島原半島の大自然に囲まれた夢幻楼 「雲仙みかどホテル」
島原半島の大自然に囲まれた夢幻楼 「雲仙みかどホテル」
2019年9月、私の大衆演劇場探訪の旅はひとつの転機を迎えていました。
それまでに訪れていた大衆演劇場は164か所。
このうち常打ちの劇場はほとんど探訪を済ませており、残るは別府座と雲仙みかどホテルの2か所でした。
ついに常打ち劇場探訪制覇を目指して九州に旅立ちました。
まず別府座を探訪し、残る最後の牙城?雲仙みかどホテルがある長崎県へ。
全国に数多くある常打ち大衆演劇場のうち、雲仙みかどホテルへの探訪が最後になってしまったのにはわかりやすい理由があります。
ずばり、とても行きにくい。
あわただしく各地をめぐる旅が多い私にとって、とても旅程を組みにくい場所にあるのです。

この地図のとおり、雲仙みかどホテルがある島原半島は海に囲まれています。さらにみかどホテルは市街地ではなく雲仙の山中にあります。
鉄道で行く場合、JRは島原半島に通じていないので諫早駅から90分バスに乗ることになります。熊本県から船で行くルートだと島原港からバスで20分です。どちらにしても大変です。
私にとって雲仙みかどホテルはまさに「ラスボス」のような遠い存在だったのです。

島原には行ってみたい観光地がたくさんあるので、
私は諫早駅からレンタカーを借りるというプランを立てました。

前日小倉の宝劇場で大衆演劇を観劇した私は翌日早朝小倉から博多へ移動し、特急かもめに乗って9:30頃に諫早駅に着きました。
レンタカー屋さんは駅から少し離れているので、レンタカー屋の送迎者が諫早駅まで迎えに来てくれました。
車で島原半島に入ります。
海沿いの道を通って島原市街からホテルに行くのではなく、雲仙の山を登って行くルートを選択しました。

ドライブの途中で眺めた景色。遠くに海が見える。

ついに雲仙みかどホテルに着きました。
常打ち大衆演劇場探訪コンプリート!
広大な自然が感じられる山の中腹に、神話に出てくる一族の御殿のような、存在感ある建物が連なっています。
私にとっては、長い旅の末にようやくたどり着いたラスボスの居城といったイメージ。

巨木が門を支えています。
雲仙普賢岳の噴火の際に焼け残った樹齢800年の椎木を再利用したようです。神秘的なオーラを浴びながらいざホテルへ。

玄関までの間にもたくさんの芸術的な木が飾られています。
特に大きな樹木には目を奪われます。
ホテルのサイトには「銘木の温泉宿」と書いてありました。

フロント
モダンでシックなフロアがうねるような巨木に囲まれ、SF映画のような非日常感がある空間。
ランチブッフェ&温泉&大衆演劇演劇のセットで税込み2948円という、とてもお得感あるプランを申し込みました。

