WIKIレンタル 大衆演劇探訪記 2016年08月
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「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

河内音頭、浪曲、大衆演劇そして小説とさまざまなジャンルで扱われている「河内十人斬り」は実際にあった事件がきっかけとなって芸能化されました。
史実と芸能、両方の側面から河内十人斬りについて、私が調べ見聞したことをまとめました。


【もくじ】  ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■場所、時代
■人物
■何が起こったか
 ◆十人斬りの夜
 ◆金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索
 ◆犯行の動機・二人の遺恨
 ◆事件前の二人
≪「河内十人斬り」編≫
■事件から芸能へ
■河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」
 ◆河内十人斬り十段
 ◆京山幸枝若の「河内十人斬り」
 ◆錦糸町河内音頭
■大衆演劇
 ◆劇団炎舞の「河内十人斬り」
 ◆たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」
 ◆劇団新の「新 河内十人斬り」
 ◆劇団花吹雪の「河内十人斬り」
■小説 町田康「告白」
 ◆物語の舞台を訪ねて

 
≪史実編≫


場所、時代

大阪府東部の河内地方(旧河内国)の南、つまり南河内地方に、その名も南河内郡という郡があり、南河内郡の南に大阪府で唯一の村、千早赤阪村があります。その中の水分(すいぶん)という土地、当時の表記に直すと河内國石川郡赤阪村字水分で事件は起きました。
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 ↓千早赤阪村
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水分という土地で起きたので、この事件を「水分騒動」と呼ぶこともありす。
事件が起きたのは明治26年5月25日です。


人物

※★印の付いている者はこの事件で亡くなった十人
※年齢は事件当時

城戸熊太郎(きどくまたろう)(36)酒と博打と女に身を持ち崩す村の無頼者
谷弥五郎(たにやごろう)(26)熊太郎の弟分。賭博が好きで喧嘩は飯より好き。窃盗二犯の前科あり。

平次(68)熊太郎の父
たか 平次の前妻 熊太郎を生むが熊太郎3才のときに他界
とよ(57)平次の後妻 幼い熊太郎を育てる
光蔵(17)熊太郎の異母弟

やな(19)弥五郎の妹 奉公に出ている

森本ぬい(19)熊太郎の内縁の妻★
森本とら(44)ぬいの母★
森本うの(15)ぬいの妹

松永傳次郎(50)
松永たけ(54)傳次郎の妻★ 
松永左五郎(20)傳次郎の三男★
松永すゑ(13)傳次郎の三女★

松永熊次郎(28)傳次郎の長男★ 熊太郎からの借金を踏み倒す
松永りゑ(26)熊次郎の妻★
松永久太郎(5)熊次郎の子★
松永幸太郎(3)熊次郎の子★
松永はるえ(乳児)熊次郎の子★

松永虎吉(23)傳次郎の次男 ぬいと姦通する

浅井てる(27) 弥五郎と親しい仲
浅井傳三郎 てるの父 弥五郎からてるを嫁にくれと言われるが断る
浅井ふで てるの母


何が起こったか

当時の朝日新聞・毎日新聞の記事および「残害事件河内十人斬り」(事件直後に刊行された事件をまとめた本)を主に参考として事件のあらましをまとめました。ただし、当時は噂話レベルの不確定な情報でも新聞に掲載していたようで、各記事の間に齟齬が生じている部分もあります。それを取捨選択してまとめたものであることをご了承ください。なお、新聞には被害者死体の様子が具体的に描写されており そのむごたらしい殺され方から、加害者の異様なまでの憎悪の念を推し量ることができますが、このブログにおいてはグロテスクな惨殺状況の描写は割愛いたします。


河内の国、石川郡赤阪村字水分は忠臣の誉れ高い楠正成公が誕生した霊地であり、金剛山の千早の渓谷から水が清く流れ落ちる由緒ある土地である。
この村で恐ろしい残害事件が起こった。


十人斬りの夜

明治26年5月25日。
嵐のような暴風雨が昼から続く物凄まじい夜。
熊太郎と弥五郎は松永傳次郎宅前でズドンと砲声を鳴らすと戸口を激しく叩いた。出てきた傳次郎は斬りつけられ、深手を負ったまま家の後ろの竹藪を潜って辻繁蔵宅に逃げ込んだ。熊太郎らは、家の中に居た傳次郎の妻たけ、三男左五郎、三女すえを惨殺し、家に火を放った。

二人は傳次郎の長男、松永熊次郎の家を襲った。熊次郎は兇漢を見て「賊よ賊よ」と叫んだが誰も出てこない。熊次郎は家の近くの道路を越えて逃げたが、ついに麦畑でズタズタに斬られて死んだ。家の中にいた熊次郎の妻りゑ、子供の久太郎、幸太郎、赤ん坊のはるえの4名もむごたらしく斬殺された。

森本とらも自宅前で背中を銃で撃ち抜かれて死んだ。

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 事件があった場所の略図(明治26年5月29日毎日大阪新聞に掲載された図をもとに作成)
 ①松永傳次郎宅、②谷弥五郎の借家、③浅井傳三郎宅、④森本とら宅、⑤城戸熊太郎宅、⑥松永熊次郎宅

熊太郎の父平次は傳次郎の家が火事だと聞き現場へ駆けつけていた。家の外で火事を見ていた平次の妻の肩をつかんだ者(おそらく熊太郎)があったが、何だばあさんかと言い捨てると家に向かった。その者は、火事を見ようと庭先に出ていたぬいを見つけて斬りつけた。ぬいは逃げたが家近くの納屋で頭を打ち砕かれて死んだ。ぬいの妹うのは家に居合わせていたが、逃げなかったらお前も殺すぞと言われて逃げ、警察署に通報した。

浅井傳三郎の家の寝床の下からズドンと音がした。傳三郎は驚いて近所の者を集めて畳をひきあげてみると、大きな竹に火薬を詰め込んで発火させた跡があった。誰の仕業だろうと話しているところに、三発の砲声とキャっという叫び声が聞こえた。皆顔が青ざめて、現場を見にゆく者はいなかった。

熊太郎、弥五郎は金剛山へ逃げ隠れた。
弥五郎は村で最もこの辺の山の地理に詳しく、山猫というあだ名まである。

意図したものか偶然か、5月25日は楠正成公の命日である。


金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索


5月26日
富田林警察署から警部・巡査が、大阪地方裁判所から判事・検事が、また大阪府警部長が水分村に出張してきた。

はじめは、犯行者は複数人であること、そのうち一人は城戸熊太郎であること程度しか見当がついていなかったが、事件後行方をくらました城戸熊太郎と谷弥五郎を捜索対象と見定めた。

事件は村の内外に瞬く間に知れ渡った。誰が言いふらしたか、熊太郎は村中を焼き払って黒土にして一人残らず殺す、と噂がたって皆恐れた。老人や子供を他村の親戚に預ける者もいた。村中の者は家業を休んで昼の間は寝て、夜は竹槍、鋤、鍬などを持って村内を巡回した。
皆寝食を忘れ腰弁当を付けて捜索に従事した。

夜11時頃、熊太郎は二河原辺にいる親戚の竹次郎の家に入った。竹次郎は留守で妻のかめがいた。飯を炊くよう頼むがかめは断った。二人は炊いてあった粥を食べて立ち去った。

5月27日
大阪の新聞にこの事件が報じられた。以降約半月にわたってこの事件の速報が紙面を賑わす。犯人追跡の状況や事件の背後関係などが新聞で詳細に伝えられた。
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夜、森本うのは何者かが門の戸を叩いているのを聞いた。庭先で別の人の声がして、それを聞いたのかその者は逃げ去った。

5月28日
午前8時、大阪府の鈴木警部長は富田林から電話で大阪南、東、堺の三警察署に警部巡査の非常招集を発した。これにより警部・巡査らが総勢147名現地に集まった。探索エリアを16区に分け、それぞれに指揮官をおき、午後1時に捜索を開始した。

午後3時頃、金剛山の千早の炭焼窯に血の付いた草鞋があった。また二河原辺ゴセ谷の炭焼窯にも焚火の跡があった。

午後5時頃金剛山の中、大字二河原辺字餅子坂に、熊太郎と弥五郎が来た。二人はそこに居たきこりの庄太郎に銃口を向けて逃げねば殺すと言った。庄太郎は逃げて出張所に届けた。中津原・東坂・千早などから各村10人が竹槍を持って二人を捜索していたが見つからなかった。

午後7時頃、飴寅こと寅蔵および藤太郎の二人が寝泊まりしている山の中の木挽小屋に熊太郎らが現れた。熊太郎は普通の着物に羽織を着て短刀と村田銃を携えていた。右の指三本に傷を負っていた。弥五郎は普段着の上に法被を着て仕込銃と短銃を携えていた。二人とも腰に弾薬を多数着けていた。
熊太郎はここに警部巡査が来たかと尋ねた。前日午後4時頃まで警部巡査が来ていたが木挽小屋の二人はこのことを隠した。熊太郎らはここで一泊すると言い、藤太郎らには我々が去るまで便所にも行くなと言った。
警察は我等を発狂人のように云っているようだが可笑しいことだ。松永伝次郎一家をはじめ恨みのない者は殺さない。まだ恨みのある者が4,5人いる。旧暦9月ごろまで逃げてその間に宿志を晴らして自首するか自殺する覚悟、人の手にかからぬ積りだ。
熊太郎は木挽小屋の二人にそのように語った。
藤太郎と寅蔵は抜け出して密告しようと鼾をかいて寝たふりをしたが、熊太郎らはそれを察したのか一睡もしなかった。朝が近づくと、飯を炊かせ、米一升を奪った。熊太郎は二十銭を出したが、木挽小屋二人が受け取らないのでそれを投げた。熊太郎らは朝4時頃去った。

5月29日
雨が降った。捜索者はビショ濡れになり、その心労は甚だしかった。

5月30日
夕方、木挽小屋近くの山中で煙が立っているのを5名の巡査が認めた。

金剛山腹の村に熊太郎の親戚の新田達次郎の家があった。巡査がこの家に忍んでいたところ、戸外から兄貴兄貴と呼ぶ声がした。巡査が躍り出たが、呼んだ者は逃げてしまった。家の者はあの声は熊太郎に違いないと言った。

5月31日
事件7日目である。遺族は僧に仏供養を依頼した。

夜11時頃、熊太郎、弥五郎は水分村の赤松瀧造の家に現れた。瀧造はいなかったが妻の小りうに何か炊いて食わせてくれと頼んだ。幼児を抱いて横になりながら具合が悪くて弱っていると小りうが答えると、熊太郎らは仕方ないと戸外に出た。小りうは幼児を抱いたまま出張所に届け出た。水分の老若男女は賊が村内に入ったと聞いて逃げまどった。

弥五郎は養父谷善之助を訪ねた。隣家には巡査が張っていて、弥五郎が家の中に入ったら取り押さえる算段になっていたが、善之助は臆して戸を開けなかった。弥五郎が立ち去ろうとするところを巡査が追いかけたが、弥五郎は東條川の向う岸の竹藪に逃げて銃を二発放った。

その後、青木谷の地蔵堂近くに張っていた巡査が、熊太郎・弥五郎が通りかかったのを見つけ取り押さえようとした。熊太郎らは二発発砲して逃げ、巡査に間近まで追い詰められたが、黒鞘一尺三寸ほどの刀を投げて、水分の徳赤という難所に逃げ込んだ。

熊太郎らが三カ所に現れたことを受けて、警部巡査はますます警戒を厳しくした。応援の部隊も続々と到着した。

松永傳次郎の縁故者や熊太郎らに金銭の貸し借りがある者20名を警察が保護することとなりそれぞれの家に巡査が詰めた。

* * *
森本うのは谷口警部が引き取り、妻に世話を見させ読み書き裁縫を教えることになった。

熊太郎の親は村人に合わす顔がないと自害しようとも思ったが、熊太郎の異母弟の光蔵はまだ17才でその難儀を思うと死ぬこともできない。熊太郎が売り残した田地一反あまりを松永傳次郎に送って謝罪したいと言った。
森本とら親子の仏事料として、所有していた藪・畑地・山林を遺族に与えたいと村人に申し出た。そして十人の霊魂を慰め、熊太郎の懺悔を祈るために光蔵を連れて四国88カ所西国33カ所の霊場を巡礼する積りだと涙ながらに言った。

事件の日、松永虎吉は宇治へ製茶の仕事で出かけていて不在であったが、事件を聞き急いで帰村した。親兄弟の無残な死を見て遺恨やる方なく、熊太郎の所在がわからなかったら、残った父平次と継母と光蔵の三人に対して鬱憤をはらそうと力んだが、そこへ村人が仲裁にはいって虎吉を宥めすかして、以後恨みをもたないとの約束をさせた。

6月3日
8時頃、熊太郎の親族は、熊太郎を探し出して自首させようと親族5名で金剛山に入ったが夕方むなしく帰村した。

6月4日
8時頃、この日も熊太郎の親族は出かけたが夕方帰ってきた。

6月5日
雨が降っており、熊太郎の親族は捜索を見合わせた。

巡査が金剛山の三ツ谷で、杉の皮を屋根にして人が寝た跡を見つけた。また戻ってくるかもしれないのでここで待ち伏せすることにした。すごい雨が降ってきたが結局熊太郎は現れなかった。

金剛山中の別の場所では百合を焼いて食った跡が見つかった。

6月6日
165名の警官が大阪からやってきた。

6月7日
正午、図面と照らし合わせて蜘蛛の巣を張るように探索場所を定め、一隊3名、全部で50余隊が繰り出した。

大阪安治川水上警察署の巡査4名はその日は野宿して、翌日は水分から4kmほど離れた難波山の杉の深林に入った。午後3時頃、とても険しい所にある杉の木に足をかけて仰臥して死んでいる熊太郎を見つけた。その左側より一間離れた杉の根元に谷弥五郎が死んでいた。その様から推測すると、熊太郎が弥五郎を背後から不意に銃殺し、その後熊太郎は銃で胸を撃って死んだのではないかと思われた。
10人が斬殺された事件の犯人捜索は終結した。


犯行の動機・二人の遺恨

(熊太郎と虎吉)
前年11月のこと、松永傳次郎の息子虎吉は、熊太郎の家へ行って夜更けまで遊んだ。虎吉は遅いから泊めてくれと言って、熊太郎・ぬい・虎吉の3人で寝た。その際に、虎吉とぬいが姦通した。熊太郎は怒ったが、仲裁人が熊太郎をなだめて済んだ。
(熊太郎ととら)
ぬいを籍に入れていればよかったと思った熊太郎は、ぬいの母のとらに、ぬいを籍に入れることについて掛け合った。その際16円をとらに貸した。しかしその16円は返済がなく、ぬいの籍が移ることもなかった。
(熊太郎と熊次郎)
城戸熊太郎と松永熊次郎は賭博仲間で懇意な間柄であった。熊次郎は熊太郎に23円50銭を借りた。熊次郎は、熊太郎が催促しても返済しなかったばかりでなく、強いて返せというなら腕ずくで来いと言った。というのが村の人々の話である。
(弥五郎と傳三郎)
弥五郎は浅井傳三郎の娘てると仲がよかった。3月に奈良へ駆け落ちしたが追手に見つかってしまい、てるは親許に引き戻された。弥五郎はてるを嫁にくれと傳三郎に言ったが、傳三郎は弥五郎の身持ちの悪さ故承知しなかった。弥五郎は百円の手切れ金を要求したが、傳三郎は百円は出せぬ、娘はやりたくないと近村の侠客を頼んで対抗した。弥五郎はそれに怒り、眼にものを見せてやると思っていた。


