青森県の深浦観光ホテルで優木劇団が初の単独公演
青森県の深浦観光ホテルで優木劇団が初の単独公演
座長優木誠
花形優木直弥
2016年に発足した優木劇団は、劇団とはいうものの役者はこの親子二人だけで、これでは当然大衆演劇の公演を務めることができません。劇団立ち上げから他劇団へのゲスト出演という形で舞台に立っていました。
優木劇団は2017年11月には大島劇場での劇団時遊(烏丸遊也)公演にゲスト出演していました。私はその月に5回大島劇場に足を運び、優木誠座長の味わいたっぷりの演技・舞踊を楽しみ、13歳中学1年生とは思えぬ直弥花形の堂々とした姿に驚いたのでした。
そして2018年、優木劇団単独公演の情報を目にしました。

2018年3月、青森県深浦町にある深浦観光ホテルでの公演です。
これを知って私は即座に青森探訪を計画しました。
私にとって大衆演劇観劇最北の地となります。
浦観光ホテルの最寄駅は五能線の深浦駅。青森県の日本海側の旅になります。
五能線には1日数本「リゾートしらかみ」という観光列車が走っています。
せっかくなのでこの観光列車を使うことにしました。
というより、これを使わずに昼前に深浦駅に到着するには6時26分弘前駅発の電車に乗るしかない。リゾートしらかみの利用は半ば必然的な選択でした。

8時10分青森駅発のリゾートしらかみに乗りました。
これに乗るために前日の夜に飛行機で青森入りしました。
リゾートしらかみは観光列車ならではのサービスが楽しい。
列車が川部駅を過ぎると、津軽弁の「語りべ」が始まりました。3号車の端はちょっとしたイベントスペースになっていて、そこに興味あるお客さんが集まってきます。
2人のおばさまがやってきて、ひとり一話づつ津軽弁で昔話を語ってくれました。
おばさまは陸奥鶴田駅で下車。ホームで手を振って乗客を見送ってくれました。
列車が五所川原を過ぎると、今度は津軽三味線演奏が始まりました。
2人組による演奏。後半は出演者のひとりが歌い手となって民謡コーナー。津軽地方の盆踊りで歌われるという津軽甚句ではお客さんが「ホーイホイ」の合いの手を入れました。ゴトゴト揺れる列車、流れる車窓の雪景色、三味線の音と津軽甚句、お客さんのホーイホイの合唱。ああ旅気分。
五能線沿いに千畳敷という観光スポットがあります。
リゾートしらかみは千畳敷駅で停車。15分間停車しますのでミニ散策をお楽しみください、発車3分前に汽笛を鳴らしますのでお戻りください、というアナウンスがありました。

千畳敷駅停車中の列車。
冬季は駅に面するの岸壁からしみだした水が凍って氷柱ができるとのこと。まだ溶けずに残っている氷柱がありました。

千畳敷。
岩畳が海岸に広がり、所々に巨岩が立っている。
200年前の地震で海岸が隆起してできたという景勝地。
汽笛がなってお客さんがいそいそと列車に戻ってきます。再び発車。

列車が速度を緩めました。
窓の外には五能線の宣伝でよく使われるビュースポットという行合崎海岸の景色。
深浦駅はもうすぐです。

10時56分深浦駅到着。
駅舎には「深浦観光ホテル」と書かれた小さな旗を胸元に持っている方が私を待っていました。
私は事前に駅からホテルまでの送迎をお願いしていたのです。その従業員さんの運転でホテルまで移動しました。
深浦駅から深浦観光ホテルまでは歩いて30~40分、車で5分くらいでしょうか。
さて、ここで深浦という町についてご案内しておきます。
現在の深浦は漁業、農業、観光が主な産業だと思いますが(マグロの水揚げは青森県一だそう!)、かつては貿易船の寄港地として賑わっていたそうです。
江戸時代、廻船による流通が盛んになると、大坂の廻船問屋は蝦夷地(北海道)まで拠点を拡大しました。大坂から蝦夷まで日本海を通る西廻り航路を交易船(これを北前船という)が行き交い、多くの寄港地が発展しました。青森県では深浦・鯵ヶ沢・十三港・青森の4つの港が特に栄えたそうです。
深浦の港はくぼんだ湾になっており、海流の境目とうこともあって荒天の際の避難所、つまり風待ち港として適していました。
この「風待ち」という語が今でも深浦のイメージワードとしてよく使われているようです。

深浦の港

海に面した展望台より深浦観光ホテル方面を望む。
ホテルが日本海を見下ろす高台にあることがわかります。

ホテルの敷地に入りますと「涙と笑いの人情時代劇」と書かれたのぼりが道路わきに並んで立っていました。

深浦観光ホテル

送迎車はこの入口の前で私を降ろしてくれました。
優木劇団の公演の看板が立っています。

この日は、大衆演劇観劇日帰りプラン(食事+観劇)の団体客が数組来ていてホテル内は賑わっていました。
個人で来ているお客さんはあまりいないようです。
私が到着するなりホテルのスタッフの方が私に声をかけて迎えてくれました。
観劇のお客さんはロビーで靴からスリッパに履き替えるようで私もそれに従いました。
東京から男が1人で泊まりにくるということが珍しいのか
ある男性従業員が気さくに話しかけてくれました。
私が優木劇団を目当てに来たことを言ったり、ホテルの写真をブログにアップしてよいかなどと聞いたりしたので、どうもこの従業員さんに仕事で取材に来た人だと思われたようでした。(私は仕事ではないと伝えましたが)
従業員さん「以前どこで優木劇団をご覧になったのですか」
私「川崎です」
従業員さん「大島劇場ですね」
などと即答するあたりだいぶ演芸事情にくわしい従業員さんのようです。

