大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門 別ページ戦前戦後の講談で読まれた天保水滸伝天保水滸伝は江戸時代に講釈師宝井琴凌によって生み出されました。
それから、バリエーションが生まれたり淘汰されたりを繰り返して現代に至っています。
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成するまでの物語の変遷の流れを感じ取ることができます。現代の天保水滸伝の基礎がかたまったのは大正期ではないかと思います。
以下、私が所有している、あるいは確認できている講談の(および小説の)天保水滸伝を紹介いたします。
※天保水滸伝全体について知りたい方は、別ページ
「大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門」 を御覧ください。
※現代の講談天保水滸伝に重なる内容が多く含まれております。予備知識なして講談を楽しみたいという方は読むのをご遠慮ください。
【もくじ】※■は項目をクリックするとその項へ移動します
■小説「天保水滸伝」嘉永3年?■松廼家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年□秦々斎桃葉の講談「天保水滸伝」 大正6年
■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年□講談本「天保水滸伝 明神森の大喧嘩」 大正14年
□講談本「侠客 天保水滸伝」 大正14年
□神田ろ山の講談「笹川繁蔵」 20席 昭和4年
■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年□「天保水滸伝 勢力富五郎」 昭和25年
□講談本「笹川繁蔵」 昭和29年
■小説「天保水滸伝」 嘉永3年?大正2年に刊行された「侠客全伝」という本に実録体小説「天保水滸伝」が収められています。この小説の序文には嘉永三年と記されており、おそらくこれが現在残っている最古の天保水滸伝の物語ではないかと思います。
ただし勢力富五郎が死んだ年(嘉永2年)の翌年にしては内容がボリューミーで、助五郎の死(史実では安政6年逝去)のことも記載されいていることから、大正2年に刊行されたものは加筆が進んだバージョンと推測されます。この小説がどのように書かれ加筆されていったのかは謎です。
講談の天保水滸伝の祖の宝井琴凌の息子四代目馬琴によると、琴凌は慶應3年に五代目伊藤凌潮の協力によって講談を完成し「天保水滸伝」と名付けた、とされています。しかし嘉永3年に天保水滸伝という小説が存在していたとなると、琴凌は講談のタイトルをこの小説からそのまま持ってきたということになります。
この小説「天保水滸伝」と宝井琴凌との関係はわかっておりませんが、深いかかわりがあることは確かでしょう。
天保水滸伝の最源流といえるこの小説の各話のタイトルを以下に記します。また各話のあらすじも別ページに少しづつアップしてゆきたいと思います。
タイトルを見てわかるように、全四巻のうち三巻のはじめの方で死んでいます。それ以降は勢力富五郎が主な登場人物です。初期の天保水滸伝の主役は勢力富五郎だったことがよくわかります。
「天保水滸伝」序文「天保水滸伝」各話タイトル
各話のあらずじは↓このページに記載天保水滸伝の原点 嘉永三年版「天保水滸伝」※現在初編巻之九まで
初編巻之一
下総国銚子観世音利益の事 ならびに 銚子五郎蔵、飯岡助五郎が事 附 助五郎、生田角太夫を取挫く事
初編巻之二
荒生留吉、小船木半次が事 ならびに 半次留吉、小美川にて口論の事
助五郎、留吉が宅に赴く事 ならびに 半次、留吉、松岸にて戦う事
初編巻之三
半次、留吉、和談の事 ならびに 助五郎、留吉、不快の事
洲崎正吉生立の事 ならびに 政吉が父政右衛門、身延参詣の事
初編巻之四
助五郎、甲州にて政右衛門の危難を救う事 ならびに 政吉、助五郎が子分と為る事
荒町勘太、御下利七が事 ならびに 勘太酔狂の事
初編巻之五
鏑箭馬仁蔵、岩瀬福松が事 ならびに 福松大勇不適の事
鏑箭馬繁蔵、福松へ対面の事 ならびに 福松、鏑箭馬が養子と為る事
初編巻之六
岩瀬源四郎直澄由緒の事 ならびに 源四郎遊里通の事
源四郎勘当の身と成る事 ならびに 源四郎、下総笹川に住居の事
初編巻之七
岩瀬源四郎故主へ帰参の事 ならびに お富、源四郎に名残を惜しむ事
岩瀬福松出生の事 ならびに 富死去の事
初編巻之八
岩瀬繁蔵諏訪の社内に石碑を営む事 ならびに 近郷の若者供、社内に於て角力の事
勢力富五郎、神楽獅子を組留むる事 ならびに 助五郎、繁蔵、対面の事
初編巻之九
風窓半次、助五郎を説く事 ならびに 助五郎、繁蔵へ和談を言入るゝ事
羽計の勇吉、利七を嘲弄の事 ならびに 清瀧の佐吉が事
初編巻之十
助五郎、佐吉へ利解の事 ならびに 佐吉、再度助五郎方へ赴く事
佐吉、江戸にてお常に逢う事 ならびに 繁蔵、常を貰ひ受くる事
初編巻之十一
荒生留吉怪異を見て財を得る事 ならびに 留吉、三河屋の手代を救ふ事
佐吉、留吉より金子借用の事 ならびに お常遊女に身を沈むる事
初編巻の十二
勢力富五郎、鹿島へ赴く事 ならびに 平手造酒、高島剛太夫、果合の事
勢力富五郎、平手造酒を助くる事 ならびに 勢力、造酒へ異見の事
初編巻之十三
信州諏訪関口屋丈右衛門が事 ならびに 丈右衛門妾の色に溺るゝ事
丈右衛門八代にて悪者に出逢ふ事 ならびに 菊次奸計、丈右衛門方へ入込む事
初編巻之十四
関口丈右衛門、月の宴を催す事 ならびに おこよ、菊次、密会の事
番頭忠助、丈右衛門へ諫言の事 ならびに 丈右衛門怒って忠助を暇の事
初編巻之十五
忠助遠謀の事 ならびに おこよ、菊次、奸計を企つる事
岩瀬、勢力、羽州山県へ赴く事 ならびに 忠助、主人の跡を追ふ事
二編巻之一
番頭忠助、丈右衛門へ再び忠義を述ぶる事 ならびに 関口屋家内盗賊の事 附 忠助、主人の末期に対面の事
二編巻之二
丈右衛門末期に身の懺悔の事 ならびに 忠助、おこよ、双方訴えの事
雨傘勘次、岩瀬繁蔵が子分となる事 ならびに 関口屋一件、江戸表差立となる事
二編巻之三
諏訪家より関口屋一条、江戸表へ差出の事 ならびに 矢部駿河守殿、双方御呼出の事
矢部殿再度双方御聞糺の事 ならびに こよ、菊次、奸計の事
二編巻之四
矢部殿、証書証人を以て御吟味の事 ならびに こよ、菊次、強弁の事
二編巻之五
矢部殿御糺明、悪人共罪に服する事 ならびに 御処刑、忠助菩提の道に入る事
洲崎政右衛門、雨傘勘次を見出す事 ならびに 助五郎、雨傘勘次を捕ふる事
二編巻之六
坂田屋留次郎、潮来の河内屋へ通ふ事 ならびに 繁蔵女房美代が事
地潜又蔵、留次郎を手込の事 ならびに 清瀧佐吉、留次郎を救ふ事
二編巻之七
岩瀬繁蔵、助五郎が土場を荒す事 ならびに 助五郎、繁蔵へ書面を贈る事
政吉、再び十日市場へ土場を開く事 ならびに 新助、忠蔵、政吉が土場へ来る事
二編巻之八
勢力富五郎、思慮遠謀の事 ならびに 繁蔵等七人、三河屋へ無心の事
岩瀬繁蔵等七人の者、助五郎が妾宅へ切入る事 ならびに 助五郎、政吉宅へ走る事
二編巻之九
政吉即智、繁蔵を襲ふ事 ならびに 荒生留吉、笹川へ内通の事
助五郎、笹川へ船にて押寄する事 ならびに 笹川大喧嘩の事
二編巻之十
荒町、大矢木、桐島等最後の事 ならびに 洲崎政吉憤死の事
神楽獅子大八勇猛、飯田兄弟を討取る事 ならびに 平手造酒武勇、討死の事
二編巻之十一
繁蔵大勇、神楽獅子を討取る事 ならびに 御下、黒濱、提緒等、助五郎を落す事
黒濱、御下、提緒等勇猛、切死の事 ならびに 助五郎、風窓方へ退去の事
二編巻之十二
風窓半次、助五郎が子分を労る事 ならびに 繁蔵等風窓が宅へ切込む事
八州廻の役人、繁蔵等を召捕に向ふ事 ならびに 繁蔵勢力等、所々へ逃隠るゝ事 附 沼田の権次召捕らるゝ事
二編巻之十三
銚子陣屋の役人方、助五郎を召捕らるゝ事 ならびに 新町の常蔵、波紋兄弟を服せしむる事
繁蔵、錣山に狩する事 ならびに 繁蔵、兎を追うて異人に逢ふ事
二編巻之十四
繁蔵計らず父に逢うて安危を語る事 ならびに 直澄、我旧事を物語る事
繁蔵、父の物語を聞きて難問の事 ならびに 直澄、我子繁蔵に凶を示す事
二編巻之十五
繁蔵、播州に赴き、弟源助に対面の事 ならびに 繁蔵再び笹川へ帰る事
勢力、破門兄弟を勝巻へ落す事 ならびに 繁蔵驕慢、飯岡の子分、繁蔵を附覘ふ事。
三編巻之一
勢力、佐吉、子分を連れて笹川へ帰る事 ならびに 勢力、繁蔵を諫むる事
繁蔵驕慢、助五郎を罵る事 ならびに 助五郎、子分を集めて密議を凝す事 附 繁蔵、亡父追善の事
三編巻之二
助五郎、再度子分を集めて謀議を凝す事 ならびに 桐島松五郎、垣根の虎蔵、闇の弁蔵の事
繁蔵敵を軽んじて助五郎が弶(わな)に懸る事 ならびに 勢力、夢を告げて繁蔵を諫むる事
三編巻之三
飯岡の子分等、繁蔵の帰途を待ちて恨みを報ゆる事 ならびに 繁蔵、後原にて最期の事
清瀧村善兵衛由緒の事 ならびに 売僧是明院愚民を惑す事
三編巻之四
村長源左衛門、是明院を招く事 ならびに 善兵衛、是明院が邪法を挫く事
松波善兵衛、貝塚にて危難の事 ならびに 善兵衛が難を救ふ事
三編巻の五
