WIKIレンタル 大衆演劇探訪記 2020年08月
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岩手県にある全国屈指のゴーヂャス大衆演劇場 「森の風鶯宿」

岩手県にある全国屈指のゴーヂャス大衆演劇場 「森の風鶯宿」

今回は大衆演劇場密度がたいへん薄い東北地方の探訪レポートです。

東北地方の大衆演劇場砂漠化が着実に進んでおります。
郡山にあった常打ちセンターの東洋健康センターが2017年に閉館。同じく福島県の常打ちセンターカッパ王國も2020年8月末で閉館。福島の大衆演劇場は都市近郊にはなくなり、到達するのにになかなか骨が折れる温泉地での不定期公演のみとなります。福島の北、大都市仙台がある宮城県が常打ちも単発も劇場ゼロ。演劇グラフ2005年1月号の特集「おっかけガイド」では釜房温泉さくら劇場が宮城県唯一の大衆演劇場として紹介されていましたが2007年には廃業した模様。山形県も大衆演劇場はほぼないに等しい。あの仙台ですらペンペン草一本も生えない宮城・山形の大衆演劇場大砂漠が福島にまで南下しているのです。

その北の岩手県が最近注目のエリア。一関には東北で貴重な常打ち大衆演劇場「山桜桃の湯」があります。桃の湯を縁として、一関の近く(所在は宮城県)にとんかつ屋さんが店内に「金太郎劇場」を設けたのはすでにブログでお伝えしたとおり。2020年1月には北上市に待望の常打ちセンター「ま~す北上」が生まれました。
今回レポートしますのは、雫石町にある高級リゾートホテル「森の風 鶯宿(おうしゅく)」です。ここでは2018年から大衆演劇の単発公演が行われています。

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東京から新幹線で盛岡へ。
この写真は東口から見た盛岡駅。
森の風鶯宿の送迎バスはこちらとは逆の西口から出ます。

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盛岡駅西口バスターミナル
森の風鶯宿の青い送迎バスが見えます

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送迎バスに乗って移動。
鶯宿温泉街は雫石中心地の南にあります。
「ようこそ 鶯宿温泉」の看板が見えてきました。

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盛岡駅から約40分で到着しました。
森の風鶯宿は「森の館」「風の館」「うぐいすの館」から構成されます。この写真はメインゲートのある森の館です。でかい!

まだチェックインには早い時間。
大衆演劇が始まる時間までも2時間以上あります。
界隈を散歩しました。

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森の風鶯宿は小高い丘の上にあります。
それがわかる場所まで降りて写真をとりました。
大自然の中に森の風の大きな建物が建っているのがわかると思います。
メイン建物の森の館はこの上の写真の反対の側面が見えています。

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ホテル敷地内にて。
広大な土地を活用したスケールの大きいホテルであることがわかるでしょう。

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敷地にはフラワー&ガーデン森の風という瀟洒な庭が広がっています。

ホテルのパンフレットには「世界的なランドスケープアーティストである石原和幸氏による日本最大級の本格的ガーデニング公園です」と書かれています。

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花畑

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これはメイン建物の森の館の窓から見下ろしたガーデンの景色

ではホテルの中も探検してみましょう

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フロントがあるメインエントランス。
ゴーヂャス

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ロビー
ここもゴーヂャス

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和モダンな空間もゴーヂャス

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大衆演劇昼の部は13時から。
そろそろ開場時間ですので、気になる大衆演劇場に行ってみましょう
森の館3階にある大宴会場「岩鷲」の入口。

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岩鷲のロビー
広い。このロビーの空間だけで芝居小屋できるんじゃないか。

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開場時間までこのゴーヂャスソファで待つことができますね

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ここで靴を脱いで岩鷲に向かいます。
奥の襖の松が殿中な雰囲気を出しています。

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場内
カーペット&椅子で洋館仕様になっていました。
ここも広いです!

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客席の椅子

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前方は指定席。
約50ある指定席は完売しておりました。

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前方
花道が設けられております。

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場内右手に投光3器設置

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場内にジュース・お菓子売り場が設置されていました。
おお、ここは庶民的!
高級ホテルであっても、大衆演劇場内のこういうコーナーは大事。おさえるところおさえてますねー。

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今月の森の風の単発公演を請け負っているのは劇団錦。
錦一座薄皮栗まんじゅうが売っていました。

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鶯宿温泉街は盛岡駅から離れていますし、交通の便がよいところにあるわけではありません。むしろリゾートの観光客がくつろぎを求めてやってくるような大自然の中にあります。
大衆演劇の公演をやっても地元の方がそんなに集まらないのでは?・・・という私の直感は見事に外れ、開演時間が近づきますとどんどんお客さんがやってきて、あの広い会場の客席がほぼ埋まりました。

岩手いや東北の旅芝居ポテンシャルの高さが見えた気がしました。

13時開演
第一部:お芝居
第二部:舞踊ショー

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錦はやと座長
私は後ろの方の席で舞台から遠く、持っていたカメラもコンパクトデジカメでしたが、比較的キレイに役者さんを写すことができました。
この会場の照明がしっかりしていることの証左です。

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カムイ☆龍虎若座長
今は単にカムイという名になったのでしょうか。☆がとれただけ?
この時にはまだカムイ☆龍虎名義でした。

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公演中の様子

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昼の部の公演が終わってチェックイン

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大浴場入口
大自然を眺めることができる露天風呂があります

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ここはお祭り広場
毎日イベントが開催されているよう

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今回私は
【劇団錦一座 観劇付き】森の風特別公演2019!温泉&観劇満喫♪ご夕食は季節の創作和食
というプランにて宿泊いたしました。

温泉も観劇も楽しんで、残る楽しみは季節の創作和食!
夕食開場へ向かいました。

前菜-椀物-造り-中皿-揚物-焼物-食事-留椀-水菓子-甘味・コーヒー
以上のコースを
エレガントな女性スタッフが気品ある佇まいで一皿ずつ提供してくれました。

その一部を写真でご紹介しましょう。

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前菜:胡麻豆腐/丸十の檸檬煮/網茸みぞれ和え/合鴨のスモーク/秋刀魚柚子庵焼き

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中皿:太刀魚グリル 葱ベシャメルソース 香草バター風味 パン添え

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焼物:岩手県産黒毛和牛の焼きしゃぶ 野菜添え 特性タレ

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水菓子:モンブラン特製ブラマンジェ

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夜はあの広大なガーデンにイルミネーションが灯ります。
私はイルミネーションが好きなのでここで過ごす時間がとてもよかった。

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劇団錦夜の部はお祭り広場での舞踊ショー(約30分)
カムイ☆龍虎若座長を中心に若手が踊りました

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あるお客さんが、踊っている役者の足元に割りばしおひねりを置きました。
このような旅役者を愛でる文化、気に入った旅芸人にご祝儀する文化を日本全国津々浦々絶やさないためにも、地方での単発公演には意義があると思います。

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劇団錦の舞踊ショーの後に太鼓ショーと民謡歌手による唄のショーがあります。
太鼓を叩いているのは、、おお、あの食事会場のエレガントお姉さん!
太鼓衣裳を着て踊るように元気よく太鼓を叩いています。この時の私のグッとくる感は大衆演劇をよく見る方ならご推察いただけるでしょう。芝居で三枚目だった役者が舞踊ショーでクール美形になるあのギャップが与える感興のような。

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太鼓ショーの後は餅つき大会。
子供たちや外国人観光客は喜んで参加しています。
ついたお餅はきな粉をまぶしてお客さんに振舞われました。

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お祭り広場、最後は踊り大会。民謡歌手の炭坑節に合わせてスタッフとお客さんが一緒になって輪になって踊ります。エレガントお姉さんも踊っていました。

イベントが終わったら再度温泉へ。
湯上り処に無料のアイスキャンデーが用意されています。

満喫度の高い一日でした。

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森の風鶯宿はじゃらんで泊まってよかった宿大賞(岩手県1位)に輝いたのですね。
大いに納得します。

岩手県の単発大衆演劇会場は、全国屈指のゴーヂャス公演地でした。
そして多くのお客さんで賑わっていました。
是非絶えることなく続いていってほしいです。

(2019年9月探訪)

戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門 別ページ
戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝

天保水滸伝は江戸時代に講釈師宝井琴凌によって生み出されました。
それから、バリエーションが生まれたり淘汰されたりを繰り返して現代に至っています。
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成するまでの物語の変遷の流れを感じ取ることができます。現代の天保水滸伝の基礎がかたまったのは大正期ではないかと思います。

以下、私が所有している、あるいは確認できている講談の(および小説の)天保水滸伝を紹介いたします。

※天保水滸伝全体について知りたい方は、別ページ 「大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門」 を御覧ください。

※現代の講談天保水滸伝に重なる内容が多く含まれております。予備知識なして講談を楽しみたいという方は読むのをご遠慮ください。


【もくじ】

※■は項目をクリックするとその項へ移動します
■小説「天保水滸伝」嘉永3年?
■松廼家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年
□秦々斎桃葉の講談「天保水滸伝」 大正6年
■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代
■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年
□講談本「天保水滸伝 明神森の大喧嘩」 大正14年
□講談本「侠客 天保水滸伝」 大正14年
□神田ろ山の講談「笹川繁蔵」 20席 昭和4年
■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年
□「天保水滸伝 勢力富五郎」 昭和25年
□講談本「笹川繁蔵」 昭和29年


■小説「天保水滸伝」 嘉永3年?


大正2年に刊行された「侠客全伝」という本に実録体小説「天保水滸伝」が収められています。この小説の序文には嘉永三年と記されており、おそらくこれが現在残っている最古の天保水滸伝の物語ではないかと思います。
ただし勢力富五郎が死んだ年(嘉永2年)の翌年にしては内容がボリューミーで、助五郎の死(史実では安政6年逝去)のことも記載されいていることから、大正2年に刊行されたものは加筆が進んだバージョンと推測されます。この小説がどのように書かれ加筆されていったのかは謎です。
講談の天保水滸伝の祖の宝井琴凌の息子四代目馬琴によると、琴凌は慶應3年に五代目伊藤凌潮の協力によって講談を完成し「天保水滸伝」と名付けた、とされています。しかし嘉永3年に天保水滸伝という小説が存在していたとなると、琴凌は講談のタイトルをこの小説からそのまま持ってきたということになります。
この小説「天保水滸伝」と宝井琴凌との関係はわかっておりませんが、深いかかわりがあることは確かでしょう。
天保水滸伝の最源流といえるこの小説の各話のタイトルを以下に記します。また各話のあらすじも別ページに少しづつアップしてゆきたいと思います。
タイトルを見てわかるように、全四巻のうち三巻のはじめの方で死んでいます。それ以降は勢力富五郎が主な登場人物です。初期の天保水滸伝の主役は勢力富五郎だったことがよくわかります。

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「天保水滸伝」序文

「天保水滸伝」各話タイトル
各話のあらずじは↓このページに記載
天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」
※現在初編巻之九まで