深浦観光ホテルは「北前の宿」という宣伝名称を冠しています。
ロビーに北前船の模型が置いてありました。

同じくロビーにて
地元の深浦小学校の生徒が作った深浦ねぶた
深浦ネブタ祭で町内を練り歩くそうです。

食事会場・観劇会場は2階です。

食事会場
すでに団体のお客さんが大勢食事をしていました。

私は1泊3食+観劇1回で11,080円というとてもお得な「1泊コース」プランです。
(休前日でなければ9,000円です)
1食目のお昼ごはんは11:30から。
このかき揚げ付うどんがとっても美味しかったです。
(日帰りコースのお客さんのお昼ごはんはこれとは別メニューでもっと豪華です)

食事会場の隣の間が大衆演劇会場。

後方より

舞台に定式幕が吊るされています。
畳に座布団を敷いただけのシンプルな客席。
昔の芝居小屋はどこもこんな客席だったんだろうな。

追加設置された花道

前方から後方を見る
団体のお客さんの多くは食事の前に、座布団に私物を置いて席取りしているよう。部屋の後方隅に投光機が1台あります。

後方の椅子席
やはりお年寄りには椅子席が人気。ほとんどの椅子が席取りされていました。

ゴミ箱

深浦観光ホテルでの大衆演劇公演は1998年に始まって今年で21年目です。毎年3月に公演しています。廊下の壁にこれまで公演した劇団の公演ポスターが貼ってありました。
これだけ長く続いていれば地元の方々には3月のお楽しみイベントとして定着していることでしょう。

昼の部開演は12:30から。
(ちなみに夜の部は団体予約20名以上で開催されオール予約制)
開演時間が近づきますと隣の食事会場からお客さんが移動してきます。
この日は写真のとおり、会場を埋め尽くす大入り!
100名を超える方が集まりました。ほとんどが老人会の団体のお客さんと思われます。

開演時間になりました。
舞台脇の花道にスーツ姿の司会者が登場しました。
スーツなので雰囲気ががらっと変わっていますが、さっき私に話しかけてくれた従業員さんでした。この方の開会前の口上挨拶がうまい。司会者がうまいとこれからプロの芸が始まるのだという雰囲気もできてきます。
昼の部の第1部が始まりました。
ここで気になる本公演のメンバーをご紹介しておきましょう。
優木誠座長。優木直弥花形。ゲスト出演に市川菊丸。大衆演劇役者は以上3名。それに「玉乗りじゅんちゃん」という老曲芸師。それに望月(ほうげつ)さんという女性の踊り子さん。この方は花美流という舞踊の流派の方で八戸を拠点としているそう。日によっては望月さんは別の方と交替する模様。もう1名は男性で名前はわかりませんが芝居では端役で出演し、後は音響を担当していたようです。
ですから出演は5.5人といったところでしょうか。中学生を含む旅役者3人に老曲芸師と女性の踊り子さんの一座なんて映画みたいなシチュエーションです。
第1部お芝居「裏町の涙」
弥助(直弥)とおみっちゃん(望月)はいいなずけの仲。だがおみっちゃんは病気の父親の薬代を得るために奉公に出ると言い出す。弥助は自分が金を工面しようと決意する。この町の金持ち越後屋の旦那(じゅんちゃん)が酔っ払っているところに弥助が現れる。越後屋は弥助を泥棒と思い込みわめき立てる。弥助はその口を塞ごうとしたが誤って越後屋を殺してしまう。倒れている越後屋の懐には大金の入った財布が。魔が差した弥助はそれを持ち去る。しかし弥助は自分の着物の破れた片袖を現場に残してしまう。十手持ちの親分(菊丸)が弥助の家を訪ねる。家には弥助の兄(誠)がいる。この兄は元罪人。島流しの刑から戻ってきて今は荷の積み下ろしをして働いている。親分から越後屋が殺されて金が奪われたたことを聞き、手がかりである着物の片袖を見る。これは島流しから戻ってきたときに兄が弥助のために買った着物と同じ柄だ。親分が去った後、兄は片袖がない着物と大金が入った財布を家の中に見つける。弥助が帰ってきて、このことを問いただす兄。弥助は洗いざらいを話す。兄はその罪を自分が背負うと弥助に告げる・・・
笑いと涙の人情芝居でした。
もしお客さんの中に花形のファンがいたのなら、芝居の中で、弥助が証拠隠滅のために着物を着替えるシーンが見所だったでしょう。着替えだけの無言のシーン。肌や肌着がお客さんに見えないよう上手に着替えていました。