勢力、松波が娘を恋慕の事 ならびに 勢力、娘みちと通ずる事
勢力、繁蔵が凶変に驚く事 ならびに 勢力、繁蔵が死骸を引取る事
三編巻之六
勢力、妻子を捨てゝ仇を報いんと計る事 ならびに 繁蔵後家みよ、父の許へ帰る事
勢力深慮、智計を述ぶる事 ならびに 佐吉、勢力と不和の濫觴の事
三編巻之七
助五郎、佐吉方へ間者を入るゝ事 ならびに 丑蔵、傳次、清瀧が子分と成る事
姉崎傳次郎放蕩の事 ならびに 飛鳥山にて美女を挑む事
三編巻之八
姉崎傅次郎久離勘当の事 ならびに 丑蔵、傳次、彌助、大塚にて悪事の事
助五郎、勢力が手段を察し奇謀を囁く事 ならびに 鰐の甚助、風間に剣道を学ぶ事
三編巻之九
鰐の甚助、鯨山龍右衛門を投ぐる事 ならびに 甚助酔狂乱暴の事
佐吉、子分を率ゐて飯岡近郷を騒す事 ならびに 土浦の皆次、助五郎と閑談の事
三編巻之十
勢力、筑波山中に於て野猪に逢ひ、危難の事 ならびに 水島破門兄弟不覚の事
勢力、笠を深くして故郷へ帰る事 ならびに 矢切庄助、闇の弁蔵、偽りて勢力が子分と成る事
三編巻之十一
勢力、子分に密意を示して、心を固むる事 ならびに 猿の傳次、親分佐吉へ異見の事
勢力、同輩を集め計議の事 ならびに 伊之助、才助、破門と口論の事
三編巻之十二
勢力述懐、清瀧が心底を憤る事 ならびに 勢力一手を以て飯岡へ切入る事
助五郎、玉崎の社地に子分を伏置く事 ならびに 勢力、助五郎が奇計に陥る事
三編巻之十三
助五郎、偽謀を構へて勢力を砕(くだ)く事 ならびに 勢力、憤闘、飯岡の囲を破る事
勢力、矢太郎が心底を訝る事 ならびに 勢力再び飯岡へ切入る事
三編巻之十四
鰐の甚助驍勇、勢力を悩す事 ならびに 飯岡の子分等苦闘の事 附 水島破門、太田新八を討つ事
桐島松五郎深慮、助五郎を救ふ事 ならびに 桐島、仲間を催促して勢力を追ふ事
三編巻之十五
猿の傳次、佐吉を勧めて助五郎を討たんと計る事 ならびに 傳次、伊之助、争論の事
助五郎、願文を以て勢力が乱妨を訴ふる事 ならびに 清瀧佐吉、飯岡へ切入る事
四編巻之一
勢力、佐吉へ加勢の事 附 皆次、半次、権次、助五郎へ加勢の事 ならびに 佛市五郎、羅漢の竹蔵が事
四編巻之二
一紙の書面にて諸方の達衆、飯岡へ集る事 ならびに 猿の傳次、助五郎に迫る事
鰐の甚助、桐島の松五郎、助五郎を救ふ事 ならびに 那古の伊助、同和助、加勢の事
四編巻之三
猿の傳次、剣道名誉働(はたらき)の事 ならびに 傳次、鰐の甚助を悩す事
土浦の皆次、勢力を喰留むる事 ならびに 波切、滑方、武術の事
四編巻之四
佐吉が妬心、勢力が義心を破る事 ならびに 伊之助、傳次と口論の事
傳次、伊之助、不快の事 ならびに 六蔵、生首の異名を物語る事
四編巻之五
助五郎、皆次、諸方の親分達を饗応の事 ならびに 波切重三、滑方紋彌由緒の事
傳次、丑蔵、成田の土場へ赴く事 ならびに 傳次、丑蔵、悪計を企つる事
四編巻之六
勢力、常蔵が死を聞きて再度奥州へ赴く事 ならびに 皆次、太田原に子分を伏する事
旅僧、勢力に未然を示す事 ならびに 桐島親田等、勢力に迫る事 附 闇夜の炮弾、勢力を救ふ事
四編巻之七
破門、闇路に曲者と柔術を争ふ事 ならびに 破門、傳次、霧太郎、出会の事
龍蔵、おなよ、謀って夫を害せんとする事 ならびに 勢力谷を廻って、宿六を助くる事
四編巻の八
庄屋非義兵衛、勢力を誑計(たばか)る事 ならびに 安式内匠(あしきたくみ)の非道、勢力を陥(おとしい)るゝ事
勢力怒って内匠を罵る事 ならびに 内匠謀って破門を生捕る事
四編巻の九
安式内匠、氷上慾蔵を語(かたら)ふ事 ならびに 内匠の妻おひね、夫へ勢力毒害を勧むる事
霧太郎、再び勢力破門を救ふ事 ならびに 霧太郎、我身の素姓を物語る事
四編巻之十
霧太郎懐旧物語の事 ならびに 霧太郎、宿六を野州へ送届くる事
勢力富五郎、水島破門、内談の事 ならびに 富五郎、破門、夜中内匠が家に入込む事
四編巻之十一
勢力富五郎、水島破門、安式一家を鏖殺(みなごろし)の事 ならびに 氷上慾蔵、勢力に討たるゝ事
四編巻之十二
富五郎、助五郎を伺ふ事 ならびに 勢力、十太に逢ふ事
四編巻之十三
富五郎、甲州へ赴く事 ならびに 勢力、松浦齋宮を助くる事
四編巻之十四
國定忠次、お花の危難を助くる事 ならびに 勢力、中津淺原の二人を挫(とりひし)ぐ事
四編巻之十五
清瀧佐吉召捕らるゝ事 ならびに 勢力富五郎江戸へ出づる事
木隠霧太郎辞世を残す事 ならびに 勢力、破門、下総へ赴く事
勢力富五郎、奮闘最期の事 ならびに 干潟領の者共所刑の事
■松廼家太琉「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松廼家太琉(この講談本では「松の家太琉」と表記)に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。
松廼家太琉とはどんな人物なのか。大西信之「浪花節繁盛記」から引用します。
初代勝太郎は二代目神田伯山と親交が深く、広沢虎造が伯山のあとを追いかけて伯山の次郎長伝をついに自分の売物にしたというその次郎長伝を、伯山がやるより前に松廼家太琉から伝授されて得意の読物にしていたのだというから凄い。松廼家太琉は荒神山への次郎長一家と共に乗りこんで行って、そこで見たり聴いたりしたことを講談にしてやっていた、いわば次郎長伝の原作者である。「改良天保水滸伝」も作家としての能力の高さを見込まれて依頼されたのでしょう。
明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
ここでは全20席の演題を記すにとどめます。(タイトルのない回もあります)
第一席
第二席
第三席
第四席 大勝刺客を助五郎の許へ遣す
第五席 庄の助と九重の痴情
第六席 庄の助の最期おはなの危難
第七席 助五郎一世一代の大難
第八席 助五郎再度の大難
第九席 湊の小十、助五郎の出逢ひ
第十席 助五郎網主船主トナル
第十一席
第十二席 助五郎勢力の不和
第十三席 繁蔵江戸を去て故郷へ戻る
第十四席 笹川飯岡の手切れ
第十五席 笹川勢飯岡へ初度目切込
第十六席 荒生の留吉笹川へ注進
第十七席 飯岡勢笹川へ切込む
第十八席 助五郎無罪放免
第十九席 岩瀬の繁蔵殺し
第二十席 勢力佐助の自殺
冒頭でいきなり、
講談では助五郎の父が井上伴太夫に殺されて助五郎はその仇討ちのために銚子の五郎蔵の子分になったとされているが、それは事実ではない、相模国三浦郡の石渡助右衛門の長男というのが正しい。
などと言うことが書かれており、助五郎周辺の取材に基づき史実に近い内容を書き残そうとした意図がよくわかります。もちろん物語は助五郎中心に進み、大衆演芸の天保水滸伝とはすいぶん内容が異なります。
講談本でありながら、書状が書状の体裁で記載されている箇所もあります。第十六席には、荒生の留吉が繁蔵に宛てた手紙が興味深かったので(さすがにこれは創作と思いますが)紹介します。半之丞というのは留吉の婿(娘の亭主)です。
取急ぎ一寸申上候 予て噂さの如く飯岡の助五郎と貴殿不和の赴き然る所 今日助五郎子分の者拙宅へ質受けに参り其者ども話しには今晩笹川へ切込むとの事依而(よって)等閑(なおざ)りにも相成不申段々様子を相尋ね候処 野尻河岸忍村の博多川の家より伝馬三艘にて押出だし人数百人余りの由 御油断あっては一大事に候間取敢えず御知せ申上候何分とも親分様御身体大切に成被下度尚拝顔の節万々申上候以上
八月廿三日 荒生ニテ 半之丞
笹川親分様へ史実を伝えるために作られたこの講談は世間に広まることがなかったと思います。
しかし辰野万兵衛の孫の伊藤實氏が詳細な史実調査をもとに「飯岡助五郎正伝」を上梓しており、現代に天保水滸伝の実像を伝えています。私のブログでもこの本は大いに参考にさせていただいております。
□秦々斎桃葉の講談「天保水滸伝」 大正6年
縦13cm,横9cmほどの小さな講談本です。全25話。
平手造酒が酒に酔って小塚原の獄門人の死骸の腕を切り落として遊女を驚かす話の他、笹川の花会、鹿島の棒祭りの話など現代の講談の主要ネタの原型がすでにできあがっています。

■「長講天保水滸傳」(全三十席)私が所持している講談本宝井馬琴講演「長講天保水滸伝」(全三十席)のあらすじをご紹介します。
文中に「大正の今日に至っても」「この川は大正八年にかの鈴弁の大トランク事件で一層名を売った大川だ」等語り手が大正の世にいることを示す文がいくつかあり、大正時代後期に語られた内容だと推測されます。

第一席 井上伴太夫助五郎を斬る事、並(ならび)に助太郎銚子の五郎の養子となる事相模国の三浦岬。水神宮に台を置いて易をみている井上伴大夫という常陸国笠間の浪人があった。魚売りの助五郎は酒癖が悪く、通るたびにこの辻占に喧嘩を売っている。いつもは相手にしない伴大夫であったが、とある水神祭りの日は酒を飲んでいて助五郎の喧嘩を買ってしまう。刀を抜いて助五郎を斬り殺し、そのままどこかへ行ってしまった。助五郎の息子の助太郎はまだ十二歳であるが、父の仇を討つために江戸で剣術の修行がしたいという。それを聞いた土地の顔役天野屋の松五郎は助太郎を銚子の大親分の五郎蔵に引き合わせる。五郎蔵に気に入られ養子となった助太郎は七年間の修行を終え、親の名の助五郎を継ぐ。ある日助五郎が義兄弟の鶴五郎と観音前の旅籠で飲んでいて、下の階で飲んでいた男と一緒に酒を酌み交わすこととなった。話を聞くうちにその男が親の仇の井上伴太夫とわかり、助五郎は勝負を申し出た。
