WIKIレンタル 大衆演劇探訪記 2022年01月
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長崎さすらい 冬の大村湾 カラオケ居酒屋から生まれ変わった演芸場 優木劇団単独公演 「松原の大衆演芸場 美山」

長崎さすらい 冬の大村湾 カラオケ居酒屋から生まれ変わった演芸場 優木劇団単独公演 「松原の大衆演芸場 美山」

長崎さすらい 1日目

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早朝の羽田空港。
乗客を飛行機へ輸送するバスの待機所で私はひとり、旅立ちの朝特有の胸のときめきを静かにかみしめていました。

9:20頃、飛行機は大村湾に浮かぶ島のような長崎空港に到着。
私は諫早方面行きのバスに乗りました。

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大村駅前バス停で下車し、駅舎に行って電車の時刻表を確認します。
目指す松原駅に停まる電車が来るまであと1時間近くあります。

大村はかつての城下町。玖島(くしま)城跡がある大村公園に行きたかったけれど、駅からちょっと離れていて時間が足りなそう。アーケード商店街など大村の町を散策する。
閑散とした通りで、保育士さんに連れられた保育園児の一群と何度かすれ違う。

10:53大村駅からJRシーサイドライナー・佐世保行に乗る。
その名の通り電車は大村湾の近くを走行する。
海と線路がかなり接近してきたところで、電車は松原駅に到着。

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ひっそりとした無人駅。
冷たい空気をたたえた冬の青空と遠くの山並み。雑然とした東京から離れた解放感。
今日はこの駅の近くにあるという大衆演芸場を訪ねます。

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観劇帰りの電車の時刻をチェック。
1時間に1本程度しか電車がこないので、帰る時間には要注意だ。

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駅から少し歩くと、遮断機のない人間専用の踏切がありました。
線路を横断します。

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演芸場の裏手らしきところに着きました。
表にまわってみましょう。

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まさにここが今日の目的地「大衆演芸場 美山」でした。

あまり栄えていない、というよりむしろ人の気配に乏しい地域。その国道沿いに、ぽつりと不思議に存在する演芸場。
古そうに見える1階建て、たて長の家屋は「小屋」と表現したくなる愛らしさがあります。

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近くに寄ると、タイムスリップして数十年前に来たような味わい深さを感じます。
でもここは令和にオープンした大衆演劇場なのです。

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「大衆演劇」ではなく「大衆演芸」という語を使っているのがいいな。
「プラン」という語に、ちょっと遠くからでも小旅行気分で来てくださいというニュアンスを感じます。

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私が訪ねた日はお正月特別公演期間中でした。
受け持つのは優木誠座長率いる優木劇団。
2018年3月の青森県の深浦観光ホテル以来の優木劇団単独公演です。
そしてこの1月公演を機に、花形だった優木直弥さんは若座長に昇進しました。

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小屋のとなりに宣伝車が停まっていました。
旅芝居の宣伝車。風情があってよさそうですね。
どのような音楽やアナウンスを流しながらどんなところを走っていたのだろう。

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この大衆演芸場は以前はカラオケ居酒屋でした。その時のものと思われる看板がまだ小屋の外壁に残っていました。

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入口扉の両脇に大きな門松が飾ってあります。

昼の部は13時開演ですが、演芸場は11頃には入場可能となります。
まだ11時過ぎですが、場内に入ってゆっくり開演を待ちたいと思います。

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入口扉入ってすぐ左手に受付があります。

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手書きの掲示、いいですね。

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入口扉入ってすぐ右手の靴箱に靴を入れます。
正面のカーテンをくぐるといよいよ場内です。

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大衆演芸場美山場内後方より

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長机に座布団。地方の大衆演劇場ではオーソドックスな形式です。

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前方。
定式幕ではなく白いカーテンのような幕。
早く来すぎたようで、カーテンの奥の舞台ではショーの稽古をやっているようでした。

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場内左側面の様子

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このように花道が設けられています。立派な旅芝居小屋です。

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場内前方から後方を見たところ

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元カラオケ居酒屋だったということで、酒場っぽいスペースがあります。

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演劇グラフが積まれていて、料金箱が置かれています。
地方に行くとよく道端に無人の野菜販売所を見かけますが、あれと同じのどかさを感じますね。

