WIKIレンタル 大衆演劇探訪記 2016年08月
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「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

河内音頭、浪曲、大衆演劇そして小説とさまざまなジャンルで扱われている「河内十人斬り」は実際にあった事件がきっかけとなって芸能化されました。
史実と芸能、両方の側面から河内十人斬りについて、私が調べ見聞したことをまとめました。


【もくじ】  ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■場所、時代
■人物
■何が起こったか
 ◆十人斬りの夜
 ◆金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索
 ◆犯行の動機・二人の遺恨
 ◆事件前の二人
≪「河内十人斬り」編≫
■事件から芸能へ
■河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」
 ◆河内十人斬り十段
 ◆京山幸枝若の「河内十人斬り」
 ◆錦糸町河内音頭
■大衆演劇
 ◆劇団炎舞の「河内十人斬り」
 ◆たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」
 ◆劇団新の「新 河内十人斬り」
 ◆劇団花吹雪の「河内十人斬り」
■小説 町田康「告白」
 ◆物語の舞台を訪ねて

 
≪史実編≫


場所、時代

大阪府東部の河内地方(旧河内国)の南、つまり南河内地方に、その名も南河内郡という郡があり、南河内郡の南に大阪府で唯一の村、千早赤阪村があります。その中の水分(すいぶん)という土地、当時の表記に直すと河内國石川郡赤阪村字水分で事件は起きました。
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 ↓千早赤阪村
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水分という土地で起きたので、この事件を「水分騒動」と呼ぶこともありす。
事件が起きたのは明治26年5月25日です。


人物

※★印の付いている者はこの事件で亡くなった十人
※年齢は事件当時

城戸熊太郎(きどくまたろう)(36)酒と博打と女に身を持ち崩す村の無頼者
谷弥五郎(たにやごろう)(26)熊太郎の弟分。賭博が好きで喧嘩は飯より好き。窃盗二犯の前科あり。

平次(68)熊太郎の父
たか 平次の前妻 熊太郎を生むが熊太郎3才のときに他界
とよ(57)平次の後妻 幼い熊太郎を育てる
光蔵(17)熊太郎の異母弟

やな(19)弥五郎の妹 奉公に出ている

森本ぬい(19)熊太郎の内縁の妻★
森本とら(44)ぬいの母★
森本うの(15)ぬいの妹

松永傳次郎(50)
松永たけ(54)傳次郎の妻★ 
松永左五郎(20)傳次郎の三男★
松永すゑ(13)傳次郎の三女★

松永熊次郎(28)傳次郎の長男★ 熊太郎からの借金を踏み倒す
松永りゑ(26)熊次郎の妻★
松永久太郎(5)熊次郎の子★
松永幸太郎(3)熊次郎の子★
松永はるえ(乳児)熊次郎の子★

松永虎吉(23)傳次郎の次男 ぬいと姦通する

浅井てる(27) 弥五郎と親しい仲
浅井傳三郎 てるの父 弥五郎からてるを嫁にくれと言われるが断る
浅井ふで てるの母


何が起こったか

当時の朝日新聞・毎日新聞の記事および「残害事件河内十人斬り」(事件直後に刊行された事件をまとめた本)を主に参考として事件のあらましをまとめました。ただし、当時は噂話レベルの不確定な情報でも新聞に掲載していたようで、各記事の間に齟齬が生じている部分もあります。それを取捨選択してまとめたものであることをご了承ください。なお、新聞には被害者死体の様子が具体的に描写されており そのむごたらしい殺され方から、加害者の異様なまでの憎悪の念を推し量ることができますが、このブログにおいてはグロテスクな惨殺状況の描写は割愛いたします。


河内の国、石川郡赤阪村字水分は忠臣の誉れ高い楠正成公が誕生した霊地であり、金剛山の千早の渓谷から水が清く流れ落ちる由緒ある土地である。
この村で恐ろしい残害事件が起こった。


十人斬りの夜

明治26年5月25日。
嵐のような暴風雨が昼から続く物凄まじい夜。
熊太郎と弥五郎は松永傳次郎宅前でズドンと砲声を鳴らすと戸口を激しく叩いた。出てきた傳次郎は斬りつけられ、深手を負ったまま家の後ろの竹藪を潜って辻繁蔵宅に逃げ込んだ。熊太郎らは、家の中に居た傳次郎の妻たけ、三男左五郎、三女すえを惨殺し、家に火を放った。

二人は傳次郎の長男、松永熊次郎の家を襲った。熊次郎は兇漢を見て「賊よ賊よ」と叫んだが誰も出てこない。熊次郎は家の近くの道路を越えて逃げたが、ついに麦畑でズタズタに斬られて死んだ。家の中にいた熊次郎の妻りゑ、子供の久太郎、幸太郎、赤ん坊のはるえの4名もむごたらしく斬殺された。

森本とらも自宅前で背中を銃で撃ち抜かれて死んだ。

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 事件があった場所の略図(明治26年5月29日毎日大阪新聞に掲載された図をもとに作成)
 ①松永傳次郎宅、②谷弥五郎の借家、③浅井傳三郎宅、④森本とら宅、⑤城戸熊太郎宅、⑥松永熊次郎宅

熊太郎の父平次は傳次郎の家が火事だと聞き現場へ駆けつけていた。家の外で火事を見ていた平次の妻の肩をつかんだ者(おそらく熊太郎)があったが、何だばあさんかと言い捨てると家に向かった。その者は、火事を見ようと庭先に出ていたぬいを見つけて斬りつけた。ぬいは逃げたが家近くの納屋で頭を打ち砕かれて死んだ。ぬいの妹うのは家に居合わせていたが、逃げなかったらお前も殺すぞと言われて逃げ、警察署に通報した。

浅井傳三郎の家の寝床の下からズドンと音がした。傳三郎は驚いて近所の者を集めて畳をひきあげてみると、大きな竹に火薬を詰め込んで発火させた跡があった。誰の仕業だろうと話しているところに、三発の砲声とキャっという叫び声が聞こえた。皆顔が青ざめて、現場を見にゆく者はいなかった。

熊太郎、弥五郎は金剛山へ逃げ隠れた。
弥五郎は村で最もこの辺の山の地理に詳しく、山猫というあだ名まである。

意図したものか偶然か、5月25日は楠正成公の命日である。


金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索


5月26日
富田林警察署から警部・巡査が、大阪地方裁判所から判事・検事が、また大阪府警部長が水分村に出張してきた。

はじめは、犯行者は複数人であること、そのうち一人は城戸熊太郎であること程度しか見当がついていなかったが、事件後行方をくらました城戸熊太郎と谷弥五郎を捜索対象と見定めた。

事件は村の内外に瞬く間に知れ渡った。誰が言いふらしたか、熊太郎は村中を焼き払って黒土にして一人残らず殺す、と噂がたって皆恐れた。老人や子供を他村の親戚に預ける者もいた。村中の者は家業を休んで昼の間は寝て、夜は竹槍、鋤、鍬などを持って村内を巡回した。
皆寝食を忘れ腰弁当を付けて捜索に従事した。

夜11時頃、熊太郎は二河原辺にいる親戚の竹次郎の家に入った。竹次郎は留守で妻のかめがいた。飯を炊くよう頼むがかめは断った。二人は炊いてあった粥を食べて立ち去った。

5月27日
大阪の新聞にこの事件が報じられた。以降約半月にわたってこの事件の速報が紙面を賑わす。犯人追跡の状況や事件の背後関係などが新聞で詳細に伝えられた。
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夜、森本うのは何者かが門の戸を叩いているのを聞いた。庭先で別の人の声がして、それを聞いたのかその者は逃げ去った。

5月28日
午前8時、大阪府の鈴木警部長は富田林から電話で大阪南、東、堺の三警察署に警部巡査の非常招集を発した。これにより警部・巡査らが総勢147名現地に集まった。探索エリアを16区に分け、それぞれに指揮官をおき、午後1時に捜索を開始した。

午後3時頃、金剛山の千早の炭焼窯に血の付いた草鞋があった。また二河原辺ゴセ谷の炭焼窯にも焚火の跡があった。

午後5時頃金剛山の中、大字二河原辺字餅子坂に、熊太郎と弥五郎が来た。二人はそこに居たきこりの庄太郎に銃口を向けて逃げねば殺すと言った。庄太郎は逃げて出張所に届けた。中津原・東坂・千早などから各村10人が竹槍を持って二人を捜索していたが見つからなかった。

