WIKIレンタル 大衆演劇探訪記 「吉良の仁吉」「吉良吉良上野介義央」ゆかりの地「吉良」探訪日記
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「吉良の仁吉」「吉良吉良上野介義央」ゆかりの地「吉良」探訪日記

大衆演劇や浪曲でおなじみの清水次郎長伝と忠臣蔵。
どちらにもでてくるある土地が気になっていました。

次郎長伝の「吉良の仁吉」と
忠臣蔵の「吉良上野介義央」
大衆芸能の有名人であるこの二人のゆかりの地「吉良」とはどんなところなのか。

浜松に行く用事があったのでついでに吉良を探訪することにしました。

現在の愛知県東部が昔の三州すなわち三河の国。その南部、渥美半島と知多半島に囲まれた三河湾に面した地域に吉良町はあります。

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愛知県蒲郡から西へ延びる名鉄蒲郡線。
蒲郡駅から終点吉良吉田駅行の電車に乗りました。

約30分で吉良吉田駅に到着。ここで名鉄西尾線に乗り換えます。
隣駅の上横須賀駅で降りました。

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吉良町では観光客向けになんと無料のレンタルサイクルを用意してくれています。
その名も「赤馬GO!(あかうまごう)」
これはありがたい。今回の観光ルートは徒歩ではとても回りきれません。
近くの喫茶店が受付場所になっています。対応していただいた方の反応から察するにあんまり観光客はいないみたい。自転車は数台しか用意されていませんでしたがそれで十分なのでしょう。

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吉良にゆかりがある有名人はまだいます。小説「人生劇場」を書いた尾崎士郎。
現在の私の家の近くに「馬込文士村」という大正から昭和初期に多くの文士が暮らしていた界隈がありますが、人望の篤かった尾崎士郎が多くの友人知人を家に招いたことがその契機だったのだとか。文士村は私の散歩コースのひとつとなっています。せっかくなのでいまこのブログは村田英雄の歌謡浪曲「人生劇場」を流しながら書いています。

尾崎士郎生誕地の碑を見学。そこから自転車でちょっと進んだところに「人生劇場公園」を見つけました。

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公園の中にあった「忠臣蔵サミット記念樹」の碑。いったいどんな会議だったのか。

後で吉良町のホームページで調べてみたら次のように書かれていました。
『義士親善友好都市交流会議(義士サミット)は、平成元年に兵庫県赤穂市の呼びかけにより、「赤穂義士ゆかりの地」の所在する全国の自治体が、親善と友好を深めながら情報交換を行い、地域の活性化と発展向上のために相互協力していくことを目的に創設されました。松の廊下の元禄事件以降、交流のなかった吉良町と赤穂市ですが、平成2年に東京都墨田区長の仲介により「復縁」ができました。』
そうか、やっぱり赤穂市と吉良町はずっと仲が良くなかったのですね。

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お目当ての場所に来ました、吉良の仁吉の墓がある源徳寺です。

ここで仁吉の物語を、源徳寺第十八世藤原英峰著「吉良の任侠」をもとにざっと書いてみたいと思います。

仁吉は天保10年(1839年)三州吉良の横須賀に生まれる。
仁吉の父善兵衛はその父佐次兵衛とともに江戸から流れてきた武士。行くあてもなくたどり着いた源徳寺で住職に助けられ、刀を捨てて寺男となる。住職から寺所有の家をあてがってもらった善兵衛は、綿の実を買って売り歩く仕事を始める。仁吉もその仕事を手伝って貧しい暮らしを助けた。
仁吉は成長すると「男になりたい」と剣術道場の門弟となり、大いに腕をあげた。大男の仁吉は相撲もめっぽう強かった。生来無口だったが回りからは愛され「だまり地蔵」の仇名がついた。

侠客の親分寺津の間之助と兄弟分となる。間之助の片腕として貫禄をつけ人気を得た仁吉は、間之助のすすめにのって清水の次郎長にあずけられることに。仁吉は18才から3年間次郎長のもとで過ごす。貸元としての力を身につけて名声を高めた仁吉は故郷で吉良一家を立てることとなった。次郎長は女房のお蝶に酒の用意をさせて、子分の前で仁吉と兄弟分の盃を交わした。
治安の悪かった西三河で仁吉の帰郷は喜びとともに受け入れられた。仁吉の人気は高く、多くの旦那衆が寄進し、子分も増え、吉良一家は隆盛した。