お芝居終了後の口上挨拶
口上の後は販売コーナー
芝居饅頭(ゆべし付)1,000円
甘栗(優木劇団の包装紙)1,000円
韓国海苔(優木劇団の包装紙)
ご祝儀レイ 1,000円
以上を座員さんとホテルの従業員が売り歩きます。
結構売れている
役者による販売コーナーが終わると従業員さんがアイスクリーム(2種どちらも100円)を売り歩きます。
しばしの休憩の後、優木誠座長のアナウンスにより第2部舞踊ショーが始まりました。

優木誠座長

優木誠座長の女形

花形優木直弥の女形

直弥花形の大人っぽい舞踊
中学1年生とは思えない

市川菊丸とはるや
はるや君の得意技(というか唯一の技)は笑顔で両手を振ること。これが会場のお客さん(ほとんどがおばあちゃま)に大ウケ。

市川菊丸

玉乗りじゅんちゃん
名前の通り、玉に乗る曲芸。玉乗り以外の芸もします。
じゅんちゃんは曲芸師というより道化師に近いかもしれない。話術がうまく笑いをたくさんとっていました。客席とのコミュニケーションも達者。ベテラン大衆演劇役者並みの自由さとアドリブ力。芝居もたいへん上手でした。

望月さん
女と立ちで1本ずつ。芝居は台詞棒読みだったが、本業の舞踊は水を得た魚。流れるような素敵な舞踊でした。

ラスト舞踊は「北の三代目」
深浦にピッタリな歌ですね。
公演が終わると、日帰りコースのお客さんはお帰りになります。ホテル前の送迎バスへ。
送り出しは1階ロビー。例の従業員さんが私を呼び止め優木誠座長にひきあわせ「この方です、東京から優木劇団の旗揚げを見にきたのは」と座長に言いました。優木誠座長にご挨拶をした後、私はチェックインしました。

私の宿泊部屋
窓から日本海が見えます。
荷物を置いてすぐ私は出かけました。
深浦にある古刹、円覚寺も旅の楽しみのひとつでした。

円覚寺
ホテルから歩いて10分くらいのところにあります。
真言宗の祈祷寺で檀家はありません。807年に征夷大将軍坂上田村麻呂が観音堂を建てたのが起源とされています。江戸時代には北前船の船乗りの信仰を集めました。
この寺には興味深いものがたくさん保管されています。
本堂のインターホンを押すと、このお寺の方がやってきました。拝観料を支払うと、その女性がつきっきりでお寺の中を案内してくださいました。
ご本尊は3m以上あるという十一面観世音菩薩。秘仏で、33年に1度だけ御開帳されるとのこと。なんと今年がその御開帳の年。2018年7月17日~31日に秘仏の扉が開かれます。
船にまつわる絵馬が100点以上奉納されています。面白いのは絵馬にちょんまげの髷をくくりつけた「髷額」
小さめの額に数個の髷がぶら下がっています。
北前船の一番の敵は時化でしょう。海が荒れて船が危なくなるとまず帆柱を倒し、それでもだめなら荷物を捨てて安定をはかったそうです。それでもダメなら神仏にすがる。北前船の船乗りはちょんまげを切り落として神仏に祈ったそうです。助かった船乗りはお礼に髷額を奉納しました。
大坂を中心とした廻船業を営む者は船の安全を祈願して船の絵を描いた絵馬を奉納しました。大坂には既製品の絵馬を扱う店があったそうです。財力のある者は既製品ではなく自分の船を描いたオリジナルの絵馬を作らせ寺に奉納しました。
円覚寺にはたくさんの絵馬がありますが、日本で1枚しかないという珍しい船絵馬があります。

これがその北国船の絵馬(上の写真は「風待ち館」にあるレプリカを写したものです)
北国船というのは織田信長の時代にあった船だそうです。
ただしマストにゴザを使うなど船の構造が不完全なため早くに廃れてしまいました。活躍する時代が短かったためためその絵馬も円覚寺に一枚残っているのみだそうです。この北国船の絵馬には興味深い人物が描かれています。

