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大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門(飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒について)
2017.8.22最終更新(浪曲関係追記)


飯岡助五郎・笹川繁蔵・平手造酒は大衆演劇でおなじみの人物です。大衆演劇を観始めた頃の私は予備知識もなく、これらの人物がなぜよく芝居に登場するのかがわかりませんでした。
その後、関連する映画や浪曲などに触れるようになって、これらの話は実際の出来事が元になっており、「天保水滸伝」という名でかつての日本で人口に膾炙していた物語だと知りました。
そこで天保水滸伝について基本的なことをおさえておこうと思ったのですが、わかりやすくまとまっている文章がなかなか見つかりませんでした。
同じような思いをしている大衆演芸ファンが他にもいるのではないかと思い、私のわかる範囲で天保水滸伝についてまとめてみました。また、飯岡・笹川を訪ねた時の写真もあわせて掲載します。(飯岡・笹川・銚子の旅のブログはこちら



【もくじ】
    ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■主な人物
■場所
■時代
■なにが起こったか
助五郎と繁蔵/助五郎、岩井不動で闇討ちにあう/笹川の花会/繁蔵・富五郎の召し捕り状/繁蔵、助五郎宅を襲う/飯岡勢、笹川へ/飯岡方の惨敗、深喜の死/繁蔵の放浪、助五郎の入牢/笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす/勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
■人物伝
飯岡助五郎/笹川繁蔵/平手造酒・平田深喜
■時代背景
飯岡・笹川の繁栄/なぜ博徒が多かったのか/関東取締出役(八州廻り)の設置/二足の草鞋

≪天保水滸伝編≫
■「天保水滸伝」の誕生
■近世義侠伝
平手造酒/勢力富五郎/清滝佐吉/夏目新助/洲崎政吉/荒生留吉
■映画
座頭市
■講談
■浪曲
二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」
■大衆演劇
■長谷川伸作品と天保水滸伝
瞼の母/関の弥太っぺ



≪史実編≫


主な人物

【飯岡方】
・飯岡助五郎(いいおかすけごろう)
 …飯岡一家の親分
・洲崎の政吉(すのさきのまさきち)=永井の政吉
 …助五郎一の子分
・石渡孫治郎(いしわたりまごじろう)=三浦屋孫次郎
・堺屋与助(さかいやよすけ)
 …助五郎と妾の子
・成田の甚蔵(なりたのじんぞう)
 …政吉・孫次郎・与助・甚蔵が助五郎の四大子分である。

【笹川方】
・笹川繁蔵(ささがわしげぞう)
 …笹川一家の親分
・勢力富五郎(せいりきとみごろう)
 …本名柴田佐助 繁蔵一の子分
・清滝の佐吉(きよたきのさきち)
 …繁蔵の子分
・夏目の新助(なつめのしんすけ)
 …繁蔵の子分
・平田深喜(ひらたみき)/平手造酒(ひらてみき)
 …浪人。笹川一家の用心棒

【その他】
・銚子五郎蔵(ちょうしのごろぞう)
 …本名木村五郎蔵、十手を預かる銚子の大親分
・荒生の留吉(あらおいのとめきち)
 …助五郎の出入りを繁蔵に内通した




場所

舞台となったのは下総(現千葉県)の飯岡と笹川。
現在の地名では、飯岡は旭市、笹川は東庄(とうのしょう)町にあります。
利根川沿いに笹川、九十九里浜の東端に飯岡があります。
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時代

下の表は、飯岡助五郎・笹川繁蔵・勢力富五郎のそれぞれの生涯を棒グラフ状にして、彼らの生きた年代を示したものです。棒の下に書いてある数字は死んだ時の年齢です。助五郎は繁蔵より18歳年上ですが、繁蔵よりだいぶ長生きしました。
参考までに、大衆演劇でおなじみの国定忠治・清水次郎長・森の石松の生涯も並べてみました(石松は半架空の人物なので死んだ年のみわかるように表記しています)。大衆演劇の人気者はほぼ同時代に生きた人物でした。
平手造酒の生年は不明ですが、天保15年の飯岡・笹川の決闘により命を落とした際の検死記録では37,8歳と記されています。

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※勢力富五郎は生まれがもっと早く、死んだとき37歳だったという説もあります




なにが起こったか

天保水滸伝はどのような史実が元になっているのでしょうか。飯岡・笹川の一件にはさまざまな話が残されており、事実と作り話を区別することは困難です。でも事実がどうだったかを探求した方々による書籍はいくつかあります。それらを読み、大衆演芸において創作されたのであろうと思われる逸話を排除することに留意しつつ、私の思う史実をまとめてみました。

助五郎と繁蔵
飯岡助五郎は九十九里浜沿いの漁村飯岡の網元であると同時に一帯を仕切る博徒の親分。関東取締出役の道案内として十手を預かる身でもある。
笹川繁蔵は利根川の水運で栄える笹川河岸に住む売り出し中の親分。
助五郎、繁蔵ともに元相撲取り。気心が通じたのか二人は親密になり金を融通しあうなどしていた。十八歳上の助五郎は繁蔵の面倒をよくみた。
繁蔵は、助五郎と妾の間に生まれた長男堺屋与助に羽斗村次郎左衛門の娘お万(お政)を女房に世話した。