午後7時頃、飴寅こと寅蔵および藤太郎の二人が寝泊まりしている山の中の木挽小屋に熊太郎らが現れた。熊太郎は普通の着物に羽織を着て短刀と村田銃を携えていた。右の指三本に傷を負っていた。弥五郎は普段着の上に法被を着て仕込銃と短銃を携えていた。二人とも腰に弾薬を多数着けていた。
熊太郎はここに警部巡査が来たかと尋ねた。前日午後4時頃まで警部巡査が来ていたが木挽小屋の二人はこのことを隠した。熊太郎らはここで一泊すると言い、藤太郎らには我々が去るまで便所にも行くなと言った。
警察は我等を発狂人のように云っているようだが可笑しいことだ。松永伝次郎一家をはじめ恨みのない者は殺さない。まだ恨みのある者が4,5人いる。旧暦9月ごろまで逃げてその間に宿志を晴らして自首するか自殺する覚悟、人の手にかからぬ積りだ。
熊太郎は木挽小屋の二人にそのように語った。
藤太郎と寅蔵は抜け出して密告しようと鼾をかいて寝たふりをしたが、熊太郎らはそれを察したのか一睡もしなかった。朝が近づくと、飯を炊かせ、米一升を奪った。熊太郎は二十銭を出したが、木挽小屋二人が受け取らないのでそれを投げた。熊太郎らは朝4時頃去った。

5月29日
雨が降った。捜索者はビショ濡れになり、その心労は甚だしかった。

5月30日
夕方、木挽小屋近くの山中で煙が立っているのを5名の巡査が認めた。

金剛山腹の村に熊太郎の親戚の新田達次郎の家があった。巡査がこの家に忍んでいたところ、戸外から兄貴兄貴と呼ぶ声がした。巡査が躍り出たが、呼んだ者は逃げてしまった。家の者はあの声は熊太郎に違いないと言った。

5月31日
事件7日目である。遺族は僧に仏供養を依頼した。

夜11時頃、熊太郎、弥五郎は水分村の赤松瀧造の家に現れた。瀧造はいなかったが妻の小りうに何か炊いて食わせてくれと頼んだ。幼児を抱いて横になりながら具合が悪くて弱っていると小りうが答えると、熊太郎らは仕方ないと戸外に出た。小りうは幼児を抱いたまま出張所に届け出た。水分の老若男女は賊が村内に入ったと聞いて逃げまどった。

弥五郎は養父谷善之助を訪ねた。隣家には巡査が張っていて、弥五郎が家の中に入ったら取り押さえる算段になっていたが、善之助は臆して戸を開けなかった。弥五郎が立ち去ろうとするところを巡査が追いかけたが、弥五郎は東條川の向う岸の竹藪に逃げて銃を二発放った。

その後、青木谷の地蔵堂近くに張っていた巡査が、熊太郎・弥五郎が通りかかったのを見つけ取り押さえようとした。熊太郎らは二発発砲して逃げ、巡査に間近まで追い詰められたが、黒鞘一尺三寸ほどの刀を投げて、水分の徳赤という難所に逃げ込んだ。

熊太郎らが三カ所に現れたことを受けて、警部巡査はますます警戒を厳しくした。応援の部隊も続々と到着した。

松永傳次郎の縁故者や熊太郎らに金銭の貸し借りがある者20名を警察が保護することとなりそれぞれの家に巡査が詰めた。

* * *
森本うのは谷口警部が引き取り、妻に世話を見させ読み書き裁縫を教えることになった。

熊太郎の親は村人に合わす顔がないと自害しようとも思ったが、熊太郎の異母弟の光蔵はまだ17才でその難儀を思うと死ぬこともできない。熊太郎が売り残した田地一反あまりを松永傳次郎に送って謝罪したいと言った。
森本とら親子の仏事料として、所有していた藪・畑地・山林を遺族に与えたいと村人に申し出た。そして十人の霊魂を慰め、熊太郎の懺悔を祈るために光蔵を連れて四国88カ所西国33カ所の霊場を巡礼する積りだと涙ながらに言った。

事件の日、松永虎吉は宇治へ製茶の仕事で出かけていて不在であったが、事件を聞き急いで帰村した。親兄弟の無残な死を見て遺恨やる方なく、熊太郎の所在がわからなかったら、残った父平次と継母と光蔵の三人に対して鬱憤をはらそうと力んだが、そこへ村人が仲裁にはいって虎吉を宥めすかして、以後恨みをもたないとの約束をさせた。

6月3日
8時頃、熊太郎の親族は、熊太郎を探し出して自首させようと親族5名で金剛山に入ったが夕方むなしく帰村した。

6月4日
8時頃、この日も熊太郎の親族は出かけたが夕方帰ってきた。

6月5日
雨が降っており、熊太郎の親族は捜索を見合わせた。

巡査が金剛山の三ツ谷で、杉の皮を屋根にして人が寝た跡を見つけた。また戻ってくるかもしれないのでここで待ち伏せすることにした。すごい雨が降ってきたが結局熊太郎は現れなかった。

金剛山中の別の場所では百合を焼いて食った跡が見つかった。

6月6日
165名の警官が大阪からやってきた。

6月7日
正午、図面と照らし合わせて蜘蛛の巣を張るように探索場所を定め、一隊3名、全部で50余隊が繰り出した。

大阪安治川水上警察署の巡査4名はその日は野宿して、翌日は水分から4kmほど離れた難波山の杉の深林に入った。午後3時頃、とても険しい所にある杉の木に足をかけて仰臥して死んでいる熊太郎を見つけた。その左側より一間離れた杉の根元に谷弥五郎が死んでいた。その様から推測すると、熊太郎が弥五郎を背後から不意に銃殺し、その後熊太郎は銃で胸を撃って死んだのではないかと思われた。
10人が斬殺された事件の犯人捜索は終結した。


犯行の動機・二人の遺恨

(熊太郎と虎吉)
前年11月のこと、松永傳次郎の息子虎吉は、熊太郎の家へ行って夜更けまで遊んだ。虎吉は遅いから泊めてくれと言って、熊太郎・ぬい・虎吉の3人で寝た。その際に、虎吉とぬいが姦通した。熊太郎は怒ったが、仲裁人が熊太郎をなだめて済んだ。
(熊太郎ととら)
ぬいを籍に入れていればよかったと思った熊太郎は、ぬいの母のとらに、ぬいを籍に入れることについて掛け合った。その際16円をとらに貸した。しかしその16円は返済がなく、ぬいの籍が移ることもなかった。
(熊太郎と熊次郎)
城戸熊太郎と松永熊次郎は賭博仲間で懇意な間柄であった。熊次郎は熊太郎に23円50銭を借りた。熊次郎は、熊太郎が催促しても返済しなかったばかりでなく、強いて返せというなら腕ずくで来いと言った。というのが村の人々の話である。
(弥五郎と傳三郎)
弥五郎は浅井傳三郎の娘てると仲がよかった。3月に奈良へ駆け落ちしたが追手に見つかってしまい、てるは親許に引き戻された。弥五郎はてるを嫁にくれと傳三郎に言ったが、傳三郎は弥五郎の身持ちの悪さ故承知しなかった。弥五郎は百円の手切れ金を要求したが、傳三郎は百円は出せぬ、娘はやりたくないと近村の侠客を頼んで対抗した。弥五郎はそれに怒り、眼にものを見せてやると思っていた。


事件前の二人

(熊太郎の墓)
熊太郎は犯行の前に田畑をおおかた売り払った。事件の7日前には赤坂村の眺めのよい場所に自分の墓を建てた。
(弥五郎とやな)
弥五郎は貧しく、竹田市五郎から8畳の家を月10銭で借りていたが家賃を3か月滞納していた。1週間前に弥五郎は30銭を持ってきて家賃を支払った。家の中は鍋釜をはじめ諸道具はなくなり掃除されていた。
弥五郎には19才の妹やながいた。やなは二河原辺の新田兵五郎方に奉公していた。弥五郎は今生の別れを告げにやなを訪ねた。農作業に出ていたやなをみつけると弥五郎は懐から1円を取り出しやなに渡して告げた。私は訳あって死ななければならない、達者で暮らしてくれ、おれのことは心配するな。それを聞いてやなは、たとえ悪人よ無頼者よと後ろ指さされる兄であっても自分にとってはたった一人の身内と泣き伏した。そのように泣かないでくれと諭して弥五郎は立ち去った。
(当日の朝)
25日の午前8時半に字南畑の飲食店池田駒太郎の所で熊太郎と弥五郎は腰かけて酒を飲んでいた。そこを通りかかった井上貞次郎に一杯飲めよと勧めた。貞次郎は断ったが無理に勧められたので10時頃まで一緒に飲んだ。
(当日)
午後四時ごろ熊太郎とぬいは相合傘で仲むつまじく家路に帰った。
夜は一同揃って夕飯を食べた。


