藍と人形浄瑠璃のくにに残る本格的芝居小屋 「脇町劇場(オデオン座)」
藍と人形浄瑠璃のくにに残る本格的芝居小屋 「脇町劇場(オデオン座)」
久しぶりの四国の大衆演劇探訪です。
今回は徳島県にある芝居小屋「脇町劇場(オデオン座)」を訪ねます。

脇町劇場は徳島県中部、美馬市にあります。
徳島駅からJR徳島線に乗りました。
電車は吉野川に寄り添うように西へ。穴吹駅に到着しました。

JR穴吹駅舎。ここから劇場がある脇町までは遠い。タクシーで移動します。
ここでこの界隈の歴史について触れておきましょう。
吉野川は日本三大暴れ川に数えられるほど古来から洪水を繰り返してきました。せっかく稲作をしても夏の洪水で収穫前に流されてしまいます。そのため吉野川沿いでは稲作ではなく藍の生産が盛んになりました。藍は連作を嫌いますが洪水のたびに肥沃な土が流れてくるのはむしろ都合が良い。また藍は台風シーズンの前に収穫することができます。江戸時代には徳島藩は専売政策によって藍の全国市場を独占し、強い経済力をもった多くの藍商人が現れました。
江戸時代は川での輸送が重要な流通手段でした。吉野川沿いにはいくつもの流通の拠点が生まれました。美馬市の脇町もそんな「川湊(かわみなと)」のひとつで、藍の取引により発展しました。

道の駅「藍ランドうだつ」でタクシーを降りました。
今も脇町に残る「うだつの町並み」を散策します。
ここは見逃すべからざる観光スポット。藍取引で富を得た商人の屋敷(明治時代頃のものを中心として江戸中期~昭和初期の伝統的建造物)が保存されている通りです。

これが「うだつ」。
当初は防火の目的で造られましたが、だんだん装飾的要素が強くなり、富や成功の象徴となっていきました。
金持ちにならないと立派なうだつを飾れなかったことから、出世できないことを「うだつが上がらない」と言うようになりました。

情緒ある町並み。映画のロケ現場にいるかのよう。

現役で藍商品を取り扱っている店がありました。
私はここで藍染めのシャツを買いました。

うだつの町並みの通りのつきあたりに川があります。その川の橋から上流方面を眺めますと・・・
見えました、脇町劇場の大きな建物。

こちらは川の上流から見た脇町劇場

川をはさんで正面から見た脇町劇場

劇場正面
脇町劇場(オデオン座)は1934(昭和9)年に建てられました。
ところで「脇町劇場」と「オデオン座」どっちが正しい呼び名なのだろう…
ウィキペディアによると、パリにあるオデオン座の外観にちなんでオデオン座という別称がついたそう。
なので、正式名称は脇町劇場、普段皆が使う呼称はオデオン座、という感じでしょうか。
オデオン座ではどのような公演が行われてきたのでしょうか。美馬市HPでは以下のように説明されています。
戦前には歌舞伎や浪曲の上演で人気を集め、戦後には歌謡ショー公演や映画上映など地域の憩いの場として親しまれました。
その後、映画の斜陽化と建物の老朽化が重なり、閉館、取り壊される予定でした。しかし、山田洋次監督の松竹映画『虹をつかむ男』のロケ舞台となったことがきっかけで、平成11年に町指定文化財として昭和初期の創建時の姿に修復され、一般公開されることになりました。
「にほん全国芝居小屋巡り」(阪急コミュニケーションズ)という本でも脇町劇場は紹介されています。
戦前の描写だと思いますが「劇場のすぐ近くに大きな製糸工場があり、そこで働く多くの若い女性たちの娯楽の場として、定員600人を収容できる劇場はいつも活気であふれていた」とのこと。
平成11年に復元・修復された現在の劇場は収容人数250名のようなので、戦前の劇場はもっと大きかったのでしょう。平成11年の修復杮落とし公演では大衆演劇や人形浄瑠璃が公演されたそうです。

横から見たオデオン座

オデオン座ではさまざまな公演が行われています。
2019年7月7日~28日は三代目樋口次郎一座による大衆演劇公演。
もちろん私はこの公演をお目当てにやってきました。
本格的な芝居小屋での大衆演劇公演、楽しみです。
開場時間になりました。
券売窓口で木戸銭を払っていざ中へ!