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ここではお酒やソフトドリンクもセルフ購入です。
昔の地方の村では外出するときにいちいち家の鍵をかけなかったようですが、悪人の存在を想定しない古き良き日本の風情がここにもありますね。

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今回の座組には演歌歌手も加わっているようです。
優木劇団といえば優木誠座長と優木直弥若座長の二人。今回の公演では他にどんな座員が加わるのか気になるところです。

のんびりと場内で開演を待つ。舞台での稽古も終わったようで、場内には演歌が流れています。
場内にひょっこり優木直弥若座長が現れて演芸場のスタッフのおじさんとなにやら話していました。
その後私を見つけた若座長。私は東京の優木劇団ファンとして認識されていたようで、「あれ、いるはずのない人がここにいる」などとおどけたことを言って私に挨拶してくれました。

また場内で開演を待っていると、この演芸場のマスター美山豊さんが私に挨拶に来てくれて名刺をいただきました。
劇場内に、美山豊さんおよび大衆演劇場美山を取材した新聞記事が掲示してあり、次のようなことが書かれていました。

2021年9月19日の毎日新聞の記事より
「大衆演劇場 美山」劇場主 美山豊さん(72)
大村市出身。大学卒業後建設会社や政治家秘書を務めた後、30代半ばに大衆演劇に魅せられ劇団美山に入る。40代は座員として活躍。57歳の時、大村市松原にカラオケ居酒屋を開店。今年6月に知人の熊本の劇団の座長から「コロナ禍で公演の場がない。助けてほしい」と依頼され、7月に「大衆演芸場 美山」に衣替えし大衆演劇の公演を始める。

なんとマスターは元大衆演劇役者だったのですね。
場内には「美山豊太郎」という役者の写真が飾ってあったけれどこれがかつてのマスターの姿なのかな。

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美山豊マスターがコーヒーをサービスしてくださいました。
旅先のインスタントコーヒーって妙に美味しいのですよね。

次第にお客さんが集まってきました。
団体のお客さんもいます。
若いお客さんはいない。皆ご高齢の方。

13時。いよいよ昼の部の公演が始まりました。

第一部はお芝居。お芝居の演題は場内のどこにも掲示されていません。開演前のアナウンスで初めて演目がわかる、昔ながらの姿。

この日の芝居は、大衆演劇ではおなじみの演目「三人出世」

ちゃんと書割(背景幕)を使った芝居でした。
頭が足りない目明しのトモ役は優木直弥若座長。
その幼馴染、今は怪盗定吉となっているサダ役は優木誠座長。
あとは優木劇団新入りと思われる女優さんが2名と演歌歌手の愛川あいさんが出演されていました。
優木直弥若座長大活躍の芝居でした。芝居の途中で場内から電話の音(多分演芸場の電話)が鳴っても、さらっとアドリブで受け流すあたり十代ながらキャリアを感じます。
涙を誘うラストシーンがあり芝居の幕が閉じました。

続いて口上挨拶

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口上を務めるのは優木直弥若座長。
どんな口上をするのかなと思っていたら、いやー直弥若座長意外と饒舌なんですねえ。

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立ち上がって積極的にお客さんとコミュニケーションをとる若座長。
たっぷり時間を使って場を盛り上げていました。

引き続き、ご祝儀レイ、劇団グッズ等をを販売。

口上挨拶、販売が終わり休憩をはさんで第二部舞踊ショーへ。

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舞踊ショートップステージ。

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舞踊ショーは直弥若座長を中心に構成されています。

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いろいろなスタイルを披露する直弥若座長

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直弥若座長の女形

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優木誠座長
2021年はあまり舞台にたっていらっしゃならかったようですが、ブランクなどまったく感じさせない色気ムンムンの舞踊。

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優木誠座長の女形

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ラストショー。
劇団には3人の女優さんがいるようで、皆さんが舞台に揃いました。

15時45分頃昼の部が終演しました。
芝居に舞踊に口上挨拶に大活躍だった優木直弥若座長。実力あるし芸熱心だしお客さんとの触れ合いを大事にするし、将来いい座長になるでしょうね~。

終演後優木誠座長にもご挨拶をして大衆演芸場美山を後にしました。

松原駅から再びシーサイドライナーに乗って佐世保に向かいます。

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シーサイドライナーの車窓から眺める大村湾の夕暮れ。
車両の中の人々はみんな黙って列車の音だけが響いてる。