助五郎、岩井不動で闇討ちにあう
しかし博徒に勢力争いはつきもの。大親分となった助五郎と繁蔵との間に縄張りをめぐって緊張関係が生まれるようになった。そんな争点の一つに清滝村の岩井不動があった。この賭場は清滝の佐吉が父親から譲り受けたものとも言われている。ここの縁日で行われる博奕では莫大なテラ銭が入る。助五郎が勢力を広げるなか、若い佐吉には縄張りを維持する力がなく、岩井不動の賭場は自然と助五郎の縄張り下となった。清滝の佐吉は助五郎の対抗勢力の繁蔵の子分となった。清滝の隣村の万歳村に佐吉と同年代の佐助がいた。佐助は江戸に行き勢力富五郎という力士となったが、やがて故郷に戻り繁蔵一家に加わった。
ある日助五郎は、岩井不動で博奕をうった帰りに何者かに背中を斬られた。助五郎は田んぼの中に突っ伏したまま死んだふりをした。結局この闇討ちの下手人が誰かはわからなかったが、犯人は笹川方の佐吉か富五郎の身内に違いないと助五郎は睨んでいた。
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岩井滝不動(龍福寺)

笹川の花会
1842(天保13)年、諏訪明神の例祭日に、繁蔵は相撲の租野見宿彌命(のみのすくねのみこと)の碑を建てるという名目で花会(博奕の大会)を笹川の宿「十一屋」で開いた。
この花会の詳細はよくわかっていない(大衆芸能としては後述)。
元力士で相撲の興行権を持っている助五郎にはこれが気に入らなかったのかもしれない。助五郎は欠席し、名代として子分の洲崎の政吉が出席したと言われている。
この頃から助五郎と繁蔵の関係は険悪になっていったようである。
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 野見宿彌命の碑(笹川 諏訪大神)
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 博奕で使われた駒札(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)


繁蔵・富五郎の召し捕り状
1844(天保15)年、飯岡村が属する大田村三十五カ村寄場組合の申し出により関東取締出役から笹川繁蔵・勢力富五郎他の召し取りの御用状がくだされた。関東取締出役の道案内である助五郎が召し捕ることとなった。召し捕り状は8月3日に村役人に、8月4日に助五郎に渡った。助五郎は5日に召し捕りに向かうことにした。

繁蔵、助五郎宅を襲う
これを繁蔵と親しい荒生の留吉が知って繁蔵に知らせた。8月4日の深夜、繁蔵は富五郎ら4,5人を連れて先制攻撃を仕掛け助五郎の家を襲った。助五郎は指に軽傷を負ったが玉崎神社に逃げ込み無事であった。
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 飯岡 玉崎神社にある助五郎の碑

飯岡勢、笹川へ
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助五郎は5日、子分を集めて繁蔵の召し捕りに出立した。総勢22名(50名説もあり)。助五郎は、襲撃の後に繁蔵が銚子に向かったと考えた。7時頃銚子に向かって出発し、途中猿田村の源次郎の所で休息した。休んでいる間、源次郎が繁蔵の消息を調べたところ、銚子にはいなくて笹川に戻っていることがわかった。助五郎は松岸村まで行き、昼飯を食べてから舟で忍村へ移動し、子分の博多川のところへ寄った。助五郎らが夜半まで休息をとっている間、博多川が船頭を手配した。助五郎は腹ごしらえを済ますと舟で笹川に向かった。
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 笹川付近から見た利根川
助五郎が召し捕りに向かっているという知らせは繁蔵の耳にも入っていて、繁蔵と子分たちは槍などをそろえて周到に用意していた。数日前から笹川勢は拠点を西光寺に構えていたが、6日の早朝は延命寺や繁蔵の家にも子分がいた。
6日、船中の助五郎は夜明けを確認すると笹川河岸に舟をつけた。
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 現在の笹川漁港
河岸にいた見張りから助五郎踏込の知らせが笹川方にもたらされ、笹川一味は身を潜めた。飯岡方は「御上意、御上意」と叫びながら繁蔵宅に踏み込んだ。繁蔵宅で待ち構えていた者と延命寺に潜んでいた者(あわせて20人足らず)が飛び出して喧嘩が始まった。療養をしていた平田深喜も知らせを受けて現場へ駆けつけた。繁蔵と仲の良かった廻船問屋が屋根の上で爆竹を鳴らして「鉄砲だ」と叫び、飯岡方はひるんだ。笹川方には加勢も加わって、飯岡方はだんだんと劣勢となり退却を余儀なくされた。飯岡方は舟で野尻まで退却した。

飯岡方の惨敗、深喜の死
この召し捕り失敗で飯岡方は3人が即死した。助五郎一の子分、洲崎の政吉は退却途中の船中で死亡した。他に4名が負傷した。
笹川方は平田深喜が重傷を負ったのみであった。平手は十一か所も斬られていた。医者が手当したが翌日に息をひきとった。
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 平手造酒の墓(笹川 延命寺 昭和3年建立のもの)
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 墓には酒が手向けられている


繁蔵の放浪、助五郎の入牢
召し取りに失敗した助五郎が追手を回すに違いないと察した繁蔵は、子分たちに有り金を渡して逃げるよう指示して自身も放浪の旅にでた。繁蔵がどこに向かったのかはわかっていない。
助五郎は関東取締出役から召し取り失敗の責任を問われ牢屋に入れられた。
助五郎は釈放され再び十手を任される。