事件前の二人

(熊太郎の墓)
熊太郎は犯行の前に田畑をおおかた売り払った。事件の7日前には赤坂村の眺めのよい場所に自分の墓を建てた。
(弥五郎とやな)
弥五郎は貧しく、竹田市五郎から8畳の家を月10銭で借りていたが家賃を3か月滞納していた。1週間前に弥五郎は30銭を持ってきて家賃を支払った。家の中は鍋釜をはじめ諸道具はなくなり掃除されていた。
弥五郎には19才の妹やながいた。やなは二河原辺の新田兵五郎方に奉公していた。弥五郎は今生の別れを告げにやなを訪ねた。農作業に出ていたやなをみつけると弥五郎は懐から1円を取り出しやなに渡して告げた。私は訳あって死ななければならない、達者で暮らしてくれ、おれのことは心配するな。それを聞いてやなは、たとえ悪人よ無頼者よと後ろ指さされる兄であっても自分にとってはたった一人の身内と泣き伏した。そのように泣かないでくれと諭して弥五郎は立ち去った。
(当日の朝)
25日の午前8時半に字南畑の飲食店池田駒太郎の所で熊太郎と弥五郎は腰かけて酒を飲んでいた。そこを通りかかった井上貞次郎に一杯飲めよと勧めた。貞次郎は断ったが無理に勧められたので10時頃まで一緒に飲んだ。
(当日)
午後四時ごろ熊太郎とぬいは相合傘で仲むつまじく家路に帰った。
夜は一同揃って夕飯を食べた。


≪「河内十人斬り」編≫


事件から芸能へ

6月7日に熊太郎と弥五郎の遺体が見つかり事件が終息を迎えました。それから間もない頃から水分村の責任者に対して、演劇関係者等からの上演の依頼書が次々届いたそうです。大阪の大劇場や、富田林の興行者をはじめ朝日新聞社員からも「十人斬恨の刃」という小説にしたいという依頼があったようです。

6月に、富田林警察の署長付きの人力車夫で江州音頭を得意としていた岩田梅吉が事件を物語化して音頭にアレンジして道頓堀の演芸場で発表しました。これが当たって45日のロングランを達成しました。

6月14日の大阪朝日新聞には「四十人斬」という見出しを付けて、道頓堀の浪花、中、朝日、辨天の四座が来月の興業には十人斬りを出してどこの十人斬りがよいか見てくれと互いに競争する、という記事が書かれています。
6月18日の同新聞には、浪花座が河内の十人斬りを狂言に仕組むにあたって村長を経て関係者へ金を送り興行の承諾書をとった、とあります。このときの演題は「河内十人斬」で、金剛山から里に出てきて何杯も何杯も飯を食べる場面が好評だったそうです。

また、私が今回参考文献とした「残害事件 河内十人斬り」という本は、奥付に「明治26年6月12日印刷」とあるとおり、事件直後に発刊されています。

当時の大衆芸能が耳目を集める事件をいかに敏速に取り入れていたか、また河内十人斬りの事件が市井でいかに話題性が高かったかを上記のことからうかがい知ることができます。



河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」


江州音頭をベースした「改良河内音頭」という節回しによる岩田梅吉の「河内十人斬り」がヒットしたことは、それまで河内のそれぞれの村で独自に歌われていた音頭に大きな影響を与えたに違いありません。梅吉はその後レコードも出し、戦後も梅吉の名を継ぐ後継者が十人斬りのレコードを発表していたようです。
河内音頭が現在のスタイルに確立されるまでは明治・大正・昭和にかけてさまざまな変遷がありました。梅吉考案の音頭は、河内音頭が現在の形に至るまでの系譜には直接つながらないようです。にもかかわらず現在の河内音頭の代表的なナンバーが「河内十人斬り」であるのは興味深いことです。兇漢二名による惨殺事件というまことにネガティブな内容の外題が、現在に至るまで語り継がれてきたのは何故なのでしょうか。
私にそれを考察する見識はありません。ただ、人々が「河内十人斬り」という事件を語り継いで来た、というより、事件としての「河内十人斬り」は後世の人々が関心を抱くような物語として変容し続けてきた、というべきでしょう。
例えば、6代目梅吉の「河内十人斬り」には、日暮れ後に虎吉がおぬいのもとに這っていって乳繰り合っているところを同じ目的でそこに訪れたと思しき弥五郎がその様子を盗み見る、という場面があるそうですが、それを朝倉喬司氏は当時のムラ社会に当たり前に流布していた夜這いのゴシップが盆踊りという場で歌われる音頭に昇化した例だと指摘しています。(参考文献:朝倉喬司著「流行り唄の誕生」)

河内音頭の「河内十人斬り」は演者めいめいが独自に物語をアレンジして演じてきました。そのバリエーションは多岐にわたりますが次の点においてはほぼ共通しているようです。
・二人が本職の博徒として描かれている。
・松永一族も格をもった博徒の松永一家とされている。
・熊太郎は頼りなさそうな男である。
・弥五郎は私的な恨みから犯行に及んだのではなく兄弟の義に殉じて死んだ男とされている。



河内十人斬り十段

平岡正明著「浪曲的」に「河内十人斬り全段」という項があります。十の音頭(段)それぞれについて、平岡先生がさまざまなバリエーションの中からピックアップしたバージョンを独自の視点の解説を加えながら紹介しています。以下その要約です。

序段「河内あばれ獅子」(京山幸枝若)
十人斬りの一年前、旱魃に苦しめられている農民が田に引く水を求めて争っている。その喧嘩を仲裁した谷弥五郎は禁断の池の水門を開く。弥五郎は責任をひとりで引き受け官憲にひいてゆかれる。

二段目「火花散るだんじり囃子」(京山幸枝若)
建水分神社の祭礼では近隣十八カ村のだんじり(山車)が繰り出して大賑わいとなる。今年の山車の先陣は松永伝次郎の息のかかった中村と寄合が決めていたが、弥五郎はそれを無視して水分村の山車を先頭につっかけようとしたものだから、揉め事が起こって弥五郎は富田林の刑務所に入れられる羽目に。その後、弥五郎と松永一家とのイザコザがあって、次の年の祭礼がやってきた。

三段目(花沢義若)
ぬいは盆踊りに出かける。輪の中で踊っているぬいに若い衆がちょっかいを出すがおぬいは肘鉄をくらわす。これに逆上した男どもはおぬいをかついでさらう。おぬいの悲鳴をきいた松永虎次郎はかけつけておぬいを救う。そのまま二人は草むらでいい関係になってしまう。このことが噂となり、それを聞きつけた谷弥五郎が、兄貴分の熊太郎に、お前の女房のおぬいにへんな噂がたっていると告げる。

四段目「姦通発覚の段」(六代目岩井梅吉)
熊太郎が大阪に出かけて留守にしている。ぬいの母お梅婆あ(史実ではとら)は虎次郎を気に入っておぬいとの縁をとりもとうとする。虎次郎もその気になっておぬいの家に忍んびゆく。そこに弥五郎がやってきて板戸の破れ目から中をのぞくとおぬいと虎次郎の濡れ場。不義者を見つけたと弥五郎は座敷に上がりこもうとする。

五段目「谷弥五郎の韋駄天走り」(初音家太三郎)
おぬいと虎次郎の密会現場をおさえた弥五郎は、道頓堀にいる熊太郎に告げるべく河内の夜を走る。

六段目 城戸熊太郎が半殺しにされる話 (京山幸枝若)
盆踊りの夜、熊太郎は内縁の妻おぬいが虎次郎を密会しているのを見つけ、おぬいをどつく。そこへおぬいの母親のお角婆あ(史実ではとら)が割って入り、熊太郎がお角への養い料を滞納していることを罵る。悔しがる熊太郎は、その金を工面しようと、以前賭場で金を貸した松永熊次郎のもとへ行く。熊次郎は、その金なら返したと言って、松永方と内通していたおぬいが取り寄せた借金の証文を破る。さらに熊太郎を蹴飛ばし、敷居の根石に頭をぶつけた熊太郎は血まみれになる。悔し涙にくれてよろよろと帰る熊太郎は、堀川監獄から出てきたばかりの谷弥五郎と出くわす。弥五郎は、兄貴の傷が治ったら仇討ちを手伝うと約束する。

七段目「道頓堀弁天座での狼藉」(鉄砲光三郎)
熊太郎と弥五郎は道頓堀の弁天座で「吉原百人斬り」を観劇する。芝居の中で女に騙され金をとられ眉間まで割られた登場人物に同情するあまり、芝居と現実の見分けがつかなくなった弥五郎が二階の客席から花道めがけて飛び降りて、憎い役者を殴る蹴るする。

八段目「弥五郎、妹おやなとの別れ」(鉄砲光三郎)(京山幸枝若)
熊太郎の傷は癒え、武器の準備も整った。弥五郎は妹おやなを訪ね別れを告げる。

九段目 熊太郎、弥五郎、猿沢の落ち合い(三音会)
妹おやなとの別れをすませた弥五郎と、武器の調達を終えた熊太郎が、奈良の猿沢の池で落ち合う。二人は今生の名残に暴れ太鼓を打ち鳴らす。

終段 斬り込み金剛山の最後
十人斬りから金剛山での最後まで。二人の最後の場面は、京山幸枝若版では、覚悟を決めた熊太郎が差し出した首を弥五郎が斬り、弥五郎は村田銃の銃口を銜えて自決する。鉄砲光三郎版では、熊太郎が弥五郎を背後から撃ち、熊太郎は自分の喉元に銃口をあて足の親指を引き金を引いて自決する。


京山幸枝若の河内十人斬り


大衆演芸の歴史を生き抜いてきた「河内十人斬り」の現代における継承者の第一人者は浪曲師(そして河内音頭の唄い手でもある)二代目京山幸枝若師匠でしょう。
「河内十人斬り」は河内音頭だけでなく浪曲の演目にもなっています。
二代目の師匠であり父親の、亡くなった初代京山幸枝若の「河内十人斬り」のうち、大衆演劇のベースにもなっている、よく知られている部分のストーリーを浪曲や河内音頭の音源をもとにまとめました。

※幸枝若版の登場人物は史実と名前が変わっているところがあります。
とら→お角(かく)、虎吉→虎次郎

南河内富田林の松永親分の弟の虎次郎は、水分村の城戸熊太郎の女房おぬいと、ここ数ヶ月ちょいちょい逢引をしていて村の噂になっている。盆踊りの日も虎次郎はおぬいを連れ出して逢引していた。それを1ヶ月ぶりに村に帰ってきた熊太郎(熊太郎は仕事にでかけるといって家をでては博打場を遊びまわって何日も帰ってこないことが常である)が見つけ、熊太郎はおぬいをなぐってなじる。おぬいは、米を買う金がないので虎次郎に金を借りたが皆の前で返金の督促をされたので恥ずかしくてここにひっぱってきた、と咄嗟に嘘をつくが、熊太郎は許さず大喧嘩となる。そこにおぬいの悲鳴を聞きつけたおぬいの母のお角が現れる。この婆さんは銭が大好きな金の亡者である。お角は熊太郎に、嫁にやったといってもまだ籍はやってない、おぬいが間男したと腹立てるのなら日頃から亭主らしいことをしろ、となじる。熊太郎がおぬいを嫁にもらう際に、熊太郎からお角へ毎月二円五十銭の仕送りをするという約束があったが、熊太郎はそれを十ヶ月滞納している。お角は熊太郎に、亭主面をする前にたまっている二十五円を払えとまくしたて、おぬいには熊太郎と別れて虎次郎と一緒になれと言う。弱みをつかれ何も言えなくなった熊太郎を前に「ざまぁみくされこのド甲斐性なしめ。悔しかったら銭持ってきくされ、このガシンタレが」と毒づいて、お角はおぬいの手を引いて立ち去る。
二十五円の金があればお角婆あにたたきつけて、おぬいとも縁を切り、男の意地が立つのだけれど、と熊太郎は悔し涙を流す。熊太郎は下手な博打に明け暮れたあげく、家も屋敷も田んぼも畑も山も人手に渡してしまっていて金がない。金の算段を考えているうちに、思い出した。昨年の暮れに、博打場で虎次郎の兄の松永親分に五十円を貸していた。翌日熊太郎は貸した金を返してもらおうと松永親分のいる富田林へ向かった。

お角とおぬいは熊太郎が怖くて家に帰らず虎次郎の家に泊まっていた。虎次郎は熊太郎との間男の件をおさめてもらおうと、お角・おぬいを連れて兄の松永親分の屋敷へ相談に行く。お角からも松永親分へお願いしているところに、熊太郎がやってきて、松永親分は虎次郎・お角・おぬいを奥の部屋に隠す。熊太郎は松永親分に借金を返してほしいと証文を見せた。松永親分はその借金のことをすっかり忘れていたが、下手な言い訳は男が廃ると高飛車に出て、その金は八尾の博打場で返したはずだと出鱈目を言いながら凄み、証文を破り、利子をやるから持ってけと銀のキセルで殴って熊太郎の額を割った。さらに親分は熊太郎を蹴り倒し、熊太郎は後頭部を打って浴衣が血に染まった。熊太郎が反撃しようと手にかけたものは、見覚えのある下駄、熊太郎がおぬいに買ってやった下駄であった。おぬいがここにいるということは、おぬいの間男は松永親分までもが手を引いているのか、それを知らないのは自分だけだったのかと悔しがっているところに、虎次郎・お角・おぬいがでてきて、お角は殴られたおぬいの仇と熊太郎を蹴っ飛ばす。熊太郎は塩をまかれて屋敷の外につまみだされた。

村の半ばまで戻った熊太郎が柳の根元に倒れこみ痛さ悔しさに泣いているところに、監獄からでてきたばかりの谷弥五郎が河内音頭「石童丸」を歌いながらやってきた。弥五郎はひどい有様の熊太郎を見つけて訳をきいた。いきさつを聞いて弥五郎は、兄貴の仇は俺の仇と怒りをあらわにして、松永兄弟とお角とおぬいの息の根をとめてやると血気にはやるが、熊太郎はそれをなだめる。お前ひとりでやったら俺はどうなる、俺も男の意地を通したい、この傷を養生して元の体に戻ったら、命をかけてもあいつらと渡り合う。それを聞いて弥五郎は、生きるも死ぬも二人連れ、俺も命を捨ててやると、二人での仇討ちを約束する。弥五郎は熊太郎を医者に連れていった後も熊太郎を献身的に看護する。1週間後、熊太郎は監獄放免祝いとして弥五郎に金を遣る。弥五郎は奈良で女郎買いして博打して3日したら帰ってくると言って出て行った。入れ違いに巡査の木村が熊太郎の家に入ってくる。熊太郎が松永親分の家で傷をつけられ、弥五郎が「恨みの奴らを皆殺し」などと歌って村を歩いているという噂をきいて、熊太郎たちが短気な行動をおこさないかと心配してきたのだった。今の世の中では法律が仇をうってくれるからその気があれば診断書を持ってわしのところにこいという木村に対し、熊太郎はこの傷は盆踊りの日に転んでできたものだと嘘をつく。
何日たっても弥五郎が帰ってこない。もしや心変わりしたのかと疑っているところに弥五郎からの葉書が届いた。奈良の博打の帰りにつかまって、前科がたたって八ヶ月の懲役になった、俺が帰るまで決して一人で無理するな、借りは必ず二人で返そうという内容で、熊太郎はうれし泣きする。

たとえ一瞬でも弥五郎を疑ってしまったことが申し訳なく、逢って詫びがしたいと熊太郎は大阪の堀川監獄へ向かった。面会を断れられた帰り、熊太郎は道頓堀で芝居を観劇する。吉原百人斬りの主人公に同情して頭に血が上った熊太郎は「斬れよ斬れ佐野屋、おれも河内で斬る」などと声を荒げ他の客に注意される。熊太郎は村田銃を二丁買い、その後宇治で自分の菩提を弔い経帷子を求め、奈良を見物しがてら刀を二振り買って帰った

明治二十六年春、弥五郎が監獄から帰ってきた。熊太郎と弥五郎は決行の日を決める。親兄弟がいない熊太郎は弥五郎には唯一の身内である妹のおやながいることを気にかける。
弥五郎は妹の奉公先に行っておやなに会う。おやなはまた博打に負けて金を借りにきたのかと思ったが、弥五郎は別れを言いにきたと言う。弥五郎は九州へ石炭を掘りに行くと嘘をつくが、おやなは、そんな危ないところに行かないで、兄やんにもしものことがあったらわてはどうしたらいいのか、お金ならみんなあげる、といじらしいことを言う。弥五郎は後ろ髪を引かれる思いでおやなと別れる。

日は暮れて、暗闇に雨が降っている。熊太郎と弥五郎は茶屋の奥座敷で別れの盃を酌み交わす。南無阿弥陀仏の経帷子に刀と村田銃を携えて、二人は雨夜の闇へ。

お角の家に入りこみ、納戸で寝ていたお角を熊太郎が斬る。次の間にいたおぬいも斬って家に火をつける。
松永宅へ斬りこみ、松永親分ら十人を仕留めたが、肝心の虎次郎がいない。虎次郎を殺さなければ死に切れない、一時姿を隠そうと、二人は金剛山へ逃げ隠れた。