さっそくブッフェ会場へ。
すごい充実度!かなりクオリティ高いです。
なんてうれしいラスボスクリアのご褒美でしょう。

スイーツの種類も豊富

席数もたくさんあります
この窓際の席は眺めがよささそうです

食事の後は温泉へ
有明海を見渡せる眺めのよい温泉。大自然の中でのこの眺望、最高です。

お風呂の後は大衆演劇観劇。
劇場近くの廊下から見た客室建物。こうして見ると大きな旅館であることがよくわかります。

いよいよ大衆演劇場「みかど劇場」へ。

劇場入口
しれっと入口があって大衆演劇やってるよ感があまりない

後方より

前方は低い椅子

後方はふつうの椅子

場内後方

花道
劇場仕様の部屋ではなく、ホテルの大広間を転用した公演場なので、席によっては舞台が見えにくいと思います。
常設のセンターですと、長い間公演を続けているうちに大衆演劇場っぽい味わいが出てきそうですが、ここは単発のホテル公演の会場みたいにすっきりしています。
大衆演劇場がホテルの場合、会場によって公演の扱いがだいぶ違います。
大々的に大衆演劇公演をアピールするホテル。
ホームページに大衆演劇公演をやっていることすら触れていないホテル。
団体客の食事付き日帰りプランで客を呼び込むことに積極的なホテル。
大衆演劇目的でない宿泊客へのレクリエーションとして公演を行っているホテル。
いろいろな顔を見られることがホテル大衆演劇場探訪の楽しみです。
雲仙みかどホテルはどうでしょう。
昼公演:日帰り観劇プラン、夜公演:宿泊者への無料観劇サービスと、昼と夜とで狙いを分けています。これはホテル公演地のスタンダードな形でしょうか。ホームページでも必要な情報を載せていますし、観劇プランも用意されています。
公演を考察する前にまず、この広大かつ荘厳、そして洗練されている大御殿のような宿が、半島の山の中腹に存在している(経営が成り立っている)ことが驚きです。この夢幻城を存続させるために大変な経営努力が注がれているでしょう。
私の直感ではこの立地にあって大衆演劇公演を行うのは経営的になかなかプラスになりにくいように思います。必要な経費は、ホテルの集客の目玉であるブッフェなどに集中投下するのが合理的でしょう。みかど劇場がさっぱりした印象だったのはそういうことかなと思いました。それでも、月単位の単発公演でなく、毎月大衆演劇公演を続けています。この心意気を賛美したいです。
熊本から船に乗って観に来る大衆演劇ファンもいらっしゃるようです。船に乗って芝居を観に行く。なんて素敵な生活文化でしょう。
隔絶されたような半島の大自然に囲まれた夢幻楼で、旅の劇団が毎日さまざまなタイプのお客さんを迎えている。私はそこにロマンを感じます。

公演中の様子

ラストショー
大衆演劇公演を観終わって私はみかどホテルを出ました。

ホテルの駐車場にはお土産屋さんがあり、私はここでお土産を買いました。
この日私は雲仙温泉街で泊まることにしていました。
みかどホテルから温泉街まではそう遠くありません。
雲仙温泉の旅館にチェックインして有名な雲仙地獄へ。

いたる所から高温の温泉の蒸気が噴出し、強い硫黄臭が漂っています。
キリスト教禁教下の江戸時代、見つかって捕らえられたキリシタンはここで改宗を迫る拷問を受けたそうです。
さて、島原と聞いて思い浮かべるのは島原の乱と天草四郎。
私は20年ほど前「隠れキリシタン」に興味を持ち五島列島や平戸などの隠れキリシタンゆかりの地をめぐる旅をしたことがあります。
けれどその時も島原に訪れることはできなかったのです。その意味でも今回の旅は楽しみにしていました。
ここで島原の乱について簡単に確認しておきます。
* * *
【島原のキリシタン弾圧から島原の乱までの歴史概略】
肥前日野江藩(後の島原藩)主、有馬晴信は熱心なキリシタン大名で、朱印船で外国と貿易を行い、領内にセミナリヨ(神学校)を設立すると1582年には天正遣欧少年使節を派遣した。1587年に秀吉がキリシタン禁教令を出すまで数万のキリシタンを保護したという。
1604年 原城が完成する。三方を有明海に囲まれた天然の要害である。
1612年 岡本大八事件により有馬晴信斬首される。家督を継いだ有馬直純はキリシタン弾圧に転じる。
1614年 家康により禁教令が全国に発布される。
1616年 松倉重政が新領主となる。日野江城、原城を廃城とし、島原城築城に着手する。築城のために重税と労働が課せられ領民は大いに苦しむ。
1925年 松倉重政、家光よりキリシタン禁絶に対する不徹底さを叱責される。
1627年 松倉重政、雲仙地獄でキリスト教を棄教させるための拷問を始める。
1630年 松倉重政死去。家督を継いだ松倉勝家も領民に重税を課す。税未納の領民には蓑を背負わせ火を放つ「みの踊り」の罰を処した。
1633年 天正遣欧少年使節のひとり中浦ジュリアン、長崎で殉教