船首の大きい錨の近くにざんばら髪の者がいます。「持斉(じさい)」という職業の男です。
船が安全に航行できるよう祈祷するのが仕事で、海が大時化になると、責任をとらされ海投げ込まれたそうです。
これは卑弥呼の時代の魏志倭人伝にも書かれている職業だそうですが、絵としてその存在が明らかになっている点でもこの絵馬に文化的価値があります。
このお寺には、ギヤマンの飾り玉やシャンデリアも奉納されています。1811年にロシアの船の艦長ゴローニンが日本に捕まりました。ロシアはゴローニン奪還のために、淡路島出身の廻船問屋の高田屋嘉兵衛の船を捕らえました。嘉兵衛の弟の金兵衛は兄嘉兵衛が無事に帰ってくるようにと、取引先の深浦の越後屋を通して円覚寺に祈祷を依頼しました。ゴローニンは嘉兵衛の仲介により釈放され、嘉兵衛は無事故郷に帰りました。そのお礼として金兵衛が珍しいロシアのお土産を円覚寺に奉納したのです。
また円覚寺は髪の毛で刺繍した掛け軸という珍しい寺宝もあります。大きな掛け軸でとても長い年月をかけて作られたものです。かつて皇后陛下も髪の毛を提供し、それば釈迦涅槃図のお釈迦様の目の部分に使われているそうです。
円覚寺の寺宝はまだあります。
青森県にある現存する一番古い木造建造物で国重要文化財である薬師堂内厨子が本堂のすぐ近くにあります。
薬師堂の中はヒノキの香りがたちこめていました。青森県ではヒノキがとれず、この厨子の由緒は謎に包まれているとのことです。
お寺の方にこの深浦の町のこともおうかがいしました。
多くの日本の地方の町がそうであるように、深浦も人口減少と高齢化が問題となっています。昔は16,000あった人口が今は8,000まで減りました。その半分が65歳以上の高齢者です。50年くらい前は深浦の小学校の1学年には200人以上いたそうですが、今は、秋田県境から鯵ヶ沢にかけての範囲で30人以下とのことです。
後継者不足で多くの店がなくなりました。青森県一のマグロの水揚げがありながら、魚屋さんも寿司屋さんもこの深浦の町からなくなってしまったそうです。
大変長い時間、お寺の方にご案内いただきました。
ありがとうございました。
円覚寺を後にして、総合観光案内所「風待ち館」で北前船関係の展示を見ました。
その後、のどかな町を一人散策。

夕陽が差してきた港
海に杭が立っています。
帆船が行き交っていた時代は湾内に杭が何本も立っていて、船はその杭に係留されていました。今は上の写真に見える一本杭だけが残っています。

夕暮れの日本海
ホテルに戻ってお風呂に入りました。
ナトリウム質の温泉でお湯は少ししょっぱい。
露天風呂で日本海を眺めながらとても気持ちよくお風呂に浸かりました。

ホテルの夜食。
この他に「つるつるわかめ」という深浦名物?の麺状のわかめを使った坦坦麺やマグロカツも出てきました。デザートはもちろんリンゴ。
食事の前も、食事の最中も、例のきさくな従業員さんが私に会うなり、食後は是非ホテル内のスナックへ、と勧誘するので行ってみることにしました。

この突き当たりの左がスナックです。
入口扉に近づくと、中から男性の甘い歌声が聴こえてきました。
暗い店内。いくつかのソファとカラオケセット。男性がステージで歌っていました。かなりうまい。
歌っていたのは、あのきさくな従業員さんでした。実はこの方は「桂木庸介」という歌手でこのスナックのマスターでもあったのです。桂木さんは今でこそ縁あってこのホテルでお仕事していますが、かつては歌手として北海道から沖縄までキャバレーやホテルを渡り歩いて歌っていたそう。どうりで演芸事情にお詳しく、司会がうまいはずです。

桂木庸介さん

スナックに貼ってあった「1990年」という歌のポスター。曲名からして約30年前の写真でしょうか。
桂木さんは東京の芸者が行き交う色町で育って中学生の時には三島由紀夫を読んでいたませた少年だったそう。十代の頃から歌を歌い始めたそうです。
スナック内には私と桂木さんの他、私より年配の夫婦が1組。この夫婦は五所川原の方で大衆演劇をやっているとは知らずに来たようです。
私が来て間もなく優木誠座長もやってきました。やはり桂木さんに呼ばれて来たようで、私のお向かいに座りました。
どうも桂木さんは夜のこのスナックを盛り上げるために、よくお客さんにお誘いのお声がけをしているよう。
この昭和な雰囲気のスナックで5人で飲み、歌い、話しました。
私も優木座長の前で歌うこととなり、座長に中学生の息子がいることも意識して、「野風僧」を歌いました。
実は桂木さんと優木誠座長は20年来のお付き合いがあるのです。優木さんが見海堂劇団の副座長として下呂温泉で公演していた際にゲスト歌手として桂木さんが公演に参加したのが出会いとのこと。優木劇団が初の単独公演をここ深浦で行ったのはこうした縁もあってのことだったのですね。
優木劇団のこれからの活動のことなど、いろいろな話を優木座長や桂木さんとさせていただき楽しい一夜となりました。
ただし翌日は二日酔いでちょっと頭が痛かったです。

ホテルの朝食
ホテルの方が駅まで車で送迎しますというのを丁重にお断りして、チェックアウト後は歩いて深浦駅へ向かいました。

お店の入口に貼ってあった公演ポスター。
町中のいろんな場所でこのポスターを見かけました。
朝の深浦の町。車通りはあるものの人通りはあんまりなくて寂しい。
昨日の大衆演劇場の賑わいが夢のようだ。
往時の賑わいが失せたこのような地方の町で芝居の公演が行われ、多くの方に笑顔をもたらしていることに、私はそこはかとない嬉しさを感じます。大衆演劇という文化の意義はこういう場所でこそ強まるのではないかとさえ思います。
20年も大衆演劇公演が続き、これからもこの町の方々は毎年3月の旅芝居公演を待ち望むことでしょう。
いつまでも深浦観光ホテルでの公演が続くといいなと思います。
帰りは五能線の普通列車の旅