第二席 助五郎親の仇を討つ事、並に福松昔語りの事助五郎は井上伴太夫を斬って見事に親の仇を討つ。銚子の五郎蔵が死んで助五郎は一本立ちし、居を飯岡に移した。銚子の陣屋に取り入って、貸元でありながら御用を預かる二足の草鞋となる。さらに飯岡では大きな船を拵えて網元となった。
話は変わって下総干潟八万石、須加山村の入口に茶屋旅籠をしている流鏑馬(やぶさめ)の仁蔵という明石出身の貸元がいた。ある日仁蔵は一家の者を家に集めた。干潟八万石の内に狼、厄病神、貧乏神といくつも綽名を持っている福松もやってきた。福松は他の賭場は荒らしても仁蔵の賭場には迷惑をかけない。その訳を訊かれ福松は昔のことを語り出した。福松が生まれたその年に、仁蔵は明石からやってきたものの身寄りもなくついに雪の中に倒れた。それを助けたのが福松の父親だった。
第三席 福松笹川繁蔵と改名して売出しの事、並に勢力富五郎繁蔵と兄弟分となる事福松の母は病弱で乳が出ない。仁蔵は貰い乳にまわって幼い福松の面倒を見た。福松は成長して乱暴者になったが母からは決して仁蔵の賭場では騒ぎを起こすなと釘をさされていた。
仁蔵は福松に娘のお千代と結婚して家を継いでほしいと持ち掛ける。福松はこれを受け、お千代と三々九度を交わし、親の名である岩瀬の繁蔵を名乗る。繁蔵は乾分の信頼も篤く、身内一統が弱い者を助ける義侠心を持っているから世間の評判もよい。萬歳村で親分をしていた相撲上がりの博徒勢力富五郎もこの噂を聞いて、笹川の繁蔵と飲み分けの兄弟分となった。
第四席 笹川一家花会を催す事、並に飯岡助五郎洲の崎政五郎を名代とする事付き合いの広くなった笹川一家は懐具合が苦しくなった。勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分に相談する。忠吉の兄貴分の信夫の常吉もひと肌脱ぐことになり、忠吉・常吉という大親分が後見・世話人となって花会を催すことになった。天保九年の七月、諏訪神社の境内に野見宿彌の碑を建てる名目で花会が開催された。これが気に食わない飯岡助五郎は一家から名代として洲の崎政五郎に出席させた。しかももたせた義理(祝い金)はたったの十五両。
花会の会場には全国の錚々たる親分が集まっていた。政五郎は国定忠治に飯岡一家から助五郎が出席しないことについて意見される。大前田英五郎の兄の田島要吉が政五郎と忠治の間を取り持つ。
第五席 助五郎の乾児(こぶん)清滝佐吉と相撲の事、並に神楽獅子大五郎清滝と復讐相撲の事花会の場に各親分の義理の金額が貼りだされる。どの親分も大層な額で政五郎は顔を赤くしている。ところが自分の一家の貼り出しを見て驚く。親分乾分合わせて二百両の義理の金額が書かれている。これは繁蔵のはからいだろうと政五郎は心の中で感謝する。
同じ日、諏訪明神の境内では奉納相撲が行われていた。清滝の佐吉は助五郎の乾分の目玉の長太、芝浜の勘太を次々倒した。これを知った飯岡助五郎は翌日乾分の神楽獅子大五郎に清滝の佐吉と相撲をとってこいと命じる。諏訪明神の奉納相撲の二日目、神楽獅子大五郎は清滝佐吉を土俵の外に倒した。
第六席 勢力富五郎神楽獅子を打負かす事、並に助五郎味内(みうち)笹川の乾分を打擲する事
清滝の次に土俵に上がった勢力富五郎は神楽獅子大五郎を打ち負かす。
笹川繁蔵の乾分、花笠の六蔵・水谷の六蔵・西尾の與市の三人が、飯岡の縄張りの松岸の茶屋旅籠で芸者騒ぎをしている。先ほどの神楽獅子の負けっぷりを茶化して踊っているところを、たまたま旅籠を訪れた神楽獅子に見られてしまう。この三人が駕籠に乗って帰るところを待ち伏せしていた飯岡一味が襲った。一人は逃げたが二人は斬られて虫の息。これを飯岡助五郎の後見をしている松岸の半次(別名風窓の半次)が見つける。これは大きな喧嘩の引き金になりそうだと半次は須加山に向かうべく駕籠に乗った。
第七席 風窓半次繁蔵に和解を申込む事、並に飯岡笹川手打の事飯岡一味に襲われて逃げてきた西尾の與市が笹川一家に転がり込んで顛末を話すと屈強な乾分衆が集まって飯岡方に押し込もうと息巻いた。そこに繁蔵が帰って来て、松岸の半次の駕籠も到着する。半次が事を収めたいと申し出ると、繁蔵は飯岡の縄張りの旅籠であんなことをすれば喧嘩を売るようなものだとして仕返しは考えず、半次に始末を頼む。
佐原に松島屋権平という目明しがいてその娘は助五郎の妾だ。半次は権平の家で手打ち式を行うことに決め笹川方と飯岡方を呼び出す。この手打ち式の様子を目明しの三八と洲の崎政五郎の父の政右衛門が隠れて見ていた。政右衛門は笹川方の出席者の雪崩の岩松の顔を見て驚いた。あれはかつて政右衛門を襲ったことがある甲州街道名代の胡麻の蠅、雨傘勘次だ。このことを目明しの三八から聞いた助五郎は、松島屋権平に岩松を召し捕らせようとたくらんだ。二ヶ月後、笹川繁蔵は八州廻りに呼び出されて松島屋権平の家へ向かった。
第八席 雪崩の岩松旧悪露見して召捕らるる事、並に平手造酒二日禁酒を破る事松島屋権平の家で繁蔵は八州廻りの旦那長井五郎兵衛、伊藤文助から雪崩の岩松が捕らえられたことを告げられる。八州廻りの情けで繁蔵は岩松と最期の面会をする。繁蔵は残された岩松の母を面倒みると約束するが、岩松の母は自害してしまう。
鹿島の祭礼が近づいてきた。本来繁蔵自ら出向いて賭場を開くところだが、繁蔵は岩松の件ですっかり気落ちしており、勢力富五郎に任せることとなった。繁蔵は用心棒の平手造酒に賭場の守りを頼む。その際、酒癖が悪い平手に二日間の禁酒を約束させた。
祭の一日目は酒を我慢した平手だが二日目は料理屋でしこたま呑んでしまう。そこに現れた三人の侍が店に入る際に払った砂が平手の酒に入ってしまう。平手が怒っていたところに、鹿島の犬婆ァが現れた。平手は婆ァが連れていた犬を侍にけしかけた。
第九席 平手造酒喧嘩の事、並に繁蔵雪崩の岩松を召捕らせし仔細を聞知する事三人の侍は飯岡助五郎の用心棒秋山要助の弟子だった。秋山要助はかつて、平手の師匠の千葉周作に無礼を働いたことがある。平手は師匠の恥辱をはらさんと刀の鯉口を切った。
一人は平手にすぐに斬られて絶命する。そこに勢力富五郎が来て平手を止めたので残りの二人(下寺十郎次、笠井庄助)は逃げおおせた。
鹿島の棒祭りの後日。繁蔵一家の般若の六蔵が繁蔵に勘当された。六蔵は女房を連れて全国の湯治場を歩き回ることとした。六蔵が伊香保の風呂場で偶然知り合ったのは下寺十郎次・笠井庄助だった。六蔵は二人の話から、雪崩の岩松が捕らえられたのは、泥棒を乾分にした廉で繁蔵を役人に挙げさせようという飯岡助五郎の策略だったことを知る。六蔵はただちに須加山へ帰り、繁蔵にそのことを告げる。平手と六蔵は伊香保に行き、十郎次・庄助の二名を証人として笹川一家に連れ帰った。
第十席 笹川一家評議の事、並に飯岡方へ斬込む事下寺十郎次、笠井庄助は繁蔵に事の次第を話し、証人になると約束する。怒った繁蔵は平手造酒、勢力富五郎と談合して八月十五日に助五郎方へ斬り込みに行くことに決めた。当日、夏目の新介、清滝の佐吉ら乾分も合わせて総勢十八人が、他の乾分に勘づかれぬように飯岡に向かった。助五郎は妾のおかめの宅で月見をしていた。
まず平手が踏込み、飯岡の乾分を斬って笹川一家が家に押し入った。平手は飯岡の用心棒赤鬼の源次と対峙する。繁蔵は助五郎の寝室に向かう。夏目の新介、清滝の佐吉の前に飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。
第十一席 飯岡助五郎復讐に苦心する事、並に勢力富五郎厚意の事新介、佐吉は鰐の甚助に斬られ、これはかなわないと逃げ出した。そこに平手が現れ、甚助と平手の決闘となった。平手の技に後れをとった甚助は退散する。繁蔵たちは助五郎を追詰めるが、助五郎は物干から屋根伝いに外に出て難を逃れた。
この襲撃の後、飯岡一家がすぐに仕返しに来るに違いないと笹川一家は身構えていたがいつになっても来ないので笹川方の緊張は解けていった。
翌年になると繁蔵の乾分は散り散りに過ごすようになり、平手造酒は酒の飲みすぎで腹を痛めて尼寺に療養することとなった。その状況を知った助五郎は九月十三日に笹川方に斬り込むことを決めた。
銚子五郎蔵の片腕に風窓の半次、荒生の留吉の二名がいた。留吉は助五郎と折り合いが悪く、今では堅気になって造り酒屋をしている。留吉の息子の留次郎が潮来の遊女雛鶴とよい仲になった。雛鶴の馴染みの客で飯岡一家の身内の土鼠(もぐら)の真助と留次郎との間にいざこざがあった。勢力富五郎と清滝の佐吉が留次郎の用心棒となって争いをおさめた。勢力は自ら五十両を出して雛鶴を落籍し、雛鶴を留次郎のもとに嫁入りさせた。
第十二席 荒生の留吉急を笹川へ知らす事、並に洲の崎政五郎妻子を斬って門出の事九月十三日、飯岡一家の乾分衆が留吉の家を訪ね、酒を注文する。飯岡一家が笹川一家へ喧嘩出入りする前祝いの酒なのだが、留吉が笹川と通じていることを知らない乾分衆はそのことを留吉に伝えてしまう。留次郎は留吉に命じられて飯岡の計画を笹川一家に密告する。笹川一家は飯岡一家を迎え討つ体制を万全に整えた。