笹川に戻った繁蔵、闇討ちにあい命を落とす
1847(弘化4)年、ほとぼりが冷めたとみた繁蔵は笹川に戻った。子分らが再び集まり、笹川方はかつての勢いを取り戻し始めた。
助五郎は前回の失敗があるので容易には繁蔵には手は出せない。息子与助の妻の父の岩井常右衛門に繁蔵の動向を報告させた。
7月4日の夜、繁蔵は博奕を終え、妻のお豊のところへ向かった。途中には小川が流れており、ビャク橋という橋がかかっている。繁蔵はここで待ち伏せしていた三浦孫次郎、堺屋与助、成田甚蔵に襲われて命を落とす。繁蔵の首は落とされ、胴体は利根川に流された。首は飯岡に持ち帰られた。
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 ビャク橋跡
この闇討ちは3人が無断で決行したものであり助五郎は知らなかった。正攻法で繁蔵を捕えようと考えていた助五郎は、子分が持ち帰った繁蔵の首を見て驚いた。助五郎はこのことを秘密にして繁蔵の首を定慶寺に埋めた
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 笹川繁蔵の首塚(飯岡 定慶寺)


勢力富五郎の復讐(嘉永水滸伝)
親分を失った笹川方は、一の子分勢力富五郎が跡目を継いだ。
この頃関東では博徒による悪行が横行し、無宿者を取り締まるお触書が通達されていた。富五郎は親分を抹殺した助五郎および関東取締出役を憎んでいた。鉄砲を武器に武闘派の一軍を結成してお上の権威に歯向い、助五郎の一味は悪逆非道を重ねた。
ついに1849(嘉永2)年3月8日、5名もの関東取締出役が動き、周辺76カ村の役人に勢力召捕の協力を求めた。5,600人もが集まり大捕物を展開したが、富五郎は逃げ隠れ、関東取締出役の鼻をあかした。
4月、新たな召捕作戦により富五郎は追い詰められてゆく。富五郎は小南村の金毘羅山に逃げ込んだ。4月28日、子分と2人となった富五郎は、お縄にかかるよりはと自決の道を選ぶ。ついに富五郎は鉄砲で自殺した。残ったわずかな子分、夏目の新助や清滝の佐吉らも捕えられて江戸送りとなり、小塚原で処刑され笹川方は全滅した。
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 金毘羅山
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 勢力富五郎自刃跡(笹川 金毘羅山)




人物伝


飯岡助五郎
1792(寛政4)年、相模国三浦郡公郷村山崎(現在の横須賀市三春町)という小さな漁村に生まれる。本姓は石渡(いしわた)。18才の頃、相撲取りを志願して江戸に渡り、綱ヶ崎を名乗るが、親方が死んでしまい、1年程度で廃業した。
その後上総国作田浜の網元のところで猟師として雇われる。頼りの網元が死んでしまい、漁夫仲間とともに飯岡に移る。仕事に精を出しつつも、ずぬけた腕力でヤクザ者を打ち負かす助五郎は兄貴と呼ばれるようになり、やがて船頭になった。漁夫は時化で休みのときは博奕に興じ、助五郎もこれに深くかかわった。博奕場で喧嘩が起これば仲裁して納め、助五郎は男としての貫禄をあげていった。
助五郎は網元半兵衛に見込まれてその娘すえと結婚した。また、助五郎は茶屋女のサイとも深い仲になり、サイとの間には与助という子供をもうけた。
飯岡は銚子の大親分五郎蔵の勢力圏にあった。漁業に精を出しながら博徒として売り出していた助五郎は五郎蔵の子分となり、代貸として賭場の取り締まりをまかされた。助五郎が30歳の頃、五郎蔵の縄張りのうちから飯岡を譲り受け、飯岡一帯の親分となった。
また、銚子の五郎蔵と同じく、関東取締出役の下で働く道案内人を任じられ、助五郎は二足草鞋の親分となった(年代は不明)。
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 五郎蔵と助五郎が寄進した大釜(銚子 円福寺)
漁業においては、義父の援助を受けて、生まれ故郷の名をとって三浦屋という網元を立ち上げた。助五郎は、漁業の三浦屋を本妻のすえに、博徒の仕事を妾のサイに任せ、二人のもとを往来した。
助五郎は飯岡の漁業の振興につくした。大規模の地引網には水夫が60~70人、浜で綱を引く岡者が200人必要であった。助五郎は、博奕や喧嘩が好きな気性の荒い水夫たちを束ね存在感を高めた。飯岡浜では海難事故が絶えなかった。事故が起これば残された家族は暮らしに困るし、数十人の命が奪われる大きな事故の場合は飯岡の漁業の危機となる。ある時助五郎は故郷の三浦半島に出向き、若い漁師を大勢引き連れて帰ってきた。未亡人には新しい亭主を引き合わせ、飯岡の漁業も救った。
幕府は娯楽について一切禁じていたが、相撲興行だけは認めていた。もと力士の助五郎は相撲に感心が強く、天保十一年に江戸相撲会所から相撲の興行権を得た。相撲の興行は収入面でも勢力誇示の面でも助五郎の存在を大きいものにした。
笹川繁蔵との一件の後、助五郎は一家を息子の堺屋与助に譲る。助五郎は68才で畳の上で大往生を遂げた。
大衆芸能においては繁蔵に対する「悪役」として描かれている。
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 飯岡助五郎の墓(飯岡 光台寺)