五能線の車窓から見えた岩木山
電車に揺られながら、桂木庸介さんがこれから歌手として世に出るきっかけが何か生れないものだろうかと思いにふけっていました。
(2018年3月探訪)
座長優木誠
花形優木直弥
2016年に発足した優木劇団は、劇団とはいうものの役者はこの親子二人だけで、これでは当然大衆演劇の公演を務めることができません。劇団立ち上げから他劇団へのゲスト出演という形で舞台に立っていました。
優木劇団は2017年11月には大島劇場での劇団時遊(烏丸遊也)公演にゲスト出演していました。私はその月に5回大島劇場に足を運び、優木誠座長の味わいたっぷりの演技・舞踊を楽しみ、13歳中学1年生とは思えぬ直弥花形の堂々とした姿に驚いたのでした。
そして2018年、優木劇団単独公演の情報を目にしました。

2018年3月、青森県深浦町にある深浦観光ホテルでの公演です。
これを知って私は即座に青森探訪を計画しました。
私にとって大衆演劇観劇最北の地となります。
浦観光ホテルの最寄駅は五能線の深浦駅。青森県の日本海側の旅になります。
五能線には1日数本「リゾートしらかみ」という観光列車が走っています。
せっかくなのでこの観光列車を使うことにしました。
というより、これを使わずに昼前に深浦駅に到着するには6時26分弘前駅発の電車に乗るしかない。リゾートしらかみの利用は半ば必然的な選択でした。

8時10分青森駅発のリゾートしらかみに乗りました。
これに乗るために前日の夜に飛行機で青森入りしました。
リゾートしらかみは観光列車ならではのサービスが楽しい。
列車が川部駅を過ぎると、津軽弁の「語りべ」が始まりました。3号車の端はちょっとしたイベントスペースになっていて、そこに興味あるお客さんが集まってきます。
2人のおばさまがやってきて、ひとり一話づつ津軽弁で昔話を語ってくれました。
おばさまは陸奥鶴田駅で下車。ホームで手を振って乗客を見送ってくれました。
列車が五所川原を過ぎると、今度は津軽三味線演奏が始まりました。
2人組による演奏。後半は出演者のひとりが歌い手となって民謡コーナー。津軽地方の盆踊りで歌われるという津軽甚句ではお客さんが「ホーイホイ」の合いの手を入れました。ゴトゴト揺れる列車、流れる車窓の雪景色、三味線の音と津軽甚句、お客さんのホーイホイの合唱。ああ旅気分。
五能線沿いに千畳敷という観光スポットがあります。
リゾートしらかみは千畳敷駅で停車。15分間停車しますのでミニ散策をお楽しみください、発車3分前に汽笛を鳴らしますのでお戻りください、というアナウンスがありました。

千畳敷駅停車中の列車。
冬季は駅に面するの岸壁からしみだした水が凍って氷柱ができるとのこと。まだ溶けずに残っている氷柱がありました。

千畳敷。
岩畳が海岸に広がり、所々に巨岩が立っている。
200年前の地震で海岸が隆起してできたという景勝地。
汽笛がなってお客さんがいそいそと列車に戻ってきます。再び発車。

列車が速度を緩めました。
窓の外には五能線の宣伝でよく使われるビュースポットという行合崎海岸の景色。
深浦駅はもうすぐです。

10時56分深浦駅到着。
駅舎には「深浦観光ホテル」と書かれた小さな旗を胸元に持っている方が私を待っていました。
私は事前に駅からホテルまでの送迎をお願いしていたのです。その従業員さんの運転でホテルまで移動しました。
深浦駅から深浦観光ホテルまでは歩いて30~40分、車で5分くらいでしょうか。
さて、ここで深浦という町についてご案内しておきます。
現在の深浦は漁業、農業、観光が主な産業だと思いますが(マグロの水揚げは青森県一だそう!)、かつては貿易船の寄港地として賑わっていたそうです。
江戸時代、廻船による流通が盛んになると、大坂の廻船問屋は蝦夷地(北海道)まで拠点を拡大しました。大坂から蝦夷まで日本海を通る西廻り航路を交易船(これを北前船という)が行き交い、多くの寄港地が発展しました。青森県では深浦・鯵ヶ沢・十三港・青森の4つの港が特に栄えたそうです。
深浦の港はくぼんだ湾になっており、海流の境目とうこともあって荒天の際の避難所、つまり風待ち港として適していました。
この「風待ち」という語が今でも深浦のイメージワードとしてよく使われているようです。

深浦の港

海に面した展望台より深浦観光ホテル方面を望む。
ホテルが日本海を見下ろす高台にあることがわかります。

ホテルの敷地に入りますと「涙と笑いの人情時代劇」と書かれたのぼりが道路わきに並んで立っていました。

深浦観光ホテル

送迎車はこの入口の前で私を降ろしてくれました。
優木劇団の公演の看板が立っています。

この日は、大衆演劇観劇日帰りプラン(食事+観劇)の団体客が数組来ていてホテル内は賑わっていました。
個人で来ているお客さんはあまりいないようです。
私が到着するなりホテルのスタッフの方が私に声をかけて迎えてくれました。
観劇のお客さんはロビーで靴からスリッパに履き替えるようで私もそれに従いました。
東京から男が1人で泊まりにくるということが珍しいのか
ある男性従業員が気さくに話しかけてくれました。
私が優木劇団を目当てに来たことを言ったり、ホテルの写真をブログにアップしてよいかなどと聞いたりしたので、どうもこの従業員さんに仕事で取材に来た人だと思われたようでした。(私は仕事ではないと伝えましたが)
従業員さん「以前どこで優木劇団をご覧になったのですか」
私「川崎です」
従業員さん「大島劇場ですね」
などと即答するあたりだいぶ演芸事情にくわしい従業員さんのようです。