助五郎の家では飯岡一家が出入りの準備をしているが、洲の崎政五郎がなかなかやってこないと気をもんでいた。政五郎は自宅で、この喧嘩で命を捨てるつもりだから諦めろと女房に因果を含めていた。政五郎の女房は、後に残されて憂き目を見るよりもあの世で親子諸共夫婦仲睦まじく暮らしたい、冥土の道連れにしてほしいと懇願する。政五郎は息子、娘、女房の首を斬り落とし、三つの首を持って助五郎の家へ向かった。
第十三席 飯岡の同勢大利根を遡って笹川方へ斬込む事、並に洲の崎政五郎富田の弁蔵に討たるる事飯岡一家は利根川を上って須加山村に向かった。一番船は洲の崎政五郎を大将とした八十五人。二番船は成田の甚蔵を大将とした八十人。三番船は飯岡助五郎を大将とした百二十余人。一番船が桟橋に着くと、待ち受けていた笹川方から鉄砲が放たれた。陸にあがった飯岡一味は飛び道具にひるんで後退するが、洲の崎の政五郎は樫の棒を打ち振るって応戦する。遅れて二番船が到着し、河岸の争いは政五郎に任せ、甚蔵らは繁蔵の家に向かった。政五郎は笹川一家の者を十一人打倒し、残りの笹川一味は退散した。政五郎は一番船に戻り一息ついていたが、この船には笹川方の飛田の弁蔵が逃げ隠れていた。弁蔵は背後から槍で政五郎を突き刺した。乗員が多くて船が進まず遅れた三番船は政五郎が死んでからようやく到着した。
第十四席 勢力富五郎神楽獅子大五郎と一騎打ちの事、並に平手造酒の事笹川方の勢力富五郎と上州友太郎の組は、陸地から攻めてくると思われる松岸の半次を待ち伏せする役目だったが、飯岡方二番船の成田の甚蔵・神楽獅子大五郎が繁蔵宅へ向かうのを見ると、勢力はじっとしていられずに飛び出していった。勢力と神楽獅子とはいつか果し合いすべしとお互いが思っていた間柄。双方丸太を持って畑の中に対峙し一騎打ちとなった。
一方、尼寺で療養していた平手造酒は、まわりが止めるのを聞かずに酒場でしこたま飲んでいた。寺に戻り、繁蔵から届いていた手紙を読んで驚いた。これは一大事と須加山へ駆けつける途中、飯岡方の松岸の半次を見つけた。造酒は福岡一文字宗則の一刀を抜いて半次に斬りかかった。
ところでこの平手造酒は神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場を構える千葉周作の門弟であった。剣の腕前は達人だが酒癖が悪かった。ある日、酔っぱらって小塚原の処刑場を通りかかった際に、番人を脅して死体を出させ、試し斬りをした。斬り落とした片腕を懐に入れて遊女屋の前を歩いていると店の若い衆が平手を呼び止めた。花魁が店に引き入れようと平手の腕を強くひっぱるとその腕が抜け花魁は卒倒した。
第十五席 造酒団左衛門方へ出稽古に赴く事、並に造酒師匠に勘当される事新町に居を構える団左衛門の親子は剣術を習いたいが、廓町にあるという理由で教えに来てくれる先生がいない。平手も団左衛門の遣いの者から剣術の指南を頼まれるが一度は断る。だがこの遣いの者に小塚原での悪戯を目撃されていたことを知り、口止めするためにも引き受けることとした。団左衛門の屋敷では酒は飲み放題、金は貰い放題、着物は着せてもらい放題で平手は足繁く出稽古に通うようになる。最近の平手の様子がおかしいと千葉周作は不審に思う。ある日、西新井大師の参詣の帰り、周作は偶然団左衛門屋敷で稽古をつけている平手を目撃する。即日、周作は道場で平手に勘当を言い渡す。ばれてしまっては先生のご立腹はごもっともと平手は道場を去ろうし、日頃から平手に反感をもっていた道場の連中は平手を笑った。平手は、お前らに嘲り笑われる筋合いはない、笑った者は出てきて尋常に勝負しろ、とすごんだ。
第十六席 平手造酒奮闘する事、並に造酒最後の事もちろん平手の相手をする者などいない。平手は団左衛門から貰い受けた福岡一文字宗則で千葉道場の柱を切り落として去っていった。周作はあまりにも見事なその技を見て勘当してしまったことを嘆いた。平手ははじめは周作の弟子がいるという飯岡に行くつもりだったが、途中櫻井の茶屋旅籠に泊まったのが縁で繁蔵一家に世話になることとなった。
それから六年、天保十三年九月十三日、平手造酒は櫻井の尼寺を飛び出し、笹川を攻めようとする風窓の半次の一味を見つけて斬りかかった。飯岡の一味が次々と平手に斬り倒されていることが助五郎に伝わった。助五郎は白井田権蔵ら四人の用心棒に平手の相手を頼んだが、四人とも笹川河岸であっけなく平手一人にやられてしまった。成田の甚蔵や三浦屋孫次郎ら飯岡一家の十二人は命を捨てる覚悟で平手に襲いかかった。平手は何人かを返り討ちにするが、平手の刀が折れてしまい、槍を突かれて遂に平手は絶命した。
一方、勢力富五郎と神楽獅子大五郎はお互い丸太を振り回して一騎打ちをしている。勢力の丸太が折れると、神楽獅子も丸太を放り捨て、二人は素手で組み合って闘った。
第十七席 笹川繁蔵助五郎を追い詰める事、並に笹川一家国を売る事勢力と神楽獅子は組み合っているうちに川辺に落ちた。そこで勢力が大きな石を神楽獅子の額にたたきつけて勝負があった。
繁蔵の家の前では笹川一家と飯岡一家の喧嘩が長時間続きどちらも疲弊している。そこに役人がやってきて喧嘩を止めた。飯岡一家は船で退却し、風窓の半次の家で体を休めた。繁蔵と勢力らは決着をつけようと半次の家へ向かうが、それに気づいた助五郎は半次の家から逃げた。
名主の平左衛門が役所に何か申し出たらしく、須加山では大勢の役人が繁蔵らを召し捕ろうと待ち受けていた。それを知った繁蔵らは家には戻らず、兄弟分の倉田屋文吉の家に行った。笹川一家は全国に散り散りとなって旅することとなった。
翌年二月、明石で養父の流鏑仁蔵の法事を済ませた繁蔵は須加山に戻ってきた。四月になりその噂を耳にした助五郎は乾分の久太に様子を見にいかせた。
第十八席 繁蔵飯岡方へ踏込む事、並に繁蔵成田の甚蔵他二人を懲らす事久太は堂々と繁蔵の家の表玄関を訪ねればよいものの、格子窓から中を覗いていたのでそれに気づいた繁蔵の女房のお由は久太を罵倒した。騒ぎを聞きつけて番頭らがやって来たので久太は逃げた。
次の夜の深夜二時。繁蔵は刀を携え一人で助五郎の家に乗り込んだ。助五郎はいなかったが、くだらない詮索をせず堂々と果状を持ってこいと言い捨てて帰っていった。
そのことを聞いた助五郎の右腕の成田の甚蔵と乾分の地曳の寅松、柴山の大蔵の三人は怒って家を飛び出し繁蔵を追いかけていった。
助五郎が家に帰ってきて事の次第を聞いた。本当は繁蔵が戻ってきたら仲直りをしようという算段で久太を向かわせたのだが逆効果になってしまったと嘆いた。
甚蔵ら三人は繁蔵に追いついたが、三人とも繁蔵にあしらわれて肥溜や小便桶に落ちてしまった。
第十九席 成田の甚蔵勘当さるる事、並に甚蔵繁蔵を討取る事助五郎は一家の跡を継ぐべき男が思慮の浅い行動をしたということで成田の甚蔵に勘当を言い渡す。甚蔵は土産を持って帰ったのなら勘当を解いてほしいと懇願し一家を出る。甚蔵は繁蔵を討取ってその首を持って一家に戻るつもりである。甚蔵の親友の三浦屋孫次郎は助太刀を申し出る。二人は、繁蔵と仲が悪い須加山村の名主の半左衛門に協力を求め、しばらく半左衛門の家に身を隠すこととなった。
繁蔵は乾分とともに大山を参詣して江の島、鎌倉を見学して笹川に戻ってきた。繁蔵は乾分を先に帰して熊谷範次の家で呑んでいる。そのことを知った甚蔵と孫次郎は、帰り道を待ち伏せ、繁蔵を殺害した。繁蔵の首を落とし、胴体は地蔵を巻き付けて大利根川に投げ入れた。
繁蔵の帰りが遅いので笹川一家の乾分が探しにゆくと、繁蔵の腕や草履が夥しい血とともにみつかった。江戸にいた清滝の佐吉や奥州にいた勢力富五郎、夏目の新介はこのことを手紙で知り須加山に戻ることとした。
第二十席 勢力富五郎上総へ戻る事、並に猿(ましら)の伝次の事清滝の佐吉ら笹川の身内は集まっていたが、奥州にいる勢力は病気のためなかなか戻ってこない。佐吉は勢力抜きで仕返しに行こうと言うが誰も従う者はいない。繁蔵の先代の仁蔵の頃から一家にいた古参の乾分衆は新参者の佐吉に指図されるのが気に食わない。佐吉は俺だけで親分の仇を討つと言い捨て清滝村に帰っていった。
やがて勢力富五郎が笹川に戻ってきた。だが佐吉はそれを知っても勢力のもとへ挨拶にゆかない。江戸で佐吉の乾分になった猿(ましら)の伝次という美男は、勢力は繁蔵の兄弟分だから佐吉にとって叔父にあたりこちらから挨拶にゆくのが道理だ、と佐吉に意見する。佐吉や佐吉の乾分の勘次、勘六は怒ってこれをきかない。伝次は単身勢力のもとに赴き、佐吉に成り代わって挨拶をした。その男っぷりの良さは勢力の一家で評判となった。伝次が佐吉の家に戻ると、飯岡へ偵察に行っていた勘次と勘六が戻ってきて、先方は油断しているから今夜ゆけば皆殺しにできると報告し、佐吉は斬り込みを決める。だが伝次は勘次・勘六の二人は飯岡方に通じているのではないかと疑っていた。
第二十一席 飯岡へ二度目の斬込みをかける事、並に勢力富五郎助五郎を追詰める事伝次は佐吉には内緒で、弟分の長次に命じて勢力のもとに手紙を届けさせた。手紙には、佐吉の手助けをするのではなく繁蔵親分の仇を討つと思って加勢してほしいと書いてある。これを読んだ勢力らはもっともだと感心し支度を始める。