初編巻之一 
下総国銚子観世音利益の事 ならびに 銚子五郎蔵、飯岡助五郎が事 附 助五郎、生田角太夫を取挫く事
初編巻之二 
荒生留吉、小船木半次が事 ならびに 半次留吉、小美川にて口論の事
助五郎、留吉が宅に赴く事 ならびに 半次、留吉、松岸にて戦う事
初編巻之三
半次、留吉、和談の事 ならびに 助五郎、留吉、不快の事
洲崎正吉生立の事 ならびに 政吉が父政右衛門、身延参詣の事
初編巻之四
助五郎、甲州にて政右衛門の危難を救う事 ならびに 政吉、助五郎が子分と為る事
荒町勘太、御下利七が事 ならびに 勘太酔狂の事
初編巻之五
鏑箭馬仁蔵、岩瀬福松が事 ならびに 福松大勇不適の事
鏑箭馬繁蔵、福松へ対面の事 ならびに 福松、鏑箭馬が養子と為る事
初編巻之六
岩瀬源四郎直澄由緒の事 ならびに 源四郎遊里通の事
源四郎勘当の身と成る事 ならびに 源四郎、下総笹川に住居の事
初編巻之七
岩瀬源四郎故主へ帰参の事 ならびに お富、源四郎に名残を惜しむ事
岩瀬福松出生の事 ならびに 富死去の事
初編巻之八
岩瀬繁蔵諏訪の社内に石碑を営む事 ならびに 近郷の若者供、社内に於て角力の事
勢力富五郎、神楽獅子を組留むる事 ならびに 助五郎、繁蔵、対面の事
初編巻之九
風窓半次、助五郎を説く事 ならびに 助五郎、繁蔵へ和談を言入るゝ事
羽計の勇吉、利七を嘲弄の事 ならびに 清瀧の佐吉が事
初編巻之十
助五郎、佐吉へ利解の事 ならびに 佐吉、再度助五郎方へ赴く事
佐吉、江戸にてお常に逢う事 ならびに 繁蔵、常を貰ひ受くる事
初編巻之十一
荒生留吉怪異を見て財を得る事 ならびに 留吉、三河屋の手代を救ふ事
佐吉、留吉より金子借用の事 ならびに お常遊女に身を沈むる事
初編巻の十二
勢力富五郎、鹿島へ赴く事 ならびに 平手造酒、高島剛太夫、果合の事
勢力富五郎、平手造酒を助くる事 ならびに 勢力、造酒へ異見の事
初編巻之十三
信州諏訪関口屋丈右衛門が事 ならびに 丈右衛門妾の色に溺るゝ事
丈右衛門八代にて悪者に出逢ふ事 ならびに 菊次奸計、丈右衛門方へ入込む事
初編巻之十四
関口丈右衛門、月の宴を催す事 ならびに おこよ、菊次、密会の事
番頭忠助、丈右衛門へ諫言の事 ならびに 丈右衛門怒って忠助を暇の事
初編巻之十五
忠助遠謀の事 ならびに おこよ、菊次、奸計を企つる事
岩瀬、勢力、羽州山県へ赴く事 ならびに 忠助、主人の跡を追ふ事
二編巻之一
番頭忠助、丈右衛門へ再び忠義を述ぶる事 ならびに 関口屋家内盗賊の事 附 忠助、主人の末期に対面の事
二編巻之二
丈右衛門末期に身の懺悔の事 ならびに 忠助、おこよ、双方訴えの事
雨傘勘次、岩瀬繁蔵が子分となる事 ならびに 関口屋一件、江戸表差立となる事
二編巻之三
諏訪家より関口屋一条、江戸表へ差出の事 ならびに 矢部駿河守殿、双方御呼出の事
矢部殿再度双方御聞糺の事 ならびに こよ、菊次、奸計の事
二編巻之四
矢部殿、証書証人を以て御吟味の事 ならびに こよ、菊次、強弁の事
二編巻之五
矢部殿御糺明、悪人共罪に服する事 ならびに 御処刑、忠助菩提の道に入る事
洲崎政右衛門、雨傘勘次を見出す事 ならびに 助五郎、雨傘勘次を捕ふる事
二編巻之六
坂田屋留次郎、潮来の河内屋へ通ふ事 ならびに 繁蔵女房美代が事
地潜又蔵、留次郎を手込の事 ならびに 清瀧佐吉、留次郎を救ふ事
二編巻之七
岩瀬繁蔵、助五郎が土場を荒す事 ならびに 助五郎、繁蔵へ書面を贈る事
政吉、再び十日市場へ土場を開く事 ならびに 新助、忠蔵、政吉が土場へ来る事
二編巻之八
勢力富五郎、思慮遠謀の事 ならびに 繁蔵等七人、三河屋へ無心の事
岩瀬繁蔵等七人の者、助五郎が妾宅へ切入る事 ならびに 助五郎、政吉宅へ走る事
二編巻之九
政吉即智、繁蔵を襲ふ事 ならびに 荒生留吉、笹川へ内通の事
助五郎、笹川へ船にて押寄する事 ならびに 笹川大喧嘩の事
二編巻之十
荒町、大矢木、桐島等最後の事 ならびに 洲崎政吉憤死の事
神楽獅子大八勇猛、飯田兄弟を討取る事 ならびに 平手造酒武勇、討死の事
二編巻之十一
繁蔵大勇、神楽獅子を討取る事 ならびに 御下、黒濱、提緒等、助五郎を落す事
黒濱、御下、提緒等勇猛、切死の事 ならびに 助五郎、風窓方へ退去の事
二編巻之十二
風窓半次、助五郎が子分を労る事 ならびに 繁蔵等風窓が宅へ切込む事
八州廻の役人、繁蔵等を召捕に向ふ事 ならびに 繁蔵勢力等、所々へ逃隠るゝ事 附 沼田の権次召捕らるゝ事
二編巻之十三
銚子陣屋の役人方、助五郎を召捕らるゝ事 ならびに 新町の常蔵、波紋兄弟を服せしむる事
繁蔵、錣山に狩する事 ならびに 繁蔵、兎を追うて異人に逢ふ事
二編巻之十四
繁蔵計らず父に逢うて安危を語る事 ならびに 直澄、我旧事を物語る事
繁蔵、父の物語を聞きて難問の事 ならびに 直澄、我子繁蔵に凶を示す事
二編巻之十五
繁蔵、播州に赴き、弟源助に対面の事 ならびに 繁蔵再び笹川へ帰る事
勢力、破門兄弟を勝巻へ落す事 ならびに 繁蔵驕慢、飯岡の子分、繁蔵を附覘ふ事。
三編巻之一
勢力、佐吉、子分を連れて笹川へ帰る事 ならびに 勢力、繁蔵を諫むる事
繁蔵驕慢、助五郎を罵る事 ならびに 助五郎、子分を集めて密議を凝す事 附 繁蔵、亡父追善の事
三編巻之二
助五郎、再度子分を集めて謀議を凝す事 ならびに 桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵の事
繁蔵敵を軽んじて助五郎が弶(わな)に懸る事 ならびに 勢力、夢を告げて繁蔵を諫むる事
三編巻之三
飯岡の子分等、繁蔵の帰途を待ちて恨みを報ゆる事 ならびに 繁蔵、後原にて最期の事
清瀧村善兵衛由緒の事 ならびに 売僧是明院愚民を惑す事
三編巻之四
村長源左衛門、是明院を招く事 ならびに 善兵衛、是明院が邪法を挫く事
松波善兵衛、貝塚にて危難の事 ならびに 善兵衛が難を救ふ事
三編巻の五
勢力、松波が娘を恋慕の事 ならびに 勢力、娘みちと通ずる事
勢力、繁蔵が凶変に驚く事 ならびに 勢力、繁蔵が死骸を引取る事
三編巻之六
勢力、妻子を捨てゝ仇を報いんと計る事 ならびに 繁蔵後家みよ、父の許へ帰る事
勢力深慮、智計を述ぶる事 ならびに 佐吉、勢力と不和の濫觴の事
三編巻之七
助五郎、佐吉方へ間者を入るゝ事 ならびに 丑蔵、傳次、清瀧が子分と成る事
姉崎傳次郎放蕩の事 ならびに 飛鳥山にて美女を挑む事
三編巻之八
姉崎傅次郎久離勘当の事 ならびに 丑蔵、傳次、彌助、大塚にて悪事の事
助五郎、勢力が手段を察し奇謀を囁く事 ならびに 鰐の甚助、風間に剣道を学ぶ事
三編巻之九
鰐の甚助、鯨山龍右衛門を投ぐる事 ならびに 甚助酔狂乱暴の事
佐吉、子分を率ゐて飯岡近郷を騒す事 ならびに 土浦の皆次、助五郎と閑談の事
三編巻之十
勢力、筑波山中に於て野猪に逢ひ、危難の事 ならびに 水島破門兄弟不覚の事
勢力、笠を深くして故郷へ帰る事 ならびに 矢切庄助、闇の弁蔵、偽りて勢力が子分と成る事
三編巻之十一
勢力、子分に密意を示して、心を固むる事 ならびに 猿の傳次、親分佐吉へ異見の事
勢力、同輩を集め計議の事 ならびに 伊之助、才助、破門と口論の事
三編巻之十二
勢力述懐、清瀧が心底を憤る事 ならびに 勢力一手を以て飯岡へ切入る事
助五郎、玉崎の社地に子分を伏置く事 ならびに 勢力、助五郎が奇計に陥る事
三編巻之十三
助五郎、偽謀を構へて勢力を砕(くだ)く事 ならびに 勢力、憤闘、飯岡の囲を破る事
勢力、矢太郎が心底を訝る事 ならびに 勢力再び飯岡へ切入る事
三編巻之十四
鰐の甚助驍勇、勢力を悩す事 ならびに 飯岡の子分等苦闘の事 附 水島破門、太田新八を討つ事
桐島松五郎深慮、助五郎を救ふ事 ならびに 桐島、仲間を催促して勢力を追ふ事
三編巻之十五
猿の傳次、佐吉を勧めて助五郎を討たんと計る事 ならびに 傳次、伊之助、争論の事
助五郎、願文を以て勢力が乱妨を訴ふる事 ならびに 清瀧佐吉、飯岡へ切入る事
四編巻之一
勢力、佐吉へ加勢の事 附 皆次、半次、権次、助五郎へ加勢の事 ならびに 佛市五郎、羅漢の竹蔵が事
四編巻之二
一紙の書面にて諸方の達衆、飯岡へ集る事 ならびに 猿の傳次、助五郎に迫る事
鰐の甚助、桐島の松五郎、助五郎を救ふ事 ならびに 那古の伊助、同和助、加勢の事
四編巻之三
猿の傳次、剣道名誉働(はたらき)の事 ならびに 傳次、鰐の甚助を悩す事
土浦の皆次、勢力を喰留むる事 ならびに 波切、滑方、武術の事
四編巻之四
佐吉が妬心、勢力が義心を破る事 ならびに 伊之助、傳次と口論の事
傳次、伊之助、不快の事 ならびに 六蔵、生首の異名を物語る事
四編巻之五
助五郎、皆次、諸方の親分達を饗応の事 ならびに 波切重三、滑方紋彌由緒の事
傳次、丑蔵、成田の土場へ赴く事 ならびに 傳次、丑蔵、悪計を企つる事
四編巻之六
勢力、常蔵が死を聞きて再度奥州へ赴く事 ならびに 皆次、太田原に子分を伏する事
旅僧、勢力に未然を示す事 ならびに 桐島親田等、勢力に迫る事 附 闇夜の炮弾、勢力を救ふ事
四編巻之七
破門、闇路に曲者と柔術を争ふ事 ならびに 破門、傳次、霧太郎、出会の事
龍蔵、おなよ、謀って夫を害せんとする事 ならびに 勢力谷を廻って、宿六を助くる事
四編巻の八
庄屋非義兵衛、勢力を誑計(たばか)る事 ならびに 安式内匠(あしきたくみ)の非道、勢力を陥(おとしい)るゝ事
勢力怒って内匠を罵る事 ならびに 内匠謀って破門を生捕る事
四編巻の九
安式内匠、氷上慾蔵を語(かたら)ふ事 ならびに 内匠の妻おひね、夫へ勢力毒害を勧むる事
霧太郎、再び勢力破門を救ふ事 ならびに 霧太郎、我身の素姓を物語る事
四編巻之十
霧太郎懐旧物語の事 ならびに 霧太郎、宿六を野州へ送届くる事
勢力富五郎、水島破門、内談の事 ならびに 富五郎、破門、夜中内匠が家に入込む事
四編巻之十一
勢力富五郎、水島破門、安式一家を鏖殺(みなごろし)の事 ならびに 氷上慾蔵、勢力に討たるゝ事
四編巻之十二
富五郎、助五郎を伺ふ事 ならびに 勢力、十太に逢ふ事
四編巻之十三
富五郎、甲州へ赴く事 ならびに 勢力、松浦齋宮を助くる事
四編巻之十四
國定忠次、お花の危難を助くる事 ならびに 勢力、中津淺原の二人を挫(とりひし)ぐ事
四編巻之十五
清瀧佐吉召捕らるゝ事 ならびに 勢力富五郎江戸へ出づる事
木隠霧太郎辞世を残す事 ならびに 勢力、破門、下総へ赴く事
勢力富五郎、奮闘最期の事 ならびに 干潟領の者共所刑の事



■松廼家太琉「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年


明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松廼家太琉(この講談本では「松の家太琉」と表記)に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。

松廼家太琉とはどんな人物なのか。大西信之「浪花節繁盛記」から引用します。
初代勝太郎は二代目神田伯山と親交が深く、広沢虎造が伯山のあとを追いかけて伯山の次郎長伝をついに自分の売物にしたというその次郎長伝を、伯山がやるより前に松廼家太琉から伝授されて得意の読物にしていたのだというから凄い。松廼家太琉は荒神山への次郎長一家と共に乗りこんで行って、そこで見たり聴いたりしたことを講談にしてやっていた、いわば次郎長伝の原作者である。
「改良天保水滸伝」も作家としての能力の高さを見込まれて依頼されたのでしょう。

明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
ここでは全20席の演題を記すにとどめます。(タイトルのない回もあります)

第一席
第二席
第三席
第四席 大勝刺客を助五郎の許へ遣す
第五席 庄の助と九重の痴情
第六席 庄の助の最期おはなの危難
第七席 助五郎一世一代の大難
第八席 助五郎再度の大難
第九席 湊の小十、助五郎の出逢ひ
第十席 助五郎網主船主トナル
第十一席
第十二席 助五郎勢力の不和
第十三席 繁蔵江戸を去て故郷へ戻る
第十四席 笹川飯岡の手切れ
第十五席 笹川勢飯岡へ初度目切込
第十六席 荒生の留吉笹川へ注進
第十七席 飯岡勢笹川へ切込む
第十八席 助五郎無罪放免
第十九席 岩瀬の繁蔵殺し
第二十席 勢力佐助の自殺

冒頭でいきなり、
講談では助五郎の父が井上伴太夫に殺されて助五郎はその仇討ちのために銚子の五郎蔵の子分になったとされているが、それは事実ではない、相模国三浦郡の石渡助右衛門の長男というのが正しい。
などと言うことが書かれており、助五郎周辺の取材に基づき史実に近い内容を書き残そうとした意図がよくわかります。もちろん物語は助五郎中心に進み、大衆演芸の天保水滸伝とはすいぶん内容が異なります。
講談本でありながら、書状が書状の体裁で記載されている箇所もあります。第十六席には、荒生の留吉が繁蔵に宛てた手紙が興味深かったので(さすがにこれは創作と思いますが)紹介します。半之丞というのは留吉の婿(娘の亭主)です。

取急ぎ一寸申上候 予て噂さの如く飯岡の助五郎と貴殿不和の赴き然る所 今日助五郎子分の者拙宅へ質受けに参り其者ども話しには今晩笹川へ切込むとの事依而(よって)等閑(なおざ)りにも相成不申段々様子を相尋ね候処 野尻河岸忍村の博多川の家より伝馬三艘にて押出だし人数百人余りの由 御油断あっては一大事に候間取敢えず御知せ申上候何分とも親分様御身体大切に成被下度尚拝顔の節万々申上候以上
八月廿三日 荒生ニテ 半之丞
笹川親分様へ


史実を伝えるために作られたこの講談は世間に広まることがなかったと思います。
しかし辰野万兵衛の孫の伊藤實氏が詳細な史実調査をもとに「飯岡助五郎正伝」を上梓しており、現代に天保水滸伝の実像を伝えています。私のブログでもこの本は大いに参考にさせていただいております。


□秦々斎桃葉の講談「天保水滸伝」 大正6年

縦13cm,横9cmほどの小さな講談本です。全25話。
平手造酒が酒に酔って小塚原の獄門人の死骸の腕を切り落として遊女を驚かす話の他、笹川の花会、鹿島の棒祭りの話など現代の講談の主要ネタの原型がすでにできあがっています。
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■「長講天保水滸傳」(全三十席)


私が所持している講談本宝井馬琴講演「長講天保水滸伝」(全三十席)のあらすじをご紹介します。
文中に「大正の今日に至っても」「この川は大正八年にかの鈴弁の大トランク事件で一層名を売った大川だ」等語り手が大正の世にいることを示す文がいくつかあり、大正時代後期に語られた内容だと推測されます。

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第一席 井上伴太夫助五郎を斬る事、並(ならび)に助太郎銚子の五郎の養子となる事
相模国の三浦岬。水神宮に台を置いて易をみている井上伴大夫という常陸国笠間の浪人があった。魚売りの助五郎は酒癖が悪く、通るたびにこの辻占に喧嘩を売っている。いつもは相手にしない伴大夫であったが、とある水神祭りの日は酒を飲んでいて助五郎の喧嘩を買ってしまう。刀を抜いて助五郎を斬り殺し、そのままどこかへ行ってしまった。助五郎の息子の助太郎はまだ十二歳であるが、父の仇を討つために江戸で剣術の修行がしたいという。それを聞いた土地の顔役天野屋の松五郎は助太郎を銚子の大親分の五郎蔵に引き合わせる。五郎蔵に気に入られ養子となった助太郎は七年間の修行を終え、親の名の助五郎を継ぐ。ある日助五郎が義兄弟の鶴五郎と観音前の旅籠で飲んでいて、下の階で飲んでいた男と一緒に酒を酌み交わすこととなった。話を聞くうちにその男が親の仇の井上伴太夫とわかり、助五郎は勝負を申し出た。

第二席 助五郎親の仇を討つ事、並に福松昔語りの事
助五郎は井上伴太夫を斬って見事に親の仇を討つ。銚子の五郎蔵が死んで助五郎は一本立ちし、居を飯岡に移した。銚子の陣屋に取り入って、貸元でありながら御用を預かる二足の草鞋となる。さらに飯岡では大きな船を拵えて網元となった。
話は変わって下総干潟八万石、須加山村の入口に茶屋旅籠をしている流鏑馬(やぶさめ)の仁蔵という明石出身の貸元がいた。ある日仁蔵は一家の者を家に集めた。干潟八万石の内に狼、厄病神、貧乏神といくつも綽名を持っている福松もやってきた。福松は他の賭場は荒らしても仁蔵の賭場には迷惑をかけない。その訳を訊かれ福松は昔のことを語り出した。福松が生まれたその年に、仁蔵は明石からやってきたものの身寄りもなくついに雪の中に倒れた。それを助けたのが福松の父親だった。

第三席 福松笹川繁蔵と改名して売出しの事、並に勢力富五郎繁蔵と兄弟分となる事
福松の母は病弱で乳が出ない。仁蔵は貰い乳にまわって幼い福松の面倒を見た。福松は成長して乱暴者になったが母からは決して仁蔵の賭場では騒ぎを起こすなと釘をさされていた。
仁蔵は福松に娘のお千代と結婚して家を継いでほしいと持ち掛ける。福松はこれを受け、お千代と三々九度を交わし、親の名である岩瀬の繁蔵を名乗る。繁蔵は乾分の信頼も篤く、身内一統が弱い者を助ける義侠心を持っているから世間の評判もよい。萬歳村で親分をしていた相撲上がりの博徒勢力富五郎もこの噂を聞いて、笹川の繁蔵と飲み分けの兄弟分となった。

第四席 笹川一家花会を催す事、並に飯岡助五郎洲の崎政五郎を名代とする事
付き合いの広くなった笹川一家は懐具合が苦しくなった。勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分に相談する。忠吉の兄貴分の信夫の常吉もひと肌脱ぐことになり、忠吉・常吉という大親分が後見・世話人となって花会を催すことになった。天保九年の七月、諏訪神社の境内に野見宿彌の碑を建てる名目で花会が開催された。これが気に食わない飯岡助五郎は一家から名代として洲の崎政五郎に出席させた。しかももたせた義理(祝い金)はたったの十五両。
花会の会場には全国の錚々たる親分が集まっていた。政五郎は国定忠治に飯岡一家から助五郎が出席しないことについて意見される。大前田英五郎の兄の田島要吉が政五郎と忠治の間を取り持つ。

第五席 助五郎の乾児(こぶん)清滝佐吉と相撲の事、並に神楽獅子大五郎清滝と復讐相撲の事
花会の場に各親分の義理の金額が貼りだされる。どの親分も大層な額で政五郎は顔を赤くしている。ところが自分の一家の貼り出しを見て驚く。親分乾分合わせて二百両の義理の金額が書かれている。これは繁蔵のはからいだろうと政五郎は心の中で感謝する。
同じ日、諏訪明神の境内では奉納相撲が行われていた。清滝の佐吉は助五郎の乾分の目玉の長太、芝浜の勘太を次々倒した。これを知った飯岡助五郎は翌日乾分の神楽獅子大五郎に清滝の佐吉と相撲をとってこいと命じる。諏訪明神の奉納相撲の二日目、神楽獅子大五郎は清滝佐吉を土俵の外に倒した。
第六席 勢力富五郎神楽獅子を打負かす事、並に助五郎味内(みうち)笹川の乾分を打擲する事
清滝の次に土俵に上がった勢力富五郎は神楽獅子大五郎を打ち負かす。
笹川繁蔵の乾分、花笠の六蔵・水谷の六蔵・西尾の與市の三人が、飯岡の縄張りの松岸の茶屋旅籠で芸者騒ぎをしている。先ほどの神楽獅子の負けっぷりを茶化して踊っているところを、たまたま旅籠を訪れた神楽獅子に見られてしまう。この三人が駕籠に乗って帰るところを待ち伏せしていた飯岡一味が襲った。一人は逃げたが二人は斬られて虫の息。これを飯岡助五郎の後見をしている松岸の半次(別名風窓の半次)が見つける。これは大きな喧嘩の引き金になりそうだと半次は須加山に向かうべく駕籠に乗った。