佐世保の宿にチェックインして佐世保の夜の街を散歩。
自然派ワインを中心に扱っているイタリアンがあったのでそこで夕食としました。
近辺にワインバーが多い気がしたのでシェフに訊いてみると、佐世保は米軍基地があった関係で古くからワインがよく流通していたとのこと。九州の他の地域よりワインに親しむ人が多いのだそうです。

旅の楽しさが手伝っていつもより多く飲んでしまう。
ホテルに戻って就寝。


長崎さすらい 2日目

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はじめてハウステンボスにやってきました

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ハウステンボスのシンボルタワー、ドルトームンの展望室から眺めた園内。
ハウステンボスは海沿いにあり園内には運河が張り巡らされていてゴンドラで周遊できます。

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さて、ハウステンボスの第一のお目当ては「歌劇 ザ・レビュー ハウステンボス」という歌劇団の公演の観劇です。簡単にいうと宝塚のハウステンボス版ですね。宝塚音楽学校のように歌劇団員を養成する学校もあるようです。チームは6組もあり、それぞれにスターがいます。

11時30分からの昼公演、14時からの屋外公演、そして16時30分からの公演を全部観ました。

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屋内公演が行われるMUSE HALL.。

昼の部はチーム奏(ハピネス)の「ファンタジーミュージカル孫悟空」でした。ミュージカルとショー合わせて約1時間の公演。みなさんクオリティ高かったです。見応えがありました。ちなみにチーム奏のスターは夕貴まことさん。前の日もこの日も観た劇団のトップが「ゆうきまこと」さんでした。

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屋外公演はアムステルダム広場という場所で行われます。とても寒いのに、薄着でも笑顔を絶やさない団員さん。

歌劇団観劇の合間に空いてそうなアトラクションにいくつか入りました。

「ワインの城」というところがありました。園内はお客さんで賑わっているのに、ここにはほとんどお客さんがいない。
ボトルワインの販売の他、グラスでもワインが飲める施設です。
目を引いたのは世界の銘醸ワインがグラスで飲めるコーナー。私のようなワイン初級者涎垂のボトルがいくつも並んでいます。驚いたことに高級ワインのオーパスワンまでもがグラスで飲めるのです。
シャブリのプルミエクリュまでは買って家で飲んだりしているのですがグランクリュは飲んだことがない。チャンスと思いグラスでいただきました。ウマー。ふだんは高級ワインに手が出ない私ですが、誘惑に耐え切れず、五大シャトーのひとつシャトー・ムートン・ロートシルトのセカンドラベルを注文。おお、なんと繊細な香りなのでしょう。旅の解放感も手伝って1杯数千円もするグラスワインを飲んでしまいました。

夕方の歌劇団の公演を観終わると、夕暮れが近づいていました。
空が暗くなった後ライトアップイベントがあるというので観に行きました。

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再びアムステルダム広場。男性二人が歌を歌って場が盛り上がったところでライトアップ。白銀の世界が現れました。

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夜の園内

美しい夜のハウステンボスを後にして再び佐世保へ。
またしてもレストランでワインを飲んでホテルで就寝。


長崎さすらい 3日目

シーサイドライナーに乗って佐世保から長崎へ移動。

昔、隠れキリシタンに興味を持ち関連史跡をめぐって長崎を旅したことがありました。
久し振りに国宝の大浦天主堂に行ってみたい。

路面電車を乗り継ぐ。東京で使っているSUICAがそのまま使えるので便利だ。

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大浦天主堂。
お正月だからか受付に日本国旗が掲揚してある。その向こうに厳然と佇む白い教会。

教会付属の資料館もとても見ごたえがあり、その古風な建物が味わい深いが、あんまりじっくり過ごす時間がない。

大浦天主堂の近くに「軍艦島デジタルミュージアム」があります。軍艦島も今回の旅のテーマのひとつ。
軍艦島、正式名称端島(はしま)は2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄、製鋼、造船、石炭産業」の一つとして世界遺産に登録されました。

その軍艦島をデジタル技術によって再現した施設です。
なかなか工夫されていて興味深く鑑賞できる施設でした。特に、バーチャルリアリティー用のゴーグルをつけて軍艦島上空をエアロバイクで飛行できる体験が面白かった。

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デジタルミュージアムの中には当時の軍艦島の内部を再現したエリアもありました。