ジャーン!
オデオン座内部、、、
え?パイプ椅子?
畳の客席にシートが敷かれその上にパイプ椅子が並べられています。
風情より実利(お客さんの楽さ)をとったということでしょう。
まあ、やむなしかなと思います。
時代の変遷に伴い我々庶民の身体性も変わってしまいました。
50年後くらいに芝居小屋研究家がいたらこう言うかもしれません。
昭和は「床に座布団」でも観客が耐えられた時代、
令和は椅子でないと耐えられなくなった時代、
平成はその転換期であると。
ただ気になるのは、やはり舞台の見え方です。
舞台の高さはお客さんが床に座ることを前提に計算されています。椅子に座ったら目と頭の位置が高くなりますので、舞台を見た場合、前の席のお客さんの頭がだいぶ邪魔に思えるでしょう。

下手の客席
花道の向こうの桟敷席と2階席が見えます。

上手の客席
提灯の照明がアクセントになっています

1階席前方から後方を眺める

椅子席の前は小屋本来の客席である畳敷きスペース。舞台前に座布団が用意されています。

オデオン座の座布団。渋い。
年季がはいっていそう。

1階客席がなだらかな傾斜になっているのがおわかりでしょうか。

1階上手桟敷席

花道

先ほどの花道の揚幕の裏
鳥屋のような部屋にはなっていない

二階に行ってみましょう

二階から見た場内

一番後方、大向うより

二階席下手側

二階席上手側

二階席上手側から見た場内

二階席上手側舞台近くから後方を眺める

二階席中央の投光

天井
13時開演
大衆演劇公演に先立ってお客さんによる歌謡ショーがありました。
2名登場しました。
歌に合わせて地元の踊りの先生が踊る。
13時10分歌謡ショー終了
13時15分第1部お芝居開演。
この日の演目は「血桜お吉兇状旅」
第2部は舞踊ショー

三代目樋口次郎座長

椅子席最前列より

椅子席の後ろの方より

二階席より

15時55分公演終了。
座長に紹介された座員が舞台から劇場出口へ移動します。
この日オデオン座で、全国の旅芝居小屋を巡っている旅烏の烏丸さんにお会いしました。
お互い全国を渡り歩く旅烏。
自由な旅烏が旅先で出会うなんて、それこそ芝居の一場面のようです。
この後、旅芝居談議をしながら徳島駅まで一緒に移動しました。

脇町から穴吹駅へ向かう途中のタクシーの車窓。
吉野川にかかる脇町潜水橋。
潜水橋というのは増水時に水没することを想定した橋で欄干がありません。
徳島駅で二人の旅烏は兄弟分の盃を交わしてそれぞれ別の場所へ旅立ちました。
以上で脇町劇場(オデオン座)の旅日記を終わります。
* * * * *
私にとって、今回の旅は、徳島の伝統芸能の一端に触れることもテーマとなっていました。
その意識の基底にあるのは民族学者宮本常一が監修した「日本の詩情」というドキュメンタリーの一遍です。
宮本常一については、あまりに巨人すぎて私から説明するのははばかられるので割愛します。
20年くらい昔、「日本の詩情」を見た私は、宮本常一の著作を読んで、そのフィールドワークの足跡を訪ねて対馬を旅したこともありました。

