WIKIレンタル 大衆演劇探訪記 2020年08月
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岩手県にある全国屈指のゴーヂャス大衆演劇場 「森の風鶯宿」

岩手県にある全国屈指のゴーヂャス大衆演劇場 「森の風鶯宿」

今回は大衆演劇場密度がたいへん薄い東北地方の探訪レポートです。

東北地方の大衆演劇場砂漠化が着実に進んでおります。
郡山にあった常打ちセンターの東洋健康センターが2017年に閉館。同じく福島県の常打ちセンターカッパ王國も2020年8月末で閉館。福島の大衆演劇場は都市近郊にはなくなり、到達するのにになかなか骨が折れる温泉地での不定期公演のみとなります。福島の北、大都市仙台がある宮城県が常打ちも単発も劇場ゼロ。演劇グラフ2005年1月号の特集「おっかけガイド」では釜房温泉さくら劇場が宮城県唯一の大衆演劇場として紹介されていましたが2007年には廃業した模様。山形県も大衆演劇場はほぼないに等しい。あの仙台ですらペンペン草一本も生えない宮城・山形の大衆演劇場大砂漠が福島にまで南下しているのです。

その北の岩手県が最近注目のエリア。一関には東北で貴重な常打ち大衆演劇場「山桜桃の湯」があります。桃の湯を縁として、一関の近く(所在は宮城県)にとんかつ屋さんが店内に「金太郎劇場」を設けたのはすでにブログでお伝えしたとおり。2020年1月には北上市に待望の常打ちセンター「ま~す北上」が生まれました。
今回レポートしますのは、雫石町にある高級リゾートホテル「森の風 鶯宿(おうしゅく)」です。ここでは2018年から大衆演劇の単発公演が行われています。

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東京から新幹線で盛岡へ。
この写真は東口から見た盛岡駅。
森の風鶯宿の送迎バスはこちらとは逆の西口から出ます。

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盛岡駅西口バスターミナル
森の風鶯宿の青い送迎バスが見えます

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送迎バスに乗って移動。
鶯宿温泉街は雫石中心地の南にあります。
「ようこそ 鶯宿温泉」の看板が見えてきました。

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盛岡駅から約40分で到着しました。
森の風鶯宿は「森の館」「風の館」「うぐいすの館」から構成されます。この写真はメインゲートのある森の館です。でかい!

まだチェックインには早い時間。
大衆演劇が始まる時間までも2時間以上あります。
界隈を散歩しました。

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森の風鶯宿は小高い丘の上にあります。
それがわかる場所まで降りて写真をとりました。
大自然の中に森の風の大きな建物が建っているのがわかると思います。
メイン建物の森の館はこの上の写真の反対の側面が見えています。

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ホテル敷地内にて。
広大な土地を活用したスケールの大きいホテルであることがわかるでしょう。

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敷地にはフラワー&ガーデン森の風という瀟洒な庭が広がっています。

ホテルのパンフレットには「世界的なランドスケープアーティストである石原和幸氏による日本最大級の本格的ガーデニング公園です」と書かれています。

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花畑

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これはメイン建物の森の館の窓から見下ろしたガーデンの景色

ではホテルの中も探検してみましょう

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フロントがあるメインエントランス。
ゴーヂャス

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ロビー
ここもゴーヂャス

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和モダンな空間もゴーヂャス

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大衆演劇昼の部は13時から。
そろそろ開場時間ですので、気になる大衆演劇場に行ってみましょう
森の館3階にある大宴会場「岩鷲」の入口。

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岩鷲のロビー
広い。このロビーの空間だけで芝居小屋できるんじゃないか。

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開場時間までこのゴーヂャスソファで待つことができますね

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ここで靴を脱いで岩鷲に向かいます。
奥の襖の松が殿中な雰囲気を出しています。

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場内
カーペット&椅子で洋館仕様になっていました。
ここも広いです!

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客席の椅子

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前方は指定席。
約50ある指定席は完売しておりました。

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前方
花道が設けられております。

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場内右手に投光3器設置

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場内にジュース・お菓子売り場が設置されていました。
おお、ここは庶民的!
高級ホテルであっても、大衆演劇場内のこういうコーナーは大事。おさえるところおさえてますねー。

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今月の森の風の単発公演を請け負っているのは劇団錦。
錦一座薄皮栗まんじゅうが売っていました。

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鶯宿温泉街は盛岡駅から離れていますし、交通の便がよいところにあるわけではありません。むしろリゾートの観光客がくつろぎを求めてやってくるような大自然の中にあります。
大衆演劇の公演をやっても地元の方がそんなに集まらないのでは?・・・という私の直感は見事に外れ、開演時間が近づきますとどんどんお客さんがやってきて、あの広い会場の客席がほぼ埋まりました。

岩手いや東北の旅芝居ポテンシャルの高さが見えた気がしました。

13時開演
第一部:お芝居
第二部:舞踊ショー

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錦はやと座長
私は後ろの方の席で舞台から遠く、持っていたカメラもコンパクトデジカメでしたが、比較的キレイに役者さんを写すことができました。
この会場の照明がしっかりしていることの証左です。

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カムイ☆龍虎若座長
今は単にカムイという名になったのでしょうか。☆がとれただけ?
この時にはまだカムイ☆龍虎名義でした。

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公演中の様子

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昼の部の公演が終わってチェックイン

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大浴場入口
大自然を眺めることができる露天風呂があります

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ここはお祭り広場
毎日イベントが開催されているよう

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今回私は
【劇団錦一座 観劇付き】森の風特別公演2019!温泉&観劇満喫♪ご夕食は季節の創作和食
というプランにて宿泊いたしました。

温泉も観劇も楽しんで、残る楽しみは季節の創作和食!
夕食開場へ向かいました。

前菜-椀物-造り-中皿-揚物-焼物-食事-留椀-水菓子-甘味・コーヒー
以上のコースを
エレガントな女性スタッフが気品ある佇まいで一皿ずつ提供してくれました。

その一部を写真でご紹介しましょう。

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前菜:胡麻豆腐/丸十の檸檬煮/網茸みぞれ和え/合鴨のスモーク/秋刀魚柚子庵焼き

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中皿:太刀魚グリル 葱ベシャメルソース 香草バター風味 パン添え

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焼物:岩手県産黒毛和牛の焼きしゃぶ 野菜添え 特性タレ

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水菓子:モンブラン特製ブラマンジェ

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夜はあの広大なガーデンにイルミネーションが灯ります。
私はイルミネーションが好きなのでここで過ごす時間がとてもよかった。

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劇団錦夜の部はお祭り広場での舞踊ショー(約30分)
カムイ☆龍虎若座長を中心に若手が踊りました

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あるお客さんが、踊っている役者の足元に割りばしおひねりを置きました。
このような旅役者を愛でる文化、気に入った旅芸人にご祝儀する文化を日本全国津々浦々絶やさないためにも、地方での単発公演には意義があると思います。

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劇団錦の舞踊ショーの後に太鼓ショーと民謡歌手による唄のショーがあります。
太鼓を叩いているのは、、おお、あの食事会場のエレガントお姉さん!
太鼓衣裳を着て踊るように元気よく太鼓を叩いています。この時の私のグッとくる感は大衆演劇をよく見る方ならご推察いただけるでしょう。芝居で三枚目だった役者が舞踊ショーでクール美形になるあのギャップが与える感興のような。

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太鼓ショーの後は餅つき大会。
子供たちや外国人観光客は喜んで参加しています。
ついたお餅はきな粉をまぶしてお客さんに振舞われました。

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お祭り広場、最後は踊り大会。民謡歌手の炭坑節に合わせてスタッフとお客さんが一緒になって輪になって踊ります。エレガントお姉さんも踊っていました。

イベントが終わったら再度温泉へ。
湯上り処に無料のアイスキャンデーが用意されています。

満喫度の高い一日でした。

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森の風鶯宿はじゃらんで泊まってよかった宿大賞(岩手県1位)に輝いたのですね。
大いに納得します。

岩手県の単発大衆演劇会場は、全国屈指のゴーヂャス公演地でした。
そして多くのお客さんで賑わっていました。
是非絶えることなく続いていってほしいです。

(2019年9月探訪)

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~
2020.8.6最終更新(スーパー兄弟×章劇公演追記)


河内音頭、浪曲、大衆演劇そして小説とさまざまなジャンルで扱われている「河内十人斬り」は実際にあった事件がきっかけとなって芸能化されました。
史実と芸能、両方の側面から河内十人斬りについて、私が調べ見聞したことをまとめました。


【もくじ】  ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■場所、時代
■人物
■何が起こったか
 ◆十人斬りの夜
 ◆金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索
 ◆犯行の動機・二人の遺恨
 ◆事件前の二人
≪「河内十人斬り」編≫
■事件から芸能へ
■河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」
 ◆河内十人斬り十段
 ◆京山幸枝若の「河内十人斬り」
 ◆錦糸町河内音頭
■大衆演劇
 ◆劇団炎舞の「河内十人斬り」
 ◆たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」
 ◆劇団新の「新 河内十人斬り」
 ◆劇団花吹雪の「河内十人斬り」
 ◆スーパー兄弟×章劇の「河内十人斬り」
■小説 町田康「告白」
 ◆物語の舞台を訪ねて

 
≪史実編≫


場所、時代

大阪府東部の河内地方(旧河内国)の南、つまり南河内地方に、その名も南河内郡という郡があり、南河内郡の南に大阪府で唯一の村、千早赤阪村があります。その中の水分(すいぶん)という土地、当時の表記に直すと河内國石川郡赤阪村字水分で事件は起きました。
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 ↓千早赤阪村
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水分という土地で起きたので、この事件を「水分騒動」と呼ぶこともありす。
事件が起きたのは明治26年5月25日です。


人物

※★印の付いている者はこの事件で亡くなった十人
※年齢は事件当時

城戸熊太郎(きどくまたろう)(36)酒と博打と女に身を持ち崩す村の無頼者
谷弥五郎(たにやごろう)(26)熊太郎の弟分。賭博が好きで喧嘩は飯より好き。窃盗二犯の前科あり。

平次(68)熊太郎の父
たか 平次の前妻 熊太郎を生むが熊太郎3才のときに他界
とよ(57)平次の後妻 幼い熊太郎を育てる
光蔵(17)熊太郎の異母弟

やな(19)弥五郎の妹 奉公に出ている

森本ぬい(19)熊太郎の内縁の妻★
森本とら(44)ぬいの母★
森本うの(15)ぬいの妹

松永傳次郎(50)
松永たけ(54)傳次郎の妻★ 
松永左五郎(20)傳次郎の三男★
松永すゑ(13)傳次郎の三女★

松永熊次郎(28)傳次郎の長男★ 熊太郎からの借金を踏み倒す
松永りゑ(26)熊次郎の妻★
松永久太郎(5)熊次郎の子★
松永幸太郎(3)熊次郎の子★
松永はるえ(乳児)熊次郎の子★

松永虎吉(23)傳次郎の次男 ぬいと姦通する

浅井てる(27) 弥五郎と親しい仲
浅井傳三郎 てるの父 弥五郎からてるを嫁にくれと言われるが断る
浅井ふで てるの母


何が起こったか

当時の朝日新聞・毎日新聞の記事および「残害事件河内十人斬り」(事件直後に刊行された事件をまとめた本)を主に参考として事件のあらましをまとめました。ただし、当時は噂話レベルの不確定な情報でも新聞に掲載していたようで、各記事の間に齟齬が生じている部分もあります。それを取捨選択してまとめたものであることをご了承ください。なお、新聞には被害者死体の様子が具体的に描写されており そのむごたらしい殺され方から、加害者の異様なまでの憎悪の念を推し量ることができますが、このブログにおいてはグロテスクな惨殺状況の描写は割愛いたします。


河内の国、石川郡赤阪村字水分は忠臣の誉れ高い楠正成公が誕生した霊地であり、金剛山の千早の渓谷から水が清く流れ落ちる由緒ある土地である。
この村で恐ろしい残害事件が起こった。


十人斬りの夜

明治26年5月25日。
嵐のような暴風雨が昼から続く物凄まじい夜。
熊太郎と弥五郎は松永傳次郎宅前でズドンと砲声を鳴らすと戸口を激しく叩いた。出てきた傳次郎は斬りつけられ、深手を負ったまま家の後ろの竹藪を潜って辻繁蔵宅に逃げ込んだ。熊太郎らは、家の中に居た傳次郎の妻たけ、三男左五郎、三女すえを惨殺し、家に火を放った。

二人は傳次郎の長男、松永熊次郎の家を襲った。熊次郎は兇漢を見て「賊よ賊よ」と叫んだが誰も出てこない。熊次郎は家の近くの道路を越えて逃げたが、ついに麦畑でズタズタに斬られて死んだ。家の中にいた熊次郎の妻りゑ、子供の久太郎、幸太郎、赤ん坊のはるえの4名もむごたらしく斬殺された。

森本とらも自宅前で背中を銃で撃ち抜かれて死んだ。

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 事件があった場所の略図(明治26年5月29日毎日大阪新聞に掲載された図をもとに作成)
 ①松永傳次郎宅、②谷弥五郎の借家、③浅井傳三郎宅、④森本とら宅、⑤城戸熊太郎宅、⑥松永熊次郎宅

熊太郎の父平次は傳次郎の家が火事だと聞き現場へ駆けつけていた。家の外で火事を見ていた平次の妻の肩をつかんだ者(おそらく熊太郎)があったが、何だばあさんかと言い捨てると家に向かった。その者は、火事を見ようと庭先に出ていたぬいを見つけて斬りつけた。ぬいは逃げたが家近くの納屋で頭を打ち砕かれて死んだ。ぬいの妹うのは家に居合わせていたが、逃げなかったらお前も殺すぞと言われて逃げ、警察署に通報した。

浅井傳三郎の家の寝床の下からズドンと音がした。傳三郎は驚いて近所の者を集めて畳をひきあげてみると、大きな竹に火薬を詰め込んで発火させた跡があった。誰の仕業だろうと話しているところに、三発の砲声とキャっという叫び声が聞こえた。皆顔が青ざめて、現場を見にゆく者はいなかった。

熊太郎、弥五郎は金剛山へ逃げ隠れた。
弥五郎は村で最もこの辺の山の地理に詳しく、山猫というあだ名まである。

意図したものか偶然か、5月25日は楠正成公の命日である。


金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索


5月26日
富田林警察署から警部・巡査が、大阪地方裁判所から判事・検事が、また大阪府警部長が水分村に出張してきた。

はじめは、犯行者は複数人であること、そのうち一人は城戸熊太郎であること程度しか見当がついていなかったが、事件後行方をくらました城戸熊太郎と谷弥五郎を捜索対象と見定めた。

事件は村の内外に瞬く間に知れ渡った。誰が言いふらしたか、熊太郎は村中を焼き払って黒土にして一人残らず殺す、と噂がたって皆恐れた。老人や子供を他村の親戚に預ける者もいた。村中の者は家業を休んで昼の間は寝て、夜は竹槍、鋤、鍬などを持って村内を巡回した。
皆寝食を忘れ腰弁当を付けて捜索に従事した。

夜11時頃、熊太郎は二河原辺にいる親戚の竹次郎の家に入った。竹次郎は留守で妻のかめがいた。飯を炊くよう頼むがかめは断った。二人は炊いてあった粥を食べて立ち去った。

5月27日
大阪の新聞にこの事件が報じられた。以降約半月にわたってこの事件の速報が紙面を賑わす。犯人追跡の状況や事件の背後関係などが新聞で詳細に伝えられた。
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夜、森本うのは何者かが門の戸を叩いているのを聞いた。庭先で別の人の声がして、それを聞いたのかその者は逃げ去った。

5月28日
午前8時、大阪府の鈴木警部長は富田林から電話で大阪南、東、堺の三警察署に警部巡査の非常招集を発した。これにより警部・巡査らが総勢147名現地に集まった。探索エリアを16区に分け、それぞれに指揮官をおき、午後1時に捜索を開始した。

午後3時頃、金剛山の千早の炭焼窯に血の付いた草鞋があった。また二河原辺ゴセ谷の炭焼窯にも焚火の跡があった。

午後5時頃金剛山の中、大字二河原辺字餅子坂に、熊太郎と弥五郎が来た。二人はそこに居たきこりの庄太郎に銃口を向けて逃げねば殺すと言った。庄太郎は逃げて出張所に届けた。中津原・東坂・千早などから各村10人が竹槍を持って二人を捜索していたが見つからなかった。

午後7時頃、飴寅こと寅蔵および藤太郎の二人が寝泊まりしている山の中の木挽小屋に熊太郎らが現れた。熊太郎は普通の着物に羽織を着て短刀と村田銃を携えていた。右の指三本に傷を負っていた。弥五郎は普段着の上に法被を着て仕込銃と短銃を携えていた。二人とも腰に弾薬を多数着けていた。
熊太郎はここに警部巡査が来たかと尋ねた。前日午後4時頃まで警部巡査が来ていたが木挽小屋の二人はこのことを隠した。熊太郎らはここで一泊すると言い、藤太郎らには我々が去るまで便所にも行くなと言った。
警察は我等を発狂人のように云っているようだが可笑しいことだ。松永伝次郎一家をはじめ恨みのない者は殺さない。まだ恨みのある者が4,5人いる。旧暦9月ごろまで逃げてその間に宿志を晴らして自首するか自殺する覚悟、人の手にかからぬ積りだ。
熊太郎は木挽小屋の二人にそのように語った。
藤太郎と寅蔵は抜け出して密告しようと鼾をかいて寝たふりをしたが、熊太郎らはそれを察したのか一睡もしなかった。朝が近づくと、飯を炊かせ、米一升を奪った。熊太郎は二十銭を出したが、木挽小屋二人が受け取らないのでそれを投げた。熊太郎らは朝4時頃去った。

5月29日
雨が降った。捜索者はビショ濡れになり、その心労は甚だしかった。

5月30日
夕方、木挽小屋近くの山中で煙が立っているのを5名の巡査が認めた。

金剛山腹の村に熊太郎の親戚の新田達次郎の家があった。巡査がこの家に忍んでいたところ、戸外から兄貴兄貴と呼ぶ声がした。巡査が躍り出たが、呼んだ者は逃げてしまった。家の者はあの声は熊太郎に違いないと言った。

5月31日
事件7日目である。遺族は僧に仏供養を依頼した。

夜11時頃、熊太郎、弥五郎は水分村の赤松瀧造の家に現れた。瀧造はいなかったが妻の小りうに何か炊いて食わせてくれと頼んだ。幼児を抱いて横になりながら具合が悪くて弱っていると小りうが答えると、熊太郎らは仕方ないと戸外に出た。小りうは幼児を抱いたまま出張所に届け出た。水分の老若男女は賊が村内に入ったと聞いて逃げまどった。

弥五郎は養父谷善之助を訪ねた。隣家には巡査が張っていて、弥五郎が家の中に入ったら取り押さえる算段になっていたが、善之助は臆して戸を開けなかった。弥五郎が立ち去ろうとするところを巡査が追いかけたが、弥五郎は東條川の向う岸の竹藪に逃げて銃を二発放った。

その後、青木谷の地蔵堂近くに張っていた巡査が、熊太郎・弥五郎が通りかかったのを見つけ取り押さえようとした。熊太郎らは二発発砲して逃げ、巡査に間近まで追い詰められたが、黒鞘一尺三寸ほどの刀を投げて、水分の徳赤という難所に逃げ込んだ。

熊太郎らが三カ所に現れたことを受けて、警部巡査はますます警戒を厳しくした。応援の部隊も続々と到着した。

松永傳次郎の縁故者や熊太郎らに金銭の貸し借りがある者20名を警察が保護することとなりそれぞれの家に巡査が詰めた。

* * *
森本うのは谷口警部が引き取り、妻に世話を見させ読み書き裁縫を教えることになった。

熊太郎の親は村人に合わす顔がないと自害しようとも思ったが、熊太郎の異母弟の光蔵はまだ17才でその難儀を思うと死ぬこともできない。熊太郎が売り残した田地一反あまりを松永傳次郎に送って謝罪したいと言った。
森本とら親子の仏事料として、所有していた藪・畑地・山林を遺族に与えたいと村人に申し出た。そして十人の霊魂を慰め、熊太郎の懺悔を祈るために光蔵を連れて四国88カ所西国33カ所の霊場を巡礼する積りだと涙ながらに言った。

事件の日、松永虎吉は宇治へ製茶の仕事で出かけていて不在であったが、事件を聞き急いで帰村した。親兄弟の無残な死を見て遺恨やる方なく、熊太郎の所在がわからなかったら、残った父平次と継母と光蔵の三人に対して鬱憤をはらそうと力んだが、そこへ村人が仲裁にはいって虎吉を宥めすかして、以後恨みをもたないとの約束をさせた。

6月3日
8時頃、熊太郎の親族は、熊太郎を探し出して自首させようと親族5名で金剛山に入ったが夕方むなしく帰村した。

6月4日
8時頃、この日も熊太郎の親族は出かけたが夕方帰ってきた。

6月5日
雨が降っており、熊太郎の親族は捜索を見合わせた。

巡査が金剛山の三ツ谷で、杉の皮を屋根にして人が寝た跡を見つけた。また戻ってくるかもしれないのでここで待ち伏せすることにした。すごい雨が降ってきたが結局熊太郎は現れなかった。

金剛山中の別の場所では百合を焼いて食った跡が見つかった。

6月6日
165名の警官が大阪からやってきた。

6月7日
正午、図面と照らし合わせて蜘蛛の巣を張るように探索場所を定め、一隊3名、全部で50余隊が繰り出した。

大阪安治川水上警察署の巡査4名はその日は野宿して、翌日は水分から4kmほど離れた難波山の杉の深林に入った。午後3時頃、とても険しい所にある杉の木に足をかけて仰臥して死んでいる熊太郎を見つけた。その左側より一間離れた杉の根元に谷弥五郎が死んでいた。その様から推測すると、熊太郎が弥五郎を背後から不意に銃殺し、その後熊太郎は銃で胸を撃って死んだのではないかと思われた。
10人が斬殺された事件の犯人捜索は終結した。


犯行の動機・二人の遺恨

(熊太郎と虎吉)
前年11月のこと、松永傳次郎の息子虎吉は、熊太郎の家へ行って夜更けまで遊んだ。虎吉は遅いから泊めてくれと言って、熊太郎・ぬい・虎吉の3人で寝た。その際に、虎吉とぬいが姦通した。熊太郎は怒ったが、仲裁人が熊太郎をなだめて済んだ。
(熊太郎ととら)
ぬいを籍に入れていればよかったと思った熊太郎は、ぬいの母のとらに、ぬいを籍に入れることについて掛け合った。その際16円をとらに貸した。しかしその16円は返済がなく、ぬいの籍が移ることもなかった。
(熊太郎と熊次郎)
城戸熊太郎と松永熊次郎は賭博仲間で懇意な間柄であった。熊次郎は熊太郎に23円50銭を借りた。熊次郎は、熊太郎が催促しても返済しなかったばかりでなく、強いて返せというなら腕ずくで来いと言った。というのが村の人々の話である。
(弥五郎と傳三郎)
弥五郎は浅井傳三郎の娘てると仲がよかった。3月に奈良へ駆け落ちしたが追手に見つかってしまい、てるは親許に引き戻された。弥五郎はてるを嫁にくれと傳三郎に言ったが、傳三郎は弥五郎の身持ちの悪さ故承知しなかった。弥五郎は百円の手切れ金を要求したが、傳三郎は百円は出せぬ、娘はやりたくないと近村の侠客を頼んで対抗した。弥五郎はそれに怒り、眼にものを見せてやると思っていた。


事件前の二人

(熊太郎の墓)
熊太郎は犯行の前に田畑をおおかた売り払った。事件の7日前には赤坂村の眺めのよい場所に自分の墓を建てた。
(弥五郎とやな)
弥五郎は貧しく、竹田市五郎から8畳の家を月10銭で借りていたが家賃を3か月滞納していた。1週間前に弥五郎は30銭を持ってきて家賃を支払った。家の中は鍋釜をはじめ諸道具はなくなり掃除されていた。
弥五郎には19才の妹やながいた。やなは二河原辺の新田兵五郎方に奉公していた。弥五郎は今生の別れを告げにやなを訪ねた。農作業に出ていたやなをみつけると弥五郎は懐から1円を取り出しやなに渡して告げた。私は訳あって死ななければならない、達者で暮らしてくれ、おれのことは心配するな。それを聞いてやなは、たとえ悪人よ無頼者よと後ろ指さされる兄であっても自分にとってはたった一人の身内と泣き伏した。そのように泣かないでくれと諭して弥五郎は立ち去った。
(当日の朝)
25日の午前8時半に字南畑の飲食店池田駒太郎の所で熊太郎と弥五郎は腰かけて酒を飲んでいた。そこを通りかかった井上貞次郎に一杯飲めよと勧めた。貞次郎は断ったが無理に勧められたので10時頃まで一緒に飲んだ。
(当日)
午後四時ごろ熊太郎とぬいは相合傘で仲むつまじく家路に帰った。
夜は一同揃って夕飯を食べた。


≪「河内十人斬り」編≫


事件から芸能へ

6月7日に熊太郎と弥五郎の遺体が見つかり事件が終息を迎えました。それから間もない頃から水分村の責任者に対して、演劇関係者等からの上演の依頼書が次々届いたそうです。大阪の大劇場や、富田林の興行者をはじめ朝日新聞社員からも「十人斬恨の刃」という小説にしたいという依頼があったようです。

6月に、富田林警察の署長付きの人力車夫で江州音頭を得意としていた岩田梅吉が事件を物語化して音頭にアレンジして道頓堀の演芸場で発表しました。これが当たって45日のロングランを達成しました。

6月14日の大阪朝日新聞には「四十人斬」という見出しを付けて、道頓堀の浪花、中、朝日、辨天の四座が来月の興業には十人斬りを出してどこの十人斬りがよいか見てくれと互いに競争する、という記事が書かれています。
6月18日の同新聞には、浪花座が河内の十人斬りを狂言に仕組むにあたって村長を経て関係者へ金を送り興行の承諾書をとった、とあります。このときの演題は「河内十人斬」で、金剛山から里に出てきて何杯も何杯も飯を食べる場面が好評だったそうです。

また、私が今回参考文献とした「残害事件 河内十人斬り」という本は、奥付に「明治26年6月12日印刷」とあるとおり、事件直後に発刊されています。

当時の大衆芸能が耳目を集める事件をいかに敏速に取り入れていたか、また河内十人斬りの事件が市井でいかに話題性が高かったかを上記のことからうかがい知ることができます。



河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」


江州音頭をベースした「改良河内音頭」という節回しによる岩田梅吉の「河内十人斬り」がヒットしたことは、それまで河内のそれぞれの村で独自に歌われていた音頭に大きな影響を与えたに違いありません。梅吉はその後レコードも出し、戦後も梅吉の名を継ぐ後継者が十人斬りのレコードを発表していたようです。
河内音頭が現在のスタイルに確立されるまでは明治・大正・昭和にかけてさまざまな変遷がありました。梅吉考案の音頭は、河内音頭が現在の形に至るまでの系譜には直接つながらないようです。にもかかわらず現在の河内音頭の代表的なナンバーが「河内十人斬り」であるのは興味深いことです。兇漢二名による惨殺事件というまことにネガティブな内容の外題が、現在に至るまで語り継がれてきたのは何故なのでしょうか。
私にそれを考察する見識はありません。ただ、人々が「河内十人斬り」という事件を語り継いで来た、というより、事件としての「河内十人斬り」は後世の人々が関心を抱くような物語として変容し続けてきた、というべきでしょう。
例えば、6代目梅吉の「河内十人斬り」には、日暮れ後に虎吉がおぬいのもとに這っていって乳繰り合っているところを同じ目的でそこに訪れたと思しき弥五郎がその様子を盗み見る、という場面があります。それを朝倉喬司氏は当時のムラ社会に当たり前に流布していた夜這いのゴシップが盆踊りという場で歌われる音頭に昇化した例だと指摘しています。(参考文献:朝倉喬司著「流行り唄の誕生」)
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「梅吉節 河内十人斬り 序・姦通発覚の段」が収録されているレコード「河内音頭総集大会 伝承河内音頭」のジャケット

河内音頭の「河内十人斬り」は演者めいめいが独自に物語をアレンジして演じてきました。そのバリエーションは多岐にわたりますが次の点においてはほぼ共通しているようです。
・二人が本職の博徒として描かれている。
・松永一族も格をもった博徒の松永一家とされている。
・熊太郎は頼りなさそうな男である。
・弥五郎は私的な恨みから犯行に及んだのではなく兄弟の義に殉じて死んだ男とされている。



河内十人斬り十段

平岡正明著「浪曲的」に「河内十人斬り全段」という項があります。十の音頭(段)それぞれについて、平岡先生がさまざまなバリエーションの中からピックアップしたバージョンを独自の視点の解説を加えながら紹介しています。以下その要約です。

序段「河内あばれ獅子」(京山幸枝若)
十人斬りの一年前、旱魃に苦しめられている農民が田に引く水を求めて争っている。その喧嘩を仲裁した谷弥五郎は禁断の池の水門を開く。弥五郎は責任をひとりで引き受け官憲にひいてゆかれる。

二段目「火花散るだんじり囃子」(京山幸枝若)
建水分神社の祭礼では近隣十八カ村のだんじり(山車)が繰り出して大賑わいとなる。今年の山車の先陣は松永伝次郎の息のかかった中村と寄合が決めていたが、弥五郎はそれを無視して水分村の山車を先頭につっかけようとしたものだから、揉め事が起こって弥五郎は富田林の刑務所に入れられる羽目に。その後、弥五郎と松永一家とのイザコザがあって、次の年の祭礼がやってきた。

三段目(花沢義若)
ぬいは盆踊りに出かける。輪の中で踊っているぬいに若い衆がちょっかいを出すがおぬいは肘鉄をくらわす。これに逆上した男どもはおぬいをかついでさらう。おぬいの悲鳴をきいた松永虎次郎はかけつけておぬいを救う。そのまま二人は草むらでいい関係になってしまう。このことが噂となり、それを聞きつけた谷弥五郎が、兄貴分の熊太郎に、お前の女房のおぬいにへんな噂がたっていると告げる。

四段目「姦通発覚の段」(六代目岩井梅吉)
熊太郎が大阪に出かけて留守にしている。ぬいの母お梅婆あ(史実ではとら)は虎次郎を気に入っておぬいとの縁をとりもとうとする。虎次郎もその気になっておぬいの家に忍んびゆく。そこに弥五郎がやってきて板戸の破れ目から中をのぞくとおぬいと虎次郎の濡れ場。不義者を見つけたと弥五郎は座敷に上がりこもうとする。

五段目「谷弥五郎の韋駄天走り」(初音家太三郎)
おぬいと虎次郎の密会現場をおさえた弥五郎は、道頓堀にいる熊太郎に告げるべく河内の夜を走る。

六段目 城戸熊太郎が半殺しにされる話 (京山幸枝若)
盆踊りの夜、熊太郎は内縁の妻おぬいが虎次郎を密会しているのを見つけ、おぬいをどつく。そこへおぬいの母親のお角婆あ(史実ではとら)が割って入り、熊太郎がお角への養い料を滞納していることを罵る。悔しがる熊太郎は、その金を工面しようと、以前賭場で金を貸した松永熊次郎のもとへ行く。熊次郎は、その金なら返したと言って、松永方と内通していたおぬいが取り寄せた借金の証文を破る。さらに熊太郎を蹴飛ばし、敷居の根石に頭をぶつけた熊太郎は血まみれになる。悔し涙にくれてよろよろと帰る熊太郎は、堀川監獄から出てきたばかりの谷弥五郎と出くわす。弥五郎は、兄貴の傷が治ったら仇討ちを手伝うと約束する。

七段目「道頓堀弁天座での狼藉」(鉄砲光三郎)
熊太郎と弥五郎は道頓堀の弁天座で「吉原百人斬り」を観劇する。芝居の中で女に騙され金をとられ眉間まで割られた登場人物に同情するあまり、芝居と現実の見分けがつかなくなった弥五郎が二階の客席から花道めがけて飛び降りて、憎い役者を殴る蹴るする。

八段目「弥五郎、妹おやなとの別れ」(鉄砲光三郎)(京山幸枝若)
熊太郎の傷は癒え、武器の準備も整った。弥五郎は妹おやなを訪ね別れを告げる。

九段目 熊太郎、弥五郎、猿沢の落ち合い(三音会)
妹おやなとの別れをすませた弥五郎と、武器の調達を終えた熊太郎が、奈良の猿沢の池で落ち合う。二人は今生の名残に暴れ太鼓を打ち鳴らす。

終段 斬り込み金剛山の最後
十人斬りから金剛山での最後まで。二人の最後の場面は、京山幸枝若版では、覚悟を決めた熊太郎が差し出した首を弥五郎が斬り、弥五郎は村田銃の銃口を銜えて自決する。鉄砲光三郎版では、熊太郎が弥五郎を背後から撃ち、熊太郎は自分の喉元に銃口をあて足の親指を引き金を引いて自決する。


京山幸枝若の河内十人斬り


大衆演芸の歴史を生き抜いてきた「河内十人斬り」の現代における継承者の第一人者は浪曲師(そして河内音頭の唄い手でもある)二代目京山幸枝若師匠でしょう。
「河内十人斬り」は河内音頭だけでなく浪曲の演目にもなっています。
二代目の師匠であり父親の、亡くなった初代京山幸枝若の「河内十人斬り」のうち、大衆演劇のベースにもなっている、よく知られている部分のストーリーを浪曲や河内音頭の音源をもとにまとめました。