翌日、村は黒い噂で持ちきりで、犯人は金剛山へ隠れたようだと、近隣の警察や消防が出動して金剛山をとりまいた。食料がなくなって山から出てくるに違いないと待ち構えていたが何日たっても二人はあらわれない。
松永一家がやられたことに、厄払いができたと喜んだ村人がいて熊太郎と弥五郎にこっそり食料を届けていた。これに感づいた警察は村人の金剛山への立ち入りを一切禁じた。
熊太郎と弥五郎が食料を断たれて三日目、山狩りが始まった。弥五郎は一人二人斬ってでも逃げ延びようと言うが熊太郎はそれを制する。何の恨みもない、まして恵みを受けた村人に手を出してはいけない。しかし逃げることもできず、縄目の恥を受けなくてはならないのであれば、覚悟は決まっている。熊太郎は、最後の頼みだこれでひと思いにやってくれと刀を弥五郎に渡す。弥五郎は熊太郎を刺し殺すと、村田銃の銃口を自分に向けて引鉄をひいた。

最後に、「~男持つなら熊太郎、弥五郎~」という文句のある節を謳い上げ河内音頭・浪曲は終わります。


錦糸町河内音頭

現代において普通に生活していて河内音頭に接することはほぼないでしょう。どのように河内十人斬りの口演を楽しめばよいでしょうか。

YouYubeで「河内十人斬り」で検索すると、河内音頭や浪曲のネタがでてきます。京山幸枝若(初代・二代目)のほか、鉄砲光三郎の鉄砲節河内十人斬りもとても味わいがあります。
Amazonで検索すれば中古CDが見つかります。

関東で河内音頭にライブで触れることのできる最大のイベントは2005年から続いている「錦糸町河内音頭」です。
2015年の錦糸町河内音頭はは8月26日(水)、27日(木)の2日間行われました。
「河内十人斬り」は初日に京山幸枝司師匠が掛けました。

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2015年8月錦糸町河内音頭 アンコール時の京山幸枝若師匠。後ろには京山小圓嬢と三原佐知子師匠。(chaconne0430さん撮影)



大衆演劇

大衆演劇でも昔から多くの劇団が「河内十人斬り」をかけてきたそうです。

劇団炎舞の「河内十人斬り」

2016年6月12日、浅草木馬館で劇団炎舞の「河内十人斬り」を観ました。同月、ファンクラブのtwitterに「(河内十人斬りは)ボスが一番最初に大衆演劇界で、芝居として書き上げました」とありました。ボス・橘魅乃瑠が劇団のお家芸として大切に育ててきた演目なのでしょう。
主な配役・・・谷弥五郎:橘炎鷹、城戸熊太郎:沢田ひろし(ゲスト)、松永虎次郎:橘光鷹、松永伝次郎:橘ひろと、おかく:橘魅乃瑠、ぬい:渋谷めぐみ(外部客演)、やな:橘麗花、愛媛県:橘ひろと(二役)、飴虎:橘魅乃瑠(二役)、警察の頭:北条嵐(ゲスト)、松永一家の身内:橘鷹勝・橘鷹志・橘美炎・橘もん太・橘炎子

ストーリー・構成は上述した京山幸枝若のものとだいたい同じです。
ラストシーンに大衆演劇らしい脚色がされています。
山狩りが始まり、追い詰められた二人。熊太郎は弥五郎に自首しようと言うが、弥五郎は、それでいいのか兄キ、まだ虎次郎をやっていない、これでは死に切れないだろうと熊太郎が抑えている思いを代弁する。その言葉に感謝した熊太郎だが、追手から逃れるために山狩りに参加している村人を傷つけるのは本望ではなく、覚悟を決めると、弥五郎を背後から刀で刺す。弥五郎も熊太郎の思いを悟り兄キのことは恨まんと言う。あの世でも兄弟分でいようと誓い合い、熊太郎は銃で自害する。
炎舞版河内十人斬りで強調されているのは「義兄弟の美学」です。
義兄弟の契りというのは当初は「契約的」なもののはずです。それが、お互いの心が触れ合ってゆくうちに「心情的」なものに変わってゆく。さらに絶望的な状況で身体が極まると、心情的な距離はどんどん近づいてゆき、ついには「同一化」してしまう。この状態こそが自分の命よりも重い意義があると自覚するようになる。
この義兄弟の契りの結晶化こそ炎鷹版河内十人斬りクライマックスの見どころでした。
あきらめようという熊太郎に、個人的恨みをもっていないはずの弟分の弥五郎は完全に熊太郎の本心を我が思いとし、自分の命をかけて恨みを晴らそうとする。最後は二人とも「恨みを果たすこと」よりも「あの世にいっても義兄弟としてかたく結ばれること」の方が自分たちにとって大事なことだと認め合う。そうなることを確信できた二人はその喜びをかみしめる時間がほしかったに違いない。熊太郎は突然弥五郎に「石童丸」を唄ってくれと頼み、弥五郎は残された力を振り絞って唄う。弥五郎が唄い終わると熊太郎は自分に向けて銃を撃つ。
おそらく、このような義兄弟の美学の表現は昔からの大衆演劇の芝居の本領だったのではないでしょうか。旅役者が演じてきた人物は、博徒のように世間から隔絶された立場の者が多かったでしょう。そのような人物に力強い生の息吹を与えることに旅役者は生きがいを感じ、そのための美学を大切にしてきたのではないかと想像します。
そんな私の憶測を証明するかのように橘炎鷹座長はこの芝居で見事な演技を見せました。また、炎鷹座長がこの芝居をやるなら相手は絶対この人と切望した、熊太郎役の沢田ひろしの演技も素晴らしかった。
これが自分の生き方だと決めたからには、自らを損ねることになっても信念を曲げない。その信念によって「義」が磨かれてゆくほど、「義」以外のものに対する生きるべき価値が薄くなってゆく。
そんな男の生き様は、「大衆演劇役者」が心身とも染み付いた二人は感覚的に諒解しているでしょう。だからたった1日限りの芝居でほとんど稽古ができなくても、本番の舞台では二人は阿吽の呼吸で義兄弟の美学を紡ぎたすことができる。大衆演劇役者の本領を堪能できた芝居でした。
炎鷹版のもうひとつの見どころは、十人斬りの場面での大量の血のり演出です。熊太郎が松永一家の子分の腹を刺す。子分の着物が血に染まる。そして子分は口から血を吐いて倒れる。このような調子で、やられる子分が皆、刺された所から血を流し口から血を吐く、の出血2点セットで役者の衣服、床はおびただしい血で染まります。こんなに血のりをたくさん使った芝居をはじめて観ました。血が嫌いなお客さんがいるから(私もそうですが)血のりはあまり使いたくないという劇団もあります。でもこの芝居のように、復讐の場というシチュエーションの盛り上がりを目的としていて殺陣自体にリアリティを追求していない場合は、血は単に「恨みの象徴」として映るので見ていて気持ち悪いものではありません(あくまで 私の感想ですが)。とにかく大量の血のりを使った凄惨たる恨みの現場は見ごたえがあるシーンでした。
炎舞版河内十人斬りは男である私としては大いに感じ入るところがありましたが、若い女性のお客さんにとってはどうだったのでしょうか。
おそらく最近の、というかこれからの大衆演劇において多くのお客さんに求められるのは「ストーリーに納得できて登場人物に感情移入し感動できる」芝居になってゆく気がします。テレビで紹介されている大衆演劇像も、どんな世代の人でも泣いて笑って楽しめる、というものです。確かに大衆演劇の喜劇の大半はそういうものです。
一方、今の世の中では時代錯誤だと思われている、しかしまったく無視してよいとは誰もが思っていないだろう、「忠」や「義」や「意地」といったテーマを大真面目に扱うことで、お客さんの普段触れない琴線を揺さぶり非日常的で理解しがたいながらも肯定したいと思える幻想を立ち上がらせることにも、大衆演劇らしさがあると私は考えています。
つまり大衆演劇「らしさ」を芝居の内容面から捉えた場合、私の思う「らしさ」には相反する二つのものが共存します。
今は前者を目指す傾向が強く(その典型的なあらわれが松竹新喜劇の芝居の増加でしょう)後者のような芝居が少なくなってきたように思います。
「親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけてのむ」・・・北島三郎「兄弟仁義」は今から約50年前の日本でミリオンセラーとなりました。多くの日本人が義兄弟という幻想に心を寄せていたのです。
炎鷹座長が炎舞版「河内十人斬り」をこの先ずっとお家芸としてかけ続けて行くことを強く願っています。
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2016年6月12日劇団炎舞浅草木馬館公演「河内十人斬り」カーテンコール


たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」

たつみ座長が中学生の頃までは劇団でやっていたそうです(たつみ座長の父親二代目小泉のぼるが弥五郎役)。永らくこの芝居を舞台にかけていなかったのが、2015年3月の三吉演芸場での小泉ダイヤ誕生日公演で復活しました。私はその誕生日公演と2016年8月の木馬館公演を観ました。
主な配役・・・谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男(2016大蔵祥)、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:葉山京香、やな:辰巳満月、愛媛県:辰巳小龍(二役)、鹿蔵・飴寅::嵐山瞳太郎(二役)、松永一家の身内:大蔵祥・小泉ライト・辰巳花
小泉版「河内十人斬り」は辰巳小龍演じるおかく婆あが絶品です。河内十人斬りの前半の影の主役はコメディリリーフも担うおかく婆あではないでしょうか。
体型は細身で腰の曲がった弱弱しそうなばあさんだが、その性格のどぎついこと。何より機関銃のように罵詈雑言をまくしたてる勢いが凄い。捨て台詞「このド甲斐性なしのガシンタレが」も最高。小龍さんはこの芝居をたてるにあたって町田康「告白」を読んだそう。あの小説の強烈なキャラクターにひけをとらない小龍さんのインパクトさすがです。
小泉版の構成の工夫のひとつは、オープニングで幕が上がると、紋付袴姿のダイヤ座長が現れて河内音頭を唄いだすところです。この演出はうれしい。思わず「エンヤコラセードッコイセ」と合いの手を入れたくなります。
十人斬りの場面は、父親の芝居では大量の血のりを使ったそうですが、たつみ版は「血が嫌いなお客さんもいるから」と血は使いませんでした。
金剛山に逃げ隠れている際に、少ない食料をお互い譲り合う場面を入れるなど、兄弟の情を強調した脚色となっていました。
最後は一緒に死のうとお互い差し違えますが、弥五郎の情愛が強調された演出だと思いました。
芝居全体の完成度は、言うまでもなく、さすがたつみ演劇BOXとうならせる高さでした。

炎鷹版もたつみ版も、金剛山で熊太郎らにこっそり食料を差し入れる愛媛県と呼ばれる村人と彼が面倒を見ている飴虎という青年と、やつらを見かけたらこれを吹けと笛を渡す役人が出てきて、他愛もない喜劇的場面が挿入されます。
「愛媛県」という名前の由来は何なのだろう?気になります。


劇団新の「新 河内十人斬り」

2017年3月5日、大島劇場で劇団新の「新 河内十人斬り」を観ました。
龍新座長の脚本演出の「新しい」河内十人斬りです。炎舞版、たつみ版ともに浪曲河内十人斬りを下敷きとしていますが、新版はそれによらないオリジナルな構成です。
大きな特徴は、熊太郎(龍錦)の父親(龍児)および弟(小龍優)が登場するところです。熊太郎の父は侠気を持ち男の意地を立てることに生きる美学を見出す親分肌の人物。この父親がいかにも大衆演劇という行動を起こします。弟は新版河内十人斬りの影のキーパーソン。河内十人斬りという演題は史実を元としているからどうしてもある問題点をはらんでしまう。10人も殺したのに最も殺したい人物(虎次郎、史実では寅吉)は討ち逃している点です。新版では独自の新解釈を加えることによって、この点に関する観客のモヤモヤ感を解消してくれています。ここに熊太郎の弟がかかわってくるのですが、詳細は見てのお楽しみということで・・・。
史実では熊太郎は十人斬りの前に自分の墓を建てています。新版はこれを巧みに取り入れていました。墓を建てるというのはもちろん死を覚悟したということを意味します。新版熊太郎は、弥五郎(龍新)を巻き添えにしたくない(死んでほしくない)と強く思っています。しかし弥五郎は、熊太郎とは一身同体、運命共同体だと思っていて、一緒に連れてってくれないのなら、ここで二人で死んでしまおうとまで言います。そして弥五郎は、熊太郎の墓に自分の名前を刻みます。これは名シーンでした。
また新版の熊太郎と弥五郎の関係は、兄弟分ではあるけれど「友情」に近い心情でつながっているように思えました。例えば弥五郎は熊太郎を「兄キ」とは呼ばずに「熊ちゃん」と呼びます。熊太郎と弥五郎が最後は心情的に深く結ばれることを望み、それがかなったという確信のもとに果てる、という点では他劇団版も新版も同じです。しかし、それが義兄弟からの純化か、友情からの純化かという点は似ているようで大きな違いがあると思います。昔からの大衆演劇では「義兄弟という共同幻想」を客も演者も持っていることを前提に作られていたでしょう。大衆演劇の新しい時代を開いてゆかなければならないと自負しているだろう龍新座長のセンスはその前提を見直してゆく必要を認めたのではないでしょうか。この友情ベースのドラマは若い方を含めて多くのお客さんに感動と共感を与えることができると思いました。友情ドラマのクライマックス、龍新座長演じる弥五郎の最期がこの芝居の一番の見所でした。
BGMに河内音頭を使用するのは必然としてそれに現代の若者の歌をつなげ、大胆な曲構成となっていました。ここにも若い座長ならではのセンスが光っていました。
龍新座長の力量に心地よくのれた芝居でした。しかし、まだまだ役者の力量的にも内容的にも進化の余地がたくさんあると思います。これから長い年月をかけてこの芝居が劇団新の中で育ってゆくことを楽しみにしています。


劇団花吹雪の「河内十人斬り」

2017年9月25日、浅草木馬館で劇団花吹雪の「河内十人斬り」を観ました。
基本的な物語設定は炎舞版と似ていますが、弥五郎が妹に会う場面と金剛山の山中で役人が熊太郎らを探す場面はありません。それでも約2時間の大作でした。若干の脚色により弥五郎の出番が多くなっています。(例えば、熊太郎が松永親分の家に借金を返しに行く際も弥五郎が同行する)
この弥五郎の描き方が他劇団とまるで違っていました。「殺す」が口癖。ほぼ殺人狂といって差し支えないでしょう。松永一家への襲撃にしても、兄貴分の熊太郎の悔しさを我が想いとして復讐の手助けを買って出る、というより自分の殺人趣味を満たすために熊太郎に起こったことを口実に行動しているように見えます。二人が金剛山へ逃げ込んだ場面では、他劇団では松永一家を良く思っていなかった村人がこっそり二人に食事の差し入れをしますが、花吹雪版では弥五郎が村人を脅して飯を奪いとります。また、他劇団では、二人は恨みのない村人には手を出そうとしませんが、花吹雪版の弥五郎は討ち逃した寅吉を殺すためには、邪魔をする村人も殺してしまえと意気込みます。このように弥五郎の非情さ・凶暴性が強調されています。
花吹雪版河内十人斬りの眼目は松永一家襲撃の場面でしょう。殺戮のシーンはリアルな演出で血もかなり出ます。弥五郎はものすごい迫力でぬいの母親のおかく婆あを殺します。熊太郎がおかくを殺すならわかるが、なんで弥五郎がおかく婆あにあそこまでの殺意を持てるのだろうか。ここまで書きますと、弥五郎はさぞ恐ろしい迫力の人物だろうと思われるでしょうが、ある場面では役人を相手にヘラヘラした軽い態度をとりノーテンキなヤンキーみたいになります。弥五郎の人間性を理解できませんでした。また、こんな人間が血のつながりもない兄弟分に堅い絆を持ちうるとは到底思えません。