第七席 風窓半次繁蔵に和解を申込む事、並に飯岡笹川手打の事
飯岡一味に襲われて逃げてきた西尾の與市が笹川一家に転がり込んで顛末を話すと屈強な乾分衆が集まって飯岡方に押し込もうと息巻いた。そこに繁蔵が帰って来て、松岸の半次の駕籠も到着する。半次が事を収めたいと申し出ると、繁蔵は飯岡の縄張りの旅籠であんなことをすれば喧嘩を売るようなものだとして仕返しは考えず、半次に始末を頼む。
佐原に松島屋権平という目明しがいてその娘は助五郎の妾だ。半次は権平の家で手打ち式を行うことに決め笹川方と飯岡方を呼び出す。この手打ち式の様子を目明しの三八と洲の崎政五郎の父の政右衛門が隠れて見ていた。政右衛門は笹川方の出席者の雪崩の岩松の顔を見て驚いた。あれはかつて政右衛門を襲ったことがある甲州街道名代の胡麻の蠅、雨傘勘次だ。このことを目明しの三八から聞いた助五郎は、松島屋権平に岩松を召し捕らせようとたくらんだ。二ヶ月後、笹川繁蔵は八州廻りに呼び出されて松島屋権平の家へ向かった。

第八席 雪崩の岩松旧悪露見して召捕らるる事、並に平手造酒二日禁酒を破る事
松島屋権平の家で繁蔵は八州廻りの旦那長井五郎兵衛、伊藤文助から雪崩の岩松が捕らえられたことを告げられる。八州廻りの情けで繁蔵は岩松と最期の面会をする。繁蔵は残された岩松の母を面倒みると約束するが、岩松の母は自害してしまう。
鹿島の祭礼が近づいてきた。本来繁蔵自ら出向いて賭場を開くところだが、繁蔵は岩松の件ですっかり気落ちしており、勢力富五郎に任せることとなった。繁蔵は用心棒の平手造酒に賭場の守りを頼む。その際、酒癖が悪い平手に二日間の禁酒を約束させた。
祭の一日目は酒を我慢した平手だが二日目は料理屋でしこたま呑んでしまう。そこに現れた三人の侍が店に入る際に払った砂が平手の酒に入ってしまう。平手が怒っていたところに、鹿島の犬婆ァが現れた。平手は婆ァが連れていた犬を侍にけしかけた。
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第九席 平手造酒喧嘩の事、並に繁蔵雪崩の岩松を召捕らせし仔細を聞知する事
三人の侍は飯岡助五郎の用心棒秋山要助の弟子だった。秋山要助はかつて、平手の師匠の千葉周作に無礼を働いたことがある。平手は師匠の恥辱をはらさんと刀の鯉口を切った。
一人は平手にすぐに斬られて絶命する。そこに勢力富五郎が来て平手を止めたので残りの二人(下寺十郎次、笠井庄助)は逃げおおせた。
鹿島の棒祭りの後日。繁蔵一家の般若の六蔵が繁蔵に勘当された。六蔵は女房を連れて全国の湯治場を歩き回ることとした。六蔵が伊香保の風呂場で偶然知り合ったのは下寺十郎次・笠井庄助だった。六蔵は二人の話から、雪崩の岩松が捕らえられたのは、泥棒を乾分にした廉で繁蔵を役人に挙げさせようという飯岡助五郎の策略だったことを知る。六蔵はただちに須加山へ帰り、繁蔵にそのことを告げる。平手と六蔵は伊香保に行き、十郎次・庄助の二名を証人として笹川一家に連れ帰った。

第十席 笹川一家評議の事、並に飯岡方へ斬込む事
下寺十郎次、笠井庄助は繁蔵に事の次第を話し、証人になると約束する。怒った繁蔵は平手造酒、勢力富五郎と談合して八月十五日に助五郎方へ斬り込みに行くことに決めた。当日、夏目の新介、清滝の佐吉ら乾分も合わせて総勢十八人が、他の乾分に勘づかれぬように飯岡に向かった。助五郎は妾のおかめの宅で月見をしていた。
まず平手が踏込み、飯岡の乾分を斬って笹川一家が家に押し入った。平手は飯岡の用心棒赤鬼の源次と対峙する。繁蔵は助五郎の寝室に向かう。夏目の新介、清滝の佐吉の前に飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。

第十一席 飯岡助五郎復讐に苦心する事、並に勢力富五郎厚意の事
新介、佐吉は鰐の甚助に斬られ、これはかなわないと逃げ出した。そこに平手が現れ、甚助と平手の決闘となった。平手の技に後れをとった甚助は退散する。繁蔵たちは助五郎を追詰めるが、助五郎は物干から屋根伝いに外に出て難を逃れた。
この襲撃の後、飯岡一家がすぐに仕返しに来るに違いないと笹川一家は身構えていたがいつになっても来ないので笹川方の緊張は解けていった。
翌年になると繁蔵の乾分は散り散りに過ごすようになり、平手造酒は酒の飲みすぎで腹を痛めて尼寺に療養することとなった。その状況を知った助五郎は九月十三日に笹川方に斬り込むことを決めた。
銚子五郎蔵の片腕に風窓の半次、荒生の留吉の二名がいた。留吉は助五郎と折り合いが悪く、今では堅気になって造り酒屋をしている。留吉の息子の留次郎が潮来の遊女雛鶴とよい仲になった。雛鶴の馴染みの客で飯岡一家の身内の土鼠(もぐら)の真助と留次郎との間にいざこざがあった。勢力富五郎と清滝の佐吉が留次郎の用心棒となって争いをおさめた。勢力は自ら五十両を出して雛鶴を落籍し、雛鶴を留次郎のもとに嫁入りさせた。

第十二席 荒生の留吉急を笹川へ知らす事、並に洲の崎政五郎妻子を斬って門出の事
九月十三日、飯岡一家の乾分衆が留吉の家を訪ね、酒を注文する。飯岡一家が笹川一家へ喧嘩出入りする前祝いの酒なのだが、留吉が笹川と通じていることを知らない乾分衆はそのことを留吉に伝えてしまう。留次郎は留吉に命じられて飯岡の計画を笹川一家に密告する。笹川一家は飯岡一家を迎え討つ体制を万全に整えた。
助五郎の家では飯岡一家が出入りの準備をしているが、洲の崎政五郎がなかなかやってこないと気をもんでいた。政五郎は自宅で、この喧嘩で命を捨てるつもりだから諦めろと女房に因果を含めていた。政五郎の女房は、後に残されて憂き目を見るよりもあの世で親子諸共夫婦仲睦まじく暮らしたい、冥土の道連れにしてほしいと懇願する。政五郎は息子、娘、女房の首を斬り落とし、三つの首を持って助五郎の家へ向かった。
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第十三席 飯岡の同勢大利根を遡って笹川方へ斬込む事、並に洲の崎政五郎富田の弁蔵に討たるる事
飯岡一家は利根川を上って須加山村に向かった。一番船は洲の崎政五郎を大将とした八十五人。二番船は成田の甚蔵を大将とした八十人。三番船は飯岡助五郎を大将とした百二十余人。一番船が桟橋に着くと、待ち受けていた笹川方から鉄砲が放たれた。陸にあがった飯岡一味は飛び道具にひるんで後退するが、洲の崎の政五郎は樫の棒を打ち振るって応戦する。遅れて二番船が到着し、河岸の争いは政五郎に任せ、甚蔵らは繁蔵の家に向かった。政五郎は笹川一家の者を十一人打倒し、残りの笹川一味は退散した。政五郎は一番船に戻り一息ついていたが、この船には笹川方の飛田の弁蔵が逃げ隠れていた。弁蔵は背後から槍で政五郎を突き刺した。乗員が多くて船が進まず遅れた三番船は政五郎が死んでからようやく到着した。

第十四席 勢力富五郎神楽獅子大五郎と一騎打ちの事、並に平手造酒の事
笹川方の勢力富五郎と上州友太郎の組は、陸地から攻めてくると思われる松岸の半次を待ち伏せする役目だったが、飯岡方二番船の成田の甚蔵・神楽獅子大五郎が繁蔵宅へ向かうのを見ると、勢力はじっとしていられずに飛び出していった。勢力と神楽獅子とはいつか果し合いすべしとお互いが思っていた間柄。双方丸太を持って畑の中に対峙し一騎打ちとなった。
一方、尼寺で療養していた平手造酒は、まわりが止めるのを聞かずに酒場でしこたま飲んでいた。寺に戻り、繁蔵から届いていた手紙を読んで驚いた。これは一大事と須加山へ駆けつける途中、飯岡方の松岸の半次を見つけた。造酒は福岡一文字宗則の一刀を抜いて半次に斬りかかった。
ところでこの平手造酒は神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場を構える千葉周作の門弟であった。剣の腕前は達人だが酒癖が悪かった。ある日、酔っぱらって小塚原の処刑場を通りかかった際に、番人を脅して死体を出させ、試し斬りをした。斬り落とした片腕を懐に入れて遊女屋の前を歩いていると店の若い衆が平手を呼び止めた。花魁が店に引き入れようと平手の腕を強くひっぱるとその腕が抜け花魁は卒倒した。

第十五席 造酒団左衛門方へ出稽古に赴く事、並に造酒師匠に勘当される事
新町に居を構える団左衛門の親子は剣術を習いたいが、廓町にあるという理由で教えに来てくれる先生がいない。平手も団左衛門の遣いの者から剣術の指南を頼まれるが一度は断る。だがこの遣いの者に小塚原での悪戯を目撃されていたことを知り、口止めするためにも引き受けることとした。団左衛門の屋敷では酒は飲み放題、金は貰い放題、着物は着せてもらい放題で平手は足繁く出稽古に通うようになる。最近の平手の様子がおかしいと千葉周作は不審に思う。ある日、西新井大師の参詣の帰り、周作は偶然団左衛門屋敷で稽古をつけている平手を目撃する。即日、周作は道場で平手に勘当を言い渡す。ばれてしまっては先生のご立腹はごもっともと平手は道場を去ろうし、日頃から平手に反感をもっていた道場の連中は平手を笑った。平手は、お前らに嘲り笑われる筋合いはない、笑った者は出てきて尋常に勝負しろ、とすごんだ。

第十六席 平手造酒奮闘する事、並に造酒最後の事
もちろん平手の相手をする者などいない。平手は団左衛門から貰い受けた福岡一文字宗則で千葉道場の柱を切り落として去っていった。周作はあまりにも見事なその技を見て勘当してしまったことを嘆いた。平手ははじめは周作の弟子がいるという飯岡に行くつもりだったが、途中櫻井の茶屋旅籠に泊まったのが縁で繁蔵一家に世話になることとなった。
それから六年、天保十三年九月十三日、平手造酒は櫻井の尼寺を飛び出し、笹川を攻めようとする風窓の半次の一味を見つけて斬りかかった。飯岡の一味が次々と平手に斬り倒されていることが助五郎に伝わった。助五郎は白井田権蔵ら四人の用心棒に平手の相手を頼んだが、四人とも笹川河岸であっけなく平手一人にやられてしまった。成田の甚蔵や三浦屋孫次郎ら飯岡一家の十二人は命を捨てる覚悟で平手に襲いかかった。平手は何人かを返り討ちにするが、平手の刀が折れてしまい、槍を突かれて遂に平手は絶命した。
一方、勢力富五郎と神楽獅子大五郎はお互い丸太を振り回して一騎打ちをしている。勢力の丸太が折れると、神楽獅子も丸太を放り捨て、二人は素手で組み合って闘った。

第十七席 笹川繁蔵助五郎を追い詰める事、並に笹川一家国を売る事
勢力と神楽獅子は組み合っているうちに川辺に落ちた。そこで勢力が大きな石を神楽獅子の額にたたきつけて勝負があった。
繁蔵の家の前では笹川一家と飯岡一家の喧嘩が長時間続きどちらも疲弊している。そこに役人がやってきて喧嘩を止めた。飯岡一家は船で退却し、風窓の半次の家で体を休めた。繁蔵と勢力らは決着をつけようと半次の家へ向かうが、それに気づいた助五郎は半次の家から逃げた。
名主の平左衛門が役所に何か申し出たらしく、須加山では大勢の役人が繁蔵らを召し捕ろうと待ち受けていた。それを知った繁蔵らは家には戻らず、兄弟分の倉田屋文吉の家に行った。笹川一家は全国に散り散りとなって旅することとなった。
翌年二月、明石で養父の流鏑仁蔵の法事を済ませた繁蔵は須加山に戻ってきた。四月になりその噂を耳にした助五郎は乾分の久太に様子を見にいかせた。

第十八席 繁蔵飯岡方へ踏込む事、並に繁蔵成田の甚蔵他二人を懲らす事
久太は堂々と繁蔵の家の表玄関を訪ねればよいものの、格子窓から中を覗いていたのでそれに気づいた繁蔵の女房のお由は久太を罵倒した。騒ぎを聞きつけて番頭らがやって来たので久太は逃げた。
次の夜の深夜二時。繁蔵は刀を携え一人で助五郎の家に乗り込んだ。助五郎はいなかったが、くだらない詮索をせず堂々と果状を持ってこいと言い捨てて帰っていった。
そのことを聞いた助五郎の右腕の成田の甚蔵と乾分の地曳の寅松、柴山の大蔵の三人は怒って家を飛び出し繁蔵を追いかけていった。
助五郎が家に帰ってきて事の次第を聞いた。本当は繁蔵が戻ってきたら仲直りをしようという算段で久太を向かわせたのだが逆効果になってしまったと嘆いた。
甚蔵ら三人は繁蔵に追いついたが、三人とも繁蔵にあしらわれて肥溜や小便桶に落ちてしまった。

第十九席 成田の甚蔵勘当さるる事、並に甚蔵繁蔵を討取る事
助五郎は一家の跡を継ぐべき男が思慮の浅い行動をしたということで成田の甚蔵に勘当を言い渡す。甚蔵は土産を持って帰ったのなら勘当を解いてほしいと懇願し一家を出る。甚蔵は繁蔵を討取ってその首を持って一家に戻るつもりである。甚蔵の親友の三浦屋孫次郎は助太刀を申し出る。二人は、繁蔵と仲が悪い須加山村の名主の半左衛門に協力を求め、しばらく半左衛門の家に身を隠すこととなった。
繁蔵は乾分とともに大山を参詣して江の島、鎌倉を見学して笹川に戻ってきた。繁蔵は乾分を先に帰して熊谷範次の家で呑んでいる。そのことを知った甚蔵と孫次郎は、帰り道を待ち伏せ、繁蔵を殺害した。繁蔵の首を落とし、胴体は地蔵を巻き付けて大利根川に投げ入れた。
繁蔵の帰りが遅いので笹川一家の乾分が探しにゆくと、繁蔵の腕や草履が夥しい血とともにみつかった。江戸にいた清滝の佐吉や奥州にいた勢力富五郎、夏目の新介はこのことを手紙で知り須加山に戻ることとした。

第二十席 勢力富五郎上総へ戻る事、並に猿(ましら)の伝次の事
清滝の佐吉ら笹川の身内は集まっていたが、奥州にいる勢力は病気のためなかなか戻ってこない。佐吉は勢力抜きで仕返しに行こうと言うが誰も従う者はいない。繁蔵の先代の仁蔵の頃から一家にいた古参の乾分衆は新参者の佐吉に指図されるのが気に食わない。佐吉は俺だけで親分の仇を討つと言い捨て清滝村に帰っていった。
やがて勢力富五郎が笹川に戻ってきた。だが佐吉はそれを知っても勢力のもとへ挨拶にゆかない。江戸で佐吉の乾分になった猿(ましら)の伝次という美男は、勢力は繁蔵の兄弟分だから佐吉にとって叔父にあたりこちらから挨拶にゆくのが道理だ、と佐吉に意見する。佐吉や佐吉の乾分の勘次、勘六は怒ってこれをきかない。伝次は単身勢力のもとに赴き、佐吉に成り代わって挨拶をした。その男っぷりの良さは勢力の一家で評判となった。伝次が佐吉の家に戻ると、飯岡へ偵察に行っていた勘次と勘六が戻ってきて、先方は油断しているから今夜ゆけば皆殺しにできると報告し、佐吉は斬り込みを決める。だが伝次は勘次・勘六の二人は飯岡方に通じているのではないかと疑っていた。