※幸枝若版の登場人物は史実と名前が変わっているところがあります。
とら→お角(かく)、虎吉→虎次郎

南河内富田林の松永親分の弟の虎次郎は、水分村の城戸熊太郎の女房おぬいと、ここ数ヶ月ちょいちょい逢引をしていて村の噂になっている。盆踊りの日も虎次郎はおぬいを連れ出して逢引していた。それを1ヶ月ぶりに村に帰ってきた熊太郎(熊太郎は仕事にでかけるといって家をでては博打場を遊びまわって何日も帰ってこないことが常である)が見つけ、熊太郎はおぬいをなぐってなじる。おぬいは、米を買う金がないので虎次郎に金を借りたが皆の前で返金の督促をされたので恥ずかしくてここにひっぱってきた、と咄嗟に嘘をつくが、熊太郎は許さず大喧嘩となる。そこにおぬいの悲鳴を聞きつけたおぬいの母のお角が現れる。この婆さんは銭が大好きな金の亡者である。お角は熊太郎に、嫁にやったといってもまだ籍はやってない、おぬいが間男したと腹立てるのなら日頃から亭主らしいことをしろ、となじる。熊太郎がおぬいを嫁にもらう際に、熊太郎からお角へ毎月二円五十銭の仕送りをするという約束があったが、熊太郎はそれを十ヶ月滞納している。お角は熊太郎に、亭主面をする前にたまっている二十五円を払えとまくしたて、おぬいには熊太郎と別れて虎次郎と一緒になれと言う。弱みをつかれ何も言えなくなった熊太郎を前に「ざまぁみくされこのド甲斐性なしめ。悔しかったら銭持ってきくされ、このガシンタレが」と毒づいて、お角はおぬいの手を引いて立ち去る。
二十五円の金があればお角婆あにたたきつけて、おぬいとも縁を切り、男の意地が立つのだけれど、と熊太郎は悔し涙を流す。熊太郎は下手な博打に明け暮れたあげく、家も屋敷も田んぼも畑も山も人手に渡してしまっていて金がない。金の算段を考えているうちに、思い出した。昨年の暮れに、博打場で虎次郎の兄の松永親分に五十円を貸していた。翌日熊太郎は貸した金を返してもらおうと松永親分のいる富田林へ向かった。

お角とおぬいは熊太郎が怖くて家に帰らず虎次郎の家に泊まっていた。虎次郎は熊太郎との間男の件をおさめてもらおうと、お角・おぬいを連れて兄の松永親分の屋敷へ相談に行く。お角からも松永親分へお願いしているところに、熊太郎がやってきて、松永親分は虎次郎・お角・おぬいを奥の部屋に隠す。熊太郎は松永親分に借金を返してほしいと証文を見せた。松永親分はその借金のことをすっかり忘れていたが、下手な言い訳は男が廃ると高飛車に出て、その金は八尾の博打場で返したはずだと出鱈目を言いながら凄み、証文を破り、利子をやるから持ってけと銀のキセルで殴って熊太郎の額を割った。さらに親分は熊太郎を蹴り倒し、熊太郎は後頭部を打って浴衣が血に染まった。熊太郎が反撃しようと手にかけたものは、見覚えのある下駄、熊太郎がおぬいに買ってやった下駄であった。おぬいがここにいるということは、おぬいの間男は松永親分までもが手を引いているのか、それを知らないのは自分だけだったのかと悔しがっているところに、虎次郎・お角・おぬいがでてきて、お角は殴られたおぬいの仇と熊太郎を蹴っ飛ばす。熊太郎は塩をまかれて屋敷の外につまみだされた。

村の半ばまで戻った熊太郎が柳の根元に倒れこみ痛さ悔しさに泣いているところに、監獄からでてきたばかりの谷弥五郎が河内音頭「石童丸」を歌いながらやってきた。弥五郎はひどい有様の熊太郎を見つけて訳をきいた。いきさつを聞いて弥五郎は、兄貴の仇は俺の仇と怒りをあらわにして、松永兄弟とお角とおぬいの息の根をとめてやると血気にはやるが、熊太郎はそれをなだめる。お前ひとりでやったら俺はどうなる、俺も男の意地を通したい、この傷を養生して元の体に戻ったら、命をかけてもあいつらと渡り合う。それを聞いて弥五郎は、生きるも死ぬも二人連れ、俺も命を捨ててやると、二人での仇討ちを約束する。弥五郎は熊太郎を医者に連れていった後も熊太郎を献身的に看護する。1週間後、熊太郎は監獄放免祝いとして弥五郎に金を遣る。弥五郎は奈良で女郎買いして博打して3日したら帰ってくると言って出て行った。入れ違いに巡査の木村が熊太郎の家に入ってくる。熊太郎が松永親分の家で傷をつけられ、弥五郎が「恨みの奴らを皆殺し」などと歌って村を歩いているという噂をきいて、熊太郎たちが短気な行動をおこさないかと心配してきたのだった。今の世の中では法律が仇をうってくれるからその気があれば診断書を持ってわしのところにこいという木村に対し、熊太郎はこの傷は盆踊りの日に転んでできたものだと嘘をつく。
何日たっても弥五郎が帰ってこない。もしや心変わりしたのかと疑っているところに弥五郎からの葉書が届いた。奈良の博打の帰りにつかまって、前科がたたって八ヶ月の懲役になった、俺が帰るまで決して一人で無理するな、借りは必ず二人で返そうという内容で、熊太郎はうれし泣きする。

たとえ一瞬でも弥五郎を疑ってしまったことが申し訳なく、逢って詫びがしたいと熊太郎は大阪の堀川監獄へ向かった。面会を断れられた帰り、熊太郎は道頓堀で芝居を観劇する。吉原百人斬りの主人公に同情して頭に血が上った熊太郎は「斬れよ斬れ佐野屋、おれも河内で斬る」などと声を荒げ他の客に注意される。熊太郎は村田銃を二丁買い、その後宇治で自分の菩提を弔い経帷子を求め、奈良を見物しがてら刀を二振り買って帰った

明治二十六年春、弥五郎が監獄から帰ってきた。熊太郎と弥五郎は決行の日を決める。親兄弟がいない熊太郎は弥五郎には唯一の身内である妹のおやながいることを気にかける。
弥五郎は妹の奉公先に行っておやなに会う。おやなはまた博打に負けて金を借りにきたのかと思ったが、弥五郎は別れを言いにきたと言う。弥五郎は九州へ石炭を掘りに行くと嘘をつくが、おやなは、そんな危ないところに行かないで、兄やんにもしものことがあったらわてはどうしたらいいのか、お金ならみんなあげる、といじらしいことを言う。弥五郎は後ろ髪を引かれる思いでおやなと別れる。

日は暮れて、暗闇に雨が降っている。熊太郎と弥五郎は茶屋の奥座敷で別れの盃を酌み交わす。南無阿弥陀仏の経帷子に刀と村田銃を携えて、二人は雨夜の闇へ。

お角の家に入りこみ、納戸で寝ていたお角を熊太郎が斬る。次の間にいたおぬいも斬って家に火をつける。
松永宅へ斬りこみ、松永親分ら十人を仕留めたが、肝心の虎次郎がいない。虎次郎を殺さなければ死に切れない、一時姿を隠そうと、二人は金剛山へ逃げ隠れた。

翌日、村は黒い噂で持ちきりで、犯人は金剛山へ隠れたようだと、近隣の警察や消防が出動して金剛山をとりまいた。食料がなくなって山から出てくるに違いないと待ち構えていたが何日たっても二人はあらわれない。
松永一家がやられたことに、厄払いができたと喜んだ村人がいて熊太郎と弥五郎にこっそり食料を届けていた。これに感づいた警察は村人の金剛山への立ち入りを一切禁じた。
熊太郎と弥五郎が食料を断たれて三日目、山狩りが始まった。弥五郎は一人二人斬ってでも逃げ延びようと言うが熊太郎はそれを制する。何の恨みもない、まして恵みを受けた村人に手を出してはいけない。しかし逃げることもできず、縄目の恥を受けなくてはならないのであれば、覚悟は決まっている。熊太郎は、最後の頼みだこれでひと思いにやってくれと刀を弥五郎に渡す。弥五郎は熊太郎を刺し殺すと、村田銃の銃口を自分に向けて引鉄をひいた。

最後に、「~男持つなら熊太郎、弥五郎~」という文句のある節を謳い上げ河内音頭・浪曲は終わります。

■ 2019年8月10日(土)十三浪曲寄席8月EXTRA(於:シアターセブン)にて京山幸枝若師匠の弟子である京山幸太さんが「河内十人斬り」前編・後編それぞれ40分近いネタををかけました(曲師 一風亭初月)。演者の気合は十分、クライマックスはすごい迫力だったそうです。京山幸枝若師匠の河内十人斬りはしっかりと続く世代に引き継がれております。
前編と後編の間にトークコーナーがありました。トークゲストは「告白」の著者町田康先生。
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チラシ(と町田先生の本)
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京山幸太・真山隼人・町田康によるトーク
(本項はchaconne0430さんから情報提供いただきました)


錦糸町河内音頭

現代において普通に生活していて河内音頭に接することはほぼないでしょう。どのように河内十人斬りの口演を楽しめばよいでしょうか。

YouYubeで「河内十人斬り」で検索すると、河内音頭や浪曲のネタがでてきます。京山幸枝若(初代・二代目)のほか、鉄砲光三郎の鉄砲節河内十人斬りもとても味わいがあります。
Amazonで検索すれば中古CDが見つかります。

関東で河内音頭にライブで触れることのできる最大のイベントは2005年から続いている「錦糸町河内音頭」です。

◇2015年の錦糸町河内音頭はは8月26日(水)、27日(木)の2日間行われました。
初日に京山幸枝司師匠が「河内十人斬り」を掛けました。
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2015年8月錦糸町河内音頭 アンコール時の京山幸枝若師匠。後ろには京山小圓嬢と三原佐知子師匠。(chaconne0430さん撮影)

◇2018年8月の錦糸町河内音頭では最終日のトリに鉄砲光丸師匠が「河内十人斬り 金剛山の最後」を掛けました。
ラストステージは会場も大勢の踊り手が密集する大盛況。
熊太郎に撃たれた弥五郎が目を見開いて「恨まへんで兄貴。兄貴に抱かれて死んだら本望や・・・」
熊太郎も後を追う。銃口を喉にあて、足の親指を引き金にかけて「ズドーン」
ここで会場の踊り手からうねるような歓声。ステージと踊りの場が融合し最高潮のボルテージを迎えました。
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2018年8月錦糸町河内音頭 鉄砲光丸師匠のステージ



大衆演劇

大衆演劇でも昔から多くの劇団が「河内十人斬り」をかけてきたそうです。

劇団炎舞の「河内十人斬り」

2016年6月12日、浅草木馬館で劇団炎舞の「河内十人斬り」を観ました。同月、ファンクラブのtwitterに「(河内十人斬りは)ボスが一番最初に大衆演劇界で、芝居として書き上げました」とありました。ボス・橘魅乃瑠が劇団のお家芸として大切に育ててきた演目なのでしょう。
主な配役・・・谷弥五郎:橘炎鷹、城戸熊太郎:沢田ひろし(ゲスト)、松永虎次郎:橘光鷹、松永伝次郎:橘ひろと、おかく:橘魅乃瑠、ぬい:渋谷めぐみ(外部客演)、やな:橘麗花、愛媛県:橘ひろと(二役)、飴虎:橘魅乃瑠(二役)、警察の頭:北条嵐(ゲスト)、松永一家の身内:橘鷹勝・橘鷹志・橘美炎・橘もん太・橘炎子

ストーリー・構成は上述した京山幸枝若のものとだいたい同じです。
ラストシーンに大衆演劇らしい脚色がされています。
山狩りが始まり、追い詰められた二人。熊太郎は弥五郎に自首しようと言うが、弥五郎は、それでいいのか兄キ、まだ虎次郎をやっていない、これでは死に切れないだろうと熊太郎が抑えている思いを代弁する。その言葉に感謝した熊太郎だが、追手から逃れるために山狩りに参加している村人を傷つけるのは本望ではなく、覚悟を決めると、弥五郎を背後から刀で刺す。弥五郎も熊太郎の思いを悟り兄キのことは恨まんと言う。あの世でも兄弟分でいようと誓い合い、熊太郎は銃で自害する。
炎舞版河内十人斬りで強調されているのは「義兄弟の美学」です。
義兄弟の契りというのは当初は「契約的」なもののはずです。それが、お互いの心が触れ合ってゆくうちに「心情的」なものに変わってゆく。さらに絶望的な状況で身体が極まると、心情的な距離はどんどん近づいてゆき、ついには「同一化」してしまう。この状態こそが自分の命よりも重い意義があると自覚するようになる。
この義兄弟の契りの結晶化こそ炎鷹版河内十人斬りクライマックスの見どころでした。
あきらめようという熊太郎に、個人的恨みをもっていないはずの弟分の弥五郎は完全に熊太郎の本心を我が思いとし、自分の命をかけて恨みを晴らそうとする。最後は二人とも「恨みを果たすこと」よりも「あの世にいっても義兄弟としてかたく結ばれること」の方が自分たちにとって大事なことだと認め合う。そうなることを確信できた二人はその喜びをかみしめる時間がほしかったに違いない。熊太郎は突然弥五郎に「石童丸」を唄ってくれと頼み、弥五郎は残された力を振り絞って唄う。弥五郎が唄い終わると熊太郎は自分に向けて銃を撃つ。
おそらく、このような義兄弟の美学の表現は昔からの大衆演劇の芝居の本領だったのではないでしょうか。旅役者が演じてきた人物は、博徒のように世間から隔絶された立場の者が多かったでしょう。そのような人物に力強い生の息吹を与えることに旅役者は生きがいを感じ、そのための美学を大切にしてきたのではないかと想像します。
そんな私の憶測を証明するかのように橘炎鷹座長はこの芝居で見事な演技を見せました。また、炎鷹座長がこの芝居をやるなら相手は絶対この人と切望した、熊太郎役の沢田ひろしの演技も素晴らしかった。
これが自分の生き方だと決めたからには、自らを損ねることになっても信念を曲げない。その信念によって「義」が磨かれてゆくほど、「義」以外のものに対する生きるべき価値が薄くなってゆく。
そんな男の生き様は、「大衆演劇役者」が心身とも染み付いた二人は感覚的に諒解しているでしょう。だからたった1日限りの芝居でほとんど稽古ができなくても、本番の舞台では二人は阿吽の呼吸で義兄弟の美学を紡ぎたすことができる。大衆演劇役者の本領を堪能できた芝居でした。
炎鷹版のもうひとつの見どころは、十人斬りの場面での大量の血のり演出です。熊太郎が松永一家の子分の腹を刺す。子分の着物が血に染まる。そして子分は口から血を吐いて倒れる。このような調子で、やられる子分が皆、刺された所から血を流し口から血を吐く、の出血2点セットで役者の衣服、床はおびただしい血で染まります。こんなに血のりをたくさん使った芝居をはじめて観ました。血が嫌いなお客さんがいるから(私もそうですが)血のりはあまり使いたくないという劇団もあります。でもこの芝居のように、復讐の場というシチュエーションの盛り上がりを目的としていて殺陣自体にリアリティを追求していない場合は、血は単に「恨みの象徴」として映るので見ていて気持ち悪いものではありません(あくまで 私の感想ですが)。とにかく大量の血のりを使った凄惨たる恨みの現場は見ごたえがあるシーンでした。
炎舞版河内十人斬りは男である私としては大いに感じ入るところがありましたが、若い女性のお客さんにとってはどうだったのでしょうか。
おそらく最近の、というかこれからの大衆演劇において多くのお客さんに求められるのは「ストーリーに納得できて登場人物に感情移入し感動できる」芝居になってゆく気がします。テレビで紹介されている大衆演劇像も、どんな世代の人でも泣いて笑って楽しめる、というものです。確かに大衆演劇の喜劇の大半はそういうものです。
一方、今の世の中では時代錯誤だと思われている、しかしまったく無視してよいとは誰もが思っていないだろう、「忠」や「義」や「意地」といったテーマを大真面目に扱うことで、お客さんの普段触れない琴線を揺さぶり非日常的で理解しがたいながらも肯定したいと思える幻想を立ち上がらせることにも、大衆演劇らしさがあると私は考えています。
つまり大衆演劇「らしさ」を芝居の内容面から捉えた場合、私の思う「らしさ」には相反する二つのものが共存します。
今は前者を目指す傾向が強く(その典型的なあらわれが松竹新喜劇の芝居の増加でしょう)後者のような芝居が少なくなってきたように思います。
「親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけてのむ」・・・北島三郎「兄弟仁義」は今から約50年前の日本でミリオンセラーとなりました。多くの日本人が義兄弟という幻想に心を寄せていたのです。
炎鷹座長が炎舞版「河内十人斬り」をこの先ずっとお家芸としてかけ続けて行くことを強く願っています。
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2016年6月12日劇団炎舞浅草木馬館公演「河内十人斬り」カーテンコール


たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」

たつみ座長が中学生の頃までは劇団でやっていたそうです(たつみ座長の父親二代目小泉のぼるが弥五郎役)。永らくこの芝居を舞台にかけていなかったのが、2015年3月の三吉演芸場での小泉ダイヤ誕生日公演で復活しました。私はその誕生日公演と2016年8月の木馬館公演を観ました。
主な配役・・・谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男(2016大蔵祥)、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:葉山京香、やな:辰巳満月、愛媛県:辰巳小龍(二役)、鹿蔵・飴寅::嵐山瞳太郎(二役)、松永一家の身内:大蔵祥・小泉ライト・辰巳花
小泉版「河内十人斬り」は辰巳小龍演じるおかく婆あが絶品です。河内十人斬りの前半の影の主役はコメディリリーフも担うおかく婆あではないでしょうか。
体型は細身で腰の曲がった弱弱しそうなばあさんだが、その性格のどぎついこと。何より機関銃のように罵詈雑言をまくしたてる勢いが凄い。捨て台詞「このド甲斐性なしのガシンタレが」も最高。小龍さんはこの芝居をたてるにあたって町田康「告白」を読んだそう。あの小説の強烈なキャラクターにひけをとらない小龍さんのインパクトさすがです。
小泉版の構成の工夫のひとつは、オープニングで幕が上がると、紋付袴姿のダイヤ座長が現れて河内音頭を唄いだすところです。この演出はうれしい。思わず「エンヤコラセードッコイセ」と合いの手を入れたくなります。
十人斬りの場面は、父親の芝居では大量の血のりを使ったそうですが、たつみ版は「血が嫌いなお客さんもいるから」と血は使いませんでした。
金剛山に逃げ隠れている際に、少ない食料をお互い譲り合う場面を入れるなど、兄弟の情を強調した脚色となっていました。
最後は一緒に死のうとお互い差し違えますが、弥五郎の情愛が強調された演出だと思いました。
芝居全体の完成度は、言うまでもなく、さすがたつみ演劇BOXとうならせる高さでした。

炎鷹版もたつみ版も、金剛山で熊太郎らにこっそり食料を差し入れる愛媛県と呼ばれる村人と彼が面倒を見ている飴虎という青年と、やつらを見かけたらこれを吹けと笛を渡す役人が出てきて、他愛もない喜劇的場面が挿入されます。
「愛媛県」という名前の由来は何なのだろう?気になります。

◇2019年8月16日木馬館で観劇
谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:辰巳あさみ、やな:辰巳満月、愛媛県:黒潮幸次郎、鹿蔵・飴寅::小泉ライト(二役)、松永一家の身内:辰巳花・小泉龍之介他


劇団新の「新 河内十人斬り」

2017年3月5日、大島劇場で劇団新の「新 河内十人斬り」を観ました。
龍新座長の脚本演出の「新しい」河内十人斬りです。炎舞版、たつみ版ともに浪曲河内十人斬りを下敷きとしていますが、新版はそれによらないオリジナルな構成です。
大きな特徴は、熊太郎(龍錦)の父親(龍児)および弟(小龍優)が登場するところです。熊太郎の父は侠気を持ち男の意地を立てることに生きる美学を見出す親分肌の人物。この父親がいかにも大衆演劇という行動を起こします。弟は新版河内十人斬りの影のキーパーソン。河内十人斬りという演題は史実を元としているからどうしてもある問題点をはらんでしまう。10人も殺したのに最も殺したい人物(虎次郎、史実では寅吉)は討ち逃している点です。新版では独自の新解釈を加えることによって、この点に関する観客のモヤモヤ感を解消してくれています。ここに熊太郎の弟がかかわってくるのですが、詳細は見てのお楽しみということで・・・。
史実では熊太郎は十人斬りの前に自分の墓を建てています。新版はこれを巧みに取り入れていました。墓を建てるというのはもちろん死を覚悟したということを意味します。新版熊太郎は、弥五郎(龍新)を巻き添えにしたくない(死んでほしくない)と強く思っています。しかし弥五郎は、熊太郎とは一身同体、運命共同体だと思っていて、一緒に連れてってくれないのなら、ここで二人で死んでしまおうとまで言います。そして弥五郎は、熊太郎の墓に自分の名前を刻みます。これは名シーンでした。
また新版の熊太郎と弥五郎の関係は、兄弟分ではあるけれど「友情」に近い心情でつながっているように思えました。例えば弥五郎は熊太郎を「兄キ」とは呼ばずに「熊ちゃん」と呼びます。熊太郎と弥五郎が最後は心情的に深く結ばれることを望み、それがかなったという確信のもとに果てる、という点では他劇団版も新版も同じです。しかし、それが義兄弟からの純化か、友情からの純化かという点は似ているようで大きな違いがあると思います。昔からの大衆演劇では「義兄弟という共同幻想」を客も演者も持っていることを前提に作られていたでしょう。大衆演劇の新しい時代を開いてゆかなければならないと自負しているだろう龍新座長のセンスはその前提を見直してゆく必要を認めたのではないでしょうか。この友情ベースのドラマは若い方を含めて多くのお客さんに感動と共感を与えることができると思いました。友情ドラマのクライマックス、龍新座長演じる弥五郎の最期がこの芝居の一番の見所でした。
BGMに河内音頭を使用するのは必然としてそれに現代の若者の歌をつなげ、大胆な曲構成となっていました。ここにも若い座長ならではのセンスが光っていました。
龍新座長の力量に心地よくのれた芝居でした。しかし、まだまだ役者の力量的にも内容的にも進化の余地がたくさんあると思います。これから長い年月をかけてこの芝居が劇団新の中で育ってゆくことを楽しみにしています。


劇団花吹雪の「河内十人斬り」

2017年9月25日、浅草木馬館で劇団花吹雪の「河内十人斬り」を観ました。
基本的な物語設定は炎舞版と似ていますが、弥五郎が妹に会う場面と金剛山の山中で役人が熊太郎らを探す場面はありません。それでも約2時間の大作でした。若干の脚色により弥五郎の出番が多くなっています。(例えば、熊太郎が松永親分の家に借金を返しに行く際も弥五郎が同行する)
この弥五郎の描き方が他劇団とまるで違っていました。「殺す」が口癖。ほぼ殺人狂といって差し支えないでしょう。松永一家への襲撃にしても、兄貴分の熊太郎の悔しさを我が想いとして復讐の手助けを買って出る、というより自分の殺人趣味を満たすために熊太郎に起こったことを口実に行動しているように見えます。二人が金剛山へ逃げ込んだ場面では、他劇団では松永一家を良く思っていなかった村人がこっそり二人に食事の差し入れをしますが、花吹雪版では弥五郎が村人を脅して飯を奪いとります。また、他劇団では、二人は恨みのない村人には手を出そうとしませんが、花吹雪版の弥五郎は討ち逃した寅吉を殺すためには、邪魔をする村人も殺してしまえと意気込みます。このように弥五郎の非情さ・凶暴性が強調されています。
花吹雪版河内十人斬りの眼目は松永一家襲撃の場面でしょう。殺戮のシーンはリアルな演出で血もかなり出ます。弥五郎はものすごい迫力でぬいの母親のおかく婆あを殺します。熊太郎がおかくを殺すならわかるが、なんで弥五郎がおかく婆あにあそこまでの殺意を持てるのだろうか。ここまで書きますと、弥五郎はさぞ恐ろしい迫力の人物だろうと思われるでしょうが、ある場面では役人を相手にヘラヘラした軽い態度をとりノーテンキなヤンキーみたいになります。弥五郎の人間性を理解できませんでした。また、こんな人間が血のつながりもない兄弟分に堅い絆を持ちうるとは到底思えません。

あくまで私の勝手な感想ですが、花吹雪版の芝居は当初は熊太郎と弥五郎の絆が物語の幹としてあったが、一時的な笑いをとるために、弥五郎が誇張した言動(短絡的に殺すと言うなど)や軽薄な言動(他の登場人物をおちょくる)をするようにしてしまった結果、弥五郎の人物像がブレブレになってしまったのではないでしょうか。結局、弥五郎の人格の主幹を「凶暴さ」で形成したために、深みのない薄っぺらな登場人物になってしまいました。笑いをとる言動を入れてしまったために物語や人物像にブレが生じることは大衆演劇ではよくあります。しかしこのような大芝居の場合にはしっかりしたテーマを据えて、そのテーマを愚直に貫くことで大衆演劇らしい良い意味でクサく、見応えのある芝居にしてほしいと個人的には思います。刹那的にお客さんを楽しませることにはまさに大衆演劇らしさがあるでしょう。しかし、それが芝居に矛盾を生むことになれば、媚態のために芝居の芸術性を損ねている行為、と見ることもできると思います。

熊太郎、松永親分、おかく婆あは良かったです。しかし弥五郎の凶暴さと十人斬りの場面の凄惨さを強調したために、スプラッター映画のように楽しみ方が通常とは異なる芝居になりました。ある意味劇団花吹雪の挑戦とも言えます。他劇団とは違うアプローチで独自の見せ場を作ろうというもくろみはよいと思います。が、この演目に関しては、弥五郎の行動原理を整理して納得できるものにしないと、花吹雪版のアレンジは完成しないと思います。



スーパー兄弟×章劇の「河内十人斬り」

2020年7月の篠原演芸場はスーパー兄弟と章劇の合同公演。7月28日に河内十人斬りを昼夜役替えで公演しました。昼の部主演は、城戸熊太郎:龍美麗、谷弥五郎:三代目南條隆でした。
ここでは、澤村章太郎と瀬川伸太郎が主演を務めた夜の部を以下ご紹介いたします。(ネタばれ注意)

主な配役…城戸熊太郎:澤村章太郎、谷弥五郎:瀬川伸太郎、松永伝次郎:澤村蓮、松永虎次郎:美月流星、松永一家の身内:南條勇希、熊太郎の母:大路にしき、やな:天生蛍、おかく:南京弥、ぬい:一条椿、愛媛県:龍美麗、子供達:三代目南條隆、龍魔裟斗

スーパー兄弟版河内十人斬りでは熊太郎の母が登場しドラマに深くかかわります。つまりこの芝居では、澤村章太郎(熊太郎役)と大路にしき(熊太郎の母役)の姉弟ががっつりと競演しました。
オーソドックスな河内十人斬りでは、テーマを義兄弟の絆に収斂させ、[情けないところがある熊太郎][粗野だけれど情に厚い弥五郎]という対比構図のもと、剥き出しの一途さを持つ弥五郎の方が力強く描かれます。スーパー兄弟版は、復讐譚に[母子間の情愛]もからませることで熊太郎の人格に奥行きを与え、[熊太郎の物語]であることが強調されます。
熊太郎は死を賭して松永一家に復讐しようと念じているが、母と弥五郎の前ではまるでその逆のように振舞い、一人家を出て行きます。
母をこの世で一人ぼっちにさせてはいけない。母を慕ってくれている弥五郎はこれからもずっと母のそばに居てほしい。だから弥五郎をこの復讐に加担させるわけにはいかない…このような心中を、熊太郎役の章太郎後見は表情や何げない会話だけで表現します(このシーンのために、[弥五郎・やなの兄妹]と[熊太郎・母の親子]が普段からとても親しい関係になっているという設定上の工夫がなされています)。
一方の母(大路にしき)は、必ずけじめをつけてやるという強い意思が熊太郎にあることを察します。熊太郎が男を立てるためにはすべてを捨ててもよいと考えている母は、自分の存在が熊太郎の行動を鈍らせていることも、弥五郎の力なくしては松永一家への復讐は果たせないこともわかっている。母は自害し、「熊を男にしてくれ」と弥五郎に頼みます。そして弥五郎も、熊太郎の男としての行動に殉ずるためにおやなと一生の別れをする。
このようにスーパー兄弟版では、大衆演劇ではよく描かれるが現代では失われつつある「男を立てる」というテーマも強調されています。
この後、墓場の場、十人斬りの復讐の場、金剛山山小屋の場と続き、ラストは金剛山鉄砲の場。(場面名は適当につけました)
おなじみの熊太郎と弥五郎が命を捨てる場面です。熊太郎は弥五郎を撃った後、ここでも母を想起します。
「おかん、ごめんな、わしはおかんのところに行けへんのや。こいつが待ってるさかい、地獄でな」
なんて悲哀に満ちた最後なのでしょう。通常このような場面は「死んでもあの世で再開できる」ことを救いとして果ててゆきます。しかし熊太郎は天国にいる母と地獄に行く自分とは永遠に会うことはできないことを悟りながら、自らの腹に銃口を向け足で引き金を引いたのです。

澤村章太郎後見と瀬川伸太郎座長、ふたりだけの静かなラストシーン。緊迫感が最高潮に達すると、舞台袖から舞台にむかって「サワムラー!」「せがわ!」「章太郎!」という掛け声がかかりました。舞台袖から固唾を飲んで芝居を見守っていた大路にしき、龍美麗、三代目、澤村蓮によるものだったようです。
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左:瀬川伸太郎座長(谷弥五郎)、右:澤村章太郎後見(城戸熊太郎)

ところで、スーパー兄弟は何をしていたのか?龍美麗総座長は山小屋の場の愛媛県役、三代目南條隆座長は同じく子供役。なんというゼイタクな座長の使い方なんでしょう。この場面は、龍魔裟斗花形や美月流星座長(ザビエル役)も登場してたいそう面白かったみたいです。

独自の解釈を加え、熊太郎の人間性に厚みを持たせたスーパー兄弟版の「河内十人斬り」。龍美麗・三代目南條隆の両座長主演版もいずれレポートできればと思います。
※本項目(スーパー兄弟×章劇の河内十人斬り)はフルギー@frugiiiさんのレポート・写真をもとに作成しました。


小説 町田康「告白」

町田康先生の「告白」は河内十人斬りを題材とした長編小説です。史実および芸能の演目としての河内十人斬り(町田先生は浪曲がお好きです)どちらも内容に反映されています。
とにかく面白いです。心地よいです。すべてのページに天才町田先生の言葉のイリュージョンが散らばっています。人間描写のおかしさがたまらない。

主人公は城戸熊太郎で、熊太郎の少年時代から最後までを以下のような時間経過で描いています。(ネタばれ注意:小説の内容に少し言及しています)
・慶應3年(熊太郎10歳)
世の中には基準が複数あることを知り、大人が発する言葉に疑問を抱く。
・明治4~5年(熊太郎14~15歳)
葛城山の岩室で人を殺めてしまう。このことは熊太郎しか知らないが、以降このことが熊太郎の脳裏に暗い陰を落とす。
・明治14年(熊太郎24歳)
熊太郎は酒・博打と遊蕩に身を持ち崩す。賭場で少年谷弥五郎と出会う。村会議員松永伝次郎の息子松永熊次郎と出会う。村の女に惚れるが失恋する。
・明治24年(熊太郎34歳)
弥五郎と再会する。奈良の遊郭で寅吉に会い、つるむようになる。美しく成長した17歳のぬいに村中の若者が夢中になり熊太郎も惚れる。弥五郎の協力で熊太郎とぬいはよい仲になる。
・明治25年(熊太郎35歳)
とらが金を目当てに、ぬいを松永熊次郎に添わせようとするが、熊太郎は金で解決し、熊太郎とぬいは所帯を持つ。熊次郎は熊太郎に30円を借りる。寅吉とぬいの仲がよくなる。熊太郎、とらに養い料を請求される。熊太郎は熊次郎から金を返してもらおうとするが、熊次郎の計略に遭い受け取れない。熊太郎、伝次郎宅に行くがふくろだたきに遭う。
・明治26年(熊太郎36歳)
3月、熊太郎の傷が治る。弥五郎は浅井てると所帯をもとうとするが父親の浅井伝三郎に反対され、手切れ金100円を要求する。
5月、十人斬りの決行。金剛山中に逃げる。二人の最後。

河内音頭や浪曲で主に語られるストーリーに相当するのは小説の最後の1/4か1/5くらいです。この小説の大部分はそこに至るまでの熊太郎の遍歴が描かれています。といっても、史実に明らかにされていない部分をこうだったのではないかと史実補足する目的で書かれているのではなく、町田先生の妄想の翼が自由闊達にかけめぐるフィクションとして創作されています。
この小説の主人公熊太郎はあまりに思弁的なため、自分の感情を直接的に感じてそれを言動にダイレクトに反映させることができない。自らを説明するように客観視している自分が常に同居していて、その思考が渦巻く結果、自分の本音を見失っている。また、本音や直感に対して素直に生きているらしい周りの人々の思惑を慮ることができない。自分に素直に(悪事も含めて)生きている周りの人間の言動と熊太郎の言動とはことごとくフィットしない。その様子を、イキイキとした河内弁の台詞回しと飄逸な心情吐露を用いて描いている。これがこの小説の最大の魅力だと思います。だから河内十人斬りを描いた小説というより、思弁的すぎて思うように世間と渡り合えない男を描いた小説と言った方がよいでしょう。小説の最後の1/5は史実および河内音頭の河内十人斬りをなぞるような内容になっていて、それまでのユーモラスさはあまりありません。けれども、河内十人斬りに興味がある者にとっては、実に楽しめる内容になっています。


物語の舞台を訪ねて

小説「告白」には事件があった水分村界隈のさまざまな場所が描かれています。
2015年夏、物語の舞台を訪ねました。
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大阪唯一の村、千早赤阪村の水分に来ました。

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建水分(たけみまくり)神社境内。建水分神社は地元では通称水分(すいぶん)神社として親しまれています。
正面奥に建水分神社拝殿、右の鳥居は南木(なぎ)神社。

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建水分神社摂社の南木神社。楠木正成を祀ったお社です。
熊太郎が白く輝く正三角形が浮遊するのを見たのはこの鳥居の前の空中です。

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建水分神社の拝殿はこの階段の上。

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拝殿下の階段付近から見た境内。
前方右側にあるのが旧絵馬堂。熊太郎が森の子鬼と角力をとったのはこの前あたりだろうか。

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小説にたまにでてくる「牛滝堂」という場所に行ってみようと思いましたが、Googleマップでは表示されているものの、現場ではいったいどこなのかがわかりませんでした。

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小説にはでてきませんが建水分神社近くにある奉献塔も訪ねました。
楠木正成の没後六百年を記念して、昭和15年に建てられた記念塔です。