天保十三年十月十七日、佐吉の一味は総勢五十二人で清滝を出発し飯岡へ向かった。だが、途中の広い空地では飯岡一家が待ち伏せしていて、佐吉の一味が近づくと火を放った。奇襲を受け、三方を敵に囲まれ絶体絶命になった佐吉を猿の伝次が救った。もとは旗本の三男で貞宗の名刀を操る伝次はめっぽう強く飯岡一家の者を次々倒す。佐吉が助五郎を狙うと飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。佐吉は甚助に肩先を斬られたが、また伝次に救われた。鰐の甚助と猿の伝次との一騎打ちになり伝次が勝った。しかし小勢の佐吉の一味は大勢なだれ込んできた飯岡一家に囲まれてしまった。全滅かと思われたとき、勢力富五郎の一隊七十五人が乗り込んできた。勢力はただならぬ強さで飯岡一家の強者を次々と倒す。勢力に追われた助五郎は船に飛び乗って逃げた。
第二十二席 伝次清滝に勘当さるる事、並に佐吉捕吏(ほり)に囲まるる事助五郎を取り逃がした勢力は須加山に戻った。猿の伝次は怪我を負った佐吉を連れて清滝に戻った。伝次は一人で勢力富五郎を訪ね喧嘩場で助けてもらった礼を言う。
佐吉は喧嘩場で勢力からの加勢があったのは伝次の計らいによるものだったことを知るが、伝次が勢力にへつらっているのが気にいらない。遂に口論となり佐吉と伝次は喧嘩別れする。勘次、勘六以外の乾分は皆伝次に付いてしまい、佐吉の一家はたった三人になってしまった。伝次に付いた者のうち、伝次の弟分の長次は堅気になるため江戸に行き、佐吉の乾分だった者は勢力の乾分となり、猿の伝次はどこかに旅に出た。勢力は伝次を引き留めて仲間にしたかったが気付いた時には伝次はいなくなっていてとても悔しがった。
佐吉の家に突然目明しがやってきて佐吉を捕らえようとする。佐吉は勘六が間者だったことに気付き、伝次の意見に耳を貸さなかったことを後悔した。
第二十三席 佐吉お由忠吉を殺害する事、並に佐吉処刑さるる事佐吉は目明しから逃げ切ると江戸へ身を潜めた。三年後の弘化二年。佐吉は麻布市兵衛町の煙草屋に繁蔵の妻のお由を見かける。どういうことかと下総に探りにゆくと、お由は繁蔵の乾分の羽計の勇吉の弟の忠吉と良い仲になって、十一屋を売りとばした金で二人で行方をくらましたことがわかった。繁蔵親分に申し訳ないと怒った佐吉は煙草屋に忍び込みお由と忠吉を殺害して金を奪った。この金で派手に博打をうっていたことから佐吉の素性が割れ、佐吉は役人に捕らえられて鈴ヶ森で獄門となった。
話は戻って天保十三年。飯岡助五郎は前回の喧嘩の後、銚子の陣屋に身を移したため勢力の一家は手も足もでなかった。勢力は、繁蔵を殺害した成田の甚蔵が柴山の観音祭りで盆を開くことを知り甚蔵を討つことにした。勢力らは祭りに忍び込み賭場に斬り込んだが、偶然甚蔵はその場を離れていた。勢力は柴山の大蔵と地曳の寅松を斬り倒して引き揚げた。成田の甚蔵は一人で成田山新勝寺へ逃げて寺に匿ってもらった。
第二十四席 助五郎銚子の陣屋に隠るる事、並に富五郎鍋掛ヶ原にて危難の事八州廻りの役人が銚子陣屋の役人と協力して勢力を捕らえようとしていることが勢力の耳にはいった。勢力は女房子供を義父の善兵衛に託し離縁をした上で萬歳村の家を去った。役人は追い探すが勢力は別の土地へ逃げた。
天保十五年二月の始めの嵐の日、勢力富五郎、夏目の新助ら十八名は助五郎を討とうと銚子の陣屋に斬り込んだが、待ち構えていた役人に返り討ちに会い、生き残ったのは勢力、新助、友太郎、忠吉の四名だけであった。勢力と新助と忠吉は、助五郎が銚子の陣屋から出てくるまで奥州で待機することにした。三人は旅商人に成り済まして北へ向かったが、大田原鍋掛ヶ原の旅籠で滞在しているところを役人に見つかってしまう。役人は人数をそろえて旅籠に乗り込んだ。
第二十五席 猿の伝次富五郎を救う事、並に富五郎奥州路へ入込む事旅籠の中で役人を返り討ちにした三人は往来へ逃れるが、外にも大勢の役人が待ち構えていた。上州友太郎と夏目の新助は斬り殺され、勢力も風前の灯となった。そこに猿の伝次が現れ、何十人もいる役人を次々と斬り倒す。その隙に勢力はその場から逃げることができた。
奥州路の山道で勢力は悪人に殺されかけている百姓の伝兵衛を救う。しかし伝兵衛の家で寝ていたところを役人に捕らえられ代官所に連行される。勢力の身柄は下総に送られることとなった。八州廻りの手下の永井五郎三郎が勢力を駕籠に乗せ代官所を出発した。ところが駕籠は下総ではなく奥州に向かっている。実は永井五郎三郎というのは偽役人でその正体は大盗賊天狗小僧霧太郎だった。
第二十六席 太田屋新兵衛伊勢山田に於て危難の事、並に倅(せがれ)庄五郎安藤伊織に従って剣術を学ぶ事ここからしばらく天狗小僧霧太郎の話となる。
阿波国徳島本町通りに太田屋新兵衛という豪商がいた。新兵衛が伊勢参詣の折、大勢の雲助との揉め事が起り、命が危ないところを安藤伊織という侍に助けられた。新兵衛は伊織を阿波の太田屋に連れ帰る。伊織は新兵衛の息子庄五郎に神影流の剣術を教えた。庄五郎は十二歳から十五歳まで熱心に剣術を勉強し確かな腕前となった。ある晩太田屋に役人三十人がやってきた。役人が言うには、安藤伊織は関東で大罪を犯した盗賊とのことである。
第二十七席 茨木十太夫悪事露見して召捕らるる事、並に太田屋倅庄五郎入牢となる事安藤伊織の正体は茨木十太夫という常陸土浦の浪人で、江戸で罪を犯した強盗であった。十太夫は庄五郎に神影流の腕前は自分のように悪事には使わないくれと言い残して自害した。盗賊を五年間匿っていたという嫌疑で新兵衛は捕まりついに牢死した。新兵衛の後妻およしは以前から店の若者の和助と密通しており、新兵衛が死ぬと庄五郎の存在が邪魔になった。およしは庄五郎を盗賊だと吹聴し、世間でもそのような噂がたった。ある晩庄五郎は、およしと和助が庄五郎を始末して店の金を持ち出して江戸に高飛びしようと相談しているのを聞きつける。庄五郎は継母のおよしと和助を斬り殺して自首するが、およしと和助の姦通の証拠がなく庄五郎は牢に入れられる。三年たったある日、牢名主の勘十郎と源右衛門が牢破りを決起する。
第二十八席 太田屋の倅庄五郎牢破りの事、並に庄五郎賊の群に入る事脱獄に成功した庄五郎、勘十郎、源右衛門ら十一人は日野屋に押し入る。日野屋の倅はかつて庄五郎を盗賊だと喧伝し、日野屋は太田屋の商売を横取りした強欲非道な金満家だと庄五郎は恨んでいた。勘十郎らは日野屋から八千五百両もの金を奪うと、持ちきれない分は街中の辻々に捨てながら逃げた。
庄五郎は勘十郎、源右衛門とともに盗賊となり諸国を転々とする。庄五郎は京都で、飯泉七郎右衛門という浪人から剣術と伊賀忍術を学んだ。力をつけた庄五郎は勘十郎をはじめ二三十人の乾分をもつようになり、名を木隠(こがくれ)の霧太郎と変えた。霧太郎の一味は甲州荒澤村の金満家佐野文蔵を狙った。
第二十九席 小天狗霧太郎偽役人となって大金を奪う事、並に天目山に於て乾分に分れて江戸で出府の事甲州荒澤村の佐野文蔵の女房のお花の母親が大病という知らせが届いた。お花は駕籠に乗って実家に向かったが関所の通行手形の発行には日数がかかるので抜け道を使った。
後日、名主の要右衛門のところに江戸奉行所から御用状が届いた。江戸から役人もきて、関所の裏道を通った嫌疑で取り調べるということで、文蔵の店の者は名主の要右衛門に引き渡され、店の財産は取り押さえられた。要右衛門は文蔵らを代官の元に送り届けるが、代官は覚えがないという。役人に化けていた霧太郎らは佐野文蔵の家から千五百両を奪い山分けした。
霧太郎と源右衛門は堅気となり江戸で商売を始め成功していた。勘十郎は放蕩して金を使い果たしてしまい、霧太郎と源右衛門の店をたびたび訪ねては旧悪をばらすと強請って金を無心する。霧太郎と源右衛門は店をたたんで江戸を去ることにするが、霧太郎はその前に勘十郎を片付けようと考えた。
第三十席 霧太郎柳川無宿の勘十郎を斬って江戸へ立退く事、並に国定忠治富五郎を金毘羅山へ尋ぬる事勘十郎はまた霧太郎のところへ金をせびりに行ったが今度は喧嘩となった。勘十郎は訴人をし、大勢の役人が霧太郎の店にやってきた。霧太郎は往来にでて役人に刃向かうと、勘十郎をみつけて叩き斬った。そのまま霧太郎は逃げ行方知れずとなった。
話は戻って、霧太郎に助けられた勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分のもとへ落ち延びた。助五郎が銚子陣屋から出てくるのを三年間待ったが我慢しきれず、忠吉親分に書置きを残して下総へ向かった。忠吉のもとに国定忠治がやってきて助五郎の一件を聞いた。忠吉に恩がある忠治は、勢力を奥州に連れ戻すと言って乾分の頑鉄、定八と共に下総へ旅立った。忠治は助五郎の首を討とうと助五郎の家を訪ねたが、助五郎は銚子陣屋に居るため留守だった。忠治は萬歳村の名主で勢力の義父である善兵衛を訪ね、勢力の居所を訊いた。勢力は乾分の鶴吉、亀吉と共に金毘羅山のてっぺんに小屋を建てて潜んでいた。忠治は金毘羅山に登って勢力に会い、時機が来るまで奥州に戻るよう説得するが勢力は応じず、忠治は上州へ帰った。
ある朝八州廻りの役人と銚子の役人が合同で金毘羅山に登ってきた。勢力らは鉄砲で応戦する。銚子の陣屋から頼まれて来た笠間浪人の斎藤新十郎という弓の達人が弓を放ちながら近づいてゆくと、勢力の方からの鉄砲の音がやんだ。頂上に来てみると、勢力・鶴吉・亀吉の三人は死んでいた。勢力の脇腹には矢が刺さっており、もはやこれまでと見た勢力は乾分二人の首を落として息絶えたようである。新十郎は勢力の見事な最後に感じ入り、三人の死体を引き取って善兵衛に届け三百両を渡した。猿の伝次も下総まで弔いにやってきた。新十郎は剃髪して坊主となり勢力の菩提を弔った。後に金毘羅山の麓に勢力大明神というお堂ができて土地の者が崇めた。助五郎は勢力の死を知って銚子の陣屋を出て飯岡に戻り天寿をまっとうした。