第二十一席 飯岡へ二度目の斬込みをかける事、並に勢力富五郎助五郎を追詰める事
伝次は佐吉には内緒で、弟分の長次に命じて勢力のもとに手紙を届けさせた。手紙には、佐吉の手助けをするのではなく繁蔵親分の仇を討つと思って加勢してほしいと書いてある。これを読んだ勢力らはもっともだと感心し支度を始める。
天保十三年十月十七日、佐吉の一味は総勢五十二人で清滝を出発し飯岡へ向かった。だが、途中の広い空地では飯岡一家が待ち伏せしていて、佐吉の一味が近づくと火を放った。奇襲を受け、三方を敵に囲まれ絶体絶命になった佐吉を猿の伝次が救った。もとは旗本の三男で貞宗の名刀を操る伝次はめっぽう強く飯岡一家の者を次々倒す。佐吉が助五郎を狙うと飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。佐吉は甚助に肩先を斬られたが、また伝次に救われた。鰐の甚助と猿の伝次との一騎打ちになり伝次が勝った。しかし小勢の佐吉の一味は大勢なだれ込んできた飯岡一家に囲まれてしまった。全滅かと思われたとき、勢力富五郎の一隊七十五人が乗り込んできた。勢力はただならぬ強さで飯岡一家の強者を次々と倒す。勢力に追われた助五郎は船に飛び乗って逃げた。

第二十二席 伝次清滝に勘当さるる事、並に佐吉捕吏(ほり)に囲まるる事
助五郎を取り逃がした勢力は須加山に戻った。猿の伝次は怪我を負った佐吉を連れて清滝に戻った。伝次は一人で勢力富五郎を訪ね喧嘩場で助けてもらった礼を言う。
佐吉は喧嘩場で勢力からの加勢があったのは伝次の計らいによるものだったことを知るが、伝次が勢力にへつらっているのが気にいらない。遂に口論となり佐吉と伝次は喧嘩別れする。勘次、勘六以外の乾分は皆伝次に付いてしまい、佐吉の一家はたった三人になってしまった。伝次に付いた者のうち、伝次の弟分の長次は堅気になるため江戸に行き、佐吉の乾分だった者は勢力の乾分となり、猿の伝次はどこかに旅に出た。勢力は伝次を引き留めて仲間にしたかったが気付いた時には伝次はいなくなっていてとても悔しがった。
佐吉の家に突然目明しがやってきて佐吉を捕らえようとする。佐吉は勘六が間者だったことに気付き、伝次の意見に耳を貸さなかったことを後悔した。

第二十三席 佐吉お由忠吉を殺害する事、並に佐吉処刑さるる事
佐吉は目明しから逃げ切ると江戸へ身を潜めた。三年後の弘化二年。佐吉は麻布市兵衛町の煙草屋に繁蔵の妻のお由を見かける。どういうことかと下総に探りにゆくと、お由は繁蔵の乾分の羽計の勇吉の弟の忠吉と良い仲になって、十一屋を売りとばした金で二人で行方をくらましたことがわかった。繁蔵親分に申し訳ないと怒った佐吉は煙草屋に忍び込みお由と忠吉を殺害して金を奪った。この金で派手に博打をうっていたことから佐吉の素性が割れ、佐吉は役人に捕らえられて鈴ヶ森で獄門となった。
話は戻って天保十三年。飯岡助五郎は前回の喧嘩の後、銚子の陣屋に身を移したため勢力の一家は手も足もでなかった。勢力は、繁蔵を殺害した成田の甚蔵が柴山の観音祭りで盆を開くことを知り甚蔵を討つことにした。勢力らは祭りに忍び込み賭場に斬り込んだが、偶然甚蔵はその場を離れていた。勢力は柴山の大蔵と地曳の寅松を斬り倒して引き揚げた。成田の甚蔵は一人で成田山新勝寺へ逃げて寺に匿ってもらった。

第二十四席 助五郎銚子の陣屋に隠るる事、並に富五郎鍋掛ヶ原にて危難の事
八州廻りの役人が銚子陣屋の役人と協力して勢力を捕らえようとしていることが勢力の耳にはいった。勢力は女房子供を義父の善兵衛に託し離縁をした上で萬歳村の家を去った。役人は追い探すが勢力は別の土地へ逃げた。
天保十五年二月の始めの嵐の日、勢力富五郎、夏目の新助ら十八名は助五郎を討とうと銚子の陣屋に斬り込んだが、待ち構えていた役人に返り討ちに会い、生き残ったのは勢力、新助、友太郎、忠吉の四名だけであった。勢力と新助と忠吉は、助五郎が銚子の陣屋から出てくるまで奥州で待機することにした。三人は旅商人に成り済まして北へ向かったが、大田原鍋掛ヶ原の旅籠で滞在しているところを役人に見つかってしまう。役人は人数をそろえて旅籠に乗り込んだ。

第二十五席 猿の伝次富五郎を救う事、並に富五郎奥州路へ入込む事
旅籠の中で役人を返り討ちにした三人は往来へ逃れるが、外にも大勢の役人が待ち構えていた。上州友太郎と夏目の新助は斬り殺され、勢力も風前の灯となった。そこに猿の伝次が現れ、何十人もいる役人を次々と斬り倒す。その隙に勢力はその場から逃げることができた。
奥州路の山道で勢力は悪人に殺されかけている百姓の伝兵衛を救う。しかし伝兵衛の家で寝ていたところを役人に捕らえられ代官所に連行される。勢力の身柄は下総に送られることとなった。八州廻りの手下の永井五郎三郎が勢力を駕籠に乗せ代官所を出発した。ところが駕籠は下総ではなく奥州に向かっている。実は永井五郎三郎というのは偽役人でその正体は大盗賊天狗小僧霧太郎だった。

第二十六席 太田屋新兵衛伊勢山田に於て危難の事、並に倅(せがれ)庄五郎安藤伊織に従って剣術を学ぶ事
ここからしばらく天狗小僧霧太郎の話となる。
阿波国徳島本町通りに太田屋新兵衛という豪商がいた。新兵衛が伊勢参詣の折、大勢の雲助との揉め事が起り、命が危ないところを安藤伊織という侍に助けられた。新兵衛は伊織を阿波の太田屋に連れ帰る。伊織は新兵衛の息子庄五郎に神影流の剣術を教えた。庄五郎は十二歳から十五歳まで熱心に剣術を勉強し確かな腕前となった。ある晩太田屋に役人三十人がやってきた。役人が言うには、安藤伊織は関東で大罪を犯した盗賊とのことである。

第二十七席 茨木十太夫悪事露見して召捕らるる事、並に太田屋倅庄五郎入牢となる事
安藤伊織の正体は茨木十太夫という常陸土浦の浪人で、江戸で罪を犯した強盗であった。十太夫は庄五郎に神影流の腕前は自分のように悪事には使わないくれと言い残して自害した。盗賊を五年間匿っていたという嫌疑で新兵衛は捕まりついに牢死した。新兵衛の後妻およしは以前から店の若者の和助と密通しており、新兵衛が死ぬと庄五郎の存在が邪魔になった。およしは庄五郎を盗賊だと吹聴し、世間でもそのような噂がたった。ある晩庄五郎は、およしと和助が庄五郎を始末して店の金を持ち出して江戸に高飛びしようと相談しているのを聞きつける。庄五郎は継母のおよしと和助を斬り殺して自首するが、およしと和助の姦通の証拠がなく庄五郎は牢に入れられる。三年たったある日、牢名主の勘十郎と源右衛門が牢破りを決起する。

第二十八席 太田屋の倅庄五郎牢破りの事、並に庄五郎賊の群に入る事
脱獄に成功した庄五郎、勘十郎、源右衛門ら十一人は日野屋に押し入る。日野屋の倅はかつて庄五郎を盗賊だと喧伝し、日野屋は太田屋の商売を横取りした強欲非道な金満家だと庄五郎は恨んでいた。勘十郎らは日野屋から八千五百両もの金を奪うと、持ちきれない分は街中の辻々に捨てながら逃げた。
庄五郎は勘十郎、源右衛門とともに盗賊となり諸国を転々とする。庄五郎は京都で、飯泉七郎右衛門という浪人から剣術と伊賀忍術を学んだ。力をつけた庄五郎は勘十郎をはじめ二三十人の乾分をもつようになり、名を木隠(こがくれ)の霧太郎と変えた。霧太郎の一味は甲州荒澤村の金満家佐野文蔵を狙った。

第二十九席 小天狗霧太郎偽役人となって大金を奪う事、並に天目山に於て乾分に分れて江戸で出府の事
甲州荒澤村の佐野文蔵の女房のお花の母親が大病という知らせが届いた。お花は駕籠に乗って実家に向かったが関所の通行手形の発行には日数がかかるので抜け道を使った。
後日、名主の要右衛門のところに江戸奉行所から御用状が届いた。江戸から役人もきて、関所の裏道を通った嫌疑で取り調べるということで、文蔵の店の者は名主の要右衛門に引き渡され、店の財産は取り押さえられた。要右衛門は文蔵らを代官の元に送り届けるが、代官は覚えがないという。役人に化けていた霧太郎らは佐野文蔵の家から千五百両を奪い山分けした。
霧太郎と源右衛門は堅気となり江戸で商売を始め成功していた。勘十郎は放蕩して金を使い果たしてしまい、霧太郎と源右衛門の店をたびたび訪ねては旧悪をばらすと強請って金を無心する。霧太郎と源右衛門は店をたたんで江戸を去ることにするが、霧太郎はその前に勘十郎を片付けようと考えた。

第三十席 霧太郎柳川無宿の勘十郎を斬って江戸へ立退く事、並に国定忠治富五郎を金毘羅山へ尋ぬる事
勘十郎はまた霧太郎のところへ金をせびりに行ったが今度は喧嘩となった。勘十郎は訴人をし、大勢の役人が霧太郎の店にやってきた。霧太郎は往来にでて役人に刃向かうと、勘十郎をみつけて叩き斬った。そのまま霧太郎は逃げ行方知れずとなった。
話は戻って、霧太郎に助けられた勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分のもとへ落ち延びた。助五郎が銚子陣屋から出てくるのを三年間待ったが我慢しきれず、忠吉親分に書置きを残して下総へ向かった。忠吉のもとに国定忠治がやってきて助五郎の一件を聞いた。忠吉に恩がある忠治は、勢力を奥州に連れ戻すと言って乾分の頑鉄、定八と共に下総へ旅立った。忠治は助五郎の首を討とうと助五郎の家を訪ねたが、助五郎は銚子陣屋に居るため留守だった。忠治は萬歳村の名主で勢力の義父である善兵衛を訪ね、勢力の居所を訊いた。勢力は乾分の鶴吉、亀吉と共に金毘羅山のてっぺんに小屋を建てて潜んでいた。忠治は金毘羅山に登って勢力に会い、時機が来るまで奥州に戻るよう説得するが勢力は応じず、忠治は上州へ帰った。
ある朝八州廻りの役人と銚子の役人が合同で金毘羅山に登ってきた。勢力らは鉄砲で応戦する。銚子の陣屋から頼まれて来た笠間浪人の斎藤新十郎という弓の達人が弓を放ちながら近づいてゆくと、勢力の方からの鉄砲の音がやんだ。頂上に来てみると、勢力・鶴吉・亀吉の三人は死んでいた。勢力の脇腹には矢が刺さっており、もはやこれまでと見た勢力は乾分二人の首を落として息絶えたようである。新十郎は勢力の見事な最後に感じ入り、三人の死体を引き取って善兵衛に届け三百両を渡した。猿の伝次も下総まで弔いにやってきた。新十郎は剃髪して坊主となり勢力の菩提を弔った。後に金毘羅山の麓に勢力大明神というお堂ができて土地の者が崇めた。助五郎は勢力の死を知って銚子の陣屋を出て飯岡に戻り天寿をまっとうした。

以上全三十席の内容をご紹介しました。
助五郎も繁蔵ももともと力士であったという設定にはなっていません。
全体として実に連綿と組み立てられた構成で、飯岡への斬り込み(名垂の岩松の件)と鹿島の棒祭りの話が絡み合っているところが興味深いです。
後半は猿(ましら)の伝次や木隠(こがくれ)の霧太郎といった現代ではきかない脇役の登場人物がヒーローとして描かれています。
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近世侠義伝 猿の伝次
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近世侠義伝 木隠霧太郎




■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 


明治から昭和初期に活躍した講釈師悟道軒圓玉の講談天保水滸伝が大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり読売新聞に掲載されました。
79席それぞれの内容を書くと煩雑ですので、数席ずつまとめてあらすじをご紹介いたします。タイトルは私が便宜的につけたものです。


第一席~第六席 飯岡助五郎
田沼主殿頭の浪人青木源内が相州三崎に居を構えていたとき、常陸の侠客井上伴太夫と武芸上の言い争いとなった。論破された伴太夫は夜中に忍び込んで源内を斬った。青木源内の息子、青木助五郎は親の仇をとるべく武芸に励む。井上伴太夫が下総か常陸の侠客のもとに忍んでいるという噂を聞いた助五郎は、土地の大親分のもとにいれば伴太夫を見つけられるのではないかと思い銚子の五郎蔵を訪ね、五郎蔵は助五郎を乾分にする。助五郎は五郎蔵の元で剣術の修行に励み神影流の極意を得る。五郎蔵は大病を患って死に、その跡目は助五郎が継いだ。
銚子観音前の料理屋で助五郎は伴太夫を見つける。助五郎は伴太夫との決闘に勝ち親の仇を討った。助五郎は銚子陣屋から十手捕縄を預かる身分にもなった。

第七席~第九席 笹川繁蔵
紀伊家の家臣の岩瀬重右衛門は酒の上で間違いを犯し浪人となって下総笹川に流れた。そこで土地の提灯屋の娘と結婚し、福松という子供ができた。子供ながら気性が荒い福松に、土地の親分流鏑(やぶさめ)の仁蔵は喧嘩をしてもよいが母親を大切にしろと意見する。金を集めれば母親が喜ぶだろうと思い福松は賭場荒らしをするようになった。
流鏑の仁蔵は賭場を福松に譲って隠居した。福松は名を繁蔵と改め、十一屋という店を開いた。

第九席~第十一席 勢力富五郎
勢力富五郎は江戸角力で十両をはる力士。金貸屋の妾と好い仲になったことが元となって暴力沙汰を起こし江戸を去ることになった。故郷の下総に戻った勢力は繁蔵の乾分となり屈指の兄株となった。

第十一席~第十八席 清滝佐吉
清滝の酒造家茂右衛門の奉公人佐吉が茂右衛門の縁者櫻井村の与兵衛の娘おつねと駆け落ちした。茂右衛門と与兵衛は二人の行方を捜すため銚子の陣屋に通じている飯岡助五郎に協力を頼んだ。助五郎は、いずれ二人を夫婦にすることを条件に引き受け、乾分に探索させた。佐吉とおつねは成田不動で助五郎の乾分に捕らえられた。助五郎は二人を与兵衛に引き渡したが、後日与兵衛から結婚の話が無かったことになるよう佐吉を説得してほしいと頼まれる。助五郎は佐吉にいずれ夫婦にしてやると口約束して金を渡し旅に出す。旅先で遊んでいるうちにおつねのことは忘れるだろうと考えてのことだったが、一か月して帰ってきた佐吉は心変わりしていなかった。縁談が一向に進まないので、佐吉は足繁く助五郎の元に通うが、助五郎はそれがだんだん煩わしくなって、この話はまとまらないから今までの話は夢とあきらめろと佐吉に諭した。このままでは引き下がれない佐吉は繁蔵に相談する。繁蔵はおつねを連れてきたら親元にかけあって夫婦にしてやると約束する。佐吉は江戸の親類のもとにいるというおつねをようやく探し出し、繁蔵は与兵衛を説き伏せて佐吉とおつねは夫婦になった。これが縁で佐吉は繁蔵の乾分になった。

第十八席~第二十席 平手造酒
江戸神田お玉が池の千葉周作道場の門人で剣術の達人の平手造酒は、車善七という非人頭と懇意になった廉で破門となった。平手は関東で有名な侠客飯岡助五郎を頼ることとした。旅の途中、市川の小料理屋で笹川一家の夏目の新助に出会う。二足の草鞋で強大な力を持つ飯岡助五郎よりも、力が弱くても生一本の博打打ちの方がよいと平手は笹川一家の食客になることを決める。
平手は繁蔵を気に入り一家の若い者に剣術を教える。しかし平手は酒癖がよくなかった。