笹川繁蔵
本名は岩瀬。岩瀬家は代々、羽斗(はばかり)村で醤油と酢の醸造をしていたが、繁蔵の父は笹川河岸の繁栄をみて須賀山村に酢と醤油の蔵を建てて移り住んだ。繁蔵はここで生まれた。繁蔵は7歳の頃、漢学と剣法を学ぶ。体格の良い繁蔵は相撲を好むようになり、村の素人相撲では無敵となった。
笹川の諏訪明神に江戸相撲の千賀ノ浦が巡業に来ていて十一屋を宿にしていた。繁蔵は千賀ノ浦に入門し、諏訪ノ森を名乗った。力士は1年程で廃業し、繁蔵は江戸から故郷の笹川へ戻った。繁蔵は芝宿文吉親分の賭場に出入りをするようになる。男っぷりがよく度胸のある繁蔵は次第に若者達の親分格となってゆく。繁蔵は文吉の媒酌によって、賭場の会場となっていた家の娘豊子と夫婦となった。文吉親分は繁蔵を見込んで縄張りを譲り、自分は隠居した。繁蔵は親分となり、勢力富五郎、清滝の佐吉といった子分を従えて勢力を増していった。
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 繁蔵が使用していた合羽(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)

平手造酒・平田深喜
大衆芸能では有名な平手造酒。ですが実際の人物についてははっきりしておらず諸説もろもろあります。
浪士であったが笹川繁蔵の用心棒となり子分に剣術を教えるようになった。酒好きであった。労咳(結核)を患い、尼寺で療養生活を送っていた。天保15年の笹川VS飯岡の喧嘩の際に命を落とした。
…ということはどの説においても一致しているようです。
古文書には「平田深喜」と記されておりこちらが正しい名前のようですが、嘉永三年に天保水滸伝が講談で語られたときから大衆芸能では「平手造酒」と呼ばれています。

事実かどうかはさておき、一般的に認識されている平手造酒の人物像は、「江戸神田お玉ヶ池に道場を構える千葉周作の門下生で北辰一刀流の達人であったが、酒グセが悪く破門となって江戸を去り、浪人として下総に居たところ繁蔵に客人として迎えられた」というものです。また「白無地の単衣を着ている」というイメージもあるようで大衆演劇ではしばしばそのコスチュームで演じられます。

平手造酒は後世の人々によってさまざまなイメージで描かれた人物であり、むしろそれ故に天保水滸伝で一番魅力ある人物となっています。
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 作者不詳 昔の人が描いた平手造酒
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 東庄町制作のアニメ「天保水滸伝neo」の平手造酒




時代背景


天保水滸伝の史実はその時代背景を把握するとより理解が深まります。関連する出来事をまとめました。

飯岡・笹川の繁栄
九十九里での網漁(八手網や地引網)は紀州から伝わった。元和・寛永年間(1615~1644)には多くの関西漁民が9月から翌5月にかけて出稼ぎにやってきて主に八手(はちだ)網漁を行っていた。元禄期に関西漁民が撤退し地元漁民による地引網漁が台頭すると、天保にかけてさらに発達し、飯岡をはじめとして九十九里の地引網漁業は全国最大規模となった。
捕れた大量の鰯は干鰯(ほしか=鰯を食用とせず天日干しにした肥料)や〆粕(しめかす=鰯から魚油をとった残り粕の肥料)などに加工された。関西で木綿などの商品作物が発達すると干鰯・〆粕は金肥として重宝され、九十九里の干鰯は江戸、関宿や浦賀の問屋を介して飛ぶように売れた。利根川の河岸にはこれらを扱う問屋が現れた。
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飯岡漁港(刑部岬より)

江戸時代、年貢米は江戸に集中的に運ばれた。年貢米や物資の輸送には舟運が重要な役割を果たした(例えば、陸送だと2俵運ぶのに馬1頭に人ひとり必要だが、江戸後期に活躍した高瀬舟は大きいものでは1000俵近くを6人程度で運ぶことができた)。また海上航路は荒天による危険が伴うため安全な川を使った輸送ルートが発達した。関東の大きな川沿いにはいくつもの荷卸し場ができて河岸となった。
かつて東京湾に流れ出ていた利根川は、改流工事により、関宿の北で常陸川の上流に接続され銚子へ流れ出るようになった。1654(承応3)年に銚子~利根川~関宿~江戸川というルートで江戸へ搬送する舟運路が完成した。(その後、上流から運ばれる土砂の堆積により、川水の少ない季節は大型船の関宿通過が困難になり、利根川沿いの河岸と江戸川沿いの河岸を結ぶ街道が発達した)
利根川は江戸への流通経路としてますます重要となり、利根川沿いの河岸が発達した。笹川河岸も年貢米をはじめ物資の集積地として栄えた。

銚子は、奥州から江戸へ物資を運ぶ廻船の寄港地として、利根川高瀬舟への積替地として発展した。また銚子では江戸初期に関西から技法が伝わって醤油醸造が始まり、江戸の人口の増加に伴い発達した。醤油も利根川の水運を利用して江戸に運ばれた。繁蔵の父も醤油の醸造を生業としていた。
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 銚子の利根川河口付近

繁蔵・助五郎の生きた時代には飢饉が打ち続いていた。離村や潰れ百姓の増加によって、農村の人口は減った。
飢饉が続く時代でありながら、河岸として賑わう笹川と漁業が盛況な飯岡は経済的にも余裕があり、人の流入も多かった。

なぜ博徒が多かったのか
近世の社会では、盗みや博奕を行う悪者は村内で処理することが一般的だった。幕府による「法度(はっと:禁令)」とあわせて独自の「村掟」が存在しており、村内の問題は村で解決し、盗人が領主に引き渡されることは少なかった。
しかし近世後期になると、まじめに働くことを嫌い、村社会から逸脱する者が増えてくる。村の制度・秩序では手に負えない者は、連帯責任制度から外すために親親族とは縁切りとなり、人別帳(にんべつちょう:戸籍謄本のようなもの)から外され「無宿者」となった。(素行の悪い者は目印として人別帳に札が付けられていた。それが「札付き」の語源である)
村民に暮らしの余裕がでてくると、博奕や村芝居などの遊び心がさかんになる。これにつれて無宿者・博徒も横行する。逆にいうと無宿者は人の多いところに集まる。笹川など賑わった河岸には無宿者が底辺労働者として出入りしていた。