中浦ジュリアン穴吊りの図
1634年 島原、天草地方で凶作。飢饉が起こる。
1637年
10月24日 島原半島と天草の間にある湯島で一揆軍の首謀者が蜂起について密談。天草四郎を総大将にすることを決定
10月25日 島原で一揆が起こる。有馬村の代官が一揆勢に殺害される。
10月26日 一揆勢、島原城を攻撃。島原城下町に火を放つ。
10月29日 島原の一揆に呼応して天草で一揆が勃発。
12月 1日 島原・天草の一揆勢、島原の原城に籠城。老若男女約2万数千人。
12月 5日 幕府上使板倉重昌、島原城に入り、翌日諸藩を率いて原城に向かう。
12月10日 幕府軍、攻撃開始するが敗北。
12月20日 幕府軍、再度総攻撃するが失敗。
1638年
1月 1日 幕府軍、再度総攻撃するが敗北。板倉重昌戦死。
1月 4日 松平信綱、兵糧攻めに戦術転換。
1月12日 松平信綱の指示によりオランダ船が原城を砲撃
2月24日 一揆勢、食料や弾薬が枯渇。松平信綱に察知される。
2月27日 原城総攻撃
2月28日 原城陥落 城内にいた一揆勢のほとんどが殺される。
* * *
みかどホテルでの観劇の翌日は1日島原のキリシタン史跡探訪デー。
雲仙温泉のホテルから車で出発しました。

日野江城跡
日野江城は有馬晴信の居城で城下はイエズス会の重要な布教拠点だったそうです。

日野江城跡から海の方(原城方面)を眺める

有馬キリシタン遺産記念館
島原市内のキリスト教関連遺産がたくさん紹介されていました
続いて原城跡へ
2018年に原城跡を含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。
その後、原城跡の観光の仕方が変わったようです。
原城温泉真砂というところに車を止め、そこから専用の観光ワゴンで現地に向かいました。
原城本丸の近くで送迎車を降りました。

これは原城の古地図(島原城内のキリシタン資料館蔵)です。
この図の右上が本丸のあるところです。

誰もいない草むらに風が吹いている。
高低差ある地形はかつての城郭の名残であろうか。
死を賭して抵抗した数万の民の霊がここに眠っているのだろうか。

本丸跡から南方を臨む

天草四郎像
原城跡の後は島原半島南部の町、口之津(くちのつ)に向かいました。
ザビエルに次いで日本のキリスト教宣教に貢献したヴァリニャーノというイタリア生まれの聖職者がいました。
1759年(天正7年)に口之津港に上陸したヴァリニャーノは在日の宣教師を招集して日本での布教の方針を検討する会議を開きました。
有馬晴信に洗礼を授けたのもヴァリニャーノです。
口之津は明治時代には三井三池石炭の海外輸出中継港として栄えました。

口之津の歴史民俗資料館・海の資料館に入りました。

口之津劇場の瓦
映画もラジオもなかった時代、船員で賑わう町には当然演芸場や芝居小屋があったのでしょう。

マリア観音も展示してありました。
隠れキリシタンは、キリスト教を信仰しながら表向きは仏教や神道を信仰しているようカムフラージュしていました。
中国から渡ってきた白磁や青磁の慈母観音像をサンタ・マリア像の代わりに仏壇にまつっていたものをマリア観音と呼んでいます。
このブログを読んでいる方の多くは大衆演劇の演目「マリア観音」を思い浮かべたのではないでしょうか。
芝居の「マリア観音」では、マリア観音は「別れ別れになった者が再会できるための願掛け」の像と扱われていて、本来のマリア観音とは全く別の意味合いで使われていることは知っておいてよいかと思います。
島原の旅も終わりに近づいてきました。
島原半島北東部の島原城へ移動します。

前述のとおり、島原城は松倉重政が築いた城ですが、明治に入ってから廃城になっています。
1960年から復元が始まり天守閣は1964年に完成しました。
内部は各階に豊富な展示資料があります。

