私のもさく座探訪記 第3話:それぞれ乗り越えてきた道 劇団千章、行田はみどころたくさん 城と古墳と国宝
私のもさく座探訪記
第3話:それぞれ乗り越えてきた道 劇団千章、行田はみどころたくさん 城と古墳と国宝
2014年2月にもさく座にのったのは関東の人気劇団、一見劇団でした。
私はファミリー劇団が好き。もちろん一見劇団も好きです。
しかしもさく座で一見劇団とのお食事会がある日は私は仕事があり行田に行くことができませんでした。
でもこの日は、仕事がなかったとしても私はお食事会に行くことができなかったかもしれません。
その日は関東地方に記録的な大雪が降りました。首都圏の交通機関は乱れ、多くの路線がマヒしていました。
今日のお食事会には人が集まらないのだろうな、と私は職場でもさく座に思いを馳せていました。
後で聞いた話では、そんな状況にもかかわらずお食事会の参加者は多かったそうです。
その翌月もさく座にのったのは劇団千章。
私はお食事会の日に、例によって、送迎予約・宿泊予約・座席予約をしてもさく座に行きました。

劇場のある新館の入口には、毎月このように座員の顔と名前がわかるポスターが貼り出されます。
足繁く通って座員の顔を覚える余裕のない大衆演劇ファンにとってこのようなポスターはとてもうれしい。

今日の昼の芝居は「瞼の母」
キタ!

♪軒下三寸~
「瞼の母」の歌が流れて幕が開きました。
おむかいのお客さんがBGMにあわせて歌を口ずさんでいます。
市川良二座長が忠太郎、市川千章がおはま
という配役。
千章のおはまがよかった。さすがベテランの味わい。
お昼の部を観劇後、ホテルにチェックインしました。

今日は和室です。
この和室には露天風呂がついている。(ついていない部屋もある)

べランダに設置された木の浴槽
さっそく入ってみよう。まずお湯を入れよう。
と思ったのです蛇口がみつかりません。
どうやってお湯を入れるのか?

よく見ると壁にレバーのようなものが。
これか?
レバーをひねってみました。

出た!
が、お湯がぬるい・・・
ここの温泉の源泉は41.4度。
まだ寒い3月。ここまで汲みあがるまでに冷めてしまうのでしょうか。
まあ無理してここでお風呂に入ることもない。
茂美の湯に行って温泉に浸かりました。
この日はなぜか洞窟風呂にお湯が入っていませんでした。
夜の部。
いつもは18:30からですが、この日はお食事会の日なので18時から。
お芝居が終わって第2部は舞踊ショー。
以下劇団千章のメンバーを何人か写真で紹介します。

市川千章

座長 市川良二

神楽坂美佳

天童愛勝(よしかつ)

澤村新之介

澤村青空・沙羅
(澤村新之介の娘です)

夜の部ラストショーの市川良二と澤村新之介
劇団千章については、このブログをお読みの方はいろいろご存じかと思います。
人気も実力も折り紙つきであった市川千太郎劇団。どういうわけか知りませんが座長が去り、兄の良二が座長となり劇団千章として活動することとなりました。
兄の良二がどういう胸中であったか、私には知るよしもありません。ただ、人生でそうそう起こることのない試練のような時を乗り越えて来たのだろうことは想像に難くありません。
劇団千章には、他にも気になる役者がいます。
この日の公演では澤村新之介のいぶし銀の活躍が印象的でした。
夜の部の芝居では長い芝居の啖呵を実に流暢に言い放っていました。若い役者ではなかなかできないだろう芸当。プロの技というか、長い間かかって身体に染みついた旅役者の芸という感じです。
私が初めて澤村新之介を見たのは2010年10月の大島劇場、劇団扇也の公演においてでした。
↓そのときの写真