≪「河内十人斬り」編≫


事件から芸能へ

6月7日に熊太郎と弥五郎の遺体が見つかり事件が終息を迎えました。それから間もない頃から水分村の責任者に対して、演劇関係者等からの上演の依頼書が次々届いたそうです。大阪の大劇場や、富田林の興行者をはじめ朝日新聞社員からも「十人斬恨の刃」という小説にしたいという依頼があったようです。

6月に、富田林警察の署長付きの人力車夫で江州音頭を得意としていた岩田梅吉が事件を物語化して音頭にアレンジして道頓堀の演芸場で発表しました。これが当たって45日のロングランを達成しました。

6月14日の大阪朝日新聞には「四十人斬」という見出しを付けて、道頓堀の浪花、中、朝日、辨天の四座が来月の興業には十人斬りを出してどこの十人斬りがよいか見てくれと互いに競争する、という記事が書かれています。
6月18日の同新聞には、浪花座が河内の十人斬りを狂言に仕組むにあたって村長を経て関係者へ金を送り興行の承諾書をとった、とあります。このときの演題は「河内十人斬」で、金剛山から里に出てきて何杯も何杯も飯を食べる場面が好評だったそうです。

また、私が今回参考文献とした「残害事件 河内十人斬り」という本は、奥付に「明治26年6月12日印刷」とあるとおり、事件直後に発刊されています。

当時の大衆芸能が耳目を集める事件をいかに敏速に取り入れていたか、また河内十人斬りの事件が市井でいかに話題性が高かったかを上記のことからうかがい知ることができます。



河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」


江州音頭をベースした「改良河内音頭」という節回しによる岩田梅吉の「河内十人斬り」がヒットしたことは、それまで河内のそれぞれの村で独自に歌われていた音頭に大きな影響を与えたに違いありません。梅吉はその後レコードも出し、戦後も梅吉の名を継ぐ後継者が十人斬りのレコードを発表していたようです。
河内音頭が現在のスタイルに確立されるまでは明治・大正・昭和にかけてさまざまな変遷がありました。梅吉考案の音頭は、河内音頭が現在の形に至るまでの系譜には直接つながらないようです。にもかかわらず現在の河内音頭の代表的なナンバーが「河内十人斬り」であるのは興味深いことです。兇漢二名による惨殺事件というまことにネガティブな内容の外題が、現在に至るまで語り継がれてきたのは何故なのでしょうか。
私にそれを考察する見識はありません。ただ、人々が「河内十人斬り」という事件を語り継いで来た、というより、事件としての「河内十人斬り」は後世の人々が関心を抱くような物語として変容し続けてきた、というべきでしょう。
例えば、6代目梅吉の「河内十人斬り」には、日暮れ後に虎吉がおぬいのもとに這っていって乳繰り合っているところを同じ目的でそこに訪れたと思しき弥五郎がその様子を盗み見る、という場面があります。それを朝倉喬司氏は当時のムラ社会に当たり前に流布していた夜這いのゴシップが盆踊りという場で歌われる音頭に昇化した例だと指摘しています。(参考文献:朝倉喬司著「流行り唄の誕生」)
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「梅吉節 河内十人斬り 序・姦通発覚の段」が収録されているレコード「河内音頭総集大会 伝承河内音頭」のジャケット

河内音頭の「河内十人斬り」は演者めいめいが独自に物語をアレンジして演じてきました。そのバリエーションは多岐にわたりますが次の点においてはほぼ共通しているようです。
・二人が本職の博徒として描かれている。
・松永一族も格をもった博徒の松永一家とされている。
・熊太郎は頼りなさそうな男である。
・弥五郎は私的な恨みから犯行に及んだのではなく兄弟の義に殉じて死んだ男とされている。



河内十人斬り十段

平岡正明著「浪曲的」に「河内十人斬り全段」という項があります。十の音頭(段)それぞれについて、平岡先生がさまざまなバリエーションの中からピックアップしたバージョンを独自の視点の解説を加えながら紹介しています。以下その要約です。

序段「河内あばれ獅子」(京山幸枝若)
十人斬りの一年前、旱魃に苦しめられている農民が田に引く水を求めて争っている。その喧嘩を仲裁した谷弥五郎は禁断の池の水門を開く。弥五郎は責任をひとりで引き受け官憲にひいてゆかれる。

二段目「火花散るだんじり囃子」(京山幸枝若)
建水分神社の祭礼では近隣十八カ村のだんじり(山車)が繰り出して大賑わいとなる。今年の山車の先陣は松永伝次郎の息のかかった中村と寄合が決めていたが、弥五郎はそれを無視して水分村の山車を先頭につっかけようとしたものだから、揉め事が起こって弥五郎は富田林の刑務所に入れられる羽目に。その後、弥五郎と松永一家とのイザコザがあって、次の年の祭礼がやってきた。

三段目(花沢義若)
ぬいは盆踊りに出かける。輪の中で踊っているぬいに若い衆がちょっかいを出すがおぬいは肘鉄をくらわす。これに逆上した男どもはおぬいをかついでさらう。おぬいの悲鳴をきいた松永虎次郎はかけつけておぬいを救う。そのまま二人は草むらでいい関係になってしまう。このことが噂となり、それを聞きつけた谷弥五郎が、兄貴分の熊太郎に、お前の女房のおぬいにへんな噂がたっていると告げる。

四段目「姦通発覚の段」(六代目岩井梅吉)
熊太郎が大阪に出かけて留守にしている。ぬいの母お梅婆あ(史実ではとら)は虎次郎を気に入っておぬいとの縁をとりもとうとする。虎次郎もその気になっておぬいの家に忍んびゆく。そこに弥五郎がやってきて板戸の破れ目から中をのぞくとおぬいと虎次郎の濡れ場。不義者を見つけたと弥五郎は座敷に上がりこもうとする。

五段目「谷弥五郎の韋駄天走り」(初音家太三郎)
おぬいと虎次郎の密会現場をおさえた弥五郎は、道頓堀にいる熊太郎に告げるべく河内の夜を走る。

六段目 城戸熊太郎が半殺しにされる話 (京山幸枝若)
盆踊りの夜、熊太郎は内縁の妻おぬいが虎次郎を密会しているのを見つけ、おぬいをどつく。そこへおぬいの母親のお角婆あ(史実ではとら)が割って入り、熊太郎がお角への養い料を滞納していることを罵る。悔しがる熊太郎は、その金を工面しようと、以前賭場で金を貸した松永熊次郎のもとへ行く。熊次郎は、その金なら返したと言って、松永方と内通していたおぬいが取り寄せた借金の証文を破る。さらに熊太郎を蹴飛ばし、敷居の根石に頭をぶつけた熊太郎は血まみれになる。悔し涙にくれてよろよろと帰る熊太郎は、堀川監獄から出てきたばかりの谷弥五郎と出くわす。弥五郎は、兄貴の傷が治ったら仇討ちを手伝うと約束する。

七段目「道頓堀弁天座での狼藉」(鉄砲光三郎)
熊太郎と弥五郎は道頓堀の弁天座で「吉原百人斬り」を観劇する。芝居の中で女に騙され金をとられ眉間まで割られた登場人物に同情するあまり、芝居と現実の見分けがつかなくなった弥五郎が二階の客席から花道めがけて飛び降りて、憎い役者を殴る蹴るする。

八段目「弥五郎、妹おやなとの別れ」(鉄砲光三郎)(京山幸枝若)
熊太郎の傷は癒え、武器の準備も整った。弥五郎は妹おやなを訪ね別れを告げる。

九段目 熊太郎、弥五郎、猿沢の落ち合い(三音会)
妹おやなとの別れをすませた弥五郎と、武器の調達を終えた熊太郎が、奈良の猿沢の池で落ち合う。二人は今生の名残に暴れ太鼓を打ち鳴らす。

終段 斬り込み金剛山の最後
十人斬りから金剛山での最後まで。二人の最後の場面は、京山幸枝若版では、覚悟を決めた熊太郎が差し出した首を弥五郎が斬り、弥五郎は村田銃の銃口を銜えて自決する。鉄砲光三郎版では、熊太郎が弥五郎を背後から撃ち、熊太郎は自分の喉元に銃口をあて足の親指を引き金を引いて自決する。