「日本の詩情」は昭和40~41年にかけて宮本常一の企画・監修により日経映画社が製作した映像作品で、日本全国のその土地に根付いた習俗を描いています。
その中から、「藍とデコ」を文章によるダイジェストでご紹介いたします。
前半は吉野川の川下の徳島の町並みと藍商人の屋敷や藍蔵、藍の生産工程の様子が映し出されます。
「つい最近まで染料の王者であった藍。それはそばに似たタデ科の小さな植物。秋には華憐な花をつける」
「藍の栽培は早春から始まる。苗床で育てた後畑に移して花の咲く前に刈り取る。刈り取った藍はその日のうちに小さく切り刻み十分乾燥して連枷(からさお)でうち葉藍となる」
労働歌を唄いながら蔵の中で作業する人々と藍の出来を確認する職人
「葉藍は寝床に移され水を吸って十分な発酵をとげると鮮やかな色を出し始める」
「昔は数千町歩を作った藍も今はわずか数町歩作られているにすぎない。天然の藍はすっかり化学染料にその座を譲ってしまった」
場面は変わって、鳴門近くにある元藍商人の豪壮な屋敷が映し出される。ここでは阿波藍の歴史研究が進められている。藍の生産に用いられた道具が映し出された後、突如箱が登場し蓋を開けると人形浄瑠璃の人形の顔がたくさん現れる。
「しかし阿波は藍によって発展した」
「染料となった藍は阿波の人たちによって行商販売された。その行商に伴って人形浄瑠璃の旅興行、すなわち「木偶回し(でこまわし)」も行われた。阿波の木偶回しは娯楽の少なかった昔の農民に喜ばれ、香り豊かな郷土芸能として今に伝えられている」
義太夫を語る娘の太夫。その隣に三味線弾き。舞台ではいかにも一般人の一座が人形を操っている。その会場の客席は人でいっぱい。老人が多く中には涙ぐんでいる老婆もいる。
『ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します』
「巡礼お鶴の悲しい物語『阿波の鳴門』」
「はじめ淡路島で盛んだった人形浄瑠璃は江戸時代藩主蜂須賀公の奨励によって阿波徳島の熱狂的な郷土芸能に育ったと伝えられる。観る者、演ずる者、老若男女その熱中ぶりにこの芸能の不思議な生命力をまざまざと観ることができる」
場面は徳島の山間部の村へ。家の縁側で人形の練習をしている二人の老人。
「徳島県には今でも庶民の間に芸能の古い姿が保たれている。その例が県下各地に分布している村持ちの座である」
「農閑期になると村人たちが集まって人形の箱を開き、互いに練習を重ね技術を競いあう。氏神祭りのときなどは村中の人を集めて公演を行う。それは村という共同体の結束を強める役割を果たしてきた」
二つの大きな箱を天秤棒で担ぐ男。家を訪ね、えびす人形を操る者と鼓を打つ者。その二人が食事をとっている姿。
「人形浄瑠璃の古い形をたどれば、それは信仰と結びついてくる。正月元旦の早朝から家々を訪れて回り歩く『えびすまわし』」
「神の遣いといわれるえびす人形を操って五穀豊穣を祈り家中を清めて一年の平安を神に願う」
「家々では祈りが終わるとこの人たちをもてなしてその労をねぎらう。信仰と娯楽のわかちがたく溶け合った素朴な姿がここにある」
柝を打ちながら田舎道を歩く男。男は大きな箱から人形を取り出す。村里の辻に村人が4人くらい集まり、流芸者一行が人形浄瑠璃の公演を行っている。小さい子供も何人かしゃがんでそれを眺めている。
「村々に拍子木の音を響かせ人を集めて道の上で演技を見せる『箱廻し』。これは村座以前の古い人形劇の姿である」
「中世の傀儡子を思わせえびすまわしの面影を残しているがすでに人形浄瑠璃の内容をそなえている」
天秤棒をかかえる男、三味線を手にする女が帰りゆく。
「何事によらず古い姿が急速に消えようとしている今日、阿波には今なお日本の人形芸能の伝統が生きている。幾層もの世代のひたむきな情熱によって支えられながら」
以上「藍とデコ」ダイジェスト終わり。
「日本の詩情」では、他に徳島を取材したものに「祖谷の神代踊り」があります。秘境の村に住む人々の踊りや労働の唄が記録されています。
浄瑠璃の国、阿波では豊かな生活の唄・労働の唄(粉挽唄、木挽唄、茶飲み唄、草刈唄など)が育まれてきました。
そんな、その土地だけで継承されてきたような阿波の民謡や生活歌の音源を集めたCDが2018年に発売されました。

「阿波の遊行」
現代舞踊家の檜瑛司さんが1968年から1988年の20年間にわたるフィールドワークで集めた膨大な音源をCD2枚分に選び取ってまとめたものです。
阿波各地の土着の民衆芸能の素朴さと力強さ、生きるエネルギーをひしひし感じます。
YouTube「阿波の遊行」
https://www.youtube.com/watch?v=VSQ6rS82zw4
さてそんな下敷きのもと、今回の徳島の旅で私が向かったのは、阿波人形浄瑠璃の本拠地「阿波十郎兵衛屋敷」。

徳島県立阿波十郎兵衛屋敷
阿波人形浄瑠璃の演目といえば「傾城阿波の鳴門」です。
これは実際に徳島藩で起きた事件がもとになっています。
吉野川がよく氾濫を起こし稲作に適さなかったのは前述のとおり。その昔幕府は藩が経済的に潤うことをよしとせず他国米の輸入を禁止していましたが、徳島藩士板東十郎兵衛は米の獲れない徳島藩に肥後米をこっそり輸入する仕事に関わっていました。そんな折、十郎兵衛と米輸入の船頭との間にトラブルが発生しました。これが長引いて幕府に知られたらやばいと思った徳島藩は、なんと十郎兵衛をうやむやな理由で処刑してしまったのです。同じタイミングで海賊も処刑されたので、巷では十郎兵衛が海賊と関わっていたという噂もたってしまいました。なんて悲運な十郎兵衛。
その70年後に、この事件をモチーフとして「阿波の鳴門」が作られました。
板東十郎兵衛の屋敷跡にある徳島県立阿波十郎兵衛屋敷は現代における阿波人形浄瑠璃の本拠地で毎日公演を行っています。

人形浄瑠璃公演会場

傾城阿波の鳴門「巡礼歌の段」
十郎兵衛屋敷には展示室などもあり、阿波人形浄瑠璃の基本的な知識はここで得ることができます。
さてこの日、十郎兵衛屋敷では夜に特別なイベントが開催されました。