親子での相舞踊
澤村新之介はその後、伊達劇団にいた弟の澤村龍司とともに2011年6月に劇団さわむらを旗揚げしました。
新之介と龍司の兄弟座長です。
しかし私が2011年11月に劇団さわむらの公演を観にいったとき、そこには新之介座長の姿はありませんでした。
何があったのか5か月で新之介座長は劇団さわむらを去りました。
そして今、劇団千章にいます。
私が知っているのはその程度のことであります。
「旅役者」という語はある感懐を私にもたらします。
何か郷愁を誘うこの語に魅かれて私は大衆演劇の世界にはいりこんでゆきました。
そしてこの世界に接するうちに、「旅役者」についてより複雑で広がりのあるイメージを持つようになりました。
ひとりひとり、さまざまな境遇でそれぞれの宿命に生きている。その生き様は千差万別。
その中に「人生という海を旅している根無し草」というイメージを私に与える役者がいます。
澤村新之介はそんな役者のひとり。
旅役者の父親とその手にひかれた幼い子供が、全国を転々と旅しながら、またいくつもの劇団をわたり歩きながら、それぞれの土地の楽屋で暮らす、という光景を思い描いたとき、私の胸は映画的ペーソスでいっぱいになります。
(実際どのような境遇・心境であったのかは知りません。あくまで私の勝手なイメージです)
根無し草といえば、旅役者を描いた小津安二郎の映画のタイトルは「浮草」でした。
ここでちょっと脱線をお許しいただきたい。
かつて澤村新之介が出演していた劇団扇也についてです。
主に東日本をまわっていましたから関西の方にはなじみのうすい劇団だと思います。
私が最も愛する大衆演劇場は昭和の香りがいっぱいの川崎大島劇場。
その大島劇場の雰囲気に一番マッチする劇団だと私が思うのが劇団扇也です。いや正確に言いますと劇団扇也「でした。」
扇也は今(2014年9月)はなくなってしまったのです。扇也としての活動は2014年3月が最後でしょうか。
三河家扇弥と仁蝶拓也の二人座長。それぞれの名をとって扇也。
私はどこかノスタルジーを感じるこの劇団のテイストが大好きだったのです。
なくなったことが名残り惜しく、ここに回想させていただく次第です。

三河家扇弥座長
とにかくシブい。あの粋なかっこよさはどう表現したらよいのだろう。
扇弥座長を写真におさめると、自然とこのような昭和のブロマイドのよう雰囲気になってしまう。
そして、私にとって扇也といえば