以上全三十席の内容をご紹介しました。
助五郎も繁蔵ももともと力士であったという設定にはなっていません。
全体として実に連綿と組み立てられた構成で、飯岡への斬り込み(名垂の岩松の件)と鹿島の棒祭りの話が絡み合っているところが興味深いです。
後半は猿(ましら)の伝次や木隠(こがくれ)の霧太郎といった現代ではきかない脇役の登場人物がヒーローとして描かれています。
近世侠義伝 猿の伝次
近世侠義伝 木隠霧太郎
■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 明治から昭和初期に活躍した講釈師悟道軒圓玉の講談天保水滸伝が大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり読売新聞に掲載されました。
79席それぞれの内容を書くと煩雑ですので、数席ずつまとめてあらすじをご紹介いたします。タイトルは私が便宜的につけたものです。
第一席~第六席 飯岡助五郎田沼主殿頭の浪人青木源内が相州三崎に居を構えていたとき、常陸の侠客井上伴太夫と武芸上の言い争いとなった。論破された伴太夫は夜中に忍び込んで源内を斬った。青木源内の息子、青木助五郎は親の仇をとるべく武芸に励む。井上伴太夫が下総か常陸の侠客のもとに忍んでいるという噂を聞いた助五郎は、土地の大親分のもとにいれば伴太夫を見つけられるのではないかと思い銚子の五郎蔵を訪ね、五郎蔵は助五郎を乾分にする。助五郎は五郎蔵の元で剣術の修行に励み神影流の極意を得る。五郎蔵は大病を患って死に、その跡目は助五郎が継いだ。
銚子観音前の料理屋で助五郎は伴太夫を見つける。助五郎は伴太夫との決闘に勝ち親の仇を討った。助五郎は銚子陣屋から十手捕縄を預かる身分にもなった。
第七席~第九席 笹川繁蔵紀伊家の家臣の岩瀬重右衛門は酒の上で間違いを犯し浪人となって下総笹川に流れた。そこで土地の提灯屋の娘と結婚し、福松という子供ができた。子供ながら気性が荒い福松に、土地の親分流鏑(やぶさめ)の仁蔵は喧嘩をしてもよいが母親を大切にしろと意見する。金を集めれば母親が喜ぶだろうと思い福松は賭場荒らしをするようになった。
流鏑の仁蔵は賭場を福松に譲って隠居した。福松は名を繁蔵と改め、十一屋という店を開いた。
第九席~第十一席 勢力富五郎勢力富五郎は江戸角力で十両をはる力士。金貸屋の妾と好い仲になったことが元となって暴力沙汰を起こし江戸を去ることになった。故郷の下総に戻った勢力は繁蔵の乾分となり屈指の兄株となった。
第十一席~第十八席 清滝佐吉清滝の酒造家茂右衛門の奉公人佐吉が茂右衛門の縁者櫻井村の与兵衛の娘おつねと駆け落ちした。茂右衛門と与兵衛は二人の行方を捜すため銚子の陣屋に通じている飯岡助五郎に協力を頼んだ。助五郎は、いずれ二人を夫婦にすることを条件に引き受け、乾分に探索させた。佐吉とおつねは成田不動で助五郎の乾分に捕らえられた。助五郎は二人を与兵衛に引き渡したが、後日与兵衛から結婚の話が無かったことになるよう佐吉を説得してほしいと頼まれる。助五郎は佐吉にいずれ夫婦にしてやると口約束して金を渡し旅に出す。旅先で遊んでいるうちにおつねのことは忘れるだろうと考えてのことだったが、一か月して帰ってきた佐吉は心変わりしていなかった。縁談が一向に進まないので、佐吉は足繁く助五郎の元に通うが、助五郎はそれがだんだん煩わしくなって、この話はまとまらないから今までの話は夢とあきらめろと佐吉に諭した。このままでは引き下がれない佐吉は繁蔵に相談する。繁蔵はおつねを連れてきたら親元にかけあって夫婦にしてやると約束する。佐吉は江戸の親類のもとにいるというおつねをようやく探し出し、繁蔵は与兵衛を説き伏せて佐吉とおつねは夫婦になった。これが縁で佐吉は繁蔵の乾分になった。
第十八席~第二十席 平手造酒江戸神田お玉が池の千葉周作道場の門人で剣術の達人の平手造酒は、車善七という非人頭と懇意になった廉で破門となった。平手は関東で有名な侠客飯岡助五郎を頼ることとした。旅の途中、市川の小料理屋で笹川一家の夏目の新助に出会う。二足の草鞋で強大な力を持つ飯岡助五郎よりも、力が弱くても生一本の博打打ちの方がよいと平手は笹川一家の食客になることを決める。
平手は繁蔵を気に入り一家の若い者に剣術を教える。しかし平手は酒癖がよくなかった。
第二十席~第二十五席 鹿島の棒祭り翌年五月鹿島神宮で鹿島の棒祭りが行われた。繁蔵は体調が悪く代わりに勢力が出向くことになった。繁蔵は酒癖の悪い平手が祭りに行くことを止めるが、平手は三日間の禁酒を誓う。
祭礼では勢力の他、飯岡助五郎や風窓半次など近郊の顔役がそろって賭場を開いている。祭りの三日の間、賭博は公許。役人は「賽銭勘定場」と高札がかかっている賭場を見回っては、賽銭のうちいくらかをお初穂として俺に差し出せと金をせびっている。
平手は最初の二日は酒を我慢したが三日目の昼になって顔色が悪くなってきた。これを見た勢力が甘酒代として平手に金を渡した。結局平手は料理屋で酒をたくさん飲んでしまう。そこに飯岡一家の食客で賭場に出張してきている高島郷太夫、志麻一角、鷹取運平がやってきた。この三人は神蔭流の達人秋山要助の弟子である。三人がはらった塵が平手の杯洗に入ったことから揉め事が起った。四人はこの勝負で落命しても一切構わないという証書を交わして表に出た。実力差は歴然としていて、平手は三人の耳や鼻は削いだが命は助けてやった。港の市兵衛、東金の仁兵衛という二人の侠客が仲裁して喧嘩が終わった。
市兵衛と仁兵衛は事を荒立てないよう飯岡助五郎に勧告する。助五郎は祭礼に来ている商人に迷惑をかけたくないと穏便におさめ、食客の三人は旅費を持たせて放逐した。
第二十五席~第二十七席 笹川の花会笹川繁蔵は末世に名を残そうと、小見川の宿禰神社を修繕し、宿禰の碑を笹川に建てることとした。そのために大金が必要なので花会を催すこととし、繁蔵は花会の回状を諸方の侠客に送った。助五郎は、花会の名目は立派だが内実は繁蔵の金集めだとして自らは出向かず、洲の崎政吉を名代として遣わすこととした。助五郎が用意した義理(祝い金)は、助五郎が五両、乾分が三両あわせてたった八両と少なかった。
政吉は一家の三人を連れて花会が行われる繁蔵の家に出向き、助五郎は陣屋の要件があって来ることができないと告げて、義理を差し出した。それを見た繁蔵はその金を帳場に渡さず自らの懐に入れた。政吉が二階にあがると各親分の義理の金額が貼りだしてあり、どれも三十両から五十両と大金である。政吉はここに八両と書かれたビラを貼りだされたら助五郎親分の恥になると思い逃げたくなった。ところが貼りだされたビラは助五郎五十両、若い者三十両と合わせて八十両であった。政吉は帳場に降りて繁蔵に感謝を述べた。
第二十七席~第三十五席 神楽獅子大五郎の騒動政吉が花会に出席している頃、同行の乾分は素人角力に参加したが負けて帰ってきた。繁蔵のもとで行われている角力で乾分が負けたことを知った助五郎は翌日、江戸の角力で二段目までいった玄人である神楽獅子大五郎を連れて出かけた。
笹川一家の清滝佐吉と神楽獅子との取り組みとなった。これに神楽獅子は勝ち、その後も神楽獅子に敵う者はいなかった。繁蔵の乾分にせかされた勢力富五郎が土俵にあがることなった。神楽獅子は勢力との取り組みでみっともない負け方をした。
後日、繁蔵の乾分の西尾の与一、花形の宇吉、水田の六蔵が飯岡の八幡宮の祭礼の見物をしたついでに飯岡の料理屋に上がって芸者を呼んで遊んだ。六蔵らは先日神楽獅子が勢力に角力で負けた様子をからかって歌い、それを階下にいた神楽獅子がききつけたことから喧嘩になった。表を通りかかった洲の崎政吉がこれを仲裁した。政吉は医者を呼んで三人を手当して金を渡した。政吉はこの喧嘩のことで繁蔵に詫びを入れに行こうと思ったが助五郎が放っておけというので風窓の半次に繁蔵へのとりなしを依頼した。半次は繁蔵に会い政吉に代わって詫びを入れた。
半次は政吉に、このままにしておくと騒動になりそうだから助五郎が直接笹川方と和解した方がよいと忠告した。
第三十五席~第三十九席 名垂の岩松の捕縛九月八日、風窓の半次のとりなしにより松岸の料理屋酔月楼にて飯岡一家と笹川一家の手打ち式が行われた。双方二百人も集まる式において助五郎と繁蔵は盃を交わして兄弟分となった。
手打ち式に参加していた助五郎の乾分で甲州生まれの元吉が、笹川方の出席者に雨傘勘次を見つけた。雨傘勘次はその昔、身延山下で上州の絹商人を殺して三百両を奪った泥棒であるが、今は名垂の岩松と名をかえて繁蔵の乾分となり念仏を唱えてばかりいる。
元吉が助五郎に報告すると、助五郎は岩松こと勘次を捕縛すれば、悪党を匿った廉で繁蔵もお縄にかかるだろうと考えた。