京山幸枝若の河内十人斬り


大衆演芸の歴史を生き抜いてきた「河内十人斬り」の現代における継承者の第一人者は浪曲師(そして河内音頭の唄い手でもある)二代目京山幸枝若師匠でしょう。
「河内十人斬り」は河内音頭だけでなく浪曲の演目にもなっています。
二代目の師匠であり父親の、亡くなった初代京山幸枝若の「河内十人斬り」のうち、大衆演劇のベースにもなっている、よく知られている部分のストーリーを浪曲や河内音頭の音源をもとにまとめました。

※幸枝若版の登場人物は史実と名前が変わっているところがあります。
とら→お角(かく)、虎吉→虎次郎

南河内富田林の松永親分の弟の虎次郎は、水分村の城戸熊太郎の女房おぬいと、ここ数ヶ月ちょいちょい逢引をしていて村の噂になっている。盆踊りの日も虎次郎はおぬいを連れ出して逢引していた。それを1ヶ月ぶりに村に帰ってきた熊太郎(熊太郎は仕事にでかけるといって家をでては博打場を遊びまわって何日も帰ってこないことが常である)が見つけ、熊太郎はおぬいをなぐってなじる。おぬいは、米を買う金がないので虎次郎に金を借りたが皆の前で返金の督促をされたので恥ずかしくてここにひっぱってきた、と咄嗟に嘘をつくが、熊太郎は許さず大喧嘩となる。そこにおぬいの悲鳴を聞きつけたおぬいの母のお角が現れる。この婆さんは銭が大好きな金の亡者である。お角は熊太郎に、嫁にやったといってもまだ籍はやってない、おぬいが間男したと腹立てるのなら日頃から亭主らしいことをしろ、となじる。熊太郎がおぬいを嫁にもらう際に、熊太郎からお角へ毎月二円五十銭の仕送りをするという約束があったが、熊太郎はそれを十ヶ月滞納している。お角は熊太郎に、亭主面をする前にたまっている二十五円を払えとまくしたて、おぬいには熊太郎と別れて虎次郎と一緒になれと言う。弱みをつかれ何も言えなくなった熊太郎を前に「ざまぁみくされこのド甲斐性なしめ。悔しかったら銭持ってきくされ、このガシンタレが」と毒づいて、お角はおぬいの手を引いて立ち去る。
二十五円の金があればお角婆あにたたきつけて、おぬいとも縁を切り、男の意地が立つのだけれど、と熊太郎は悔し涙を流す。熊太郎は下手な博打に明け暮れたあげく、家も屋敷も田んぼも畑も山も人手に渡してしまっていて金がない。金の算段を考えているうちに、思い出した。昨年の暮れに、博打場で虎次郎の兄の松永親分に五十円を貸していた。翌日熊太郎は貸した金を返してもらおうと松永親分のいる富田林へ向かった。

お角とおぬいは熊太郎が怖くて家に帰らず虎次郎の家に泊まっていた。虎次郎は熊太郎との間男の件をおさめてもらおうと、お角・おぬいを連れて兄の松永親分の屋敷へ相談に行く。お角からも松永親分へお願いしているところに、熊太郎がやってきて、松永親分は虎次郎・お角・おぬいを奥の部屋に隠す。熊太郎は松永親分に借金を返してほしいと証文を見せた。松永親分はその借金のことをすっかり忘れていたが、下手な言い訳は男が廃ると高飛車に出て、その金は八尾の博打場で返したはずだと出鱈目を言いながら凄み、証文を破り、利子をやるから持ってけと銀のキセルで殴って熊太郎の額を割った。さらに親分は熊太郎を蹴り倒し、熊太郎は後頭部を打って浴衣が血に染まった。熊太郎が反撃しようと手にかけたものは、見覚えのある下駄、熊太郎がおぬいに買ってやった下駄であった。おぬいがここにいるということは、おぬいの間男は松永親分までもが手を引いているのか、それを知らないのは自分だけだったのかと悔しがっているところに、虎次郎・お角・おぬいがでてきて、お角は殴られたおぬいの仇と熊太郎を蹴っ飛ばす。熊太郎は塩をまかれて屋敷の外につまみだされた。

村の半ばまで戻った熊太郎が柳の根元に倒れこみ痛さ悔しさに泣いているところに、監獄からでてきたばかりの谷弥五郎が河内音頭「石童丸」を歌いながらやってきた。弥五郎はひどい有様の熊太郎を見つけて訳をきいた。いきさつを聞いて弥五郎は、兄貴の仇は俺の仇と怒りをあらわにして、松永兄弟とお角とおぬいの息の根をとめてやると血気にはやるが、熊太郎はそれをなだめる。お前ひとりでやったら俺はどうなる、俺も男の意地を通したい、この傷を養生して元の体に戻ったら、命をかけてもあいつらと渡り合う。それを聞いて弥五郎は、生きるも死ぬも二人連れ、俺も命を捨ててやると、二人での仇討ちを約束する。弥五郎は熊太郎を医者に連れていった後も熊太郎を献身的に看護する。1週間後、熊太郎は監獄放免祝いとして弥五郎に金を遣る。弥五郎は奈良で女郎買いして博打して3日したら帰ってくると言って出て行った。入れ違いに巡査の木村が熊太郎の家に入ってくる。熊太郎が松永親分の家で傷をつけられ、弥五郎が「恨みの奴らを皆殺し」などと歌って村を歩いているという噂をきいて、熊太郎たちが短気な行動をおこさないかと心配してきたのだった。今の世の中では法律が仇をうってくれるからその気があれば診断書を持ってわしのところにこいという木村に対し、熊太郎はこの傷は盆踊りの日に転んでできたものだと嘘をつく。
何日たっても弥五郎が帰ってこない。もしや心変わりしたのかと疑っているところに弥五郎からの葉書が届いた。奈良の博打の帰りにつかまって、前科がたたって八ヶ月の懲役になった、俺が帰るまで決して一人で無理するな、借りは必ず二人で返そうという内容で、熊太郎はうれし泣きする。

たとえ一瞬でも弥五郎を疑ってしまったことが申し訳なく、逢って詫びがしたいと熊太郎は大阪の堀川監獄へ向かった。面会を断れられた帰り、熊太郎は道頓堀で芝居を観劇する。吉原百人斬りの主人公に同情して頭に血が上った熊太郎は「斬れよ斬れ佐野屋、おれも河内で斬る」などと声を荒げ他の客に注意される。熊太郎は村田銃を二丁買い、その後宇治で自分の菩提を弔い経帷子を求め、奈良を見物しがてら刀を二振り買って帰った

明治二十六年春、弥五郎が監獄から帰ってきた。熊太郎と弥五郎は決行の日を決める。親兄弟がいない熊太郎は弥五郎には唯一の身内である妹のおやながいることを気にかける。
弥五郎は妹の奉公先に行っておやなに会う。おやなはまた博打に負けて金を借りにきたのかと思ったが、弥五郎は別れを言いにきたと言う。弥五郎は九州へ石炭を掘りに行くと嘘をつくが、おやなは、そんな危ないところに行かないで、兄やんにもしものことがあったらわてはどうしたらいいのか、お金ならみんなあげる、といじらしいことを言う。弥五郎は後ろ髪を引かれる思いでおやなと別れる。

日は暮れて、暗闇に雨が降っている。熊太郎と弥五郎は茶屋の奥座敷で別れの盃を酌み交わす。南無阿弥陀仏の経帷子に刀と村田銃を携えて、二人は雨夜の闇へ。

お角の家に入りこみ、納戸で寝ていたお角を熊太郎が斬る。次の間にいたおぬいも斬って家に火をつける。
松永宅へ斬りこみ、松永親分ら十人を仕留めたが、肝心の虎次郎がいない。虎次郎を殺さなければ死に切れない、一時姿を隠そうと、二人は金剛山へ逃げ隠れた。