扇梨の歌、でもあります。
スタイルのいい扇梨にはドレスの衣装が似合う。
そしてスポットライトに浮かび上がって歌唱する様はとても絵になる。
私は扇梨の歌の時間を楽しみにしていました。
大衆演劇ファン層の圧倒的多数を占める女性にとっては、女性座員による歌は「別に・・・」な感じなのかもしれない。
が、私は少数派の男性大衆演劇ファンのひとりとして言いたい。
芝居小屋においてそこはかとなく妖艶な、どこかに陰翳をはらんだ女性が歌う様には魅了されるものがあると。
そして大島劇場においては劇場独特の場末感が扇梨のステージに蠱惑的ムードを増長する効果を生み出す。
センター公演が多かった扇也ですが、大島劇場での公演は多くの演劇ファンに見てほしいと私は思っていました。
芝居でも扇也独特の演出を見たことがあります。
芝居のいいところでBGMの演歌・歌謡曲が流れるというのはどの劇団でもある演出です。
しかし、芝居のいいところで、役者すなわち登場人物が歌いだしたのを私が見たのは扇也だけ。
その日、第2部の時間になり拍子木の音とともに音楽が流れると、芝居の開始を宣言するように女性の声で次のアナウンスがありました。
「浮世歌草子 男の劇場」(続いて場を盛り上げるBGM)
うたぞうし? 昭和の匂いがプンプンする文句です。
続いて男の声で、本日の芝居の演題がアナウンスされ、幕が開きました。
さて終盤近く、その場面がきました。
かなり省略して書くとこんな感じです。A扇弥座長とB拓也座長のやりとり。
A 「ドスを抜いて勝負しろい」
B 「相手になってやろうじゃねえか」
(音楽が流れイントロが始まる)
A 「(♪歌詞)」 (Aメロを唄う)
B 「(♪歌詞)」(Bメロを唄う)
A・B 「(♪歌詞)」 (ハモる)
A・B 「うりゃっ」(サビを唄い終わった瞬間、二人斬り結ぶ)
なんという演出。いやいいですよ。これは。
この後にも、BGMなしで二人が唄う場面がでてきます。
役者が歌う演劇といえばミュージカル。
私は大衆演劇ミュージカルというものアリなのではないかと思ったのでした。
昭和の息吹を感じるこってりした時代劇。それが扇也の芝居でした。
しかしもう見ることができないのです。
劇団扇也はなくなり劇団員はばらばらになりました。
劇団員だった扇勝也さんはその後いろんな劇団を渡り歩いています。
扇也は大きな苦難を乗り越えてきた劇団でもありました。
2011年3月11月の東日本大震災は大衆演劇界にも大きなダメージを与えました。
劇団扇也は岩手県宮古の海に近いホテルで公演していました。宴会場のあった1階が被災。着物数百枚他多くの劇団の道具が流されました。劇団員は11日間避難所で生活したそうです。
(余談:昨年大島劇場で扇也の公演中、扇弥座長の舞踊のときに震度4の地震がありました。お客さんが動揺するなか扇弥座長はふつうに踊りきり、その後にこう言いました「地震には自信があります」)
劇団戸田は公演していた岩手の大槌町のホテルが被災。海に面していたホテルの地下1階の公演場所はめちゃめちゃになり舞台道具もやられてしまった。
瀬川伸太郎座長率いる不二浪劇団は福島県の蟹洗温泉という施設で公演していました。この施設も海に面しており、津波は窓を破って1階部分を突き抜けました。その場にいたら命はなかったでしょう。劇団員は避難して逃げ延びました。しかし舞台の道具すべては津波にのまれてしまった。
その後もさく座の社長が劇団員のためにホテルを用意して劇団は避難所から茂美の湯に移動したそうです。さすが社長。
当然劇団は公演を続けることができず、4月からは劇団員はばらばらになっていろんな劇団のお世話になりました。
震災後のいろんな役者さんのブログを読んで、大衆演劇界の役者さん同士が強い絆で結ばれていることを知りました。
不二浪劇団にも多くの劇団からの支援があったようです。
当面は不二浪劇団は単独公演を打つことはできないだろうと私は思っていましたが、なんとたった3ヶ月程度の休演後、7月の公演から復帰することとなったのでした。
私はうれしくなり7月1日の復帰公演を観に茨城県まで行きました。(そのときのブログはこちら)
・・・しかしその後不二浪劇団は休業となってしまい、また劇団員はばらばらになってしまいました。
瀬川伸太郎は章劇へ。大月瑠也は煌座へ。
そして、神楽坂美佳と天童よしかつは劇団千章へ。
* * *
話はもさく座の劇団千章の公演に戻ります。
私が神楽坂美佳と天童よしかつを見たのはあの復活公演以来でした。
神楽坂美佳の舞踊がとてもよかった。うまくなった。
市川良二座長、澤村新之介、神楽坂美佳
それぞれがそれぞれの荒波を乗り越えて同じ舞台に立っている。
私の目に劇団千章はそのように映っていました。

送り出しの際、本日のお客さん全員に良二座長がお茶をプレゼントしてくれました。
夜の部が終わり2階のお食事会会場へ。
また座る場所を探すのに気をもむのかなと思ったら、机の上に名前を書いた紙が置かれていました。
お食事会は指定席になったようです。
名前は知らないけれど顔なじみになったおばちゃんの向かいでした。「待ってたよ。来ると思ってたよ」と言ってくれたおばちゃん。
前回一緒に座長部屋を訪問したTさんは参加しているだろうか、と私はまわりを見回しました。今回はいらっしゃらないようです。
皆さんがお弁当に手をつけると、例によって家から自家製漬物を持ってきたおばちゃんがまわりにふるまい始めます。