島原城の前の姫松屋で島原の郷土料理「具雑煮」をいただきました。
この後、武家屋敷街を散歩して島原の旅を終えました。
* * *
現役の常打ちの大衆演劇場をすべて訪ねることができました。
とはいえ今後も次々と新しい劇場が生まれるでしょう。
私の大衆演劇探訪の旅は終わることはありません。
(2019年9月探訪)
2019年9月、私の大衆演劇場探訪の旅はひとつの転機を迎えていました。
それまでに訪れていた大衆演劇場は164か所。
このうち常打ちの劇場はほとんど探訪を済ませており、残るは別府座と雲仙みかどホテルの2か所でした。
ついに常打ち劇場探訪制覇を目指して九州に旅立ちました。
まず別府座を探訪し、残る最後の牙城?雲仙みかどホテルがある長崎県へ。
全国に数多くある常打ち大衆演劇場のうち、雲仙みかどホテルへの探訪が最後になってしまったのにはわかりやすい理由があります。
ずばり、とても行きにくい。
あわただしく各地をめぐる旅が多い私にとって、とても旅程を組みにくい場所にあるのです。

この地図のとおり、雲仙みかどホテルがある島原半島は海に囲まれています。さらにみかどホテルは市街地ではなく雲仙の山中にあります。
鉄道で行く場合、JRは島原半島に通じていないので諫早駅から90分バスに乗ることになります。熊本県から船で行くルートだと島原港からバスで20分です。どちらにしても大変です。
私にとって雲仙みかどホテルはまさに「ラスボス」のような遠い存在だったのです。

島原には行ってみたい観光地がたくさんあるので、
私は諫早駅からレンタカーを借りるというプランを立てました。

前日小倉の宝劇場で大衆演劇を観劇した私は翌日早朝小倉から博多へ移動し、特急かもめに乗って9:30頃に諫早駅に着きました。
レンタカー屋さんは駅から少し離れているので、レンタカー屋の送迎者が諫早駅まで迎えに来てくれました。
車で島原半島に入ります。
海沿いの道を通って島原市街からホテルに行くのではなく、雲仙の山を登って行くルートを選択しました。

ドライブの途中で眺めた景色。遠くに海が見える。

ついに雲仙みかどホテルに着きました。
常打ち大衆演劇場探訪コンプリート!
広大な自然が感じられる山の中腹に、神話に出てくる一族の御殿のような、存在感ある建物が連なっています。
私にとっては、長い旅の末にようやくたどり着いたラスボスの居城といったイメージ。

巨木が門を支えています。
雲仙普賢岳の噴火の際に焼け残った樹齢800年の椎木を再利用したようです。神秘的なオーラを浴びながらいざホテルへ。

玄関までの間にもたくさんの芸術的な木が飾られています。
特に大きな樹木には目を奪われます。
ホテルのサイトには「銘木の温泉宿」と書いてありました。

フロント
モダンでシックなフロアがうねるような巨木に囲まれ、SF映画のような非日常感がある空間。
ランチブッフェ&温泉&大衆演劇演劇のセットで税込み2948円という、とてもお得感あるプランを申し込みました。