第二十席~第二十五席 鹿島の棒祭り
翌年五月鹿島神宮で鹿島の棒祭りが行われた。繁蔵は体調が悪く代わりに勢力が出向くことになった。繁蔵は酒癖の悪い平手が祭りに行くことを止めるが、平手は三日間の禁酒を誓う。
祭礼では勢力の他、飯岡助五郎や風窓半次など近郊の顔役がそろって賭場を開いている。祭りの三日の間、賭博は公許。役人は「賽銭勘定場」と高札がかかっている賭場を見回っては、賽銭のうちいくらかをお初穂として俺に差し出せと金をせびっている。
平手は最初の二日は酒を我慢したが三日目の昼になって顔色が悪くなってきた。これを見た勢力が甘酒代として平手に金を渡した。結局平手は料理屋で酒をたくさん飲んでしまう。そこに飯岡一家の食客で賭場に出張してきている高島郷太夫、志麻一角、鷹取運平がやってきた。この三人は神蔭流の達人秋山要助の弟子である。三人がはらった塵が平手の杯洗に入ったことから揉め事が起った。四人はこの勝負で落命しても一切構わないという証書を交わして表に出た。実力差は歴然としていて、平手は三人の耳や鼻は削いだが命は助けてやった。港の市兵衛、東金の仁兵衛という二人の侠客が仲裁して喧嘩が終わった。
市兵衛と仁兵衛は事を荒立てないよう飯岡助五郎に勧告する。助五郎は祭礼に来ている商人に迷惑をかけたくないと穏便におさめ、食客の三人は旅費を持たせて放逐した。

第二十五席~第二十七席  笹川の花会
笹川繁蔵は末世に名を残そうと、小見川の宿禰神社を修繕し、宿禰の碑を笹川に建てることとした。そのために大金が必要なので花会を催すこととし、繁蔵は花会の回状を諸方の侠客に送った。助五郎は、花会の名目は立派だが内実は繁蔵の金集めだとして自らは出向かず、洲の崎政吉を名代として遣わすこととした。助五郎が用意した義理(祝い金)は、助五郎が五両、乾分が三両あわせてたった八両と少なかった。
政吉は一家の三人を連れて花会が行われる繁蔵の家に出向き、助五郎は陣屋の要件があって来ることができないと告げて、義理を差し出した。それを見た繁蔵はその金を帳場に渡さず自らの懐に入れた。政吉が二階にあがると各親分の義理の金額が貼りだしてあり、どれも三十両から五十両と大金である。政吉はここに八両と書かれたビラを貼りだされたら助五郎親分の恥になると思い逃げたくなった。ところが貼りだされたビラは助五郎五十両、若い者三十両と合わせて八十両であった。政吉は帳場に降りて繁蔵に感謝を述べた。

第二十七席~第三十五席 神楽獅子大五郎の騒動
政吉が花会に出席している頃、同行の乾分は素人角力に参加したが負けて帰ってきた。繁蔵のもとで行われている角力で乾分が負けたことを知った助五郎は翌日、江戸の角力で二段目までいった玄人である神楽獅子大五郎を連れて出かけた。
笹川一家の清滝佐吉と神楽獅子との取り組みとなった。これに神楽獅子は勝ち、その後も神楽獅子に敵う者はいなかった。繁蔵の乾分にせかされた勢力富五郎が土俵にあがることなった。神楽獅子は勢力との取り組みでみっともない負け方をした。
後日、繁蔵の乾分の西尾の与一、花形の宇吉、水田の六蔵が飯岡の八幡宮の祭礼の見物をしたついでに飯岡の料理屋に上がって芸者を呼んで遊んだ。六蔵らは先日神楽獅子が勢力に角力で負けた様子をからかって歌い、それを階下にいた神楽獅子がききつけたことから喧嘩になった。表を通りかかった洲の崎政吉がこれを仲裁した。政吉は医者を呼んで三人を手当して金を渡した。政吉はこの喧嘩のことで繁蔵に詫びを入れに行こうと思ったが助五郎が放っておけというので風窓の半次に繁蔵へのとりなしを依頼した。半次は繁蔵に会い政吉に代わって詫びを入れた。
半次は政吉に、このままにしておくと騒動になりそうだから助五郎が直接笹川方と和解した方がよいと忠告した。

第三十五席~第三十九席 名垂の岩松の捕縛
九月八日、風窓の半次のとりなしにより松岸の料理屋酔月楼にて飯岡一家と笹川一家の手打ち式が行われた。双方二百人も集まる式において助五郎と繁蔵は盃を交わして兄弟分となった。
手打ち式に参加していた助五郎の乾分で甲州生まれの元吉が、笹川方の出席者に雨傘勘次を見つけた。雨傘勘次はその昔、身延山下で上州の絹商人を殺して三百両を奪った泥棒であるが、今は名垂の岩松と名をかえて繁蔵の乾分となり念仏を唱えてばかりいる。
元吉が助五郎に報告すると、助五郎は岩松こと勘次を捕縛すれば、悪党を匿った廉で繁蔵もお縄にかかるだろうと考えた。
ある日、繁蔵は目明しの岸島屋権兵衛に呼び出された。役人が待っているというので金の入った菓子折りを用意して訪ねた。権兵衛の家では名垂の岩松が籠の中に捕らえられていて、関八州の役人は岩松が乾分になった経緯を繁蔵に問いただした。役人は繁蔵に岩松の本名は雨傘勘次で人殺しの兇状があることを伝え、本来繁蔵も江戸に送るべきところ、日ごろの行いがよいので目こぼしすると伝えた。籠の中の岩松は笹川一家から人殺しの悪党を出したことを繁蔵に詫びた。繁蔵はその帰りに寄った料理屋で、岩松が捕まったのは助五郎の密告によるものだということを小見川の丑松から聞く。繁蔵は助五郎の策略を卑怯だと怒りこの恨みを晴らしてやろうと念じた。

第三十九席~第四十七席 飯岡への斬り込み
繁蔵は喧嘩の種を蒔こうと助五郎の乾分の舎利の源次の賭場を荒らす。それに対抗して洲の崎政吉が笹川の縄張り内に賭場を開く。その賭場を荒らそうと小南の庄助ら笹川一家の者が出向くが返り討ちにあう。
繁蔵は、勢力富五郎、夏目の新助、清滝の佐吉ら主だった乾分二十余人と平手造酒を集めて相談し、飯岡方に喧嘩を持ち込もうと意見がまとまった。
ある晩、繁蔵らは助五郎の妾の家に斬り込んだ。平手は奥州浪人川口伴助ら飯岡の用心棒を倒す。騒ぎをききつけた成田の甚蔵、荒町の勘太、下緒伊之助ら助五郎の乾分二三十人も喧嘩に加わった。
庭では繁蔵と助五郎が一騎打ちをしていたが、助五郎乾分の松崎の庄蔵が繁蔵を背後から切りつけようとした隙に、助五郎は塀を乗り越えて逃げた。この喧嘩で笹川方に怪我人は出たが死人はでなかった。飯岡方は十三人が怪我をして七人が即死した。
繁蔵は助五郎が仕返しにくるだろうと用心していたがその気配がない。やがて平手造酒は酒の飲みすぎで喀血し、桜井の幸福寺で養生することとなった。

第四十七席~第五十三席 新生の留吉・留次郎
かつては銚子の五郎蔵の乾分で助五郎とは兄弟分だった新生の留吉は足を洗って小間物屋を開き店は繁盛していた。留吉の息子の留次郎は親孝行で道楽もせず学問ばかりしている青年だ。留次郎は留吉の名代として銚子の参会に出席し、その後仲間に連れられて潮来の遊女屋に入った。留次郎は雛鶴という遊女と相思相愛となり、雛鶴のもとに通うようになる。雛鶴の客に飯岡助五郎の乾分の土鼠(もぐら)の又蔵がいた。ある日、雛鶴は又蔵の相手をして又蔵の懐から金を取ったうえで散財させた。その金を留次郎に渡しているのが又蔵にみつかり騒ぎとなった。勢力富五郎と清滝佐吉がいる座敷に留次郎と雛鶴が逃げてきた。訳を聞いた勢力は、雛鶴と又蔵との間に入って和解させた。勢力は留次郎と雛鶴の中を割いたら心中するだろうと思い、雛鶴を身受けして留次郎と一緒にさせた。
笹川一家が飯岡一家に斬り込んだ後、助五郎は笹川へ乗り込むことを決め、松岸の半次のもとに乾分を集めていた。このことを知った留吉留次郎の親子は、ここは恩に報いるところと勢力と繁蔵のもとにこのことを知らせに行った。

第五十三席~第六十席 洲の崎政吉
館山領洲の崎の村に磯右衛門という顔役とその娘のお定がいた。磯右衛門の後妻おしんはお定をいじめ、お定は磯右衛門の弟の藤次のもとに逃げた。柿の栽培を生業としていた磯右衛門はある日柿泥棒を棹で叩いて木から落とした。柿泥棒は当たり所が悪く死んでしまったがそれは名主の倅の与之助だった。磯右衛門は自主しようとしたが、藤次の提案で与之助の屍骸を棄てることとし、柿の木の下に埋めた。その後、おしんは利助という男とよい仲になって金をさらって逃げた。三年後、おしんはたびたび磯右衛門の元にやってきて、与之助の件をばらすと脅して金をせびりとるようになった。我慢できなくなった磯右衛門がおしんを斬りつけようと追いかけているところを役人につかまった。おしんは役人に、磯右衛門と藤次が与之助を柿の木の下に埋めたと証言するが、藤次はそれをきっぱり否認した。役人が柿の木を掘ると人骨ではなく犬の骨がでてきた。おしんと利助は悪巧みして嘘をついたと役人に捕らえられ、入墨のうえ追放となった。藤次は磯右衛門に、お定の入れ知恵によって与之助の代わりに犬の死骸を埋めたことを伝えた。お定は父親の磯右衛門の元に戻った。
洲の崎村の政右衛門という漁師がお定の賢さに惚れた。政右衛門の倅の政吉とお定は結婚し、夫婦仲睦まじく市太郎という息子もできた。
政吉は飯岡助五郎に見いだされて乾分になった。力が強く道理がわかり金離れも綺麗で、やがて助五郎の右腕となった。
笹川への出入り前に飯岡一家が松岸に集まっている際、政吉は家に帰ってきた。政吉はお定に、今夜親分と一緒に笹川に斬り込むこととなった、俺の命はないだろう、俺が仏になったと聞いたなら市太郎を連れてどこかに再縁しろ、市太郎は堅気にしてくれ、と伝えた。お定は政吉に、どうか人に笑われないように死んでおくれ、いずれわたしも後から行くと告げた。

第六十一席~第六十六席 笹川の決闘
八月二十日、松岸の支度場を出た飯岡一家は船に乗り込んだ。一番船には荒町の勘太はじめ二十余名、二番船には洲の崎政吉はじめ二十余名、三番船は飯岡助五郎はじめ三十余名、その他の者を合わせて八十有余名が利根川を上った。
繁蔵の元には新生の留吉留次郎の親子から今夜飯岡方が攻めてくるとの手紙が届いた。乾分は散らばっていて手近には二十人しかいなかった。勢力は鉄砲を使って飯岡方を動揺させる作戦を立てた。繁蔵、勢力富五郎、夏目の新助らは飯岡方の到着を待ち構えた。
笹川に上陸した飯岡方は河岸で待ち受けている笹川方を見て、出入りがばれていたことに気付いたが敵が小勢であると見とって斬り込んでいった。笹川方は逃げたがこれは策略である。追いかける飯岡方の背後から藪の中に潜んでいた夏目の新助らが鉄砲を放った。鉄砲により飯岡方は三四人倒れた。洲の崎の政吉は笹川一味を数人斬って進むと勢力富五郎が樫の棒を持って応戦した。そこを荒町の勘太が切りかかる。繁蔵も必死になって斬り合う。
桜井村の幸福寺では酒のために体をこわした平手が療養していた。八月二十日の夜は医者から止められていた酒を寺で飲んでいた。笹川の若い者が幸福寺に行き、飯岡方の出入りを平手に伝えた。平手は笹川に駆け付け、平手を見た笹川一家は元気になった。平手造酒の前に洲の崎政吉が進み出て決闘となった。平手は洲の崎政吉と荒町の勘太の二名を同時に切り倒した。その技に驚いた飯岡方は崩れて笹川河岸まで下がったが、このとき松岸の半次ら三十人を乗せた船が笹川に到着した。飯岡方は半次らの到着に元気づいて再び攻め入った。だが飯岡方はだんだん不利になりついに退却した。
笹川方は三人の死者があった。飯岡方の死体は洲の崎政吉を始め十三あった。笹川方はこれを棺に納め、翌日松岸の半次のもとに届けた。
陣屋と通じている助五郎がこの後役人を笹川に差し向けると予想されたので、笹川一家はめいめいこの土地を離れることにした。繁蔵の持ち金が足りなかったので、勢力は女房おりきの父親で清滝村の名主善兵衛から二百両を借りた。繁蔵はこの金を一家の者に分配し、繁蔵は上方へ、勢力は仙台の信夫の常吉の元へ、清滝佐吉は伯父のいる江戸へ、平手は上州大前田栄五郎のもとへそれぞれ向かった。

第六十六席~第七十席 笹川繁蔵の最期
下総の神崎の友五郎という侠客が助五郎と繁蔵の仲を納めたいと申し出た。助五郎はお互い縄張りに手をかけないという条件で和解したいと頼み、友五郎は尽力した。その後繁蔵の身内の者は笹川に戻ってきた。友五郎は繁蔵に隠居を勧めたが、まだ助五郎はこちらを狙っているようだしの助五郎に恐れをなして隠居したと思われるのはいやだからと断った。友五郎はそれなら用心してなるべく外出しない方がよいと忠告した。
繁蔵は用心をして外出を控えていたが、名主宇右衛門の倅市太郎と豪農藤本嘉兵衛の娘が結婚することとなり、婚礼の日は宇右衛門の家を訪ね、そこでおおいに飲んだ。
その帰り道、繁蔵は飯岡一家の成田の甚蔵、花輪の弁吉、八木の音松、銚子の次郎その他二名に襲われて命を落とした。
魚売の万蔵が竹藪の中で血に染まって倒れている繁蔵をみつけて笹川一家に知らせた。笹川一家は諸方の侠客に知らせて繁蔵の本葬を行った。四十九日が終わり、勢力富五郎は、親分繁蔵を殺したのは飯岡の奴らに違いないと乾分を集めて斬り込みを決める。

第七十席~第七十三席 平手造酒の最期
八月六日の夜、勢力、平手造酒ら笹川一家の約十六人は繁蔵の仇を討つため飯岡に向かった。ところが助五郎の家の周りを四五十人が取り囲んでいる。どうも笹川方の斬り込みがばれていたらしい。
こちらの方が人数は少ないが、勢力や平手は退くことは考えず死ぬ覚悟で斬り込んだ。勢力、清滝佐吉、夏目の新助らは脇差が折れるまで戦ったが、飯岡方はますます人数が増えて勝つ見込みがない。平手の指示で笹川方は退却し、平手はそのしんがりにいた。
笹川の決闘で平手造酒に斬られた政吉の女房のお定は政吉の仇を討とうと喧嘩場に来ていた。お定は退却する平手造酒の背後から槍を突き出した。おさだの槍は平手の脇腹に刺さった。平手は槍を引いておさだの首を討ち落とした。平手は傷を負いながら待っている味方のもとに戻ったが、ついに勢力の腕の中で息をひきとった。平手は繁蔵の菩提寺に埋葬された。