ある日、繁蔵は目明しの岸島屋権兵衛に呼び出された。役人が待っているというので金の入った菓子折りを用意して訪ねた。権兵衛の家では名垂の岩松が籠の中に捕らえられていて、関八州の役人は岩松が乾分になった経緯を繁蔵に問いただした。役人は繁蔵に岩松の本名は雨傘勘次で人殺しの兇状があることを伝え、本来繁蔵も江戸に送るべきところ、日ごろの行いがよいので目こぼしすると伝えた。籠の中の岩松は笹川一家から人殺しの悪党を出したことを繁蔵に詫びた。繁蔵はその帰りに寄った料理屋で、岩松が捕まったのは助五郎の密告によるものだということを小見川の丑松から聞く。繁蔵は助五郎の策略を卑怯だと怒りこの恨みを晴らしてやろうと念じた。
第三十九席~第四十七席 飯岡への斬り込み繁蔵は喧嘩の種を蒔こうと助五郎の乾分の舎利の源次の賭場を荒らす。それに対抗して洲の崎政吉が笹川の縄張り内に賭場を開く。その賭場を荒らそうと小南の庄助ら笹川一家の者が出向くが返り討ちにあう。
繁蔵は、勢力富五郎、夏目の新助、清滝の佐吉ら主だった乾分二十余人と平手造酒を集めて相談し、飯岡方に喧嘩を持ち込もうと意見がまとまった。
ある晩、繁蔵らは助五郎の妾の家に斬り込んだ。平手は奥州浪人川口伴助ら飯岡の用心棒を倒す。騒ぎをききつけた成田の甚蔵、荒町の勘太、下緒伊之助ら助五郎の乾分二三十人も喧嘩に加わった。
庭では繁蔵と助五郎が一騎打ちをしていたが、助五郎乾分の松崎の庄蔵が繁蔵を背後から切りつけようとした隙に、助五郎は塀を乗り越えて逃げた。この喧嘩で笹川方に怪我人は出たが死人はでなかった。飯岡方は十三人が怪我をして七人が即死した。
繁蔵は助五郎が仕返しにくるだろうと用心していたがその気配がない。やがて平手造酒は酒の飲みすぎで喀血し、桜井の幸福寺で養生することとなった。
第四十七席~第五十三席 新生の留吉・留次郎かつては銚子の五郎蔵の乾分で助五郎とは兄弟分だった新生の留吉は足を洗って小間物屋を開き店は繁盛していた。留吉の息子の留次郎は親孝行で道楽もせず学問ばかりしている青年だ。留次郎は留吉の名代として銚子の参会に出席し、その後仲間に連れられて潮来の遊女屋に入った。留次郎は雛鶴という遊女と相思相愛となり、雛鶴のもとに通うようになる。雛鶴の客に飯岡助五郎の乾分の土鼠(もぐら)の又蔵がいた。ある日、雛鶴は又蔵の相手をして又蔵の懐から金を取ったうえで散財させた。その金を留次郎に渡しているのが又蔵にみつかり騒ぎとなった。勢力富五郎と清滝佐吉がいる座敷に留次郎と雛鶴が逃げてきた。訳を聞いた勢力は、雛鶴と又蔵との間に入って和解させた。勢力は留次郎と雛鶴の中を割いたら心中するだろうと思い、雛鶴を身受けして留次郎と一緒にさせた。
笹川一家が飯岡一家に斬り込んだ後、助五郎は笹川へ乗り込むことを決め、松岸の半次のもとに乾分を集めていた。このことを知った留吉留次郎の親子は、ここは恩に報いるところと勢力と繁蔵のもとにこのことを知らせに行った。
第五十三席~第六十席 洲の崎政吉館山領洲の崎の村に磯右衛門という顔役とその娘のお定がいた。磯右衛門の後妻おしんはお定をいじめ、お定は磯右衛門の弟の藤次のもとに逃げた。柿の栽培を生業としていた磯右衛門はある日柿泥棒を棹で叩いて木から落とした。柿泥棒は当たり所が悪く死んでしまったがそれは名主の倅の与之助だった。磯右衛門は自主しようとしたが、藤次の提案で与之助の屍骸を棄てることとし、柿の木の下に埋めた。その後、おしんは利助という男とよい仲になって金をさらって逃げた。三年後、おしんはたびたび磯右衛門の元にやってきて、与之助の件をばらすと脅して金をせびりとるようになった。我慢できなくなった磯右衛門がおしんを斬りつけようと追いかけているところを役人につかまった。おしんは役人に、磯右衛門と藤次が与之助を柿の木の下に埋めたと証言するが、藤次はそれをきっぱり否認した。役人が柿の木を掘ると人骨ではなく犬の骨がでてきた。おしんと利助は悪巧みして嘘をついたと役人に捕らえられ、入墨のうえ追放となった。藤次は磯右衛門に、お定の入れ知恵によって与之助の代わりに犬の死骸を埋めたことを伝えた。お定は父親の磯右衛門の元に戻った。
洲の崎村の政右衛門という漁師がお定の賢さに惚れた。政右衛門の倅の政吉とお定は結婚し、夫婦仲睦まじく市太郎という息子もできた。
政吉は飯岡助五郎に見いだされて乾分になった。力が強く道理がわかり金離れも綺麗で、やがて助五郎の右腕となった。
笹川への出入り前に飯岡一家が松岸に集まっている際、政吉は家に帰ってきた。政吉はお定に、今夜親分と一緒に笹川に斬り込むこととなった、俺の命はないだろう、俺が仏になったと聞いたなら市太郎を連れてどこかに再縁しろ、市太郎は堅気にしてくれ、と伝えた。お定は政吉に、どうか人に笑われないように死んでおくれ、いずれわたしも後から行くと告げた。
第六十一席~第六十六席 笹川の決闘八月二十日、松岸の支度場を出た飯岡一家は船に乗り込んだ。一番船には荒町の勘太はじめ二十余名、二番船には洲の崎政吉はじめ二十余名、三番船は飯岡助五郎はじめ三十余名、その他の者を合わせて八十有余名が利根川を上った。
繁蔵の元には新生の留吉留次郎の親子から今夜飯岡方が攻めてくるとの手紙が届いた。乾分は散らばっていて手近には二十人しかいなかった。勢力は鉄砲を使って飯岡方を動揺させる作戦を立てた。繁蔵、勢力富五郎、夏目の新助らは飯岡方の到着を待ち構えた。
笹川に上陸した飯岡方は河岸で待ち受けている笹川方を見て、出入りがばれていたことに気付いたが敵が小勢であると見とって斬り込んでいった。笹川方は逃げたがこれは策略である。追いかける飯岡方の背後から藪の中に潜んでいた夏目の新助らが鉄砲を放った。鉄砲により飯岡方は三四人倒れた。洲の崎の政吉は笹川一味を数人斬って進むと勢力富五郎が樫の棒を持って応戦した。そこを荒町の勘太が切りかかる。繁蔵も必死になって斬り合う。
桜井村の幸福寺では酒のために体をこわした平手が療養していた。八月二十日の夜は医者から止められていた酒を寺で飲んでいた。笹川の若い者が幸福寺に行き、飯岡方の出入りを平手に伝えた。平手は笹川に駆け付け、平手を見た笹川一家は元気になった。平手造酒の前に洲の崎政吉が進み出て決闘となった。平手は洲の崎政吉と荒町の勘太の二名を同時に切り倒した。その技に驚いた飯岡方は崩れて笹川河岸まで下がったが、このとき松岸の半次ら三十人を乗せた船が笹川に到着した。飯岡方は半次らの到着に元気づいて再び攻め入った。だが飯岡方はだんだん不利になりついに退却した。
笹川方は三人の死者があった。飯岡方の死体は洲の崎政吉を始め十三あった。笹川方はこれを棺に納め、翌日松岸の半次のもとに届けた。
陣屋と通じている助五郎がこの後役人を笹川に差し向けると予想されたので、笹川一家はめいめいこの土地を離れることにした。繁蔵の持ち金が足りなかったので、勢力は女房おりきの父親で清滝村の名主善兵衛から二百両を借りた。繁蔵はこの金を一家の者に分配し、繁蔵は上方へ、勢力は仙台の信夫の常吉の元へ、清滝佐吉は伯父のいる江戸へ、平手は上州大前田栄五郎のもとへそれぞれ向かった。
第六十六席~第七十席 笹川繁蔵の最期下総の神崎の友五郎という侠客が助五郎と繁蔵の仲を納めたいと申し出た。助五郎はお互い縄張りに手をかけないという条件で和解したいと頼み、友五郎は尽力した。その後繁蔵の身内の者は笹川に戻ってきた。友五郎は繁蔵に隠居を勧めたが、まだ助五郎はこちらを狙っているようだしの助五郎に恐れをなして隠居したと思われるのはいやだからと断った。友五郎はそれなら用心してなるべく外出しない方がよいと忠告した。
繁蔵は用心をして外出を控えていたが、名主宇右衛門の倅市太郎と豪農藤本嘉兵衛の娘が結婚することとなり、婚礼の日は宇右衛門の家を訪ね、そこでおおいに飲んだ。
その帰り道、繁蔵は飯岡一家の成田の甚蔵、花輪の弁吉、八木の音松、銚子の次郎その他二名に襲われて命を落とした。
魚売の万蔵が竹藪の中で血に染まって倒れている繁蔵をみつけて笹川一家に知らせた。笹川一家は諸方の侠客に知らせて繁蔵の本葬を行った。四十九日が終わり、勢力富五郎は、親分繁蔵を殺したのは飯岡の奴らに違いないと乾分を集めて斬り込みを決める。
第七十席~第七十三席 平手造酒の最期八月六日の夜、勢力、平手造酒ら笹川一家の約十六人は繁蔵の仇を討つため飯岡に向かった。ところが助五郎の家の周りを四五十人が取り囲んでいる。どうも笹川方の斬り込みがばれていたらしい。
こちらの方が人数は少ないが、勢力や平手は退くことは考えず死ぬ覚悟で斬り込んだ。勢力、清滝佐吉、夏目の新助らは脇差が折れるまで戦ったが、飯岡方はますます人数が増えて勝つ見込みがない。平手の指示で笹川方は退却し、平手はそのしんがりにいた。
笹川の決闘で平手造酒に斬られた政吉の女房のお定は政吉の仇を討とうと喧嘩場に来ていた。お定は退却する平手造酒の背後から槍を突き出した。おさだの槍は平手の脇腹に刺さった。平手は槍を引いておさだの首を討ち落とした。平手は傷を負いながら待っている味方のもとに戻ったが、ついに勢力の腕の中で息をひきとった。平手は繁蔵の菩提寺に埋葬された。
第七十三席~大団円(第七十九席) 勢力富五郎の最期飯岡での決闘の後、関八州の役人や銚子の陣屋から役人が次々と笹川一家の者を捕縛して江戸に送るようになった。笹川一家は身を隠した。勢力は、女房おりきの父である清滝村の名主善兵衛のもとに乾分の鏑木の栄助と隠れた。勢力は元乾分で今は小見川で鰻屋をやっている村吉こと村田屋吉五郎を呼び寄せ、村吉に自分の女房のおりきを娶ってほしいと頼み、善兵衛もこの話を承知した。