さっそくブッフェ会場へ。
すごい充実度!かなりクオリティ高いです。
なんてうれしいラスボスクリアのご褒美でしょう。

スイーツの種類も豊富

席数もたくさんあります
この窓際の席は眺めがよささそうです

食事の後は温泉へ
有明海を見渡せる眺めのよい温泉。大自然の中でのこの眺望、最高です。

お風呂の後は大衆演劇観劇。
劇場近くの廊下から見た客室建物。こうして見ると大きな旅館であることがよくわかります。

いよいよ大衆演劇場「みかど劇場」へ。

劇場入口
しれっと入口があって大衆演劇やってるよ感があまりない

後方より

前方は低い椅子

後方はふつうの椅子

場内後方

花道
劇場仕様の部屋ではなく、ホテルの大広間を転用した公演場なので、席によっては舞台が見えにくいと思います。
常設のセンターですと、長い間公演を続けているうちに大衆演劇場っぽい味わいが出てきそうですが、ここは単発のホテル公演の会場みたいにすっきりしています。
大衆演劇場がホテルの場合、会場によって公演の扱いがだいぶ違います。
大々的に大衆演劇公演をアピールするホテル。
ホームページに大衆演劇公演をやっていることすら触れていないホテル。
団体客の食事付き日帰りプランで客を呼び込むことに積極的なホテル。
大衆演劇目的でない宿泊客へのレクリエーションとして公演を行っているホテル。
いろいろな顔を見られることがホテル大衆演劇場探訪の楽しみです。
雲仙みかどホテルはどうでしょう。
昼公演:日帰り観劇プラン、夜公演:宿泊者への無料観劇サービスと、昼と夜とで狙いを分けています。これはホテル公演地のスタンダードな形でしょうか。ホームページでも必要な情報を載せていますし、観劇プランも用意されています。
公演を考察する前にまず、この広大かつ荘厳、そして洗練されている大御殿のような宿が、半島の山の中腹に存在している(経営が成り立っている)ことが驚きです。この夢幻城を存続させるために大変な経営努力が注がれているでしょう。
私の直感ではこの立地にあって大衆演劇公演を行うのは経営的になかなかプラスになりにくいように思います。必要な経費は、ホテルの集客の目玉であるブッフェなどに集中投下するのが合理的でしょう。みかど劇場がさっぱりした印象だったのはそういうことかなと思いました。それでも、月単位の単発公演でなく、毎月大衆演劇公演を続けています。この心意気を賛美したいです。
熊本から船に乗って観に来る大衆演劇ファンもいらっしゃるようです。船に乗って芝居を観に行く。なんて素敵な生活文化でしょう。
隔絶されたような半島の大自然に囲まれた夢幻楼で、旅の劇団が毎日さまざまなタイプのお客さんを迎えている。私はそこにロマンを感じます。

公演中の様子

ラストショー
大衆演劇公演を観終わって私はみかどホテルを出ました。

ホテルの駐車場にはお土産屋さんがあり、私はここでお土産を買いました。
この日私は雲仙温泉街で泊まることにしていました。
みかどホテルから温泉街まではそう遠くありません。
雲仙温泉の旅館にチェックインして有名な雲仙地獄へ。

いたる所から高温の温泉の蒸気が噴出し、強い硫黄臭が漂っています。
キリスト教禁教下の江戸時代、見つかって捕らえられたキリシタンはここで改宗を迫る拷問を受けたそうです。
さて、島原と聞いて思い浮かべるのは島原の乱と天草四郎。
私は20年ほど前「隠れキリシタン」に興味を持ち五島列島や平戸などの隠れキリシタンゆかりの地をめぐる旅をしたことがあります。
けれどその時も島原に訪れることはできなかったのです。その意味でも今回の旅は楽しみにしていました。
ここで島原の乱について簡単に確認しておきます。
* * *
【島原のキリシタン弾圧から島原の乱までの歴史概略】
肥前日野江藩(後の島原藩)主、有馬晴信は熱心なキリシタン大名で、朱印船で外国と貿易を行い、領内にセミナリヨ(神学校)を設立すると1582年には天正遣欧少年使節を派遣した。1587年に秀吉がキリシタン禁教令を出すまで数万のキリシタンを保護したという。
1604年 原城が完成する。三方を有明海に囲まれた天然の要害である。
1612年 岡本大八事件により有馬晴信斬首される。家督を継いだ有馬直純はキリシタン弾圧に転じる。
1614年 家康により禁教令が全国に発布される。
1616年 松倉重政が新領主となる。日野江城、原城を廃城とし、島原城築城に着手する。築城のために重税と労働が課せられ領民は大いに苦しむ。
1925年 松倉重政、家光よりキリシタン禁絶に対する不徹底さを叱責される。
1627年 松倉重政、雲仙地獄でキリスト教を棄教させるための拷問を始める。
1630年 松倉重政死去。家督を継いだ松倉勝家も領民に重税を課す。税未納の領民には蓑を背負わせ火を放つ「みの踊り」の罰を処した。
1633年 天正遣欧少年使節のひとり中浦ジュリアン、長崎で殉教