第七十三席~大団円(第七十九席) 勢力富五郎の最期
飯岡での決闘の後、関八州の役人や銚子の陣屋から役人が次々と笹川一家の者を捕縛して江戸に送るようになった。笹川一家は身を隠した。勢力は、女房おりきの父である清滝村の名主善兵衛のもとに乾分の鏑木の栄助と隠れた。勢力は元乾分で今は小見川で鰻屋をやっている村吉こと村田屋吉五郎を呼び寄せ、村吉に自分の女房のおりきを娶ってほしいと頼み、善兵衛もこの話を承知した。
勢力を探す役人の警戒がなかなかゆるまず、勢力は隠れているのが見つかる前に行動しようと、ある夜飯岡に向かった。一人で助五郎の店にあがりこんだが、助五郎は留守であった。乾分に「助が帰ってきたら勢力はまだ生きているとそう云え」と言い残して帰ってきた。乾分の栄助もさすがにこの豪胆な行動には戦慄した。
芝居好きの勢力は桜井の町に芝居が来ていることを知り栄助を連れて顔を隠して観に行ったが、芝居の途中で八州廻りの役人が入ってきた。芝居が終わったら捕らえられると思い、芝居中に栄助が役人を背後から斬り、その隙に勢力は逃げた。その夜栄助も逃げのびて善兵衛の家に帰ってきた。栄助が沼に捨てた血染めの衣類が見つかって、役人は勢力がこの近くにいるに違いないと目をつけ、一軒一軒調べ始めた。勢力は善兵衛に別れを告げ、善兵衛は勢力に金と猟銃を渡した。勢力と栄助は夏目にある金刀毘羅山に身を隠した。
五日程経つとどうしてばれたか、八州廻りの役人中山誠一郎や飯岡助五郎の身内など三百人が山を取り巻いた。
勢力富五郎と鏑木栄助の食べ物が尽きた天保十四年十一月末、村吉こと吉五郎が裏山から登ってきて勢力に米を渡した。山を下りて助五郎をしとめる最後の機会を勢力は狙っていたが、吉五郎の話からそれができないとわかると、ここで死ぬ覚悟を決めた。
三日後、勢力はまだ齢十八の栄助の首を斬り落とした。勢力は鉄砲で自分の胸を撃って自害した。

以上全79席のあらすじです。
新聞には石井滴水の挿絵が添えられていていい味を出しています。
長講天保水滸伝によりも構成がすっきりして現代の講談に近づいている気がします。ただし笹川の決闘で平手造酒が命を落とさず、繁蔵殺害の仕返しとして乗り込んだ喧嘩で政吉の女房によって殺されているのは注目すべき点でここに悟道軒圓玉のオリジナリティーがあるのかもしれません。
また鹿島の棒祭りで、侍の払った埃が平手造酒の杯洗に入ってしまう場面では、平手は最初は落ち着いて酒を捨てて新たに酒を注文し、その後犬婆アの犬の賢さと侍の無礼さを比較するという描写になっており、現代版の短絡的な平手よりかっこいいなと思いました。


□講談本「天保水滸伝 明神森の大喧嘩」 大正14年

中扉には「侠客喧嘩帖 笹川 飯岡 明神森の大喧嘩」とあります。全27話。題名は「明神森の…」となっていますが、天保水滸伝の物語全編が語られています。付録として「荒神山の血煙」の1話が収録されています。
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□講談本「侠客 天保水滸伝」 大正14年

八千代文庫の長編講談シリーズのひとつ。全25話。各話の最初に「本編活動の人々」として登場人物を列記しているのが親切。三遊亭円朝の「貞操お民」「怪談牡丹燈籠」も併録。
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□神田ろ山の講談「笹川繁蔵」 20席 昭和4年

大日本雄弁会講談社の講談全集の第十巻には4つの長編講談と4つの短編講談が収録されている。神田ろ山「笹川繁蔵」はその長編講談のひとつ。全20話。第17話が「孫次郎の侠気」で、現代でいう「三浦屋孫次郎」のエピソードがはじめて確認できる講談本です。
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■三代目神田伯山のラジオ講談「天保水滸伝」


昭和初期はラジオで浪曲や講談は人気番組で、放送日にはその内容が新聞に掲載されることもありました。
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。かなり紙面を使って詳細に掲載されていることからこの番組の注目度が推し量れます。以下新聞に掲載された4話の内容を簡潔にご紹介します。

二月十二日 第一席 岩松の旧悪
天保十二年六月十五日、笹川繁蔵は十一屋の二階でなだれの岩松がここ二三日見えないことを気にかけていた。助五郎の妾の父親の岸島屋権蔵が繁蔵を訪ね、念仏の岩松が召し捕らえられたことを告げた。繁蔵がその罪過を訊くと、岩松はもとは雨傘勘次という甲州の長脇差で商人二人を斬って三百両の金を奪ったお尋ね者だと云う。役人の松村小三郎が呼んでいるというので繁蔵は子分の佐吉を連れて佐原の岸島屋に行った。繁蔵は袖の下として金の入った菓子折りを松村に渡して、お叱りを受けた後、籠の中に捕らえられている岩松に会った。岩松は涙を流して別れを惜しんだ。
その帰りに料亭で飲んでいると、蟒(うわばみ)の六蔵という男が大きな鼾をかいて寝ていた。六蔵は繁蔵に気付くと、今回岩松の旧悪が露見したのは、先日の松岸での手打ち式にいた文吉があれは盗賊だと助五郎に告げ口し、助五郎が岩松と繁蔵を役人に捕らえさせようと手をまわしたからだと告げた。怒り心頭に燃えた繁蔵は助五郎を斬って岩松の恨みを晴らそうと決心した。

二月十三日 第二席 変な侍が来た
やるせない気持ちで繁蔵は帰って来た。繁蔵は二階でしばらく考え込むと女房に草履を用意させた。これからどこへ行くのか子分にも女房にも伝えない。平手造酒が繁蔵に訳を聞いた。平手は江戸お玉が池の千葉周作の門弟で道場の八天狗と言われた逸材だが酒の失敗で破門になり今は繁蔵方の食客である。繁蔵は平手に今夜助五郎を斬りにゆくという本心を打ち明けた。それを盗み聞きしていた子分たちは我も我もと同行を願い出た。平手も行こうと申し出る。有名な剣客が博徒と斬り合いをしたら恥になるからと繁蔵は断ったが、平手の意思が強く平手も加わることとなった。繁蔵は平手や子分たちと飯岡に斬り込んだ。

二月十四日 第三席 留吉の恩返し
繁蔵の刀を助五郎の刀はガッチリ受けた。じりじりと助五郎が後ろに下がり背が雨戸についた際、助五郎は雨戸と一緒に庭に転げ落ちた。繁蔵は庭に飛び降り、助五郎を池のふちまで追い詰める。助五郎は池の中の弁天堂に飛び移った。繁蔵も飛んだが足を踏み外して池に落ちた。今度は助五郎が池にはまっている繁蔵に斬りかかる。それを見た勢力富五郎が投げた刀が助五郎をかすめた。富五郎に気付いた助五郎は塀を乗り越えて逃げた。喧嘩が終わり笹川一家は引き揚げた。笹川方はそのうち助五郎が斬り込んでくるだろうと警戒していたが、翌月が過ぎても来ないので、人の手配も緩んでいった。
昔銚子の五郎蔵の身内として男を売っていた留吉は今では堅気になって下総荒生村で質屋をしていた。風窓半次の子分の小吉が、質に入れた脇差を一文無しで受け取りに来たことから質屋の番頭ともめた。留吉が訳をきくと、子吉は今晩助五郎が繁蔵方へ夜討ちをかける助太刀のためだと答えた。留吉は子吉に脇差を返してやった。留吉の倅の富次郎は勢力富五郎に世話になったことがあるので、その恩返しとして留吉は駕籠を飛ばしてこのことを繁蔵に伝えに行った。

二月十五日 第四席 平手造酒の報恩
留吉から報告を受けた繁蔵は、子分にバラアミ(博徒の急場の身内集め)を命じた。勢力富五郎、清滝の佐吉、夏目の新助、四の宮の権太らが世間を騒がさないようにとひっそりと繁蔵のもとに集まった。子分九十名は、笹川河岸の藪と明神の森で鉄砲と竹槍を持って潜み飯岡勢を待ち構えた。飯岡方は風窓半次の家を出て利根川から笹川に向かった。一番船の大将獅子神楽の大五郎らは笹川河岸に着くと繁蔵宅を目指して駈けたが、笹川方の鉄砲に撃たれバタバタ倒れた。笹川方は続いて竹槍で攻撃する。二番船、三番船の飯岡方も上陸し、繁蔵方と決闘となる。漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい。
平手造酒は酒の飲みすぎで心臓を痛め吐血するようになり尼寺で養生していた。喧嘩を知った平手は笹川へ駆け付けた。平手の愛刀一文字の早業に助五郎方は崩れる。助五郎方の成田甚三、札の兵十、石の川の石松、三浦屋の孫次郎等が平手に立ち向かった。平手の刀が折れ、石に躓きよろめいた平手の脇腹を石松が竹槍で突き、平手は倒れた。
夜が明けても決着がつかないとみた助五郎と半次は引き揚げを命じた。しんがりの洲の崎の政五郎、政吉兄弟は笹川方を食い止めたが、清滝の佐吉と姉ヶ崎の伝次に斬られて死んだ。助五郎方は船で風窓の半次方へ退却した。繁蔵は平手造酒を探し、明神の森に深手を負ってあえいでいる平手を見つけた。

以上4席のあらすじでした。
おなじみ名垂の岩松捕縛から大利根河原の決闘まで。決闘の場面の「漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい」は美しい描写なのでそのまま転載しました。三代目神田伯山の美学が伝わってくるかのようです。

長講天保水滸伝では「洲の崎の政五郎」、圓玉の新聞講談では「洲の崎の政吉」、三代目伯山のラジオでは「洲の崎政五郎・政吉兄弟」となっているのが面白いです。

また注目すべきは、上記のどの平手造酒も胸の病にはかかっていないことです。酒の飲みすぎで具合が悪くなり寺に療養したことになっています。それではかっこわるいので現代の話では労咳を患っていたのことになっているのでしょう。平手造酒が労咳持ちなのは比較的新しい設定なのでした。どこからこの設定が生まれたのか興味があるところです。



□「天保水滸伝 勢力富五郎」 昭和25年

富士屋書店刊行の長編講談シリーズのひとつ。全19話。飯岡一家と笹川一家の出入りの後、繁蔵は父親の消息を確かめるために和歌山にいる伯父を訪ねる。その後大阪に移って活躍するという他の講談本にはみないエピソードがあります。
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□講談本「笹川繁蔵」 昭和29年

大日本雄弁会講談社発行。昭和4年版「笹川繁蔵」と内容は同じですが、ディテールを見てみますと、やはり現代の講談「天保水滸伝」に近くなっています。この講談本の中の話のいくつかが生き残って、現代の講談天保水滸伝を形成しているといえるでしょう。
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天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」

天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」

大正2年に刊行された「侠客全伝」という本に「天保水滸伝」という実録体小説が収められています。この小説の序文には「嘉永三年」と記されており、おそらくこれが現在残っている最古の天保水滸伝の物語ではないかと思います。
ただし、大正2年に刊行されたものは嘉永3年版より加筆が進んだバージョンと推測されます。
「侠客全伝」収録の天保水滸伝がどのように書かれ加筆されていったのかはよくわかりませんが、演芸としての天保水滸伝の発祥を調べるうえでの最重要資料であることは間違いありません。
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天保水滸伝序文

以下、各話のタイトルとあらすじを紹介します。
※あらすじは今後少しづつ追加してゆきます。

<天保水滸伝>

初編巻之一 

下総国銚子観世音利益の事 ならびに 銚子五郎蔵、飯岡助五郎が事 附 助五郎、生田角太夫を取挫く事

下総国銚子に利益が広大無量な久世観音があった。ここに子分数百人を持つ五郎蔵という大親分があった。飯岡助五郎は末の子分であったが、今は五郎蔵ら大半が死んでしまって、助五郎他わずかな子分が生き残っているだけである。
飯岡、銚子、松岸などを傍若無人に荒らし回っている生田角太夫という戸田流の達人の浪士がいた。角太夫がいつものように酒楼に入って飲み倒そうと、飯岡の住屋という店に入った。他の客は角太夫を見て逃げ帰ったが、そこで飲んでいた助五郎は素知らぬふりをして飲んでいた。角太夫は自分に礼儀を尽くさぬ助五郎を見て怒った。角太夫と助五郎の喧嘩になった。助五郎は親指を斬り落とされたが、角太夫は両目をつぶされて悶絶した。角太夫は役人に引き立てられ重い刑に処せられた。このことにより助五郎の名は知れ渡り、数百人の子分を持つようになった。

初編巻之二 

荒生留吉、小船木半次が事 ならびに 半次留吉、小美川にて口論の事

銚子の五郎蔵の組の内に、長指(ながざし)の権次という者がいた。権次は助五郎の兄貴分で、荒生の留吉、風窓(かざまど)の半次という二人の子分がいた。半次は小船木の菓子屋の倅だが風窓次郎右衛門という柔術の達人の門弟になり、風窓半次と名乗った。半次と留吉は兄弟分で助五郎とも懇意にしていた。ある日半次が開いていた小美川の賭場で半次と留吉が激しい言い争いをした。その時、留吉の子分の手玉の長こと長太は何もせずただ黙っていた。留吉は帰ってから、何の手出しもしなかった長太を責め立てた。長太は、留吉に世話になる前に半次の世話になっていたことがあり双方への義理から手出ししなかったと弁明したが、留吉は長太を追い出した。長太は助五郎の元に行き、半次と留吉を和睦してもらえないかと頼んだ。

助五郎、留吉が宅に赴く事 ならびに 半次、留吉、松岸にて戦う事

飯岡の助五郎は角太夫の一件以来遠近に名を響かせて、役人からは目明しを仰せつかり御用の風を吹かせていた。天保七年の六月十三日、半次と留吉を和談させようと留吉のもとに向かうことにした。
小見川の賭場で言い争いをした後の半次と留吉は、しばらくは面とは向かわずに相手を罵っていた。その噂が双方の耳に入ると、半次も留吉も怒り相手方へ乗り込もうとした。ついに小船木と松岸の間で決闘となった。
助五郎が留吉宅を訪ねると、留吉は留守であった。小船木に用があると言って出かけたことを知ると、助五郎は一目散に小船木へ駆け出した。

初編巻之三

半次、留吉、和談の事 ならびに 助五郎、留吉、不快の事

半次と留吉の決闘に助五郎が割って入った。何とか二人を説き伏せ、日を改めて松岸の茶屋で仲直りさせることとした。手打ち式には近在の者も大勢集まり、無事半次と留吉は和談の盃を交わした。
数日経って、助五郎は留吉に長太を堪忍してほしいと頼むが、留吉は断った。強情も大概にしろと助五郎が意見すると、ならばもう一度半次と決闘に行くと留吉は楯突いた。結局長太は助五郎が引き取ることとなった。この時以来、留吉は助五郎を不快に思うようになった。

洲崎正吉生立の事 ならびに 政吉が父政右衛門、身延参詣の事

助五郎の子分に房州洲崎出身の政吉という者がいた。
政吉の父親の政右衛門は四十才になっても子を授からなかった。貰い子を育てれば実の子も生まれるという言い伝えにあやかり、那古村から二歳の男児を貰い受けると政吉と名付け、乳母をあてがって育てた。翌年実の子も生まれ政次郎と名付けた。政吉が十九才、政次郎が十七才に成長すると、政右衛門は家業を政吉に任せ、自身は身延山への参詣に行くこととした。参詣の帰路、甲州街道鶴川宿の茶屋で、政右衛門が遅れている供の者を待っている時に、野州名垂の出身という二十一二才の若者と出会った。この若者も江戸に用事があるとのことで、一緒に江戸に向かうこととなった。ようやく供の男が追いついたが足の爪を怪我していてゆっくりとしか歩けない。名垂の若者は供の男を助けながら進み、一行は小原宿のふじ屋という宿に泊まった。

初編巻之四

助五郎、甲州にて政右衛門の危難を救う事 ならびに 政吉、助五郎が子分と為る事

助五郎は所用で上州桐生に行った後、甲府にまわり身延山を参詣した。土地の名のある者に面会をしながら帰る途中、幡村の四郎兵衛という知人のもとに逗留し小原宿の賭場に通った。ある夜面白くないことが起きて、助五郎は賭場を立って帰ることにした。小仏峠の辻堂に入って微睡んでいると、明け方叫び声が聞こえた。血に染まった男が一人倒れていて、刀を持った若い男が別の男を脅しているところだった。助五郎は飛びかかって刃を奪い若い男の腹を蹴飛ばした。生け捕りにしようとしたが、若い男は谷底に落ちてしまった。助かった政右衛門はこれ以来助五郎を命の恩人として慕うようになる。
一方政吉は、家業を疎かにし、博奕に明け暮れるようになっていた。ある日、助五郎は那古村の知人を訪ねたついでに政右衛門を訪ねた。政右衛門は助五郎から政吉に意見をしてもらうよう頼んだ。助五郎が政吉に説教をすると、政吉は隠していた本心を打ち明けた。大恩ある親父様の家督を継ぐのは養子の自分ではなく、実子の政次郎であってほしい。でも正直に願い出ても受け入れてもらえないだろうから、放蕩に身を持ち崩して勘当されようと思った。これを聞いた助五郎と政右衛門は、義理を通そうとする政吉の心意気に感心し、政吉は助五郎が預かることとなった。