浪曲師玉川奈々福ライブ「阿波芸能巡礼」vol.1
阿波の土着の芸能のディープさに魅かれ、徳島の芸能聖地巡礼を目論んでいた奈々福さんの徳島プロジェクト第1弾。
奈々福さんの浪曲ライブの他、なんと、阿波木偶箱まわし保存会による「箱廻し」が実演されました!
「箱廻し」は阿波人形浄瑠璃の芸能で、一人か夫婦二人が一組になって、人形を入れた二つの木箱を天秤棒で前後に担いで巡業するという大道芸・門付け芸です(上記で紹介した「藍とデコ」の後半にもでてきました)。箱廻しを稼業とする人は明治の初め頃には200人ほどいたようですが1960年代にはほとんど見ることができなくなりました(オリンピックはこうした芸能の盛衰の転機だったようです)。
一度は廃れてしまった「箱廻し」は、1995年に辻本一英さんが興した阿波木偶箱まわし保存会によって復活しました。
今回はその保存会による実演公演です。
箱廻しの本領は、正月に一軒一軒の家を門付けして回る予祝芸です。
木偶遣いと鼓打ちの二人一組が、えびす人形等を操り五穀豊穣や無病息災などを予祝する「三番叟まわし」が演じられました。
「藍とデコ」で紹介されていた「えびすまわし」を生で見ることができました。えびすさんが出てくるのが阿波の三番叟の特徴です。
実演の後、辻本さん、奈々福さん、越路よう子さん(徳島と東京を拠点に活動されている歌手・CD「阿波の遊行」企画者)のトークコーナー。
濃いトークでした。辻本さん(自宅に浄瑠璃人形が何百体もあるそう)からは万華鏡のように次々と面白い話が展開されました。
明治維新の芸人の鑑札制度を転機として「迎える文化」が喪失してゆき予祝芸・門付け芸は芸態の変化を余儀なくされた、という話は、旅芝居を追いかけている私にとって印象的でした。昔浪曲と旅芝居が合体した節劇というのが流行ったことがありましたが、浪曲と人形浄瑠璃が合わさった芸能もあったらしく、こちらも現代に再現してほしい。
箱廻しは予祝芸だけでは稼ぎがありません。人形浄瑠璃を演じる娯楽としての大道芸としても全国に広まりました。それを示す資料にも言及がありました。
筑豊の炭坑で明治39年から昭和30年まで約50年間働いた山本作兵衛は膨大な絵と文章を遺しました(ユネスコの世界記憶遺産に登録されています)。その一部。

「大ツヅラ二個を一荷にして担うて歩く傀儡師。一人で浄瑠璃も語り人形も使いわける」と説明されている絵。
阿波の箱廻しが筑豊までやってきたことがわかります。
トークの後は奈々福さんの浪曲「左甚五郎旅日記 掛川宿」
マクラでは、世界的にみれば日本は大変多くの伝統芸能を有している国なのだという話をされました。
阿波十郎兵衛屋敷で阿波の芸能の息吹を感じて、その余韻に浸りながら宿に帰りました。
* * * * *
阿波人形浄瑠璃のルーツは淡路にあります。1615年に淡路島が徳島藩の所領となり、淡路島の農民の人形芝居興行が流入し徳島で人形浄瑠璃が発達しました。
というわけで淡路人形浄瑠璃にも触れるべく淡路島に渡りました。

淡路人形座
ここでは毎日4回!淡路人形浄瑠璃の公演が行われています。
現在世を席巻している講談師の神田松之丞さん(現伯山先生)や浪曲師の玉川太福さんの公演もここで行われましたね。

人形座内部
とてもいい雰囲気

客席
この日の公演内容は「人形説明」「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」「大道具返し」
道具返しというのは襖からくりで、背景の襖が次から次へと変わってゆき最後は千畳敷の大広間になるというものです。

公演の後、写真コーナーがありました。
座員の方と人形。
淡路人形座の目の前には鳴門名物の渦潮が観察できるクルーズ船乗り場があります。

運よくこの日&この時間は大きい渦を見ることができました。
鳴門市の観光スポットといえば何といっても大塚国際美術館

でかい。
噂には聞いていましたが、あまりものスケールの大きさ、展示物の充実度にたまげました。
複製とはいえ、数々の名画を目の前でじーっと眺めていられるのはうれしい。
ダヴィンチの絵が日本にきたら長い時間並んでも見るのはあっという間。