このざっくばらんな雰囲気がいい。
隣に座った初対面の方と仲良くお話する、というのはセンターではよくある光景なのかもしれません。でもここのお食事会はもっと日常的なゆるさがあります。演劇以外の話をしていることも多い。
この日も近くに座っていたおばちゃん(初めて話す)が話しかけてきました。
「こないだね、中国のいなかの方に行ってきたの。そしたらね、むこうは全然食べるものがないのよ。それで、むこうの人たちが何か焼いていたの。何だと思う?犬なのよ」
「へー。そうですかー」
私はとても人見知りですが、自己紹介をせずとも周りの人と日常のようにお話することにようやく慣れてきました。
劇団千章の皆さんがやってきて、いつものように挨拶があって、良二座長の発声で乾杯。
場もだんだん盛り上がってきて、劇団千章のみなさんがお客さんの席にまわり出しました。
良二座長は、人のいいやさしいお兄ちゃんという感じ。ほっとするような笑顔がさわやか。
澤村新之介さんも来ました。
娘さんの舞台がよかったので、そのことを聞いてみたら、親からは積極的に芸を仕込むようなことはせず子供達にまかせているとのこと。子供達が自主的に芸の工夫を考えているみたいです。親を見て自分でやらなきゃという使命感が早くも芽生えたのでしょうか。
新之介さんが話のなかでぽつりと言ったことがとても印象に残っています。
「いくつになっても芸に精進するのみです」
このようなことをおっしゃっていました。まさにあのいぶし銀の芸を裏打ちする言葉だなと思いました。
天童よしかつさんも来ました。
私はどうしようかとちょっと悩んだあげく、蟹洗温泉のことを話題にしてみました。が、やはり思い出したくないだろうなと思い、すぐその話題はやめました。今度、若手の会のようなものがあり、その日のショーの演出をまかされているらしく張り切っていました。
飲んだりお話ししたりしている最中、せっせと働いている従業員の方とふと目が合いました。
するとその方の顔が花が開いたように笑顔になりました。
「Tさん!?」
そこに居たのは従業員用の着物を来たTさんでした。笑顔で再会した私とTさん。
訊くと、すっかりもさく座が気に入ってしまったTさんは、茂美の湯の従業員を志願して採用されたとのことでした。
束の間に知り合った方とまた再会できるって嬉しいものだな、と実感したのでした。
お食事会の後はホテル湯本で宿泊。
翌日は観劇せず朝ホテルを出ました。
もさく座に行ったのであればついでに寄るとよいスポットを紹介します。
もさく座のすぐ近く、あるいて数分のところに「さきたま古墳公園」があります。
「さきたま」は漢字では「埼玉」。つまりここの地名が「埼玉県」の県名の由来になっているのですね。

古墳公園の名のとおり、驚くほどたくさんの古墳が点在しています。
三世紀前半に日本列島に前方後円墳が出現しました。
三世紀に奈良三輪山の麓の纏向(まきむく)遺跡に前方後円墳が造られてから飛鳥に宮都が置かれる592年までの約370年の文化を古墳文化といいます。初期の前方後円墳は初期のヤマト王権の大王墓であり、その後全国に広まっていった前方後円墳の分布範囲がヤマト王権の影響が及んでいた範囲とみられます。

これは丸墓山古墳。日本最大の円墳だそうです。
石田三成が忍城を攻める際にこの古墳の上に本陣を構えました。

丸墓山頂上から西北を望む。茂美の湯本館の黄色い建物が目立つ。
三成はここで忍城の水攻めを画策しました。
2012年公開の映画「のぼうの城」は忍城を守る成田長親とこれを責める豊臣方の石田三成が描かれた作品です。

絵に描いたようなきれいな前方後円墳。
この古墳にも登ることができます。
このように古墳がゴロゴロ点在している公園です。

古墳は大事にしよう。
これらの古墳からは多くの出土品がみつかっています。

なかでも稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてつけん)」(さきたま史跡の博物館所蔵)は国宝に指定されています。
3世紀から4世紀にかけてはヤマト王権が、日本列島の大半を治める朝廷に発展した時代です。しかしこの頃の文字資料は国内外に乏しく「謎の4世紀」となっています(それより前の時代には支那に「魏志倭人伝」という文献がありますが、書かれているのは3世紀半ばまでのことです)。
国内で書かれた最古の文字は行田稲荷山古墳の鉄銘剣か、熊本県江田船山古墳の鉄刀銘とされています(別の遺跡から出土したもっと古い時代の土器などに文字があると報告されていますが、刻まれているのは一文字だけであり、文字かどうかも疑わしいものがあります。115文字が刻まれた「金錯銘鉄剣」は「史料」でありその価値は極めて高いといえます)。
ではその日本最古とも言われている文字史料はいつ書かれたのでしょうか。
この剣には「辛亥の年七月中、記す…」と書かれています。
「辛亥」とあることから西暦471年と見られています。これらの文字は古代国家の成立を読み解く貴重な手がかりとなっています。
この後私は茂美の湯の送迎車ではなく一般のバスを使って帰りました。