関東地方は一つの村を複数の領主が支配していることが多く、幕府領「御領」、大名領「領分」、旗本領「知行所」、与力・同心(奉行所などで治安維持につとめる役人)領「給地」、寺社領などが錯綜していた。飯岡村は旗本と与力が支配していた。
無宿者・博徒は悪さをすると他の領地へ逃げてしまう。他の領地へ逃げてしまった者を捕らえるにはその土地の領主に照会しなければならない。そうしているうちに悪者はまた逃げてしまう。
領主としては、働き手の村民が、遊びを覚えて無宿者の仲間入りをしてしまうことをなによりも恐れていた。しかし村で手に負えない無宿者や博徒を領主の役人が捕縛するには上記のように困難が伴った。
領主の力では治安を維持することが困難になると、ますます博徒が跋扈するようになり、関東地方の治安は大変悪くなった。

関東取締出役(八州廻り)の設
幕府は、領主の支配を越えて博徒を取り締まることのできる役人の必要を認め、1805(文化2)年に「関東取締出役(かんとうとりしまりしゅつやく)」を創設し、八名が任命された。二人一組で関八州(武蔵・相模・上野・下野・常陸・上総・下総・安房)を巡回したことから「八州廻り(はっしゅうまわり)」とも呼ばれた。
しかし関八州という広大な土地を取り締まるにはこれではあまりに不十分で(そもそも八州廻りはたいした武力を持っていない)、無宿・博徒の活動はおさまらない。また、出役が悪者を捕えると囚人番は村が行わねばならず、その人手と費用の負担も大きな問題となっていた。
幕府は1827(文政10)年に関東全域に「改革組合村」の結成を命じた。数カ村を集めて「小組合」をつくり運営人「小惣代」をおく。小組合を集めて数カ村が集まる「大組合」をつくり「大惣代」をおく。この組合の中心となる村を「寄場(よせば)」と呼び、寄場役人をおく。この組合村が関東取締出役の活動に全面的に協力し、悪人逮捕・預りの費用も組合村が負担するかたちとなった。
飯岡村は太田村を寄場とする三十五ケ村からなる組合に入っていた。

二足の草鞋
関東取締出役の廻村が決まると組合は、地理がわからない出役の活動をたすける「道案内」を選出する。道案内は、手配者を探索するばかりでなく、実際の召し捕りや護送も行う。
八州廻りが遠い土地で警察活動を行うには地元の有力者の力を借りざるを得ない。蛇の道はへびで、力のある博徒が道案内に任命されることが多かった。助五郎も土地の顔役として出役の道案内を任された。
博奕を行った者を取り締まるのが博徒、という考えられない状況が生じた。大衆演芸においては、道案内のこのような矛盾した立場は(多くは否定的な意味合いを込めて)「二足の草鞋(わらじ)を履く」と表現されている。(与力・同心等役人の手先となって取り締まりをたすける者に「目明し」(自分の罪を見逃してもらうかわりに犯人検挙を手助けする者)や「岡っ引」がいるが、目明しも博徒、つまり<二足の草鞋を履く者>であること多かった。なお、助五郎は銚子の五郎蔵と同じく銚子の飯沼陣屋から十手取縄を預かっていたといわれている)
性悪な者が「お上の御用」の権威をきたらどうなるか。当然不正をはたらく。
例えば国定忠治が活躍した頃の上州にはそうした記録がたくさん残っている。身に覚えのある者は道案内に金を渡して見逃してもらう。道案内がさまざまなトラブルに介入しては御用の風を吹かせつつ難癖をつけて金をせびりとる。賄賂を差し出した者には出役の廻村の際に逃亡の手助けをする。自ら博奕場を開いて胴元として寺銭を手中にする。役人の手下となってそんな横暴なふるまいをする者もいて村人も困っていた。忠治が長い年月捕まらなかったのも私欲にまみれた役人の手先を買収していたからである。
悪いのは道案内だけではない。道案内の横暴がまかり通るのも取締出役との癒着があったからである。関東取締出役の給料はそれほど高くなく多くの者が賄賂になびいていた。天保10年には関東取締出役13名と火付盗賊改5人が不正を摘発され処罰を受けている。
助五郎のいた下総はどうであったのか。助五郎と繁蔵との間に不和が生じた際にその仲介に努めたという松岸村の茗荷屋半次が、関東取締出役のいいつけで女の世話をしたという話は残っている。
助五郎には道案内としての悪い逸話や記録はみあたらない。「天保水滸伝」中の一番大きな出来事といえば、助五郎が関東取締出役の召し捕り状を受け取って繁蔵のいる笹川に乗り込むところである。古文書によればこの召し捕り状は、大田村ほか35か村からの訴えを受けて出されたようである。召し取り状が出されるに至った背景にはこの訴えの他に繁蔵への私怨を持つ助五郎の力はたらいていたのかどうか。それはまったくわからない。