さて、ミュージアムの後はリアルの軍艦島へ向かいます。
路面電車を乗り継いで港へ。

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予約したあった軍艦島上陸ツアーに参加。クルーズ船に乗り込みます。

屋外デッキで冬の風を受けながら長崎の海をクルーズ。
軍艦島に向かうまでにいろんな島があって、ガイドさんが丁寧に説明してくれます。

40分ほどで軍艦島(端島)が見えてきました。

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その姿が軍艦「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになった。
これが軍艦に似ていると言われているアングルらしい。

端島は江戸時代に石炭が発見され、1890(明治23)年に三菱が経営に乗り出した。1916(大正5)年には日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建設される。最盛期には5300人もの人々が住み、映画館やパチンコホールもあった。
エネルギー需要が石炭から石油に移ったことで出炭量が減少し、1974(昭和49)年に閉山。同年に無人島となった。

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ついに軍艦島に上陸。
元島民の方がいろんな廃墟を解説してくれました。

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再び船に乗って軍艦島のまわりを周遊。
びっしりとビル群の廃墟が立ち並んでいるのが海からよく見えます。

国家的に反日プロパガンダをしている韓国では、端島で朝鮮人が強制労働により苦しめられたとして「軍艦島は地獄島」などと反日報道している。元島民の証言からも端島にかかわる資料からもこれらが歴史を歪曲した報道であることは明らかである。私は端島炭鉱の第一次資料に触れたわけではないけれども、当時の写真・動画を見て実際に足を踏み入れた体感として、過酷な労働ではあっただろうが反人道的な差別があったとはとても思えない。

さて、軍艦島探訪を終えても、夜の飛行機の離陸までまだまだ時間はあります。どこをさすらおうか。

元マヒナスターズメンバーにしてお笑い芸人のタブレット純さんの「ムードコーラス聖地純礼」という本に長崎聖地巡礼という項があり、長崎ムード歌謡全盛期を偲ぶ散策も頭をよぎりましたが、かつてのキャバレーは今は跡形もないようでもありあまりにもマニアックな放浪な自重しました。
ちなみにムード歌謡の聖地としての長崎についてこの本にはこのようなことが書かれています。

高度成長期、昭和40年代の長崎の街にはキャバレーが大小合わせて十軒くらいあった。その筆頭が「十二番街」というナイトクラブ。東京からお偉いさんが来たらまず「十二番街」で接待するという高級クラブですごいホステスさんが揃っていた。ここで活動していたグループがコロラティーノ。ある時何のトラブルからか、コロラティーノから内山田洋ら4人が脱退して「銀馬車」というキャバレーの専属バンドとなる。これがクール・ファイブ。内山田洋の弟子だった前川清もクール・ファイブに加入してボーカルを務める。一方コロラティーノはサックスの川原弘を迎え彼の作による「思案橋ブルース」を発売して大ヒット。クールファイブは渡辺プロに見いだされて東京で活動を始めるも全く売れず。前川清以外は妻帯者だったが、東京のマンションに共同で棲みながら耐えしのぶ。コント55号が司会の「お昼のゴールデンショー」というテレビ番組に出演したことを契機に大ブレイク。デビュー曲の「長崎は今日も雨だった」は大ヒットとなった。

当時のキャバレーは毎日大変賑わっていたそう。そんな古き良き昭和の長崎繁華街を夢想しながら、令和の長崎繁華街をぶらぶら散歩。

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思案橋横丁にて

ちょうどこの旅の直前に、ローカルな旅番組で思案橋近くの中華料理屋を紹介していたので、その店に入ることにしました。
かなりひなびた感じのいかにも昔ながらの大衆中華といったお店でした。

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皿うどんと餃子のセット。

う、うまい。予想を超える皿うどんの旨さに驚愕しつつ、最初はこんなに食べきれるかなーと思った量をもくもくと完食。一見醤油差しに見える容器には実はソースが入っていて、これを皿うどんにかけるのが地元流のようだ。確かにソースをかけると大衆食堂ならではの味わいが深まり瓶ビールとの相乗効果で庶民的恍惚感を得る。