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奉献塔の近くから金剛山方面を眺める。

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熊太郎が森の子鬼を探しにいった御所(ごせ)方面へ向かいます。
進行方向に金剛山の山並みが見えます。

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奈良県御所市に入りました。
熊太郎も訪れた一言主(ひとことぬし)神社の参道です。願いごとを一言だけきいてくれる神様を祀っています。
小説では、ちょっと迷っている人の前に突然現れて一言言い放って去ってゆくという不気味な神様(笑)になってます。

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地元の方には「いちごんさん」として親しまれています。

一言主神社は葛城山の麓近くにあります。

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葛城岩橋図
葛城山には巨岩・奇岩があります。図には「胎内めぐり」として大きな岩の間から抜け出そうとしている人が描かれています。
葛城ドールの岩室も葛城山中のどこかにあったのでしょう。

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一言主神社から少し離れた道路に「蛇穴」という地名表示が見えました。「さらぎ」と読みます。
岩室の帰りに、大小数百以上の蛇が生きてぬるぬるおごめいている蛇穴に鹿造が落ちて発狂した場面を思い出します。
珍しい土地の名だなと思って地名事典で「蛇穴」を調べたら「例祭に蛇綱引汁掛祭が行われる。大蛇をかたどった蛇綱を造り境内に奉納、参拝する人々にワカメの味噌汁をかけた」と書いてありました。なんちゅう奇祭でしょうか。

小説の舞台を訪ねる旅は以上です。

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御所にある大衆演劇場「御所羅い舞座」で観劇して別の旅先へと向かいました。

■あとがき
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・京山幸枝若(初代、二代目)
・町田康
・小泉たつみ、小泉ダイヤ、辰巳小龍(たつみ演劇BOX)
私が大好きなそして尊敬している先生方です。先生方の豊かな表現を堪能すると、日本に生まれてきてよかったなあ、もう少し言えば、日本語を母国語とする国に生まれてきてよかったなあとわが身の幸運を祝福したくなります。
この先生方が皆同じ題材「河内十人斬り」を扱っているということで興味が募り、いろいろ調べたのを機に、このブログを作成いたしました。
「河内十人斬り」がもっと演芸ファンの人気を集め、浪曲でも大衆演劇でも多くかけられるようになればいいなあと願っております。

(2016年8月投稿)

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)
2021.8.1最終更新


飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒は講談・浪曲・大衆演劇でおなじみの人物です。私は大衆演劇がきっかけで知りましたが、大衆演劇を観始めた頃の私には予備知識がなく、これらの人物がなぜよく芝居に登場するのかがわかりませんでした。
その後、関連する映画や浪曲などに触れるようになって、これらの話は実際の出来事が元になっており、「天保水滸伝」という名でかつての日本で人口に膾炙していた物語だと知りました。
そこで天保水滸伝について基本的なことをおさえておこうと思ったのですが、わかりやすくまとまっている文章がなかなか見つかりませんでした。
同じような思いをしている大衆演芸ファンが他にもいるのではないかと思い、私のわかる範囲で天保水滸伝についてまとめてみました。また、飯岡・笹川を訪ねた時の写真もあわせて掲載します。(飯岡・笹川・銚子の旅のブログはこちら



【もくじ】

※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■主な人物
■場所
■時代
■なにが起こったか
助五郎と繁蔵/助五郎、岩井不動で闇討ちにあう/笹川の花会/繁蔵・富五郎の召し捕り状/繁蔵、助五郎宅を襲う/飯岡勢、笹川へ/飯岡方の惨敗、深喜の死/繁蔵の放浪、助五郎の入牢/笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす/勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
■人物伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒
■時代背景
飯岡・笹川の繁栄/なぜ博徒が多かったのか/関東取締出役(八州廻り)の設置/二足の草鞋

≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
■近世侠義伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒/勢力富五郎/清滝佐吉/夏目新助/洲崎政吉/神楽獅子大八/荒生留吉
■講談
戦前戦後の講談
現代の講談
■浪曲
二代目玉川勝太郎
二代目玉川福太郎
玉川奈々福
■映画
座頭市
■演劇(戦前)
■歌謡曲
■大衆演劇
■長谷川伸作品と天保水滸伝
瞼の母/関の弥太っぺ



≪史実編≫


主な人物

【飯岡方】
・飯岡助五郎(いいおかすけごろう)
 …飯岡一家の親分
・洲崎の政吉(すのさきのまさきち)=永井の政吉
 …助五郎一の子分
・石渡孫治郎(いしわたりまごじろう)=三浦屋孫次郎
・堺屋与助(さかいやよすけ)
 …助五郎と妾の子
・成田の甚蔵(なりたのじんぞう)
 …政吉・孫次郎・与助・甚蔵が助五郎の四大子分である。

【笹川方】
・笹川繁蔵(ささがわしげぞう)
 …笹川一家の親分
・勢力富五郎(せいりきとみごろう)
 …本名柴田佐助 繁蔵一の子分
・清滝の佐吉(きよたきのさきち)
 …繁蔵の子分
・夏目の新助(なつめのしんすけ)
 …繁蔵の子分
・平手造酒(ひらてみき)
 …浪人。笹川一家の用心棒

【その他】
・銚子五郎蔵(ちょうしのごろぞう)
 …本名木村五郎蔵、十手を預かる銚子の大親分
・荒生の留吉(あらおいのとめきち)
 …助五郎の出入りを繁蔵に内通した




場所

舞台となったのは下総(現千葉県)の飯岡と笹川。
現在の地名では、飯岡は旭市、笹川は東庄(とうのしょう)町にあります。
利根川沿いに笹川、九十九里浜の東端に飯岡があります。
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時代

下の表は、飯岡助五郎・笹川繁蔵・勢力富五郎のそれぞれの生涯を棒グラフ状にして、彼らの生きた年代を示したものです。棒の下に書いてある数字は死んだ時の年齢です。助五郎は繁蔵より18歳年上ですが、繁蔵よりだいぶ長生きしました。
参考までに、大衆演劇でおなじみの国定忠治・清水次郎長・森の石松の生涯も並べてみました(石松は半架空の人物なので死んだ年のみわかるように表記しています)。大衆演劇の人気者はほぼ同時代に生きた人物でした。
平手造酒の生年は不明ですが、天保15年の飯岡・笹川の決闘により命を落とした際の検死記録では37,8歳と記されています。

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※勢力富五郎は生まれがもっと早く、死んだとき37歳だったという説もあります




なにが起こったか

天保水滸伝はどのような史実が元になっているのでしょうか。飯岡・笹川の一件にはさまざまな話が残されており、事実と作り話を区別することは困難です。でも事実がどうだったかを探求した方々による書籍はいくつかあります。それらを読み、大衆演芸において創作されたのであろうと思われる逸話を排除することに留意しつつ、私の思う史実をまとめてみました。

助五郎と繁蔵
飯岡助五郎は九十九里浜沿いの漁村飯岡の網元であると同時に一帯を仕切る博徒の親分。関東取締出役の道案内として十手を預かる身でもある。
笹川繁蔵は利根川の水運で栄える笹川河岸に住む売り出し中の親分。
助五郎、繁蔵ともに元相撲取り。気心が通じたのか二人は親密になり金を融通しあうなどしていた。十八歳上の助五郎は繁蔵の面倒をよくみた。
繁蔵は、助五郎と妾の間に生まれた長男堺屋与助に羽斗村次郎左衛門の娘お万(お政)を女房に世話した。

助五郎、岩井不動で闇討ちにあう
しかし博徒に勢力争いはつきもの。大親分となった助五郎と繁蔵との間に縄張りをめぐって緊張関係が生まれるようになった。そんな争点の一つに清滝村の岩井不動があった。この賭場は清滝の佐吉が父親から譲り受けたものとも言われている。ここの縁日で行われる博奕では莫大なテラ銭が入る。助五郎が勢力を広げるなか、若い佐吉には縄張りを維持する力がなく、岩井不動の賭場は自然と助五郎の縄張り下となった。清滝の佐吉は助五郎の対抗勢力の繁蔵の子分となった。清滝の隣村の万歳村に佐吉と同年代の佐助がいた。佐助は江戸に行き勢力富五郎という力士となったが、やがて故郷に戻り繁蔵一家に加わった。
ある日助五郎は、岩井不動で博奕をうった帰りに何者かに背中を斬られた。助五郎は田んぼの中に突っ伏したまま死んだふりをした。結局この闇討ちの下手人が誰かはわからなかったが、犯人は笹川方の佐吉か富五郎の身内に違いないと助五郎は睨んでいた。
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岩井滝不動(龍福寺)

笹川の花会
1842(天保13)年、諏訪明神の例祭日に、繁蔵は相撲の租野見宿彌命(のみのすくねのみこと)の碑を建てるという名目で花会(博奕の大会)を笹川の宿「十一屋」で開いた。
この花会の詳細はよくわかっていない(大衆芸能としては後述)。
元力士で相撲の興行権を持っている助五郎にはこれが気に入らなかったのかもしれない。助五郎は欠席し、名代として子分の洲崎の政吉が出席したと言われている。
この頃から助五郎と繁蔵の関係は険悪になっていったようである。
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 野見宿彌命の碑(笹川 諏訪大神)
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 博奕で使われた駒札(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)


繁蔵・富五郎の召し捕り状
1844(天保15)年、飯岡村が属する大田村三十五カ村寄場組合の申し出により関東取締出役から笹川繁蔵・勢力富五郎他の召し取りの御用状がくだされた。関東取締出役の道案内である助五郎が召し捕ることとなった。召し捕り状は8月3日に村役人に、8月4日に助五郎に渡った。助五郎は5日に召し捕りに向かうことにした。

繁蔵、助五郎宅を襲う
これを繁蔵と親しい荒生の留吉が知って繁蔵に知らせた。8月4日の深夜、繁蔵は富五郎ら4,5人を連れて先制攻撃を仕掛け助五郎の家を襲った。助五郎は指に軽傷を負ったが玉崎神社に逃げ込み無事であった。
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 飯岡 玉崎神社にある助五郎の碑

飯岡勢、笹川へ
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助五郎は5日、子分を集めて繁蔵の召し捕りに出立した。総勢22名(50名説もあり)。助五郎は、襲撃の後に繁蔵が銚子に向かったと考えた。7時頃銚子に向かって出発し、途中猿田村の源次郎の所で休息した。休んでいる間、源次郎が繁蔵の消息を調べたところ、銚子にはいなくて笹川に戻っていることがわかった。助五郎は松岸村まで行き、昼飯を食べてから舟で忍村へ移動し、子分の博多川のところへ寄った。助五郎らが夜半まで休息をとっている間、博多川が船頭を手配した。助五郎は腹ごしらえを済ますと舟で笹川に向かった。
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 笹川付近から見た利根川
助五郎が召し捕りに向かっているという知らせは繁蔵の耳にも入っていて、繁蔵と子分たちは槍などをそろえて周到に用意していた。数日前から笹川勢は拠点を西光寺に構えていたが、6日の早朝は延命寺や繁蔵の家にも子分がいた。
6日、船中の助五郎は夜明けを確認すると笹川河岸に舟をつけた。
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 現在の笹川漁港
河岸にいた見張りから助五郎踏込の知らせが笹川方にもたらされ、笹川一味は身を潜めた。飯岡方は「御上意、御上意」と叫びながら繁蔵宅に踏み込んだ。繁蔵宅で待ち構えていた者と延命寺に潜んでいた者(あわせて20人足らず)が飛び出して喧嘩が始まった。療養をしていた平田深喜も知らせを受けて現場へ駆けつけた。繁蔵と仲の良かった廻船問屋が屋根の上で爆竹を鳴らして「鉄砲だ」と叫び、飯岡方はひるんだ。笹川方には加勢も加わって、飯岡方はだんだんと劣勢となり退却を余儀なくされた。飯岡方は舟で野尻まで退却した。

飯岡方の惨敗、深喜の死
この召し捕り失敗で飯岡方は3人が即死した。助五郎一の子分、洲崎の政吉は退却途中の船中で死亡した。他に4名が負傷した。
笹川方は平田深喜が重傷を負ったのみであった。平手は十一か所も斬られていた。医者が手当したが翌日に息をひきとった。
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 平手造酒の墓(笹川 延命寺 昭和3年建立のもの)
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 墓には酒が手向けられている


繁蔵の放浪、助五郎の入牢
召し取りに失敗した助五郎が追手を回すに違いないと察した繁蔵は、子分たちに有り金を渡して逃げるよう指示して自身も放浪の旅にでた。繁蔵がどこに向かったのかはわかっていない。
助五郎は関東取締出役から召し取り失敗の責任を問われ牢屋に入れられた。
助五郎は釈放され再び十手を任される。

笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす
1847(弘化4)年、ほとぼりが冷めたとみた繁蔵は笹川に戻った。子分らが再び集まり、笹川方はかつての勢いを取り戻し始めた。
助五郎は前回の失敗があるので容易には繁蔵には手は出せない。息子与助の妻の父の岩井常右衛門に繁蔵の動向を報告させた。
7月4日の夜、繁蔵は博奕を終え、妻のお豊のところへ向かった。途中には小川が流れており、ビャク橋という橋がかかっている。繁蔵はここで待ち伏せしていた三浦孫次郎、堺屋与助、成田甚蔵に襲われて命を落とす。繁蔵の首は落とされ、胴体は利根川に流された。首は飯岡に持ち帰られた。
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 ビャク橋跡
この闇討ちは3人が無断で決行したものであり助五郎は知らなかった。正攻法で繁蔵を捕えようと考えていた助五郎は、子分が持ち帰った繁蔵の首を見て驚いた。助五郎はこのことを秘密にして繁蔵の首を定慶寺に埋めた
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 笹川繁蔵の首塚(飯岡 定慶寺)


勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
親分を失った笹川方は、一の子分勢力富五郎が跡目を継いだ。
この頃関東では博徒による悪行が横行し、無宿者を取り締まるお触書が通達されていた。富五郎は親分を抹殺した助五郎および関東取締出役を憎んでいた。鉄砲を武器に武闘派の一軍を結成してお上の権威に歯向い、助五郎の一味は悪逆非道を重ねた。
ついに1849(嘉永2)年3月8日、5名もの関東取締出役が動き、周辺76カ村の役人に勢力召捕の協力を求めた。5,600人もが集まり大捕物を展開したが、富五郎は逃げ隠れ、関東取締出役の鼻をあかした。
4月、新たな召捕作戦により富五郎は追い詰められてゆく。富五郎は小南村の金毘羅山に逃げ込んだ。4月28日、子分と2人となった富五郎は、お縄にかかるよりはと自決の道を選ぶ。ついに富五郎は鉄砲で自殺した。残ったわずかな子分、夏目の新助や清滝の佐吉らも捕えられて江戸送りとなり、小塚原で処刑され笹川方は全滅した。
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 金毘羅山
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 勢力富五郎自刃跡(笹川 金毘羅山)




人物伝


飯岡助五郎
1792(寛政4)年、相模国三浦郡公郷村山崎(現在の横須賀市三春町)という小さな漁村に生まれる。本姓は石渡(いしわた)。18才の頃、相撲取りを志願して江戸に渡り、綱ヶ崎を名乗るが、親方が死んでしまい、1年程度で廃業した。
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助五郎の生家があったところ。今でも近くには石渡姓の家が多い。
その後上総国作田浜の網元のところで猟師として雇われる。頼りの網元が死んでしまい、漁夫仲間とともに飯岡に移る。仕事に精を出しつつも、ずぬけた腕力でヤクザ者を打ち負かす助五郎は兄貴と呼ばれるようになり、やがて船頭になった。漁夫は時化で休みのときは博奕に興じ、助五郎もこれに深くかかわった。博奕場で喧嘩が起これば仲裁して納め、助五郎は男としての貫禄をあげていった。
助五郎は網元半兵衛に見込まれてその娘すえと結婚した。また、助五郎は茶屋女のサイとも深い仲になり、サイとの間には与助という子供をもうけた。
飯岡は銚子の大親分五郎蔵の勢力圏にあった。漁業に精を出しながら博徒として売り出していた助五郎は五郎蔵の子分となり、代貸として賭場の取り締まりをまかされた。助五郎が30歳の頃、五郎蔵の縄張りのうちから飯岡を譲り受け、飯岡一帯の親分となった。
また、銚子の五郎蔵と同じく、関東取締出役の下で働く道案内人を任じられ、助五郎は二足草鞋の親分となった(年代は不明)。
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 五郎蔵と助五郎が寄進した大釜(銚子 円福寺)
漁業においては、義父の援助を受けて、生まれ故郷の名をとって三浦屋という網元を立ち上げた。助五郎は、漁業の三浦屋を本妻のすえに、博徒の仕事を妾のサイに任せ、二人のもとを往来した。
助五郎は飯岡の漁業の振興につくした。大規模の地引網には水夫が60~70人、浜で綱を引く岡者が200人必要であった。助五郎は、博奕や喧嘩が好きな気性の荒い水夫たちを束ね存在感を高めた。飯岡浜では海難事故が絶えなかった。事故が起これば残された家族は暮らしに困るし、数十人の命が奪われる大きな事故の場合は飯岡の漁業の危機となる。ある時助五郎は故郷の三浦半島に出向き、若い漁師を大勢引き連れて帰ってきた。未亡人には新しい亭主を引き合わせ、飯岡の漁業も救った。
幕府は娯楽について一切禁じていたが、相撲興行だけは認めていた。もと力士の助五郎は相撲に感心が強く、天保十一年に江戸相撲会所から相撲の興行権を得た。相撲の興行は収入面でも勢力誇示の面でも助五郎の存在を大きいものにした。
笹川繁蔵との一件の後、助五郎は一家を息子の堺屋与助に譲る。助五郎は68才で畳の上で大往生を遂げた。
大衆芸能においては繁蔵に対する「悪役」として描かれている。
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 飯岡助五郎の墓(飯岡 光台寺)

笹川繁蔵
本名は岩瀬。岩瀬家は代々、羽斗(はばかり)村で醤油と酢の醸造をしていたが、繁蔵の父は笹川河岸の繁栄をみて須賀山村に酢と醤油の蔵を建てて移り住んだ。繁蔵はここで生まれた。繁蔵は7歳の頃、漢学と剣法を学ぶ。体格の良い繁蔵は相撲を好むようになり、村の素人相撲では無敵となった。
笹川の諏訪明神に江戸相撲の千賀ノ浦が巡業に来ていて十一屋を宿にしていた。繁蔵は千賀ノ浦に入門し、諏訪ノ森を名乗った。力士は1年程で廃業し、繁蔵は江戸から故郷の笹川へ戻った。繁蔵は芝宿文吉親分の賭場に出入りをするようになる。男っぷりがよく度胸のある繁蔵は次第に若者達の親分格となってゆく。繁蔵は文吉の媒酌によって、賭場の会場となっていた家の娘豊子と夫婦となった。文吉親分は繁蔵を見込んで縄張りを譲り、自分は隠居した。繁蔵は親分となり、勢力富五郎、清滝の佐吉といった子分を従えて勢力を増していった。
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 繁蔵が使用していた合羽(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)

平手造酒
平手造酒(ひらてみき)はある実在の人物をモデルに講釈師が創作した人物です。平手造酒のモデルとなった人物についてははっきりしておりませんが、「平手造酒」という名前でなかったことは確かです。
笹川と飯岡との決闘の後、笹川方で唯一死亡した浪人について地元の名主が役人に提出した検文書には「無宿浪人、平田深喜」と書かれています。
笹川の延命寺には笹川繁蔵の碑や勢力富五郎の碑とともに「平田氏の墓」(嘉永3年建立)があります。
笹川から20km上流の佐原にあった道場の入門帳には「讃岐高松藩中 平田三亀」の記載が残っているそうです。また、平田三亀は松崎村(現在の香取郡神崎町松崎)の名主山口市左衛門のもとにも身を寄せていたらしく、市左衛門が建立したと思われる平田三亀之墓と刻まれた墓石が現在も残っています。また下関にあった笹尾道場に40年の間に訪れた武芸者を記録した古文書が残っており、そこに「讃岐高松家中 平田三亀」と書かれています。このことから平田三亀という名の人物が実在したことは間違いがなく、この平田三亀が平手造酒のモデルとなった人物と推測されます。子母澤寛「遊侠奇談」では佐原の道場の子孫への取材で平田氏が水戸にいたと聞き取ったことが書いてあります。その真偽はわかりませんが、高松藩と水戸藩はつながりが深い(例えば天保の頃高松藩主だった松平頼恕は水戸7代藩主の次男)ことから三亀が水戸にいたとしても納得がゆきます。
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笹尾道場に残る姓名録 平田三亀の部分
阿州 関口流 佐藤雄太門人 讃岐高松家中 平田三亀


平手造酒(平田三亀)の実像には謎が多いですが、「浪士であったが笹川繁蔵の食客となった」「天保15年の笹川対飯岡の喧嘩の際に命を落とした」という点は史実とみて間違いなさそうです。

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平手塚(笹川 S41建立) 

どこまでが事実かはさておきまして、一般的に認識されている平手造酒の人物像は、「江戸神田お玉ヶ池に道場を構える千葉周作の門下生で北辰一刀流の達人であったが、酒グセが悪く破門となって江戸を去り、浪人として下総に居たところ繁蔵に客人として迎えられた。労咳に病み、尼寺で療養していたが、大利河原の決闘の際に駆け付け、命を落とした」というものです。また「白無地の単衣を着ている」というイメージもあるようで大衆演劇ではしばしばそのコスチュームで演じられます。

平手造酒は後世の人々によってさまざまなイメージで描かれた人物であり、むしろそれ故に天保水滸伝で一番魅力ある人物となっています。
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 作者不詳 昔の人が描いた平手造酒
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 東庄町制作のアニメ「天保水滸伝neo」の平手造酒





時代背景


天保水滸伝の史実はその時代背景を把握するとより理解が深まります。関連する出来事をまとめました。

飯岡・笹川の繁栄
九十九里での網漁(八手網や地引網)は紀州から伝わった。元和・寛永年間(1615~1644)には多くの関西漁民が9月から翌5月にかけて出稼ぎにやってきて主に八手(はちだ)網漁を行っていた。元禄期に関西漁民が撤退し地元漁民による地引網漁が台頭すると、天保にかけてさらに発達し、飯岡をはじめとして九十九里の地引網漁業は全国最大規模となった。
捕れた大量の鰯は干鰯(ほしか=鰯を食用とせず天日干しにした肥料)や〆粕(しめかす=鰯から魚油をとった残り粕の肥料)などに加工された。関西で木綿などの商品作物が発達すると干鰯・〆粕は金肥として重宝され、九十九里の干鰯は江戸、関宿や浦賀の問屋を介して飛ぶように売れた。利根川の河岸にはこれらを扱う問屋が現れた。
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飯岡漁港(刑部岬より)

江戸時代、年貢米は江戸に集中的に運ばれた。年貢米や物資の輸送には舟運が重要な役割を果たした(例えば、陸送だと2俵運ぶのに馬1頭に人ひとり必要だが、江戸後期に活躍した高瀬舟は大きいものでは1000俵近くを6人程度で運ぶことができた)。また海上航路は荒天による危険が伴うため安全な川を使った輸送ルートが発達した。関東の大きな川沿いにはいくつもの荷卸し場ができて河岸となった。
かつて東京湾に流れ出ていた利根川は、改流工事により、関宿の北で常陸川の上流に接続され銚子へ流れ出るようになった。1654(承応3)年に銚子~利根川~関宿~江戸川というルートで江戸へ搬送する舟運路が完成した。(その後、上流から運ばれる土砂の堆積により、川水の少ない季節は大型船の関宿通過が困難になり、利根川沿いの河岸と江戸川沿いの河岸を結ぶ街道が発達した)
利根川は江戸への流通経路としてますます重要となり、利根川沿いの河岸が発達した。笹川河岸も年貢米をはじめ物資の集積地として栄えた。

銚子は、奥州から江戸へ物資を運ぶ廻船の寄港地として、利根川高瀬舟への積替地として発展した。また銚子では江戸初期に関西から技法が伝わって醤油醸造が始まり、江戸の人口の増加に伴い発達した。醤油も利根川の水運を利用して江戸に運ばれた。繁蔵の父も醤油の醸造を生業としていた。
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 銚子の利根川河口付近

繁蔵・助五郎の生きた時代には飢饉が打ち続いていた。離村や潰れ百姓の増加によって、農村の人口は減った。
飢饉が続く時代でありながら、河岸として賑わう笹川と漁業が盛況な飯岡は経済的にも余裕があり、人の流入も多かった。

なぜ博徒が多かったのか
近世の社会では、盗みや博奕を行う悪者は村内で処理することが一般的だった。幕府による「法度(はっと:禁令)」とあわせて独自の「村掟」が存在しており、村内の問題は村で解決し、盗人が領主に引き渡されることは少なかった。
しかし近世後期になると、まじめに働くことを嫌い、村社会から逸脱する者が増えてくる。村の制度・秩序では手に負えない者は、連帯責任制度から外すために親親族とは縁切りとなり、人別帳(にんべつちょう:戸籍謄本のようなもの)から外され「無宿者」となった。(素行の悪い者は目印として人別帳に札が付けられていた。それが「札付き」の語源である)
村民に暮らしの余裕がでてくると、博奕や村芝居などの遊び心がさかんになる。これにつれて無宿者・博徒も横行する。逆にいうと無宿者は人の多いところに集まる。笹川など賑わった河岸には無宿者が底辺労働者として出入りしていた。

関東地方は一つの村を複数の領主が支配していることが多く、幕府領「御領」、大名領「領分」、旗本領「知行所」、与力・同心(奉行所などで治安維持につとめる役人)領「給地」、寺社領などが錯綜していた。飯岡村は旗本と与力が支配していた。
無宿者・博徒は悪さをすると他の領地へ逃げてしまう。他の領地へ逃げてしまった者を捕らえるにはその土地の領主に照会しなければならない。そうしているうちに悪者はまた逃げてしまう。
領主としては、働き手の村民が、遊びを覚えて無宿者の仲間入りをしてしまうことをなによりも恐れていた。しかし村で手に負えない無宿者や博徒を領主の役人が捕縛するには上記のように困難が伴った。
領主の力では治安を維持することが困難になると、ますます博徒が跋扈するようになり、関東地方の治安は大変悪くなった。

関東取締出役(八州廻り)の設
幕府は、領主の支配を越えて博徒を取り締まることのできる役人の必要を認め、1805(文化2)年に「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を創設し、八名が任命された。二人一組で関八州(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡回したことから「八州廻り(はっしゅうまわり)」とも呼ばれた。
しかし関八州という広大な土地を取り締まるにはこれではあまりに不十分で(そもそも八州廻りはたいした武力を持っていない)、無宿・博徒の活動はおさまらない。また、出役が悪者を捕えると囚人番は村が行わねばならず、その人手と費用の負担も大きな問題となっていた。
幕府は1827(文政10)年に関東全域に「改革組合村」の結成を命じた。数カ村を集めて「小組合」をつくり運営人「小惣代」をおく。小組合を集めて数カ村が集まる「大組合」をつくり「大惣代」をおく。この組合の中心となる村を「寄場(よせば)」と呼び、寄場役人をおく。この組合村が関東取締出役の活動に全面的に協力し、悪人逮捕・預りの費用も組合村が負担するかたちとなった。
飯岡村は太田村を寄場とする三十五ケ村からなる組合に入っていた。

二足の草鞋
関東取締出役の廻村が決まると組合は、地理がわからない出役の活動をたすける「道案内」を選出する。道案内は、手配者を探索するばかりでなく、実際の召し捕りや護送も行う。
八州廻りが遠い土地で警察活動を行うには地元の有力者の力を借りざるを得ない。蛇の道はへびで、力のある博徒が道案内に任命されることが多かった。助五郎も土地の顔役として出役の道案内を任された。
博奕を行った者を取り締まるのが博徒、という考えられない状況が生じた。大衆演芸においては、道案内のこのような矛盾した立場は(多くは否定的な意味合いを込めて)「二足の草鞋(わらじ)を履く」と表現されている。(与力・同心等役人の手先となって取り締まりをたすける者に「目明し」(自分の罪を見逃してもらうかわりに犯人検挙を手助けする者)や「岡っ引」がいるが、目明しも博徒、つまり<二足の草鞋を履く者>であること多かった。なお、助五郎は銚子の五郎蔵と同じく銚子の飯沼陣屋から十手取縄を預かっていたといわれている)
性悪な者が「お上の御用」の権威をきたらどうなるか。当然不正をはたらく。
例えば国定忠治が活躍した頃の上州にはそうした記録がたくさん残っている。身に覚えのある者は道案内に金を渡して見逃してもらう。道案内がさまざまなトラブルに介入しては御用の風を吹かせつつ難癖をつけて金をせびりとる。賄賂を差し出した者には出役の廻村の際に逃亡の手助けをする。自ら博奕場を開いて胴元として寺銭を手中にする。役人の手下となってそんな横暴なふるまいをする者もいて村人も困っていた。忠治が長い年月捕まらなかったのも私欲にまみれた役人の手先を買収していたからである。
悪いのは道案内だけではない。道案内の横暴がまかり通るのも取締出役との癒着があったからである。関東取締出役の給料はそれほど高くなく多くの者が賄賂になびいていた。天保10年には関東取締出役13名と火付盗賊改5人が不正を摘発され処罰を受けている。
助五郎のいた下総はどうであったのか。助五郎と繁蔵との間に不和が生じた際にその仲介に努めたという松岸村の茗荷屋半次が、関東取締出役のいいつけで女の世話をしたという話は残っている。
助五郎には道案内としての悪い逸話や記録はみあたらない。「天保水滸伝」中の一番大きな出来事といえば、助五郎が関東取締出役の召し捕り状を受け取って繁蔵のいる笹川に乗り込むところである。古文書によればこの召し捕り状は、大田村ほか35か村からの訴えを受けて出されたようである。召し取り状が出されるに至った背景にはこの訴えの他に繁蔵への私怨を持つ助五郎の力はたらいていたのかどうか。それはまったくわからない。



≪天保水滸伝編≫


「天保水滸伝」の誕生

飯岡と笹川の争いを「天保水滸伝」として世に伝えたのは江戸の講釈師宝井琴凌(たからいきんりょう=三代目宝井馬琴)です。講釈師というのは現代的に言えば講談の演者で、「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳がありますが(この川柳は初代馬琴の作だそうです)、各地で庶民にうけそうなネタを収集しては、おもしろくアレンジして口演していました。
勢力富五郎が死んで一連の事件に決着がついたのが嘉永二年(1849)です。この事件を知った講釈師の宝井琴凌が下総に行って取材した後に「天保水滸伝」として江戸で発表しました。

なぜ「水滸伝」という名が付けられたのでしょうか。
梁山泊に集結した百八人の豪傑が腐敗した政府と戦う中国の小説「水滸伝」は江戸時代に日本に輸入され和訳本が刊行されました。その後、「水滸伝」の絵本や錦絵のほか「南総里見八犬伝」などの翻訳物が生まれました。
天保水滸伝は勢力富五郎が金毘羅山に籠って中央権力に抵抗した点を「水滸伝」になぞらえて名付けられたようです。実は講談の天保水滸伝が世に出る前に、江戸では勢力富五郎が鉄砲を武器として関東取締出役に抵抗していることが下総の大事件として話題になっていました。当初の天保水滸伝では人々の注目を集める主役の座は勢力富五郎にあったのです。幕末に上演された天保水滸伝を題材とした歌舞伎「群清滝贔屓勢力(むれきよたきひいきのせいりき)」(河竹黙阿弥作)は繁蔵の死後の場面から始まる勢力富五郎を主人公とする話でした。その後講釈師が世間受けするようにアレンジしてゆく中で、元々実像がよくわからなかった平手造酒が魅力的なキャラクターに造形されたり、笹川を善玉として飯岡を悪役とする構図がかたまったりして主役が平手や繁蔵に移ってゆきました。

天保水滸伝は錦絵によっても知られてゆきます。
中国の「水滸伝」の登場人物は歌川国芳などの画家が錦絵にしていました。幕末に二代目歌川豊国が「近世水滸伝」として侠客を人気役者の似顔で描きました。国定忠治は組定重治、飯岡助五郎は井岡の捨五郎、勢力富五郎は競力富五郎など、ヒーローのイメージが仮託されたアウトローが描かれました。
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歌川豊国「近世水滸伝 井岡の捨五郎」

天保水滸伝が変容しながら語り継がれる中、飯岡勢が笹川へ乗り込み利根川の河原で大喧嘩が行われたという「大利根河原の決闘」が物語の大きな見所になっていったようです。

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大利根河原の決闘を描いた「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(1864年 芳虎画/船橋市西図書館蔵)東庄町HPより転載)




近世侠義伝


近世侠義伝は1917(大正6)年に図画刊行会錦絵部から発行されたもので、浮世絵師芳年(1839~1892)が版画で描いた天保水滸伝中の人物に講談風の紹介文章が添えられています。
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掲載されているのは以下の36名
飯岡助五郎/笹川繁蔵/荒生留吉/風窓半次/洲崎政吉/提緒伊之助/神楽獅子大八/荒町勘太/御下利七/桐島松五郎/鰐の甚助/垣根虎蔵/矢切庄太/地潜又蔵/長指権次/羅漢竹蔵/生首六蔵/波切重三郎/滑方紋弥/蛇柳松五郎/生魚の長次郎/木隠霧太郎/藤井数馬/祐天仇吉/清滝佐吉/猿の伝次/栗柄才助/斑の丑蔵/夏目新助/羽計勇吉/名垂岩松/平手造酒/稲舟萬吉/水島破門/水島宇右衛門/勢力富五郎

大正期の天保水滸伝ですら名前をきかない登場人物もいれば、現代の天保水滸伝では比較的重要人物である三浦屋孫次郎、堺屋与助、成田の甚蔵はおりません。

近世侠義伝の人物譚を読みますと最初期の天保水滸伝の物語世界をうかがい知ることができます。
本ブログでは近世侠義伝に描かれた36名のうち現代においてもよく登場する人物をとりあげてご紹介します。