深浦観光ホテルは「北前の宿」という宣伝名称を冠しています。
ロビーに北前船の模型が置いてありました。

同じくロビーにて
地元の深浦小学校の生徒が作った深浦ねぶた
深浦ネブタ祭で町内を練り歩くそうです。

食事会場・観劇会場は2階です。

食事会場
すでに団体のお客さんが大勢食事をしていました。

私は1泊3食+観劇1回で11,080円というとてもお得な「1泊コース」プランです。
(休前日でなければ9,000円です)
1食目のお昼ごはんは11:30から。
このかき揚げ付うどんがとっても美味しかったです。
(日帰りコースのお客さんのお昼ごはんはこれとは別メニューでもっと豪華です)

食事会場の隣の間が大衆演劇会場。

後方より

舞台に定式幕が吊るされています。
畳に座布団を敷いただけのシンプルな客席。
昔の芝居小屋はどこもこんな客席だったんだろうな。

追加設置された花道

前方から後方を見る
団体のお客さんの多くは食事の前に、座布団に私物を置いて席取りしているよう。部屋の後方隅に投光機が1台あります。

後方の椅子席
やはりお年寄りには椅子席が人気。ほとんどの椅子が席取りされていました。

ゴミ箱

深浦観光ホテルでの大衆演劇公演は1998年に始まって今年で21年目です。毎年3月に公演しています。廊下の壁にこれまで公演した劇団の公演ポスターが貼ってありました。
これだけ長く続いていれば地元の方々には3月のお楽しみイベントとして定着していることでしょう。

昼の部開演は12:30から。
(ちなみに夜の部は団体予約20名以上で開催されオール予約制)
開演時間が近づきますと隣の食事会場からお客さんが移動してきます。
この日は写真のとおり、会場を埋め尽くす大入り!
100名を超える方が集まりました。ほとんどが老人会の団体のお客さんと思われます。

開演時間になりました。
舞台脇の花道にスーツ姿の司会者が登場しました。
スーツなので雰囲気ががらっと変わっていますが、さっき私に話しかけてくれた従業員さんでした。この方の開会前の口上挨拶がうまい。司会者がうまいとこれからプロの芸が始まるのだという雰囲気もできてきます。
昼の部の第1部が始まりました。
ここで気になる本公演のメンバーをご紹介しておきましょう。
優木誠座長。優木直弥花形。ゲスト出演に市川菊丸。大衆演劇役者は以上3名。それに「玉乗りじゅんちゃん」という老曲芸師。それに望月(ほうげつ)さんという女性の踊り子さん。この方は花美流という舞踊の流派の方で八戸を拠点としているそう。日によっては望月さんは別の方と交替する模様。もう1名は男性で名前はわかりませんが芝居では端役で出演し、後は音響を担当していたようです。
ですから出演は5.5人といったところでしょうか。中学生を含む旅役者3人に老曲芸師と女性の踊り子さんの一座なんて映画みたいなシチュエーションです。
第1部お芝居「裏町の涙」
弥助(直弥)とおみっちゃん(望月)はいいなずけの仲。だがおみっちゃんは病気の父親の薬代を得るために奉公に出ると言い出す。弥助は自分が金を工面しようと決意する。この町の金持ち越後屋の旦那(じゅんちゃん)が酔っ払っているところに弥助が現れる。越後屋は弥助を泥棒と思い込みわめき立てる。弥助はその口を塞ごうとしたが誤って越後屋を殺してしまう。倒れている越後屋の懐には大金の入った財布が。魔が差した弥助はそれを持ち去る。しかし弥助は自分の着物の破れた片袖を現場に残してしまう。十手持ちの親分(菊丸)が弥助の家を訪ねる。家には弥助の兄(誠)がいる。この兄は元罪人。島流しの刑から戻ってきて今は荷の積み下ろしをして働いている。親分から越後屋が殺されて金が奪われたたことを聞き、手がかりである着物の片袖を見る。これは島流しから戻ってきたときに兄が弥助のために買った着物と同じ柄だ。親分が去った後、兄は片袖がない着物と大金が入った財布を家の中に見つける。弥助が帰ってきて、このことを問いただす兄。弥助は洗いざらいを話す。兄はその罪を自分が背負うと弥助に告げる・・・
笑いと涙の人情芝居でした。
もしお客さんの中に花形のファンがいたのなら、芝居の中で、弥助が証拠隠滅のために着物を着替えるシーンが見所だったでしょう。着替えだけの無言のシーン。肌や肌着がお客さんに見えないよう上手に着替えていました。