あくまで私の勝手な感想ですが、花吹雪版の芝居は当初は熊太郎と弥五郎の絆が物語の幹としてあったが、一時的な笑いをとるために、弥五郎が誇張した言動(短絡的に殺すと言うなど)や軽薄な言動(他の登場人物をおちょくる)をするようにしてしまった結果、弥五郎の人物像がブレブレになってしまったのではないでしょうか。結局、弥五郎の人格の主幹を「凶暴さ」で形成したために、深みのない薄っぺらな登場人物になってしまいました。笑いをとる言動を入れてしまったために物語や人物像にブレが生じることは大衆演劇ではよくあります。しかしこのような大芝居の場合にはしっかりしたテーマを据えて、そのテーマを愚直に貫くことで大衆演劇らしい良い意味でクサく、見応えのある芝居にしてほしいと個人的には思います。刹那的にお客さんを楽しませることにはまさに大衆演劇らしさがあるでしょう。しかし、それが芝居に矛盾を生むことになれば、媚態のために芝居の芸術性を損ねている行為、と見ることもできると思います。

熊太郎、松永親分、おかく婆あは良かったです。しかし弥五郎の凶暴さと十人斬りの場面の凄惨さを強調したために、スプラッター映画のように楽しみ方が通常とは異なる芝居になりました。ある意味劇団花吹雪の挑戦とも言えます。他劇団とは違うアプローチで独自の見せ場を作ろうというもくろみはよいと思います。が、この演目に関しては、弥五郎の行動原理を整理して納得できるものにしないと、花吹雪版のアレンジは完成しないと思います。



小説 町田康「告白」

町田康先生の「告白」は河内十人斬りを題材とした長編小説です。史実および芸能の演目としての河内十人斬り(町田先生は浪曲がお好きです)どちらも内容に反映されています。
とにかく面白いです。心地よいです。すべてのページに天才町田先生の言葉のイリュージョンが散らばっています。人間描写のおかしさがたまらない。

主人公は城戸熊太郎で、熊太郎の少年時代から最後までを以下のような時間経過で描いています。(ネタばれ注意:小説の内容に少し言及しています)
・慶應3年(熊太郎10歳)
世の中には基準が複数あることを知り、大人が発する言葉に疑問を抱く。
・明治4~5年(熊太郎14~15歳)
葛城山の岩室で人を殺めてしまう。このことは熊太郎しか知らないが、以降このことが熊太郎の脳裏に暗い陰を落とす。
・明治14年(熊太郎24歳)
熊太郎は酒・博打と遊蕩に身を持ち崩す。賭場で少年谷弥五郎と出会う。村会議員松永伝次郎の息子松永熊次郎と出会う。村の女に惚れるが失恋する。
・明治24年(熊太郎34歳)
弥五郎と再会する。奈良の遊郭で寅吉に会い、つるむようになる。美しく成長した17歳のぬいに村中の若者が夢中になり熊太郎も惚れる。弥五郎の協力で熊太郎とぬいはよい仲になる。
・明治25年(熊太郎35歳)
とらが金を目当てに、ぬいを松永熊次郎に添わせようとするが、熊太郎は金で解決し、熊太郎とぬいは所帯を持つ。熊次郎は熊太郎に30円を借りる。寅吉とぬいの仲がよくなる。熊太郎、とらに養い料を請求される。熊太郎は熊次郎から金を返してもらおうとするが、熊次郎の計略に遭い受け取れない。熊太郎、伝次郎宅に行くがふくろだたきに遭う。
・明治26年(熊太郎36歳)
3月、熊太郎の傷が治る。弥五郎は浅井てると所帯をもとうとするが父親の浅井伝三郎に反対され、手切れ金100円を要求する。
5月、十人斬りの決行。金剛山中に逃げる。二人の最後。

河内音頭や浪曲で主に語られるストーリーに相当するのは小説の最後の1/4か1/5くらいです。この小説の大部分はそこに至るまでの熊太郎の遍歴が描かれています。といっても、史実に明らかにされていない部分をこうだったのではないかと史実補足する目的で書かれているのではなく、町田先生の妄想の翼が自由闊達にかけめぐるフィクションとして創作されています。
この小説の主人公熊太郎はあまりに思弁的なため、自分の感情を直接的に感じてそれを言動にダイレクトに反映させることができない。自らを説明するように客観視している自分が常に同居していて、その思考が渦巻く結果、自分の本音を見失っている。また、本音や直感に対して素直に生きているらしい周りの人々の思惑を慮ることができない。自分に素直に(悪事も含めて)生きている周りの人間の言動と熊太郎の言動とはことごとくフィットしない。その様子を、イキイキとした河内弁の台詞回しと飄逸な心情吐露を用いて描いている。これがこの小説の最大の魅力だと思います。だから河内十人斬りを描いた小説というより、思弁的すぎて思うように世間と渡り合えない男を描いた小説と言った方がよいでしょう。小説の最後の1/5は史実および河内音頭の河内十人斬りをなぞるような内容になっていて、それまでのユーモラスさはあまりありません。けれども、河内十人斬りに興味がある者にとっては、実に楽しめる内容になっています。


物語の舞台を訪ねて

小説「告白」には事件があった水分村界隈のさまざまな場所が描かれています。
2015年夏、物語の舞台を訪ねました。
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大阪唯一の村、千早赤阪村の水分に来ました。

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建水分(たけみまくり)神社境内。建水分神社は地元では通称水分(すいぶん)神社として親しまれています。
正面奥に建水分神社拝殿、右の鳥居は南木(なぎ)神社。

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建水分神社摂社の南木神社。楠木正成を祀ったお社です。
熊太郎が白く輝く正三角形が浮遊するのを見たのはこの鳥居の前の空中です。

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建水分神社の拝殿はこの階段の上。

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拝殿下の階段付近から見た境内。
前方右側にあるのが旧絵馬堂。熊太郎が森の子鬼と角力をとったのはこの前あたりだろうか。

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小説にたまにでてくる「牛滝堂」という場所に行ってみようと思いましたが、Googleマップでは表示されているものの、現場ではいったいどこなのかがわかりませんでした。

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小説にはでてきませんが建水分神社近くにある奉献塔も訪ねました。
楠木正成の没後六百年を記念して、昭和15年に建てられた記念塔です。

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奉献塔の近くから金剛山方面を眺める。

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熊太郎が森の子鬼を探しにいった御所(ごせ)方面へ向かいます。
進行方向に金剛山の山並みが見えます。

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奈良県御所市に入りました。
熊太郎も訪れた一言主(ひとことぬし)神社の参道です。願いごとを一言だけきいてくれる神様を祀っています。
小説では、ちょっと迷っている人の前に突然現れて一言言い放って去ってゆくという不気味な神様(笑)になってます。

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地元の方には「いちごんさん」として親しまれています。

一言主神社は葛城山の麓近くにあります。

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葛城岩橋図
葛城山には巨岩・奇岩があります。図には「胎内めぐり」として大きな岩の間から抜け出そうとしている人が描かれています。
葛城ドールの岩室も葛城山中のどこかにあったのでしょう。

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一言主神社から少し離れた道路に「蛇穴」という地名表示が見えました。「さらぎ」と読みます。
岩室の帰りに、大小数百以上の蛇が生きてぬるぬるおごめいている蛇穴に鹿造が落ちて発狂した場面を思い出します。
珍しい土地の名だなと思って地名事典で「蛇穴」を調べたら「例祭に蛇綱引汁掛祭が行われる。大蛇をかたどった蛇綱を造り境内に奉納、参拝する人々にワカメの味噌汁をかけた」と書いてありました。なんちゅう奇祭でしょうか。

小説の舞台を訪ねる旅は以上です。

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御所にある大衆演劇場「御所羅い舞座」で観劇して別の旅先へと向かいました。

■あとがき
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・京山幸枝若(初代、二代目)
・町田康
・小泉たつみ、小泉ダイヤ、辰巳小龍(たつみ演劇BOX)
私が大好きなそして尊敬している先生方です。先生方の豊かな表現を堪能すると、日本に生まれてきてよかったなあ、もう少し言えば、日本語を母国語とする国に生まれてきてよかったなあとわが身の幸運を祝福したくなります。
この先生方が皆同じ題材「河内十人斬り」を扱っているということで興味が募り、いろいろ調べたのを機に、このブログを作成いたしました。
「河内十人斬り」がもっと演芸ファンの人気を集め、浪曲でも大衆演劇でも多くかけられるようになればいいなあと願っております。

(2016年8月投稿)

青春18きっぷで清水に行って次郎長ゆかりの地をめぐる旅レポート

青春18きっぷで清水に行って次郎長ゆかりの地をめぐる旅レポート

2016年のお盆休み、青春18きっぷでの旅が好きな妻の発案で、静岡県の清水まで日帰り旅行をすることになりました。

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普通列車の長旅なので、旅の気分が満喫できる向かい合わせの窓際の席を確実に確保したい。そのために東海道線の始発駅である東京駅にまず移動しました。

6:07分東京発熱海行きの東海道線に乗り、熱海駅で静岡行きの東海道線に乗り換えて、9時08分に清水駅着。
参考までに、青春18きっぷを使うと1日の乗車運賃が2,370円、東京~清水のJR往復運賃は6,040円(新幹線を使うと11,000円以上)ですからだいぶお得です。

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駅前をちょっと歩くと、いかにも清水にきたなあと思わせる看板が目に入ります。

駅から次郎長ゆかりの地までは歩いて30~40分ぐらいのようなので、歩いてゆくことにします。

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清水次郎長の菩提寺、梅蔭禅寺(ばいいんぜんじ)に着きました。

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日本で唯一らしい次郎長の銅像があります。

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次郎長遺品館では、次郎長関係の遺品がたくさん陳列されています。中でも重要なのは山岡鉄舟が次郎長に贈った「精神満腹」の書です
ここでは侠客としての次郎長はあまり紹介されていません。次郎長と黒駒勝蔵との争いが終息する明治維新以降、特に山岡鉄舟に出会い改心した後の次郎長のエピソードがたくさん紹介されています。
次郎長の偉業の一部を挙げてみましょう。
・明治元年、損傷した幕軍の軍艦咸臨丸が清水港に避難していた際に、新政府軍の軍艦がこれを襲撃した。港には多くの死体が浮いて漁師が困っていたが、朝敵とされる兵士を祀ることは許されておらず、駿府藩は手出しできなかった。次郎長は「死ねば仏だ」と自らの責任において子分とともに遺骸を回収して葬り、壮士の墓を建てた
・明治7年から26年にかけて富士山麓の開墾をした。
・清水の旦那衆を説いて蒸気船三艘を作らせ静隆社という会社を設立した。
・横浜から教師を雇って英語塾を開設した。

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次郎長の墓。他に、大政、小政、石松、増川仙右ェ門、お蝶(一代~三代)の墓もあります。森の石松の墓は森町の大洞院や愛知県の洞雲寺にもありますが、ここにあるのは分骨して建立したもののようです。

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次郎長の墓に線香をお供えしました。

梅蔭禅寺で次郎長グッズを買い込み、次郎長生家へ。

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次郎長通り商店街

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商店街沿いに次郎長の生家がありました。

次郎長はこの場所で廻船業、高木三右衛門の次男として生まれました。名は長五郎。
その後、母親の弟で甲田屋という米穀商を営んでいる山本次郎八の養子となりました。
「次郎八のところの長五郎」が縮まって通称「次郎長」になりました。

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生家内部。かなり老朽化が激しく、2016年に改修工事を行うとのことでした。

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次郎長はこの井戸の水で産湯につかりました。

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キセル、煙草入れ等。

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次に清水港船宿記念館「末廣」を訪ねました。

明治19年、次郎長が67歳のときに、「末廣」という船宿を開業しました。その建物は次郎長の死後、売却され、さらに移築されました。平成11年にその部材が発見され平成13年にその部材を用いて「末廣」が復元され記念館となりました。

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次郎長は末廣の2階に英語塾を開きました。復元された末廣の2階にそれが再現されています。

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明治10年代の次郎長宅(左寄りの2階建ての家)
明治19年に末廣ができるまでこの家にいました。

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実際末廣があった場所は記念館よりも少し海側にありました。
その場所に平成11年に建てられた次郎長宅跡という碑があります。
次郎長はこの場所にあった末廣で亡くなりました。

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記念館から200mくらい離れた場所に「壮士の墓」がありました。

次郎長ゆかりの地めぐりは以上で終わりです。

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末廣の近くにエスパルスドリームプラザという賑やかな商業施設があります。

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ドリームプラザ内の「清水すし横丁」で寿司ランチ。

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水上バスを使って三保の松原に移動しました。写真は「羽衣の松」

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曇っていて残念ながら富士山は見えません。

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再びバスで移動し、清水駅近くの市場に行きました。
清水港はマグロの水揚げが日本一だそうです。マグロをウリにした食堂がいくつかあります。

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次郎長+マグロ=かし丸くん

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夕食はまぐろトロ三昧定食

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参考までに、市場→エスパルスドリームプラザ→三保→市場→・・・のように水上バスが走っています。
ただし水上バスの三保の発着所は三保の松原までは結構遠いです。

夕食後、清水駅から普通電車を乗り継いで帰宅しました。

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翌朝、次郎長生家の近くの和菓子屋さんで買った銘菓「次郎長笠」をいただきました。
直径15cmもあるジャンボどら焼きです。栗や求肥が入っていて美味しい。

普通電車に長く乗るのは疲れるかなと思っていたのですが、本を読んだりウトウトしたりしているうちにすぐ着いてしまった印象。
青春18きっぷを使えば結構気軽に行けるなと思いました。
今度は富士山がきれいに見えそうなときに行ってみたいと思います。

(2016年8月)

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)
2017.8.22最終更新(浪曲関係追記)


飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒は大衆演劇でおなじみの人物です。大衆演劇を観始めた頃の私は予備知識もなく、これらの人物がなぜよく芝居に登場するのかがわかりませんでした。
その後、関連する映画や浪曲などに触れるようになって、これらの話は実際の出来事が元になっており、「天保水滸伝」という名でかつての日本で人口に膾炙していた物語だと知りました。
そこで天保水滸伝について基本的なことをおさえておこうと思ったのですが、わかりやすくまとまっている文章がなかなか見つかりませんでした。
同じような思いをしている大衆演芸ファンが他にもいるのではないかと思い、私のわかる範囲で天保水滸伝についてまとめてみました。また、飯岡・笹川を訪ねた時の写真もあわせて掲載します。(飯岡・笹川・銚子の旅のブログはこちら



【もくじ】
    ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■主な人物
■場所
■時代
■なにが起こったか
助五郎と繁蔵/助五郎、岩井不動で闇討ちにあう/笹川の花会/繁蔵・富五郎の召し捕り状/繁蔵、助五郎宅を襲う/飯岡勢、笹川へ/飯岡方の惨敗、深喜の死/繁蔵の放浪、助五郎の入牢/笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす/勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
■人物伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒・平田深喜
■時代背景
飯岡・笹川の繁栄/なぜ博徒が多かったのか/関東取締出役(八州廻り)の設置/二足の草鞋

≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
■近世義侠伝
平手造酒/勢力富五郎/清滝佐吉/夏目新助/洲崎政吉/荒生留吉
■映画
座頭市
■講談
■浪曲
二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」
■大衆演劇
■長谷川伸作品と天保水滸伝
瞼の母/関の弥太っぺ



≪史実編≫


主な人物

【飯岡方】
・飯岡助五郎(いいおかすけごろう)
 …飯岡一家の親分
・洲崎の政吉(すのさきのまさきち)=永井の政吉
 …助五郎一の子分
・石渡孫治郎(いしわたりまごじろう)=三浦屋孫次郎
・堺屋与助(さかいやよすけ)
 …助五郎と妾の子
・成田の甚蔵(なりたのじんぞう)
 …政吉・孫次郎・与助・甚蔵が助五郎の四大子分である。

【笹川方】
・笹川繁蔵(ささがわしげぞう)
 …笹川一家の親分
・勢力富五郎(せいりきとみごろう)
 …本名柴田佐助 繁蔵一の子分
・清滝の佐吉(きよたきのさきち)
 …繁蔵の子分
・夏目の新助(なつめのしんすけ)
 …繁蔵の子分
・平田深喜(ひらたみき)/平手造酒(ひらてみき)
 …浪人。笹川一家の用心棒