飯岡助五郎
銚子五郎蔵の子分で、任侠にして義理に強く、性質温厚であったから万人に立てられた。
飯岡銚子松岸界隈を荒らし回る生田角太夫という浪人をひとりで倒したことから、その名が広まり洲崎政吉はじめ数百人の子分ができて飯岡の大親分とたてられた。
笹川繁蔵と仲違いしてしばしば血戦が起る。繁蔵が討たれ、その子分の勢力富五郎、清滝佐吉らが助五郎を付け狙い、助五郎は幾度も危うい目にあったが、笹川方は全滅し、助五郎は飯岡に長く威を振るい、七十余才の天寿をまっとうした。
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笹川繁蔵
岩瀬源四郎という立派な侍がいたが勘当されて国を去り、下総笹川に流れついて剣道柔道を教えていた。百姓の娘富と結ばれて福松という子供ができた。福松は少年ながら心たくましく力すぐれ、角力で福松にかなう子供はいなかった。ある時荒れ狂って来た一頭の大牛に福松は一人で立ち向かいこれを鎮めた。福松は流鏑馬繁蔵の賭場を荒らして、大勢の者に簀巻きにされて川へ流されたが、それにも懲りず再び流鏑馬に仕返しに行った。その勇気を気に入った流鏑馬繁蔵は福松を養子に貰い受け、福松は二代目流鏑馬繁蔵となり、岩瀬の繁蔵という通り名がついた。諏訪神社に石碑を建てて相撲をやった頃から助五郎と仲が悪くなった。助五郎方が笹川に押しかける大喧嘩があったが荒生留吉の内通もあって繁蔵方は散々に破った。天保十五年七月二十一日夜、助五郎の手下によって殺された。三十六歳だった。その後勢力富五郎、清滝佐吉らの子分らは助五郎を狙い幾度となく流血の惨事があった。
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平手造酒
剣の達人であったが酒のために身を持ちくずし浪人になった。下総銚子への移動の途中に金がつきたとこを笹川繁蔵に助けられ食客となった。
鹿島の祭礼に勢力富五郎と出かけたが、酒楼で酒を飲んでいるときに土浦の剣客高島剛太夫と諍いが生じた。造酒は剛太夫を討ち取って、その子分も富五郎とともに追い散らした。以降造酒は富五郎から酒を戒められた。
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勢力富五郎
繁蔵が諏訪神社に野見宿祢の石碑を建てた日に境内で相撲大会が行われた。その日は助五郎の子分はことごとく負けてしまった。次の日飯岡方は仕返しに相撲が強い者を連れてきた。中でも神楽獅子の大八は笹川方を7人投げ飛ばした。それを見かねた勢力富五郎は土俵に上がって、見事大八を砂に埋めた。
繁蔵が飯岡方に殺されてから、富五郎は仇を討つべく助五郎をつけ狙っていた。しかし、逆に自分の身があやうくなり、金毘羅山に隠れているところを医者に密告され、役人手先五百余人に取り囲まれた。味方二十余人と防戦したが、もうこれまでと思い、富五郎は鉄砲を喉にあてて自殺した。
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【講談で読まれた勢力富五郎】
近世義侠伝とは離れますが、講談で描かれた勢力富五郎を紹介します。現在は講談でも浪曲でも勢力富五郎の金毘羅山における事件を中心に組み立てた話は残っていないと思います。以下は講談本(年代不詳)にある「勢力の鉄砲腹」を部分的に抜き書きしたものです。
「勢力は用意の鉄砲小脇にたずさえ、いち早く裏手に向いて一発をどうと放てば、狙いたがわず、血煙り立って倒れたり。つづいて二発、三発打放てば、寄手(よせて)はたちまちおじげつきて、ふもとをさしてなだれ落つ。――このたびは寄手総勢を繰りだせしものと覚しく、八方より攻め登れば、勢力は大声をあげ、性こりもなきうじ虫ども、眼に物見せん、と計りにて、力の限り斬りまくる。――寄手のきたらぬそのうちにと、さいぜん捨てたる鉄砲取り上げ、松の大樹に身を寄せかけ、筒口を咽喉に打ちあて、どうと一発打貫き、血汐にまみれてこと切れたるが、身は死しても、ついに倒れず、両眼かっと見ひらきて、ふもとをにらみし立往生、恐ろしくもまた物すごし――」

清滝佐吉
清滝生まれの佐吉は銚子の醤油屋で職人をしていて、そこの女中お常とできてしまった。お常には許嫁がいたが、二人は駆け落ちした。お常の父の頼みがあり助五郎が動いて二人をつきとめた。お常は連れ戻され、助五郎は佐吉に手切金を渡した。手切金の少なさに不満のある佐吉は、夏目の新助の紹介で繁蔵の子分になり、繁蔵に仕返しを頼んだ。繁蔵は、江戸にいたお常を探しだして連れ戻し、許嫁には手切金を渡して、お常を佐吉の女房にした。
佐吉は繁蔵の無二の子分となるが、繁蔵が死んでからは富五郎と仲が悪くなった。助五郎への復讐をもくろんだが、逆に飯岡方の計略にあって役人に捕えられ、小塚原で夏目の新助、羽計の勇吉とともに処刑された。
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清滝佐吉伝承碑(旭市清滝地区) 
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佐吉まんじゅう 


夏目の新助
性格が温厚で義理に強い人物だった。清滝の佐吉と親しく、不仲の佐吉と富五郎を仲なおりさせようとしていた。
富五郎が飯岡に斬り込みに行った際、そのことが助五郎にはばれていて、待ち構えていた飯岡方の反撃にあって悪戦苦闘していた。そこへ夏目の新助が羽計の勇吉らを連れて駆けつけ加勢した。
翌日、清滝の佐吉が飯岡に斬り込みに行ったがやはり苦戦した。新助は佐吉と勇吉を助け出した。
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洲崎政吉
ある日繁蔵が富五郎をはじめ5.6人の子分を連れて飯岡にやってきた。助五郎の子分は騒ぎ立てたが助五郎は、喧嘩をしかけに来たのだろうが相手にするなと子分をなだめた。助五郎の右腕の政吉は自分にまかせてくれと一人で外に出た。政吉は家の出入口にあった大碇を片手で持って肩にかけ、海辺に行くふりをして繁蔵とすれ違いにっこり丁寧に挨拶をした。重い大碇を肩にかけながらの丁寧な挨拶に繁蔵は感心して、この日は何事も起らなかった。
飯岡・笹川の大喧嘩の際に奮戦の末亡くなった。28歳だった。
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神楽獅子大八
繁蔵が諏訪神社へ石碑を建てて角力興行をした際、繁蔵の子分の名垂の岩松が飯岡方を四人投げた。神楽獅子が土俵に上がり、岩松ほか名うての者を七名投げ飛ばした。しかし勢力富五郎には負かされて、この勝負が繁蔵と助五郎の確執の原因となった。
笹川の出入りでは神楽獅子は九尺の棒を持って戦い笹川方の飯田兄弟を倒した。繁蔵との一騎打ちで棒を斬られ、神楽獅子も斬られて最後をとげた。
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荒生の留吉
長指(ながざし)の権次の子分。用事があって東金に行った帰りに海岸で重たい財布を拾った。飯岡の三河屋の手代が集金の帰りに落とした財布を探して歩いていたが、その後ろには死神がついていた。留吉は死神を退治して財布を手代に返した。それがきっかけで三河屋が後ろだてとなって留吉は金貸し業を始めて裕福に暮らした。
留吉は兄貴分の風窓の半次との関係がもつれたが助五郎が仲裁にはいって納まった。しかし留吉は助五郎に恨みを持つようになり、助五郎が笹川へ向かう際に繁蔵に内通した。
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講談

天保水滸伝を作り世に出したのは講釈師宝井琴凌(三代目宝井馬琴)です。琴凌は上州では国定忠治を調査し講談に仕立てていますが、その後下総でも取材し、嘉永三年(勢力が死に事件が収束した翌年)に天保水滸伝を高座にかけたそうです。
琴凌の息子四代目馬琴が昭和三年に都新聞に連載した「講談界昔話」によると琴凌はしばらく自分のまとめた話に納得がいってなかったが慶應3年に五代目伊藤凌潮の協力によって完成され「天保水滸伝」と命名したとのことです。ですから当初は天保水滸伝という演題ではなかったのかもしれません。

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明治大正時代の講談本

戦前の講談天保水滸伝
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成する前の流れを感じ取ることができます。

私が確認できた戦前の講談天保水滸伝のあらすじを別ブログにまとめました。

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門別ページ
「戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝」

上記のリンク先ページには以下の記事を掲載しています。

■「天保水滸伝 初編」 嘉永三年?
大正二年に刊行された「侠客全伝」という本に「天保水滸伝 初編」という実録体小説が収められています。
この小説には序文がありそこには嘉永三年と記されています。
上述のとおり宝井琴凌が講談天保水滸伝を完成させたのが慶應三年です。それ以前に存在していたというこの小説と、琴凌の講談との間にどのような関係があるのかはよくわかりません。ただ、現在残っている最古の天保水滸伝物語(講談天保水滸伝の最源流)と言えるのではないかと思います。内容としては現代の天保水滸伝との隔たりが大きいです。

■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代
大正時代後期に語られた内容だと推測されます。
この頃には現代に残る天保水滸伝の基礎がかたまっているように思います。

■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年
大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり新聞に掲載されました。

■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。

■松の家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年
明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松の家太琉に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。
明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
講談の内容を否定する目的で作られていますから、大衆演芸の天保水滸伝と重ならない部分が多いです。

現代の講談天保水滸伝
戦前では三十講もの連続物として確立していた講談天保水滸伝ですが、現在講談でかかっている天保水滸伝の話は十席もありません。アレンジを繰り返してゆく中、また連続物の講談がかからなくなってゆく中、人気を得た話だけが現代に生き残ったということなのでしょうか。
私の知る限りでは以下の話が現在かかっています。
「相撲の啖呵」「平手の破門」「笹川の花会」「鹿島の棒祭り」「潮来の遊び」「平手造酒の最期」「三浦屋孫次郎の義侠」
外伝的なものは「ボロ忠売り出し」「天保水滸伝外伝 忠太郎月夜唄」

現代の講談天保水滸伝について以下の公演を別ブログ『現代の大衆演芸(講談・浪曲・大衆演劇)における「天保水滸伝」 体験記』でレポートしています。
◆2014年5月3日~6日 神田春陽・神田松之丞 GW特別番組4日連続俥読み「天保水滸伝」(於:お江戸日本橋亭)
◆2015年1月7日 神田愛山・玉川奈々福・玉川太福・神田松之丞 「天保水滸伝車読みの会」(於:お江戸日本橋亭)
◆2015年1月17日 神田松之丞「松之丞ひとり会」(於:赤坂峰村)
◆2016年6月4日 神田松之丞 「ひとり天保水滸伝」(於:紀尾井ホール)




浪曲


浪曲ではいつ頃から「天保水滸伝」が語られてきたのでしょうか。
講談や芝居では明治の初期から天保水滸伝がかかっていましたから、浪花節に取り入れられたのも早かったのではないかと想像しますが、後述するように現在の浪曲天保水滸伝の原本は一心亭辰雄(1880~1974)によるという説がありますが、それがいつ頃どのような内容で完成したのかは調べがついておりません。。

明治45年に刊行された浪花節台本「日本侠客銘々伝」(京山大教口演)が国立国会図書館デジタルコレクションで公開されています。その中に「飯岡助五郎」という演目があります。
銚子の五郎蔵の子分の八木の新吾が飯岡で賭場を立てた。三浦の助こと助五郎はそこにふらりと入って、賭場荒らしを働いてしまい海に投げ捨てられる。その後助五郎はその度胸を見込まれて五郎蔵の身内となり賭場をまさせられる。
博奕好きの助五郎は賭場の土台銭に手をつけてしまい、五郎蔵の怒りを買い、上州へ逃げる。大前田の栄五郎親分に仲裁を頼み、助五郎は五郎蔵の許しを得る。
五郎蔵は病気が重くなり伊勢に参詣に行けなくなったので、名代として息子の大勝を遣わすこととした。子分を集めて大勝の後見を頼むが引き受ける者がいない。というのは伊勢には五郎蔵と因縁のある鬼熊親分がいるからだ。五郎蔵が名乗りを挙げ伊勢に行く事となった。鬼熊と助五郎の話はまた後日。

という内容で、現在に伝わる浪曲天保水滸伝とはずいぶん違います。連続物の第一話と想像されますが、この頃の浪花節独自で創作された天保水滸伝の物語があったことは興味深いです。

大正期から大衆文化が発達し、ラジオ放送が始まると浪曲は昭和初期に黄金時代を迎えました。
「実録浪曲史」には昭和4~7年のラジオで放送された浪曲の演題の回数表が載っています。
赤穂義士伝関係が圧倒的に多く304、乃木将軍68、寛永力士伝39、佐倉義民伝30、大岡政談30、慶安太平記28、清水次郎長伝28、塩原多助25、伊達騒動24、水戸黄門記23、曽我物語22、寛永三馬術21、天保水滸伝19、壺阪霊験記19、国定忠治17、祐天吉松17となっています。天保水滸伝が人気演目のひとつになっていることがわかります。
先述のとおり昭和2~9年の7年間だけで17本もの天保水滸伝の映画が製作され、昭和初期は天保水滸伝がブレイクした時期と思ってよいでしょう。そしてその人気を決定付けたのは二代目玉川勝太郎の浪曲天保水滸伝であろうと思われます。

二代目玉川勝太郎の天保水滸伝
二代目玉川勝太郎(1896~1969)は浪曲の天保水滸伝を世に知らしめました。
「日本浪曲史」には昭和5年に玉川二郎(昭和6年に二代目玉川勝太郎を襲名)の「天保水滸伝」が四夜連続で放送されたことが書かれています。また、昔の新聞を調べてみますと、1934(昭和9)年から1938(昭和12)年にかけて玉川勝太郎の天保水滸伝ラジオ口演の記事がたびたび掲載されており、この頃二代目勝太郎が天保水滸伝で大活躍していたことが想像できます。

二代目勝太郎の天保水滸伝ヒットにおいて忘れてはならないのが作家・演芸研究家の正岡容(いるる)(1904~1958)です。
1954(昭和29)年6月14日の読売新聞のコラムで、「名文『天保水滸伝』 正岡容との友情」というタイトルで二代目勝太郎が文章を寄せています。
あるレコード会社で吹き込むことになった際、文芸部長が正岡容の天保水滸伝の台本を持ってきたそうです。
「以来、数えきれないほど口演し、今では僕のお家芸になってしまった。このネタは僕のものだが歌詞は彼がすっかり変えて、ご存じのような名文になった」と書いています。初代勝太郎から二代目へ受け継がれた天保水滸伝は正岡容のアレンジによって人気を博したと解釈してよいでしょう。

正岡容が作った天保水滸伝の外題付け「利根の川風袂に入れて月に棹さう高瀬舟~」は日本中で親しまれた有名な節です。
外題付というのは浪曲作品の歌い出しの節のことで、もともと浪曲には外題付けがありませんでした。初期のレコードは片面3分、両面で6分でした。2枚セット(合計12分)の販売が多かったようです。販売するレコードに収まるように一席の構成が変化したそうです。お客さんはレコード店で試聴してからレコードを購入しました。レコードの最初の3分という尺の中でその浪曲の魅力をしっかり伝えるために外題付けは生まれました。正岡容の天保水滸伝の外題付けはきっかり3分に収まっています。

1941(昭和16)年7月キングレコードより「天保水滸傳」全集が発売されました。前編・後編の8枚組です。演者はもちろん二代目玉川勝太郎。
「若き日の平手造酒」「笹川の花會」「角力場仁義」「笹川の繁蔵」「鹿島の棒祭」「笹川村駆け付け」「蛇園村の斬込み」「平手造酒の最後」の8席。
「笹川の繁蔵」という演目の内容はよくわかりませんが、8席のタイトルを見るに、浪曲天保水滸伝の定番演目はこの時代に確立され、現在に至っているのではないでしょうか。

浪曲天保水滸伝の作者について畑喜代司氏も気になっています。
浪曲評論家の芦川淳平さんの本「浪曲の神髄」に天保水滸伝について次のような記述があります。
「…水滸伝の一連の段に筆を加えた、正岡容、畑喜代司といった手練れの作者たちも、この点を描ききれなかった。下敷きにある名人一心亭辰雄の原本から脱しえなかったということなのだろうか。」
(この点、というのは、屈折した経歴とニヒリズムに満ちた平手造酒の孤高の存在感を指しています)
「一心亭辰雄の原本」がとても気になるのですが天保水滸伝を講談から浪曲にアレンジしたものと推察します。それに筆を加えたという畑喜代司とはどんな方なのでしょう。ウィキペディアによると、畑喜代司(1904~1945)は浪曲作家で、以下の浪曲の作者とされています。
『天保水滸伝 笹川村馳け付け』玉川勝太郎/『天保水滸傳 若き日の平手造酒』玉川勝太郎/『天保水滸傳 鹿島の棒祭』玉川勝太郎/『平手造酒』木村忠衛
正岡容と畑喜代司のふたりのアレンジの違いは私はよくわかっておりません。

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 浪曲好きだった田中角栄が総理大臣のときに書いた天保水滸伝の外題付け(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)

* * *

二代目玉川福太郎『徹底天保水滸伝』

浪曲で語られる天保水滸伝を、現代において知るには、なんといっても二代目玉川福太郎(2007年に事故死してしまいました)のCD「徹底天保水滸伝」でしょう。以下あらすじです。

『繁蔵売り出す』
繁蔵と助五郎が出会ったのは銚子の五郎蔵の屋敷。助五郎が屋敷にいるときに、繁蔵が身内にしてほしいと訪ねてきた。
繁蔵は江戸相撲で人気力士であったが、それが気に食わない他の力士とのトラブルがもとで、相撲を続けることができなくなった。といって故郷に帰るわけにもゆかず男の道で生きてゆこうと決めた。事情をきいた五郎蔵は繁蔵を身内にする。
3年やくざ稼業に繁蔵のもとに、五郎蔵の兄弟分やぶさめの仁蔵が繁蔵に後を譲りたいと、繁蔵を十一屋に呼び出した・・・


『平手と繁蔵の出会い』
北辰一刀流の道場千葉周作先生に破門となった平手造酒。恋仲のおえんと、おえんの故郷の下総へ。利根川べりの粗末な家に暮らす。
祭囃子に誘われて、諏訪明神の祭を見物にきた造酒とおえん。境内の土俵では素人相撲が行われている。土俵上では、飯岡助五郎の子分で元江戸相撲の神楽獅子大五郎が次から次へと相手を負かして、もう相手をする者がいない。そこへ繁蔵の子分、清滝の佐吉が勢力富五郎にそそのかされて、土俵に上がった。おえんは休み所でそれを見ている。おえんと幼馴染の繁蔵も、おえんが居るとは知らずに祭りに来ている。
多くの見物人が見守るなか神楽獅子大五郎と清滝の佐吉との取組が始まる・・・
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 諏訪大神にある土俵

『鹿島の棒祭り』
鹿島神宮の祭礼、鹿島の棒祭りはこの土地の名物行事。平手造酒はこの祭を楽しみにしていたが、造酒の酒ぐせの悪いことを知っている繁蔵は、祭で酒を飲んで失敗をしてはいけないと、造酒に留守番を頼む。祭の3日間禁酒することを約束して造酒は勢力富五郎と鹿島神宮に向かった。
祭の3日目。1日2升の酒を吞む平手造酒、2日酒を断って顔色が悪い。心配した勢力は造酒に甘酒を飲んではと店を案内する。
甘酒ではなく酒を飲んでしまった平手造酒。いかんいかん、この一杯で終わりにしようと、湯呑みの中の最後の酒をじっと眺めて別れを惜しんでいる。
そこへ飯岡助五郎の子分3人が店に入ってきてばたばたと服の埃をはたいた。その埃が、造酒が眺めている湯呑みの中に入ってしまって・・・

『笹川の花会』
後述の大衆演劇のあらすじとほぼ一緒なので省略します。

『蛇園村の斬り込み』
小見川の川料理村田屋の奥座敷。繁蔵と子分の夏目の新助とが話をしているのは、今日江戸送りになった名垂(なだれ)の岩松のことである。岩松は繁蔵の子分になって10年、念仏ばかり唱えていた。実は岩松には旧悪があって、雨傘の勘次を名乗っていた10年前に甲州で人を殺して金を奪ったことがある。それが改心して繁蔵のもとでは念仏ばかり唱えていた。なのに、今になってなぜ10年前の兇状がばれたのか、繁蔵はくやしくてならない。
実はこのことをばらしたのは助五郎の身内の甲州者であった。人殺しを匿えば同罪。助五郎は、岩松と同時に繁蔵も捕えさせようと役人に訴人したのだ。けれども繁蔵は農民救済の花会の一件があったからお目こぼしがあって捕えられなかった。
それを知った繁蔵の胸のうちに助五郎への憎しみが湧きあがる。
月夜の晩、繁蔵は平手造酒・勢力富五郎ら十数人を従えて助五郎斬り込みに向かう。
助五郎は蛇園(へびぞの)村の別宅で月を肴に吞んでいる。
繁蔵はその屋敷に押し入った・・・

『平手の駆けつけ』
繁蔵の用心棒平手造酒が病にかかり養生している。その情報を入手した助五郎は繁蔵一家皆殺しを企てる。
助五郎の子分が武器を調達しようと荒生の留吉の家へ槍を借りに来た。留吉の息子の留次郎は、助五郎が笹川に喧嘩に行くことを知って、すぐにそれを笹川方へ知らせた。実は笹川方の清滝の佐吉は留次郎にとって大恩人なのである。
助五郎は300名の軍勢を従え高瀬舟3艘で利根川を笹川へ向かった。
平手造酒が静養している尼寺。笹川の方が騒がしい。事の次第をさとった造酒は、尼僧が止めるのを振り切って月明かりを笹川土手へ駆けつける・・・

以上二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」でした。
玉川のお家芸「天保水滸伝」は、
二代目玉川勝太郎~三代目玉川勝太郎~二代目玉川福太郎~玉川奈々福・玉川太福、と現代に受け継がれております。

* * *

初代東家浦太郎『繁蔵の最期』
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日本浪曲協会で買った初代東家浦太郎「天保水滸伝余聞 繁蔵の最期」のカセットテープ。
内容は、講談や大衆演劇でいうところの「三浦屋孫次郎」の話。
多くの浪曲台本を書いた野口甫堂(東家楽浦)の作となっています。ですから、正岡容先生が講談から浪曲化したのとは別の流れでできたネタですね。元ネタは神田ろ山の講談「笹川繁蔵」と思われます。天保水滸伝は玉川のお家芸。浪曲の世界ではある一門のお家芸を他の一門の浪曲師がかけることは基本的にできなかったと聞いておりますが、野口甫堂はどういう背景でこの台本を書き上げたのでしょうか。
現在は玉川太福さんが許可を得て口演しています。

* * *

広沢虎造の天保水滸伝
意外にも広沢虎造が天保水滸伝を残しています。

『大利根川』
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浪曲作家・作詞家の萩原四郎の作のようです。
飯岡一家の常吉が、笹川一家の三下安兵衛が世話になっている呉服問屋から300両をゆすりとる。常吉と安兵衛の喧嘩に平手造酒が仲裁に入り平手は300両を取り戻す。安兵衛の妹おみよは平手に恋をする。安兵衛は常吉に斬り殺される。笹川一家でなぐりこみをかけようとするのを制して平手造酒は自分ひとりが仇をうつと去る、という内容。虎造らしい軽妙なタッチで淡々と進む。
平手が「新しい日本を築き、天の声に耳を傾けろ」「日本という大きな国の夜明けが近づいている」などと幕末の志士めいた説教をする。他のどんな天保水滸伝ともテイストが違う異色の外伝。

『洲崎の政吉』
助五郎一家は笹川への喧嘩出入りのため松岸に集まっていたが、助五郎の一の乾分の洲崎の政吉がいない。
政吉は家で女房のお貞にお前と会うのはこれがもう最後だと因果を含めている。他の男と所帯を持って、子供の一太郎はやくざにするなとお貞に伝える。お貞は、後に心が残らぬようにと、一太郎を刺し殺して自害する。政吉はお貞と一太郎の首を斬り落としそれを持って松岸に行く。鬼人のような助五郎もこのときばかりは思わず涙した。
…現在の演芸や芝居にはない場面ですが戦前の芝居ではよく演じられた一幕だったようです。

* * *

玉川奈々福『飯岡助五郎の義侠』
2016年8月玉川奈々福さんが天保水滸伝の新作を発表しました。
飯岡で大海難事故が起き漁夫が全滅しかけた際に助五郎が故郷の三浦から男を集めてきて飯岡の漁業を復興させたエピソードを中心に、伊藤桂一の小説を下敷きにして浪曲に仕立てました。
それまで浪曲では悪役一辺倒だった助五郎が、情と度胸のある魅力的な男として描かれています。特に、助五郎が岩井滝不動の賭場に目をつけたのは、単に強欲だったわけではなく、飯岡を救うために拵えた莫大な借金を返すための苦肉の策だったとしているところが肝で、助五郎の義侠が繁蔵との抗争に発展したという流れを従来の浪曲のストーリーの文脈に追加した点で意義のある作品だと思います。
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玉川奈々福『亡霊剣法』
同名の伊藤桂一の小説を玉川奈々福さんが浪曲化。
平手造酒を主人公とする怪談っぽいテイストのある新作です。
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現代の浪曲天保水滸伝について以下を別ブログ『現代の大衆演芸(講談・浪曲・大衆演劇)における「天保水滸伝」 体験記』でレポートしています。
◆2014年7月5日 玉川奈々福・玉川太福「奈々福・太福のガチンコ!浪曲勝負 天保水滸伝の巻」(於:なってるハウス)
◆2015年3月7日~8日「天保水滸伝の里めぐりツアー」
◆2016年3月26日「天保水滸伝の里めぐりモニターツアー」
◆2016年10月22日 神田愛山・玉川奈々福・玉川太福・神田松之丞「講談と浪曲で聴く天保水滸伝」(於:東庄町公民館大ホール)
◆2017年8月11日~16日 玉川太福 「朝練講談会 灼熱の六日間連続読みの会」(於:お江戸日本橋亭)
◆2019年4月24日・25日 玉川奈々福・玉川太福「二人天保水滸伝」(於:木馬亭)
◆2019年6月19日 玉川奈々福 新曲「刀剣歌謡浪曲 舞いよ舞え」発売
◆2019年8月10日~11日 「天保水滸伝の里めぐりツアー」




映画

関連する映画も多く製作されました。平成5年に千葉県大利根博物館で開催された「天保水滸伝の世界」展の図録より「『天保水滸伝』関係映画一覧」にある46タイトル(戦前30・戦後16を記載します。なお、東庄町観光会館に掲示してある「天保水滸伝関連映画(戦前・戦後)」という表には戦前34作、戦後34作の映画のタイトルが記載されております。こちらの方がより詳細な調査に基づいて作成された表のようで、「関の弥太っぺ」(4作)や座頭市を主人公とした映画(3作)など設定に天保水滸伝の世界を用いた映画もカウントしています。観光会館の資料によると、戦前映画でみるとタイトルに一番名前がでてくるのが勢力富五郎で9作、次が平手造酒で8作となっています。前述しましたように天保水滸伝が誕生してしばらくは勢力富五郎が主役であり人気のキャラクターであったことがここからもうかがわれます。

<「天保水滸伝」関係映画一覧>
大正3(1914)「天保水滸伝」日活
大正5(1916)「笹川繁蔵」日活
大正7(1918)「勢力富五郎」松竹
大正8(1919)「勢力富五郎」日活
大正10(1921)「勢力富五郎」松竹
大正12(1923)「勢力と飯岡」帝キネ
大正13(1924)「笹川繁蔵」東亜
大正14(1925)「平手造酒」松竹
昭和2(1927)「平手造酒」東亜
昭和2(1927)「平手造酒」帝キネ
昭和2(1927)「天保悲剣録」松竹
昭和3(1928)「平手造酒」日活
昭和5(1930)「天保水滸伝」マキノ
昭和5(1930)「平手造酒」河合
昭和6(1931)「平手造酒」松竹
昭和6(1931)「天保水滸伝」帝キネ
昭和7(1932)「血戦大利根の暁」帝キネ
昭和7(1932)「勢力富五郎」河合
昭和7(1932)「闇討渡世」千恵プロ
昭和8(1933)「白衣鬼剣録-平手造酒」新興
昭和9(1934)「天保水滸伝」新興
昭和9(1934)「平手造酒」日活
昭和9(1934)「大利根の朝霧」宝塚
昭和9(1934)「血戦大利根嵐」日活
昭和10(1935)「利根の川霧」千恵プロ
昭和11(1936)「天保水滸伝」全勝
昭和12(1937)「平手造酒」今井
昭和13(1938)「血戦阪東太郎」大都
昭和14(1939)「春秋一刀流」日活
昭和15(1940)「天保水滸伝」大都
昭和23(1948)「遊侠の群れ」松竹
昭和25(1950)「大利根の夜霧」新東宝
昭和26(1951)「平手造酒」新東宝
昭和27(1952)「利根の火祭」大映
昭和28(1953)「血闘利根の夕霧」松竹
昭和29(1954)「平手造酒」日活
昭和29(1954)「関八州勢揃い」新東宝
昭和30(1955)「大利根の対決」日活
昭和32(1957)「関八州大利根の対決」新東宝
昭和33(1958)「天保水滸伝」松竹
昭和34(1959)「血闘水滸伝怒涛の対決」東映
昭和35(1960)「大利根無情」松竹
昭和37(1962)「座頭市物語」大映
昭和38(1963)「利根の朝焼け」東映
昭和40(1965)「天保遊侠伝代官所破り」東映
昭和51(1976)「天保水滸伝」大映

座頭市
昔、「市」という風来坊の人物が飯岡にやってきて、助五郎の子分のようなことをやっていた。市は目が見えなかったが、枡を放り投げて落ちてくるところを斬るという芸当はできた。若い娘といっしょになってしばらく飯岡に滞在していたが、助五郎のことが嫌になってこの土地を去った。

「遊侠奇談」の作者子母澤寛が、天保水滸伝のことを調べに飯岡を訪れた際、宿屋のおやじからこの話をききました。これをヒントにして子母澤寛が「座頭市」の話を作り、それが映画化されて人気となりました。
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座頭市物語発祥の地の標柱(飯岡 玉崎神社前) 
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座頭市物語の碑(飯岡)
東日本大震災で津波が飯岡を襲ったとき、この碑につかまって助かった方がいたとのことです。

「座頭市物語」
1962年「座頭市」シリーズの第1作映画が公開されました。
監督:三隅研次、座頭市:勝新太郎、平手造酒:天知茂
日光で知り合った縁で座頭市が飯岡助五郎一家を訪ねる。飯岡一家は笹川一家と抗争中。助五郎は居合の達人の市を一家に迎い入れる。一方笹川一家では江戸から来た剣豪平手造酒が用心棒となる。ため池の釣り場で、市と平手造酒は偶然知り合う。平手は市がただ者ではないこを見抜き、やがて二人の間に友情が芽生える。市は労咳の病が進行している平手を気遣う。
平手が病に倒れたことを知った飯岡一家は笹川への喧嘩出入りを決める。それを知った平手は病をおして笹川の喧嘩場に出向き、飯岡一味を次々に斬る。そこに現れた座頭市に平手は真剣勝負を願い出る。「死に土産に平手造酒と座頭市の真剣勝負がしたい。貴公もわしの太刀筋を知りたくはないか」「やるからには後へは引けませんよ」橋の上で座頭市と平手造酒の一騎打ちが始まる。
ざっとこのような展開です。座頭市は一宿一飯の恩義で笹川には出向いたのではない、むしろ助五郎一家のふるまいを見てやくざ稼業に愛想が尽きた、というのがポイントです。終始筋が通った、それ故に悲哀を背負うしかない座頭市を勝新太郎が好演しています。




演劇(戦前)

平成5年に開催された千葉県立大利根博物館特別展「天保水滸伝の世界」の展示図録に天保水滸伝関係演劇年表が載っていました。1867(慶應3)年から1989(平成元)年にかけての天保水滸伝関係の公演が並んでいます。大正期以降大衆文化が栄えてからは日本国中の至るところで、記録にも残らないものも含め、多くの天保水滸伝の芝居がかかったことと思います。この表がどのような方法と基準でピックアップしたものかわかりませんが、明治期の歌舞伎の情報などは貴重ですので、ここに戦前の部分のみ記載いたします。

慶應3 守田座「群清滝贔屓勢力」河竹黙阿弥作
明治8 守田座「夜講釈勢力譚話」河竹黙阿弥作
明治14 南座「天保水滸伝」
明治21 千歳座「夜講釈勢力譚話」河竹黙阿弥作
明治29 市村座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治31 演伎座「群清滝贔屓勢力」河竹黙阿弥作
明治33 東京座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治39 明治座「巌石砕瀑布勢力」河竹黙阿弥作
明治39 東京座「天保水滸伝」
大正13 公園劇場「平手造酒」
大正13 常盤座「天保水滸伝」
大正14 末広座「天保水滸伝」
大正14 常盤座「笹川繁蔵」
昭和5 角座・演舞場「天保水滸伝」
昭和5 歌舞伎座「笹川一家」
昭和8 角座「天保水滸伝」
昭和14 浪花座「天保水滸伝」出演:中野弘子

前述のとおり、天保水滸伝の演芸における初期の主役の座は勢力富五郎にありました。黙阿弥は勢力を主人公とする歌舞伎を3作作ったようですね。
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明治8年「夜講釈勢力譚話(よごうしゃくせいりきばなし)」

戦前の新聞で天保水滸伝の演劇公演の記事が載っていないか探したところ、上記の公演に触れているものがみつかりました。

明治21年7月13日読売新聞
千歳座 同座の二番目狂言天保水滸伝の場割りは栗林縄手の場、勢力住居の場、明神山鉄砲腹の場、鎮守祭礼喧嘩の場にて其役割は水島左門「高福」白滝佐吉「家橘」奇妙院「彦十郎」暗闇の牛蔵「鶴五郎」子分文二「仁三郎」同甚兵衛「幸右衛門」飯岡捨五郎「我堂」下女お虎「芝次郎」勢力富五郎「芝翫」なり又中幕の郷の君と娘しのぶは和三郎の役なりしが今度鶴松勤める事になりしという
大正13年12月22日読売新聞
常盤座の同志座劇二の替わり天保水滸伝は精々目先の変る盛沢山、金井の平手造酒は大菩薩峠の机竜之助の如く、森栄治郎の笹川繁蔵、月形半平太のような処があるかと思うと清水の次郎長然たる箇所もあり、国定忠治じみた点もあるなどは、まるでよせ木細工。
この記事から、新国劇(大正6年結成、大正8「月形半平太」、大正8「国定忠治」、大正10「大菩薩峠」)が当時人気を博していたことが間接的にわかります。