≪天保水滸伝編≫


「天保水滸伝」の誕生

飯岡と笹川の争いを「天保水滸伝」として世に伝えたのは江戸の講釈師宝井琴凌(たからいきんりょう=三代目宝井馬琴)です。講釈師というのは現代的に言えば講談の演者で、「講釈師見てきたような嘘をつき」という川柳がありますが(この川柳は初代馬琴の作だそうです)、各地で庶民にうけそうなネタを収集しては、おもしろくアレンジして口演していました。
勢力富五郎が死んで一連の事件に決着がついたのが嘉永二年(1849)です。その頃下総を旅していた宝井琴凌がこの事件を知って、翌嘉永三年に「天保水滸伝」として江戸で発表しました。

その後天保水滸伝は錦絵や絵草子となって世間に広まりました。
特に、飯岡勢の笹川への乗り込みは、笹川の利根川の河原で大喧嘩が行われたと語れれ、「大利根河原の決闘」として物語の大きな見所だったようです。

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大利根河原の決闘を描いた「於下総国笠河原競力井岡豪傑等大闘争図」(1864年 芳虎画/船橋市西図書館蔵)東庄町HPより転載)




近世義侠伝

近世義侠伝は1917(大正6)年に図画刊行会錦絵部から発行されたもので、浮世絵師芳年(1839~1892)が版画で描いた天保水滸伝中の人物36名に講談風の紹介文章が添えられています。大正に書かれたこの義侠伝を伊藤實氏が現代語に訳して「平成版近世義侠伝」として発表しています。
ここでは36名のうち大衆演芸によく登場する6人をピックアップして、紹介文章の内容を要約しておきます。
なお、この36名の中に、繁蔵を討ち取ったとされている助五郎の子分三浦屋孫次郎・堺屋与助・成田の甚蔵はいません。

平手造酒
剣の達人であったが酒のために身を持ちくずし浪人になった。下総銚子への移動の途中に金がつきたとこを笹川繁蔵に助けられ食客となった。
鹿島の祭礼に勢力富五郎と出かけたが、酒楼で酒を飲んでいるときに土浦の剣客高島剛太夫と諍いが生じた。造酒は剛太夫を討ち取って、その子分も富五郎とともに追い散らした。以降造酒は富五郎から酒を戒められた。
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平手塚(笹川 S41建立) 

勢力富五郎
繁蔵が諏訪神社に野見宿祢の石碑を建てた日に境内で相撲大会が行われた。その日は助五郎の子分はことごとく負けてしまった。次の日飯岡方は仕返しに相撲が強い者を連れてきた。中でも神楽獅子の大八は笹川方を7人投げ飛ばした。それを見かねた勢力富五郎は土俵に上がって、見事大八を砂に埋めた。
繁蔵が飯岡方に殺されてから、富五郎は仇を討つべく助五郎をつけ狙っていた。しかし、逆に自分の身があやうくなり、金毘羅山に隠れているところを医者に密告され、役人手先五百余人に取り囲まれた。味方二十余人と防戦したが、もうこれまでと思い、富五郎は鉄砲を喉にあてて自殺した。
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清滝佐吉
清滝生まれの佐吉は銚子の醤油屋で職人をしていて、そこの女中お常とできてしまった。お常には許嫁がいたが、二人は駆け落ちした。お常の父の頼みがあり助五郎が動いて二人をつきとめた。お常は連れ戻され、助五郎は佐吉に手切金を渡した。手切金の少なさに不満のある佐吉は、夏目の新助の紹介で繁蔵の子分になり、繁蔵に仕返しを頼んだ。繁蔵は、江戸にいたお常を探しだして連れ戻し、許嫁には手切金を渡して、お常を佐吉の女房にした。
佐吉は繁蔵の無二の子分となるが、繁蔵が死んでからは富五郎と仲が悪くなった。助五郎への復讐をもくろんだが、逆に飯岡方の計略にあって役人に捕えられ、小塚原で夏目の新助、羽計の勇吉とともに処刑された。
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清滝佐吉伝承碑(旭市清滝地区) 
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佐吉まんじゅう 


夏目の新助
性格が温厚で義理に強い人物だった。清滝の佐吉と親しく、不仲の佐吉と富五郎を仲なおりさせようとしていた。
富五郎が飯岡に斬り込みに行った際、そのことが助五郎にはばれていて、待ち構えていた飯岡方の反撃にあって悪戦苦闘していた。そこへ夏目の新助が羽計の勇吉らを連れて駆けつけ加勢した。
翌日、清滝の佐吉が飯岡に斬り込みに行ったがやはり苦戦した。新助は佐吉と勇吉を助け出した。

洲崎政吉
ある日繁蔵が富五郎をはじめ5.6人の子分を連れて飯岡にやってきた。助五郎の子分は騒ぎ立てたが助五郎は、喧嘩をしかけに来たのだろうが相手にするなと子分をなだめた。助五郎の右腕の政吉は自分にまかせてくれと一人で外に出た。政吉は家の出入口にあった大碇を片手で持って肩にかけ、海辺に行くふりをして繁蔵とすれ違いにっこり丁寧に挨拶をした。重い大碇を肩にかけながらの丁寧な挨拶に繁蔵は感心して、この日は何事も起らなかった。
飯岡・笹川の大喧嘩の際に奮戦の末亡くなった。28歳だった。
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荒生の留吉
長指(ながざし)の権次の子分。用事があって東金に行った帰りに海岸で重たい財布を拾った。飯岡の三河屋の手代が集金の帰りに落とした財布を探して歩いていたが、その後ろには死神がついていた。留吉は死神を退治して財布を手代に返した。それがきっかけで三河屋が後ろだてとなって留吉は金貸し業を始めて裕福に暮らした。
留吉は兄貴分の風窓の半次との関係がもつれたが助五郎が仲裁にはいって納まった。しかし留吉は助五郎に恨みを持つようになり、助五郎が笹川へ向かう際に繁蔵に内通した。