翌日、村は黒い噂で持ちきりで、犯人は金剛山へ隠れたようだと、近隣の警察や消防が出動して金剛山をとりまいた。食料がなくなって山から出てくるに違いないと待ち構えていたが何日たっても二人はあらわれない。
松永一家がやられたことに、厄払いができたと喜んだ村人がいて熊太郎と弥五郎にこっそり食料を届けていた。これに感づいた警察は村人の金剛山への立ち入りを一切禁じた。
熊太郎と弥五郎が食料を断たれて三日目、山狩りが始まった。弥五郎は一人二人斬ってでも逃げ延びようと言うが熊太郎はそれを制する。何の恨みもない、まして恵みを受けた村人に手を出してはいけない。しかし逃げることもできず、縄目の恥を受けなくてはならないのであれば、覚悟は決まっている。熊太郎は、最後の頼みだこれでひと思いにやってくれと刀を弥五郎に渡す。弥五郎は熊太郎を刺し殺すと、村田銃の銃口を自分に向けて引鉄をひいた。

最後に、「~男持つなら熊太郎、弥五郎~」という文句のある節を謳い上げ河内音頭・浪曲は終わります。

■ 2019年8月10日(土)十三浪曲寄席8月EXTRA(於:シアターセブン)にて京山幸枝若師匠の弟子である京山幸太さんが「河内十人斬り」前編・後編それぞれ40分近いネタををかけました(曲師 一風亭初月)。演者の気合は十分、クライマックスはすごい迫力だったそうです。京山幸枝若師匠の河内十人斬りはしっかりと続く世代に引き継がれております。
前編と後編の間にトークコーナーがありました。トークゲストは「告白」の著者町田康先生。
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チラシ(と町田先生の本)
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京山幸太・真山隼人・町田康によるトーク
(本項はchaconne0430さんから情報提供いただきました)


錦糸町河内音頭

現代において普通に生活していて河内音頭に接することはほぼないでしょう。どのように河内十人斬りの口演を楽しめばよいでしょうか。

YouYubeで「河内十人斬り」で検索すると、河内音頭や浪曲のネタがでてきます。京山幸枝若(初代・二代目)のほか、鉄砲光三郎の鉄砲節河内十人斬りもとても味わいがあります。
Amazonで検索すれば中古CDが見つかります。

関東で河内音頭にライブで触れることのできる最大のイベントは2005年から続いている「錦糸町河内音頭」です。

◇2015年の錦糸町河内音頭はは8月26日(水)、27日(木)の2日間行われました。
初日に京山幸枝司師匠が「河内十人斬り」を掛けました。
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2015年8月錦糸町河内音頭 アンコール時の京山幸枝若師匠。後ろには京山小圓嬢と三原佐知子師匠。(chaconne0430さん撮影)

◇2018年8月の錦糸町河内音頭では最終日のトリに鉄砲光丸師匠が「河内十人斬り 金剛山の最後」を掛けました。
ラストステージは会場も大勢の踊り手が密集する大盛況。
熊太郎に撃たれた弥五郎が目を見開いて「恨まへんで兄貴。兄貴に抱かれて死んだら本望や・・・」
熊太郎も後を追う。銃口を喉にあて、足の親指を引き金にかけて「ズドーン」
ここで会場の踊り手からうねるような歓声。ステージと踊りの場が融合し最高潮のボルテージを迎えました。
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2018年8月錦糸町河内音頭 鉄砲光丸師匠のステージ



大衆演劇

大衆演劇でも昔から多くの劇団が「河内十人斬り」をかけてきたそうです。

劇団炎舞の「河内十人斬り」

2016年6月12日、浅草木馬館で劇団炎舞の「河内十人斬り」を観ました。同月、ファンクラブのtwitterに「(河内十人斬りは)ボスが一番最初に大衆演劇界で、芝居として書き上げました」とありました。ボス・橘魅乃瑠が劇団のお家芸として大切に育ててきた演目なのでしょう。
主な配役・・・谷弥五郎:橘炎鷹、城戸熊太郎:沢田ひろし(ゲスト)、松永虎次郎:橘光鷹、松永伝次郎:橘ひろと、おかく:橘魅乃瑠、ぬい:渋谷めぐみ(外部客演)、やな:橘麗花、愛媛県:橘ひろと(二役)、飴虎:橘魅乃瑠(二役)、警察の頭:北条嵐(ゲスト)、松永一家の身内:橘鷹勝・橘鷹志・橘美炎・橘もん太・橘炎子

ストーリー・構成は上述した京山幸枝若のものとだいたい同じです。
ラストシーンに大衆演劇らしい脚色がされています。
山狩りが始まり、追い詰められた二人。熊太郎は弥五郎に自首しようと言うが、弥五郎は、それでいいのか兄キ、まだ虎次郎をやっていない、これでは死に切れないだろうと熊太郎が抑えている思いを代弁する。その言葉に感謝した熊太郎だが、追手から逃れるために山狩りに参加している村人を傷つけるのは本望ではなく、覚悟を決めると、弥五郎を背後から刀で刺す。弥五郎も熊太郎の思いを悟り兄キのことは恨まんと言う。あの世でも兄弟分でいようと誓い合い、熊太郎は銃で自害する。
炎舞版河内十人斬りで強調されているのは「義兄弟の美学」です。
義兄弟の契りというのは当初は「契約的」なもののはずです。それが、お互いの心が触れ合ってゆくうちに「心情的」なものに変わってゆく。さらに絶望的な状況で身体が極まると、心情的な距離はどんどん近づいてゆき、ついには「同一化」してしまう。この状態こそが自分の命よりも重い意義があると自覚するようになる。
この義兄弟の契りの結晶化こそ炎鷹版河内十人斬りクライマックスの見どころでした。
あきらめようという熊太郎に、個人的恨みをもっていないはずの弟分の弥五郎は完全に熊太郎の本心を我が思いとし、自分の命をかけて恨みを晴らそうとする。最後は二人とも「恨みを果たすこと」よりも「あの世にいっても義兄弟としてかたく結ばれること」の方が自分たちにとって大事なことだと認め合う。そうなることを確信できた二人はその喜びをかみしめる時間がほしかったに違いない。熊太郎は突然弥五郎に「石童丸」を唄ってくれと頼み、弥五郎は残された力を振り絞って唄う。弥五郎が唄い終わると熊太郎は自分に向けて銃を撃つ。
おそらく、このような義兄弟の美学の表現は昔からの大衆演劇の芝居の本領だったのではないでしょうか。旅役者が演じてきた人物は、博徒のように世間から隔絶された立場の者が多かったでしょう。そのような人物に力強い生の息吹を与えることに旅役者は生きがいを感じ、そのための美学を大切にしてきたのではないかと想像します。
そんな私の憶測を証明するかのように橘炎鷹座長はこの芝居で見事な演技を見せました。また、炎鷹座長がこの芝居をやるなら相手は絶対この人と切望した、熊太郎役の沢田ひろしの演技も素晴らしかった。
これが自分の生き方だと決めたからには、自らを損ねることになっても信念を曲げない。その信念によって「義」が磨かれてゆくほど、「義」以外のものに対する生きるべき価値が薄くなってゆく。
そんな男の生き様は、「大衆演劇役者」が心身とも染み付いた二人は感覚的に諒解しているでしょう。だからたった1日限りの芝居でほとんど稽古ができなくても、本番の舞台では二人は阿吽の呼吸で義兄弟の美学を紡ぎたすことができる。大衆演劇役者の本領を堪能できた芝居でした。
炎鷹版のもうひとつの見どころは、十人斬りの場面での大量の血のり演出です。熊太郎が松永一家の子分の腹を刺す。子分の着物が血に染まる。そして子分は口から血を吐いて倒れる。このような調子で、やられる子分が皆、刺された所から血を流し口から血を吐く、の出血2点セットで役者の衣服、床はおびただしい血で染まります。こんなに血のりをたくさん使った芝居をはじめて観ました。血が嫌いなお客さんがいるから(私もそうですが)血のりはあまり使いたくないという劇団もあります。でもこの芝居のように、復讐の場というシチュエーションの盛り上がりを目的としていて殺陣自体にリアリティを追求していない場合は、血は単に「恨みの象徴」として映るので見ていて気持ち悪いものではありません(あくまで 私の感想ですが)。とにかく大量の血のりを使った凄惨たる恨みの現場は見ごたえがあるシーンでした。
炎舞版河内十人斬りは男である私としては大いに感じ入るところがありましたが、若い女性のお客さんにとってはどうだったのでしょうか。
おそらく最近の、というかこれからの大衆演劇において多くのお客さんに求められるのは「ストーリーに納得できて登場人物に感情移入し感動できる」芝居になってゆく気がします。テレビで紹介されている大衆演劇像も、どんな世代の人でも泣いて笑って楽しめる、というものです。確かに大衆演劇の喜劇の大半はそういうものです。
一方、今の世の中では時代錯誤だと思われている、しかしまったく無視してよいとは誰もが思っていないだろう、「忠」や「義」や「意地」といったテーマを大真面目に扱うことで、お客さんの普段触れない琴線を揺さぶり非日常的で理解しがたいながらも肯定したいと思える幻想を立ち上がらせることにも、大衆演劇らしさがあると私は考えています。
つまり大衆演劇「らしさ」を芝居の内容面から捉えた場合、私の思う「らしさ」には相反する二つのものが共存します。
今は前者を目指す傾向が強く(その典型的なあらわれが松竹新喜劇の芝居の増加でしょう)後者のような芝居が少なくなってきたように思います。
「親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけてのむ」・・・北島三郎「兄弟仁義」は今から約50年前の日本でミリオンセラーとなりました。多くの日本人が義兄弟という幻想に心を寄せていたのです。
炎鷹座長が炎舞版「河内十人斬り」をこの先ずっとお家芸としてかけ続けて行くことを強く願っています。
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2016年6月12日劇団炎舞浅草木馬館公演「河内十人斬り」カーテンコール


たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」

たつみ座長が中学生の頃までは劇団でやっていたそうです(たつみ座長の父親二代目小泉のぼるが弥五郎役)。永らくこの芝居を舞台にかけていなかったのが、2015年3月の三吉演芸場での小泉ダイヤ誕生日公演で復活しました。私はその誕生日公演と2016年8月の木馬館公演を観ました。
主な配役・・・谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男(2016大蔵祥)、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:葉山京香、やな:辰巳満月、愛媛県:辰巳小龍(二役)、鹿蔵・飴寅::嵐山瞳太郎(二役)、松永一家の身内:大蔵祥・小泉ライト・辰巳花
小泉版「河内十人斬り」は辰巳小龍演じるおかく婆あが絶品です。河内十人斬りの前半の影の主役はコメディリリーフも担うおかく婆あではないでしょうか。
体型は細身で腰の曲がった弱弱しそうなばあさんだが、その性格のどぎついこと。何より機関銃のように罵詈雑言をまくしたてる勢いが凄い。捨て台詞「このド甲斐性なしのガシンタレが」も最高。小龍さんはこの芝居をたてるにあたって町田康「告白」を読んだそう。あの小説の強烈なキャラクターにひけをとらない小龍さんのインパクトさすがです。
小泉版の構成の工夫のひとつは、オープニングで幕が上がると、紋付袴姿のダイヤ座長が現れて河内音頭を唄いだすところです。この演出はうれしい。思わず「エンヤコラセードッコイセ」と合いの手を入れたくなります。
十人斬りの場面は、父親の芝居では大量の血のりを使ったそうですが、たつみ版は「血が嫌いなお客さんもいるから」と血は使いませんでした。
金剛山に逃げ隠れている際に、少ない食料をお互い譲り合う場面を入れるなど、兄弟の情を強調した脚色となっていました。
最後は一緒に死のうとお互い差し違えますが、弥五郎の情愛が強調された演出だと思いました。
芝居全体の完成度は、言うまでもなく、さすがたつみ演劇BOXとうならせる高さでした。

炎鷹版もたつみ版も、金剛山で熊太郎らにこっそり食料を差し入れる愛媛県と呼ばれる村人と彼が面倒を見ている飴虎という青年と、やつらを見かけたらこれを吹けと笛を渡す役人が出てきて、他愛もない喜劇的場面が挿入されます。
「愛媛県」という名前の由来は何なのだろう?気になります。

◇2019年8月16日木馬館で観劇
谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:辰巳あさみ、やな:辰巳満月、愛媛県:黒潮幸次郎、鹿蔵・飴寅::小泉ライト(二役)、松永一家の身内:辰巳花・小泉龍之介他


劇団新の「新 河内十人斬り」

2017年3月5日、大島劇場で劇団新の「新 河内十人斬り」を観ました。
龍新座長の脚本演出の「新しい」河内十人斬りです。炎舞版、たつみ版ともに浪曲河内十人斬りを下敷きとしていますが、新版はそれによらないオリジナルな構成です。
大きな特徴は、熊太郎(龍錦)の父親(龍児)および弟(小龍優)が登場するところです。熊太郎の父は侠気を持ち男の意地を立てることに生きる美学を見出す親分肌の人物。この父親がいかにも大衆演劇という行動を起こします。弟は新版河内十人斬りの影のキーパーソン。河内十人斬りという演題は史実を元としているからどうしてもある問題点をはらんでしまう。10人も殺したのに最も殺したい人物(虎次郎、史実では寅吉)は討ち逃している点です。新版では独自の新解釈を加えることによって、この点に関する観客のモヤモヤ感を解消してくれています。ここに熊太郎の弟がかかわってくるのですが、詳細は見てのお楽しみということで・・・。
史実では熊太郎は十人斬りの前に自分の墓を建てています。新版はこれを巧みに取り入れていました。墓を建てるというのはもちろん死を覚悟したということを意味します。新版熊太郎は、弥五郎(龍新)を巻き添えにしたくない(死んでほしくない)と強く思っています。しかし弥五郎は、熊太郎とは一身同体、運命共同体だと思っていて、一緒に連れてってくれないのなら、ここで二人で死んでしまおうとまで言います。そして弥五郎は、熊太郎の墓に自分の名前を刻みます。これは名シーンでした。
また新版の熊太郎と弥五郎の関係は、兄弟分ではあるけれど「友情」に近い心情でつながっているように思えました。例えば弥五郎は熊太郎を「兄キ」とは呼ばずに「熊ちゃん」と呼びます。熊太郎と弥五郎が最後は心情的に深く結ばれることを望み、それがかなったという確信のもとに果てる、という点では他劇団版も新版も同じです。しかし、それが義兄弟からの純化か、友情からの純化かという点は似ているようで大きな違いがあると思います。昔からの大衆演劇では「義兄弟という共同幻想」を客も演者も持っていることを前提に作られていたでしょう。大衆演劇の新しい時代を開いてゆかなければならないと自負しているだろう龍新座長のセンスはその前提を見直してゆく必要を認めたのではないでしょうか。この友情ベースのドラマは若い方を含めて多くのお客さんに感動と共感を与えることができると思いました。友情ドラマのクライマックス、龍新座長演じる弥五郎の最期がこの芝居の一番の見所でした。
BGMに河内音頭を使用するのは必然としてそれに現代の若者の歌をつなげ、大胆な曲構成となっていました。ここにも若い座長ならではのセンスが光っていました。
龍新座長の力量に心地よくのれた芝居でした。しかし、まだまだ役者の力量的にも内容的にも進化の余地がたくさんあると思います。これから長い年月をかけてこの芝居が劇団新の中で育ってゆくことを楽しみにしています。


劇団花吹雪の「河内十人斬り」

2017年9月25日、浅草木馬館で劇団花吹雪の「河内十人斬り」を観ました。
基本的な物語設定は炎舞版と似ていますが、弥五郎が妹に会う場面と金剛山の山中で役人が熊太郎らを探す場面はありません。それでも約2時間の大作でした。若干の脚色により弥五郎の出番が多くなっています。(例えば、熊太郎が松永親分の家に借金を返しに行く際も弥五郎が同行する)
この弥五郎の描き方が他劇団とまるで違っていました。「殺す」が口癖。ほぼ殺人狂といって差し支えないでしょう。松永一家への襲撃にしても、兄貴分の熊太郎の悔しさを我が想いとして復讐の手助けを買って出る、というより自分の殺人趣味を満たすために熊太郎に起こったことを口実に行動しているように見えます。二人が金剛山へ逃げ込んだ場面では、他劇団では松永一家を良く思っていなかった村人がこっそり二人に食事の差し入れをしますが、花吹雪版では弥五郎が村人を脅して飯を奪いとります。また、他劇団では、二人は恨みのない村人には手を出そうとしませんが、花吹雪版の弥五郎は討ち逃した寅吉を殺すためには、邪魔をする村人も殺してしまえと意気込みます。このように弥五郎の非情さ・凶暴性が強調されています。
花吹雪版河内十人斬りの眼目は松永一家襲撃の場面でしょう。殺戮のシーンはリアルな演出で血もかなり出ます。弥五郎はものすごい迫力でぬいの母親のおかく婆あを殺します。熊太郎がおかくを殺すならわかるが、なんで弥五郎がおかく婆あにあそこまでの殺意を持てるのだろうか。ここまで書きますと、弥五郎はさぞ恐ろしい迫力の人物だろうと思われるでしょうが、ある場面では役人を相手にヘラヘラした軽い態度をとりノーテンキなヤンキーみたいになります。弥五郎の人間性を理解できませんでした。また、こんな人間が血のつながりもない兄弟分に堅い絆を持ちうるとは到底思えません。