歌謡曲

天保水滸伝を題材としてヒットした歌謡曲です。
大衆演劇でも舞踊ショーの歌として、また劇中挿入歌としてとても使用頻度が高かったと思われます。

『大利根月夜』 唄:田端義夫
昭和14年10月、東海林太郎の「名月赤城山」と同時に発売されました。国定忠治VS天保水滸伝の股旅物歌謡曲の対決となりました。東海林太郎はすでに昭和9年の「赤城の子守唄」のヒットの実績がありましたが、田端は新人です。この勝負、どちらも大ヒットという結果になりました。
「あれを御覧と指さす方に~」という歌い出しは大衆演劇ファンの耳にこびりついているでしょう。
三番の歌詞の最後に「故郷(くに)じゃ妹が待つものを」とありますが、平手造酒に妹がいるというのは作詞の藤田まさとの創作です。

『大利根無情』 唄:三波春夫
昭和25年に発売された三波春夫のヒット曲。大衆演劇における天保水滸伝のイメージはこの歌に凝縮されているのではないでしょうか。
「止めて下さるな妙心殿。落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散り際だけは知っており申す。行かねばらなぬ、そこをどいてくれ、行かねばならぬのだ~」というセリフに合わせて、これまでにどれほど多くの役者が踊ったことでしょう。






大衆演劇

浪曲、映画で人気があった話は当然旅役者による芝居の演目となりました。現在でも大衆演劇においては平手造酒、笹川繁蔵、飯岡助五郎が登場する芝居が残っています。

現在定番演目としてよくかかっている芝居は「笹川の花会」と「三浦屋孫次郎」でしょう。座頭市と平手造酒の二人を主人公とした芝居も昔から演じられています。南條隆とスーパー兄弟は独自の天保水滸伝新作を積極的に発表していますね。
以下、私が観たことのある芝居の一部を紹介します。

『笹川の花会』
飯岡助五郎の子分、洲崎の政吉が主人公。
【芝居あらすじ】
笹川繁蔵主催による花会の案内状が助五郎に届いた。花会というのは親分だけが集まる博奕の会で、近隣の親分衆を集めるとあって主催する親分にとっては名をあげる大きいチャンス。花会には各親分が大金を持ち寄る。繁蔵は飢饉に困窮する農民を救うという名目で花会を開いたのであった。
助五郎は敵対視している繁蔵が開く花会がおもしろくない。子分の洲崎の政吉に代理出席を命じて義理(奉納金)として5両というはした金を託す。
会場の十一屋に赴く政吉。国定忠治・大前田英五郎といった大侠客も来ている。各親分が持参した義理が貼り出される。どれも五十両・百両といった大金である。親分の名代としてわずかな金しか持参しなかった政吉は、身が縮む思いで義理の金額が発表されるのを聞いている。が、政吉はそれを聞いて驚いた。飯岡助五郎金100両、代貸洲崎の政吉金50両、飯岡若衆一同金50両との発表。政吉はこれが繁蔵のはからいだと気づく。

というのが基本的な話です。大衆演劇ではこれにさまざまなバリエーションがあるようです。最後に白無地の単衣を着た平手造酒と政吉が一騎打ちするというものもあります。
【史実は】
十一屋は当時は商人宿で回船問屋も兼ね家の前には馬つなぎ場などがあり渡世人はここをよく利用していたそうです。繁蔵はよくここにいました。
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 十一屋のあったところ。右は桁沼側。左手近くに諏訪明神がある。
天保13年の7月27・28日の諏訪明神の祭礼日に、繁蔵は、境内に相撲の租、野見宿禰の碑を建てるという名目で花会を催しました。この花会に誰が出席したかははっきりしません。芝居では、国定忠治・清水次郎長・大前田英五郎など大侠客が出席し、忠治が政吉に対して助五郎本人が来ないことを罵るという場面があります。しかし役人に追われて転々と逃亡していた忠治のもとに花会の案内状が届いて忠治が下総まで出かけたということがあるでしょうか。また次郎長はこのとき22歳で一家をかまえる前ででる。大侠客が出席したというのは作り話でしょうけれど、芝居としては面白いです。脇役にも貫禄ある有名な親分が幾人も出てくるので、座長大会の芝居に向いていると思います。

『三浦屋孫次郎』
大衆演劇ではよくかかる定番演目です。
【あらすじ】
助五郎は繁蔵の闇討ちをたくらみ、その遂行を子分の三浦屋孫次郎に命じるが、孫次郎は断る。7年前に母と妹を連れて銚子の五郎蔵に紹介された助五郎を訪ねて旅をしていた。その途中で母が持病で苦しんでいた際に繁蔵に助けてもらったろいう恩義が孫次郎にはあった。助五郎は7年間の義理と1度の義理は天秤にかけたらどちらが大事だと詰問し、孫次郎は闇討ちを承諾する。助五郎は成田屋を後見にさせる。
ある夜。孫次郎は繁蔵に斬りかかる。しかしそれは本気ではない。孫次郎は繁蔵にわざと斬られるつもりでいる。そこに成田屋が背後から現れ繁蔵を斬る。
虫の息の繁蔵は、恩義のために自分の命を捨てようとした孫次郎に、自分の首を助五郎のもとに届けて義理を立てた後にその首を笹川一家に届けてほしいと頼む。
成田屋が助五郎に孫次郎を裏切ったことを告げる。孫次郎は繁蔵の首を助五郎に渡しに行くが、助五郎から盃を水に流すと言われ、母妹ともにこの土地から出て行けと命じられる。
繁蔵の妻が葬儀の準備をしているところに正装の孫次郎が訪れる・・・。

『座頭市と平手造酒』
いくつかの劇団が座頭市と平手造酒が登場する芝居をたてていると思いますが、ここでは私が観た恋川劇団のものを紹介します。上述した映画「座頭市物語」を下敷きとしています。
飯岡助五郎一家に迎えられた座頭市と笹川一家の用心棒平手造酒は、両一家の争点にある釣りの良場で偶然出会う。二人がお互いの立場が敵同士であると知りながらも意気投合し平手が住む尼寺で酒をくみかわす。飯岡一家も笹川一家も用心棒を道具のようにしか思っておらず、用が済めば捨てるつもり。座頭市も平手も一家に服従するつもりはないが一宿一飯の恩義には報いる覚悟。労咳の平手は自分の余命がわずかなこと悟っており、どうせ死ぬのならつまなぬ者の手にかかるより本当に強い者との勝負のうえ斬られたいと願っている。大利根河原の決闘が始まった。双方の一家の用心棒、座頭市と平手造酒は大利根河原で対面する。平手に好意をもっている座頭市であったが、平手の死への思いを諒解する。座頭市と平手の真剣勝負が始まる…。
2019.9 新開地劇場 座頭市:二代目恋川純 平手造酒:恋川風馬
2020.3 浅草木馬館 座頭市:二代目恋川純 平手造酒:初代恋川純

『大利根月夜』
鹿島神宮の祭礼。平手は酒を飲むことを禁じられていたが、お神酒ならいいだろうと飲んでしまう。飯岡の一味が通りかかった際に、平手の酒に埃が入ってしまう。平手は飯岡一味をやっつける。
飯岡助五郎が惚れた女は繁蔵の子分とできていた。そこから喧嘩がおこりそうになるが平手が仲裁する。
労咳にかかり尼寺で養生する平手。平手を千葉周作道場の娘の早苗が訪ねる。夫の兵馬が変わってしまい道場が落ちぶれたので平手に帰ってきてほしいと告げるが平手は断る。出入りがあることを知った平手は繁蔵のもとに駆けつける。
笹川と飯岡の決闘。兵馬は飯岡の用心棒になっていた。平手と兵馬の一騎打ち。兵馬は負けるが平手も深手を負う。平手は繁蔵の腕の中で息をひきとる。
鹿島の棒祭りの場面は講談や浪曲では定番ですが大衆演劇でかかるのはかなり珍しいでしょう。




長谷川伸作品と天保水滸伝

長谷川伸原作の「瞼の母」「関の弥太っぺ」は大衆演劇の演目としてもおなじみです。どちらの話も物語背景に天保水滸伝を借りています。
瞼の母
大衆演劇では水熊横丁の場面から始まることが多いと思いますが、原作戯曲では第一場は次のような場面から始まります。

飯岡助五郎の身内の喜八と七五郎が、江戸川沿岸金町にある瓦焼をしている惣兵衛の家を訪ねる。二人は惣兵衛の弟の半次郎を探している。
前の年に繁蔵が助五郎の身内に殺された。その仕返しとして、笹川一家の身内のやくざ2名が助五郎を斬りに行った。それが番場の忠太郎と金町の半次郎。助五郎は掠り傷で済んだが、助五郎身内の友蔵、金四郎が死んだ。喜八と七五郎はその敵討ちのため、半次郎を追ってここまで来たのである。
半次郎の身を案じて、忠太郎も瓦焼の家を訪ねるが、半次郎の妹や母は、半次郎は家にいないと必死に隠す。忠太郎はその親身の情を羨ましく思い、わが身の悲しさ憂う。
忠太郎は、半次郎とともに、喜八と七五郎を返り討ちにする。
忠太郎は紙に「この人間ども 叩ッ斬ったる者は江州阪田の郡 番場の生れ忠太郎」と書くが、字を知らない忠太郎は、半次郎の母に手をとってもらう。その際忠太郎は母を思い出して涙ぐむ。

ちなみに映画「瞼の母」(昭和37年、加藤泰監督)は金町の半次郎(松方弘樹)が飯岡助五郎に斬り込みにゆく場面から始まっています。

関の弥太っぺ
主役は関の弥太っぺこと弥太郎。準主役が箱田の森介。
戯曲には天保水滸伝でおなじみの人物、笹川繁蔵、勢力富五郎(戯曲では留五郎)、清滝の佐吉、神楽獅子の大八がでてきます。

下総菰敷の原。夜更け。神楽獅子の大八は子分数名を従えて繁蔵を待ち伏せしている。
一方、清滝の佐吉のもとに草鞋を脱いでいた森介と、勢力留五郎のもとに草鞋を脱いでいた弥太郎は今晩勝負をつけることを決めており、それぞれやっかいになった家を出る。佐吉と留五郎が見守る中、森介と弥太郎の一騎打ちが始まる。そこに籠に乗った繁蔵が通りかかる。繁蔵の口ききで森介と弥太郎は仲なおりする。一同は歩いて帰ってしまい、大八の待ち伏せは失敗する。



【あとがき】
忠臣蔵(義士伝)は講談・浪曲・映画・芝居・テレビなど大衆芸能・大衆娯楽によって国民に広く親しまれた物語です。しかし昨今では「国民的物語」というほど広く認知されなくなったように思います。どうしてそうなったのでしょうか。
物語の内容が現代の世相に乖離してきたからという見方が一般的なのかもしれませんが、私は芸能や娯楽に親しむ人々の「楽しみ方」が変わってきたからという側面もあるような気がします。
義士伝に親しんでいた人たちは<自分の義士伝の世界>をそれぞれの心の中に持っていたのだと思います。芸能や映画を通じて義士伝に触れる楽しさは、自分の中の義士伝の世界が広がったり変容したりしてゆく楽しさだったのではないでしょうか。だから同じネタであっても、それが自分の中の世界を色濃くしてくれるものであれば、何度見ても飽きることがない。いろいろな脚色があってもバリエーションとして楽しむことができる。銘々伝など脇役の話もさらに世界が広がって面白い。寄席や映画館に足を運ぶ人々の胸中には、自分の中の物語を育てる楽しみがあったのではないでしょうか。多くの人々が育てて楽しんだ物語こそ国民的物語といえるのだと思います。現代の消費文化では、暮らしの中でたまに思い出したりしながら長い月日をかけて育てるという悠長な楽しみ方はそぐわないのかもしれません。また、物語を育てる楽しみがあっても、その世界に触れる機会が身の回りにないと継続してゆきません。上演・上映の機会が減る→育てる楽しみがそがれる→人気が落ちる→上演・上映の機会が減る、という負のスパイラルも義士伝の人気の衰退の一因のように思います。
天保水滸伝もかつては国民的物語だったのだと思います。かつてのように誰でも知っている物語として人気がよみがえることもないと思います。しかし大衆演芸好きな人々にとっては、おなじみの演目であり自分の中で育てて楽しむ物語であり続けてほしいと私は願っています。しかし現在の大衆演劇では天保水滸伝関係の演目は人気がないのかあまり上演されないのが残念です。
このブログは、大衆演劇ファンの方がもっと天保水滸伝を楽しむきっかけになればという思いから作成しました。大衆演劇は将来の衰退があやぶまれています。何度見ても楽しめて自分で育ててゆけるような物語を劇団とお客さんが共有することはその活路のひとつではないでしょうか。

□参考文献
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「遊侠奇談」子母澤寛
「任侠の世界」子母澤寛
「実禄天保水滸伝」野口政司
「天保水滸伝余録」
「飯岡助五郎正伝」伊藤實
「大原幽学と飯岡助五郎」高橋敏
「博徒の幕末維新」高橋敏
「考証天保水滸伝」今川徳三
「関東侠客列伝」加太こうじ
「民衆文化とつくられたヒーローたち-アウトローの幕末維新史-」
千葉県大利根博物館特別展「天保水滸伝の世界」図録
「八州廻りと博徒」落合延孝
「国定忠治」高橋敏
「河岸に生きる人びと」川名登
「利根川東遷」澤口宏
「笹尾道場と幕末剣士」青柳武明
「浪花節繁盛記」大西信之
「話藝-その系譜と展開」
その他いくつかの書籍を参考にしました。
また小説として次の本を読みました。
「巷説天保水滸伝」山口瞳
「私家版天保水滸伝」高橋義夫
「天保水滸伝」柳蒼二郎
「燃える大利根」伊藤桂二
巷説天保水滸伝は飯岡助五郎と笹川繁蔵がどちらもとても魅力的に描かれており、天保水滸伝に興味がある方に是非おすすめしたい小説です。

戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門 別ページ
戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝

天保水滸伝は江戸時代に講釈師宝井琴凌によって生み出されました。
それから、バリエーションが生まれたり淘汰されたりを繰り返して現代に至っています。
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成するまでの物語の変遷の流れを感じ取ることができます。現代の天保水滸伝の基礎がかたまったのは大正期ではないかと思います。

以下、私が所有している、あるいは確認できている講談の(および小説の)天保水滸伝を紹介いたします。

※天保水滸伝全体について知りたい方は、別ページ 「大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門」 を御覧ください。

※現代の講談天保水滸伝に重なる内容が多く含まれております。予備知識なして講談を楽しみたいという方は読むのをご遠慮ください。


【もくじ】

※■は項目をクリックするとその項へ移動します
■小説「天保水滸伝」嘉永3年?
■松廼家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年
□秦々斎桃葉の講談「天保水滸伝」 大正6年
■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代
■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年
□講談本「天保水滸伝 明神森の大喧嘩」 大正14年
□講談本「侠客 天保水滸伝」 大正14年
□神田ろ山の講談「笹川繁蔵」 20席 昭和4年
■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年
□「天保水滸伝 勢力富五郎」 昭和25年
□講談本「笹川繁蔵」 昭和29年


■小説「天保水滸伝」 嘉永3年?


大正2年に刊行された「侠客全伝」という本に実録体小説「天保水滸伝」が収められています。この小説の序文には嘉永三年と記されており、おそらくこれが現在残っている最古の天保水滸伝の物語ではないかと思います。
ただし勢力富五郎が死んだ年(嘉永2年)の翌年にしては内容がボリューミーで、助五郎の死(史実では安政6年逝去)のことも記載されいていることから、大正2年に刊行されたものは加筆が進んだバージョンと推測されます。この小説がどのように書かれ加筆されていったのかは謎です。
講談の天保水滸伝の祖の宝井琴凌の息子四代目馬琴によると、琴凌は慶應3年に五代目伊藤凌潮の協力によって講談を完成し「天保水滸伝」と名付けた、とされています。しかし嘉永3年に天保水滸伝という小説が存在していたとなると、琴凌は講談のタイトルをこの小説からそのまま持ってきたということになります。
この小説「天保水滸伝」と宝井琴凌との関係はわかっておりませんが、深いかかわりがあることは確かでしょう。
天保水滸伝の最源流といえるこの小説の各話のタイトルを以下に記します。また各話のあらすじも別ページに少しづつアップしてゆきたいと思います。
タイトルを見てわかるように、全四巻のうち三巻のはじめの方で死んでいます。それ以降は勢力富五郎が主な登場人物です。初期の天保水滸伝の主役は勢力富五郎だったことがよくわかります。

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「天保水滸伝」序文

「天保水滸伝」各話タイトル
各話のあらずじは↓このページに記載
天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」
※現在初編巻之九まで

初編巻之一 
下総国銚子観世音利益の事 ならびに 銚子五郎蔵、飯岡助五郎が事 附 助五郎、生田角太夫を取挫く事
初編巻之二 
荒生留吉、小船木半次が事 ならびに 半次留吉、小美川にて口論の事
助五郎、留吉が宅に赴く事 ならびに 半次、留吉、松岸にて戦う事
初編巻之三
半次、留吉、和談の事 ならびに 助五郎、留吉、不快の事
洲崎正吉生立の事 ならびに 政吉が父政右衛門、身延参詣の事
初編巻之四
助五郎、甲州にて政右衛門の危難を救う事 ならびに 政吉、助五郎が子分と為る事
荒町勘太、御下利七が事 ならびに 勘太酔狂の事
初編巻之五
鏑箭馬仁蔵、岩瀬福松が事 ならびに 福松大勇不適の事
鏑箭馬繁蔵、福松へ対面の事 ならびに 福松、鏑箭馬が養子と為る事
初編巻之六
岩瀬源四郎直澄由緒の事 ならびに 源四郎遊里通の事
源四郎勘当の身と成る事 ならびに 源四郎、下総笹川に住居の事
初編巻之七
岩瀬源四郎故主へ帰参の事 ならびに お富、源四郎に名残を惜しむ事
岩瀬福松出生の事 ならびに 富死去の事
初編巻之八
岩瀬繁蔵諏訪の社内に石碑を営む事 ならびに 近郷の若者供、社内に於て角力の事
勢力富五郎、神楽獅子を組留むる事 ならびに 助五郎、繁蔵、対面の事
初編巻之九
風窓半次、助五郎を説く事 ならびに 助五郎、繁蔵へ和談を言入るゝ事
羽計の勇吉、利七を嘲弄の事 ならびに 清瀧の佐吉が事
初編巻之十
助五郎、佐吉へ利解の事 ならびに 佐吉、再度助五郎方へ赴く事
佐吉、江戸にてお常に逢う事 ならびに 繁蔵、常を貰ひ受くる事
初編巻之十一
荒生留吉怪異を見て財を得る事 ならびに 留吉、三河屋の手代を救ふ事
佐吉、留吉より金子借用の事 ならびに お常遊女に身を沈むる事
初編巻の十二
勢力富五郎、鹿島へ赴く事 ならびに 平手造酒、高島剛太夫、果合の事
勢力富五郎、平手造酒を助くる事 ならびに 勢力、造酒へ異見の事
初編巻之十三
信州諏訪関口屋丈右衛門が事 ならびに 丈右衛門妾の色に溺るゝ事
丈右衛門八代にて悪者に出逢ふ事 ならびに 菊次奸計、丈右衛門方へ入込む事
初編巻之十四
関口丈右衛門、月の宴を催す事 ならびに おこよ、菊次、密会の事
番頭忠助、丈右衛門へ諫言の事 ならびに 丈右衛門怒って忠助を暇の事
初編巻之十五
忠助遠謀の事 ならびに おこよ、菊次、奸計を企つる事
岩瀬、勢力、羽州山県へ赴く事 ならびに 忠助、主人の跡を追ふ事
二編巻之一
番頭忠助、丈右衛門へ再び忠義を述ぶる事 ならびに 関口屋家内盗賊の事 附 忠助、主人の末期に対面の事
二編巻之二
丈右衛門末期に身の懺悔の事 ならびに 忠助、おこよ、双方訴えの事
雨傘勘次、岩瀬繁蔵が子分となる事 ならびに 関口屋一件、江戸表差立となる事
二編巻之三
諏訪家より関口屋一条、江戸表へ差出の事 ならびに 矢部駿河守殿、双方御呼出の事
矢部殿再度双方御聞糺の事 ならびに こよ、菊次、奸計の事
二編巻之四
矢部殿、証書証人を以て御吟味の事 ならびに こよ、菊次、強弁の事
二編巻之五
矢部殿御糺明、悪人共罪に服する事 ならびに 御処刑、忠助菩提の道に入る事
洲崎政右衛門、雨傘勘次を見出す事 ならびに 助五郎、雨傘勘次を捕ふる事
二編巻之六
坂田屋留次郎、潮来の河内屋へ通ふ事 ならびに 繁蔵女房美代が事
地潜又蔵、留次郎を手込の事 ならびに 清瀧佐吉、留次郎を救ふ事
二編巻之七
岩瀬繁蔵、助五郎が土場を荒す事 ならびに 助五郎、繁蔵へ書面を贈る事
政吉、再び十日市場へ土場を開く事 ならびに 新助、忠蔵、政吉が土場へ来る事
二編巻之八
勢力富五郎、思慮遠謀の事 ならびに 繁蔵等七人、三河屋へ無心の事
岩瀬繁蔵等七人の者、助五郎が妾宅へ切入る事 ならびに 助五郎、政吉宅へ走る事
二編巻之九
政吉即智、繁蔵を襲ふ事 ならびに 荒生留吉、笹川へ内通の事
助五郎、笹川へ船にて押寄する事 ならびに 笹川大喧嘩の事
二編巻之十
荒町、大矢木、桐島等最後の事 ならびに 洲崎政吉憤死の事
神楽獅子大八勇猛、飯田兄弟を討取る事 ならびに 平手造酒武勇、討死の事
二編巻之十一
繁蔵大勇、神楽獅子を討取る事 ならびに 御下、黒濱、提緒等、助五郎を落す事
黒濱、御下、提緒等勇猛、切死の事 ならびに 助五郎、風窓方へ退去の事
二編巻之十二
風窓半次、助五郎が子分を労る事 ならびに 繁蔵等風窓が宅へ切込む事
八州廻の役人、繁蔵等を召捕に向ふ事 ならびに 繁蔵勢力等、所々へ逃隠るゝ事 附 沼田の権次召捕らるゝ事
二編巻之十三
銚子陣屋の役人方、助五郎を召捕らるゝ事 ならびに 新町の常蔵、波紋兄弟を服せしむる事
繁蔵、錣山に狩する事 ならびに 繁蔵、兎を追うて異人に逢ふ事
二編巻之十四
繁蔵計らず父に逢うて安危を語る事 ならびに 直澄、我旧事を物語る事
繁蔵、父の物語を聞きて難問の事 ならびに 直澄、我子繁蔵に凶を示す事
二編巻之十五
繁蔵、播州に赴き、弟源助に対面の事 ならびに 繁蔵再び笹川へ帰る事
勢力、破門兄弟を勝巻へ落す事 ならびに 繁蔵驕慢、飯岡の子分、繁蔵を附覘ふ事。
三編巻之一
勢力、佐吉、子分を連れて笹川へ帰る事 ならびに 勢力、繁蔵を諫むる事
繁蔵驕慢、助五郎を罵る事 ならびに 助五郎、子分を集めて密議を凝す事 附 繁蔵、亡父追善の事
三編巻之二
助五郎、再度子分を集めて謀議を凝す事 ならびに 桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵の事
繁蔵敵を軽んじて助五郎が弶(わな)に懸る事 ならびに 勢力、夢を告げて繁蔵を諫むる事
三編巻之三
飯岡の子分等、繁蔵の帰途を待ちて恨みを報ゆる事 ならびに 繁蔵、後原にて最期の事
清瀧村善兵衛由緒の事 ならびに 売僧是明院愚民を惑す事
三編巻之四
村長源左衛門、是明院を招く事 ならびに 善兵衛、是明院が邪法を挫く事
松波善兵衛、貝塚にて危難の事 ならびに 善兵衛が難を救ふ事
三編巻の五
勢力、松波が娘を恋慕の事 ならびに 勢力、娘みちと通ずる事
勢力、繁蔵が凶変に驚く事 ならびに 勢力、繁蔵が死骸を引取る事
三編巻之六
勢力、妻子を捨てゝ仇を報いんと計る事 ならびに 繁蔵後家みよ、父の許へ帰る事
勢力深慮、智計を述ぶる事 ならびに 佐吉、勢力と不和の濫觴の事
三編巻之七
助五郎、佐吉方へ間者を入るゝ事 ならびに 丑蔵、傳次、清瀧が子分と成る事
姉崎傳次郎放蕩の事 ならびに 飛鳥山にて美女を挑む事
三編巻之八
姉崎傅次郎久離勘当の事 ならびに 丑蔵、傳次、彌助、大塚にて悪事の事
助五郎、勢力が手段を察し奇謀を囁く事 ならびに 鰐の甚助、風間に剣道を学ぶ事
三編巻之九
鰐の甚助、鯨山龍右衛門を投ぐる事 ならびに 甚助酔狂乱暴の事
佐吉、子分を率ゐて飯岡近郷を騒す事 ならびに 土浦の皆次、助五郎と閑談の事
三編巻之十
勢力、筑波山中に於て野猪に逢ひ、危難の事 ならびに 水島破門兄弟不覚の事
勢力、笠を深くして故郷へ帰る事 ならびに 矢切庄助、闇の弁蔵、偽りて勢力が子分と成る事
三編巻之十一
勢力、子分に密意を示して、心を固むる事 ならびに 猿の傳次、親分佐吉へ異見の事
勢力、同輩を集め計議の事 ならびに 伊之助、才助、破門と口論の事
三編巻之十二
勢力述懐、清瀧が心底を憤る事 ならびに 勢力一手を以て飯岡へ切入る事
助五郎、玉崎の社地に子分を伏置く事 ならびに 勢力、助五郎が奇計に陥る事
三編巻之十三
助五郎、偽謀を構へて勢力を砕(くだ)く事 ならびに 勢力、憤闘、飯岡の囲を破る事
勢力、矢太郎が心底を訝る事 ならびに 勢力再び飯岡へ切入る事
三編巻之十四
鰐の甚助驍勇、勢力を悩す事 ならびに 飯岡の子分等苦闘の事 附 水島破門、太田新八を討つ事
桐島松五郎深慮、助五郎を救ふ事 ならびに 桐島、仲間を催促して勢力を追ふ事
三編巻之十五
猿の傳次、佐吉を勧めて助五郎を討たんと計る事 ならびに 傳次、伊之助、争論の事
助五郎、願文を以て勢力が乱妨を訴ふる事 ならびに 清瀧佐吉、飯岡へ切入る事
四編巻之一
勢力、佐吉へ加勢の事 附 皆次、半次、権次、助五郎へ加勢の事 ならびに 佛市五郎、羅漢の竹蔵が事
四編巻之二
一紙の書面にて諸方の達衆、飯岡へ集る事 ならびに 猿の傳次、助五郎に迫る事
鰐の甚助、桐島の松五郎、助五郎を救ふ事 ならびに 那古の伊助、同和助、加勢の事
四編巻之三
猿の傳次、剣道名誉働(はたらき)の事 ならびに 傳次、鰐の甚助を悩す事
土浦の皆次、勢力を喰留むる事 ならびに 波切、滑方、武術の事
四編巻之四
佐吉が妬心、勢力が義心を破る事 ならびに 伊之助、傳次と口論の事
傳次、伊之助、不快の事 ならびに 六蔵、生首の異名を物語る事
四編巻之五
助五郎、皆次、諸方の親分達を饗応の事 ならびに 波切重三、滑方紋彌由緒の事
傳次、丑蔵、成田の土場へ赴く事 ならびに 傳次、丑蔵、悪計を企つる事
四編巻之六
勢力、常蔵が死を聞きて再度奥州へ赴く事 ならびに 皆次、太田原に子分を伏する事
旅僧、勢力に未然を示す事 ならびに 桐島親田等、勢力に迫る事 附 闇夜の炮弾、勢力を救ふ事
四編巻之七
破門、闇路に曲者と柔術を争ふ事 ならびに 破門、傳次、霧太郎、出会の事
龍蔵、おなよ、謀って夫を害せんとする事 ならびに 勢力谷を廻って、宿六を助くる事
四編巻の八
庄屋非義兵衛、勢力を誑計(たばか)る事 ならびに 安式内匠(あしきたくみ)の非道、勢力を陥(おとしい)るゝ事
勢力怒って内匠を罵る事 ならびに 内匠謀って破門を生捕る事
四編巻の九
安式内匠、氷上慾蔵を語(かたら)ふ事 ならびに 内匠の妻おひね、夫へ勢力毒害を勧むる事
霧太郎、再び勢力破門を救ふ事 ならびに 霧太郎、我身の素姓を物語る事
四編巻之十
霧太郎懐旧物語の事 ならびに 霧太郎、宿六を野州へ送届くる事
勢力富五郎、水島破門、内談の事 ならびに 富五郎、破門、夜中内匠が家に入込む事
四編巻之十一
勢力富五郎、水島破門、安式一家を鏖殺(みなごろし)の事 ならびに 氷上慾蔵、勢力に討たるゝ事
四編巻之十二
富五郎、助五郎を伺ふ事 ならびに 勢力、十太に逢ふ事
四編巻之十三
富五郎、甲州へ赴く事 ならびに 勢力、松浦齋宮を助くる事
四編巻之十四
國定忠次、お花の危難を助くる事 ならびに 勢力、中津淺原の二人を挫(とりひし)ぐ事
四編巻之十五
清瀧佐吉召捕らるゝ事 ならびに 勢力富五郎江戸へ出づる事
木隠霧太郎辞世を残す事 ならびに 勢力、破門、下総へ赴く事
勢力富五郎、奮闘最期の事 ならびに 干潟領の者共所刑の事



■松廼家太琉「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年


明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松廼家太琉(この講談本では「松の家太琉」と表記)に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。

松廼家太琉とはどんな人物なのか。大西信之「浪花節繁盛記」から引用します。
初代勝太郎は二代目神田伯山と親交が深く、広沢虎造が伯山のあとを追いかけて伯山の次郎長伝をついに自分の売物にしたというその次郎長伝を、伯山がやるより前に松廼家太琉から伝授されて得意の読物にしていたのだというから凄い。松廼家太琉は荒神山への次郎長一家と共に乗りこんで行って、そこで見たり聴いたりしたことを講談にしてやっていた、いわば次郎長伝の原作者である。
「改良天保水滸伝」も作家としての能力の高さを見込まれて依頼されたのでしょう。

明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
ここでは全20席の演題を記すにとどめます。(タイトルのない回もあります)

第一席
第二席
第三席
第四席 大勝刺客を助五郎の許へ遣す
第五席 庄の助と九重の痴情
第六席 庄の助の最期おはなの危難
第七席 助五郎一世一代の大難
第八席 助五郎再度の大難
第九席 湊の小十、助五郎の出逢ひ
第十席 助五郎網主船主トナル
第十一席
第十二席 助五郎勢力の不和
第十三席 繁蔵江戸を去て故郷へ戻る
第十四席 笹川飯岡の手切れ
第十五席 笹川勢飯岡へ初度目切込
第十六席 荒生の留吉笹川へ注進
第十七席 飯岡勢笹川へ切込む
第十八席 助五郎無罪放免
第十九席 岩瀬の繁蔵殺し
第二十席 勢力佐助の自殺

冒頭でいきなり、
講談では助五郎の父が井上伴太夫に殺されて助五郎はその仇討ちのために銚子の五郎蔵の子分になったとされているが、それは事実ではない、相模国三浦郡の石渡助右衛門の長男というのが正しい。
などと言うことが書かれており、助五郎周辺の取材に基づき史実に近い内容を書き残そうとした意図がよくわかります。もちろん物語は助五郎中心に進み、大衆演芸の天保水滸伝とはすいぶん内容が異なります。
講談本でありながら、書状が書状の体裁で記載されている箇所もあります。第十六席には、荒生の留吉が繁蔵に宛てた手紙が興味深かったので(さすがにこれは創作と思いますが)紹介します。半之丞というのは留吉の婿(娘の亭主)です。

取急ぎ一寸申上候 予て噂さの如く飯岡の助五郎と貴殿不和の赴き然る所 今日助五郎子分の者拙宅へ質受けに参り其者ども話しには今晩笹川へ切込むとの事依而(よって)等閑(なおざ)りにも相成不申段々様子を相尋ね候処 野尻河岸忍村の博多川の家より伝馬三艘にて押出だし人数百人余りの由 御油断あっては一大事に候間取敢えず御知せ申上候何分とも親分様御身体大切に成被下度尚拝顔の節万々申上候以上
八月廿三日 荒生ニテ 半之丞
笹川親分様へ


史実を伝えるために作られたこの講談は世間に広まることがなかったと思います。
しかし辰野万兵衛の孫の伊藤實氏が詳細な史実調査をもとに「飯岡助五郎正伝」を上梓しており、現代に天保水滸伝の実像を伝えています。私のブログでもこの本は大いに参考にさせていただいております。


□秦々斎桃葉の講談「天保水滸伝」 大正6年

縦13cm,横9cmほどの小さな講談本です。全25話。
平手造酒が酒に酔って小塚原の獄門人の死骸の腕を切り落として遊女を驚かす話の他、笹川の花会、鹿島の棒祭りの話など現代の講談の主要ネタの原型がすでにできあがっています。
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■「長講天保水滸傳」(全三十席)


私が所持している講談本宝井馬琴講演「長講天保水滸伝」(全三十席)のあらすじをご紹介します。
文中に「大正の今日に至っても」「この川は大正八年にかの鈴弁の大トランク事件で一層名を売った大川だ」等語り手が大正の世にいることを示す文がいくつかあり、大正時代後期に語られた内容だと推測されます。