冬の長崎の街に陽が落ちる頃、路面電車に乗って一人長崎駅へ。
コインロッカーから荷物を取り出して空港行きバスに乗り込む。

 さがし さがし求めて
 ひとり ひとりさまよえば
 行けど切ない 石だたみ

頭の中で「長崎は今日も雨だった」を再生しながら車窓の街を眺めていると、旅の終わりのさみしさがそっと私を包んでいくようでした。

長崎さすらい おわり

(2022年1月探訪)


大阪の下町にある小さな劇団のための小さな劇場 「水車小屋」

大阪の下町にある小さな劇団のための小さな劇場 「水車小屋」

大衆演劇について論じた貴重な書籍である芸双書「かぶく━━大衆演劇の世界」(1982年白水社刊行)に掲載されている橋本正樹さんの寄稿文に以下のような記述があります。

昭和十年から十六年の第一期、敗戦直後から二十八年までの第二期黄金時代には(中略)一座が全国で七百を超えていたと推定される。そして現在、常設館およびヘルスセンターを拠点に公演をつづける大衆劇団は六十五である。全盛期の一割に減少したわけだ。劇団員数も往時とくらべると(中略)三分の一ないし五分の一の平均十二、三人に減っている。

最盛期には劇団員40や50といった劇団はザラにあったのでしょう。すごい世界ですね。そんなに大きい劇場や大きい宿舎がたくさんあったのでしょうか。全盛期を過ぎると劇団の規模が縮小化してゆきます。この本の巻末にある全国の劇団情報によると多くの劇団は座員数が10~15名で、20人を超えると多いなという印象を受けます。

この本が刊行されたのが今から約40年前の昭和57年(1982年)です。ではそれから現在に至るまで大衆演劇をとりまく状況はどのように変化しているでしょうか。1982年と2022年を比較してみましょう。(正確なデータではありません、目安とお考えください)

・常打ちの公演地
[1982]72程度 → [2022]86程度
・劇団数
[1982]65程度 → [2022]100強
・平均的な劇団員数
[1982]10~15 → [2022]10以下?

2022年の平均劇団員数についてはデータがありませんが、私の感覚からして、子役を除けば10人以下の劇団が多いのではないかと思うのでこう記しておきます。

上記の1項目目と2項目目の数字だけ読めば、ここ40年では公演地も劇団数は増えているので、大衆演劇業界がだいぶ活性化しているように見えます。しかし実際はそうではありません。それは上記3項目目の数字、ひとつの劇団の座員数が減っているという傾向から読み取ることができます。劇団数は増えているが劇団員数は減っている。このことにはどのような背景があるのでしょう。

多くの大衆演劇劇団は家族・親族を核として構成されています。仮に劇団座員を[A:家族・親族]と[B:A以外]に分類して、劇団はA+Bで構成されているとしましょう。
私は、ここ数十年の業界には[Aの分裂]と[Bの減少]という傾向があり、少人数劇団の増加という結果に至っていると考えています。

劇団数は増えているということは、座長が増えていると言い換えることができます。
ある座長に子供が何人もいたとして、その子供たちが実力ある役者に成長するとどうなるでしょう。兄弟がそれぞれ座長となって同じ劇団を支えるケースもありますが、子供が本家と分家のように別れて別の劇団を構えることもあります。
また複数の親族が合同で一座を結成していた場合、一つの親族が独立して劇団を立ち上げることもあります。
世代交代の際などに劇団が分裂するのが[Aの分裂]という現象です。

大衆演劇の役者は、親が旅役者だから自分も旅役者になったという役者が多いですが、そのような血縁なく、物心ついてから単身この業界に飛び込んできた者も少なくありません。こうした役者の中には業界内で伴侶を見つけて劇団内で家庭を持つ者がいます。けれども、そのように至らなかった役者についてみると、劇団に残らず結局は業界から去ってしまう方の割合が昔より増えているのではないかと思っています。これが[Bの減少]という傾向です。