お芝居終了後の口上挨拶
口上の後は販売コーナー
芝居饅頭(ゆべし付)1,000円
甘栗(優木劇団の包装紙)1,000円
韓国海苔(優木劇団の包装紙)
ご祝儀レイ 1,000円
以上を座員さんとホテルの従業員が売り歩きます。
結構売れている
役者による販売コーナーが終わると従業員さんがアイスクリーム(2種どちらも100円)を売り歩きます。
しばしの休憩の後、優木誠座長のアナウンスにより第2部舞踊ショーが始まりました。

優木誠座長

優木誠座長の女形

花形優木直弥の女形

直弥花形の大人っぽい舞踊
中学1年生とは思えない

市川菊丸とはるや
はるや君の得意技(というか唯一の技)は笑顔で両手を振ること。これが会場のお客さん(ほとんどがおばあちゃま)に大ウケ。

市川菊丸

玉乗りじゅんちゃん
名前の通り、玉に乗る曲芸。玉乗り以外の芸もします。
じゅんちゃんは曲芸師というより道化師に近いかもしれない。話術がうまく笑いをたくさんとっていました。客席とのコミュニケーションも達者。ベテラン大衆演劇役者並みの自由さとアドリブ力。芝居もたいへん上手でした。

望月さん
女と立ちで1本ずつ。芝居は台詞棒読みだったが、本業の舞踊は水を得た魚。流れるような素敵な舞踊でした。

ラスト舞踊は「北の三代目」
深浦にピッタリな歌ですね。
公演が終わると、日帰りコースのお客さんはお帰りになります。ホテル前の送迎バスへ。
送り出しは1階ロビー。例の従業員さんが私を呼び止め優木誠座長にひきあわせ「この方です、東京から優木劇団の旗揚げを見にきたのは」と座長に言いました。優木誠座長にご挨拶をした後、私はチェックインしました。

私の宿泊部屋
窓から日本海が見えます。
荷物を置いてすぐ私は出かけました。
深浦にある古刹、円覚寺も旅の楽しみのひとつでした。

円覚寺
ホテルから歩いて10分くらいのところにあります。
真言宗の祈祷寺で檀家はありません。807年に征夷大将軍坂上田村麻呂が観音堂を建てたのが起源とされています。江戸時代には北前船の船乗りの信仰を集めました。
この寺には興味深いものがたくさん保管されています。
本堂のインターホンを押すと、このお寺の方がやってきました。拝観料を支払うと、その女性がつきっきりでお寺の中を案内してくださいました。
ご本尊は3m以上あるという十一面観世音菩薩。秘仏で、33年に1度だけ御開帳されるとのこと。なんと今年がその御開帳の年。2018年7月17日~31日に秘仏の扉が開かれます。
船にまつわる絵馬が100点以上奉納されています。面白いのは絵馬にちょんまげの髷をくくりつけた「髷額」
小さめの額に数個の髷がぶら下がっています。
北前船の一番の敵は時化でしょう。海が荒れて船が危なくなるとまず帆柱を倒し、それでもだめなら荷物を捨てて安定をはかったそうです。それでもダメなら神仏にすがる。北前船の船乗りはちょんまげを切り落として神仏に祈ったそうです。助かった船乗りはお礼に髷額を奉納しました。
大坂を中心とした廻船業を営む者は船の安全を祈願して船の絵を描いた絵馬を奉納しました。大坂には既製品の絵馬を扱う店があったそうです。財力のある者は既製品ではなく自分の船を描いたオリジナルの絵馬を作らせ寺に奉納しました。
円覚寺にはたくさんの絵馬がありますが、日本で1枚しかないという珍しい船絵馬があります。

これがその北国船の絵馬(上の写真は「風待ち館」にあるレプリカを写したものです)
北国船というのは織田信長の時代にあった船だそうです。
ただしマストにゴザを使うなど船の構造が不完全なため早くに廃れてしまいました。活躍する時代が短かったためためその絵馬も円覚寺に一枚残っているのみだそうです。この北国船の絵馬には興味深い人物が描かれています。

船首の大きい錨の近くにざんばら髪の者がいます。「持斉(じさい)」という職業の男です。
船が安全に航行できるよう祈祷するのが仕事で、海が大時化になると、責任をとらされ海投げ込まれたそうです。
これは卑弥呼の時代の魏志倭人伝にも書かれている職業だそうですが、絵としてその存在が明らかになっている点でもこの絵馬に文化的価値があります。
このお寺には、ギヤマンの飾り玉やシャンデリアも奉納されています。1811年にロシアの船の艦長ゴローニンが日本に捕まりました。ロシアはゴローニン奪還のために、淡路島出身の廻船問屋の高田屋嘉兵衛の船を捕らえました。嘉兵衛の弟の金兵衛は兄嘉兵衛が無事に帰ってくるようにと、取引先の深浦の越後屋を通して円覚寺に祈祷を依頼しました。ゴローニンは嘉兵衛の仲介により釈放され、嘉兵衛は無事故郷に帰りました。そのお礼として金兵衛が珍しいロシアのお土産を円覚寺に奉納したのです。
また円覚寺は髪の毛で刺繍した掛け軸という珍しい寺宝もあります。大きな掛け軸でとても長い年月をかけて作られたものです。かつて皇后陛下も髪の毛を提供し、それば釈迦涅槃図のお釈迦様の目の部分に使われているそうです。
円覚寺の寺宝はまだあります。
青森県にある現存する一番古い木造建造物で国重要文化財である薬師堂内厨子が本堂のすぐ近くにあります。
薬師堂の中はヒノキの香りがたちこめていました。青森県ではヒノキがとれず、この厨子の由緒は謎に包まれているとのことです。
お寺の方にこの深浦の町のこともおうかがいしました。
多くの日本の地方の町がそうであるように、深浦も人口減少と高齢化が問題となっています。昔は16,000あった人口が今は8,000まで減りました。その半分が65歳以上の高齢者です。50年くらい前は深浦の小学校の1学年には200人以上いたそうですが、今は、秋田県境から鯵ヶ沢にかけての範囲で30人以下とのことです。
後継者不足で多くの店がなくなりました。青森県一のマグロの水揚げがありながら、魚屋さんも寿司屋さんもこの深浦の町からなくなってしまったそうです。
大変長い時間、お寺の方にご案内いただきました。
ありがとうございました。
円覚寺を後にして、総合観光案内所「風待ち館」で北前船関係の展示を見ました。
その後、のどかな町を一人散策。