伊勢では、大貸元として羽振りを利かしていた神戸屋の祐蔵が引退して、その子分二人が勢力を分け合って一家をかまえてた。
ひとりは神戸の伝左衛門。次郎長勢力圏にあって、伝左衛門は仁吉に会う前からその噂はきいていた。
ひとりは桑名を根拠地とする穴太(あのう)の徳次郎、略して穴太徳。徳次郎は、勢力拡大の気性が強い。同じく一家の隆盛に意欲をもやしている黒駒の勝蔵と同盟を結びその傘下に入っていた。勝蔵同様徳次郎も一家の力をつけるために浮浪武士をかき集めていた。信州松本の浪人角井門之助もその一人である。

ある年の正月、仁吉は子分の幸太郎と伊勢参りの旅に出た。この地の貸元への挨拶回りを考え伝左衛門と徳次郎を訪ねた。
仁吉はまず伝左衛門に会いに行った。次郎長から仁吉を引き立ててくれと頼まれていた伝左衛門は仁吉を歓待し、息子長吉と共に3日間にわたって親交を深めた。
次に仁吉は徳次郎を訪ねた。勢力拡大に余念のない徳次郎は体格のいい仁吉を見て、限りを尽くして仁吉をもてなした。後日徳次郎は、妹のおキクを仁吉に娶ってもらいたいと、寺津の間之助に願いでた。
間之助は、黒駒系の徳次郎が清水系の仁吉に対して妹を差し出したのには政略的な考えがあること、おキクが徳次郎の本当の妹でないことを察知していた。間之助は西尾の治助(若い頃の次郎長が世話になった親分)に相談して考えた末、今後一切徳次郎がかかわらないのであればこの話を承諾すると先方に伝えた。間之助には、徳次郎が条件にを受け入れずこの話が解消するとの思惑があった。しかし徳次郎が条件を快諾したため、仁吉はおキクを娶ることとなった。このとき仁吉27歳、おキク20歳。おキクは徳次郎には似ず、気立てが優しかった。仁吉によく仕え、骨身を惜しまず一家の世話をして立派な姐御となった。

神戸一家と穴太一家との間に大きな喧嘩があった。
東富田の蛤屋、三筋屋の娘お琴をめぐって、穴太徳の子分の上州無宿の熊五郎と長吉の一の子分加納屋利三郎との間にもめごとがおこった。これが発端となって穴太徳一家と長吉一家との間の争いとなり、ついに追分の一本松でものすごい乱闘が起った。五分五分の物別れとなったが、この騒ぎにより役人の目を逃れなければならなくなった長吉は国を逃れた。

神戸一家の縄張りに荒神山の賭場があった。ここは一日千両のテラ銭をあげる東海近畿屈指の賭場である。
長吉が国を離れているうちに、穴太徳は荒神山の賭場をのっとってしまった。
これを知った長吉は荒神山を奪い返すことを考えたが力が足りない。南勢の大親分小俣の武蔵屋周太郎や稲木の文蔵に協力を求めたが聞き入れられなかった。長吉は吉良へ向かった。

このとき吉良の仁吉の屋敷には、大政、小政、桶屋の鬼吉、大瀬の半五郎、法印大五郎などそうそうたる清水一家の子分十八人衆が起居していた。信州での黒駒一家と清水一家の抗争の際に民家を焼くという不始末を犯して次郎長の怒りを買った子分が、次郎長へ詫びを入れてほしいと仁吉を頼って来たのである。
仁吉が清水に向かおうとした矢先に長吉が訪ねてきた。長吉は仁吉に愚痴とばかりに事の次第を話した。
これを聞いた仁吉はしばらく考えた後、硯と紙と取り寄せて筆を走らせた。おキクを呼び、今しがた書いた離縁状を渡して伊勢へ帰るよう命じた。「もしお前さん、私はこんな離縁状をもらう落度はございません。いやです。いやです」おキクは仁吉の膝にしがみついて泣いた。「半年の間よく尽くしてくれた。伊勢に帰って、吉良の仁吉は男だ、義理人情を捨てた犬畜生は嫌いだと兄貴に伝えてくれ」
これを見た長吉はあわてて「罪のない姐御を泣かしてすまなかった。今の話は水に流して夫婦仲良く暮らしてくれ」と仁吉に詫びたが、仁吉は「馬鹿野郎、ふざけるな。仁吉も男だ。恋女房のおキクを離縁してまでも受けた限りは、命にかけても荒神山は取り戻してみせるのだ」と長吉をにらみつけた。