[Aの分裂]と[Bの減少]の背景を考えるにあたって、私は[役者一人あたりのお客さん数]という指標を用いてみたいと思います。ある公演において、その公演にかかわる劇団員数の数と来場したお客さんの数の比をみるということです。
[役者一人あたりのお客さん数]が高ければ座員一人あたりの収益性が高く、低ければ座員一人当たりの収益性が低いと言えます。
当然自然の成り行きとして、一人当たりの収益性が高くなる方向=[役者一人あたりのお客さん数]を増やす方向に劇団は向かいます。
ここでの方向は二つ
・お客さんを増やすために公演内容を充実させる→設備や衣装に投資をする。座員を増やして、劇団ができることを増やす。
・少ない座員でもお客さんを集客できるように頑張る
ほぼすべての劇団が、まず前者の方向を志向するでしょう。でもそれがかなわず結局後者の状況になるケースが多いのではないかと思います。
前者を志向したことにより、劇団の持つ資産は数十年前よりとてつもなく増えているでしょう。つまり毎月の移動の経費もかなりの額になっていると思います。だけれどもお客さんが入らずなかなか経費を補填できない。結局座員に還元できる報酬はごく少ないものになるでしょう。[Bの減少]はやむなきことです。企業が労働者に対して不当に低賃金や長時間労働を強いる行為をもって「やりがい搾取」などと言われるようになりました。現代は昔に比べて「やりがい」だけで組織に帰属意識をもたせようとするのは難しくなっていると思います。
投資すればお客さんが増える。この目論見が思いの他うまくいかないことを多くの劇団が気付いたことでしょう。今や劇団員が20名を超える劇団はほとんどありません。劇団員が多いと[役者一人あたりのお客さん数]が小さくなってしまい、経営が厳しくなります。収益性を上げるためには、劇団の規模を小さくせざるを得ません。[Aの分裂]は必然的な傾向と思えます。
これらの傾向の根本の原因は、言うまでもなく、劇場に足を運ぶお客さんの総数が少ないことにあります。新しい大衆演劇ファンを獲得してゆくこと、大衆演劇の認知度をあげることに業界全体(ファンも含め)が力を入れてゆくことが今は何より大事だと思っています。

先ほど、投資してお客さんが増そうと思ってもうまくいかない、と書いてしまいましたが、決して各劇団の努力や工夫が十分でなかったと言っているわけではありません。構造的な問題があると思っています。それはお客さんというパイ(業界ファンの総数)が増えないことと劇場の立地事情です。ここ数十年のうちにできた大衆演劇場は、演劇という商業活動をするには適しているとは言えない立地にあることが多いと思います。そんな劇場でも、娯楽が多様化していなかった時代に育った世代のお客さんが多かった頃はある程度の固定客が確保できていたのだと思います。ところがそんな世代のお客さんが減ったことにより「劇場の常連」も減ってしまったのではないでしょうか。「気軽に観に行ける」のが大衆娯楽の原点。でも劇場が立地の悪い場所にあったら気軽に行くのではなく「わざわざその劇場に足を運ぶ」という行為となります。どの劇団もコンテンツを充実させようと思っています。けれども出し物の力で「劇場の立地の悪さ」という悪条件を克服するのは簡単ではありません。悪立地をものとも思わず遠くからでも来てくれる「役者のファン」を増やすことが集客のよりどころとなってしまうでしょう。近年の業界では、劇団全体で高めるべき芝居の完成度よりも役者個人の魅力を引き立てることを強化してゆく方向、芝居より舞踊ショー重視の方向に進んでいるように思います。

演芸の楽しさには、刹那的な興奮もあればじんわり沁みる感動もあります。どちらも大切な娯楽の要素です。最近の劇団はどうも前者の方に目がいきがちのように私には思えます。衣装に凝る、照明に凝るといった投資もその例です。もちろんそれはいいことなのですが、そちらに目を向けるあまり後者に意識が向かなくなってしまうことを懸念します。旅役者の芸の真骨頂は、お客さんの心根に響くような深い感動を与えることだと思います。芸にかける心意気がお客さんの琴線に触れ、お客さんの心を豊かにします。お客さんを心の底から楽しませる芝居を目指すのにあたって座員の少なさは大きなハンディキャップです。劇団員の縮小化が進んでいる昨今、このハンデを乗り越えようという意識をどれだけ強く持つかが各劇団に問われていると思います。最近の若いお客さんは芝居をしっかり見てくれないとぼやいている役者さんがいます。「だから舞踊の方に力を入れよう」と劇団が考えることに危惧を覚えます。それではいつまでたってもお客さんの「芝居を見る目」が肥えません。「少ない人数でも見ごたえのある芝居をもっと追及しよう」という心意気があればこそ、お客さんの芝居の目がだんだんと肥えてゆくのだと思います。そのことによって業界全体が豊かに熟してゆくでしょう。刹那的笑いをとるためにアドリブで内輪ネタ等を盛り込みその芝居の本質を損なう行為(それは芝居を退屈と思うお客さんへのおもねりでしょう)がこれ以上無暗に横行しないことを願っています。