中浦ジュリアン穴吊りの図
1634年 島原、天草地方で凶作。飢饉が起こる。
1637年
10月24日 島原半島と天草の間にある湯島で一揆軍の首謀者が蜂起について密談。天草四郎を総大将にすることを決定
10月25日 島原で一揆が起こる。有馬村の代官が一揆勢に殺害される。
10月26日 一揆勢、島原城を攻撃。島原城下町に火を放つ。
10月29日 島原の一揆に呼応して天草で一揆が勃発。
12月 1日 島原・天草の一揆勢、島原の原城に籠城。老若男女約2万数千人。
12月 5日 幕府上使板倉重昌、島原城に入り、翌日諸藩を率いて原城に向かう。
12月10日 幕府軍、攻撃開始するが敗北。
12月20日 幕府軍、再度総攻撃するが失敗。
1638年
1月 1日 幕府軍、再度総攻撃するが敗北。板倉重昌戦死。
1月 4日 松平信綱、兵糧攻めに戦術転換。
1月12日 松平信綱の指示によりオランダ船が原城を砲撃
2月24日 一揆勢、食料や弾薬が枯渇。松平信綱に察知される。
2月27日 原城総攻撃
2月28日 原城陥落 城内にいた一揆勢のほとんどが殺される。
* * *
みかどホテルでの観劇の翌日は1日島原のキリシタン史跡探訪デー。
雲仙温泉のホテルから車で出発しました。

日野江城跡
日野江城は有馬晴信の居城で城下はイエズス会の重要な布教拠点だったそうです。

日野江城跡から海の方(原城方面)を眺める

有馬キリシタン遺産記念館
島原市内のキリスト教関連遺産がたくさん紹介されていました
続いて原城跡へ
2018年に原城跡を含む「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界文化遺産に登録されました。
その後、原城跡の観光の仕方が変わったようです。
原城温泉真砂というところに車を止め、そこから専用の観光ワゴンで現地に向かいました。
原城本丸の近くで送迎車を降りました。

これは原城の古地図(島原城内のキリシタン資料館蔵)です。
この図の右上が本丸のあるところです。

誰もいない草むらに風が吹いている。
高低差ある地形はかつての城郭の名残であろうか。
死を賭して抵抗した数万の民の霊がここに眠っているのだろうか。

本丸跡から南方を臨む

天草四郎像
原城跡の後は島原半島南部の町、口之津(くちのつ)に向かいました。
ザビエルに次いで日本のキリスト教宣教に貢献したヴァリニャーノというイタリア生まれの聖職者がいました。
1759年(天正7年)に口之津港に上陸したヴァリニャーノは在日の宣教師を招集して日本での布教の方針を検討する会議を開きました。
有馬晴信に洗礼を授けたのもヴァリニャーノです。
口之津は明治時代には三井三池石炭の海外輸出中継港として栄えました。

口之津の歴史民俗資料館・海の資料館に入りました。

口之津劇場の瓦
映画もラジオもなかった時代、船員で賑わう町には当然演芸場や芝居小屋があったのでしょう。

マリア観音も展示してありました。
隠れキリシタンは、キリスト教を信仰しながら表向きは仏教や神道を信仰しているようカムフラージュしていました。
中国から渡ってきた白磁や青磁の慈母観音像をサンタ・マリア像の代わりに仏壇にまつっていたものをマリア観音と呼んでいます。
このブログを読んでいる方の多くは大衆演劇の演目「マリア観音」を思い浮かべたのではないでしょうか。
芝居の「マリア観音」では、マリア観音は「別れ別れになった者が再会できるための願掛け」の像と扱われていて、本来のマリア観音とは全く別の意味合いで使われていることは知っておいてよいかと思います。
島原の旅も終わりに近づいてきました。
島原半島北東部の島原城へ移動します。

前述のとおり、島原城は松倉重政が築いた城ですが、明治に入ってから廃城になっています。
1960年から復元が始まり天守閣は1964年に完成しました。
内部は各階に豊富な展示資料があります。

島原城の前の姫松屋で島原の郷土料理「具雑煮」をいただきました。
この後、武家屋敷街を散歩して島原の旅を終えました。
* * *
現役の常打ちの大衆演劇場をすべて訪ねることができました。
とはいえ今後も次々と新しい劇場が生まれるでしょう。
私の大衆演劇探訪の旅は終わることはありません。
(2019年9月探訪)