もさく座から徒歩9分ほどの場所に「佐間交差点」があります。この交差点近くに「産業道路」バス停があり、JR吹上駅を結ぶ路線バスが走っています。
もさく座の送迎時間と都合が合わない場合は吹上駅からの路線バスを使うとよいでしょう。
(第3話おわり)
<第4話>
「その4:衝撃的だった橘鈴丸座長の入魂の舞踊、歴史のまち行田の中心地を行く」
第3話:それぞれ乗り越えてきた道 劇団千章、行田はみどころたくさん 城と古墳と国宝
2014年2月にもさく座にのったのは関東の人気劇団、一見劇団でした。
私はファミリー劇団が好き。もちろん一見劇団も好きです。
しかしもさく座で一見劇団とのお食事会がある日は私は仕事があり行田に行くことができませんでした。
でもこの日は、仕事がなかったとしても私はお食事会に行くことができなかったかもしれません。
その日は関東地方に記録的な大雪が降りました。首都圏の交通機関は乱れ、多くの路線がマヒしていました。
今日のお食事会には人が集まらないのだろうな、と私は職場でもさく座に思いを馳せていました。
後で聞いた話では、そんな状況にもかかわらずお食事会の参加者は多かったそうです。
その翌月もさく座にのったのは劇団千章。
私はお食事会の日に、例によって、送迎予約・宿泊予約・座席予約をしてもさく座に行きました。

劇場のある新館の入口には、毎月このように座員の顔と名前がわかるポスターが貼り出されます。
足繁く通って座員の顔を覚える余裕のない大衆演劇ファンにとってこのようなポスターはとてもうれしい。

今日の昼の芝居は「瞼の母」
キタ!

♪軒下三寸~
「瞼の母」の歌が流れて幕が開きました。
おむかいのお客さんがBGMにあわせて歌を口ずさんでいます。
市川良二座長が忠太郎、市川千章がおはま
という配役。
千章のおはまがよかった。さすがベテランの味わい。
お昼の部を観劇後、ホテルにチェックインしました。

今日は和室です。
この和室には露天風呂がついている。(ついていない部屋もある)

べランダに設置された木の浴槽
さっそく入ってみよう。まずお湯を入れよう。
と思ったのです蛇口がみつかりません。
どうやってお湯を入れるのか?

よく見ると壁にレバーのようなものが。
これか?
レバーをひねってみました。

出た!
が、お湯がぬるい・・・
ここの温泉の源泉は41.4度。
まだ寒い3月。ここまで汲みあがるまでに冷めてしまうのでしょうか。
まあ無理してここでお風呂に入ることもない。
茂美の湯に行って温泉に浸かりました。
この日はなぜか洞窟風呂にお湯が入っていませんでした。
夜の部。
いつもは18:30からですが、この日はお食事会の日なので18時から。
お芝居が終わって第2部は舞踊ショー。
以下劇団千章のメンバーを何人か写真で紹介します。

市川千章

座長 市川良二

神楽坂美佳

天童愛勝(よしかつ)

澤村新之介

澤村青空・沙羅
(澤村新之介の娘です)

夜の部ラストショーの市川良二と澤村新之介
劇団千章については、このブログをお読みの方はいろいろご存じかと思います。
人気も実力も折り紙つきであった市川千太郎劇団。どういうわけか知りませんが座長が去り、兄の良二が座長となり劇団千章として活動することとなりました。
兄の良二がどういう胸中であったか、私には知るよしもありません。ただ、人生でそうそう起こることのない試練のような時を乗り越えて来たのだろうことは想像に難くありません。
劇団千章には、他にも気になる役者がいます。
この日の公演では澤村新之介のいぶし銀の活躍が印象的でした。
夜の部の芝居では長い芝居の啖呵を実に流暢に言い放っていました。若い役者ではなかなかできないだろう芸当。プロの技というか、長い間かかって身体に染みついた旅役者の芸という感じです。
私が初めて澤村新之介を見たのは2010年10月の大島劇場、劇団扇也の公演においてでした。
↓そのときの写真