話を戻しますと、大衆演劇の劇団数は増えていますが劇団員数は減っています。それに呼応するように大衆演劇場の在り方も変わっています。その象徴が大阪の劇場事情です。
先ほど、公演地の数の変化を記しましたが、これを大阪に絞ってみてみましょう。

・大阪の常打ちの公演地
[1982]4程度 → [2005]8程度 → [2022]20程度

ここ数年、大阪では劇場数の増加が顕著です。収容規模の小さい劇場がいくつもできました。数が増え、規模が縮小している。大阪の大衆演劇場は大衆演劇劇団とまさに同じ傾向をたどっています。
いろんな場所に大衆演劇場ができるというのは、いろんな場所にファンを生むことにつながります。首都圏では大衆演劇の存在すら知らない人が多いですが、大阪では東京よりもずっと身近な娯楽として認知されているでしょう。まさに大阪は現代の大衆演劇のメッカです。
小さな劇場に地元の方が集う。私がとても好きな光景です。ですから大阪の小劇場に行くのはいつも楽しみです。

今回は2021年5月というコロナ禍のまっさなかにオープンした大阪にある水車小屋という大衆演劇場を訪ねます。

水車小屋があるのは大阪市生野区。最寄駅は大阪メトロ千日前線の「北巽(きたたつみ)駅」または「小路(しょうじ)駅」。どちらから行ってもそんなに時間は変わらないでしょう。
いかにも下町な場所にある大衆演劇場。わくわくしますね。

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これは北巽駅4番出口を上がって国道を北方面に見たところ。このまま大通りを進みます。

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これは小路駅4番出口。国道を南方面にみたところ。このまま大通りを進みます。

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北巽駅と小路駅の間くらいに「小路東4」という交差点があります。ここを西方面にまさに小路に入ってゆきます。

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しばらく進みますと右手に白く長い建物が見えてきます。

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これが大衆演劇場「水車小屋」がはいっている建物です。
とても昭和なテイストを感じるたたずまい。

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ちなみに白い建物の先には、水車を飾った家屋がありますが、こちらは劇場ではありません。

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焼き鳥屋さんと床屋さんの間に「演劇館水車小屋」の赤い看板。その下にある魅惑の暗がり。吸い込まれそう、、、

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お隣の床屋さんもとっても素敵な雰囲気です。壁際にしまわれている看板には「さんぱつや」と書かれているのでしょうか。

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さあ魅惑の暗がりに入ってゆきましょう。夜の部の前、暗がりに明かりが灯りました。

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暗がり入口付近の壁にある掲示群。休館日などを告知しています。ひっそりと椅子の上に置かれたカゴにはチラシが入っています。劇団ポスターの横には水車小屋の絵が飾ってありますね。

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壁に貼られた開場時間案内。

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建物内部に進みますと左手に劇場入口が見えました。出入口扉のすぐ横についたてみたいのがあって、その裏に受付の方がいらっしゃいます。受付のおじさまに木戸銭を支払い当日券チケットを受け取っていざ内部へ。

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劇場内後方より。客席50に満たない小劇場です。

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右前方から後方を見たところ

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左前方から見渡す場内

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前から4列目は段を設けて高くなっています。

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壁に飾られた水車の写真

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お手洗いは劇場後方

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天井にはミラーボール。
ここはもともとカラオケ店だったようで、その名残ですね。

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前方
舞台と客席がすごく近いです。これが小劇場の醍醐味です。

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幕を開いたところ。天井が高くありませんから舞台も高くありません。

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公演中の様子。

地元のおばさま、いやおねえさまらしき方々も集い、劇団ファンも集い、とてもアットホームな公演でした。
下町の夜の一隅で行われている小さな旅芝居公演。大阪ではこんな舞台の明かりが毎日いろんな場所で灯っています。

東京で毎日あくせく働いていると
大阪で小劇場に通いながらひっそりとつつましく暮らす日々を妄想してしまいます。

小さな劇団と小さな芝居小屋と小さな暮らし。
愛しの大衆演劇よいつまでも。

(2021年12月探訪)
プロフィール

notarico

Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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