夕陽が差してきた港
海に杭が立っています。
帆船が行き交っていた時代は湾内に杭が何本も立っていて、船はその杭に係留されていました。今は上の写真に見える一本杭だけが残っています。

夕暮れの日本海
ホテルに戻ってお風呂に入りました。
ナトリウム質の温泉でお湯は少ししょっぱい。
露天風呂で日本海を眺めながらとても気持ちよくお風呂に浸かりました。

ホテルの夜食。
この他に「つるつるわかめ」という深浦名物?の麺状のわかめを使った坦坦麺やマグロカツも出てきました。デザートはもちろんリンゴ。
食事の前も、食事の最中も、例のきさくな従業員さんが私に会うなり、食後は是非ホテル内のスナックへ、と勧誘するので行ってみることにしました。

この突き当たりの左がスナックです。
入口扉に近づくと、中から男性の甘い歌声が聴こえてきました。
暗い店内。いくつかのソファとカラオケセット。男性がステージで歌っていました。かなりうまい。
歌っていたのは、あのきさくな従業員さんでした。実はこの方は「桂木庸介」という歌手でこのスナックのマスターでもあったのです。桂木さんは今でこそ縁あってこのホテルでお仕事していますが、かつては歌手として北海道から沖縄までキャバレーやホテルを渡り歩いて歌っていたそう。どうりで演芸事情にお詳しく、司会がうまいはずです。

桂木庸介さん

スナックに貼ってあった「1990年」という歌のポスター。曲名からして約30年前の写真でしょうか。
桂木さんは東京の芸者が行き交う色町で育って中学生の時には三島由紀夫を読んでいたませた少年だったそう。十代の頃から歌を歌い始めたそうです。
スナック内には私と桂木さんの他、私より年配の夫婦が1組。この夫婦は五所川原の方で大衆演劇をやっているとは知らずに来たようです。
私が来て間もなく優木誠座長もやってきました。やはり桂木さんに呼ばれて来たようで、私のお向かいに座りました。
どうも桂木さんは夜のこのスナックを盛り上げるために、よくお客さんにお誘いのお声がけをしているよう。
この昭和な雰囲気のスナックで5人で飲み、歌い、話しました。
私も優木座長の前で歌うこととなり、座長に中学生の息子がいることも意識して、「野風僧」を歌いました。
実は桂木さんと優木誠座長は20年来のお付き合いがあるのです。優木さんが見海堂劇団の副座長として下呂温泉で公演していた際にゲスト歌手として桂木さんが公演に参加したのが出会いとのこと。優木劇団が初の単独公演をここ深浦で行ったのはこうした縁もあってのことだったのですね。
優木劇団のこれからの活動のことなど、いろいろな話を優木座長や桂木さんとさせていただき楽しい一夜となりました。
ただし翌日は二日酔いでちょっと頭が痛かったです。

ホテルの朝食
ホテルの方が駅まで車で送迎しますというのを丁重にお断りして、チェックアウト後は歩いて深浦駅へ向かいました。

お店の入口に貼ってあった公演ポスター。
町中のいろんな場所でこのポスターを見かけました。
朝の深浦の町。車通りはあるものの人通りはあんまりなくて寂しい。
昨日の大衆演劇場の賑わいが夢のようだ。
往時の賑わいが失せたこのような地方の町で芝居の公演が行われ、多くの方に笑顔をもたらしていることに、私はそこはかとない嬉しさを感じます。大衆演劇という文化の意義はこういう場所でこそ強まるのではないかとさえ思います。
20年も大衆演劇公演が続き、これからもこの町の方々は毎年3月の旅芝居公演を待ち望むことでしょう。
いつまでも深浦観光ホテルでの公演が続くといいなと思います。
帰りは五能線の普通列車の旅

五能線の車窓から見えた岩木山
電車に揺られながら、桂木庸介さんがこれから歌手として世に出るきっかけが何か生れないものだろうかと思いにふけっていました。
(2018年3月探訪)