【その他】
・銚子五郎蔵(ちょうしのごろぞう)
 …本名木村五郎蔵、十手を預かる銚子の大親分
・荒生の留吉(あらおいのとめきち)
 …助五郎の出入りを繁蔵に内通した




場所

舞台となったのは下総(現千葉県)の飯岡と笹川。
現在の地名では、飯岡は旭市、笹川は東庄(とうのしょう)町にあります。
利根川沿いに笹川、九十九里浜の東端に飯岡があります。
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時代

下の表は、飯岡助五郎・笹川繁蔵・勢力富五郎のそれぞれの生涯を棒グラフ状にして、彼らの生きた年代を示したものです。棒の下に書いてある数字は死んだ時の年齢です。助五郎は繁蔵より18歳年上ですが、繁蔵よりだいぶ長生きしました。
参考までに、大衆演劇でおなじみの国定忠治・清水次郎長・森の石松の生涯も並べてみました(石松は半架空の人物なので死んだ年のみわかるように表記しています)。大衆演劇の人気者はほぼ同時代に生きた人物でした。
平手造酒の生年は不明ですが、天保15年の飯岡・笹川の決闘により命を落とした際の検死記録では37,8歳と記されています。

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※勢力富五郎は生まれがもっと早く、死んだとき37歳だったという説もあります




なにが起こったか

天保水滸伝はどのような史実が元になっているのでしょうか。飯岡・笹川の一件にはさまざまな話が残されており、事実と作り話を区別することは困難です。でも事実がどうだったかを探求した方々による書籍はいくつかあります。それらを読み、大衆演芸において創作されたのであろうと思われる逸話を排除することに留意しつつ、私の思う史実をまとめてみました。

助五郎と繁蔵
飯岡助五郎は九十九里浜沿いの漁村飯岡の網元であると同時に一帯を仕切る博徒の親分。関東取締出役の道案内として十手を預かる身でもある。
笹川繁蔵は利根川の水運で栄える笹川河岸に住む売り出し中の親分。
助五郎、繁蔵ともに元相撲取り。気心が通じたのか二人は親密になり金を融通しあうなどしていた。十八歳上の助五郎は繁蔵の面倒をよくみた。
繁蔵は、助五郎と妾の間に生まれた長男堺屋与助に羽斗村次郎左衛門の娘お万(お政)を女房に世話した。

助五郎、岩井不動で闇討ちにあう
しかし博徒に勢力争いはつきもの。大親分となった助五郎と繁蔵との間に縄張りをめぐって緊張関係が生まれるようになった。そんな争点の一つに清滝村の岩井不動があった。この賭場は清滝の佐吉が父親から譲り受けたものとも言われている。ここの縁日で行われる博奕では莫大なテラ銭が入る。助五郎が勢力を広げるなか、若い佐吉には縄張りを維持する力がなく、岩井不動の賭場は自然と助五郎の縄張り下となった。清滝の佐吉は助五郎の対抗勢力の繁蔵の子分となった。清滝の隣村の万歳村に佐吉と同年代の佐助がいた。佐助は江戸に行き勢力富五郎という力士となったが、やがて故郷に戻り繁蔵一家に加わった。
ある日助五郎は、岩井不動で博奕をうった帰りに何者かに背中を斬られた。助五郎は田んぼの中に突っ伏したまま死んだふりをした。結局この闇討ちの下手人が誰かはわからなかったが、犯人は笹川方の佐吉か富五郎の身内に違いないと助五郎は睨んでいた。
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岩井滝不動(龍福寺)

笹川の花会
1842(天保13)年、諏訪明神の例祭日に、繁蔵は相撲の租野見宿彌命(のみのすくねのみこと)の碑を建てるという名目で花会(博奕の大会)を笹川の宿「十一屋」で開いた。
この花会の詳細はよくわかっていない(大衆芸能としては後述)。
元力士で相撲の興行権を持っている助五郎にはこれが気に入らなかったのかもしれない。助五郎は欠席し、名代として子分の洲崎の政吉が出席したと言われている。
この頃から助五郎と繁蔵の関係は険悪になっていったようである。
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 野見宿彌命の碑(笹川 諏訪大神)
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 博奕で使われた駒札(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)


繁蔵・富五郎の召し捕り状
1844(天保15)年、飯岡村が属する大田村三十五カ村寄場組合の申し出により関東取締出役から笹川繁蔵・勢力富五郎他の召し取りの御用状がくだされた。関東取締出役の道案内である助五郎が召し捕ることとなった。召し捕り状は8月3日に村役人に、8月4日に助五郎に渡った。助五郎は5日に召し捕りに向かうことにした。

繁蔵、助五郎宅を襲う
これを繁蔵と親しい荒生の留吉が知って繁蔵に知らせた。8月4日の深夜、繁蔵は富五郎ら4,5人を連れて先制攻撃を仕掛け助五郎の家を襲った。助五郎は指に軽傷を負ったが玉崎神社に逃げ込み無事であった。
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 飯岡 玉崎神社にある助五郎の碑

飯岡勢、笹川へ
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助五郎は5日、子分を集めて繁蔵の召し捕りに出立した。総勢22名(50名説もあり)。助五郎は、襲撃の後に繁蔵が銚子に向かったと考えた。7時頃銚子に向かって出発し、途中猿田村の源次郎の所で休息した。休んでいる間、源次郎が繁蔵の消息を調べたところ、銚子にはいなくて笹川に戻っていることがわかった。助五郎は松岸村まで行き、昼飯を食べてから舟で忍村へ移動し、子分の博多川のところへ寄った。助五郎らが夜半まで休息をとっている間、博多川が船頭を手配した。助五郎は腹ごしらえを済ますと舟で笹川に向かった。
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 笹川付近から見た利根川
助五郎が召し捕りに向かっているという知らせは繁蔵の耳にも入っていて、繁蔵と子分たちは槍などをそろえて周到に用意していた。数日前から笹川勢は拠点を西光寺に構えていたが、6日の早朝は延命寺や繁蔵の家にも子分がいた。
6日、船中の助五郎は夜明けを確認すると笹川河岸に舟をつけた。
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 現在の笹川漁港
河岸にいた見張りから助五郎踏込の知らせが笹川方にもたらされ、笹川一味は身を潜めた。飯岡方は「御上意、御上意」と叫びながら繁蔵宅に踏み込んだ。繁蔵宅で待ち構えていた者と延命寺に潜んでいた者(あわせて20人足らず)が飛び出して喧嘩が始まった。療養をしていた平田深喜も知らせを受けて現場へ駆けつけた。繁蔵と仲の良かった廻船問屋が屋根の上で爆竹を鳴らして「鉄砲だ」と叫び、飯岡方はひるんだ。笹川方には加勢も加わって、飯岡方はだんだんと劣勢となり退却を余儀なくされた。飯岡方は舟で野尻まで退却した。

飯岡方の惨敗、深喜の死
この召し捕り失敗で飯岡方は3人が即死した。助五郎一の子分、洲崎の政吉は退却途中の船中で死亡した。他に4名が負傷した。
笹川方は平田深喜が重傷を負ったのみであった。平手は十一か所も斬られていた。医者が手当したが翌日に息をひきとった。
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 平手造酒の墓(笹川 延命寺 昭和3年建立のもの)
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 墓には酒が手向けられている


繁蔵の放浪、助五郎の入牢
召し取りに失敗した助五郎が追手を回すに違いないと察した繁蔵は、子分たちに有り金を渡して逃げるよう指示して自身も放浪の旅にでた。繁蔵がどこに向かったのかはわかっていない。
助五郎は関東取締出役から召し取り失敗の責任を問われ牢屋に入れられた。
助五郎は釈放され再び十手を任される。

笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす
1847(弘化4)年、ほとぼりが冷めたとみた繁蔵は笹川に戻った。子分らが再び集まり、笹川方はかつての勢いを取り戻し始めた。
助五郎は前回の失敗があるので容易には繁蔵には手は出せない。息子与助の妻の父の岩井常右衛門に繁蔵の動向を報告させた。
7月4日の夜、繁蔵は博奕を終え、妻のお豊のところへ向かった。途中には小川が流れており、ビャク橋という橋がかかっている。繁蔵はここで待ち伏せしていた三浦孫次郎、堺屋与助、成田甚蔵に襲われて命を落とす。繁蔵の首は落とされ、胴体は利根川に流された。首は飯岡に持ち帰られた。
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 ビャク橋跡
この闇討ちは3人が無断で決行したものであり助五郎は知らなかった。正攻法で繁蔵を捕えようと考えていた助五郎は、子分が持ち帰った繁蔵の首を見て驚いた。助五郎はこのことを秘密にして繁蔵の首を定慶寺に埋めた
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 笹川繁蔵の首塚(飯岡 定慶寺)


勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
親分を失った笹川方は、一の子分勢力富五郎が跡目を継いだ。
この頃関東では博徒による悪行が横行し、無宿者を取り締まるお触書が通達されていた。富五郎は親分を抹殺した助五郎および関東取締出役を憎んでいた。鉄砲を武器に武闘派の一軍を結成してお上の権威に歯向い、助五郎の一味は悪逆非道を重ねた。
ついに1849(嘉永2)年3月8日、5名もの関東取締出役が動き、周辺76カ村の役人に勢力召捕の協力を求めた。5,600人もが集まり大捕物を展開したが、富五郎は逃げ隠れ、関東取締出役の鼻をあかした。
4月、新たな召捕作戦により富五郎は追い詰められてゆく。富五郎は小南村の金毘羅山に逃げ込んだ。4月28日、子分と2人となった富五郎は、お縄にかかるよりはと自決の道を選ぶ。ついに富五郎は鉄砲で自殺した。残ったわずかな子分、夏目の新助や清滝の佐吉らも捕えられて江戸送りとなり、小塚原で処刑され笹川方は全滅した。
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 金毘羅山
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 勢力富五郎自刃跡(笹川 金毘羅山)




人物伝


飯岡助五郎
1792(寛政4)年、相模国三浦郡公郷村山崎(現在の横須賀市三春町)という小さな漁村に生まれる。本姓は石渡(いしわた)。18才の頃、相撲取りを志願して江戸に渡り、綱ヶ崎を名乗るが、親方が死んでしまい、1年程度で廃業した。
その後上総国作田浜の網元のところで猟師として雇われる。頼りの網元が死んでしまい、漁夫仲間とともに飯岡に移る。仕事に精を出しつつも、ずぬけた腕力でヤクザ者を打ち負かす助五郎は兄貴と呼ばれるようになり、やがて船頭になった。漁夫は時化で休みのときは博奕に興じ、助五郎もこれに深くかかわった。博奕場で喧嘩が起これば仲裁して納め、助五郎は男としての貫禄をあげていった。
助五郎は網元半兵衛に見込まれてその娘すえと結婚した。また、助五郎は茶屋女のサイとも深い仲になり、サイとの間には与助という子供をもうけた。
飯岡は銚子の大親分五郎蔵の勢力圏にあった。漁業に精を出しながら博徒として売り出していた助五郎は五郎蔵の子分となり、代貸として賭場の取り締まりをまかされた。助五郎が30歳の頃、五郎蔵の縄張りのうちから飯岡を譲り受け、飯岡一帯の親分となった。
また、銚子の五郎蔵と同じく、関東取締出役の下で働く道案内人を任じられ、助五郎は二足草鞋の親分となった(年代は不明)。
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 五郎蔵と助五郎が寄進した大釜(銚子 円福寺)
漁業においては、義父の援助を受けて、生まれ故郷の名をとって三浦屋という網元を立ち上げた。助五郎は、漁業の三浦屋を本妻のすえに、博徒の仕事を妾のサイに任せ、二人のもとを往来した。
助五郎は飯岡の漁業の振興につくした。大規模の地引網には水夫が60~70人、浜で綱を引く岡者が200人必要であった。助五郎は、博奕や喧嘩が好きな気性の荒い水夫たちを束ね存在感を高めた。飯岡浜では海難事故が絶えなかった。事故が起これば残された家族は暮らしに困るし、数十人の命が奪われる大きな事故の場合は飯岡の漁業の危機となる。ある時助五郎は故郷の三浦半島に出向き、若い漁師を大勢引き連れて帰ってきた。未亡人には新しい亭主を引き合わせ、飯岡の漁業も救った。
幕府は娯楽について一切禁じていたが、相撲興行だけは認めていた。もと力士の助五郎は相撲に感心が強く、天保十一年に江戸相撲会所から相撲の興行権を得た。相撲の興行は収入面でも勢力誇示の面でも助五郎の存在を大きいものにした。
笹川繁蔵との一件の後、助五郎は一家を息子の堺屋与助に譲る。助五郎は68才で畳の上で大往生を遂げた。
大衆芸能においては繁蔵に対する「悪役」として描かれている。
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 飯岡助五郎の墓(飯岡 光台寺)


笹川繁蔵
本名は岩瀬。岩瀬家は代々、羽斗(はばかり)村で醤油と酢の醸造をしていたが、繁蔵の父は笹川河岸の繁栄をみて須賀山村に酢と醤油の蔵を建てて移り住んだ。繁蔵はここで生まれた。繁蔵は7歳の頃、漢学と剣法を学ぶ。体格の良い繁蔵は相撲を好むようになり、村の素人相撲では無敵となった。
笹川の諏訪明神に江戸相撲の千賀ノ浦が巡業に来ていて十一屋を宿にしていた。繁蔵は千賀ノ浦に入門し、諏訪ノ森を名乗った。力士は1年程で廃業し、繁蔵は江戸から故郷の笹川へ戻った。繁蔵は芝宿文吉親分の賭場に出入りをするようになる。男っぷりがよく度胸のある繁蔵は次第に若者達の親分格となってゆく。繁蔵は文吉の媒酌によって、賭場の会場となっていた家の娘豊子と夫婦となった。文吉親分は繁蔵を見込んで縄張りを譲り、自分は隠居した。繁蔵は親分となり、勢力富五郎、清滝の佐吉といった子分を従えて勢力を増していった。
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 繁蔵が使用していた合羽(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)

平手造酒・平田深喜
大衆芸能では有名な平手造酒。ですが実際の人物についてははっきりしておらず諸説もろもろあります。
浪士であったが笹川繁蔵の用心棒となり子分に剣術を教えるようになった。酒好きであった。労咳(結核)を患い、尼寺で療養生活を送っていた。天保15年の笹川VS飯岡の喧嘩の際に命を落とした。
…ということはどの説においても一致しているようです。
古文書には「平田深喜」と記されておりこちらが正しい名前のようですが、嘉永三年に天保水滸伝が講談で語られたときから大衆芸能では「平手造酒」と呼ばれています。

事実かどうかはさておき、一般的に認識されている平手造酒の人物像は、「江戸神田お玉ヶ池に道場を構える千葉周作の門下生で北辰一刀流の達人であったが、酒グセが悪く破門となって江戸を去り、浪人として下総に居たところ繁蔵に客人として迎えられた」というものです。また「白無地の単衣を着ている」というイメージもあるようで大衆演劇ではしばしばそのコスチュームで演じられます。

平手造酒は後世の人々によってさまざまなイメージで描かれた人物であり、むしろそれ故に天保水滸伝で一番魅力ある人物となっています。
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 作者不詳 昔の人が描いた平手造酒
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 東庄町制作のアニメ「天保水滸伝neo」の平手造酒




時代背景


天保水滸伝の史実はその時代背景を把握するとより理解が深まります。関連する出来事をまとめました。

飯岡・笹川の繁栄
九十九里での網漁(八手網や地引網)は紀州から伝わった。元和・寛永年間(1615~1644)には多くの関西漁民が9月から翌5月にかけて出稼ぎにやってきて主に八手(はちだ)網漁を行っていた。元禄期に関西漁民が撤退し地元漁民による地引網漁が台頭すると、天保にかけてさらに発達し、飯岡をはじめとして九十九里の地引網漁業は全国最大規模となった。
捕れた大量の鰯は干鰯(ほしか=鰯を食用とせず天日干しにした肥料)や〆粕(しめかす=鰯から魚油をとった残り粕の肥料)などに加工された。関西で木綿などの商品作物が発達すると干鰯・〆粕は金肥として重宝され、九十九里の干鰯は江戸、関宿や浦賀の問屋を介して飛ぶように売れた。利根川の河岸にはこれらを扱う問屋が現れた。
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飯岡漁港(刑部岬より)