映画

関連する映画も多く製作されました。東庄町観光会館には「天保水滸伝関連映画(戦前・戦後)」という表が掲示してあって、戦前に34作、戦後にも34作の映画のタイトルが記載されています。戦前映画でみるとタイトルに一番名前がでてくるのが勢力富五郎で9作、次が平手造酒で8作となっています。昔は勢力富五郎が人気のキャラクターであったことがうかがわれ興味深いです。戦後も1965年頃まではひっきりなしに、多い年には年に5本も製作されています。戦後の表には「座頭市物語」が3作載っています。

座頭市
昔、「市」という風来坊の人物が飯岡にやってきて、助五郎の子分のようなことをやっていた。市は目が見えなかったが、枡を放り投げて落ちてくるところを斬るという芸当はできた。若い娘といっしょになってしばらく飯岡に滞在していたが、助五郎のことが嫌になってこの土地を去った。

「遊侠奇談」の作者子母澤寛が、天保水滸伝のことを調べに飯岡を訪れた際、宿屋のおやじからこの話をききました。これをヒントにして子母澤寛が「座頭市」の話を作り、それが映画化されて人気となりました。
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座頭市物語発祥の地の標柱(飯岡 玉崎神社前) 
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座頭市物語の碑(飯岡)
東日本大震災で津波が飯岡を襲ったとき、この碑につかまって助かった方がいたとのことです。




講談

もともと講談から始まった天保水滸伝ですが、その後現代に至るまでどのように語られてきたのか私には知識がありません。以下は私の体験をもとに記します。

◆2014年5月3日~6日にお江戸日本橋亭で行われた、GW特別番組4日連続俥読み「天保水滸伝」 に行きました。その内容をご紹介します。

「相撲の啖呵」神田松之丞…繁蔵の話。相撲時代~十一屋の跡目を継ぐ
「鹿島の棒祭」神田春陽…平手造酒の話。千葉道場を去る~繁蔵の客人になる~鹿島の棒祭りでの喧嘩
「ボロ忠売り出し」神田松之丞…天保水滸伝とは関係なし(「笹川の花会」に、花会の後見役親分としてちょこっとでてくる忠吉の話)
「笹川の花会」神田春陽…大衆演劇の「笹川の花会」とほぼ同じ内容
「潮来の遊び」神田松之丞…留吉の息子留次郎の話。落語の「明烏」のような内容。
「平手造酒の最期」神田春陽…主に平手造酒の話。尼寺(妙円寺)での療養~喧嘩で死ぬ
「三浦屋孫次郎の義侠」神田松之丞…討ち取った繁蔵の首を無下に扱う助五郎に憤りを感じた孫次郎が助五郎との縁を切って笹川へ首を持って行く。
「天保水滸伝外伝 忠太郎月夜唄」神田春陽…長谷川伸「瞼の母」の第一場「金町瓦焼の家」のアレンジ

以上一日二席、全部で八席。外伝は春陽作であとは神田愛山先生の持ちネタ。笹川の花会以外は愛山先生から習ったとのことです。
神田松之丞の凄みをきかせた啖呵がカッコイイ。ド迫力の一席の後、神田春陽が軽妙なマクラで場の雰囲気を和らげて本題に入るというパターン。(本題と全く関係のないと思われた連続マクラが最終日に「日ノ出町にある長谷川伸の碑」で本題とつながる。マクラの内容は伏せます)

個人的には以下のエピソードが印象に残りました。
・平手造酒が下総を目指したのは飯岡助五郎の用心棒になろうと思ったから。
・平手造酒は、助五郎より繁蔵の方が力が弱いことを知り、繁蔵の味方になることを決める。
・留吉は房総では名の知れた大親分だったが今がかたぎになって商売をしている。
・助五郎の笹川入りを繁蔵方に密通したのは勢力富五郎に恩がある留次郎。
・繁蔵を闇討ちにしたのは成田の甚蔵と三浦屋孫次郎の二人で、首のない繁蔵の体はその場にうち捨てられていたのを繁蔵の子分が見つけた。
・勢力富五郎、清滝の佐吉らは助五郎方に殴り込みに行く。

「三浦屋孫次郎の義侠」は大衆演劇の演目「三浦屋孫次郎」と同じく、助五郎が繁蔵の首に唾をかけたり首を放り投げたりします。この話はいかにも、話を面白くするために助五郎を悪くでっちあげた感があり私はあまり好きではありません。

初日は東庄町が作成した天保水滸伝のパンフレットと笹川繁蔵の年表が配付されました。東庄町のパンフは天保水滸伝の概要がわかりやすくコンパクトにまとめられていると思います(ちょっと内容が笹川よりに思いますが)。
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たいへん楽しい連続読みでした。やっぱり天保水滸伝は講談で楽しむものだ、という気さえしました。
特に神田松之丞のやくざの啖呵が印象的でした。

◆2015年1月7日にお江戸日本橋亭で「天保水滸伝車読みの会」が行われました。
講談2席、浪曲2席という楽しい趣向の車読みです。浪曲は講談の釈台の前に座っての口演。

講談「相撲の啖呵」神田松之丞
浪曲「鹿島の棒祭り」玉川太福 曲師沢村豊子
浪曲「平手造酒の最期(平手の駆け付け)」玉川奈々福 曲師沢村豊子
講談「三浦屋孫次郎の義侠」神田愛山