フェルメール「真珠の耳飾りの少女」
吸い込まれるような肖像画。

ピカソ「ゲルニカ」
* * * * *
充実した徳島・淡路島の旅でした。
いつか阿波の人形浄瑠璃の農村舞台も探訪したいと思っています。
(2019年7月探訪)
久しぶりの四国の大衆演劇探訪です。
今回は徳島県にある芝居小屋「脇町劇場(オデオン座)」を訪ねます。

脇町劇場は徳島県中部、美馬市にあります。
徳島駅からJR徳島線に乗りました。
電車は吉野川に寄り添うように西へ。穴吹駅に到着しました。

JR穴吹駅舎。ここから劇場がある脇町までは遠い。タクシーで移動します。
ここでこの界隈の歴史について触れておきましょう。
吉野川は日本三大暴れ川に数えられるほど古来から洪水を繰り返してきました。せっかく稲作をしても夏の洪水で収穫前に流されてしまいます。そのため吉野川沿いでは稲作ではなく藍の生産が盛んになりました。藍は連作を嫌いますが洪水のたびに肥沃な土が流れてくるのはむしろ都合が良い。また藍は台風シーズンの前に収穫することができます。江戸時代には徳島藩は専売政策によって藍の全国市場を独占し、強い経済力をもった多くの藍商人が現れました。
江戸時代は川での輸送が重要な流通手段でした。吉野川沿いにはいくつもの流通の拠点が生まれました。美馬市の脇町もそんな「川湊(かわみなと)」のひとつで、藍の取引により発展しました。

道の駅「藍ランドうだつ」でタクシーを降りました。
今も脇町に残る「うだつの町並み」を散策します。
ここは見逃すべからざる観光スポット。藍取引で富を得た商人の屋敷(明治時代頃のものを中心として江戸中期~昭和初期の伝統的建造物)が保存されている通りです。

これが「うだつ」。
当初は防火の目的で造られましたが、だんだん装飾的要素が強くなり、富や成功の象徴となっていきました。
金持ちにならないと立派なうだつを飾れなかったことから、出世できないことを「うだつが上がらない」と言うようになりました。

情緒ある町並み。映画のロケ現場にいるかのよう。

現役で藍商品を取り扱っている店がありました。
私はここで藍染めのシャツを買いました。

うだつの町並みの通りのつきあたりに川があります。その川の橋から上流方面を眺めますと・・・
見えました、脇町劇場の大きな建物。

こちらは川の上流から見た脇町劇場

川をはさんで正面から見た脇町劇場

劇場正面
脇町劇場(オデオン座)は1934(昭和9)年に建てられました。
ところで「脇町劇場」と「オデオン座」どっちが正しい呼び名なのだろう…
ウィキペディアによると、パリにあるオデオン座の外観にちなんでオデオン座という別称がついたそう。
なので、正式名称は脇町劇場、普段皆が使う呼称はオデオン座、という感じでしょうか。
オデオン座ではどのような公演が行われてきたのでしょうか。美馬市HPでは以下のように説明されています。
戦前には歌舞伎や浪曲の上演で人気を集め、戦後には歌謡ショー公演や映画上映など地域の憩いの場として親しまれました。
その後、映画の斜陽化と建物の老朽化が重なり、閉館、取り壊される予定でした。しかし、山田洋次監督の松竹映画『虹をつかむ男』のロケ舞台となったことがきっかけで、平成11年に町指定文化財として昭和初期の創建時の姿に修復され、一般公開されることになりました。
「にほん全国芝居小屋巡り」(阪急コミュニケーションズ)という本でも脇町劇場は紹介されています。
戦前の描写だと思いますが「劇場のすぐ近くに大きな製糸工場があり、そこで働く多くの若い女性たちの娯楽の場として、定員600人を収容できる劇場はいつも活気であふれていた」とのこと。
平成11年に復元・修復された現在の劇場は収容人数250名のようなので、戦前の劇場はもっと大きかったのでしょう。平成11年の修復杮落とし公演では大衆演劇や人形浄瑠璃が公演されたそうです。

横から見たオデオン座

オデオン座ではさまざまな公演が行われています。
2019年7月7日~28日は三代目樋口次郎一座による大衆演劇公演。
もちろん私はこの公演をお目当てにやってきました。
本格的な芝居小屋での大衆演劇公演、楽しみです。
開場時間になりました。
券売窓口で木戸銭を払っていざ中へ!