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第一席 井上伴太夫助五郎を斬る事、並(ならび)に助太郎銚子の五郎の養子となる事
相模国の三浦岬。水神宮に台を置いて易をみている井上伴大夫という常陸国笠間の浪人があった。魚売りの助五郎は酒癖が悪く、通るたびにこの辻占に喧嘩を売っている。いつもは相手にしない伴大夫であったが、とある水神祭りの日は酒を飲んでいて助五郎の喧嘩を買ってしまう。刀を抜いて助五郎を斬り殺し、そのままどこかへ行ってしまった。助五郎の息子の助太郎はまだ十二歳であるが、父の仇を討つために江戸で剣術の修行がしたいという。それを聞いた土地の顔役天野屋の松五郎は助太郎を銚子の大親分の五郎蔵に引き合わせる。五郎蔵に気に入られ養子となった助太郎は七年間の修行を終え、親の名の助五郎を継ぐ。ある日助五郎が義兄弟の鶴五郎と観音前の旅籠で飲んでいて、下の階で飲んでいた男と一緒に酒を酌み交わすこととなった。話を聞くうちにその男が親の仇の井上伴太夫とわかり、助五郎は勝負を申し出た。

第二席 助五郎親の仇を討つ事、並に福松昔語りの事
助五郎は井上伴太夫を斬って見事に親の仇を討つ。銚子の五郎蔵が死んで助五郎は一本立ちし、居を飯岡に移した。銚子の陣屋に取り入って、貸元でありながら御用を預かる二足の草鞋となる。さらに飯岡では大きな船を拵えて網元となった。
話は変わって下総干潟八万石、須加山村の入口に茶屋旅籠をしている流鏑馬(やぶさめ)の仁蔵という明石出身の貸元がいた。ある日仁蔵は一家の者を家に集めた。干潟八万石の内に狼、厄病神、貧乏神といくつも綽名を持っている福松もやってきた。福松は他の賭場は荒らしても仁蔵の賭場には迷惑をかけない。その訳を訊かれ福松は昔のことを語り出した。福松が生まれたその年に、仁蔵は明石からやってきたものの身寄りもなくついに雪の中に倒れた。それを助けたのが福松の父親だった。

第三席 福松笹川繁蔵と改名して売出しの事、並に勢力富五郎繁蔵と兄弟分となる事
福松の母は病弱で乳が出ない。仁蔵は貰い乳にまわって幼い福松の面倒を見た。福松は成長して乱暴者になったが母からは決して仁蔵の賭場では騒ぎを起こすなと釘をさされていた。
仁蔵は福松に娘のお千代と結婚して家を継いでほしいと持ち掛ける。福松はこれを受け、お千代と三々九度を交わし、親の名である岩瀬の繁蔵を名乗る。繁蔵は乾分の信頼も篤く、身内一統が弱い者を助ける義侠心を持っているから世間の評判もよい。萬歳村で親分をしていた相撲上がりの博徒勢力富五郎もこの噂を聞いて、笹川の繁蔵と飲み分けの兄弟分となった。

第四席 笹川一家花会を催す事、並に飯岡助五郎洲の崎政五郎を名代とする事
付き合いの広くなった笹川一家は懐具合が苦しくなった。勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分に相談する。忠吉の兄貴分の信夫の常吉もひと肌脱ぐことになり、忠吉・常吉という大親分が後見・世話人となって花会を催すことになった。天保九年の七月、諏訪神社の境内に野見宿彌の碑を建てる名目で花会が開催された。これが気に食わない飯岡助五郎は一家から名代として洲の崎政五郎に出席させた。しかももたせた義理(祝い金)はたったの十五両。
花会の会場には全国の錚々たる親分が集まっていた。政五郎は国定忠治に飯岡一家から助五郎が出席しないことについて意見される。大前田英五郎の兄の田島要吉が政五郎と忠治の間を取り持つ。

第五席 助五郎の乾児(こぶん)清滝佐吉と相撲の事、並に神楽獅子大五郎清滝と復讐相撲の事
花会の場に各親分の義理の金額が貼りだされる。どの親分も大層な額で政五郎は顔を赤くしている。ところが自分の一家の貼り出しを見て驚く。親分乾分合わせて二百両の義理の金額が書かれている。これは繁蔵のはからいだろうと政五郎は心の中で感謝する。
同じ日、諏訪明神の境内では奉納相撲が行われていた。清滝の佐吉は助五郎の乾分の目玉の長太、芝浜の勘太を次々倒した。これを知った飯岡助五郎は翌日乾分の神楽獅子大五郎に清滝の佐吉と相撲をとってこいと命じる。諏訪明神の奉納相撲の二日目、神楽獅子大五郎は清滝佐吉を土俵の外に倒した。
第六席 勢力富五郎神楽獅子を打負かす事、並に助五郎味内(みうち)笹川の乾分を打擲する事
清滝の次に土俵に上がった勢力富五郎は神楽獅子大五郎を打ち負かす。
笹川繁蔵の乾分、花笠の六蔵・水谷の六蔵・西尾の與市の三人が、飯岡の縄張りの松岸の茶屋旅籠で芸者騒ぎをしている。先ほどの神楽獅子の負けっぷりを茶化して踊っているところを、たまたま旅籠を訪れた神楽獅子に見られてしまう。この三人が駕籠に乗って帰るところを待ち伏せしていた飯岡一味が襲った。一人は逃げたが二人は斬られて虫の息。これを飯岡助五郎の後見をしている松岸の半次(別名風窓の半次)が見つける。これは大きな喧嘩の引き金になりそうだと半次は須加山に向かうべく駕籠に乗った。

第七席 風窓半次繁蔵に和解を申込む事、並に飯岡笹川手打の事
飯岡一味に襲われて逃げてきた西尾の與市が笹川一家に転がり込んで顛末を話すと屈強な乾分衆が集まって飯岡方に押し込もうと息巻いた。そこに繁蔵が帰って来て、松岸の半次の駕籠も到着する。半次が事を収めたいと申し出ると、繁蔵は飯岡の縄張りの旅籠であんなことをすれば喧嘩を売るようなものだとして仕返しは考えず、半次に始末を頼む。
佐原に松島屋権平という目明しがいてその娘は助五郎の妾だ。半次は権平の家で手打ち式を行うことに決め笹川方と飯岡方を呼び出す。この手打ち式の様子を目明しの三八と洲の崎政五郎の父の政右衛門が隠れて見ていた。政右衛門は笹川方の出席者の雪崩の岩松の顔を見て驚いた。あれはかつて政右衛門を襲ったことがある甲州街道名代の胡麻の蠅、雨傘勘次だ。このことを目明しの三八から聞いた助五郎は、松島屋権平に岩松を召し捕らせようとたくらんだ。二ヶ月後、笹川繁蔵は八州廻りに呼び出されて松島屋権平の家へ向かった。

第八席 雪崩の岩松旧悪露見して召捕らるる事、並に平手造酒二日禁酒を破る事
松島屋権平の家で繁蔵は八州廻りの旦那長井五郎兵衛、伊藤文助から雪崩の岩松が捕らえられたことを告げられる。八州廻りの情けで繁蔵は岩松と最期の面会をする。繁蔵は残された岩松の母を面倒みると約束するが、岩松の母は自害してしまう。
鹿島の祭礼が近づいてきた。本来繁蔵自ら出向いて賭場を開くところだが、繁蔵は岩松の件ですっかり気落ちしており、勢力富五郎に任せることとなった。繁蔵は用心棒の平手造酒に賭場の守りを頼む。その際、酒癖が悪い平手に二日間の禁酒を約束させた。
祭の一日目は酒を我慢した平手だが二日目は料理屋でしこたま呑んでしまう。そこに現れた三人の侍が店に入る際に払った砂が平手の酒に入ってしまう。平手が怒っていたところに、鹿島の犬婆ァが現れた。平手は婆ァが連れていた犬を侍にけしかけた。
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第九席 平手造酒喧嘩の事、並に繁蔵雪崩の岩松を召捕らせし仔細を聞知する事
三人の侍は飯岡助五郎の用心棒秋山要助の弟子だった。秋山要助はかつて、平手の師匠の千葉周作に無礼を働いたことがある。平手は師匠の恥辱をはらさんと刀の鯉口を切った。
一人は平手にすぐに斬られて絶命する。そこに勢力富五郎が来て平手を止めたので残りの二人(下寺十郎次、笠井庄助)は逃げおおせた。
鹿島の棒祭りの後日。繁蔵一家の般若の六蔵が繁蔵に勘当された。六蔵は女房を連れて全国の湯治場を歩き回ることとした。六蔵が伊香保の風呂場で偶然知り合ったのは下寺十郎次・笠井庄助だった。六蔵は二人の話から、雪崩の岩松が捕らえられたのは、泥棒を乾分にした廉で繁蔵を役人に挙げさせようという飯岡助五郎の策略だったことを知る。六蔵はただちに須加山へ帰り、繁蔵にそのことを告げる。平手と六蔵は伊香保に行き、十郎次・庄助の二名を証人として笹川一家に連れ帰った。

第十席 笹川一家評議の事、並に飯岡方へ斬込む事
下寺十郎次、笠井庄助は繁蔵に事の次第を話し、証人になると約束する。怒った繁蔵は平手造酒、勢力富五郎と談合して八月十五日に助五郎方へ斬り込みに行くことに決めた。当日、夏目の新介、清滝の佐吉ら乾分も合わせて総勢十八人が、他の乾分に勘づかれぬように飯岡に向かった。助五郎は妾のおかめの宅で月見をしていた。
まず平手が踏込み、飯岡の乾分を斬って笹川一家が家に押し入った。平手は飯岡の用心棒赤鬼の源次と対峙する。繁蔵は助五郎の寝室に向かう。夏目の新介、清滝の佐吉の前に飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。

第十一席 飯岡助五郎復讐に苦心する事、並に勢力富五郎厚意の事
新介、佐吉は鰐の甚助に斬られ、これはかなわないと逃げ出した。そこに平手が現れ、甚助と平手の決闘となった。平手の技に後れをとった甚助は退散する。繁蔵たちは助五郎を追詰めるが、助五郎は物干から屋根伝いに外に出て難を逃れた。
この襲撃の後、飯岡一家がすぐに仕返しに来るに違いないと笹川一家は身構えていたがいつになっても来ないので笹川方の緊張は解けていった。
翌年になると繁蔵の乾分は散り散りに過ごすようになり、平手造酒は酒の飲みすぎで腹を痛めて尼寺に療養することとなった。その状況を知った助五郎は九月十三日に笹川方に斬り込むことを決めた。
銚子五郎蔵の片腕に風窓の半次、荒生の留吉の二名がいた。留吉は助五郎と折り合いが悪く、今では堅気になって造り酒屋をしている。留吉の息子の留次郎が潮来の遊女雛鶴とよい仲になった。雛鶴の馴染みの客で飯岡一家の身内の土鼠(もぐら)の真助と留次郎との間にいざこざがあった。勢力富五郎と清滝の佐吉が留次郎の用心棒となって争いをおさめた。勢力は自ら五十両を出して雛鶴を落籍し、雛鶴を留次郎のもとに嫁入りさせた。

第十二席 荒生の留吉急を笹川へ知らす事、並に洲の崎政五郎妻子を斬って門出の事
九月十三日、飯岡一家の乾分衆が留吉の家を訪ね、酒を注文する。飯岡一家が笹川一家へ喧嘩出入りする前祝いの酒なのだが、留吉が笹川と通じていることを知らない乾分衆はそのことを留吉に伝えてしまう。留次郎は留吉に命じられて飯岡の計画を笹川一家に密告する。笹川一家は飯岡一家を迎え討つ体制を万全に整えた。
助五郎の家では飯岡一家が出入りの準備をしているが、洲の崎政五郎がなかなかやってこないと気をもんでいた。政五郎は自宅で、この喧嘩で命を捨てるつもりだから諦めろと女房に因果を含めていた。政五郎の女房は、後に残されて憂き目を見るよりもあの世で親子諸共夫婦仲睦まじく暮らしたい、冥土の道連れにしてほしいと懇願する。政五郎は息子、娘、女房の首を斬り落とし、三つの首を持って助五郎の家へ向かった。
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第十三席 飯岡の同勢大利根を遡って笹川方へ斬込む事、並に洲の崎政五郎富田の弁蔵に討たるる事
飯岡一家は利根川を上って須加山村に向かった。一番船は洲の崎政五郎を大将とした八十五人。二番船は成田の甚蔵を大将とした八十人。三番船は飯岡助五郎を大将とした百二十余人。一番船が桟橋に着くと、待ち受けていた笹川方から鉄砲が放たれた。陸にあがった飯岡一味は飛び道具にひるんで後退するが、洲の崎の政五郎は樫の棒を打ち振るって応戦する。遅れて二番船が到着し、河岸の争いは政五郎に任せ、甚蔵らは繁蔵の家に向かった。政五郎は笹川一家の者を十一人打倒し、残りの笹川一味は退散した。政五郎は一番船に戻り一息ついていたが、この船には笹川方の飛田の弁蔵が逃げ隠れていた。弁蔵は背後から槍で政五郎を突き刺した。乗員が多くて船が進まず遅れた三番船は政五郎が死んでからようやく到着した。

第十四席 勢力富五郎神楽獅子大五郎と一騎打ちの事、並に平手造酒の事
笹川方の勢力富五郎と上州友太郎の組は、陸地から攻めてくると思われる松岸の半次を待ち伏せする役目だったが、飯岡方二番船の成田の甚蔵・神楽獅子大五郎が繁蔵宅へ向かうのを見ると、勢力はじっとしていられずに飛び出していった。勢力と神楽獅子とはいつか果し合いすべしとお互いが思っていた間柄。双方丸太を持って畑の中に対峙し一騎打ちとなった。
一方、尼寺で療養していた平手造酒は、まわりが止めるのを聞かずに酒場でしこたま飲んでいた。寺に戻り、繁蔵から届いていた手紙を読んで驚いた。これは一大事と須加山へ駆けつける途中、飯岡方の松岸の半次を見つけた。造酒は福岡一文字宗則の一刀を抜いて半次に斬りかかった。
ところでこの平手造酒は神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場を構える千葉周作の門弟であった。剣の腕前は達人だが酒癖が悪かった。ある日、酔っぱらって小塚原の処刑場を通りかかった際に、番人を脅して死体を出させ、試し斬りをした。斬り落とした片腕を懐に入れて遊女屋の前を歩いていると店の若い衆が平手を呼び止めた。花魁が店に引き入れようと平手の腕を強くひっぱるとその腕が抜け花魁は卒倒した。

第十五席 造酒団左衛門方へ出稽古に赴く事、並に造酒師匠に勘当される事
新町に居を構える団左衛門の親子は剣術を習いたいが、廓町にあるという理由で教えに来てくれる先生がいない。平手も団左衛門の遣いの者から剣術の指南を頼まれるが一度は断る。だがこの遣いの者に小塚原での悪戯を目撃されていたことを知り、口止めするためにも引き受けることとした。団左衛門の屋敷では酒は飲み放題、金は貰い放題、着物は着せてもらい放題で平手は足繁く出稽古に通うようになる。最近の平手の様子がおかしいと千葉周作は不審に思う。ある日、西新井大師の参詣の帰り、周作は偶然団左衛門屋敷で稽古をつけている平手を目撃する。即日、周作は道場で平手に勘当を言い渡す。ばれてしまっては先生のご立腹はごもっともと平手は道場を去ろうし、日頃から平手に反感をもっていた道場の連中は平手を笑った。平手は、お前らに嘲り笑われる筋合いはない、笑った者は出てきて尋常に勝負しろ、とすごんだ。

第十六席 平手造酒奮闘する事、並に造酒最後の事
もちろん平手の相手をする者などいない。平手は団左衛門から貰い受けた福岡一文字宗則で千葉道場の柱を切り落として去っていった。周作はあまりにも見事なその技を見て勘当してしまったことを嘆いた。平手ははじめは周作の弟子がいるという飯岡に行くつもりだったが、途中櫻井の茶屋旅籠に泊まったのが縁で繁蔵一家に世話になることとなった。
それから六年、天保十三年九月十三日、平手造酒は櫻井の尼寺を飛び出し、笹川を攻めようとする風窓の半次の一味を見つけて斬りかかった。飯岡の一味が次々と平手に斬り倒されていることが助五郎に伝わった。助五郎は白井田権蔵ら四人の用心棒に平手の相手を頼んだが、四人とも笹川河岸であっけなく平手一人にやられてしまった。成田の甚蔵や三浦屋孫次郎ら飯岡一家の十二人は命を捨てる覚悟で平手に襲いかかった。平手は何人かを返り討ちにするが、平手の刀が折れてしまい、槍を突かれて遂に平手は絶命した。
一方、勢力富五郎と神楽獅子大五郎はお互い丸太を振り回して一騎打ちをしている。勢力の丸太が折れると、神楽獅子も丸太を放り捨て、二人は素手で組み合って闘った。

第十七席 笹川繁蔵助五郎を追い詰める事、並に笹川一家国を売る事
勢力と神楽獅子は組み合っているうちに川辺に落ちた。そこで勢力が大きな石を神楽獅子の額にたたきつけて勝負があった。
繁蔵の家の前では笹川一家と飯岡一家の喧嘩が長時間続きどちらも疲弊している。そこに役人がやってきて喧嘩を止めた。飯岡一家は船で退却し、風窓の半次の家で体を休めた。繁蔵と勢力らは決着をつけようと半次の家へ向かうが、それに気づいた助五郎は半次の家から逃げた。
名主の平左衛門が役所に何か申し出たらしく、須加山では大勢の役人が繁蔵らを召し捕ろうと待ち受けていた。それを知った繁蔵らは家には戻らず、兄弟分の倉田屋文吉の家に行った。笹川一家は全国に散り散りとなって旅することとなった。
翌年二月、明石で養父の流鏑仁蔵の法事を済ませた繁蔵は須加山に戻ってきた。四月になりその噂を耳にした助五郎は乾分の久太に様子を見にいかせた。

第十八席 繁蔵飯岡方へ踏込む事、並に繁蔵成田の甚蔵他二人を懲らす事
久太は堂々と繁蔵の家の表玄関を訪ねればよいものの、格子窓から中を覗いていたのでそれに気づいた繁蔵の女房のお由は久太を罵倒した。騒ぎを聞きつけて番頭らがやって来たので久太は逃げた。
次の夜の深夜二時。繁蔵は刀を携え一人で助五郎の家に乗り込んだ。助五郎はいなかったが、くだらない詮索をせず堂々と果状を持ってこいと言い捨てて帰っていった。
そのことを聞いた助五郎の右腕の成田の甚蔵と乾分の地曳の寅松、柴山の大蔵の三人は怒って家を飛び出し繁蔵を追いかけていった。
助五郎が家に帰ってきて事の次第を聞いた。本当は繁蔵が戻ってきたら仲直りをしようという算段で久太を向かわせたのだが逆効果になってしまったと嘆いた。
甚蔵ら三人は繁蔵に追いついたが、三人とも繁蔵にあしらわれて肥溜や小便桶に落ちてしまった。

第十九席 成田の甚蔵勘当さるる事、並に甚蔵繁蔵を討取る事
助五郎は一家の跡を継ぐべき男が思慮の浅い行動をしたということで成田の甚蔵に勘当を言い渡す。甚蔵は土産を持って帰ったのなら勘当を解いてほしいと懇願し一家を出る。甚蔵は繁蔵を討取ってその首を持って一家に戻るつもりである。甚蔵の親友の三浦屋孫次郎は助太刀を申し出る。二人は、繁蔵と仲が悪い須加山村の名主の半左衛門に協力を求め、しばらく半左衛門の家に身を隠すこととなった。
繁蔵は乾分とともに大山を参詣して江の島、鎌倉を見学して笹川に戻ってきた。繁蔵は乾分を先に帰して熊谷範次の家で呑んでいる。そのことを知った甚蔵と孫次郎は、帰り道を待ち伏せ、繁蔵を殺害した。繁蔵の首を落とし、胴体は地蔵を巻き付けて大利根川に投げ入れた。
繁蔵の帰りが遅いので笹川一家の乾分が探しにゆくと、繁蔵の腕や草履が夥しい血とともにみつかった。江戸にいた清滝の佐吉や奥州にいた勢力富五郎、夏目の新介はこのことを手紙で知り須加山に戻ることとした。

第二十席 勢力富五郎上総へ戻る事、並に猿(ましら)の伝次の事
清滝の佐吉ら笹川の身内は集まっていたが、奥州にいる勢力は病気のためなかなか戻ってこない。佐吉は勢力抜きで仕返しに行こうと言うが誰も従う者はいない。繁蔵の先代の仁蔵の頃から一家にいた古参の乾分衆は新参者の佐吉に指図されるのが気に食わない。佐吉は俺だけで親分の仇を討つと言い捨て清滝村に帰っていった。
やがて勢力富五郎が笹川に戻ってきた。だが佐吉はそれを知っても勢力のもとへ挨拶にゆかない。江戸で佐吉の乾分になった猿(ましら)の伝次という美男は、勢力は繁蔵の兄弟分だから佐吉にとって叔父にあたりこちらから挨拶にゆくのが道理だ、と佐吉に意見する。佐吉や佐吉の乾分の勘次、勘六は怒ってこれをきかない。伝次は単身勢力のもとに赴き、佐吉に成り代わって挨拶をした。その男っぷりの良さは勢力の一家で評判となった。伝次が佐吉の家に戻ると、飯岡へ偵察に行っていた勘次と勘六が戻ってきて、先方は油断しているから今夜ゆけば皆殺しにできると報告し、佐吉は斬り込みを決める。だが伝次は勘次・勘六の二人は飯岡方に通じているのではないかと疑っていた。

第二十一席 飯岡へ二度目の斬込みをかける事、並に勢力富五郎助五郎を追詰める事
伝次は佐吉には内緒で、弟分の長次に命じて勢力のもとに手紙を届けさせた。手紙には、佐吉の手助けをするのではなく繁蔵親分の仇を討つと思って加勢してほしいと書いてある。これを読んだ勢力らはもっともだと感心し支度を始める。
天保十三年十月十七日、佐吉の一味は総勢五十二人で清滝を出発し飯岡へ向かった。だが、途中の広い空地では飯岡一家が待ち伏せしていて、佐吉の一味が近づくと火を放った。奇襲を受け、三方を敵に囲まれ絶体絶命になった佐吉を猿の伝次が救った。もとは旗本の三男で貞宗の名刀を操る伝次はめっぽう強く飯岡一家の者を次々倒す。佐吉が助五郎を狙うと飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。佐吉は甚助に肩先を斬られたが、また伝次に救われた。鰐の甚助と猿の伝次との一騎打ちになり伝次が勝った。しかし小勢の佐吉の一味は大勢なだれ込んできた飯岡一家に囲まれてしまった。全滅かと思われたとき、勢力富五郎の一隊七十五人が乗り込んできた。勢力はただならぬ強さで飯岡一家の強者を次々と倒す。勢力に追われた助五郎は船に飛び乗って逃げた。

第二十二席 伝次清滝に勘当さるる事、並に佐吉捕吏(ほり)に囲まるる事
助五郎を取り逃がした勢力は須加山に戻った。猿の伝次は怪我を負った佐吉を連れて清滝に戻った。伝次は一人で勢力富五郎を訪ね喧嘩場で助けてもらった礼を言う。
佐吉は喧嘩場で勢力からの加勢があったのは伝次の計らいによるものだったことを知るが、伝次が勢力にへつらっているのが気にいらない。遂に口論となり佐吉と伝次は喧嘩別れする。勘次、勘六以外の乾分は皆伝次に付いてしまい、佐吉の一家はたった三人になってしまった。伝次に付いた者のうち、伝次の弟分の長次は堅気になるため江戸に行き、佐吉の乾分だった者は勢力の乾分となり、猿の伝次はどこかに旅に出た。勢力は伝次を引き留めて仲間にしたかったが気付いた時には伝次はいなくなっていてとても悔しがった。
佐吉の家に突然目明しがやってきて佐吉を捕らえようとする。佐吉は勘六が間者だったことに気付き、伝次の意見に耳を貸さなかったことを後悔した。

第二十三席 佐吉お由忠吉を殺害する事、並に佐吉処刑さるる事
佐吉は目明しから逃げ切ると江戸へ身を潜めた。三年後の弘化二年。佐吉は麻布市兵衛町の煙草屋に繁蔵の妻のお由を見かける。どういうことかと下総に探りにゆくと、お由は繁蔵の乾分の羽計の勇吉の弟の忠吉と良い仲になって、十一屋を売りとばした金で二人で行方をくらましたことがわかった。繁蔵親分に申し訳ないと怒った佐吉は煙草屋に忍び込みお由と忠吉を殺害して金を奪った。この金で派手に博打をうっていたことから佐吉の素性が割れ、佐吉は役人に捕らえられて鈴ヶ森で獄門となった。
話は戻って天保十三年。飯岡助五郎は前回の喧嘩の後、銚子の陣屋に身を移したため勢力の一家は手も足もでなかった。勢力は、繁蔵を殺害した成田の甚蔵が柴山の観音祭りで盆を開くことを知り甚蔵を討つことにした。勢力らは祭りに忍び込み賭場に斬り込んだが、偶然甚蔵はその場を離れていた。勢力は柴山の大蔵と地曳の寅松を斬り倒して引き揚げた。成田の甚蔵は一人で成田山新勝寺へ逃げて寺に匿ってもらった。

第二十四席 助五郎銚子の陣屋に隠るる事、並に富五郎鍋掛ヶ原にて危難の事
八州廻りの役人が銚子陣屋の役人と協力して勢力を捕らえようとしていることが勢力の耳にはいった。勢力は女房子供を義父の善兵衛に託し離縁をした上で萬歳村の家を去った。役人は追い探すが勢力は別の土地へ逃げた。
天保十五年二月の始めの嵐の日、勢力富五郎、夏目の新助ら十八名は助五郎を討とうと銚子の陣屋に斬り込んだが、待ち構えていた役人に返り討ちに会い、生き残ったのは勢力、新助、友太郎、忠吉の四名だけであった。勢力と新助と忠吉は、助五郎が銚子の陣屋から出てくるまで奥州で待機することにした。三人は旅商人に成り済まして北へ向かったが、大田原鍋掛ヶ原の旅籠で滞在しているところを役人に見つかってしまう。役人は人数をそろえて旅籠に乗り込んだ。

第二十五席 猿の伝次富五郎を救う事、並に富五郎奥州路へ入込む事
旅籠の中で役人を返り討ちにした三人は往来へ逃れるが、外にも大勢の役人が待ち構えていた。上州友太郎と夏目の新助は斬り殺され、勢力も風前の灯となった。そこに猿の伝次が現れ、何十人もいる役人を次々と斬り倒す。その隙に勢力はその場から逃げることができた。
奥州路の山道で勢力は悪人に殺されかけている百姓の伝兵衛を救う。しかし伝兵衛の家で寝ていたところを役人に捕らえられ代官所に連行される。勢力の身柄は下総に送られることとなった。八州廻りの手下の永井五郎三郎が勢力を駕籠に乗せ代官所を出発した。ところが駕籠は下総ではなく奥州に向かっている。実は永井五郎三郎というのは偽役人でその正体は大盗賊天狗小僧霧太郎だった。

第二十六席 太田屋新兵衛伊勢山田に於て危難の事、並に倅(せがれ)庄五郎安藤伊織に従って剣術を学ぶ事
ここからしばらく天狗小僧霧太郎の話となる。
阿波国徳島本町通りに太田屋新兵衛という豪商がいた。新兵衛が伊勢参詣の折、大勢の雲助との揉め事が起り、命が危ないところを安藤伊織という侍に助けられた。新兵衛は伊織を阿波の太田屋に連れ帰る。伊織は新兵衛の息子庄五郎に神影流の剣術を教えた。庄五郎は十二歳から十五歳まで熱心に剣術を勉強し確かな腕前となった。ある晩太田屋に役人三十人がやってきた。役人が言うには、安藤伊織は関東で大罪を犯した盗賊とのことである。

第二十七席 茨木十太夫悪事露見して召捕らるる事、並に太田屋倅庄五郎入牢となる事
安藤伊織の正体は茨木十太夫という常陸土浦の浪人で、江戸で罪を犯した強盗であった。十太夫は庄五郎に神影流の腕前は自分のように悪事には使わないくれと言い残して自害した。盗賊を五年間匿っていたという嫌疑で新兵衛は捕まりついに牢死した。新兵衛の後妻およしは以前から店の若者の和助と密通しており、新兵衛が死ぬと庄五郎の存在が邪魔になった。およしは庄五郎を盗賊だと吹聴し、世間でもそのような噂がたった。ある晩庄五郎は、およしと和助が庄五郎を始末して店の金を持ち出して江戸に高飛びしようと相談しているのを聞きつける。庄五郎は継母のおよしと和助を斬り殺して自首するが、およしと和助の姦通の証拠がなく庄五郎は牢に入れられる。三年たったある日、牢名主の勘十郎と源右衛門が牢破りを決起する。

第二十八席 太田屋の倅庄五郎牢破りの事、並に庄五郎賊の群に入る事
脱獄に成功した庄五郎、勘十郎、源右衛門ら十一人は日野屋に押し入る。日野屋の倅はかつて庄五郎を盗賊だと喧伝し、日野屋は太田屋の商売を横取りした強欲非道な金満家だと庄五郎は恨んでいた。勘十郎らは日野屋から八千五百両もの金を奪うと、持ちきれない分は街中の辻々に捨てながら逃げた。
庄五郎は勘十郎、源右衛門とともに盗賊となり諸国を転々とする。庄五郎は京都で、飯泉七郎右衛門という浪人から剣術と伊賀忍術を学んだ。力をつけた庄五郎は勘十郎をはじめ二三十人の乾分をもつようになり、名を木隠(こがくれ)の霧太郎と変えた。霧太郎の一味は甲州荒澤村の金満家佐野文蔵を狙った。

第二十九席 小天狗霧太郎偽役人となって大金を奪う事、並に天目山に於て乾分に分れて江戸で出府の事
甲州荒澤村の佐野文蔵の女房のお花の母親が大病という知らせが届いた。お花は駕籠に乗って実家に向かったが関所の通行手形の発行には日数がかかるので抜け道を使った。
後日、名主の要右衛門のところに江戸奉行所から御用状が届いた。江戸から役人もきて、関所の裏道を通った嫌疑で取り調べるということで、文蔵の店の者は名主の要右衛門に引き渡され、店の財産は取り押さえられた。要右衛門は文蔵らを代官の元に送り届けるが、代官は覚えがないという。役人に化けていた霧太郎らは佐野文蔵の家から千五百両を奪い山分けした。
霧太郎と源右衛門は堅気となり江戸で商売を始め成功していた。勘十郎は放蕩して金を使い果たしてしまい、霧太郎と源右衛門の店をたびたび訪ねては旧悪をばらすと強請って金を無心する。霧太郎と源右衛門は店をたたんで江戸を去ることにするが、霧太郎はその前に勘十郎を片付けようと考えた。

第三十席 霧太郎柳川無宿の勘十郎を斬って江戸へ立退く事、並に国定忠治富五郎を金毘羅山へ尋ぬる事
勘十郎はまた霧太郎のところへ金をせびりに行ったが今度は喧嘩となった。勘十郎は訴人をし、大勢の役人が霧太郎の店にやってきた。霧太郎は往来にでて役人に刃向かうと、勘十郎をみつけて叩き斬った。そのまま霧太郎は逃げ行方知れずとなった。
話は戻って、霧太郎に助けられた勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分のもとへ落ち延びた。助五郎が銚子陣屋から出てくるのを三年間待ったが我慢しきれず、忠吉親分に書置きを残して下総へ向かった。忠吉のもとに国定忠治がやってきて助五郎の一件を聞いた。忠吉に恩がある忠治は、勢力を奥州に連れ戻すと言って乾分の頑鉄、定八と共に下総へ旅立った。忠治は助五郎の首を討とうと助五郎の家を訪ねたが、助五郎は銚子陣屋に居るため留守だった。忠治は萬歳村の名主で勢力の義父である善兵衛を訪ね、勢力の居所を訊いた。勢力は乾分の鶴吉、亀吉と共に金毘羅山のてっぺんに小屋を建てて潜んでいた。忠治は金毘羅山に登って勢力に会い、時機が来るまで奥州に戻るよう説得するが勢力は応じず、忠治は上州へ帰った。
ある朝八州廻りの役人と銚子の役人が合同で金毘羅山に登ってきた。勢力らは鉄砲で応戦する。銚子の陣屋から頼まれて来た笠間浪人の斎藤新十郎という弓の達人が弓を放ちながら近づいてゆくと、勢力の方からの鉄砲の音がやんだ。頂上に来てみると、勢力・鶴吉・亀吉の三人は死んでいた。勢力の脇腹には矢が刺さっており、もはやこれまでと見た勢力は乾分二人の首を落として息絶えたようである。新十郎は勢力の見事な最後に感じ入り、三人の死体を引き取って善兵衛に届け三百両を渡した。猿の伝次も下総まで弔いにやってきた。新十郎は剃髪して坊主となり勢力の菩提を弔った。後に金毘羅山の麓に勢力大明神というお堂ができて土地の者が崇めた。助五郎は勢力の死を知って銚子の陣屋を出て飯岡に戻り天寿をまっとうした。

以上全三十席の内容をご紹介しました。
助五郎も繁蔵ももともと力士であったという設定にはなっていません。
全体として実に連綿と組み立てられた構成で、飯岡への斬り込み(名垂の岩松の件)と鹿島の棒祭りの話が絡み合っているところが興味深いです。
後半は猿(ましら)の伝次や木隠(こがくれ)の霧太郎といった現代ではきかない脇役の登場人物がヒーローとして描かれています。
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近世侠義伝 猿の伝次
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近世侠義伝 木隠霧太郎




■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 


明治から昭和初期に活躍した講釈師悟道軒圓玉の講談天保水滸伝が大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり読売新聞に掲載されました。
79席それぞれの内容を書くと煩雑ですので、数席ずつまとめてあらすじをご紹介いたします。タイトルは私が便宜的につけたものです。


第一席~第六席 飯岡助五郎
田沼主殿頭の浪人青木源内が相州三崎に居を構えていたとき、常陸の侠客井上伴太夫と武芸上の言い争いとなった。論破された伴太夫は夜中に忍び込んで源内を斬った。青木源内の息子、青木助五郎は親の仇をとるべく武芸に励む。井上伴太夫が下総か常陸の侠客のもとに忍んでいるという噂を聞いた助五郎は、土地の大親分のもとにいれば伴太夫を見つけられるのではないかと思い銚子の五郎蔵を訪ね、五郎蔵は助五郎を乾分にする。助五郎は五郎蔵の元で剣術の修行に励み神影流の極意を得る。五郎蔵は大病を患って死に、その跡目は助五郎が継いだ。
銚子観音前の料理屋で助五郎は伴太夫を見つける。助五郎は伴太夫との決闘に勝ち親の仇を討った。助五郎は銚子陣屋から十手捕縄を預かる身分にもなった。