親子での相舞踊
澤村新之介はその後、伊達劇団にいた弟の澤村龍司とともに2011年6月に劇団さわむらを旗揚げしました。
新之介と龍司の兄弟座長です。
しかし私が2011年11月に劇団さわむらの公演を観にいったとき、そこには新之介座長の姿はありませんでした。
何があったのか5か月で新之介座長は劇団さわむらを去りました。
そして今、劇団千章にいます。
私が知っているのはその程度のことであります。
「旅役者」という語はある感懐を私にもたらします。
何か郷愁を誘うこの語に魅かれて私は大衆演劇の世界にはいりこんでゆきました。
そしてこの世界に接するうちに、「旅役者」についてより複雑で広がりのあるイメージを持つようになりました。
ひとりひとり、さまざまな境遇でそれぞれの宿命に生きている。その生き様は千差万別。
その中に「人生という海を旅している根無し草」というイメージを私に与える役者がいます。
澤村新之介はそんな役者のひとり。
旅役者の父親とその手にひかれた幼い子供が、全国を転々と旅しながら、またいくつもの劇団をわたり歩きながら、それぞれの土地の楽屋で暮らす、という光景を思い描いたとき、私の胸は映画的ペーソスでいっぱいになります。
(実際どのような境遇・心境であったのかは知りません。あくまで私の勝手なイメージです)
根無し草といえば、旅役者を描いた小津安二郎の映画のタイトルは「浮草」でした。
ここでちょっと脱線をお許しいただきたい。
かつて澤村新之介が出演していた劇団扇也についてです。
主に東日本をまわっていましたから関西の方にはなじみのうすい劇団だと思います。
私が最も愛する大衆演劇場は昭和の香りがいっぱいの川崎大島劇場。
その大島劇場の雰囲気に一番マッチする劇団だと私が思うのが劇団扇也です。いや正確に言いますと劇団扇也「でした。」
扇也は今(2014年9月)はなくなってしまったのです。扇也としての活動は2014年3月が最後でしょうか。
三河家扇弥と仁蝶拓也の二人座長。それぞれの名をとって扇也。
私はどこかノスタルジーを感じるこの劇団のテイストが大好きだったのです。
なくなったことが名残り惜しく、ここに回想させていただく次第です。

三河家扇弥座長
とにかくシブい。あの粋なかっこよさはどう表現したらよいのだろう。
扇弥座長を写真におさめると、自然とこのような昭和のブロマイドのよう雰囲気になってしまう。
そして、私にとって扇也といえば

扇梨の歌、でもあります。
スタイルのいい扇梨にはドレスの衣装が似合う。
そしてスポットライトに浮かび上がって歌唱する様はとても絵になる。
私は扇梨の歌の時間を楽しみにしていました。
大衆演劇ファン層の圧倒的多数を占める女性にとっては、女性座員による歌は「別に・・・」な感じなのかもしれない。
が、私は少数派の男性大衆演劇ファンのひとりとして言いたい。
芝居小屋においてそこはかとなく妖艶な、どこかに陰翳をはらんだ女性が歌う様には魅了されるものがあると。
そして大島劇場においては劇場独特の場末感が扇梨のステージに蠱惑的ムードを増長する効果を生み出す。
センター公演が多かった扇也ですが、大島劇場での公演は多くの演劇ファンに見てほしいと私は思っていました。
芝居でも扇也独特の演出を見たことがあります。
芝居のいいところでBGMの演歌・歌謡曲が流れるというのはどの劇団でもある演出です。
しかし、芝居のいいところで、役者すなわち登場人物が歌いだしたのを私が見たのは扇也だけ。
その日、第2部の時間になり拍子木の音とともに音楽が流れると、芝居の開始を宣言するように女性の声で次のアナウンスがありました。