ジャーン!
オデオン座内部、、、
え?パイプ椅子?
畳の客席にシートが敷かれその上にパイプ椅子が並べられています。
風情より実利(お客さんの楽さ)をとったということでしょう。
まあ、やむなしかなと思います。
時代の変遷に伴い我々庶民の身体性も変わってしまいました。
50年後くらいに芝居小屋研究家がいたらこう言うかもしれません。
昭和は「床に座布団」でも観客が耐えられた時代、
令和は椅子でないと耐えられなくなった時代、
平成はその転換期であると。
ただ気になるのは、やはり舞台の見え方です。
舞台の高さはお客さんが床に座ることを前提に計算されています。椅子に座ったら目と頭の位置が高くなりますので、舞台を見た場合、前の席のお客さんの頭がだいぶ邪魔に思えるでしょう。

下手の客席
花道の向こうの桟敷席と2階席が見えます。

上手の客席
提灯の照明がアクセントになっています

1階席前方から後方を眺める

椅子席の前は小屋本来の客席である畳敷きスペース。舞台前に座布団が用意されています。

オデオン座の座布団。渋い。
年季がはいっていそう。

1階客席がなだらかな傾斜になっているのがおわかりでしょうか。

1階上手桟敷席

花道

先ほどの花道の揚幕の裏
鳥屋のような部屋にはなっていない

二階に行ってみましょう

二階から見た場内

一番後方、大向うより

二階席下手側

二階席上手側

二階席上手側から見た場内

二階席上手側舞台近くから後方を眺める

二階席中央の投光

天井
13時開演
大衆演劇公演に先立ってお客さんによる歌謡ショーがありました。
2名登場しました。
歌に合わせて地元の踊りの先生が踊る。
13時10分歌謡ショー終了
13時15分第1部お芝居開演。
この日の演目は「血桜お吉兇状旅」
第2部は舞踊ショー

三代目樋口次郎座長

椅子席最前列より

椅子席の後ろの方より

二階席より

15時55分公演終了。
座長に紹介された座員が舞台から劇場出口へ移動します。
この日オデオン座で、全国の旅芝居小屋を巡っている旅烏の烏丸さんにお会いしました。
お互い全国を渡り歩く旅烏。
自由な旅烏が旅先で出会うなんて、それこそ芝居の一場面のようです。
この後、旅芝居談議をしながら徳島駅まで一緒に移動しました。

脇町から穴吹駅へ向かう途中のタクシーの車窓。
吉野川にかかる脇町潜水橋。
潜水橋というのは増水時に水没することを想定した橋で欄干がありません。
徳島駅で二人の旅烏は兄弟分の盃を交わしてそれぞれ別の場所へ旅立ちました。
以上で脇町劇場(オデオン座)の旅日記を終わります。
* * * * *
私にとって、今回の旅は、徳島の伝統芸能の一端に触れることもテーマとなっていました。
その意識の基底にあるのは民族学者宮本常一が監修した「日本の詩情」というドキュメンタリーの一遍です。
宮本常一については、あまりに巨人すぎて私から説明するのははばかられるので割愛します。
20年くらい昔、「日本の詩情」を見た私は、宮本常一の著作を読んで、そのフィールドワークの足跡を訪ねて対馬を旅したこともありました。