江戸時代、年貢米は江戸に集中的に運ばれた。年貢米や物資の輸送には舟運が重要な役割を果たした(例えば、陸送だと2俵運ぶのに馬1頭に人ひとり必要だが、江戸後期に活躍した高瀬舟は大きいものでは1000俵近くを6人程度で運ぶことができた)。また海上航路は荒天による危険が伴うため安全な川を使った輸送ルートが発達した。関東の大きな川沿いにはいくつもの荷卸し場ができて河岸となった。
かつて東京湾に流れ出ていた利根川は、改流工事により、関宿の北で常陸川の上流に接続され銚子へ流れ出るようになった。1654(承応3)年に銚子~利根川~関宿~江戸川というルートで江戸へ搬送する舟運路が完成した。(その後、上流から運ばれる土砂の堆積により、川水の少ない季節は大型船の関宿通過が困難になり、利根川沿いの河岸と江戸川沿いの河岸を結ぶ街道が発達した)
利根川は江戸への流通経路としてますます重要となり、利根川沿いの河岸が発達した。笹川河岸も年貢米をはじめ物資の集積地として栄えた。

銚子は、奥州から江戸へ物資を運ぶ廻船の寄港地として、利根川高瀬舟への積替地として発展した。また銚子では江戸初期に関西から技法が伝わって醤油醸造が始まり、江戸の人口の増加に伴い発達した。醤油も利根川の水運を利用して江戸に運ばれた。繁蔵の父も醤油の醸造を生業としていた。
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 銚子の利根川河口付近

繁蔵・助五郎の生きた時代には飢饉が打ち続いていた。離村や潰れ百姓の増加によって、農村の人口は減った。
飢饉が続く時代でありながら、河岸として賑わう笹川と漁業が盛況な飯岡は経済的にも余裕があり、人の流入も多かった。

なぜ博徒が多かったのか
近世の社会では、盗みや博奕を行う悪者は村内で処理することが一般的だった。幕府による「法度(はっと:禁令)」とあわせて独自の「村掟」が存在しており、村内の問題は村で解決し、盗人が領主に引き渡されることは少なかった。
しかし近世後期になると、まじめに働くことを嫌い、村社会から逸脱する者が増えてくる。村の制度・秩序では手に負えない者は、連帯責任制度から外すために親親族とは縁切りとなり、人別帳(にんべつちょう:戸籍謄本のようなもの)から外され「無宿者」となった。(素行の悪い者は目印として人別帳に札が付けられていた。それが「札付き」の語源である)
村民に暮らしの余裕がでてくると、博奕や村芝居などの遊び心がさかんになる。これにつれて無宿者・博徒も横行する。逆にいうと無宿者は人の多いところに集まる。笹川など賑わった河岸には無宿者が底辺労働者として出入りしていた。

関東地方は一つの村を複数の領主が支配していることが多く、幕府領「御領」、大名領「領分」、旗本領「知行所」、与力・同心(奉行所などで治安維持につとめる役人)領「給地」、寺社領などが錯綜していた。飯岡村は旗本と与力が支配していた。
無宿者・博徒は悪さをすると他の領地へ逃げてしまう。他の領地へ逃げてしまった者を捕らえるにはその土地の領主に照会しなければならない。そうしているうちに悪者はまた逃げてしまう。
領主としては、働き手の村民が、遊びを覚えて無宿者の仲間入りをしてしまうことをなによりも恐れていた。しかし村で手に負えない無宿者や博徒を領主の役人が捕縛するには上記のように困難が伴った。
領主の力では治安を維持することが困難になると、ますます博徒が跋扈するようになり、関東地方の治安は大変悪くなった。

関東取締出役(八州廻り)の設
幕府は、領主の支配を越えて博徒を取り締まることのできる役人の必要を認め、1805(文化2)年に「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を創設し、八名が任命された。二人一組で関八州(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡回したことから「八州廻り(はっしゅうまわり)」とも呼ばれた。
しかし関八州という広大な土地を取り締まるにはこれではあまりに不十分で(そもそも八州廻りはたいした武力を持っていない)、無宿・博徒の活動はおさまらない。また、出役が悪者を捕えると囚人番は村が行わねばならず、その人手と費用の負担も大きな問題となっていた。
幕府は1827(文政10)年に関東全域に「改革組合村」の結成を命じた。数カ村を集めて「小組合」をつくり運営人「小惣代」をおく。小組合を集めて数カ村が集まる「大組合」をつくり「大惣代」をおく。この組合の中心となる村を「寄場(よせば)」と呼び、寄場役人をおく。この組合村が関東取締出役の活動に全面的に協力し、悪人逮捕・預りの費用も組合村が負担するかたちとなった。
飯岡村は太田村を寄場とする三十五ケ村からなる組合に入っていた。

二足の草鞋
関東取締出役の廻村が決まると組合は、地理がわからない出役の活動をたすける「道案内」を選出する。道案内は、手配者を探索するばかりでなく、実際の召し捕りや護送も行う。
八州廻りが遠い土地で警察活動を行うには地元の有力者の力を借りざるを得ない。蛇の道はへびで、力のある博徒が道案内に任命されることが多かった。助五郎も土地の顔役として出役の道案内を任された。
博奕を行った者を取り締まるのが博徒、という考えられない状況が生じた。大衆演芸においては、道案内のこのような矛盾した立場は(多くは否定的な意味合いを込めて)「二足の草鞋(わらじ)を履く」と表現されている。(与力・同心等役人の手先となって取り締まりをたすける者に「目明し」(自分の罪を見逃してもらうかわりに犯人検挙を手助けする者)や「岡っ引」がいるが、目明しも博徒、つまり<二足の草鞋を履く者>であること多かった。なお、助五郎は銚子の五郎蔵と同じく銚子の飯沼陣屋から十手取縄を預かっていたといわれている)
性悪な者が「お上の御用」の権威をきたらどうなるか。当然不正をはたらく。
例えば国定忠治が活躍した頃の上州にはそうした記録がたくさん残っている。身に覚えのある者は道案内に金を渡して見逃してもらう。道案内がさまざまなトラブルに介入しては御用の風を吹かせつつ難癖をつけて金をせびりとる。賄賂を差し出した者には出役の廻村の際に逃亡の手助けをする。自ら博奕場を開いて胴元として寺銭を手中にする。役人の手下となってそんな横暴なふるまいをする者もいて村人も困っていた。忠治が長い年月捕まらなかったのも私欲にまみれた役人の手先を買収していたからである。
悪いのは道案内だけではない。道案内の横暴がまかり通るのも取締出役との癒着があったからである。関東取締出役の給料はそれほど高くなく多くの者が賄賂になびいていた。天保10年には関東取締出役13名と火付盗賊改5人が不正を摘発され処罰を受けている。
助五郎のいた下総はどうであったのか。助五郎と繁蔵との間に不和が生じた際にその仲介に努めたという松岸村の茗荷屋半次が、関東取締出役のいいつけで女の世話をしたという話は残っている。
助五郎には道案内としての悪い逸話や記録はみあたらない。「天保水滸伝」中の一番大きな出来事といえば、助五郎が関東取締出役の召し捕り状を受け取って繁蔵のいる笹川に乗り込むところである。古文書によればこの召し捕り状は、大田村ほか35か村からの訴えを受けて出されたようである。召し取り状が出されるに至った背景にはこの訴えの他に繁蔵への私怨を持つ助五郎の力はたらいていたのかどうか。それはまったくわからない。



≪天保水滸伝編≫


「天保水滸伝」の誕生

飯岡と笹川の争いを「天保水滸伝」として世に伝えたのは江戸の講釈師宝井琴凌(たからいきんりょう=三代目宝井馬琴)です。講釈師というのは現代的に言えば講談の演者で、「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳がありますが(この川柳は初代馬琴の作だそうです)、各地で庶民にうけそうなネタを収集しては、おもしろくアレンジして口演していました。
勢力富五郎が死んで一連の事件に決着がついたのが嘉永二年(1849)です。その頃下総を旅していた宝井琴凌がこの事件を知って、翌嘉永三年に「天保水滸伝」として江戸で発表しました。

その後天保水滸伝は錦絵や絵草子となって世間に広まりました。
特に、飯岡勢の笹川への乗り込みは、笹川の利根川の河原で大喧嘩が行われたと語れれ、「大利根河原の決闘」として物語の大きな見所だったようです。

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大利根河原の決闘を描いた「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(1864年 芳虎画/船橋市西図書館蔵)東庄町HPより転載)




近世義侠伝

近世義侠伝は1917(大正6)年に図画刊行会錦絵部から発行されたもので、浮世絵師芳年(1839~1892)が版画で描いた天保水滸伝中の人物36名に講談風の紹介文章が添えられています。大正に書かれたこの義侠伝を伊藤實氏が現代語に訳して「平成版近世義侠伝」として発表しています。
ここでは36名のうち大衆演芸によく登場する6人をピックアップして、紹介文章の内容を要約しておきます。
なお、この36名の中に、繁蔵を討ち取ったとされている助五郎の子分三浦屋孫次郎・堺屋与助・成田の甚蔵はいません。

平手造酒
剣の達人であったが酒のために身を持ちくずし浪人になった。下総銚子への移動の途中に金がつきたとこを笹川繁蔵に助けられ食客となった。
鹿島の祭礼に勢力富五郎と出かけたが、酒楼で酒を飲んでいるときに土浦の剣客高島剛太夫と諍いが生じた。造酒は剛太夫を討ち取って、その子分も富五郎とともに追い散らした。以降造酒は富五郎から酒を戒められた。
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平手塚(笹川 S41建立) 

勢力富五郎
繁蔵が諏訪神社に野見宿祢の石碑を建てた日に境内で相撲大会が行われた。その日は助五郎の子分はことごとく負けてしまった。次の日飯岡方は仕返しに相撲が強い者を連れてきた。中でも神楽獅子の大八は笹川方を7人投げ飛ばした。それを見かねた勢力富五郎は土俵に上がって、見事大八を砂に埋めた。
繁蔵が飯岡方に殺されてから、富五郎は仇を討つべく助五郎をつけ狙っていた。しかし、逆に自分の身があやうくなり、金毘羅山に隠れているところを医者に密告され、役人手先五百余人に取り囲まれた。味方二十余人と防戦したが、もうこれまでと思い、富五郎は鉄砲を喉にあてて自殺した。
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清滝佐吉
清滝生まれの佐吉は銚子の醤油屋で職人をしていて、そこの女中お常とできてしまった。お常には許嫁がいたが、二人は駆け落ちした。お常の父の頼みがあり助五郎が動いて二人をつきとめた。お常は連れ戻され、助五郎は佐吉に手切金を渡した。手切金の少なさに不満のある佐吉は、夏目の新助の紹介で繁蔵の子分になり、繁蔵に仕返しを頼んだ。繁蔵は、江戸にいたお常を探しだして連れ戻し、許嫁には手切金を渡して、お常を佐吉の女房にした。
佐吉は繁蔵の無二の子分となるが、繁蔵が死んでからは富五郎と仲が悪くなった。助五郎への復讐をもくろんだが、逆に飯岡方の計略にあって役人に捕えられ、小塚原で夏目の新助、羽計の勇吉とともに処刑された。
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清滝佐吉伝承碑(旭市清滝地区) 
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佐吉まんじゅう 


夏目の新助
性格が温厚で義理に強い人物だった。清滝の佐吉と親しく、不仲の佐吉と富五郎を仲なおりさせようとしていた。
富五郎が飯岡に斬り込みに行った際、そのことが助五郎にはばれていて、待ち構えていた飯岡方の反撃にあって悪戦苦闘していた。そこへ夏目の新助が羽計の勇吉らを連れて駆けつけ加勢した。
翌日、清滝の佐吉が飯岡に斬り込みに行ったがやはり苦戦した。新助は佐吉と勇吉を助け出した。

洲崎政吉
ある日繁蔵が富五郎をはじめ5.6人の子分を連れて飯岡にやってきた。助五郎の子分は騒ぎ立てたが助五郎は、喧嘩をしかけに来たのだろうが相手にするなと子分をなだめた。助五郎の右腕の政吉は自分にまかせてくれと一人で外に出た。政吉は家の出入口にあった大碇を片手で持って肩にかけ、海辺に行くふりをして繁蔵とすれ違いにっこり丁寧に挨拶をした。重い大碇を肩にかけながらの丁寧な挨拶に繁蔵は感心して、この日は何事も起らなかった。
飯岡・笹川の大喧嘩の際に奮戦の末亡くなった。28歳だった。
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荒生の留吉
長指(ながざし)の権次の子分。用事があって東金に行った帰りに海岸で重たい財布を拾った。飯岡の三河屋の手代が集金の帰りに落とした財布を探して歩いていたが、その後ろには死神がついていた。留吉は死神を退治して財布を手代に返した。それがきっかけで三河屋が後ろだてとなって留吉は金貸し業を始めて裕福に暮らした。
留吉は兄貴分の風窓の半次との関係がもつれたが助五郎が仲裁にはいって納まった。しかし留吉は助五郎に恨みを持つようになり、助五郎が笹川へ向かう際に繁蔵に内通した。




映画

関連する映画も多く製作されました。東庄町観光会館には「天保水滸伝関連映画(戦前・戦後)」という表が掲示してあって、戦前に34作、戦後にも34作の映画のタイトルが記載されています。戦前映画でみるとタイトルに一番名前がでてくるのが勢力富五郎で9作、次が平手造酒で8作となっています。昔は勢力富五郎が人気のキャラクターであったことがうかがわれ興味深いです。戦後も1965年頃まではひっきりなしに、多い年には年に5本も製作されています。戦後の表には「座頭市物語」が3作載っています。

座頭市
昔、「市」という風来坊の人物が飯岡にやってきて、助五郎の子分のようなことをやっていた。市は目が見えなかったが、枡を放り投げて落ちてくるところを斬るという芸当はできた。若い娘といっしょになってしばらく飯岡に滞在していたが、助五郎のことが嫌になってこの土地を去った。

「遊侠奇談」の作者子母澤寛が、天保水滸伝のことを調べに飯岡を訪れた際、宿屋のおやじからこの話をききました。これをヒントにして子母澤寛が「座頭市」の話を作り、それが映画化されて人気となりました。
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座頭市物語発祥の地の標柱(飯岡 玉崎神社前) 
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座頭市物語の碑(飯岡)
東日本大震災で津波が飯岡を襲ったとき、この碑につかまって助かった方がいたとのことです。




講談

もともと講談から始まった天保水滸伝ですが、その後現代に至るまでどのように語られてきたのか私には知識がありません。以下は私の体験をもとに記します。

◆2014年5月3日~6日にお江戸日本橋亭で行われた、GW特別番組4日連続俥読み「天保水滸伝」 に行きました。その内容をご紹介します。

「相撲の啖呵」神田松之丞…繁蔵の話。相撲時代~十一屋の跡目を継ぐ
「鹿島の棒祭」神田春陽…平手造酒の話。千葉道場を去る~繁蔵の客人になる~鹿島の棒祭りでの喧嘩
「ボロ忠売り出し」神田松之丞…天保水滸伝とは関係なし(「笹川の花会」に、花会の後見役親分としてちょこっとでてくる忠吉の話)
「笹川の花会」神田春陽…大衆演劇の「笹川の花会」とほぼ同じ内容
「潮来の遊び」神田松之丞…留吉の息子留次郎の話。落語の「明烏」のような内容。
「平手造酒の最期」神田春陽…主に平手造酒の話。尼寺(妙円寺)での療養~喧嘩で死ぬ
「三浦屋孫次郎の義侠」神田松之丞…討ち取った繁蔵の首を無下に扱う助五郎に憤りを感じた孫次郎が助五郎との縁を切って笹川へ首を持って行く。
「天保水滸伝外伝 忠太郎月夜唄」神田春陽…長谷川伸「瞼の母」の第一場「金町瓦焼の家」のアレンジ

以上一日二席、全部で八席。外伝は春陽作であとは神田愛山先生の持ちネタ。笹川の花会以外は愛山先生から習ったとのことです。
神田松之丞の凄みをきかせた啖呵がカッコイイ。ド迫力の一席の後、神田春陽が軽妙なマクラで場の雰囲気を和らげて本題に入るというパターン。(本題と全く関係のないと思われた連続マクラが最終日に「日ノ出町にある長谷川伸の碑」で本題とつながる。マクラの内容は伏せます)