あくまで私の勝手な感想ですが、花吹雪版の芝居は当初は熊太郎と弥五郎の絆が物語の幹としてあったが、一時的な笑いをとるために、弥五郎が誇張した言動(短絡的に殺すと言うなど)や軽薄な言動(他の登場人物をおちょくる)をするようにしてしまった結果、弥五郎の人物像がブレブレになってしまったのではないでしょうか。結局、弥五郎の人格の主幹を「凶暴さ」で形成したために、深みのない薄っぺらな登場人物になってしまいました。笑いをとる言動を入れてしまったために物語や人物像にブレが生じることは大衆演劇ではよくあります。しかしこのような大芝居の場合にはしっかりしたテーマを据えて、そのテーマを愚直に貫くことで大衆演劇らしい良い意味でクサく、見応えのある芝居にしてほしいと個人的には思います。刹那的にお客さんを楽しませることにはまさに大衆演劇らしさがあるでしょう。しかし、それが芝居に矛盾を生むことになれば、媚態のために芝居の芸術性を損ねている行為、と見ることもできると思います。

熊太郎、松永親分、おかく婆あは良かったです。しかし弥五郎の凶暴さと十人斬りの場面の凄惨さを強調したために、スプラッター映画のように楽しみ方が通常とは異なる芝居になりました。ある意味劇団花吹雪の挑戦とも言えます。他劇団とは違うアプローチで独自の見せ場を作ろうというもくろみはよいと思います。が、この演目に関しては、弥五郎の行動原理を整理して納得できるものにしないと、花吹雪版のアレンジは完成しないと思います。



小説 町田康「告白」

町田康先生の「告白」は河内十人斬りを題材とした長編小説です。史実および芸能の演目としての河内十人斬り(町田先生は浪曲がお好きです)どちらも内容に反映されています。
とにかく面白いです。心地よいです。すべてのページに天才町田先生の言葉のイリュージョンが散らばっています。人間描写のおかしさがたまらない。

主人公は城戸熊太郎で、熊太郎の少年時代から最後までを以下のような時間経過で描いています。(ネタばれ注意:小説の内容に少し言及しています)
・慶應3年(熊太郎10歳)
世の中には基準が複数あることを知り、大人が発する言葉に疑問を抱く。
・明治4~5年(熊太郎14~15歳)
葛城山の岩室で人を殺めてしまう。このことは熊太郎しか知らないが、以降このことが熊太郎の脳裏に暗い陰を落とす。
・明治14年(熊太郎24歳)
熊太郎は酒・博打と遊蕩に身を持ち崩す。賭場で少年谷弥五郎と出会う。村会議員松永伝次郎の息子松永熊次郎と出会う。村の女に惚れるが失恋する。
・明治24年(熊太郎34歳)
弥五郎と再会する。奈良の遊郭で寅吉に会い、つるむようになる。美しく成長した17歳のぬいに村中の若者が夢中になり熊太郎も惚れる。弥五郎の協力で熊太郎とぬいはよい仲になる。
・明治25年(熊太郎35歳)
とらが金を目当てに、ぬいを松永熊次郎に添わせようとするが、熊太郎は金で解決し、熊太郎とぬいは所帯を持つ。熊次郎は熊太郎に30円を借りる。寅吉とぬいの仲がよくなる。熊太郎、とらに養い料を請求される。熊太郎は熊次郎から金を返してもらおうとするが、熊次郎の計略に遭い受け取れない。熊太郎、伝次郎宅に行くがふくろだたきに遭う。
・明治26年(熊太郎36歳)
3月、熊太郎の傷が治る。弥五郎は浅井てると所帯をもとうとするが父親の浅井伝三郎に反対され、手切れ金100円を要求する。
5月、十人斬りの決行。金剛山中に逃げる。二人の最後。

河内音頭や浪曲で主に語られるストーリーに相当するのは小説の最後の1/4か1/5くらいです。この小説の大部分はそこに至るまでの熊太郎の遍歴が描かれています。といっても、史実に明らかにされていない部分をこうだったのではないかと史実補足する目的で書かれているのではなく、町田先生の妄想の翼が自由闊達にかけめぐるフィクションとして創作されています。
この小説の主人公熊太郎はあまりに思弁的なため、自分の感情を直接的に感じてそれを言動にダイレクトに反映させることができない。自らを説明するように客観視している自分が常に同居していて、その思考が渦巻く結果、自分の本音を見失っている。また、本音や直感に対して素直に生きているらしい周りの人々の思惑を慮ることができない。自分に素直に(悪事も含めて)生きている周りの人間の言動と熊太郎の言動とはことごとくフィットしない。その様子を、イキイキとした河内弁の台詞回しと飄逸な心情吐露を用いて描いている。これがこの小説の最大の魅力だと思います。だから河内十人斬りを描いた小説というより、思弁的すぎて思うように世間と渡り合えない男を描いた小説と言った方がよいでしょう。小説の最後の1/5は史実および河内音頭の河内十人斬りをなぞるような内容になっていて、それまでのユーモラスさはあまりありません。けれども、河内十人斬りに興味がある者にとっては、実に楽しめる内容になっています。


物語の舞台を訪ねて

小説「告白」には事件があった水分村界隈のさまざまな場所が描かれています。
2015年夏、物語の舞台を訪ねました。
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大阪唯一の村、千早赤阪村の水分に来ました。

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建水分(たけみまくり)神社境内。建水分神社は地元では通称水分(すいぶん)神社として親しまれています。
正面奥に建水分神社拝殿、右の鳥居は南木(なぎ)神社。

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建水分神社摂社の南木神社。楠木正成を祀ったお社です。
熊太郎が白く輝く正三角形が浮遊するのを見たのはこの鳥居の前の空中です。

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建水分神社の拝殿はこの階段の上。

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拝殿下の階段付近から見た境内。
前方右側にあるのが旧絵馬堂。熊太郎が森の子鬼と角力をとったのはこの前あたりだろうか。

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小説にたまにでてくる「牛滝堂」という場所に行ってみようと思いましたが、Googleマップでは表示されているものの、現場ではいったいどこなのかがわかりませんでした。

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小説にはでてきませんが建水分神社近くにある奉献塔も訪ねました。
楠木正成の没後六百年を記念して、昭和15年に建てられた記念塔です。

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奉献塔の近くから金剛山方面を眺める。

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熊太郎が森の子鬼を探しにいった御所(ごせ)方面へ向かいます。
進行方向に金剛山の山並みが見えます。

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奈良県御所市に入りました。
熊太郎も訪れた一言主(ひとことぬし)神社の参道です。願いごとを一言だけきいてくれる神様を祀っています。
小説では、ちょっと迷っている人の前に突然現れて一言言い放って去ってゆくという不気味な神様(笑)になってます。

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地元の方には「いちごんさん」として親しまれています。

一言主神社は葛城山の麓近くにあります。

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葛城岩橋図
葛城山には巨岩・奇岩があります。図には「胎内めぐり」として大きな岩の間から抜け出そうとしている人が描かれています。
葛城ドールの岩室も葛城山中のどこかにあったのでしょう。

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一言主神社から少し離れた道路に「蛇穴」という地名表示が見えました。「さらぎ」と読みます。
岩室の帰りに、大小数百以上の蛇が生きてぬるぬるおごめいている蛇穴に鹿造が落ちて発狂した場面を思い出します。
珍しい土地の名だなと思って地名事典で「蛇穴」を調べたら「例祭に蛇綱引汁掛祭が行われる。大蛇をかたどった蛇綱を造り境内に奉納、参拝する人々にワカメの味噌汁をかけた」と書いてありました。なんちゅう奇祭でしょうか。

小説の舞台を訪ねる旅は以上です。

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御所にある大衆演劇場「御所羅い舞座」で観劇して別の旅先へと向かいました。

■あとがき
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・京山幸枝若(初代、二代目)
・町田康
・小泉たつみ、小泉ダイヤ、辰巳小龍(たつみ演劇BOX)
私が大好きなそして尊敬している先生方です。先生方の豊かな表現を堪能すると、日本に生まれてきてよかったなあ、もう少し言えば、日本語を母国語とする国に生まれてきてよかったなあとわが身の幸運を祝福したくなります。
この先生方が皆同じ題材「河内十人斬り」を扱っているということで興味が募り、いろいろ調べたのを機に、このブログを作成いたしました。
「河内十人斬り」がもっと演芸ファンの人気を集め、浪曲でも大衆演劇でも多くかけられるようになればいいなあと願っております。