荒町勘太、御下利七が事 ならびに 勘太酔狂の事

助五郎の子分に、常陸荒町出身の勘太と御下村出身の利七がいた。勘太は身の丈六尺で色黒く、力が強くて素人角力では敵う者がいなかった。利七も力持ちだが性格は極めて温厚だった。二人は仲睦まじく水魚の交わりであった。ある時大酒飲みの勘太が酔っ払って、下総では角力で自分に並ぶものはいないと傍若無人に高慢な態度をとると、利七がいつもの大言壮語が始まったと笑った。それを見た勘太は怒り、ついに二人は喧嘩となった。そこに洲崎政吉が通りかかって二人を仲裁した。勘太と利七は反省して、政吉も一緒にまた飲み始めた。

初編巻之五

鏑箭馬仁蔵、岩瀬福松が事 ならびに 福松大勇不適の事

江戸では三十六人の町奴が異形の格好をして狼藉を働いていたところ、奉行が町奴狩りを行って、このような者は死罪にすると触れたため、男達(おとこだて)と名乗る者は市中にいなくなった。しかし下総、常陸、上州には長脇差を携えて博奕を渡世とする者が後を絶えなかった。銚子の五郎蔵、飯岡の助五郎もそうした男達長脇差である。
下総の笹川は勢洲津の城主藤堂和泉守様御飼葉領で小領ではあったが、諸国の達衆が集まって賑わっていた。諏訪大明神の境内では地角力が行われていて達衆が勝負を争って賑わっていた。
笹川村の百姓与兵衛の孫の福松は成人してから鏑箭馬(やぶさめ)仁蔵の子分となった。仁蔵が死んだ後、福松は岩瀬繁蔵と名乗り大達衆となった。
繁蔵は幼少の頃から角力が好きで大変強く、成人してからも敵う者がいなかった。ある時、一匹の大牛が逃げて町中を駆け出し、誰も手出しができなかったところ、繁蔵が牛を取り押さえて急所を打って鎮め、持ち主に返した。
仁蔵は野洲栃木の出身で、武道に励み、剣道や柔術を学んだ。特に鏑箭馬が巧みだったので鏑箭馬仁蔵と呼ばれていた。仁蔵がまだ栃木にいたところ、領主の元に大島甚蔵という役人がいた。甚蔵は大変傲慢で不法難題をふっかけて歩いていたので土地の者は大変迷惑していた。ある時仁蔵が料理屋で飲んでいると甚蔵がやってきた。仁蔵は飛びかかって投げ飛ばし、人を苦しめる人畜め、二度とここへ来るなと罵った。甚蔵は怒り刀を抜いたが、仁蔵はわけもなく返り討ちし、甚蔵は斬り倒された。仁蔵は栃木を逐電し、小美川に移り住み、名を繁蔵と改め、この地で多くの子分を持った。
それから二十数年が経ち、年老いた仁蔵は賭場を子分の頭に預けていた。あるとき笹川の福松という若者が仁蔵の賭場に現れ、賭場を荒らした。仁蔵の子分たちは福松を叩き伏せ、簀巻きにして川に打ち捨てた。

鏑箭馬繁蔵、福松へ対面の事 ならびに 福松、鏑箭馬が養子と為る事

与兵衛の知人の小助という者が夜網しているときに、簀巻きになった物が小助の船に流れ着いた。解きほどいてみると、福松だったので、驚いて助けた。福松は蘇生して笹川に帰った。
それから四五日して、福松は鏑箭馬繁蔵のもとにひとり乗り込んだ。鏑箭馬は、怒って刀を抜く子分達を制して福松の相手となった。鏑箭馬は福松の攻撃を受け流すと、福松の刀を落とし両足を払った。鏑箭馬は、福松の死を恐れぬ肝っ魂に感心し、話をしようと奥の一間に福松を招き入れた。

初編巻之六

岩瀬源四郎直澄由緒の事 ならびに 源四郎遊里通の事

鏑箭馬繁蔵が福松に「その肝っ魂を見込んで頼みがある。俺も寄る年波。うちの子分にはお前ほど器量のある者はいない。賭場を譲るから自分に成り代わってここの親分になってほしい」と言うと、福松は多くの兄貴分を差し置いてそれはできないと断ろうとする。鏑箭馬は無理に福松を子分達の前に出し、福松を婿養子にとるから今日から福松を俺と思ってくれと宣言し、福松と子分達を和解させた。後日養子の披露目をして、福松は二代目鏑箭馬繁蔵と名を改め、大達衆となった。次第に子分も増え、小南の庄助、清滝の佐吉、勢力富五郎、五郷内の忠蔵、名垂の岩松、羽計勇吉、夏目の新助も子分となった。福松は鏑箭馬繁蔵ではなく岩瀬繁蔵と呼ばれるようになった。
文化年間の頃、笹川に岩瀬源四郎直澄という浪人がいた。
源四郎が故郷の播州にいた頃の話。藩より高禄を頂戴していた父源左衛門の家督は源四郎が継ぐこととなっていた。ある時源四郎は父に京都勤番を願い出て京都の屋敷に勤仕した。人柄の良い源四郎は周りからの評判がよかった。一年経ったある春の日、友人と嵐山へ花見に出かけた。その帰り、関口権蔵が源四郎を無理に嶋原の遊里に引き連れた。権蔵は馴染みの遊女を呼んで大騒ぎしたが、初めて遊里に足を踏み入れた源四郎は尻込みしていた。松人(まつんど)という遊女が酔っ払った源四郎を座敷から部屋へ案内して介抱した。

源四郎勘当の身と成る事 ならびに 源四郎、下総笹川に住居の事

堅物の源四郎だったがすっかり松人の虜になってしまった。それから遊里通いが続き、刀まで質に入れ、多大な借金を作ってしまった。このことが父源左衛門の知るところとなり、源四郎は勘当となった。剣道や柔道の指南をしながら諸国を遍歴すること四年、源四郎は下総笹川に流れ着いた。ここには長脇差の渡世人が多く、源四郎には多くの門弟ができた。源四郎は百姓与兵衛の娘の富を下女として雇い入れた。

初編巻之七

岩瀬源四郎故主へ帰参の事 ならびに お富、源四郎に名残を惜しむ事

源四郎が笹川に居を定めて三年、故郷より手紙が届いた。父源左衛門が急病なのですぐ帰ること、源四郎の勘当を解くので家督を継ぐことが書かれていた。すでにこの時、源四郎と富は夫婦の契りは結んでいないものの相思相愛の仲となっており、富は懐妊していた。源四郎は家督を継ぐために故郷に戻ることを富と与兵衛に伝え、二人もそれに理解を示し、涙を流して一生の別れを惜しんだ。

岩瀬福松出生の事 ならびに 富死去の事

富は源四郎を恋い慕う毎日だった。ついに臨月を迎え、男子を産み落としたが、産後の肥立ちが悪く富は十九歳で死んでしまった。残された与兵衛は赤子を福松と名付け乳母を招いて大切に育てた。福松が十四歳の春、与兵衛は病に倒れ、源四郎が置いて行った言葉の一部始終を福松に聞かせると死んでしまった。福松は孤児になったが憂いもせず、誰を怖がることもなく育ち、ついには達衆の頭となり、岩瀬繁蔵と名乗るに至った。

初編巻之八

岩瀬繁蔵諏訪の社内に石碑を営む事 ならびに 近郷の若者供、社内に於て角力の事

繁蔵は生来角力が好きで、近郷の若者が繁蔵を師と仰ぐほどだった。繁蔵は諏訪明神の境内に野見宿彌(のみのすくね)の霊を崇める石碑を建て、土俵を築いた。天保八年の七月、繁蔵が土俵開きとして角力大会を行うことを触れ知らせると、我も我もと若者が集まり、達衆の親分たちは子分を引き連れてやって来た。繁蔵は親分衆に応対し、飯岡助五郎の名代の洲崎政吉には特に丁寧に挨拶をした。繁蔵は多くの勝負を取り仕切ったが、ある日飯岡方の子分達の過半が負けてしまうことがあった。それを知った助五郎は翌日、元力士の神楽獅子大八をはじめ荒町の勘太、黒浜の松五郎、御下の利七、桐島の清次など角力が強い子分を遣わして、自身は相模屋という料理屋に陣取った。繁蔵は体調が悪く、子分の小南の庄助が名代として現場に居た。
繁蔵の子分の夏目の新助が飯岡の子分を二人投げると、荒町の勘太が出てきて新助を投げた。今度は繁蔵方から名垂の岩松がでてきて勘太を投げた。岩松はそのまま四連勝した。素人角力では五連勝すると大関となる。助五郎は神楽獅子大八を土俵に上げた。大八は強く、岩松は一突きで土俵の外へ突き倒された。この後大八は、名うての者を七人投げ飛ばし、誰でもやってこいと高慢に振舞った。

勢力富五郎、神楽獅子を組留むる事 ならびに 助五郎、繁蔵、対面の事

繁蔵の子分に萬歳村出身の勢力富五郎という角力が強い若者がいた。繁蔵の用事で外に出ていた勢力が戻って来ると、大八が土俵上で傍若無人な態度を見せていた。これを憎たらしいと思った勢力は静かに土俵に上がり、大八に勝負を挑んだ。体格は大八の方が大きいが、角力巧者の勢力は大八を土俵に沈めた。
助五郎が相模屋に戻ると、諸方の親分衆は相模屋に入って助五郎に挨拶をして、大酒宴が始まった。それを聞いた繁蔵は、まだ助五郎に会ったことがなかったので、勢力富五郎ら子分を引き連れて相模屋に入った。繁蔵は助五郎に初めて対面すると丁寧に挨拶を述べた。助五郎は勢力の角力の強さを口では褒めたが、内心は快く思っていなかったのでその言葉には棘があった。勢力もその言葉の針に内心怒ったが、表面上は穏便に助五郎に挨拶した。

初編巻之九

風窓半次、助五郎を説く事 ならびに 助五郎、繁蔵へ和談を言入るゝ事

風窓半次は親分の長指の権次が死んだので角力は見に行かなかった。墓参りの帰り、助五郎の家を訪ねると助五郎は角力の負けを口惜しがっていた。半次は助五郎に勝負は時の運なので気にすることはないと告げると、助五郎は納得して心が晴れ、繁蔵と富五郎に相模屋での言葉を詫びようと思った。
飯岡近くの酒楼で、笹川一家の三人が角力の高慢話を大声で始めたことがきっかけで、助五郎一家の四五人と喧嘩になった。人数の少ない笹川一家の三人は縛り上げられたが、そこに御下の利七がやってきた。助五郎親分が繁蔵と和解しようとしていることを承知している利七は繁蔵の子分の縄を解き介抱して喧嘩の後始末をした。助五郎はこの一件を驚いて、丸く収めるようにと利七に言い含めて笹川に遣わした。喧嘩の話は笹川にも届いていて繁蔵は助五郎が喧嘩をふっかけたものと怒り、利七が訪ねてきても居留守を使った。利七は繁蔵の子分の勇吉に、角力の遺恨で喧嘩を起こしたのではない旨伝言を頼んだ。繁蔵はこの伝言を聞いて、助五郎の狸の化かし口上と嘲笑った。

羽計の勇吉、利七を嘲弄の事 ならびに 清瀧の佐吉が事


初編巻之十
助五郎、佐吉へ利解の事 ならびに 佐吉、再度助五郎方へ赴く事
佐吉、江戸にてお常に逢う事 ならびに 繁蔵、常を貰ひ受くる事

初編巻之十一
荒生留吉怪異を見て財を得る事 ならびに 留吉、三河屋の手代を救ふ事
佐吉、留吉より金子借用の事 ならびに お常遊女に身を沈むる事

初編巻の十二
勢力富五郎、鹿島へ赴く事 ならびに 平手造酒、高島剛太夫、果合の事
勢力富五郎、平手造酒を助くる事 ならびに 勢力、造酒へ異見の事

初編巻之十三
信州諏訪関口屋丈右衛門が事 ならびに 丈右衛門妾の色に溺るゝ事
丈右衛門八代にて悪者に出逢ふ事 ならびに 菊次奸計、丈右衛門方へ入込む事

初編巻之十四
関口丈右衛門、月の宴を催す事 ならびに おこよ、菊次、密会の事
番頭忠助、丈右衛門へ諫言の事 ならびに 丈右衛門怒って忠助を暇の事

初編巻之十五
忠助遠謀の事 ならびに おこよ、菊次、奸計を企つる事
岩瀬、勢力、羽州山県へ赴く事 ならびに 忠助、主人の跡を追ふ事

二編巻之一
番頭忠助、丈右衛門へ再び忠義を述ぶる事 ならびに 関口屋家内盗賊の事 附 忠助、主人の末期に対面の事

二編巻之二
丈右衛門末期に身の懺悔の事 ならびに 忠助、おこよ、双方訴えの事
雨傘勘次、岩瀬繁蔵が子分となる事 ならびに 関口屋一件、江戸表差立となる事

二編巻之三
諏訪家より関口屋一条、江戸表へ差出の事 ならびに 矢部駿河守殿、双方御呼出の事
矢部殿再度双方御聞糺の事 ならびに こよ、菊次、奸計の事

二編巻之四
矢部殿、証書証人を以て御吟味の事 ならびに こよ、菊次、強弁の事

二編巻之五
矢部殿御糺明、悪人共罪に服する事 ならびに 御処刑、忠助菩提の道に入る事
洲崎政右衛門、雨傘勘次を見出す事 ならびに 助五郎、雨傘勘次を捕ふる事

二編巻之六
坂田屋留次郎、潮来の河内屋へ通ふ事 ならびに 繁蔵女房美代が事
地潜又蔵、留次郎を手込の事 ならびに 清瀧佐吉、留次郎を救ふ事

二編巻之七
岩瀬繁蔵、助五郎が土場を荒す事 ならびに 助五郎、繁蔵へ書面を贈る事
政吉、再び十日市場へ土場を開く事 ならびに 新助、忠蔵、政吉が土場へ来る事

二編巻之八
勢力富五郎、思慮遠謀の事 ならびに 繁蔵等七人、三河屋へ無心の事
岩瀬繁蔵等七人の者、助五郎が妾宅へ切入る事 ならびに 助五郎、政吉宅へ走る事

助五郎は、賭場は洲崎政吉に任せ、網元の仕事は息子に任せ、自分は別宅にて妾および下男下女ひとりずつと豊かに暮らしていた。そこに繁蔵ら七人が斬りこんできた。助五郎はわずかに怪我を負ったが庭に逃れそのまま政吉の家へ逃げ込んだ。
実は政吉は繁蔵が踏み込んでくるのを予想していて、その四日前から、荒町勘太、桐島清次、神楽獅子大八、矢切の庄太、提緒の伊之助、地潜又蔵、御下の利七らと政吉宅に陣取っていたのだった。三日たっても繁蔵がこないので解散したが、その翌日に繁蔵が斬りこみがあって、助五郎が政吉宅へ逃げ込んできたのである。政吉は医者に助五郎の傷を手当させると、繁蔵の帰りを討とうと手配をかけた。繁蔵ら七人は、助五郎は本宅か政吉の家に行ったに違いないと、助五郎の本宅に押しかけ、家財を破壊するなどさんざんに荒らしまわった。本宅に助五郎はおらず、政吉の家にいると思われたが、政吉の家には大勢の子分がいるに違いないのでいったんは笹川に引き上げることにした。
近在の村に法螺貝の音がして、大勢の飯岡一家の者が出動し、繁蔵らは囲まれてしまった。絶体絶命だったが、繁蔵一家から加勢が来て、繁蔵らは何とかその場を切り開いて笹川に戻った。