個人的には以下のエピソードが印象に残りました。
・平手造酒が下総を目指したのは飯岡助五郎の用心棒になろうと思ったから。
・平手造酒は、助五郎より繁蔵の方が力が弱いことを知り、繁蔵の味方になることを決める。
・留吉は房総では名の知れた大親分だったが今がかたぎになって商売をしている。
・助五郎の笹川入りを繁蔵方に密通したのは勢力富五郎に恩がある留次郎。
・繁蔵を闇討ちにしたのは成田の甚蔵と三浦屋孫次郎の二人で、首のない繁蔵の体はその場にうち捨てられていたのを繁蔵の子分が見つけた。
・勢力富五郎、清滝の佐吉らは助五郎方に殴り込みに行く。

「三浦屋孫次郎の義侠」は大衆演劇の演目「三浦屋孫次郎」と同じく、助五郎が繁蔵の首に唾をかけたり首を放り投げたりします。この話はいかにも、話を面白くするために助五郎を悪くでっちあげた感があり私はあまり好きではありません。

初日は東庄町が作成した天保水滸伝のパンフレットと笹川繁蔵の年表が配付されました。東庄町のパンフは天保水滸伝の概要がわかりやすくコンパクトにまとめられていると思います(ちょっと内容が笹川よりに思いますが)。
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たいへん楽しい連続読みでした。やっぱり天保水滸伝は講談で楽しむものだ、という気さえしました。
特に神田松之丞のやくざの啖呵が印象的でした。

◆2015年1月7日にお江戸日本橋亭で「天保水滸伝車読みの会」が行われました。
講談2席、浪曲2席という楽しい趣向の車読みです。浪曲は講談の釈台の前に座っての口演。

講談「相撲の啖呵」神田松之丞
浪曲「鹿島の棒祭り」玉川太福 曲師沢村豊子
浪曲「平手造酒の最期(平手の駆け付け)」玉川奈々福 曲師沢村豊子
講談「三浦屋孫次郎の義侠」神田愛山

昨年リニューアルされたばかりの東庄町作成の天保水滸伝パンフレットが配布されました。
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私は松之丞さんの話にどっぷりひき込まれました。
奈々福さんの平手造酒の最期の場面も印象的でした。

◆2015年1月17日 松之丞ひとり会 於:赤坂峰村
「相撲の啖呵」「平手の破門」「鹿島の棒祭り」「三浦屋孫次郎の義侠」他平手造酒の話
平手造酒が死罪となった死体の右腕を斬り落としていたずらするくだりがある。これは岡部菊外という生涯に81人を斬った男のエピソードを講談師が天保水滸伝に取り入れたのではないかという説が子母澤寛「游侠奇談」に書いてある。
大利根河原の決闘に駆け付けた平手造酒に、ある飯岡助五郎の手下がいっとう最初に斬り込んだ。が、返り討ちにあい、小指と薬指を切り落とされてしまう。それから時を経て、ある講釈師が天保水滸伝を読んだところ、講釈場に今は老人となったその男がやってきて、自分は平手造酒の相手をしたのだと云って手を見せた。そんな伝説が講談界で伝わっているそう。

◆2016年6月4日 神田松之丞 ひとり天保水滸伝 於:紀尾井ホール
昼の部「相撲の啖呵」「ボロ忠売り出し」「笹川の花会」、夜の部「鹿島の棒祭り」「潮来の遊び」「三浦屋孫次郎の義侠」他
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昼夜大入り。演芸にしてはかなり立派なリーフレットが配布されました。登場人物紹介や松之丞さんの写真などが掲載されています。




浪曲

明治末期から大正にかけて庶民の人気を得るようになった浪曲(浪花節)は昭和の前期には黄金期を迎えました。昭和初期は侠客ものが多くかけられていて、作家の正岡容(まさおかいるる)が「天保水滸伝」を浪曲に仕立てました。昭和6年に玉川勝太郎を襲名した二代目勝太郎がこれを演じて一世を風靡しました。
正岡容による「天保水滸伝」の浪曲作品は20編近くあったようです。現代では玉川一門がお家芸としてその一部を演じています。
天保水滸伝をネット検索すると、『利根の川風袂に入れて 月に棹さす高瀬舟』という浪曲の一節は有名である、というような文言を目にします。
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 浪曲好きだった田中角栄が総理大臣のときに書いた天保水滸伝の節(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)

ここでは、二代目玉川福太郎(2007年に事故死してしまいました)のCD「徹底天保水滸伝」から、浪曲で語られている天保水滸伝をご紹介します。

『繁蔵売り出す』
繁蔵と助五郎が出会ったのは銚子の五郎蔵の屋敷。助五郎が屋敷にいるときに、繁蔵が身内にしてほしいと訪ねてきた。
繁蔵は江戸相撲で人気力士であったが、それが気に食わない他の力士とのトラブルがもとで、相撲を続けることができなくなった。といって故郷に帰るわけにもゆかず男の道で生きてゆこうと決めた。事情をきいた五郎蔵は繁蔵を身内にする。
3年やくざ稼業に繁蔵のもとに、五郎蔵の兄弟分やぶさめの仁蔵が繁蔵に後を譲りたいと、繁蔵を十一屋に呼び出した・・・


『平手と繁蔵の出会い』
北辰一刀流の道場千葉周作先生に破門となった平手造酒。恋仲のおえんと、おえんの故郷の下総へ。利根川べりの粗末な家に暮らす。
祭囃子に誘われて、諏訪明神の祭を見物にきた造酒とおえん。境内の土俵では素人相撲が行われている。土俵上では、飯岡助五郎の子分で元江戸相撲の神楽獅子大五郎が次から次へと相手を負かして、もう相手をする者がいない。そこへ繁蔵の子分、清滝の佐吉が勢力富五郎にそそのかされて、土俵に上がった。おえんは休み所でそれを見ている。おえんと幼馴染の繁蔵も、おえんが居るとは知らずに祭りに来ている。
多くの見物人が見守るなか神楽獅子大五郎と清滝の佐吉との取組が始まる・・・
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 諏訪大神にある土俵

『鹿島の棒祭り』
鹿島神宮の祭礼、鹿島の棒祭りはこの土地の名物行事。平手造酒はこの祭を楽しみにしていたが、造酒の酒ぐせの悪いことを知っている繁蔵は、祭で酒を飲んで失敗をしてはいけないと、造酒に留守番を頼む。祭の3日間禁酒することを約束して造酒は勢力富五郎と鹿島神宮に向かった。
祭の3日目。1日2升の酒を吞む平手造酒、2日酒を断って顔色が悪い。心配した勢力は造酒に甘酒を飲んではと店を案内する。
甘酒ではなく酒を飲んでしまった平手造酒。いかんいかん、この一杯で終わりにしようと、湯呑みの中の最後の酒をじっと眺めて別れを惜しんでいる。
そこへ飯岡助五郎の子分3人が店に入ってきてばたばたと服の埃をはたいた。その埃が、造酒が眺めている湯呑みの中に入ってしまって・・・

『笹川の花会』
後述の大衆演劇のあらすじとほぼ一緒なので省略します。

『蛇園村の斬り込み』
小見川の川料理村田屋の奥座敷。繁蔵と子分の夏目の新助とが話をしているのは、今日江戸送りになった名垂(なだれ)の岩松のことである。岩松は繁蔵の子分になって10年、念仏ばかり唱えていた。実は岩松には旧悪があって、雨傘の勘次を名乗っていた10年前に甲州で人を殺して金を奪ったことがある。それが改心して繁蔵のもとでは念仏ばかり唱えていた。なのに、今になってなぜ10年前の兇状がばれたのか、繁蔵はくやしくてならない。
実はこのことをばらしたのは助五郎の身内の甲州者であった。人殺しを匿えば同罪。助五郎は、岩松と同時に繁蔵も捕えさせようと役人に訴人したのだ。けれども繁蔵は農民救済の花会の一件があったからお目こぼしがあって捕えられなかった。
それを知った繁蔵の胸のうちに助五郎への憎しみが湧きあがる。
月夜の晩、繁蔵は平手造酒・勢力富五郎ら十数人を従えて助五郎斬り込みに向かう。
助五郎は蛇園(へびぞの)村の別宅で月を肴に吞んでいる。
繁蔵はその屋敷に押し入った・・・

『平手の駆けつけ』
繁蔵の用心棒平手造酒が病にかかり養生している。その情報を入手した助五郎は繁蔵一家皆殺しを企てる。
助五郎の子分が武器を調達しようと荒生の留吉の家へ槍を借りに来た。留吉の息子の留次郎は、助五郎が笹川に喧嘩に行くことを知って、すぐにそれを笹川方へ知らせた。実は笹川方の清滝の佐吉は留次郎にとって大恩人なのである。
助五郎は300名の軍勢を従え高瀬舟3艘で利根川を笹川へ向かった。
平手造酒が静養している尼寺。笹川の方が騒がしい。事の次第をさとった造酒は、尼僧が止めるのを振り切って月明かりを笹川土手へ駆けつける・・・

以上二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」でした。
玉川のお家芸「天保水滸伝」は、
二代目玉川勝太郎~三代目玉川勝太郎~二代目玉川福太郎~玉川奈々福・玉川太福、と現代に受け継がれております。

『飯岡助五郎の義侠』
2016年8月玉川奈々福さんが天保水滸伝の新作を発表しました。
飯岡で大海難事故が起き漁夫が全滅しかけた際に助五郎が故郷の三浦から男を集めてきて飯岡の漁業を復興させたエピソードを中心に、伊藤桂一の小説を下敷きにして浪曲に仕立てました。
それまで浪曲では悪役一辺倒だった助五郎が、情と度胸のある魅力的な男として描かれています。特に、助五郎が岩井滝不動の賭場に目をつけたのは、単に強欲だったわけではなく、飯岡を救うために拵えた莫大な借金を返すための苦肉の策だったとしているところが肝で、助五郎の義侠が繁蔵との抗争に発展したという流れを従来の浪曲のストーリーの文脈に追加した点で意義のある作品だと思います。
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以下は2014年7月以降の浪曲天保水滸伝の私の体験記です。

◆2014年7月5日、「奈々福・太福のガチンコ!浪曲勝負 天保水滸伝の巻」という、浪曲天保水滸伝の今に触れることのできる公演に行きました。
太福「鹿島の棒祭り」、天保水滸伝にまつわるトーク、奈々福「平手造酒の最期」(=平手の駆けつけ)という内容。
入門したばかりの太福さんが初めて福太郎師匠の仕事のお伴をした栃木の公演場所で、師匠が「平手の駆けつけ」を演じ、奈々福さんはその凄さに圧倒された、それから間もなくして福太郎師匠は亡くなってしまった。
玉川一門の教えのいいところは、師匠の芸をそっくりそのまま受け継ぐだけではよしとせず、師匠の芸を受け継いだうえで自分なりの新しい芸をつくりあげることを目指している(一人一芸という)ところにある。
二代目福太郎師匠はその師匠三代目勝太郎が現役で活動していた頃は天保水滸伝をほとんどかけなかった。勝太郎師匠が亡くなってから、二代目福太郎師匠は独自の天保水滸伝をつくりあげていった。その途上で亡くなってしまったのは本当に残念でならない。
という話が印象的でした。
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二代目福太郎師匠のテーブルかけ

これから先どのような浪曲天保水滸伝が生まれるのか楽しみです。

◆2015年3月7日~8日「天保水滸伝の里めぐり」ツアーが開催されました。
浪曲師2名(玉川奈々福、玉川太福)、曲師1名(玉川みね子)と浪曲ファン30名が笹川、飯岡を中心に天保水滸伝関係の史跡をめぐるという旅です。
奈々福さんの念願であったこのツアーは東庄町の企画によって実現し、史跡めぐりには笹川・清滝・飯岡の現地ボランティアの方もご協力くださいました。
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東京からはとバスで移動

【1日目】
・香取神宮
・昼食(笹川 たなか庵)
・笹川 天保水滸伝の里めぐり(天保水滸伝遺品館、諏訪神社、延命寺、十一屋ほか)
・いちご狩り(高橋いちご園)
・浪曲会(笹川 鯉屋旅館)
 1「鹿島の棒祭り」太福 みね子
 2「平手造酒の最期」奈々福 みね子
・夕食会、懇談会
【2日目】
・清滝佐吉伝承碑
・座頭市物語の碑
・玉崎神社
・飯岡刑部岬展望館
・昼食(銚子 ウオッセ21)
・鹿島神宮

1日目の夜は、浪曲会には約100名、夕食会には約30名の地元の方がご参加されました。なんと町長もご出席されていました。
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イベントと夕食会が行われた鯉屋旅館の歓迎札
「浪曲でまちおこし 天保水滸伝 様御一行」


ご案内くださった大勢の地元の方がみな良い方でみな天保水滸伝という物語を愛している。このツアーは史跡めぐりの旅というだけでなく天保水滸伝に育まれた地元愛に触れる旅でもありました。
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観光会館に貼ってあった貼り紙
離れた場所に住む人々が同じ夢を見ているかのように、天保水滸伝の世界が東京と東庄町の人々を包んでいる。そんな
淡い仲間意識がそっと胸に沁みてなんとなく嬉しい気分になる。
素敵な旅だ。このツアーがこれからも続くといいな。

天保水滸伝だけでなく東庄町のうまいもんも楽しむ旅でした。
特産のポーク、ブランドこかぶ「ホワイトボール」、いちご、、、旅館の料理も含めて何もかも旨い。
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アイベリー

合宿の夜といえば、誰かの部屋に集まって語りと酒。これも楽しい思い出。
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笹川の酒屋の入口扉の貼り紙「清酒 笹川繁蔵 有ります」

最後の訪問地は鹿島神宮。折しも「鹿島の棒祭り」(祭頭祭)の前日でした。昨晩の浪曲の余韻を楽しむ一行。
鹿島神宮の茶店には、タコの足を肴として持ち込み酒と甘酒を前にしてやたらテンションが上がっている、店員さんからは奇態に見えたであろう一群がありました。

◆2016年3月26日「天保水滸伝の里めぐりモニターツアー」が開催されました。
昨年に引き続きの開催ですが、今回は日帰りです。同行するのはもちろん、このツアーの発起人玉川奈々福さん。そして沢村豊子師匠と弟子の美舟さん。
天保水滸伝遺品館見学の後、土善旅館で昼食。誰が買ったか清酒「笹川繁蔵」「平手造酒」がテーブルを行き来する。これはうまいと、食事の後清酒を求める人が多数。地元の世話人の方が希望者の分の清酒を集めてきてくださいました。
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今回の目玉は岩井滝不動(龍福寺)での浪曲口演!
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笹川繁蔵と飯岡助五郎がともに手に入れようとして衝突の発端となった賭場がここにありました。
浪曲の後は本堂で護摩祈祷。

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帰りのバスの中で、東庄町手話教室の方が作った「手話で天保水滸伝」をいただきました。

いちご狩も組み込まれた美味しく楽しいツアーでした。

◆2016年10月22日に天保水滸伝の里東庄町にて「講談と浪曲で聴く天保水滸伝」が行われました。
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チラシの左下にさりげなく「特別公演 当日11時より現・十一屋邸で玉川太福「笹川の花会」を本邦初口演」と記載されています。
なんと、笹川繁蔵ゆかりの場所そして「笹川の花会」の会場である十一屋において天保水滸伝が語られるという。これは浪曲史上記念すべき公演です。キャパの問題もあり関係者のみの公演という扱いになりましたが、私はこの場に出席させていただく僥倖を得ました。
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この会に出席する東京の浪曲ファンの多くは10:30着の電車を利用して自然と笹川駅で顔を合わせました。
十一屋邸前では見知りの浪曲ファンがこの記念公演のスタッフとして我々の到着を待っていました。
受付を済ませ記念品のお饅頭とお茶と受け取り十一屋邸内へ。
1階の広間に座布団が敷きつめられ前方にはテーブルかけがセッティングされています。
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邸主が家具を移動してまで用意した大きな広間にはお客さんがびっしり入りました。
公演に先立ち浪曲好きでもある東庄町の岩田町長から挨拶がありました。町長は小さい頃まだ営業していた十一屋で食事をしたことがあるそう。また「十一屋」とは花柳界の隠語で「お客さんを迎える」という意味合いがあることをお話しくださいました。(その後私がネットの隠語辞典で検索したところ「土臭き客」とでてきました)
いよいよ玉川太福さんと曲師のみね子師匠登場。太福さんはあえてこの場を「笹川の花会」のネタおろしの場としました。
気持ちのこもった素晴らしい口演でした。このような場に参加できたことをうれしく思います。
ご協力いただきました十一屋ご主人ならびに企画を運営してくださった関係者の皆様に篤く御礼申し上げます。