(2016年8月投稿)

青春18きっぷで清水に行って次郎長ゆかりの地をめぐる旅レポート

青春18きっぷで清水に行って次郎長ゆかりの地をめぐる旅レポート

2016年のお盆休み、青春18きっぷでの旅が好きな妻の発案で、静岡県の清水まで日帰り旅行をすることになりました。

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普通列車の長旅なので、旅の気分が満喫できる向かい合わせの窓際の席を確実に確保したい。そのために東海道線の始発駅である東京駅にまず移動しました。

6:07分東京発熱海行きの東海道線に乗り、熱海駅で静岡行きの東海道線に乗り換えて、9時08分に清水駅着。
参考までに、青春18きっぷを使うと1日の乗車運賃が2,370円、東京~清水のJR往復運賃は6,040円(新幹線を使うと11,000円以上)ですからだいぶお得です。

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駅前をちょっと歩くと、いかにも清水にきたなあと思わせる看板が目に入ります。

駅から次郎長ゆかりの地までは歩いて30~40分ぐらいのようなので、歩いてゆくことにします。

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清水次郎長の菩提寺、梅蔭禅寺(ばいいんぜんじ)に着きました。

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日本で唯一らしい次郎長の銅像があります。

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次郎長遺品館では、次郎長関係の遺品がたくさん陳列されています。中でも重要なのは山岡鉄舟が次郎長に贈った「精神満腹」の書です
ここでは侠客としての次郎長はあまり紹介されていません。次郎長と黒駒勝蔵との争いが終息する明治維新以降、特に山岡鉄舟に出会い改心した後の次郎長のエピソードがたくさん紹介されています。
次郎長の偉業の一部を挙げてみましょう。
・明治元年、損傷した幕軍の軍艦咸臨丸が清水港に避難していた際に、新政府軍の軍艦がこれを襲撃した。港には多くの死体が浮いて漁師が困っていたが、朝敵とされる兵士を祀ることは許されておらず、駿府藩は手出しできなかった。次郎長は「死ねば仏だ」と自らの責任において子分とともに遺骸を回収して葬り、壮士の墓を建てた
・明治7年から26年にかけて富士山麓の開墾をした。
・清水の旦那衆を説いて蒸気船三艘を作らせ静隆社という会社を設立した。
・横浜から教師を雇って英語塾を開設した。

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次郎長の墓。他に、大政、小政、石松、増川仙右ェ門、お蝶(一代~三代)の墓もあります。森の石松の墓は森町の大洞院や愛知県の洞雲寺にもありますが、ここにあるのは分骨して建立したもののようです。

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次郎長の墓に線香をお供えしました。

梅蔭禅寺で次郎長グッズを買い込み、次郎長生家へ。

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次郎長通り商店街

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商店街沿いに次郎長の生家がありました。

次郎長はこの場所で廻船業、高木三右衛門の次男として生まれました。名は長五郎。
その後、母親の弟で甲田屋という米穀商を営んでいる山本次郎八の養子となりました。
「次郎八のところの長五郎」が縮まって通称「次郎長」になりました。

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生家内部。かなり老朽化が激しく、2016年に改修工事を行うとのことでした。

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次郎長はこの井戸の水で産湯につかりました。

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キセル、煙草入れ等。

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次に清水港船宿記念館「末廣」を訪ねました。

明治19年、次郎長が67歳のときに、「末廣」という船宿を開業しました。その建物は次郎長の死後、売却され、さらに移築されました。平成11年にその部材が発見され平成13年にその部材を用いて「末廣」が復元され記念館となりました。

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次郎長は末廣の2階に英語塾を開きました。復元された末廣の2階にそれが再現されています。

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明治10年代の次郎長宅(左寄りの2階建ての家)
明治19年に末廣ができるまでこの家にいました。

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実際末廣があった場所は記念館よりも少し海側にありました。
その場所に平成11年に建てられた次郎長宅跡という碑があります。
次郎長はこの場所にあった末廣で亡くなりました。

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記念館から200mくらい離れた場所に「壮士の墓」がありました。

次郎長ゆかりの地めぐりは以上で終わりです。

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末廣の近くにエスパルスドリームプラザという賑やかな商業施設があります。

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ドリームプラザ内の「清水すし横丁」で寿司ランチ。

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水上バスを使って三保の松原に移動しました。写真は「羽衣の松」

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曇っていて残念ながら富士山は見えません。

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再びバスで移動し、清水駅近くの市場に行きました。
清水港はマグロの水揚げが日本一だそうです。マグロをウリにした食堂がいくつかあります。

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次郎長+マグロ=かし丸くん

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夕食はまぐろトロ三昧定食

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参考までに、市場→エスパルスドリームプラザ→三保→市場→・・・のように水上バスが走っています。
ただし水上バスの三保の発着所は三保の松原までは結構遠いです。

夕食後、清水駅から普通電車を乗り継いで帰宅しました。

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翌朝、次郎長生家の近くの和菓子屋さんで買った銘菓「次郎長笠」をいただきました。
直径15cmもあるジャンボどら焼きです。栗や求肥が入っていて美味しい。

普通電車に長く乗るのは疲れるかなと思っていたのですが、本を読んだりウトウトしたりしているうちにすぐ着いてしまった印象。
青春18きっぷを使えば結構気軽に行けるなと思いました。
今度は富士山がきれいに見えそうなときに行ってみたいと思います。

(2016年8月)

城下町にある、殿様の名前を冠した劇場 「新吉宗劇場」

城下町にある、殿様の名前を冠した劇場 「新吉宗劇場」

徳川吉宗は1684年紀州二代藩主徳川光貞の四男として生まれました。兄たちの相次ぐ急逝で紀州藩主となった後、33歳のときに徳川八代将軍となりました。武芸・学問を奨励し、質素倹約がモットーで、木綿を着用し食事も一日二食の一汁二菜。
独立した廟を建てないようにという遺言を残して68歳で亡くなったという。

和歌山駅付近を観光しているとあちこちに「吉宗」の文字を見かけます。

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徳川吉宗像

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徳川吉宗公誕生地

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和歌山城

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天守閣から海を眺める

和歌山市民の誰もが吉宗に親しみをもっていることでしょう。
この地に生まれた大衆演劇場に吉宗の名が冠せられるのは自然なことだと思います。

2013年7月にオープンした新吉宗劇場(オープン当時は吉宗劇場)を訪ねました。

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新吉宗劇場が入っているビル

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葵の御紋の周りに「Wakayama Yoshimune Theater」の文字。
劇場のロゴマークがでかでかとビルに描かれています。

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入口

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入口前に受付(チケット売り場)があります。
入口入ってすぐ左には鈴蘭という喫茶店があります。

劇場は2階です。

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劇場図面
劇場にしてはちょっとかわったレイアウト。

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劇場後方より。
劇場内に入ってまず気が付くのが・・・

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この柱。

これまでいろいろ大衆演劇場を見てきましたので
舞台の前の目立つところに柱があっても驚かなくなりました。

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横から見た舞台前

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新吉宗劇場の客席

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花道

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この日は大入り。
このキャラクターは吉宗公でしょうか。

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お客さんは左の方にかたまっていました。
右の方の席にいた私は公演中にその理由がわかりました。
右側の席にいると花道を見ようとすると例の柱が邪魔するのです。
休み時間に席替えをするお客さんが何人かいました。

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天井は高い。、
このような広い舞台空間の中だと役者も映える。

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しかし舞台の床はそれほど高くない。そして客席の勾配もゆるやかだ。前の席のお客さんの頭が少し気になる。
劇場を設計するにあたり、舞台の高さと客席の勾配の問題は本当に難しいと思う。

写真ではお伝えしにくいのですが
新吉宗劇場はアットホームな雰囲気が魅力です。

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劇場出入り口横に置かれているのは「足置き」
座席の高さが合わないお客さんへの配慮でしょう。

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1階の喫茶鈴蘭から劇場への出前もやってくれるようです。

終演後、喫茶鈴蘭に入ってみました。

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広く明るい喫茶店です。

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人気メニューだというオムライスを注文しました。
美味しかった!

(2015年9月探訪)
プロフィール

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Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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