「日本の詩情」は昭和40~41年にかけて宮本常一の企画・監修により日経映画社が製作した映像作品で、日本全国のその土地に根付いた習俗を描いています。
その中から、「藍とデコ」を文章によるダイジェストでご紹介いたします。
前半は吉野川の川下の徳島の町並みと藍商人の屋敷や藍蔵、藍の生産工程の様子が映し出されます。
「つい最近まで染料の王者であった藍。それはそばに似たタデ科の小さな植物。秋には華憐な花をつける」
「藍の栽培は早春から始まる。苗床で育てた後畑に移して花の咲く前に刈り取る。刈り取った藍はその日のうちに小さく切り刻み十分乾燥して連枷(からさお)でうち葉藍となる」
労働歌を唄いながら蔵の中で作業する人々と藍の出来を確認する職人
「葉藍は寝床に移され水を吸って十分な発酵をとげると鮮やかな色を出し始める」
「昔は数千町歩を作った藍も今はわずか数町歩作られているにすぎない。天然の藍はすっかり化学染料にその座を譲ってしまった」
場面は変わって、鳴門近くにある元藍商人の豪壮な屋敷が映し出される。ここでは阿波藍の歴史研究が進められている。藍の生産に用いられた道具が映し出された後、突如箱が登場し蓋を開けると人形浄瑠璃の人形の顔がたくさん現れる。
「しかし阿波は藍によって発展した」
「染料となった藍は阿波の人たちによって行商販売された。その行商に伴って人形浄瑠璃の旅興行、すなわち「木偶回し(でこまわし)」も行われた。阿波の木偶回しは娯楽の少なかった昔の農民に喜ばれ、香り豊かな郷土芸能として今に伝えられている」
義太夫を語る娘の太夫。その隣に三味線弾き。舞台ではいかにも一般人の一座が人形を操っている。その会場の客席は人でいっぱい。老人が多く中には涙ぐんでいる老婆もいる。
『ととさんの名は十郎兵衛、かかさんはお弓と申します』
「巡礼お鶴の悲しい物語『阿波の鳴門』」
「はじめ淡路島で盛んだった人形浄瑠璃は江戸時代藩主蜂須賀公の奨励によって阿波徳島の熱狂的な郷土芸能に育ったと伝えられる。観る者、演ずる者、老若男女その熱中ぶりにこの芸能の不思議な生命力をまざまざと観ることができる」
場面は徳島の山間部の村へ。家の縁側で人形の練習をしている二人の老人。
「徳島県には今でも庶民の間に芸能の古い姿が保たれている。その例が県下各地に分布している村持ちの座である」
「農閑期になると村人たちが集まって人形の箱を開き、互いに練習を重ね技術を競いあう。氏神祭りのときなどは村中の人を集めて公演を行う。それは村という共同体の結束を強める役割を果たしてきた」
二つの大きな箱を天秤棒で担ぐ男。家を訪ね、えびす人形を操る者と鼓を打つ者。その二人が食事をとっている姿。
「人形浄瑠璃の古い形をたどれば、それは信仰と結びついてくる。正月元旦の早朝から家々を訪れて回り歩く『えびすまわし』」
「神の遣いといわれるえびす人形を操って五穀豊穣を祈り家中を清めて一年の平安を神に願う」
「家々では祈りが終わるとこの人たちをもてなしてその労をねぎらう。信仰と娯楽のわかちがたく溶け合った素朴な姿がここにある」
柝を打ちながら田舎道を歩く男。男は大きな箱から人形を取り出す。村里の辻に村人が4人くらい集まり、流芸者一行が人形浄瑠璃の公演を行っている。小さい子供も何人かしゃがんでそれを眺めている。
「村々に拍子木の音を響かせ人を集めて道の上で演技を見せる『箱廻し』。これは村座以前の古い人形劇の姿である」
「中世の傀儡子を思わせえびすまわしの面影を残しているがすでに人形浄瑠璃の内容をそなえている」
天秤棒をかかえる男、三味線を手にする女が帰りゆく。
「何事によらず古い姿が急速に消えようとしている今日、阿波には今なお日本の人形芸能の伝統が生きている。幾層もの世代のひたむきな情熱によって支えられながら」
以上「藍とデコ」ダイジェスト終わり。
「日本の詩情」では、他に徳島を取材したものに「祖谷の神代踊り」があります。秘境の村に住む人々の踊りや労働の唄が記録されています。
浄瑠璃の国、阿波では豊かな生活の唄・労働の唄(粉挽唄、木挽唄、茶飲み唄、草刈唄など)が育まれてきました。
そんな、その土地だけで継承されてきたような阿波の民謡や生活歌の音源を集めたCDが2018年に発売されました。

「阿波の遊行」
現代舞踊家の檜瑛司さんが1968年から1988年の20年間にわたるフィールドワークで集めた膨大な音源をCD2枚分に選び取ってまとめたものです。
阿波各地の土着の民衆芸能の素朴さと力強さ、生きるエネルギーをひしひし感じます。
YouTube「阿波の遊行」
https://www.youtube.com/watch?v=VSQ6rS82zw4
さてそんな下敷きのもと、今回の徳島の旅で私が向かったのは、阿波人形浄瑠璃の本拠地「阿波十郎兵衛屋敷」。

徳島県立阿波十郎兵衛屋敷
阿波人形浄瑠璃の演目といえば「傾城阿波の鳴門」です。
これは実際に徳島藩で起きた事件がもとになっています。
吉野川がよく氾濫を起こし稲作に適さなかったのは前述のとおり。その昔幕府は藩が経済的に潤うことをよしとせず他国米の輸入を禁止していましたが、徳島藩士板東十郎兵衛は米の獲れない徳島藩に肥後米をこっそり輸入する仕事に関わっていました。そんな折、十郎兵衛と米輸入の船頭との間にトラブルが発生しました。これが長引いて幕府に知られたらやばいと思った徳島藩は、なんと十郎兵衛をうやむやな理由で処刑してしまったのです。同じタイミングで海賊も処刑されたので、巷では十郎兵衛が海賊と関わっていたという噂もたってしまいました。なんて悲運な十郎兵衛。
その70年後に、この事件をモチーフとして「阿波の鳴門」が作られました。
板東十郎兵衛の屋敷跡にある徳島県立阿波十郎兵衛屋敷は現代における阿波人形浄瑠璃の本拠地で毎日公演を行っています。

人形浄瑠璃公演会場

傾城阿波の鳴門「巡礼歌の段」
十郎兵衛屋敷には展示室などもあり、阿波人形浄瑠璃の基本的な知識はここで得ることができます。
さてこの日、十郎兵衛屋敷では夜に特別なイベントが開催されました。