「浮世歌草子 男の劇場」(続いて場を盛り上げるBGM)
うたぞうし? 昭和の匂いがプンプンする文句です。
続いて男の声で、本日の芝居の演題がアナウンスされ、幕が開きました。
さて終盤近く、その場面がきました。
かなり省略して書くとこんな感じです。A扇弥座長とB拓也座長のやりとり。
A 「ドスを抜いて勝負しろい」
B 「相手になってやろうじゃねえか」
(音楽が流れイントロが始まる)
A 「(♪歌詞)」 (Aメロを唄う)
B 「(♪歌詞)」(Bメロを唄う)
A・B 「(♪歌詞)」 (ハモる)
A・B 「うりゃっ」(サビを唄い終わった瞬間、二人斬り結ぶ)
なんという演出。いやいいですよ。これは。
この後にも、BGMなしで二人が唄う場面がでてきます。
役者が歌う演劇といえばミュージカル。
私は大衆演劇ミュージカルというものアリなのではないかと思ったのでした。
昭和の息吹を感じるこってりした時代劇。それが扇也の芝居でした。
しかしもう見ることができないのです。
劇団扇也はなくなり劇団員はばらばらになりました。
劇団員だった扇勝也さんはその後いろんな劇団を渡り歩いています。
扇也は大きな苦難を乗り越えてきた劇団でもありました。
2011年3月11月の東日本大震災は大衆演劇界にも大きなダメージを与えました。
劇団扇也は岩手県宮古の海に近いホテルで公演していました。宴会場のあった1階が被災。着物数百枚他多くの劇団の道具が流されました。劇団員は11日間避難所で生活したそうです。
(余談:昨年大島劇場で扇也の公演中、扇弥座長の舞踊のときに震度4の地震がありました。お客さんが動揺するなか扇弥座長はふつうに踊りきり、その後にこう言いました「地震には自信があります」)
劇団戸田は公演していた岩手の大槌町のホテルが被災。海に面していたホテルの地下1階の公演場所はめちゃめちゃになり舞台道具もやられてしまった。
瀬川伸太郎座長率いる不二浪劇団は福島県の蟹洗温泉という施設で公演していました。この施設も海に面しており、津波は窓を破って1階部分を突き抜けました。その場にいたら命はなかったでしょう。劇団員は避難して逃げ延びました。しかし舞台の道具すべては津波にのまれてしまった。
その後もさく座の社長が劇団員のためにホテルを用意して劇団は避難所から茂美の湯に移動したそうです。さすが社長。
当然劇団は公演を続けることができず、4月からは劇団員はばらばらになっていろんな劇団のお世話になりました。
震災後のいろんな役者さんのブログを読んで、大衆演劇界の役者さん同士が強い絆で結ばれていることを知りました。
不二浪劇団にも多くの劇団からの支援があったようです。
当面は不二浪劇団は単独公演を打つことはできないだろうと私は思っていましたが、なんとたった3ヶ月程度の休演後、7月の公演から復帰することとなったのでした。
私はうれしくなり7月1日の復帰公演を観に茨城県まで行きました。(そのときのブログはこちら)
・・・しかしその後不二浪劇団は休業となってしまい、また劇団員はばらばらになってしまいました。
瀬川伸太郎は章劇へ。大月瑠也は煌座へ。
そして、神楽坂美佳と天童よしかつは劇団千章へ。
* * *
話はもさく座の劇団千章の公演に戻ります。
私が神楽坂美佳と天童よしかつを見たのはあの復活公演以来でした。
神楽坂美佳の舞踊がとてもよかった。うまくなった。
市川良二座長、澤村新之介、神楽坂美佳
それぞれがそれぞれの荒波を乗り越えて同じ舞台に立っている。
私の目に劇団千章はそのように映っていました。