勢力を探す役人の警戒がなかなかゆるまず、勢力は隠れているのが見つかる前に行動しようと、ある夜飯岡に向かった。一人で助五郎の店にあがりこんだが、助五郎は留守であった。乾分に「助が帰ってきたら勢力はまだ生きているとそう云え」と言い残して帰ってきた。乾分の栄助もさすがにこの豪胆な行動には戦慄した。
芝居好きの勢力は桜井の町に芝居が来ていることを知り栄助を連れて顔を隠して観に行ったが、芝居の途中で八州廻りの役人が入ってきた。芝居が終わったら捕らえられると思い、芝居中に栄助が役人を背後から斬り、その隙に勢力は逃げた。その夜栄助も逃げのびて善兵衛の家に帰ってきた。栄助が沼に捨てた血染めの衣類が見つかって、役人は勢力がこの近くにいるに違いないと目をつけ、一軒一軒調べ始めた。勢力は善兵衛に別れを告げ、善兵衛は勢力に金と猟銃を渡した。勢力と栄助は夏目にある金刀毘羅山に身を隠した。
五日程経つとどうしてばれたか、八州廻りの役人中山誠一郎や飯岡助五郎の身内など三百人が山を取り巻いた。
勢力富五郎と鏑木栄助の食べ物が尽きた天保十四年十一月末、村吉こと吉五郎が裏山から登ってきて勢力に米を渡した。山を下りて助五郎をしとめる最後の機会を勢力は狙っていたが、吉五郎の話からそれができないとわかると、ここで死ぬ覚悟を決めた。
三日後、勢力はまだ齢十八の栄助の首を斬り落とした。勢力は鉄砲で自分の胸を撃って自害した。
以上全79席のあらすじです。
新聞には石井滴水の挿絵が添えられていていい味を出しています。
長講天保水滸伝によりも構成がすっきりして現代の講談に近づいている気がします。ただし笹川の決闘で平手造酒が命を落とさず、繁蔵殺害の仕返しとして乗り込んだ喧嘩で政吉の女房によって殺されているのは注目すべき点でここに悟道軒圓玉のオリジナリティーがあるのかもしれません。
また鹿島の棒祭りで、侍の払った埃が平手造酒の杯洗に入ってしまう場面では、平手は最初は落ち着いて酒を捨てて新たに酒を注文し、その後犬婆アの犬の賢さと侍の無礼さを比較するという描写になっており、現代版の短絡的な平手よりかっこいいなと思いました。
□講談本「天保水滸伝 明神森の大喧嘩」 大正14年中扉には「侠客喧嘩帖 笹川 飯岡 明神森の大喧嘩」とあります。全27話。題名は「明神森の…」となっていますが、天保水滸伝の物語全編が語られています。付録として「荒神山の血煙」の1話が収録されています。


□講談本「侠客 天保水滸伝」 大正14年八千代文庫の長編講談シリーズのひとつ。全25話。各話の最初に「本編活動の人々」として登場人物を列記しているのが親切。三遊亭円朝の「貞操お民」「怪談牡丹燈籠」も併録。

□神田ろ山の講談「笹川繁蔵」 20席 昭和4年大日本雄弁会講談社の講談全集の第十巻には4つの長編講談と4つの短編講談が収録されている。神田ろ山「笹川繁蔵」はその長編講談のひとつ。全20話。第17話が「孫次郎の侠気」で、現代でいう「三浦屋孫次郎」のエピソードがはじめて確認できる講談本です。



■三代目神田伯山のラジオ講談「天保水滸伝」昭和初期はラジオで浪曲や講談は人気番組で、放送日にはその内容が新聞に掲載されることもありました。
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。かなり紙面を使って詳細に掲載されていることからこの番組の注目度が推し量れます。以下新聞に掲載された4話の内容を簡潔にご紹介します。
二月十二日 第一席 岩松の旧悪天保十二年六月十五日、笹川繁蔵は十一屋の二階でなだれの岩松がここ二三日見えないことを気にかけていた。助五郎の妾の父親の岸島屋権蔵が繁蔵を訪ね、念仏の岩松が召し捕らえられたことを告げた。繁蔵がその罪過を訊くと、岩松はもとは雨傘勘次という甲州の長脇差で商人二人を斬って三百両の金を奪ったお尋ね者だと云う。役人の松村小三郎が呼んでいるというので繁蔵は子分の佐吉を連れて佐原の岸島屋に行った。繁蔵は袖の下として金の入った菓子折りを松村に渡して、お叱りを受けた後、籠の中に捕らえられている岩松に会った。岩松は涙を流して別れを惜しんだ。
その帰りに料亭で飲んでいると、蟒(うわばみ)の六蔵という男が大きな鼾をかいて寝ていた。六蔵は繁蔵に気付くと、今回岩松の旧悪が露見したのは、先日の松岸での手打ち式にいた文吉があれは盗賊だと助五郎に告げ口し、助五郎が岩松と繁蔵を役人に捕らえさせようと手をまわしたからだと告げた。怒り心頭に燃えた繁蔵は助五郎を斬って岩松の恨みを晴らそうと決心した。
二月十三日 第二席 変な侍が来たやるせない気持ちで繁蔵は帰って来た。繁蔵は二階でしばらく考え込むと女房に草履を用意させた。これからどこへ行くのか子分にも女房にも伝えない。平手造酒が繁蔵に訳を聞いた。平手は江戸お玉が池の千葉周作の門弟で道場の八天狗と言われた逸材だが酒の失敗で破門になり今は繁蔵方の食客である。繁蔵は平手に今夜助五郎を斬りにゆくという本心を打ち明けた。それを盗み聞きしていた子分たちは我も我もと同行を願い出た。平手も行こうと申し出る。有名な剣客が博徒と斬り合いをしたら恥になるからと繁蔵は断ったが、平手の意思が強く平手も加わることとなった。繁蔵は平手や子分たちと飯岡に斬り込んだ。
二月十四日 第三席 留吉の恩返し繁蔵の刀を助五郎の刀はガッチリ受けた。じりじりと助五郎が後ろに下がり背が雨戸についた際、助五郎は雨戸と一緒に庭に転げ落ちた。繁蔵は庭に飛び降り、助五郎を池のふちまで追い詰める。助五郎は池の中の弁天堂に飛び移った。繁蔵も飛んだが足を踏み外して池に落ちた。今度は助五郎が池にはまっている繁蔵に斬りかかる。それを見た勢力富五郎が投げた刀が助五郎をかすめた。富五郎に気付いた助五郎は塀を乗り越えて逃げた。喧嘩が終わり笹川一家は引き揚げた。笹川方はそのうち助五郎が斬り込んでくるだろうと警戒していたが、翌月が過ぎても来ないので、人の手配も緩んでいった。
昔銚子の五郎蔵の身内として男を売っていた留吉は今では堅気になって下総荒生村で質屋をしていた。風窓半次の子分の小吉が、質に入れた脇差を一文無しで受け取りに来たことから質屋の番頭ともめた。留吉が訳をきくと、子吉は今晩助五郎が繁蔵方へ夜討ちをかける助太刀のためだと答えた。留吉は子吉に脇差を返してやった。留吉の倅の富次郎は勢力富五郎に世話になったことがあるので、その恩返しとして留吉は駕籠を飛ばしてこのことを繁蔵に伝えに行った。
二月十五日 第四席 平手造酒の報恩留吉から報告を受けた繁蔵は、子分にバラアミ(博徒の急場の身内集め)を命じた。勢力富五郎、清滝の佐吉、夏目の新助、四の宮の権太らが世間を騒がさないようにとひっそりと繁蔵のもとに集まった。子分九十名は、笹川河岸の藪と明神の森で鉄砲と竹槍を持って潜み飯岡勢を待ち構えた。飯岡方は風窓半次の家を出て利根川から笹川に向かった。一番船の大将獅子神楽の大五郎らは笹川河岸に着くと繁蔵宅を目指して駈けたが、笹川方の鉄砲に撃たれバタバタ倒れた。笹川方は続いて竹槍で攻撃する。二番船、三番船の飯岡方も上陸し、繁蔵方と決闘となる。漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい。
平手造酒は酒の飲みすぎで心臓を痛め吐血するようになり尼寺で養生していた。喧嘩を知った平手は笹川へ駆け付けた。平手の愛刀一文字の早業に助五郎方は崩れる。助五郎方の成田甚三、札の兵十、石の川の石松、三浦屋の孫次郎等が平手に立ち向かった。平手の刀が折れ、石に躓きよろめいた平手の脇腹を石松が竹槍で突き、平手は倒れた。
夜が明けても決着がつかないとみた助五郎と半次は引き揚げを命じた。しんがりの洲の崎の政五郎、政吉兄弟は笹川方を食い止めたが、清滝の佐吉と姉ヶ崎の伝次に斬られて死んだ。助五郎方は船で風窓の半次方へ退却した。繁蔵は平手造酒を探し、明神の森に深手を負ってあえいでいる平手を見つけた。
以上4席のあらすじでした。
おなじみ名垂の岩松捕縛から大利根河原の決闘まで。決闘の場面の「漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい」は美しい描写なのでそのまま転載しました。三代目神田伯山の美学が伝わってくるかのようです。
長講天保水滸伝では「洲の崎の政五郎」、圓玉の新聞講談では「洲の崎の政吉」、三代目伯山のラジオでは「洲の崎政五郎・政吉兄弟」となっているのが面白いです。
また注目すべきは、上記のどの平手造酒も胸の病にはかかっていないことです。酒の飲みすぎで具合が悪くなり寺に療養したことになっています。それではかっこわるいので現代の話では労咳を患っていたのことになっているのでしょう。平手造酒が労咳持ちなのは比較的新しい設定なのでした。どこからこの設定が生まれたのか興味があるところです。
□「天保水滸伝 勢力富五郎」 昭和25年富士屋書店刊行の長編講談シリーズのひとつ。全19話。飯岡一家と笹川一家の出入りの後、繁蔵は父親の消息を確かめるために和歌山にいる伯父を訪ねる。その後大阪に移って活躍するという他の講談本にはみないエピソードがあります。

□講談本「笹川繁蔵」 昭和29年
大日本雄弁会講談社発行。昭和4年版「笹川繁蔵」と内容は同じですが、ディテールを見てみますと、やはり現代の講談「天保水滸伝」に近くなっています。この講談本の中の話のいくつかが生き残って、現代の講談天保水滸伝を形成しているといえるでしょう。