第七席~第九席 笹川繁蔵
紀伊家の家臣の岩瀬重右衛門は酒の上で間違いを犯し浪人となって下総笹川に流れた。そこで土地の提灯屋の娘と結婚し、福松という子供ができた。子供ながら気性が荒い福松に、土地の親分流鏑(やぶさめ)の仁蔵は喧嘩をしてもよいが母親を大切にしろと意見する。金を集めれば母親が喜ぶだろうと思い福松は賭場荒らしをするようになった。
流鏑の仁蔵は賭場を福松に譲って隠居した。福松は名を繁蔵と改め、十一屋という店を開いた。

第九席~第十一席 勢力富五郎
勢力富五郎は江戸角力で十両をはる力士。金貸屋の妾と好い仲になったことが元となって暴力沙汰を起こし江戸を去ることになった。故郷の下総に戻った勢力は繁蔵の乾分となり屈指の兄株となった。

第十一席~第十八席 清滝佐吉
清滝の酒造家茂右衛門の奉公人佐吉が茂右衛門の縁者櫻井村の与兵衛の娘おつねと駆け落ちした。茂右衛門と与兵衛は二人の行方を捜すため銚子の陣屋に通じている飯岡助五郎に協力を頼んだ。助五郎は、いずれ二人を夫婦にすることを条件に引き受け、乾分に探索させた。佐吉とおつねは成田不動で助五郎の乾分に捕らえられた。助五郎は二人を与兵衛に引き渡したが、後日与兵衛から結婚の話が無かったことになるよう佐吉を説得してほしいと頼まれる。助五郎は佐吉にいずれ夫婦にしてやると口約束して金を渡し旅に出す。旅先で遊んでいるうちにおつねのことは忘れるだろうと考えてのことだったが、一か月して帰ってきた佐吉は心変わりしていなかった。縁談が一向に進まないので、佐吉は足繁く助五郎の元に通うが、助五郎はそれがだんだん煩わしくなって、この話はまとまらないから今までの話は夢とあきらめろと佐吉に諭した。このままでは引き下がれない佐吉は繁蔵に相談する。繁蔵はおつねを連れてきたら親元にかけあって夫婦にしてやると約束する。佐吉は江戸の親類のもとにいるというおつねをようやく探し出し、繁蔵は与兵衛を説き伏せて佐吉とおつねは夫婦になった。これが縁で佐吉は繁蔵の乾分になった。

第十八席~第二十席 平手造酒
江戸神田お玉が池の千葉周作道場の門人で剣術の達人の平手造酒は、車善七という非人頭と懇意になった廉で破門となった。平手は関東で有名な侠客飯岡助五郎を頼ることとした。旅の途中、市川の小料理屋で笹川一家の夏目の新助に出会う。二足の草鞋で強大な力を持つ飯岡助五郎よりも、力が弱くても生一本の博打打ちの方がよいと平手は笹川一家の食客になることを決める。
平手は繁蔵を気に入り一家の若い者に剣術を教える。しかし平手は酒癖がよくなかった。

第二十席~第二十五席 鹿島の棒祭り
翌年五月鹿島神宮で鹿島の棒祭りが行われた。繁蔵は体調が悪く代わりに勢力が出向くことになった。繁蔵は酒癖の悪い平手が祭りに行くことを止めるが、平手は三日間の禁酒を誓う。
祭礼では勢力の他、飯岡助五郎や風窓半次など近郊の顔役がそろって賭場を開いている。祭りの三日の間、賭博は公許。役人は「賽銭勘定場」と高札がかかっている賭場を見回っては、賽銭のうちいくらかをお初穂として俺に差し出せと金をせびっている。
平手は最初の二日は酒を我慢したが三日目の昼になって顔色が悪くなってきた。これを見た勢力が甘酒代として平手に金を渡した。結局平手は料理屋で酒をたくさん飲んでしまう。そこに飯岡一家の食客で賭場に出張してきている高島郷太夫、志麻一角、鷹取運平がやってきた。この三人は神蔭流の達人秋山要助の弟子である。三人がはらった塵が平手の杯洗に入ったことから揉め事が起った。四人はこの勝負で落命しても一切構わないという証書を交わして表に出た。実力差は歴然としていて、平手は三人の耳や鼻は削いだが命は助けてやった。港の市兵衛、東金の仁兵衛という二人の侠客が仲裁して喧嘩が終わった。
市兵衛と仁兵衛は事を荒立てないよう飯岡助五郎に勧告する。助五郎は祭礼に来ている商人に迷惑をかけたくないと穏便におさめ、食客の三人は旅費を持たせて放逐した。

第二十五席~第二十七席  笹川の花会
笹川繁蔵は末世に名を残そうと、小見川の宿禰神社を修繕し、宿禰の碑を笹川に建てることとした。そのために大金が必要なので花会を催すこととし、繁蔵は花会の回状を諸方の侠客に送った。助五郎は、花会の名目は立派だが内実は繁蔵の金集めだとして自らは出向かず、洲の崎政吉を名代として遣わすこととした。助五郎が用意した義理(祝い金)は、助五郎が五両、乾分が三両あわせてたった八両と少なかった。
政吉は一家の三人を連れて花会が行われる繁蔵の家に出向き、助五郎は陣屋の要件があって来ることができないと告げて、義理を差し出した。それを見た繁蔵はその金を帳場に渡さず自らの懐に入れた。政吉が二階にあがると各親分の義理の金額が貼りだしてあり、どれも三十両から五十両と大金である。政吉はここに八両と書かれたビラを貼りだされたら助五郎親分の恥になると思い逃げたくなった。ところが貼りだされたビラは助五郎五十両、若い者三十両と合わせて八十両であった。政吉は帳場に降りて繁蔵に感謝を述べた。

第二十七席~第三十五席 神楽獅子大五郎の騒動
政吉が花会に出席している頃、同行の乾分は素人角力に参加したが負けて帰ってきた。繁蔵のもとで行われている角力で乾分が負けたことを知った助五郎は翌日、江戸の角力で二段目までいった玄人である神楽獅子大五郎を連れて出かけた。
笹川一家の清滝佐吉と神楽獅子との取り組みとなった。これに神楽獅子は勝ち、その後も神楽獅子に敵う者はいなかった。繁蔵の乾分にせかされた勢力富五郎が土俵にあがることなった。神楽獅子は勢力との取り組みでみっともない負け方をした。
後日、繁蔵の乾分の西尾の与一、花形の宇吉、水田の六蔵が飯岡の八幡宮の祭礼の見物をしたついでに飯岡の料理屋に上がって芸者を呼んで遊んだ。六蔵らは先日神楽獅子が勢力に角力で負けた様子をからかって歌い、それを階下にいた神楽獅子がききつけたことから喧嘩になった。表を通りかかった洲の崎政吉がこれを仲裁した。政吉は医者を呼んで三人を手当して金を渡した。政吉はこの喧嘩のことで繁蔵に詫びを入れに行こうと思ったが助五郎が放っておけというので風窓の半次に繁蔵へのとりなしを依頼した。半次は繁蔵に会い政吉に代わって詫びを入れた。
半次は政吉に、このままにしておくと騒動になりそうだから助五郎が直接笹川方と和解した方がよいと忠告した。

第三十五席~第三十九席 名垂の岩松の捕縛
九月八日、風窓の半次のとりなしにより松岸の料理屋酔月楼にて飯岡一家と笹川一家の手打ち式が行われた。双方二百人も集まる式において助五郎と繁蔵は盃を交わして兄弟分となった。
手打ち式に参加していた助五郎の乾分で甲州生まれの元吉が、笹川方の出席者に雨傘勘次を見つけた。雨傘勘次はその昔、身延山下で上州の絹商人を殺して三百両を奪った泥棒であるが、今は名垂の岩松と名をかえて繁蔵の乾分となり念仏を唱えてばかりいる。
元吉が助五郎に報告すると、助五郎は岩松こと勘次を捕縛すれば、悪党を匿った廉で繁蔵もお縄にかかるだろうと考えた。
ある日、繁蔵は目明しの岸島屋権兵衛に呼び出された。役人が待っているというので金の入った菓子折りを用意して訪ねた。権兵衛の家では名垂の岩松が籠の中に捕らえられていて、関八州の役人は岩松が乾分になった経緯を繁蔵に問いただした。役人は繁蔵に岩松の本名は雨傘勘次で人殺しの兇状があることを伝え、本来繁蔵も江戸に送るべきところ、日ごろの行いがよいので目こぼしすると伝えた。籠の中の岩松は笹川一家から人殺しの悪党を出したことを繁蔵に詫びた。繁蔵はその帰りに寄った料理屋で、岩松が捕まったのは助五郎の密告によるものだということを小見川の丑松から聞く。繁蔵は助五郎の策略を卑怯だと怒りこの恨みを晴らしてやろうと念じた。

第三十九席~第四十七席 飯岡への斬り込み
繁蔵は喧嘩の種を蒔こうと助五郎の乾分の舎利の源次の賭場を荒らす。それに対抗して洲の崎政吉が笹川の縄張り内に賭場を開く。その賭場を荒らそうと小南の庄助ら笹川一家の者が出向くが返り討ちにあう。
繁蔵は、勢力富五郎、夏目の新助、清滝の佐吉ら主だった乾分二十余人と平手造酒を集めて相談し、飯岡方に喧嘩を持ち込もうと意見がまとまった。
ある晩、繁蔵らは助五郎の妾の家に斬り込んだ。平手は奥州浪人川口伴助ら飯岡の用心棒を倒す。騒ぎをききつけた成田の甚蔵、荒町の勘太、下緒伊之助ら助五郎の乾分二三十人も喧嘩に加わった。
庭では繁蔵と助五郎が一騎打ちをしていたが、助五郎乾分の松崎の庄蔵が繁蔵を背後から切りつけようとした隙に、助五郎は塀を乗り越えて逃げた。この喧嘩で笹川方に怪我人は出たが死人はでなかった。飯岡方は十三人が怪我をして七人が即死した。
繁蔵は助五郎が仕返しにくるだろうと用心していたがその気配がない。やがて平手造酒は酒の飲みすぎで喀血し、桜井の幸福寺で養生することとなった。

第四十七席~第五十三席 新生の留吉・留次郎
かつては銚子の五郎蔵の乾分で助五郎とは兄弟分だった新生の留吉は足を洗って小間物屋を開き店は繁盛していた。留吉の息子の留次郎は親孝行で道楽もせず学問ばかりしている青年だ。留次郎は留吉の名代として銚子の参会に出席し、その後仲間に連れられて潮来の遊女屋に入った。留次郎は雛鶴という遊女と相思相愛となり、雛鶴のもとに通うようになる。雛鶴の客に飯岡助五郎の乾分の土鼠(もぐら)の又蔵がいた。ある日、雛鶴は又蔵の相手をして又蔵の懐から金を取ったうえで散財させた。その金を留次郎に渡しているのが又蔵にみつかり騒ぎとなった。勢力富五郎と清滝佐吉がいる座敷に留次郎と雛鶴が逃げてきた。訳を聞いた勢力は、雛鶴と又蔵との間に入って和解させた。勢力は留次郎と雛鶴の中を割いたら心中するだろうと思い、雛鶴を身受けして留次郎と一緒にさせた。
笹川一家が飯岡一家に斬り込んだ後、助五郎は笹川へ乗り込むことを決め、松岸の半次のもとに乾分を集めていた。このことを知った留吉留次郎の親子は、ここは恩に報いるところと勢力と繁蔵のもとにこのことを知らせに行った。

第五十三席~第六十席 洲の崎政吉
館山領洲の崎の村に磯右衛門という顔役とその娘のお定がいた。磯右衛門の後妻おしんはお定をいじめ、お定は磯右衛門の弟の藤次のもとに逃げた。柿の栽培を生業としていた磯右衛門はある日柿泥棒を棹で叩いて木から落とした。柿泥棒は当たり所が悪く死んでしまったがそれは名主の倅の与之助だった。磯右衛門は自主しようとしたが、藤次の提案で与之助の屍骸を棄てることとし、柿の木の下に埋めた。その後、おしんは利助という男とよい仲になって金をさらって逃げた。三年後、おしんはたびたび磯右衛門の元にやってきて、与之助の件をばらすと脅して金をせびりとるようになった。我慢できなくなった磯右衛門がおしんを斬りつけようと追いかけているところを役人につかまった。おしんは役人に、磯右衛門と藤次が与之助を柿の木の下に埋めたと証言するが、藤次はそれをきっぱり否認した。役人が柿の木を掘ると人骨ではなく犬の骨がでてきた。おしんと利助は悪巧みして嘘をついたと役人に捕らえられ、入墨のうえ追放となった。藤次は磯右衛門に、お定の入れ知恵によって与之助の代わりに犬の死骸を埋めたことを伝えた。お定は父親の磯右衛門の元に戻った。
洲の崎村の政右衛門という漁師がお定の賢さに惚れた。政右衛門の倅の政吉とお定は結婚し、夫婦仲睦まじく市太郎という息子もできた。
政吉は飯岡助五郎に見いだされて乾分になった。力が強く道理がわかり金離れも綺麗で、やがて助五郎の右腕となった。
笹川への出入り前に飯岡一家が松岸に集まっている際、政吉は家に帰ってきた。政吉はお定に、今夜親分と一緒に笹川に斬り込むこととなった、俺の命はないだろう、俺が仏になったと聞いたなら市太郎を連れてどこかに再縁しろ、市太郎は堅気にしてくれ、と伝えた。お定は政吉に、どうか人に笑われないように死んでおくれ、いずれわたしも後から行くと告げた。

第六十一席~第六十六席 笹川の決闘
八月二十日、松岸の支度場を出た飯岡一家は船に乗り込んだ。一番船には荒町の勘太はじめ二十余名、二番船には洲の崎政吉はじめ二十余名、三番船は飯岡助五郎はじめ三十余名、その他の者を合わせて八十有余名が利根川を上った。
繁蔵の元には新生の留吉留次郎の親子から今夜飯岡方が攻めてくるとの手紙が届いた。乾分は散らばっていて手近には二十人しかいなかった。勢力は鉄砲を使って飯岡方を動揺させる作戦を立てた。繁蔵、勢力富五郎、夏目の新助らは飯岡方の到着を待ち構えた。
笹川に上陸した飯岡方は河岸で待ち受けている笹川方を見て、出入りがばれていたことに気付いたが敵が小勢であると見とって斬り込んでいった。笹川方は逃げたがこれは策略である。追いかける飯岡方の背後から藪の中に潜んでいた夏目の新助らが鉄砲を放った。鉄砲により飯岡方は三四人倒れた。洲の崎の政吉は笹川一味を数人斬って進むと勢力富五郎が樫の棒を持って応戦した。そこを荒町の勘太が切りかかる。繁蔵も必死になって斬り合う。
桜井村の幸福寺では酒のために体をこわした平手が療養していた。八月二十日の夜は医者から止められていた酒を寺で飲んでいた。笹川の若い者が幸福寺に行き、飯岡方の出入りを平手に伝えた。平手は笹川に駆け付け、平手を見た笹川一家は元気になった。平手造酒の前に洲の崎政吉が進み出て決闘となった。平手は洲の崎政吉と荒町の勘太の二名を同時に切り倒した。その技に驚いた飯岡方は崩れて笹川河岸まで下がったが、このとき松岸の半次ら三十人を乗せた船が笹川に到着した。飯岡方は半次らの到着に元気づいて再び攻め入った。だが飯岡方はだんだん不利になりついに退却した。
笹川方は三人の死者があった。飯岡方の死体は洲の崎政吉を始め十三あった。笹川方はこれを棺に納め、翌日松岸の半次のもとに届けた。
陣屋と通じている助五郎がこの後役人を笹川に差し向けると予想されたので、笹川一家はめいめいこの土地を離れることにした。繁蔵の持ち金が足りなかったので、勢力は女房おりきの父親で清滝村の名主善兵衛から二百両を借りた。繁蔵はこの金を一家の者に分配し、繁蔵は上方へ、勢力は仙台の信夫の常吉の元へ、清滝佐吉は伯父のいる江戸へ、平手は上州大前田栄五郎のもとへそれぞれ向かった。

第六十六席~第七十席 笹川繁蔵の最期
下総の神崎の友五郎という侠客が助五郎と繁蔵の仲を納めたいと申し出た。助五郎はお互い縄張りに手をかけないという条件で和解したいと頼み、友五郎は尽力した。その後繁蔵の身内の者は笹川に戻ってきた。友五郎は繁蔵に隠居を勧めたが、まだ助五郎はこちらを狙っているようだしの助五郎に恐れをなして隠居したと思われるのはいやだからと断った。友五郎はそれなら用心してなるべく外出しない方がよいと忠告した。
繁蔵は用心をして外出を控えていたが、名主宇右衛門の倅市太郎と豪農藤本嘉兵衛の娘が結婚することとなり、婚礼の日は宇右衛門の家を訪ね、そこでおおいに飲んだ。
その帰り道、繁蔵は飯岡一家の成田の甚蔵、花輪の弁吉、八木の音松、銚子の次郎その他二名に襲われて命を落とした。
魚売の万蔵が竹藪の中で血に染まって倒れている繁蔵をみつけて笹川一家に知らせた。笹川一家は諸方の侠客に知らせて繁蔵の本葬を行った。四十九日が終わり、勢力富五郎は、親分繁蔵を殺したのは飯岡の奴らに違いないと乾分を集めて斬り込みを決める。

第七十席~第七十三席 平手造酒の最期
八月六日の夜、勢力、平手造酒ら笹川一家の約十六人は繁蔵の仇を討つため飯岡に向かった。ところが助五郎の家の周りを四五十人が取り囲んでいる。どうも笹川方の斬り込みがばれていたらしい。
こちらの方が人数は少ないが、勢力や平手は退くことは考えず死ぬ覚悟で斬り込んだ。勢力、清滝佐吉、夏目の新助らは脇差が折れるまで戦ったが、飯岡方はますます人数が増えて勝つ見込みがない。平手の指示で笹川方は退却し、平手はそのしんがりにいた。
笹川の決闘で平手造酒に斬られた政吉の女房のお定は政吉の仇を討とうと喧嘩場に来ていた。お定は退却する平手造酒の背後から槍を突き出した。おさだの槍は平手の脇腹に刺さった。平手は槍を引いておさだの首を討ち落とした。平手は傷を負いながら待っている味方のもとに戻ったが、ついに勢力の腕の中で息をひきとった。平手は繁蔵の菩提寺に埋葬された。

第七十三席~大団円(第七十九席) 勢力富五郎の最期
飯岡での決闘の後、関八州の役人や銚子の陣屋から役人が次々と笹川一家の者を捕縛して江戸に送るようになった。笹川一家は身を隠した。勢力は、女房おりきの父である清滝村の名主善兵衛のもとに乾分の鏑木の栄助と隠れた。勢力は元乾分で今は小見川で鰻屋をやっている村吉こと村田屋吉五郎を呼び寄せ、村吉に自分の女房のおりきを娶ってほしいと頼み、善兵衛もこの話を承知した。
勢力を探す役人の警戒がなかなかゆるまず、勢力は隠れているのが見つかる前に行動しようと、ある夜飯岡に向かった。一人で助五郎の店にあがりこんだが、助五郎は留守であった。乾分に「助が帰ってきたら勢力はまだ生きているとそう云え」と言い残して帰ってきた。乾分の栄助もさすがにこの豪胆な行動には戦慄した。
芝居好きの勢力は桜井の町に芝居が来ていることを知り栄助を連れて顔を隠して観に行ったが、芝居の途中で八州廻りの役人が入ってきた。芝居が終わったら捕らえられると思い、芝居中に栄助が役人を背後から斬り、その隙に勢力は逃げた。その夜栄助も逃げのびて善兵衛の家に帰ってきた。栄助が沼に捨てた血染めの衣類が見つかって、役人は勢力がこの近くにいるに違いないと目をつけ、一軒一軒調べ始めた。勢力は善兵衛に別れを告げ、善兵衛は勢力に金と猟銃を渡した。勢力と栄助は夏目にある金刀毘羅山に身を隠した。
五日程経つとどうしてばれたか、八州廻りの役人中山誠一郎や飯岡助五郎の身内など三百人が山を取り巻いた。
勢力富五郎と鏑木栄助の食べ物が尽きた天保十四年十一月末、村吉こと吉五郎が裏山から登ってきて勢力に米を渡した。山を下りて助五郎をしとめる最後の機会を勢力は狙っていたが、吉五郎の話からそれができないとわかると、ここで死ぬ覚悟を決めた。
三日後、勢力はまだ齢十八の栄助の首を斬り落とした。勢力は鉄砲で自分の胸を撃って自害した。

以上全79席のあらすじです。
新聞には石井滴水の挿絵が添えられていていい味を出しています。
長講天保水滸伝によりも構成がすっきりして現代の講談に近づいている気がします。ただし笹川の決闘で平手造酒が命を落とさず、繁蔵殺害の仕返しとして乗り込んだ喧嘩で政吉の女房によって殺されているのは注目すべき点でここに悟道軒圓玉のオリジナリティーがあるのかもしれません。
また鹿島の棒祭りで、侍の払った埃が平手造酒の杯洗に入ってしまう場面では、平手は最初は落ち着いて酒を捨てて新たに酒を注文し、その後犬婆アの犬の賢さと侍の無礼さを比較するという描写になっており、現代版の短絡的な平手よりかっこいいなと思いました。


□講談本「天保水滸伝 明神森の大喧嘩」 大正14年

中扉には「侠客喧嘩帖 笹川 飯岡 明神森の大喧嘩」とあります。全27話。題名は「明神森の…」となっていますが、天保水滸伝の物語全編が語られています。付録として「荒神山の血煙」の1話が収録されています。
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□講談本「侠客 天保水滸伝」 大正14年

八千代文庫の長編講談シリーズのひとつ。全25話。各話の最初に「本編活動の人々」として登場人物を列記しているのが親切。三遊亭円朝の「貞操お民」「怪談牡丹燈籠」も併録。
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□神田ろ山の講談「笹川繁蔵」 20席 昭和4年

大日本雄弁会講談社の講談全集の第十巻には4つの長編講談と4つの短編講談が収録されている。神田ろ山「笹川繁蔵」はその長編講談のひとつ。全20話。第17話が「孫次郎の侠気」で、現代でいう「三浦屋孫次郎」のエピソードがはじめて確認できる講談本です。
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■三代目神田伯山のラジオ講談「天保水滸伝」


昭和初期はラジオで浪曲や講談は人気番組で、放送日にはその内容が新聞に掲載されることもありました。
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。かなり紙面を使って詳細に掲載されていることからこの番組の注目度が推し量れます。以下新聞に掲載された4話の内容を簡潔にご紹介します。

二月十二日 第一席 岩松の旧悪
天保十二年六月十五日、笹川繁蔵は十一屋の二階でなだれの岩松がここ二三日見えないことを気にかけていた。助五郎の妾の父親の岸島屋権蔵が繁蔵を訪ね、念仏の岩松が召し捕らえられたことを告げた。繁蔵がその罪過を訊くと、岩松はもとは雨傘勘次という甲州の長脇差で商人二人を斬って三百両の金を奪ったお尋ね者だと云う。役人の松村小三郎が呼んでいるというので繁蔵は子分の佐吉を連れて佐原の岸島屋に行った。繁蔵は袖の下として金の入った菓子折りを松村に渡して、お叱りを受けた後、籠の中に捕らえられている岩松に会った。岩松は涙を流して別れを惜しんだ。
その帰りに料亭で飲んでいると、蟒(うわばみ)の六蔵という男が大きな鼾をかいて寝ていた。六蔵は繁蔵に気付くと、今回岩松の旧悪が露見したのは、先日の松岸での手打ち式にいた文吉があれは盗賊だと助五郎に告げ口し、助五郎が岩松と繁蔵を役人に捕らえさせようと手をまわしたからだと告げた。怒り心頭に燃えた繁蔵は助五郎を斬って岩松の恨みを晴らそうと決心した。

二月十三日 第二席 変な侍が来た
やるせない気持ちで繁蔵は帰って来た。繁蔵は二階でしばらく考え込むと女房に草履を用意させた。これからどこへ行くのか子分にも女房にも伝えない。平手造酒が繁蔵に訳を聞いた。平手は江戸お玉が池の千葉周作の門弟で道場の八天狗と言われた逸材だが酒の失敗で破門になり今は繁蔵方の食客である。繁蔵は平手に今夜助五郎を斬りにゆくという本心を打ち明けた。それを盗み聞きしていた子分たちは我も我もと同行を願い出た。平手も行こうと申し出る。有名な剣客が博徒と斬り合いをしたら恥になるからと繁蔵は断ったが、平手の意思が強く平手も加わることとなった。繁蔵は平手や子分たちと飯岡に斬り込んだ。

二月十四日 第三席 留吉の恩返し
繁蔵の刀を助五郎の刀はガッチリ受けた。じりじりと助五郎が後ろに下がり背が雨戸についた際、助五郎は雨戸と一緒に庭に転げ落ちた。繁蔵は庭に飛び降り、助五郎を池のふちまで追い詰める。助五郎は池の中の弁天堂に飛び移った。繁蔵も飛んだが足を踏み外して池に落ちた。今度は助五郎が池にはまっている繁蔵に斬りかかる。それを見た勢力富五郎が投げた刀が助五郎をかすめた。富五郎に気付いた助五郎は塀を乗り越えて逃げた。喧嘩が終わり笹川一家は引き揚げた。笹川方はそのうち助五郎が斬り込んでくるだろうと警戒していたが、翌月が過ぎても来ないので、人の手配も緩んでいった。
昔銚子の五郎蔵の身内として男を売っていた留吉は今では堅気になって下総荒生村で質屋をしていた。風窓半次の子分の小吉が、質に入れた脇差を一文無しで受け取りに来たことから質屋の番頭ともめた。留吉が訳をきくと、子吉は今晩助五郎が繁蔵方へ夜討ちをかける助太刀のためだと答えた。留吉は子吉に脇差を返してやった。留吉の倅の富次郎は勢力富五郎に世話になったことがあるので、その恩返しとして留吉は駕籠を飛ばしてこのことを繁蔵に伝えに行った。

二月十五日 第四席 平手造酒の報恩
留吉から報告を受けた繁蔵は、子分にバラアミ(博徒の急場の身内集め)を命じた。勢力富五郎、清滝の佐吉、夏目の新助、四の宮の権太らが世間を騒がさないようにとひっそりと繁蔵のもとに集まった。子分九十名は、笹川河岸の藪と明神の森で鉄砲と竹槍を持って潜み飯岡勢を待ち構えた。飯岡方は風窓半次の家を出て利根川から笹川に向かった。一番船の大将獅子神楽の大五郎らは笹川河岸に着くと繁蔵宅を目指して駈けたが、笹川方の鉄砲に撃たれバタバタ倒れた。笹川方は続いて竹槍で攻撃する。二番船、三番船の飯岡方も上陸し、繁蔵方と決闘となる。漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい。
平手造酒は酒の飲みすぎで心臓を痛め吐血するようになり尼寺で養生していた。喧嘩を知った平手は笹川へ駆け付けた。平手の愛刀一文字の早業に助五郎方は崩れる。助五郎方の成田甚三、札の兵十、石の川の石松、三浦屋の孫次郎等が平手に立ち向かった。平手の刀が折れ、石に躓きよろめいた平手の脇腹を石松が竹槍で突き、平手は倒れた。
夜が明けても決着がつかないとみた助五郎と半次は引き揚げを命じた。しんがりの洲の崎の政五郎、政吉兄弟は笹川方を食い止めたが、清滝の佐吉と姉ヶ崎の伝次に斬られて死んだ。助五郎方は船で風窓の半次方へ退却した。繁蔵は平手造酒を探し、明神の森に深手を負ってあえいでいる平手を見つけた。

以上4席のあらすじでした。
おなじみ名垂の岩松捕縛から大利根河原の決闘まで。決闘の場面の「漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい」は美しい描写なのでそのまま転載しました。三代目神田伯山の美学が伝わってくるかのようです。

長講天保水滸伝では「洲の崎の政五郎」、圓玉の新聞講談では「洲の崎の政吉」、三代目伯山のラジオでは「洲の崎政五郎・政吉兄弟」となっているのが面白いです。

また注目すべきは、上記のどの平手造酒も胸の病にはかかっていないことです。酒の飲みすぎで具合が悪くなり寺に療養したことになっています。それではかっこわるいので現代の話では労咳を患っていたのことになっているのでしょう。平手造酒が労咳持ちなのは比較的新しい設定なのでした。どこからこの設定が生まれたのか興味があるところです。



□「天保水滸伝 勢力富五郎」 昭和25年

富士屋書店刊行の長編講談シリーズのひとつ。全19話。飯岡一家と笹川一家の出入りの後、繁蔵は父親の消息を確かめるために和歌山にいる伯父を訪ねる。その後大阪に移って活躍するという他の講談本にはみないエピソードがあります。
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□講談本「笹川繁蔵」 昭和29年

大日本雄弁会講談社発行。昭和4年版「笹川繁蔵」と内容は同じですが、ディテールを見てみますと、やはり現代の講談「天保水滸伝」に近くなっています。この講談本の中の話のいくつかが生き残って、現代の講談天保水滸伝を形成しているといえるでしょう。
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天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」

天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」

大正2年に刊行された「侠客全伝」という本に「天保水滸伝」という実録体小説が収められています。この小説の序文には「嘉永三年」と記されており、おそらくこれが現在残っている最古の天保水滸伝の物語ではないかと思います。
ただし、大正2年に刊行されたものは嘉永3年版より加筆が進んだバージョンと推測されます。
「侠客全伝」収録の天保水滸伝がどのように書かれ加筆されていったのかはよくわかりませんが、演芸としての天保水滸伝の発祥を調べるうえでの最重要資料であることは間違いありません。
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天保水滸伝序文

以下、各話のタイトルとあらすじを紹介します。
※あらすじは今後少しづつ追加してゆきます。

<天保水滸伝>

初編巻之一 

下総国銚子観世音利益の事 ならびに 銚子五郎蔵、飯岡助五郎が事 附 助五郎、生田角太夫を取挫く事

下総国銚子に利益が広大無量な久世観音があった。ここに子分数百人を持つ五郎蔵という大親分があった。飯岡助五郎は末の子分であったが、今は五郎蔵ら大半が死んでしまって、助五郎他わずかな子分が生き残っているだけである。
飯岡、銚子、松岸などを傍若無人に荒らし回っている生田角太夫という戸田流の達人の浪士がいた。角太夫がいつものように酒楼に入って飲み倒そうと、飯岡の住屋という店に入った。他の客は角太夫を見て逃げ帰ったが、そこで飲んでいた助五郎は素知らぬふりをして飲んでいた。角太夫は自分に礼儀を尽くさぬ助五郎を見て怒った。角太夫と助五郎の喧嘩になった。助五郎は親指を斬り落とされたが、角太夫は両目をつぶされて悶絶した。角太夫は役人に引き立てられ重い刑に処せられた。このことにより助五郎の名は知れ渡り、数百人の子分を持つようになった。

初編巻之二 

荒生留吉、小船木半次が事 ならびに 半次留吉、小美川にて口論の事

銚子の五郎蔵の組の内に、長指(ながざし)の権次という者がいた。権次は助五郎の兄貴分で、荒生の留吉、風窓(かざまど)の半次という二人の子分がいた。半次は小船木の菓子屋の倅だが風窓次郎右衛門という柔術の達人の門弟になり、風窓半次と名乗った。半次と留吉は兄弟分で助五郎とも懇意にしていた。ある日半次が開いていた小美川の賭場で半次と留吉が激しい言い争いをした。その時、留吉の子分の手玉の長こと長太は何もせずただ黙っていた。留吉は帰ってから、何の手出しもしなかった長太を責め立てた。長太は、留吉に世話になる前に半次の世話になっていたことがあり双方への義理から手出ししなかったと弁明したが、留吉は長太を追い出した。長太は助五郎の元に行き、半次と留吉を和睦してもらえないかと頼んだ。

助五郎、留吉が宅に赴く事 ならびに 半次、留吉、松岸にて戦う事

飯岡の助五郎は角太夫の一件以来遠近に名を響かせて、役人からは目明しを仰せつかり御用の風を吹かせていた。天保七年の六月十三日、半次と留吉を和談させようと留吉のもとに向かうことにした。
小見川の賭場で言い争いをした後の半次と留吉は、しばらくは面とは向かわずに相手を罵っていた。その噂が双方の耳に入ると、半次も留吉も怒り相手方へ乗り込もうとした。ついに小船木と松岸の間で決闘となった。
助五郎が留吉宅を訪ねると、留吉は留守であった。小船木に用があると言って出かけたことを知ると、助五郎は一目散に小船木へ駆け出した。

初編巻之三

半次、留吉、和談の事 ならびに 助五郎、留吉、不快の事

半次と留吉の決闘に助五郎が割って入った。何とか二人を説き伏せ、日を改めて松岸の茶屋で仲直りさせることとした。手打ち式には近在の者も大勢集まり、無事半次と留吉は和談の盃を交わした。
数日経って、助五郎は留吉に長太を堪忍してほしいと頼むが、留吉は断った。強情も大概にしろと助五郎が意見すると、ならばもう一度半次と決闘に行くと留吉は楯突いた。結局長太は助五郎が引き取ることとなった。この時以来、留吉は助五郎を不快に思うようになった。

洲崎正吉生立の事 ならびに 政吉が父政右衛門、身延参詣の事

助五郎の子分に房州洲崎出身の政吉という者がいた。
政吉の父親の政右衛門は四十才になっても子を授からなかった。貰い子を育てれば実の子も生まれるという言い伝えにあやかり、那古村から二歳の男児を貰い受けると政吉と名付け、乳母をあてがって育てた。翌年実の子も生まれ政次郎と名付けた。政吉が十九才、政次郎が十七才に成長すると、政右衛門は家業を政吉に任せ、自身は身延山への参詣に行くこととした。参詣の帰路、甲州街道鶴川宿の茶屋で、政右衛門が遅れている供の者を待っている時に、野州名垂の出身という二十一二才の若者と出会った。この若者も江戸に用事があるとのことで、一緒に江戸に向かうこととなった。ようやく供の男が追いついたが足の爪を怪我していてゆっくりとしか歩けない。名垂の若者は供の男を助けながら進み、一行は小原宿のふじ屋という宿に泊まった。