かくして神戸方と穴太方とで荒神山争奪の決闘が起こった。
清水の十八人衆は仁吉に加勢することを申し出た。
黒駒の勝蔵の後ろ盾もあって穴太方は大軍勢を集めた。総大将の角井門之助は猟師十数名も雇っていた。
目明しが調停に努めたが、穴太方が応じなかったために不首尾に終わった。4月8日の午前8時から正午まで両軍は荒神山で睨み合っていた。大政率いる一軍が動いて敵方と接触し、両軍入り乱れての混戦となった。
門之助は仁吉を撃つよう命じた。銃声が鳴って仁吉が倒れた。仁吉を助けようと大政が走ったが躓いて倒れてしまう。それを見た門之助がしめたとばかりに大政に斬りかかった。大政は体勢不十分ながらも槍で門之助を突き上げた。これが命中して門之助は地面に投げ出されて、大政はすかさずとどめの槍を突いた。
もともと連帯のない寄せ集め集団の穴太軍は総大将が討ち取られて戦意を喪失し退却した。
この騒動による穴太方の遺棄屍体は門之助以下5名。神戸方で死んだのは、仁吉と仁吉の子分の幸太郎、清水一家の法印大五郎の3名であった。仁吉28才であった。

おキクの身柄は間之助に預けられていた。船から仁吉のなきがらがあげられた時におキクは姿を見せていた。が、その後行方知れずとなった。
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さまざまな形で伝えられている次郎長の物語は、明治17年に出版された「東海遊侠伝」という伝記を拠りどころとしています。大衆に広く知られている次郎長伝は三代目神田伯山が東海遊侠伝をアレンジしたものです。
長谷川伸「荒神山喧嘩考」では、東海遊侠伝、伯山の次郎長伝、郷土史、その他諸説を比べながら荒神山の決闘の史実について考察しています。実にいろいろな話が伝わっています。つまり「本当でない話」が多いということでもあります。「吉良の任侠」著者も「荒神山喧嘩考」をはじめ多くの資料をもとに時間をかけてまとめたようですが、エピソードの選択にはかなり苦労したものと思われます。
上記物語は「吉良の任侠」の内容に従って、私自身が理解しやすいように私の解釈でまとめたものであることをお断りしておきます。
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ついでに、仁吉物語について私が心をうたれたものを2つ紹介しておきます。

「虎造の荒神山」(昭和15年東宝)という広沢虎造が旅する浪曲師の役として(この時代には浪曲はなかったはずだが)登場する映画があります。その中の、仁吉がお菊に三行半を渡す場面の台詞を再現します。

仁吉「お菊、何の罪もねえのに離縁されるお前にはさぞいいたい文句もあるだろうが、人の弱みにつけ込んで縄張りを盗ったりする火事場泥棒のような野郎を親父に持っていたら、吉良の仁吉の男が立たないんだ。何も言わずにけえってくれ」
お菊「…よく、わかりました」
長吉「兄貴、待ってくれ、兄貴、ありがてえ、今のその言葉だけで俺はおふくろに立派な土産ができたんだ。しかし好いた同士が一緒になってまだ夢の間。そんな仲のいい夫婦の間を俺のような意気地のねえ兄弟分が来たために別れさすなんて、そんなことできやしねえ。できやしねえよ」
仁吉「やかましい。長吉、お前は俺のうちに一体何をしに来やがったんだ。俺はな女房の縁にひかされて人の仁義を守れないような、そんなだらしのねえやくざじゃねえんだ。お菊を離縁してしまえば安濃徳とはもとの他人よ。俺はこれから掛け合いに行って、徳次郎が ああすまなかった、俺の了見違いだった、仁吉勘弁してくんなと冗談でもいい謝って、素直に荒神山の縄張りを返してくれりゃそれでいいが、いやだと言いやがったら、お前と俺の死に場所はあの伊勢の荒神山と思えばそれで済むんだ。な、長吉、お前は黙って下がっていてくれ。お菊、お前はよくわかっているはずだったな。さ、長吉に何か言ってやってくれ。何を黙っていやがるんでい、お菊!」