浪曲師玉川奈々福ライブ「阿波芸能巡礼」vol.1
阿波の土着の芸能のディープさに魅かれ、徳島の芸能聖地巡礼を目論んでいた奈々福さんの徳島プロジェクト第1弾。
奈々福さんの浪曲ライブの他、なんと、阿波木偶箱まわし保存会による「箱廻し」が実演されました!
「箱廻し」は阿波人形浄瑠璃の芸能で、一人か夫婦二人が一組になって、人形を入れた二つの木箱を天秤棒で前後に担いで巡業するという大道芸・門付け芸です(上記で紹介した「藍とデコ」の後半にもでてきました)。箱廻しを稼業とする人は明治の初め頃には200人ほどいたようですが1960年代にはほとんど見ることができなくなりました(オリンピックはこうした芸能の盛衰の転機だったようです)。
一度は廃れてしまった「箱廻し」は、1995年に辻本一英さんが興した阿波木偶箱まわし保存会によって復活しました。
今回はその保存会による実演公演です。
箱廻しの本領は、正月に一軒一軒の家を門付けして回る予祝芸です。
木偶遣いと鼓打ちの二人一組が、えびす人形等を操り五穀豊穣や無病息災などを予祝する「三番叟まわし」が演じられました。
「藍とデコ」で紹介されていた「えびすまわし」を生で見ることができました。えびすさんが出てくるのが阿波の三番叟の特徴です。
実演の後、辻本さん、奈々福さん、越路よう子さん(徳島と東京を拠点に活動されている歌手・CD「阿波の遊行」企画者)のトークコーナー。
濃いトークでした。辻本さん(自宅に浄瑠璃人形が何百体もあるそう)からは万華鏡のように次々と面白い話が展開されました。
明治維新の芸人の鑑札制度を転機として「迎える文化」が喪失してゆき予祝芸・門付け芸は芸態の変化を余儀なくされた、という話は、旅芝居を追いかけている私にとって印象的でした。昔浪曲と旅芝居が合体した節劇というのが流行ったことがありましたが、浪曲と人形浄瑠璃が合わさった芸能もあったらしく、こちらも現代に再現してほしい。
箱廻しは予祝芸だけでは稼ぎがありません。人形浄瑠璃を演じる娯楽としての大道芸としても全国に広まりました。それを示す資料にも言及がありました。
筑豊の炭坑で明治39年から昭和30年まで約50年間働いた山本作兵衛は膨大な絵と文章を遺しました(ユネスコの世界記憶遺産に登録されています)。その一部。

「大ツヅラ二個を一荷にして担うて歩く傀儡師。一人で浄瑠璃も語り人形も使いわける」と説明されている絵。
阿波の箱廻しが筑豊までやってきたことがわかります。
トークの後は奈々福さんの浪曲「左甚五郎旅日記 掛川宿」
マクラでは、世界的にみれば日本は大変多くの伝統芸能を有している国なのだという話をされました。
阿波十郎兵衛屋敷で阿波の芸能の息吹を感じて、その余韻に浸りながら宿に帰りました。
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阿波人形浄瑠璃のルーツは淡路にあります。1615年に淡路島が徳島藩の所領となり、淡路島の農民の人形芝居興行が流入し徳島で人形浄瑠璃が発達しました。
というわけで淡路人形浄瑠璃にも触れるべく淡路島に渡りました。

淡路人形座
ここでは毎日4回!淡路人形浄瑠璃の公演が行われています。
現在世を席巻している講談師の神田松之丞さん(現伯山先生)や浪曲師の玉川太福さんの公演もここで行われましたね。

人形座内部
とてもいい雰囲気

客席
この日の公演内容は「人形説明」「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」「大道具返し」
道具返しというのは襖からくりで、背景の襖が次から次へと変わってゆき最後は千畳敷の大広間になるというものです。

公演の後、写真コーナーがありました。
座員の方と人形。
淡路人形座の目の前には鳴門名物の渦潮が観察できるクルーズ船乗り場があります。

運よくこの日&この時間は大きい渦を見ることができました。
鳴門市の観光スポットといえば何といっても大塚国際美術館

でかい。
噂には聞いていましたが、あまりものスケールの大きさ、展示物の充実度にたまげました。
複製とはいえ、数々の名画を目の前でじーっと眺めていられるのはうれしい。
ダヴィンチの絵が日本にきたら長い時間並んでも見るのはあっという間。

フェルメール「真珠の耳飾りの少女」
吸い込まれるような肖像画。

ピカソ「ゲルニカ」
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充実した徳島・淡路島の旅でした。
いつか阿波の人形浄瑠璃の農村舞台も探訪したいと思っています。
(2019年7月探訪)