初編巻之四

助五郎、甲州にて政右衛門の危難を救う事 ならびに 政吉、助五郎が子分と為る事

助五郎は所用で上州桐生に行った後、甲府にまわり身延山を参詣した。土地の名のある者に面会をしながら帰る途中、幡村の四郎兵衛という知人のもとに逗留し小原宿の賭場に通った。ある夜面白くないことが起きて、助五郎は賭場を立って帰ることにした。小仏峠の辻堂に入って微睡んでいると、明け方叫び声が聞こえた。血に染まった男が一人倒れていて、刀を持った若い男が別の男を脅しているところだった。助五郎は飛びかかって刃を奪い若い男の腹を蹴飛ばした。生け捕りにしようとしたが、若い男は谷底に落ちてしまった。助かった政右衛門はこれ以来助五郎を命の恩人として慕うようになる。
一方政吉は、家業を疎かにし、博奕に明け暮れるようになっていた。ある日、助五郎は那古村の知人を訪ねたついでに政右衛門を訪ねた。政右衛門は助五郎から政吉に意見をしてもらうよう頼んだ。助五郎が政吉に説教をすると、政吉は隠していた本心を打ち明けた。大恩ある親父様の家督を継ぐのは養子の自分ではなく、実子の政次郎であってほしい。でも正直に願い出ても受け入れてもらえないだろうから、放蕩に身を持ち崩して勘当されようと思った。これを聞いた助五郎と政右衛門は、義理を通そうとする政吉の心意気に感心し、政吉は助五郎が預かることとなった。

荒町勘太、御下利七が事 ならびに 勘太酔狂の事

助五郎の子分に、常陸荒町出身の勘太と御下村出身の利七がいた。勘太は身の丈六尺で色黒く、力が強くて素人角力では敵う者がいなかった。利七も力持ちだが性格は極めて温厚だった。二人は仲睦まじく水魚の交わりであった。ある時大酒飲みの勘太が酔っ払って、下総では角力で自分に並ぶものはいないと傍若無人に高慢な態度をとると、利七がいつもの大言壮語が始まったと笑った。それを見た勘太は怒り、ついに二人は喧嘩となった。そこに洲崎政吉が通りかかって二人を仲裁した。勘太と利七は反省して、政吉も一緒にまた飲み始めた。

初編巻之五

鏑箭馬仁蔵、岩瀬福松が事 ならびに 福松大勇不適の事

江戸では三十六人の町奴が異形の格好をして狼藉を働いていたところ、奉行が町奴狩りを行って、このような者は死罪にすると触れたため、男達(おとこだて)と名乗る者は市中にいなくなった。しかし下総、常陸、上州には長脇差を携えて博奕を渡世とする者が後を絶えなかった。銚子の五郎蔵、飯岡の助五郎もそうした男達長脇差である。
下総の笹川は勢洲津の城主藤堂和泉守様御飼葉領で小領ではあったが、諸国の達衆が集まって賑わっていた。諏訪大明神の境内では地角力が行われていて達衆が勝負を争って賑わっていた。
笹川村の百姓与兵衛の孫の福松は成人してから鏑箭馬(やぶさめ)仁蔵の子分となった。仁蔵が死んだ後、福松は岩瀬繁蔵と名乗り大達衆となった。
繁蔵は幼少の頃から角力が好きで大変強く、成人してからも敵う者がいなかった。ある時、一匹の大牛が逃げて町中を駆け出し、誰も手出しができなかったところ、繁蔵が牛を取り押さえて急所を打って鎮め、持ち主に返した。
仁蔵は野洲栃木の出身で、武道に励み、剣道や柔術を学んだ。特に鏑箭馬が巧みだったので鏑箭馬仁蔵と呼ばれていた。仁蔵がまだ栃木にいたところ、領主の元に大島甚蔵という役人がいた。甚蔵は大変傲慢で不法難題をふっかけて歩いていたので土地の者は大変迷惑していた。ある時仁蔵が料理屋で飲んでいると甚蔵がやってきた。仁蔵は飛びかかって投げ飛ばし、人を苦しめる人畜め、二度とここへ来るなと罵った。甚蔵は怒り刀を抜いたが、仁蔵はわけもなく返り討ちし、甚蔵は斬り倒された。仁蔵は栃木を逐電し、小美川に移り住み、名を繁蔵と改め、この地で多くの子分を持った。
それから二十数年が経ち、年老いた仁蔵は賭場を子分の頭に預けていた。あるとき笹川の福松という若者が仁蔵の賭場に現れ、賭場を荒らした。仁蔵の子分たちは福松を叩き伏せ、簀巻きにして川に打ち捨てた。

鏑箭馬繁蔵、福松へ対面の事 ならびに 福松、鏑箭馬が養子と為る事

与兵衛の知人の小助という者が夜網しているときに、簀巻きになった物が小助の船に流れ着いた。解きほどいてみると、福松だったので、驚いて助けた。福松は蘇生して笹川に帰った。
それから四五日して、福松は鏑箭馬繁蔵のもとにひとり乗り込んだ。鏑箭馬は、怒って刀を抜く子分達を制して福松の相手となった。鏑箭馬は福松の攻撃を受け流すと、福松の刀を落とし両足を払った。鏑箭馬は、福松の死を恐れぬ肝っ魂に感心し、話をしようと奥の一間に福松を招き入れた。

初編巻之六

岩瀬源四郎直澄由緒の事 ならびに 源四郎遊里通の事

鏑箭馬繁蔵が福松に「その肝っ魂を見込んで頼みがある。俺も寄る年波。うちの子分にはお前ほど器量のある者はいない。賭場を譲るから自分に成り代わってここの親分になってほしい」と言うと、福松は多くの兄貴分を差し置いてそれはできないと断ろうとする。鏑箭馬は無理に福松を子分達の前に出し、福松を婿養子にとるから今日から福松を俺と思ってくれと宣言し、福松と子分達を和解させた。後日養子の披露目をして、福松は二代目鏑箭馬繁蔵と名を改め、大達衆となった。次第に子分も増え、小南の庄助、清滝の佐吉、勢力富五郎、五郷内の忠蔵、名垂の岩松、羽計勇吉、夏目の新助も子分となった。福松は鏑箭馬繁蔵ではなく岩瀬繁蔵と呼ばれるようになった。
文化年間の頃、笹川に岩瀬源四郎直澄という浪人がいた。
源四郎が故郷の播州にいた頃の話。藩より高禄を頂戴していた父源左衛門の家督は源四郎が継ぐこととなっていた。ある時源四郎は父に京都勤番を願い出て京都の屋敷に勤仕した。人柄の良い源四郎は周りからの評判がよかった。一年経ったある春の日、友人と嵐山へ花見に出かけた。その帰り、関口権蔵が源四郎を無理に嶋原の遊里に引き連れた。権蔵は馴染みの遊女を呼んで大騒ぎしたが、初めて遊里に足を踏み入れた源四郎は尻込みしていた。松人(まつんど)という遊女が酔っ払った源四郎を座敷から部屋へ案内して介抱した。

源四郎勘当の身と成る事 ならびに 源四郎、下総笹川に住居の事

堅物の源四郎だったがすっかり松人の虜になってしまった。それから遊里通いが続き、刀まで質に入れ、多大な借金を作ってしまった。このことが父源左衛門の知るところとなり、源四郎は勘当となった。剣道や柔道の指南をしながら諸国を遍歴すること四年、源四郎は下総笹川に流れ着いた。ここには長脇差の渡世人が多く、源四郎には多くの門弟ができた。源四郎は百姓与兵衛の娘の富を下女として雇い入れた。

初編巻之七

岩瀬源四郎故主へ帰参の事 ならびに お富、源四郎に名残を惜しむ事

源四郎が笹川に居を定めて三年、故郷より手紙が届いた。父源左衛門が急病なのですぐ帰ること、源四郎の勘当を解くので家督を継ぐことが書かれていた。すでにこの時、源四郎と富は夫婦の契りは結んでいないものの相思相愛の仲となっており、富は懐妊していた。源四郎は家督を継ぐために故郷に戻ることを富と与兵衛に伝え、二人もそれに理解を示し、涙を流して一生の別れを惜しんだ。

岩瀬福松出生の事 ならびに 富死去の事

富は源四郎を恋い慕う毎日だった。ついに臨月を迎え、男子を産み落としたが、産後の肥立ちが悪く富は十九歳で死んでしまった。残された与兵衛は赤子を福松と名付け乳母を招いて大切に育てた。福松が十四歳の春、与兵衛は病に倒れ、源四郎が置いて行った言葉の一部始終を福松に聞かせると死んでしまった。福松は孤児になったが憂いもせず、誰を怖がることもなく育ち、ついには達衆の頭となり、岩瀬繁蔵と名乗るに至った。

初編巻之八

岩瀬繁蔵諏訪の社内に石碑を営む事 ならびに 近郷の若者供、社内に於て角力の事

繁蔵は生来角力が好きで、近郷の若者が繁蔵を師と仰ぐほどだった。繁蔵は諏訪明神の境内に野見宿彌(のみのすくね)の霊を崇める石碑を建て、土俵を築いた。天保八年の七月、繁蔵が土俵開きとして角力大会を行うことを触れ知らせると、我も我もと若者が集まり、達衆の親分たちは子分を引き連れてやって来た。繁蔵は親分衆に応対し、飯岡助五郎の名代の洲崎政吉には特に丁寧に挨拶をした。繁蔵は多くの勝負を取り仕切ったが、ある日飯岡方の子分達の過半が負けてしまうことがあった。それを知った助五郎は翌日、元力士の神楽獅子大八をはじめ荒町の勘太、黒浜の松五郎、御下の利七、桐島の清次など角力が強い子分を遣わして、自身は相模屋という料理屋に陣取った。繁蔵は体調が悪く、子分の小南の庄助が名代として現場に居た。
繁蔵の子分の夏目の新助が飯岡の子分を二人投げると、荒町の勘太が出てきて新助を投げた。今度は繁蔵方から名垂の岩松がでてきて勘太を投げた。岩松はそのまま四連勝した。素人角力では五連勝すると大関となる。助五郎は神楽獅子大八を土俵に上げた。大八は強く、岩松は一突きで土俵の外へ突き倒された。この後大八は、名うての者を七人投げ飛ばし、誰でもやってこいと高慢に振舞った。

勢力富五郎、神楽獅子を組留むる事 ならびに 助五郎、繁蔵、対面の事

繁蔵の子分に萬歳村出身の勢力富五郎という角力が強い若者がいた。繁蔵の用事で外に出ていた勢力が戻って来ると、大八が土俵上で傍若無人な態度を見せていた。これを憎たらしいと思った勢力は静かに土俵に上がり、大八に勝負を挑んだ。体格は大八の方が大きいが、角力巧者の勢力は大八を土俵に沈めた。
助五郎が相模屋に戻ると、諸方の親分衆は相模屋に入って助五郎に挨拶をして、大酒宴が始まった。それを聞いた繁蔵は、まだ助五郎に会ったことがなかったので、勢力富五郎ら子分を引き連れて相模屋に入った。繁蔵は助五郎に初めて対面すると丁寧に挨拶を述べた。助五郎は勢力の角力の強さを口では褒めたが、内心は快く思っていなかったのでその言葉には棘があった。勢力もその言葉の針に内心怒ったが、表面上は穏便に助五郎に挨拶した。

初編巻之九

風窓半次、助五郎を説く事 ならびに 助五郎、繁蔵へ和談を言入るゝ事

風窓半次は親分の長指の権次が死んだので角力は見に行かなかった。墓参りの帰り、助五郎の家を訪ねると助五郎は角力の負けを口惜しがっていた。半次は助五郎に勝負は時の運なので気にすることはないと告げると、助五郎は納得して心が晴れ、繁蔵と富五郎に相模屋での言葉を詫びようと思った。
飯岡近くの酒楼で、笹川一家の三人が角力の高慢話を大声で始めたことがきっかけで、助五郎一家の四五人と喧嘩になった。人数の少ない笹川一家の三人は縛り上げられたが、そこに御下の利七がやってきた。助五郎親分が繁蔵と和解しようとしていることを承知している利七は繁蔵の子分の縄を解き介抱して喧嘩の後始末をした。助五郎はこの一件を驚いて、丸く収めるようにと利七に言い含めて笹川に遣わした。喧嘩の話は笹川にも届いていて繁蔵は助五郎が喧嘩をふっかけたものと怒り、利七が訪ねてきても居留守を使った。利七は繁蔵の子分の勇吉に、角力の遺恨で喧嘩を起こしたのではない旨伝言を頼んだ。繁蔵はこの伝言を聞いて、助五郎の狸の化かし口上と嘲笑った。

羽計の勇吉、利七を嘲弄の事 ならびに 清瀧の佐吉が事


初編巻之十
助五郎、佐吉へ利解の事 ならびに 佐吉、再度助五郎方へ赴く事
佐吉、江戸にてお常に逢う事 ならびに 繁蔵、常を貰ひ受くる事

初編巻之十一
荒生留吉怪異を見て財を得る事 ならびに 留吉、三河屋の手代を救ふ事
佐吉、留吉より金子借用の事 ならびに お常遊女に身を沈むる事

初編巻の十二
勢力富五郎、鹿島へ赴く事 ならびに 平手造酒、高島剛太夫、果合の事
勢力富五郎、平手造酒を助くる事 ならびに 勢力、造酒へ異見の事

初編巻之十三
信州諏訪関口屋丈右衛門が事 ならびに 丈右衛門妾の色に溺るゝ事
丈右衛門八代にて悪者に出逢ふ事 ならびに 菊次奸計、丈右衛門方へ入込む事

初編巻之十四
関口丈右衛門、月の宴を催す事 ならびに おこよ、菊次、密会の事
番頭忠助、丈右衛門へ諫言の事 ならびに 丈右衛門怒って忠助を暇の事

初編巻之十五
忠助遠謀の事 ならびに おこよ、菊次、奸計を企つる事
岩瀬、勢力、羽州山県へ赴く事 ならびに 忠助、主人の跡を追ふ事

二編巻之一
番頭忠助、丈右衛門へ再び忠義を述ぶる事 ならびに 関口屋家内盗賊の事 附 忠助、主人の末期に対面の事

二編巻之二
丈右衛門末期に身の懺悔の事 ならびに 忠助、おこよ、双方訴えの事
雨傘勘次、岩瀬繁蔵が子分となる事 ならびに 関口屋一件、江戸表差立となる事

二編巻之三
諏訪家より関口屋一条、江戸表へ差出の事 ならびに 矢部駿河守殿、双方御呼出の事
矢部殿再度双方御聞糺の事 ならびに こよ、菊次、奸計の事

二編巻之四
矢部殿、証書証人を以て御吟味の事 ならびに こよ、菊次、強弁の事

二編巻之五
矢部殿御糺明、悪人共罪に服する事 ならびに 御処刑、忠助菩提の道に入る事
洲崎政右衛門、雨傘勘次を見出す事 ならびに 助五郎、雨傘勘次を捕ふる事

二編巻之六
坂田屋留次郎、潮来の河内屋へ通ふ事 ならびに 繁蔵女房美代が事
地潜又蔵、留次郎を手込の事 ならびに 清瀧佐吉、留次郎を救ふ事

二編巻之七
岩瀬繁蔵、助五郎が土場を荒す事 ならびに 助五郎、繁蔵へ書面を贈る事
政吉、再び十日市場へ土場を開く事 ならびに 新助、忠蔵、政吉が土場へ来る事

二編巻之八
勢力富五郎、思慮遠謀の事 ならびに 繁蔵等七人、三河屋へ無心の事
岩瀬繁蔵等七人の者、助五郎が妾宅へ切入る事 ならびに 助五郎、政吉宅へ走る事

助五郎は、賭場は洲崎政吉に任せ、網元の仕事は息子に任せ、自分は別宅にて妾および下男下女ひとりずつと豊かに暮らしていた。そこに繁蔵ら七人が斬りこんできた。助五郎はわずかに怪我を負ったが庭に逃れそのまま政吉の家へ逃げ込んだ。
実は政吉は繁蔵が踏み込んでくるのを予想していて、その四日前から、荒町勘太、桐島清次、神楽獅子大八、矢切の庄太、提緒の伊之助、地潜又蔵、御下の利七らと政吉宅に陣取っていたのだった。三日たっても繁蔵がこないので解散したが、その翌日に繁蔵が斬りこみがあって、助五郎が政吉宅へ逃げ込んできたのである。政吉は医者に助五郎の傷を手当させると、繁蔵の帰りを討とうと手配をかけた。繁蔵ら七人は、助五郎は本宅か政吉の家に行ったに違いないと、助五郎の本宅に押しかけ、家財を破壊するなどさんざんに荒らしまわった。本宅に助五郎はおらず、政吉の家にいると思われたが、政吉の家には大勢の子分がいるに違いないのでいったんは笹川に引き上げることにした。
近在の村に法螺貝の音がして、大勢の飯岡一家の者が出動し、繁蔵らは囲まれてしまった。絶体絶命だったが、繁蔵一家から加勢が来て、繁蔵らは何とかその場を切り開いて笹川に戻った。

二編巻之九

政吉即智、繁蔵を襲ふ事 ならびに 荒生留吉、笹川へ内通の事

繁蔵らがあっという間に数百の者に囲まれたのは、飯岡一家の者が手分けして村人に、盗賊が出たから集まって生捕れ、と触れ回ったからであり、これは政吉の策略だった。繁蔵は死力を尽くして何とか逃げ帰った。助五郎は政吉の活躍を喜び、この遺恨を返報しようと翌日笹川へ乗り込むことを決めた。これを聞いて助五郎の子分らが我も我もと七十人集まった。陸地からでは目立つので川から笹川を不意打ちすることに決め、日が暮れるのを待った。
天保十二年八月二十三日、初夜の鐘を合図に出船した。一番船は、荒町の勘太を頭に二十五人、二番船は洲崎政吉を頭として二十五人、三番船には助五郎が乗り込んだ。
一方笹川では、繁蔵は助五郎がすぐに仕返しに来ないだろうとたかを括っていたが、勢力は知略に長けた政吉がこちらの油断をついてくるかもしれないと繁蔵を説得して、七人は日が暮れる前に繁蔵の家に集まっていた。
夜の十時頃、一人の飛脚が息せき切って走って来て繁蔵宅にいる清瀧の佐吉に手紙を届けた。これは荒生留吉から佐吉宛の手紙であった。助五郎が昨夜の仕返しに七十余人で川から乗り組んでくるということが書いてある。留吉は息子の留次郎が大恩を受けたお礼に、飯岡の動静を佐吉に内通したのだった。これを知った繁蔵と勢力は子分を寄せ集めた。清瀧の佐吉、夏目新助、羽計の勇吉、平手造酒ら十四五人が集まった。道の狭い藪道の両側の笹薮に子分八人が潜んで槍で突き、残りの者は鉄砲を持って身を隠すという作戦を立てた。

助五郎、笹川へ船にて押寄する事 ならびに 笹川大喧嘩の事

出入りが内通されているとは夢にも思わない飯岡方は、繁蔵と平手造酒を真っ先に討ち取ってしまおうと計画をたてていた。午前一時頃、飯岡方の船が笹川に近づくと、見張っていた笹川一家の子分が繁蔵に報告した。
一番船の荒町勘太、桐島清次、堤緒の伊之助、大矢木熊五郎らは船を降りて明神の森まで押し寄せた。二番船も着岸したが、政吉は備えを固くして慎重に進むよう子分に指示した。荒町勘太の一隊と明神の森で待ち受けていた笹川一家との決闘が始まった。飯岡方はすぐに七八人が打倒され、他の子分は逃げだしたが、勘太や青次や伊之助はここを死に場所と奮闘した。

二編巻之十

荒町、大矢木、桐島等最後の事 ならびに 洲崎政吉憤死の事

槍を構えた繁蔵子分が潜んでいる明神の森の笹薮に、政吉の一隊が来た。政吉は胴と腹を左右から一度に突かれた。政吉隊の者は笹薮にいる繁蔵一味に斬りこみ乱闘となった。笹薮の上手より夏目新助ら、下手より平手造酒、羽計勇吉らが加勢してきて、政吉隊を斬りまくった。そこに三番船に乗っていた神楽獅子大八、矢切の庄助、御下の利七ら助五郎の一味二十八人が押し寄せてきた。まず造酒を討取ろうと躍起になっている一団に、「汝等が目指す平手造酒は我なり、見事討ち取って手柄にせよ」と造酒は向かっていった。これに夏目新助、羽計勇吉らが続き、壮絶な修羅の争いが展開された。一方繁蔵、勢力、佐吉らは荒町勘太の一隊と闘っていた。桐島清次は勢力と佐吉に討ち取られた。大八木熊五郎は猿田平次と貝塚半七に討ち取られた。繁蔵と荒町勘太は一騎討ちの末、繁蔵が勘太を討ち取った。すでに瀕死の政吉は笹薮に加勢に行く平次を見つけると最後の力で討ち取った。しかし佐吉ら四人が駆け付けてついに飯岡屈指の荒者と言われた政吉は斬り殺された。

神楽獅子大八勇猛、飯田兄弟を討取る事 ならびに 平手造酒武勇、討死の事

平手造酒一人に対して飯岡一家の十一人がぐるりと取り巻いた。一方神楽獅子の一団は夏目新助の一団と一進一退の攻防をしていた。力の強い神楽獅子大八は九尺ある棒を振り回して繁蔵の子分を叩き伏せながら進む。繁蔵子分の飯田兄弟が大八の左右から斬りかかったが、大八はものともせず二人を叩き殺した。
平手は十一人を相手に秘術を尽くして切り結ぶが、命運尽きたか平手の刀がぽっきり折れてしまった。平手はずたずたに斬りつけられ三十一歳の生涯を閉じた。

二編巻之十一

繁蔵大勇、神楽獅子を討取る事 ならびに 御下、黒濱、提緒等、助五郎を落す事

人数の多い神楽獅子の一団に夏目新助の一団は押されていた。そこに、繁蔵、勢力、佐吉らの加勢があって、すさまじい決闘は続いた。繁蔵の勢いはものすごく飯岡方が崩れ出した。
船場に控えて様子を見ていた助五郎のもとに血だらけになった堤緒の伊之助が馳せ参じた。伊之助は助五郎に、繁蔵方の策略にはまり多く者が命を落とした、このままでは一人も助からないので助五郎親分は船で引き上げてほしいと注進した。深手を負って船に引き上げてきた子分を他の子分に介抱させ、助五郎は陸に降り立った。繁蔵が遠くから、尋常に勝負せよと助五郎めがけて馳せて来た。繁蔵と助五郎は切り結んだが繁蔵の勢いが勝っていた。そこに神楽獅子大八が助けに入った。繁蔵と大八の闘いとなった。繁蔵は大八が持っている棒を斬り落とし、ついには大八も斬り捨てた。これを見て多くの助五郎の子分たちは崩れ、船場の方へ逃げ出した。御下の利七、黒濱の松五郎、堤緒の伊之助は、手玉の長太に助五郎を船まで送らせ、笹川勢の進軍を食い止めようと死ぬ覚悟で闘った。

黒濱、御下、提緒等勇猛、切死の事 ならびに 助五郎、風窓方へ退去の事

黒濱、御下、提緒は火花を散らして勇敢に闘った。助五郎を船に連れて行った手玉の長太は命を賭して助五郎を守ろうと笹川の軍勢に入っていった。以前長太は荒生の留吉の子分だったが、留吉に臆病者と罵られて放り出されたところを助五郎が引き取ってくれたという恩があるのだ。だが、長太は夏目新助と渡り合った末に斬り殺された。
勢力は黒濱と、佐吉は伊之助と切り結んでいた。利七は助五郎が気になって船場まで引き返した。助五郎が船で退却したのを確認すると安心して、追ってきた繁蔵方の数人に対して飛鳥のごとく闘った。やはり仲間が退却できたか気になって引き返してきた伊之助も利七の喧嘩場に加わった。利七と伊之助は大勢を相手に互角に渡り合っていたがついには討ち取られた。黒濱は勢力に傷を負わせたものの斬り倒された。
助五郎らは船を小船木につけ、風窓半次の家に行った。助五郎は、股肱の子分を何人も殺されおめおめと退却したことが口惜しくてならなかった。
繁蔵は、助五郎は必ず風窓半次のもとに退却するに違いないと見込み、いったん自宅に戻って食事をとって身支度を整え、小船木へ向かった。

二編巻之十二
風窓半次、助五郎が子分を労る事 ならびに 繁蔵等風窓が宅へ切込む事
八州廻の役人、繁蔵等を召捕に向ふ事 ならびに 繁蔵勢力等、所々へ逃隠るゝ事 附 沼田の権次召捕らるゝ事

二編巻之十三
銚子陣屋の役人方、助五郎を召捕らるゝ事 ならびに 新町の常蔵、波紋兄弟を服せしむる事
繁蔵、錣山に狩する事 ならびに 繁蔵、兎を追うて異人に逢ふ事

二編巻之十四
繁蔵計らず父に逢うて安危を語る事 ならびに 直澄、我旧事を物語る事
繁蔵、父の物語を聞きて難問の事 ならびに 直澄、我子繁蔵に凶を示す事

二編巻之十五
繁蔵、播州に赴き、弟源助に対面の事 ならびに 繁蔵再び笹川へ帰る事
勢力、破門兄弟を勝巻へ落す事 ならびに 繁蔵驕慢、飯岡の子分、繁蔵を附覘ふ事。

三編巻之一
勢力、佐吉、子分を連れて笹川へ帰る事 ならびに 勢力、繁蔵を諫むる事
繁蔵驕慢、助五郎を罵る事 ならびに 助五郎、子分を集めて密議を凝す事 附 繁蔵、亡父追善の事

三編巻之二

助五郎、再度子分を集めて謀議を凝す事 ならびに 桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵の事

繁蔵がますます傲慢になって傍若無人に振舞うようになり、助五郎は怒りをこらえることができなくなっていた。笹川の喧嘩の遺恨をはらすのはこの時だと子分を残らず集めた。
その中には、死んだ洲崎の政吉と同郷で政吉とも親しかった闇の弁蔵がいた。また、笹川の喧嘩で討たれた桐島清次の弟の桐島松五郎も加わった。同じく笹川で命を落とした堤緒の伊之助の従弟の垣根の虎蔵という力の強い若者も仲間になった。
助五郎たちは繁蔵討ち取りの計略を立てた。各々目立たないように変装して笹川に潜入して繁蔵の外出をうかがい、外出の折には帰り道を待ち伏せして斬りかかるという計画であった。

繁蔵敵を軽んじて助五郎が弶(わな)に懸る事 ならびに 勢力、夢を告げて繁蔵を諫むる事

ある日勢力は、繁蔵が血まみれになった夢を見て、何かの悪い予兆ではないかと思った。繁蔵は、助五郎一味はこちらの威勢におされて逃げ隠れてしまったと図に乗っていた。勢力は、これは計略かもしれないから油断しないように、夜間の外出は控えるようにと繁蔵を諫めるが、繁蔵は笑って相手にしなかった。相手をあなどり軽んじる繁蔵親分に勢力はあきれ果てた。繁蔵に同調する子分の中には勢力こそ臆病者だと嘲る者がいた。数日過ぎて、繁蔵は自宅で女房の美代と酒を酌み交わしていた。

三編巻之三

飯岡の子分等、繁蔵の帰途を待ちて恨みを報ゆる事 ならびに 繁蔵、後原にて最期の事

繁蔵が家で妻の美代と飲んでいるところに、大山から帰ってきた川口の若者達が挨拶に来た。繁蔵は、この若者達を川口まで送り届けた。このことを察知した助五郎の子分たちは、川口と笹川の近道の後原というところの田圃のそばの森に隠れ、繁蔵が川口から帰ってくるところを待ち伏せた。
天保十五年七月二十一日の深夜、繁蔵は後原の田圃にて、太田の新八、矢切の庄太、親田の房八、小澤の友次、桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵、舎利の源次、地潜の又蔵らの手にかかって命を落とした。助五郎の子分らは繁蔵の首を取り、胴体は川に打ち捨てた。

清瀧村善兵衛由緒の事 ならびに 売僧是明院愚民を惑す事

三編巻之四
村長源左衛門、是明院を招く事 ならびに 善兵衛、是明院が邪法を挫く事
松波善兵衛、貝塚にて危難の事 ならびに 善兵衛が難を救ふ事

三編巻の五
勢力、松波が娘を恋慕の事 ならびに 勢力、娘みちと通ずる事
勢力、繁蔵が凶変に驚く事 ならびに 勢力、繁蔵が死骸を引取る事

三編巻之六
勢力、妻子を捨てゝ仇を報いんと計る事 ならびに 繁蔵後家みよ、父の許へ帰る事
勢力深慮、智計を述ぶる事 ならびに 佐吉、勢力と不和の濫觴の事

三編巻之七
助五郎、佐吉方へ間者を入るゝ事 ならびに 丑蔵、傳次、清瀧が子分と成る事
姉崎傳次郎放蕩の事 ならびに 飛鳥山にて美女を挑む事

三編巻之八
姉崎傅次郎久離勘当の事 ならびに 丑蔵、傳次、彌助、大塚にて悪事の事
助五郎、勢力が手段を察し奇謀を囁く事 ならびに 鰐の甚助、風間に剣道を学ぶ事

三編巻之九
鰐の甚助、鯨山龍右衛門を投ぐる事 ならびに 甚助酔狂乱暴の事
佐吉、子分を率ゐて飯岡近郷を騒す事 ならびに 土浦の皆次、助五郎と閑談の事

三編巻之十
勢力、筑波山中に於て野猪に逢ひ、危難の事 ならびに 水島破門兄弟不覚の事
勢力、笠を深くして故郷へ帰る事 ならびに 矢切庄助、闇の弁蔵、偽りて勢力が子分と成る事

三編巻之十一
勢力、子分に密意を示して、心を固むる事 ならびに 猿の傳次、親分佐吉へ異見の事
勢力、同輩を集め計議の事 ならびに 伊之助、才助、破門と口論の事

三編巻之十二
勢力述懐、清瀧が心底を憤る事 ならびに 勢力一手を以て飯岡へ切入る事
助五郎、玉崎の社地に子分を伏置く事 ならびに 勢力、助五郎が奇計に陥る事

三編巻之十三
助五郎、偽謀を構へて勢力を砕(くだ)く事 ならびに 勢力、憤闘、飯岡の囲を破る事
勢力、矢太郎が心底を訝る事 ならびに 勢力再び飯岡へ切入る事

三編巻之十四
鰐の甚助驍勇、勢力を悩す事 ならびに 飯岡の子分等苦闘の事 附 水島破門、太田新八を討つ事
桐島松五郎深慮、助五郎を救ふ事 ならびに 桐島、仲間を催促して勢力を追ふ事

三編巻之十五
猿の傳次、佐吉を勧めて助五郎を討たんと計る事 ならびに 傳次、伊之助、争論の事
助五郎、願文を以て勢力が乱妨を訴ふる事 ならびに 清瀧佐吉、飯岡へ切入る事

四編巻之一
勢力、佐吉へ加勢の事 附 皆次、半次、権次、助五郎へ加勢の事 ならびに 佛市五郎、羅漢の竹蔵が事

四編巻之二
一紙の書面にて諸方の達衆、飯岡へ集る事 ならびに 猿の傳次、助五郎に迫る事
鰐の甚助、桐島の松五郎、助五郎を救ふ事 ならびに 那古の伊助、同和助、加勢の事

四編巻之三
猿の傳次、剣道名誉働(はたらき)の事 ならびに 傳次、鰐の甚助を悩す事
土浦の皆次、勢力を喰留むる事 ならびに 波切、滑方、武術の事

四編巻之四
佐吉が妬心、勢力が義心を破る事 ならびに 伊之助、傳次と口論の事
傳次、伊之助、不快の事 ならびに 六蔵、生首の異名を物語る事

四編巻之五
助五郎、皆次、諸方の親分達を饗応の事 ならびに 波切重三、滑方紋彌由緒の事
傳次、丑蔵、成田の土場へ赴く事 ならびに 傳次、丑蔵、悪計を企つる事

四編巻之六
勢力、常蔵が死を聞きて再度奥州へ赴く事 ならびに 皆次、太田原に子分を伏する事
旅僧、勢力に未然を示す事 ならびに 桐島親田等、勢力に迫る事 附 闇夜の炮弾、勢力を救ふ事

四編巻之七
破門、闇路に曲者と柔術を争ふ事 ならびに 破門、傳次、霧太郎、出会の事
龍蔵、おなよ、謀って夫を害せんとする事 ならびに 勢力谷を廻って、宿六を助くる事

四編巻の八
庄屋非義兵衛、勢力を誑計(たばか)る事 ならびに 安式内匠(あしきたくみ)の非道、勢力を陥(おとしい)るゝ事
勢力怒って内匠を罵る事 ならびに 内匠謀って破門を生捕る事

四編巻の九
安式内匠、氷上慾蔵を語(かたら)ふ事 ならびに 内匠の妻おひね、夫へ勢力毒害を勧むる事
霧太郎、再び勢力破門を救ふ事 ならびに 霧太郎、我身の素姓を物語る事

四編巻之十
霧太郎懐旧物語の事 ならびに 霧太郎、宿六を野州へ送届くる事
勢力富五郎、水島破門、内談の事 ならびに 富五郎、破門、夜中内匠が家に入込む事

四編巻之十一
勢力富五郎、水島破門、安式一家を鏖殺(みなごろし)の事 ならびに 氷上慾蔵、勢力に討たるゝ事

四編巻之十二
富五郎、助五郎を伺ふ事 ならびに 勢力、十太に逢ふ事

四編巻之十三
富五郎、甲州へ赴く事 ならびに 勢力、松浦齋宮を助くる事

四編巻之十四
國定忠次、お花の危難を助くる事 ならびに 勢力、中津淺原の二人を挫(とりひし)ぐ事

四編巻之十五
清瀧佐吉召捕らるゝ事 ならびに 勢力富五郎江戸へ出づる事
木隠霧太郎辞世を残す事 ならびに 勢力、破門、下総へ赴く事
勢力富五郎、奮闘最期の事 ならびに 干潟領の者共所刑の事


プロフィール

notarico

Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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