続いて「荒神山喧嘩考」より。喧嘩には大勢の見物人がいました。そのひとりの談話が次のように紹介されています。
「鉄砲があるから危ない危ないといっているうちに、人に揉まれ空溝へ落ちると間もなく、鉄砲の音がした、出てみると煙で喧嘩の方がまるで見えない、神戸方がみんなやられたのかなァと話合っているうち、煙の薄くなった中で長吉方の津賀の与次というのが起った、と又、仁吉があの大きな体を起したのがくッきり見えた、と鉄砲の煙と音も一緒に仁吉の体がくるッと引ッくり返ったかと思うと、むッくり起って、恐ろしい勢いで斬りこんで行った。仁吉は門之助とやり合って、相手の左の太腿へ深く切りつけ、自分も顔や頭や肩先をやられブッ倒れ、門之助は片足でぐるぐる廻りをして西の方へ逃げるような恰好をしてばたッと倒れた、そこへ神戸勢が折重なるように斬込んで行くのがみえた」
撃たれても撃たれても鬼の形相で敵に大将に向かってゆく仁吉の姿が思い浮かびます。
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では源徳寺のレポートを再開します。

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本堂の前には「義理と人情」の碑。
若干浮いた存在の顔出し看板。

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仁吉の墓は仁吉の一周忌に次郎長が建てました。
「仁吉が荒神山へでかけるときに祝い餅をついた臼」というものも置いてありました。

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本堂の中で仁吉グッズがいくつか売られていました。湯のみやお守りなどあれもこれもと購入したところ、お寺の方(若いお兄さん)に喜ばれて、本堂の隣の資料室の見学料を無料にしてもらえました。しかもお兄さんは資料室で丁寧に解説してくださいました。
写真は仁吉の家に伝わる法被。その他にも匕首、たばこ盆、たばこ入れ、お菊が使っていた鏡や油壺、箪笥、仁吉の家の写真などが展示されていました。仏壇と仁吉の位牌もこの部屋にありました。

お土産をたくさん買ったからか、あまりに熱心に見ていたからか、お兄さんが「寺の家宝をお見せしましょう」と言ってあるものを持ってきてくれました。

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お兄さんが寺のどこかからか持ってきてくれたのがこの「テラ銭箱」。
実際に次郎長と仁吉が使っていたものだそうです。触ってもいいとおっしゃるので遠慮なく触らせていただきました。次郎長と仁吉が使っていた博徒の道具に触れながら、当時どのような賭場が開かれていたのか思いをめぐらします。感動的なひとときでした。

お寺のお兄さんは、昔の浪曲をきいた人しか仁吉のことを知らなくなったと嘆いているようでした。今でも大衆演劇で吉良の仁吉のお芝居をやっていますよ、とお伝えすると、お兄さんは「知りませんでした、勉強になりました」と云っていました。やっぱり全国どこでも大衆演劇は知る人ぞ知る世界なんでしょう。

お寺のお兄さんにお礼を言って、源徳寺を後にしました。
今度は自転車を北に走らせ吉良家の菩提寺に向かいます。

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華蔵寺(けぞうじ)に着きました。
吉良義央の墓のほか一族の墓それぞれにきれいな花が供されていました。

墓所の近くに「真実を求めて」という大きな石碑が立っています。
そこには、
「吉良公は、治水等の功績が大で、評判の良い名君であった」
「名君を暗殺したものを忠臣としたのでは、武士道にも反し、芝居にもならないので、小説家劇作家たちが興味本位にいろいろのくりごとをして吉良公を極悪人に仕立て上げ忠臣蔵として世間に広めたものである。」
と書かれています。
確かに私が見たことのある忠臣蔵の映画やドラマはどれも吉良上野介が本当に憎たらしく描かれてしました。

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吉良上野介義央は赤馬に乗って領内を巡視していたとのことで、吉良町ではこのような像をところどころで目にします。レンタルサイクルの名前「赤馬GO!」もこのことにちなんでいます。
義央公はここでは名君として慕われているのですね。

私はこの旅から帰ってから「吉良上野介はそんなに悪い人じゃなかった疑惑」が頭を離れず、しばらくの間は忠臣蔵の浪曲を聞いていても、「無念じゃ」という彼の声が聞こえてくる気がして、素直に楽しめませんでした。

華蔵寺を後にして上横須賀駅へ戻り自転車を返却しました。

この後、この日泊まる大衆演劇場へ向かいます。
旅のレポートの続きは「みかわ温泉海遊亭」の探訪記にて。

(2013年6月探訪)

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Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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