送り出しの際、本日のお客さん全員に良二座長がお茶をプレゼントしてくれました。
夜の部が終わり2階のお食事会会場へ。
また座る場所を探すのに気をもむのかなと思ったら、机の上に名前を書いた紙が置かれていました。
お食事会は指定席になったようです。
名前は知らないけれど顔なじみになったおばちゃんの向かいでした。「待ってたよ。来ると思ってたよ」と言ってくれたおばちゃん。
前回一緒に座長部屋を訪問したTさんは参加しているだろうか、と私はまわりを見回しました。今回はいらっしゃらないようです。
皆さんがお弁当に手をつけると、例によって家から自家製漬物を持ってきたおばちゃんがまわりにふるまい始めます。

このざっくばらんな雰囲気がいい。
隣に座った初対面の方と仲良くお話する、というのはセンターではよくある光景なのかもしれません。でもここのお食事会はもっと日常的なゆるさがあります。演劇以外の話をしていることも多い。
この日も近くに座っていたおばちゃん(初めて話す)が話しかけてきました。
「こないだね、中国のいなかの方に行ってきたの。そしたらね、むこうは全然食べるものがないのよ。それで、むこうの人たちが何か焼いていたの。何だと思う?犬なのよ」
「へー。そうですかー」
私はとても人見知りですが、自己紹介をせずとも周りの人と日常のようにお話することにようやく慣れてきました。
劇団千章の皆さんがやってきて、いつものように挨拶があって、良二座長の発声で乾杯。
場もだんだん盛り上がってきて、劇団千章のみなさんがお客さんの席にまわり出しました。
良二座長は、人のいいやさしいお兄ちゃんという感じ。ほっとするような笑顔がさわやか。
澤村新之介さんも来ました。
娘さんの舞台がよかったので、そのことを聞いてみたら、親からは積極的に芸を仕込むようなことはせず子供達にまかせているとのこと。子供達が自主的に芸の工夫を考えているみたいです。親を見て自分でやらなきゃという使命感が早くも芽生えたのでしょうか。
新之介さんが話のなかでぽつりと言ったことがとても印象に残っています。
「いくつになっても芸に精進するのみです」
このようなことをおっしゃっていました。まさにあのいぶし銀の芸を裏打ちする言葉だなと思いました。
天童よしかつさんも来ました。
私はどうしようかとちょっと悩んだあげく、蟹洗温泉のことを話題にしてみました。が、やはり思い出したくないだろうなと思い、すぐその話題はやめました。今度、若手の会のようなものがあり、その日のショーの演出をまかされているらしく張り切っていました。
飲んだりお話ししたりしている最中、せっせと働いている従業員の方とふと目が合いました。
するとその方の顔が花が開いたように笑顔になりました。
「Tさん!?」
そこに居たのは従業員用の着物を来たTさんでした。笑顔で再会した私とTさん。
訊くと、すっかりもさく座が気に入ってしまったTさんは、茂美の湯の従業員を志願して採用されたとのことでした。
束の間に知り合った方とまた再会できるって嬉しいものだな、と実感したのでした。
お食事会の後はホテル湯本で宿泊。
翌日は観劇せず朝ホテルを出ました。
もさく座に行ったのであればついでに寄るとよいスポットを紹介します。
もさく座のすぐ近く、あるいて数分のところに「さきたま古墳公園」があります。
「さきたま」は漢字では「埼玉」。つまりここの地名が「埼玉県」の県名の由来になっているのですね。

古墳公園の名のとおり、驚くほどたくさんの古墳が点在しています。
三世紀前半に日本列島に前方後円墳が出現しました。
三世紀に奈良三輪山の麓の纏向(まきむく)遺跡に前方後円墳が造られてから飛鳥に宮都が置かれる592年までの約370年の文化を古墳文化といいます。初期の前方後円墳は初期のヤマト王権の大王墓であり、その後全国に広まっていった前方後円墳の分布範囲がヤマト王権の影響が及んでいた範囲とみられます。

これは丸墓山古墳。日本最大の円墳だそうです。
石田三成が忍城を攻める際にこの古墳の上に本陣を構えました。

丸墓山頂上から西北を望む。茂美の湯本館の黄色い建物が目立つ。
三成はここで忍城の水攻めを画策しました。
2012年公開の映画「のぼうの城」は忍城を守る成田長親とこれを責める豊臣方の石田三成が描かれた作品です。

絵に描いたようなきれいな前方後円墳。
この古墳にも登ることができます。
このように古墳がゴロゴロ点在している公園です。

古墳は大事にしよう。
これらの古墳からは多くの出土品がみつかっています。

なかでも稲荷山古墳から出土した「金錯銘鉄剣(きんさくめいてつけん)」(さきたま史跡の博物館所蔵)は国宝に指定されています。
3世紀から4世紀にかけてはヤマト王権が、日本列島の大半を治める朝廷に発展した時代です。しかしこの頃の文字資料は国内外に乏しく「謎の4世紀」となっています(それより前の時代には支那に「魏志倭人伝」という文献がありますが、書かれているのは3世紀半ばまでのことです)。
国内で書かれた最古の文字は行田稲荷山古墳の鉄銘剣か、熊本県江田船山古墳の鉄刀銘とされています(別の遺跡から出土したもっと古い時代の土器などに文字があると報告されていますが、刻まれているのは一文字だけであり、文字かどうかも疑わしいものがあります。115文字が刻まれた「金錯銘鉄剣」は「史料」でありその価値は極めて高いといえます)。
ではその日本最古とも言われている文字史料はいつ書かれたのでしょうか。
この剣には「辛亥の年七月中、記す…」と書かれています。
「辛亥」とあることから西暦471年と見られています。これらの文字は古代国家の成立を読み解く貴重な手がかりとなっています。
この後私は茂美の湯の送迎車ではなく一般のバスを使って帰りました。

もさく座から徒歩9分ほどの場所に「佐間交差点」があります。この交差点近くに「産業道路」バス停があり、JR吹上駅を結ぶ路線バスが走っています。
もさく座の送迎時間と都合が合わない場合は吹上駅からの路線バスを使うとよいでしょう。
(第3話おわり)
<第4話>
「その4:衝撃的だった橘鈴丸座長の入魂の舞踊、歴史のまち行田の中心地を行く」