二編巻之九

政吉即智、繁蔵を襲ふ事 ならびに 荒生留吉、笹川へ内通の事

繁蔵らがあっという間に数百の者に囲まれたのは、飯岡一家の者が手分けして村人に、盗賊が出たから集まって生捕れ、と触れ回ったからであり、これは政吉の策略だった。繁蔵は死力を尽くして何とか逃げ帰った。助五郎は政吉の活躍を喜び、この遺恨を返報しようと翌日笹川へ乗り込むことを決めた。これを聞いて助五郎の子分らが我も我もと七十人集まった。陸地からでは目立つので川から笹川を不意打ちすることに決め、日が暮れるのを待った。
天保十二年八月二十三日、初夜の鐘を合図に出船した。一番船は、荒町の勘太を頭に二十五人、二番船は洲崎政吉を頭として二十五人、三番船には助五郎が乗り込んだ。
一方笹川では、繁蔵は助五郎がすぐに仕返しに来ないだろうとたかを括っていたが、勢力は知略に長けた政吉がこちらの油断をついてくるかもしれないと繁蔵を説得して、七人は日が暮れる前に繁蔵の家に集まっていた。
夜の十時頃、一人の飛脚が息せき切って走って来て繁蔵宅にいる清瀧の佐吉に手紙を届けた。これは荒生留吉から佐吉宛の手紙であった。助五郎が昨夜の仕返しに七十余人で川から乗り組んでくるということが書いてある。留吉は息子の留次郎が大恩を受けたお礼に、飯岡の動静を佐吉に内通したのだった。これを知った繁蔵と勢力は子分を寄せ集めた。清瀧の佐吉、夏目新助、羽計の勇吉、平手造酒ら十四五人が集まった。道の狭い藪道の両側の笹薮に子分八人が潜んで槍で突き、残りの者は鉄砲を持って身を隠すという作戦を立てた。

助五郎、笹川へ船にて押寄する事 ならびに 笹川大喧嘩の事

出入りが内通されているとは夢にも思わない飯岡方は、繁蔵と平手造酒を真っ先に討ち取ってしまおうと計画をたてていた。午前一時頃、飯岡方の船が笹川に近づくと、見張っていた笹川一家の子分が繁蔵に報告した。
一番船の荒町勘太、桐島清次、堤緒の伊之助、大矢木熊五郎らは船を降りて明神の森まで押し寄せた。二番船も着岸したが、政吉は備えを固くして慎重に進むよう子分に指示した。荒町勘太の一隊と明神の森で待ち受けていた笹川一家との決闘が始まった。飯岡方はすぐに七八人が打倒され、他の子分は逃げだしたが、勘太や青次や伊之助はここを死に場所と奮闘した。

二編巻之十

荒町、大矢木、桐島等最後の事 ならびに 洲崎政吉憤死の事

槍を構えた繁蔵子分が潜んでいる明神の森の笹薮に、政吉の一隊が来た。政吉は胴と腹を左右から一度に突かれた。政吉隊の者は笹薮にいる繁蔵一味に斬りこみ乱闘となった。笹薮の上手より夏目新助ら、下手より平手造酒、羽計勇吉らが加勢してきて、政吉隊を斬りまくった。そこに三番船に乗っていた神楽獅子大八、矢切の庄助、御下の利七ら助五郎の一味二十八人が押し寄せてきた。まず造酒を討取ろうと躍起になっている一団に、「汝等が目指す平手造酒は我なり、見事討ち取って手柄にせよ」と造酒は向かっていった。これに夏目新助、羽計勇吉らが続き、壮絶な修羅の争いが展開された。一方繁蔵、勢力、佐吉らは荒町勘太の一隊と闘っていた。桐島清次は勢力と佐吉に討ち取られた。大八木熊五郎は猿田平次と貝塚半七に討ち取られた。繁蔵と荒町勘太は一騎討ちの末、繁蔵が勘太を討ち取った。すでに瀕死の政吉は笹薮に加勢に行く平次を見つけると最後の力で討ち取った。しかし佐吉ら四人が駆け付けてついに飯岡屈指の荒者と言われた政吉は斬り殺された。

神楽獅子大八勇猛、飯田兄弟を討取る事 ならびに 平手造酒武勇、討死の事

平手造酒一人に対して飯岡一家の十一人がぐるりと取り巻いた。一方神楽獅子の一団は夏目新助の一団と一進一退の攻防をしていた。力の強い神楽獅子大八は九尺ある棒を振り回して繁蔵の子分を叩き伏せながら進む。繁蔵子分の飯田兄弟が大八の左右から斬りかかったが、大八はものともせず二人を叩き殺した。
平手は十一人を相手に秘術を尽くして切り結ぶが、命運尽きたか平手の刀がぽっきり折れてしまった。平手はずたずたに斬りつけられ三十一歳の生涯を閉じた。

二編巻之十一

繁蔵大勇、神楽獅子を討取る事 ならびに 御下、黒濱、提緒等、助五郎を落す事

人数の多い神楽獅子の一団に夏目新助の一団は押されていた。そこに、繁蔵、勢力、佐吉らの加勢があって、すさまじい決闘は続いた。繁蔵の勢いはものすごく飯岡方が崩れ出した。
船場に控えて様子を見ていた助五郎のもとに血だらけになった堤緒の伊之助が馳せ参じた。伊之助は助五郎に、繁蔵方の策略にはまり多く者が命を落とした、このままでは一人も助からないので助五郎親分は船で引き上げてほしいと注進した。深手を負って船に引き上げてきた子分を他の子分に介抱させ、助五郎は陸に降り立った。繁蔵が遠くから、尋常に勝負せよと助五郎めがけて馳せて来た。繁蔵と助五郎は切り結んだが繁蔵の勢いが勝っていた。そこに神楽獅子大八が助けに入った。繁蔵と大八の闘いとなった。繁蔵は大八が持っている棒を斬り落とし、ついには大八も斬り捨てた。これを見て多くの助五郎の子分たちは崩れ、船場の方へ逃げ出した。御下の利七、黒濱の松五郎、堤緒の伊之助は、手玉の長太に助五郎を船まで送らせ、笹川勢の進軍を食い止めようと死ぬ覚悟で闘った。

黒濱、御下、提緒等勇猛、切死の事 ならびに 助五郎、風窓方へ退去の事

黒濱、御下、提緒は火花を散らして勇敢に闘った。助五郎を船に連れて行った手玉の長太は命を賭して助五郎を守ろうと笹川の軍勢に入っていった。以前長太は荒生の留吉の子分だったが、留吉に臆病者と罵られて放り出されたところを助五郎が引き取ってくれたという恩があるのだ。だが、長太は夏目新助と渡り合った末に斬り殺された。
勢力は黒濱と、佐吉は伊之助と切り結んでいた。利七は助五郎が気になって船場まで引き返した。助五郎が船で退却したのを確認すると安心して、追ってきた繁蔵方の数人に対して飛鳥のごとく闘った。やはり仲間が退却できたか気になって引き返してきた伊之助も利七の喧嘩場に加わった。利七と伊之助は大勢を相手に互角に渡り合っていたがついには討ち取られた。黒濱は勢力に傷を負わせたものの斬り倒された。
助五郎らは船を小船木につけ、風窓半次の家に行った。助五郎は、股肱の子分を何人も殺されおめおめと退却したことが口惜しくてならなかった。
繁蔵は、助五郎は必ず風窓半次のもとに退却するに違いないと見込み、いったん自宅に戻って食事をとって身支度を整え、小船木へ向かった。

二編巻之十二
風窓半次、助五郎が子分を労る事 ならびに 繁蔵等風窓が宅へ切込む事
八州廻の役人、繁蔵等を召捕に向ふ事 ならびに 繁蔵勢力等、所々へ逃隠るゝ事 附 沼田の権次召捕らるゝ事

二編巻之十三
銚子陣屋の役人方、助五郎を召捕らるゝ事 ならびに 新町の常蔵、波紋兄弟を服せしむる事
繁蔵、錣山に狩する事 ならびに 繁蔵、兎を追うて異人に逢ふ事

二編巻之十四
繁蔵計らず父に逢うて安危を語る事 ならびに 直澄、我旧事を物語る事
繁蔵、父の物語を聞きて難問の事 ならびに 直澄、我子繁蔵に凶を示す事

二編巻之十五
繁蔵、播州に赴き、弟源助に対面の事 ならびに 繁蔵再び笹川へ帰る事
勢力、破門兄弟を勝巻へ落す事 ならびに 繁蔵驕慢、飯岡の子分、繁蔵を附覘ふ事。

三編巻之一
勢力、佐吉、子分を連れて笹川へ帰る事 ならびに 勢力、繁蔵を諫むる事
繁蔵驕慢、助五郎を罵る事 ならびに 助五郎、子分を集めて密議を凝す事 附 繁蔵、亡父追善の事

三編巻之二

助五郎、再度子分を集めて謀議を凝す事 ならびに 桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵の事

繁蔵がますます傲慢になって傍若無人に振舞うようになり、助五郎は怒りをこらえることができなくなっていた。笹川の喧嘩の遺恨をはらすのはこの時だと子分を残らず集めた。
その中には、死んだ洲崎の政吉と同郷で政吉とも親しかった闇の弁蔵がいた。また、笹川の喧嘩で討たれた桐島清次の弟の桐島松五郎も加わった。同じく笹川で命を落とした堤緒の伊之助の従弟の垣根の虎蔵という力の強い若者も仲間になった。
助五郎たちは繁蔵討ち取りの計略を立てた。各々目立たないように変装して笹川に潜入して繁蔵の外出をうかがい、外出の折には帰り道を待ち伏せして斬りかかるという計画であった。

繁蔵敵を軽んじて助五郎が弶(わな)に懸る事 ならびに 勢力、夢を告げて繁蔵を諫むる事

ある日勢力は、繁蔵が血まみれになった夢を見て、何かの悪い予兆ではないかと思った。繁蔵は、助五郎一味はこちらの威勢におされて逃げ隠れてしまったと図に乗っていた。勢力は、これは計略かもしれないから油断しないように、夜間の外出は控えるようにと繁蔵を諫めるが、繁蔵は笑って相手にしなかった。相手をあなどり軽んじる繁蔵親分に勢力はあきれ果てた。繁蔵に同調する子分の中には勢力こそ臆病者だと嘲る者がいた。数日過ぎて、繁蔵は自宅で女房の美代と酒を酌み交わしていた。

三編巻之三

飯岡の子分等、繁蔵の帰途を待ちて恨みを報ゆる事 ならびに 繁蔵、後原にて最期の事

繁蔵が家で妻の美代と飲んでいるところに、大山から帰ってきた川口の若者達が挨拶に来た。繁蔵は、この若者達を川口まで送り届けた。このことを察知した助五郎の子分たちは、川口と笹川の近道の後原というところの田圃のそばの森に隠れ、繁蔵が川口から帰ってくるところを待ち伏せた。
天保十五年七月二十一日の深夜、繁蔵は後原の田圃にて、太田の新八、矢切の庄太、親田の房八、小澤の友次、桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵、舎利の源次、地潜の又蔵らの手にかかって命を落とした。助五郎の子分らは繁蔵の首を取り、胴体は川に打ち捨てた。

清瀧村善兵衛由緒の事 ならびに 売僧是明院愚民を惑す事

三編巻之四
村長源左衛門、是明院を招く事 ならびに 善兵衛、是明院が邪法を挫く事
松波善兵衛、貝塚にて危難の事 ならびに 善兵衛が難を救ふ事

三編巻の五
勢力、松波が娘を恋慕の事 ならびに 勢力、娘みちと通ずる事
勢力、繁蔵が凶変に驚く事 ならびに 勢力、繁蔵が死骸を引取る事

三編巻之六
勢力、妻子を捨てゝ仇を報いんと計る事 ならびに 繁蔵後家みよ、父の許へ帰る事
勢力深慮、智計を述ぶる事 ならびに 佐吉、勢力と不和の濫觴の事

三編巻之七
助五郎、佐吉方へ間者を入るゝ事 ならびに 丑蔵、傳次、清瀧が子分と成る事
姉崎傳次郎放蕩の事 ならびに 飛鳥山にて美女を挑む事

三編巻之八
姉崎傅次郎久離勘当の事 ならびに 丑蔵、傳次、彌助、大塚にて悪事の事
助五郎、勢力が手段を察し奇謀を囁く事 ならびに 鰐の甚助、風間に剣道を学ぶ事

三編巻之九
鰐の甚助、鯨山龍右衛門を投ぐる事 ならびに 甚助酔狂乱暴の事
佐吉、子分を率ゐて飯岡近郷を騒す事 ならびに 土浦の皆次、助五郎と閑談の事

三編巻之十
勢力、筑波山中に於て野猪に逢ひ、危難の事 ならびに 水島破門兄弟不覚の事
勢力、笠を深くして故郷へ帰る事 ならびに 矢切庄助、闇の弁蔵、偽りて勢力が子分と成る事

三編巻之十一
勢力、子分に密意を示して、心を固むる事 ならびに 猿の傳次、親分佐吉へ異見の事
勢力、同輩を集め計議の事 ならびに 伊之助、才助、破門と口論の事

三編巻之十二
勢力述懐、清瀧が心底を憤る事 ならびに 勢力一手を以て飯岡へ切入る事
助五郎、玉崎の社地に子分を伏置く事 ならびに 勢力、助五郎が奇計に陥る事

三編巻之十三
助五郎、偽謀を構へて勢力を砕(くだ)く事 ならびに 勢力、憤闘、飯岡の囲を破る事
勢力、矢太郎が心底を訝る事 ならびに 勢力再び飯岡へ切入る事

三編巻之十四
鰐の甚助驍勇、勢力を悩す事 ならびに 飯岡の子分等苦闘の事 附 水島破門、太田新八を討つ事
桐島松五郎深慮、助五郎を救ふ事 ならびに 桐島、仲間を催促して勢力を追ふ事

三編巻之十五
猿の傳次、佐吉を勧めて助五郎を討たんと計る事 ならびに 傳次、伊之助、争論の事
助五郎、願文を以て勢力が乱妨を訴ふる事 ならびに 清瀧佐吉、飯岡へ切入る事

四編巻之一
勢力、佐吉へ加勢の事 附 皆次、半次、権次、助五郎へ加勢の事 ならびに 佛市五郎、羅漢の竹蔵が事

四編巻之二
一紙の書面にて諸方の達衆、飯岡へ集る事 ならびに 猿の傳次、助五郎に迫る事
鰐の甚助、桐島の松五郎、助五郎を救ふ事 ならびに 那古の伊助、同和助、加勢の事

四編巻之三
猿の傳次、剣道名誉働(はたらき)の事 ならびに 傳次、鰐の甚助を悩す事
土浦の皆次、勢力を喰留むる事 ならびに 波切、滑方、武術の事

四編巻之四
佐吉が妬心、勢力が義心を破る事 ならびに 伊之助、傳次と口論の事
傳次、伊之助、不快の事 ならびに 六蔵、生首の異名を物語る事

四編巻之五
助五郎、皆次、諸方の親分達を饗応の事 ならびに 波切重三、滑方紋彌由緒の事
傳次、丑蔵、成田の土場へ赴く事 ならびに 傳次、丑蔵、悪計を企つる事

四編巻之六
勢力、常蔵が死を聞きて再度奥州へ赴く事 ならびに 皆次、太田原に子分を伏する事
旅僧、勢力に未然を示す事 ならびに 桐島親田等、勢力に迫る事 附 闇夜の炮弾、勢力を救ふ事

四編巻之七
破門、闇路に曲者と柔術を争ふ事 ならびに 破門、傳次、霧太郎、出会の事
龍蔵、おなよ、謀って夫を害せんとする事 ならびに 勢力谷を廻って、宿六を助くる事

四編巻の八
庄屋非義兵衛、勢力を誑計(たばか)る事 ならびに 安式内匠(あしきたくみ)の非道、勢力を陥(おとしい)るゝ事
勢力怒って内匠を罵る事 ならびに 内匠謀って破門を生捕る事

四編巻の九
安式内匠、氷上慾蔵を語(かたら)ふ事 ならびに 内匠の妻おひね、夫へ勢力毒害を勧むる事
霧太郎、再び勢力破門を救ふ事 ならびに 霧太郎、我身の素姓を物語る事

四編巻之十
霧太郎懐旧物語の事 ならびに 霧太郎、宿六を野州へ送届くる事
勢力富五郎、水島破門、内談の事 ならびに 富五郎、破門、夜中内匠が家に入込む事

四編巻之十一
勢力富五郎、水島破門、安式一家を鏖殺(みなごろし)の事 ならびに 氷上慾蔵、勢力に討たるゝ事

四編巻之十二
富五郎、助五郎を伺ふ事 ならびに 勢力、十太に逢ふ事

四編巻之十三
富五郎、甲州へ赴く事 ならびに 勢力、松浦齋宮を助くる事

四編巻之十四
國定忠次、お花の危難を助くる事 ならびに 勢力、中津淺原の二人を挫(とりひし)ぐ事

四編巻之十五
清瀧佐吉召捕らるゝ事 ならびに 勢力富五郎江戸へ出づる事
木隠霧太郎辞世を残す事 ならびに 勢力、破門、下総へ赴く事
勢力富五郎、奮闘最期の事 ならびに 干潟領の者共所刑の事


プロフィール

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Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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