この後午後2時からは東庄町公民館大ホールにて本イベントが行われました。

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講談 神田松之丞「鹿島の棒祭り」
浪曲 玉川太福「笹川の花会」みね子
浪曲 玉川奈々福「亡霊剣法」みね子
講談 神田愛山「三浦孫次郎の義侠」

愛山先生は本をもとにご自身でこの話を講談に仕立てたそうです。三浦屋孫次郎は大衆演劇でも定番の演目。内容は愛山先生のネタとほぼ同じ。講談と大衆演劇の「三浦屋孫次郎」、そのルーツ、元ネタは何かとても気なっています。

公演後は、出演者とお客さん(地元の方&遠足組浪曲ファン)が鯉屋旅館に移動しての懇親会。旅館に泊まる遠足組は懇親会の後居酒屋水滸亭に移動。地元の方も合流して楽しく盃を酌み交わしました。皆で浪曲天保水滸伝の外題付けを合唱したのは忘れられない思い出です。

◆2017年8月11日~16日 朝練講談会 灼熱の六日間連続読みの会
宝井梅湯さんの講談「関東七人男」と玉川太福さんの浪曲「天保水滸伝」の連続読みの会がお江戸日本橋亭で行なわれました。
太福さんは師匠の二代目玉川福太郎が「徹底天保水滸伝」に残した六話を、ネタおろしを含めすべて口演しました。
天保水滸伝が玉川の芸として継承された、天保水滸伝芸能史にとって記念すべき会となりました。
「灼熱の~」と題した会でしたが東京は記録的に毎日雨が降った年でお盆も比較的過ごしやすい気温でした。




大衆演劇

浪曲、映画で人気があった話は当然旅役者による芝居の演目となりました。現在でも大衆演劇において飯岡助五郎や笹川繁蔵の芝居が残っています。しかし「天保水滸伝」という言葉はほとんど用いられていないようです。
大衆演劇はお芝居と舞踊ショーで構成されており、どちらでも天保水滸伝に触れることがあります。
舞踊ショーでいえば、田端義夫「大利根月夜」はよく使われてきた歌なのだと思います。三波春夫の歌謡浪曲「大利根無情」はまさに大衆演劇のためにあるような歌に思えます。「止めて下さるな妙心殿、落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散り際だけは知っており申す。行かねばらなん、行かねばならんのだ~」の名セリフを大衆演劇役者の演技とともに聞くのはとても楽しい。三波春夫には「残月大利根」という歌もあります。

以下大衆演劇で演じられた天保水滸伝関連の芝居を紹介します。ここに挙げたのは私が観たうちのいくつかに過ぎません。私が観たことのない演題もたくさんあります。

『大利根月夜』
鹿島神宮の祭礼。平手は酒を飲むことを禁じられていたが、お神酒ならいいだろうと飲んでしまう。飯岡の一味が通りかかった際に、平手の酒に埃が入ってしまう。平手は飯岡一味をやっつける。
飯岡助五郎が惚れた女は繁蔵の子分とできていた。そこから喧嘩がおこりそうになるが平手が仲裁する。
労咳にかかり尼寺で養生する平手。平手を千葉周作道場の娘の早苗が訪ねる。夫の兵馬が変わってしまい道場が落ちぶれたので平手に帰ってきてほしいと告げるが平手は断る。出入りがあることを知った平手は繁蔵のもとに駆けつける。
笹川と飯岡の決闘。兵馬は飯岡の用心棒になっていた。平手と兵馬の一騎打ち。兵馬は負けるが平手も深手を負う。平手は繁蔵の腕の中で息をひきとる。


『笹川の花会』
飯岡助五郎の子分、洲崎の政吉が主人公。
【芝居あらすじ】
笹川繁蔵主催による花会の案内状が助五郎に届いた。花会というのは親分だけが集まる博奕の会で、近隣の親分衆を集めるとあって主催する親分にとっては名をあげる大きいチャンス。花会には各親分が大金を持ち寄る。繁蔵は飢饉に困窮する農民を救うという名目で花会を開いたのであった。
助五郎は敵対視している繁蔵が開く花会がおもしろくない。子分の洲崎の政吉に代理出席を命じて義理(奉納金)として5両というはした金を託す。
会場の十一屋に赴く政吉。国定忠治・大前田英五郎といった大侠客も来ている。各親分が持参した義理が貼り出される。どれも五十両・百両といった大金である。親分の名代としてわずかな金しか持参しなかった政吉は、身が縮む思いで義理の金額が発表されるのを聞いている。が、政吉はそれを聞いて驚いた。飯岡助五郎金100両、代貸洲崎の政吉金50両、飯岡若衆一同金50両との発表。政吉はこれが繁蔵のはからいだと気づく。

というのが基本的な話です。大衆演劇ではこれにさまざまなバリエーションがあるようです。最後に白無地の単衣を着た平手造酒と政吉が一騎打ちするというものもあります。
【史実は】
十一屋は当時は商人宿で回船問屋も兼ね家の前には馬つなぎ場などがあり渡世人はここをよく利用していたそうです。繁蔵はよくここにいました。
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 十一屋のあったところ。右は桁沼側。左手近くに諏訪明神がある。
天保13年の7月27・28日の諏訪明神の祭礼日に、繁蔵は、境内に相撲の租、野見宿禰の碑を建てるという名目で花会を催しました。この花会に誰が出席したかははっきりしません。芝居では、国定忠治・清水次郎長・大前田英五郎など大侠客が出席し、忠治が政吉に対して助五郎本人が来ないことを罵るという場面があります。しかし役人に追われて転々と逃亡していた忠治のもとに花会の案内状が届いて忠治が下総まで出かけたということがあるでしょうか。また次郎長はこのとき22歳で一家をかまえる前ででる。大侠客が出席したというのは作り話でしょうけれど、芝居としては面白いです。脇役にも貫禄ある有名な親分が幾人も出てくるので、座長大会の芝居に向いていると思います。

『三浦屋孫次郎』
大衆演劇ではよくかかる定番演目です。
【あらすじ】
助五郎は繁蔵の闇討ちをたくらみ、その遂行を子分の三浦屋孫次郎に命じるが、孫次郎は断る。7年前に母と妹を連れて銚子の五郎蔵に紹介された助五郎を訪ねて旅をしていた。その途中で母が持病で苦しんでいた際に繁蔵に助けてもらったろいう恩義が孫次郎にはあった。助五郎は7年間の義理と1度の義理は天秤にかけたらどちらが大事だと詰問し、孫次郎は闇討ちを承諾する。助五郎は成田屋を後見にさせる。
ある夜。孫次郎は繁蔵に斬りかかる。しかしそれは本気ではない。孫次郎は繁蔵にわざと斬られるつもりでいる。そこに成田屋が背後から現れ繁蔵を斬る。
虫の息の繁蔵は、恩義のために自分の命を捨てようとした孫次郎に、自分の首を助五郎のもとに届けて義理を立てた後にその首を笹川一家に届けてほしいと頼む。
成田屋が助五郎に孫次郎を裏切ったことを告げる。孫次郎は繁蔵の首を助五郎に渡しに行くが、助五郎から盃を水に流すと言われ、母妹ともにこの土地から出て行けと命じられる。
繁蔵の妻が葬儀の準備をしているところに正装の孫次郎が訪れる。




長谷川伸作品と天保水滸伝

長谷川伸原作の「瞼の母」「関の弥太っぺ」は大衆演劇の演目としてもおなじみです。どちらの話も物語背景に天保水滸伝を借りています。
瞼の母
大衆演劇では水熊横丁の場面から始まることが多いと思いますが、原作戯曲では第一場は次のような場面から始まります。

飯岡助五郎の身内の喜八と七五郎が、江戸川沿岸金町にある瓦焼をしている惣兵衛の家を訪ねる。二人は惣兵衛の弟の半次郎を探している。
前の年に繁蔵が助五郎の身内に殺された。その仕返しとして、笹川一家の身内のやくざ2名が助五郎を斬りに行った。それが番場の忠太郎と金町の半次郎。助五郎は掠り傷で済んだが、助五郎身内の友蔵、金四郎が死んだ。喜八と七五郎はその敵討ちのため、半次郎を追ってここまで来たのである。
半次郎の身を案じて、忠太郎も瓦焼の家を訪ねるが、半次郎の妹や母は、半次郎は家にいないと必死に隠す。忠太郎はその親身の情を羨ましく思い、わが身の悲しさ憂う。
忠太郎は、半次郎とともに、喜八と七五郎を返り討ちにする。
忠太郎は紙に「この人間ども 叩ッ斬ったる者は江州阪田の郡 番場の生れ忠太郎」と書くが、字を知らない忠太郎は、半次郎の母に手をとってもらう。その際忠太郎は母を思い出して涙ぐむ。

ちなみに映画「瞼の母」(昭和37年、加藤泰監督)は金町の半次郎(松方弘樹)が飯岡助五郎に斬り込みにゆく場面から始まっています。

関の弥太っぺ
主役は関の弥太っぺこと弥太郎。準主役が箱田の森介。
戯曲には天保水滸伝でおなじみの人物、笹川繁蔵、勢力富五郎(戯曲では留五郎)、清滝の佐吉、神楽獅子の大八がでてきます。

下総菰敷の原。夜更け。神楽獅子の大八は子分数名を従えて繁蔵を待ち伏せしている。
一方、清滝の佐吉のもとに草鞋を脱いでいた森介と、勢力留五郎のもとに草鞋を脱いでいた弥太郎は今晩勝負をつけることを決めており、それぞれやっかいになった家を出る。佐吉と留五郎が見守る中、森介と弥太郎の一騎打ちが始まる。そこに籠に乗った繁蔵が通りかかる。繁蔵の口ききで森介と弥太郎は仲なおりする。一同は歩いて帰ってしまい、大八の待ち伏せは失敗する。



【あとがき】
忠臣蔵(義士伝)は講談・浪曲・映画・芝居・テレビなど大衆芸能・大衆娯楽によって国民に広く親しまれた物語です。しかし昨今では「国民的物語」というほど広く認知されなくなったように思います。どうしてそうなったのでしょうか。
物語の内容が現代の世相に乖離してきたからという見方が一般的なのかもしれませんが、私は芸能や娯楽に親しむ人々の「楽しみ方」が変わってきたからという側面もあるような気がします。
義士伝に親しんでいた人たちは<自分の義士伝の世界>をそれぞれの心の中に持っていたのだと思います。芸能や映画を通じて義士伝に触れる楽しさは、自分の中の義士伝の世界が広がったり変容したりしてゆく楽しさだったのではないでしょうか。だから同じネタであっても、それが自分の中の世界を色濃くしてくれるものであれば、何度見ても飽きることがない。いろいろな脚色があってもバリエーションとして楽しむことができる。銘々伝など脇役の話もさらに世界が広がって面白い。寄席や映画館に足を運ぶ人々の胸中には、自分の中の物語を育てる楽しみがあったのではないでしょうか。多くの人々が育てて楽しんだ物語こそ国民的物語といえるのだと思います。現代の消費文化では、暮らしの中でたまに思い出したりしながら長い月日をかけて育てるという悠長な楽しみ方はそぐわないのかもしれません。また、物語を育てる楽しみがあっても、その世界に触れる機会が身の回りにないと継続してゆきません。上演・上映の機会が減る→育てる楽しみがそがれる→人気が落ちる→上演・上映の機会が減る、という負のスパイラルも義士伝の人気の衰退の一因のように思います。
天保水滸伝もかつては国民的物語だったのだと思います。かつてのように誰でも知っている物語として人気がよみがえることもないと思います。しかし大衆演芸好きな人々にとっては、おなじみの演目であり自分の中で育てて楽しむ物語であり続けてほしいと私は願っています。しかし現在の大衆演劇では天保水滸伝関係の演目は人気がないのかあまり上演されないのが残念です。
このブログは、大衆演劇ファンの方がもっと天保水滸伝を楽しむきっかけになればという思いから作成しました。大衆演劇は将来の衰退があやぶまれています。何度見ても楽しめて自分で育ててゆけるような物語を劇団とお客さんが共有することはその活路のひとつではないでしょうか。

□参考文献
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「遊侠奇談」子母澤寛
「任侠の世界」子母澤寛
「実禄天保水滸伝」野口政司
「天保水滸伝余録」
「飯岡助五郎正伝」伊藤實
「大原幽学と飯岡助五郎」高橋敏
「博徒の幕末維新」高橋敏
「考証天保水滸伝」今川徳三
「八州廻りと博徒」落合延孝
「国定忠治」高橋敏
「河岸に生きる人びと」川名登
「利根川東遷」澤口宏
その他いくつかの書籍を参考にしました。
また小説として次の本を読みました。
「巷説天保水滸伝」山口瞳
「私家版天保水滸伝」高橋義夫
「天保水滸伝」柳蒼二郎
「燃える大利根」伊藤桂二
巷説天保水滸伝は飯岡助五郎と笹川繁蔵がどちらもとても魅力的に描かれており、天保水滸伝に興味がある方に是非おすすめしたい小説です。

城下町にある、殿様の名前を冠した劇場 「新吉宗劇場」

城下町にある、殿様の名前を冠した劇場 「新吉宗劇場」

徳川吉宗は1684年紀州二代藩主徳川光貞の四男として生まれました。兄たちの相次ぐ急逝で紀州藩主となった後、33歳のときに徳川八代将軍となりました。武芸・学問を奨励し、質素倹約がモットーで、木綿を着用し食事も一日二食の一汁二菜。
独立した廟を建てないようにという遺言を残して68歳で亡くなったという。

和歌山駅付近を観光しているとあちこちに「吉宗」の文字を見かけます。

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徳川吉宗像

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徳川吉宗公誕生地

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和歌山城

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天守閣から海を眺める

和歌山市民の誰もが吉宗に親しみをもっていることでしょう。
この地に生まれた大衆演劇場に吉宗の名が冠せられるのは自然なことだと思います。

2013年7月にオープンした新吉宗劇場(オープン当時は吉宗劇場)を訪ねました。

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新吉宗劇場が入っているビル

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葵の御紋の周りに「Wakayama Yoshimune Theater」の文字。
劇場のロゴマークがでかでかとビルに描かれています。

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入口

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入口前に受付(チケット売り場)があります。
入口入ってすぐ左には鈴蘭という喫茶店があります。

劇場は2階です。

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劇場図面
劇場にしてはちょっとかわったレイアウト。

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劇場後方より。
劇場内に入ってまず気が付くのが・・・

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この柱。

これまでいろいろ大衆演劇場を見てきましたので
舞台の前の目立つところに柱があっても驚かなくなりました。

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横から見た舞台前

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新吉宗劇場の客席

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花道

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この日は大入り。
このキャラクターは吉宗公でしょうか。

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お客さんは左の方にかたまっていました。
右の方の席にいた私は公演中にその理由がわかりました。
右側の席にいると花道を見ようとすると例の柱が邪魔するのです。
休み時間に席替えをするお客さんが何人かいました。

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天井は高い。、
このような広い舞台空間の中だと役者も映える。

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しかし舞台の床はそれほど高くない。そして客席の勾配もゆるやかだ。前の席のお客さんの頭が少し気になる。
劇場を設計するにあたり、舞台の高さと客席の勾配の問題は本当に難しいと思う。

写真ではお伝えしにくいのですが
新吉宗劇場はアットホームな雰囲気が魅力です。

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劇場出入り口横に置かれているのは「足置き」
座席の高さが合わないお客さんへの配慮でしょう。

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1階の喫茶鈴蘭から劇場への出前もやってくれるようです。

終演後、喫茶鈴蘭に入ってみました。

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広く明るい喫茶店です。

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人気メニューだというオムライスを注文しました。
美味しかった!

(2015年9月探訪)
プロフィール

notarico

Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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