鞋を脱いでいた森介と、勢力留五郎のもとに草鞋を脱いでいた弥太郎は今晩勝負をつけることを決めており、それぞれやっかいになった家を出る。佐吉と留五郎が見守る中、森介と弥太郎の一騎打ちが始まる。そこに籠に乗った繁蔵が通りかかる。繁蔵の口ききで森介と弥太郎は仲なおりする。一同は歩いて帰ってしまい、大八の待ち伏せは失敗する。
【あとがき】
忠臣蔵(義士伝)は講談・浪曲・映画・芝居・テレビなど大衆芸能・大衆娯楽によって国民に広く親しまれた物語です。しかし昨今では「国民的物語」というほど広く認知されなくなったように思います。どうしてそうなったのでしょうか。
物語の内容が現代の世相に乖離してきたからという見方が一般的なのかもしれませんが、私は芸能や娯楽に親しむ人々の「楽しみ方」が変わってきたからという側面もあるような気がします。
義士伝に親しんでいた人たちは<自分の義士伝の世界>をそれぞれの心の中に持っていたのだと思います。芸能や映画を通じて義士伝に触れる楽しさは、自分の中の義士伝の世界が広がったり変容したりしてゆく楽しさだったのではないでしょうか。だから同じネタであっても、それが自分の中の世界を色濃くしてくれるものであれば、何度見ても飽きることがない。いろいろな脚色があってもバリエーションとして楽しむことができる。銘々伝など脇役の話もさらに世界が広がって面白い。寄席や映画館に足を運ぶ人々の胸中には、自分の中の物語を育てる楽しみがあったのではないでしょうか。多くの人々が育てて楽しんだ物語こそ国民的物語といえるのだと思います。現代の消費文化では、暮らしの中でたまに思い出したりしながら長い月日をかけて育てるという悠長な楽しみ方はそぐわないのかもしれません。また、物語を育てる楽しみがあっても、その世界に触れる機会が身の回りにないと継続してゆきません。上演・上映の機会が減る→育てる楽しみがそがれる→人気が落ちる→上演・上映の機会が減る、という負のスパイラルも義士伝の人気の衰退の一因のように思います。
天保水滸伝もかつては国民的物語だったのだと思います。かつてのように誰でも知っている物語として人気がよみがえることもないと思います。しかし大衆演芸好きな人々にとっては、おなじみの演目であり自分の中で育てて楽しむ物語であり続けてほしいと私は願っています。しかし現在の大衆演劇では天保水滸伝関係の演目は人気がないのかあまり上演されないのが残念です。
このブログは、大衆演劇ファンの方がもっと天保水滸伝を楽しむきっかけになればという思いから作成しました。大衆演劇は将来の衰退があやぶまれています。何度見ても楽しめて自分で育ててゆけるような物語を劇団とお客さんが共有することはその活路のひとつではないでしょうか。
□参考文献

「遊侠奇談」子母澤寛
「任侠の世界」子母澤寛
「実禄天保水滸伝」野口政司
「天保水滸伝余録」
「飯岡助五郎正伝」伊藤實
「大原幽学と飯岡助五郎」高橋敏
「博徒の幕末維新」高橋敏
「考証天保水滸伝」今川徳三
「関東侠客列伝」加太こうじ
「民衆文化とつくられたヒーローたち-アウトローの幕末維新史-」
千葉県大利根博物館特別展「天保水滸伝の世界」図録
「八州廻りと博徒」落合延孝
「国定忠治」高橋敏
「河岸に生きる人びと」川名登
「利根川東遷」澤口宏
「笹尾道場と幕末剣士」青柳武明
「浪花節繁盛記」大西信之
「話藝-その系譜と展開」
その他いくつかの書籍を参考にしました。
また小説として次の本を読みました。
「巷説天保水滸伝」山口瞳
「私家版天保水滸伝」高橋義夫
「天保水滸伝」柳蒼二郎
「燃える大利根」伊藤桂二
巷説天保水滸伝は飯岡助五郎と笹川繁蔵がどちらもとても魅力的に描かれており、天保水滸伝に興味がある方に是非おすすめしたい小説です。