昨年リニューアルされたばかりの東庄町作成の天保水滸伝パンフレットが配布されました。
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私は松之丞さんの話にどっぷりひき込まれました。
奈々福さんの平手造酒の最期の場面も印象的でした。

◆2015年1月17日 松之丞ひとり会 於:赤坂峰村
「相撲の啖呵」「平手の破門」「鹿島の棒祭り」「三浦屋孫次郎の義侠」他平手造酒の話
平手造酒が死罪となった死体の右腕を斬り落としていたずらするくだりがある。これは岡部菊外という生涯に81人を斬った男のエピソードを講談師が天保水滸伝に取り入れたのではないかという説が子母澤寛「游侠奇談」に書いてある。
大利根河原の決闘に駆け付けた平手造酒に、ある飯岡助五郎の手下がいっとう最初に斬り込んだ。が、返り討ちにあい、小指と薬指を切り落とされてしまう。それから時を経て、ある講釈師が天保水滸伝を読んだところ、講釈場に今は老人となったその男がやってきて、自分は平手造酒の相手をしたのだと云って手を見せた。そんな伝説が講談界で伝わっているそう。

◆2016年6月4日 神田松之丞 ひとり天保水滸伝 於:紀尾井ホール
昼の部「相撲の啖呵」「ボロ忠売り出し」「笹川の花会」、夜の部「鹿島の棒祭り」「潮来の遊び」「三浦屋孫次郎の義侠」他
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昼夜大入り。演芸にしてはかなり立派なリーフレットが配布されました。登場人物紹介や松之丞さんの写真などが掲載されています。




浪曲

明治末期から大正にかけて庶民の人気を得るようになった浪曲(浪花節)は昭和の前期には黄金期を迎えました。昭和初期は侠客ものが多くかけられていて、作家の正岡容(まさおかいるる)が「天保水滸伝」を浪曲に仕立てました。昭和6年に玉川勝太郎を襲名した二代目勝太郎がこれを演じて一世を風靡しました。
正岡容による「天保水滸伝」の浪曲作品は20編近くあったようです。現代では玉川一門がお家芸としてその一部を演じています。
天保水滸伝をネット検索すると、『利根の川風袂に入れて 月に棹さす高瀬舟』という浪曲の一節は有名である、というような文言を目にします。
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 浪曲好きだった田中角栄が総理大臣のときに書いた天保水滸伝の節(笹川 天保水滸伝遺品館蔵)

ここでは、二代目玉川福太郎(2007年に事故死してしまいました)のCD「徹底天保水滸伝」から、浪曲で語られている天保水滸伝をご紹介します。

『繁蔵売り出す』
繁蔵と助五郎が出会ったのは銚子の五郎蔵の屋敷。助五郎が屋敷にいるときに、繁蔵が身内にしてほしいと訪ねてきた。
繁蔵は江戸相撲で人気力士であったが、それが気に食わない他の力士とのトラブルがもとで、相撲を続けることができなくなった。といって故郷に帰るわけにもゆかず男の道で生きてゆこうと決めた。事情をきいた五郎蔵は繁蔵を身内にする。
3年やくざ稼業に繁蔵のもとに、五郎蔵の兄弟分やぶさめの仁蔵が繁蔵に後を譲りたいと、繁蔵を十一屋に呼び出した・・・


『平手と繁蔵の出会い』
北辰一刀流の道場千葉周作先生に破門となった平手造酒。恋仲のおえんと、おえんの故郷の下総へ。利根川べりの粗末な家に暮らす。
祭囃子に誘われて、諏訪明神の祭を見物にきた造酒とおえん。境内の土俵では素人相撲が行われている。土俵上では、飯岡助五郎の子分で元江戸相撲の神楽獅子大五郎が次から次へと相手を負かして、もう相手をする者がいない。そこへ繁蔵の子分、清滝の佐吉が勢力富五郎にそそのかされて、土俵に上がった。おえんは休み所でそれを見ている。おえんと幼馴染の繁蔵も、おえんが居るとは知らずに祭りに来ている。
多くの見物人が見守るなか神楽獅子大五郎と清滝の佐吉との取組が始まる・・・
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 諏訪大神にある土俵

『鹿島の棒祭り』
鹿島神宮の祭礼、鹿島の棒祭りはこの土地の名物行事。平手造酒はこの祭を楽しみにしていたが、造酒の酒ぐせの悪いことを知っている繁蔵は、祭で酒を飲んで失敗をしてはいけないと、造酒に留守番を頼む。祭の3日間禁酒することを約束して造酒は勢力富五郎と鹿島神宮に向かった。
祭の3日目。1日2升の酒を吞む平手造酒、2日酒を断って顔色が悪い。心配した勢力は造酒に甘酒を飲んではと店を案内する。
甘酒ではなく酒を飲んでしまった平手造酒。いかんいかん、この一杯で終わりにしようと、湯呑みの中の最後の酒をじっと眺めて別れを惜しんでいる。
そこへ飯岡助五郎の子分3人が店に入ってきてばたばたと服の埃をはたいた。その埃が、造酒が眺めている湯呑みの中に入ってしまって・・・

『笹川の花会』
後述の大衆演劇のあらすじとほぼ一緒なので省略します。

『蛇園村の斬り込み』
小見川の川料理村田屋の奥座敷。繁蔵と子分の夏目の新助とが話をしているのは、今日江戸送りになった名垂(なだれ)の岩松のことである。岩松は繁蔵の子分になって10年、念仏ばかり唱えていた。実は岩松には旧悪があって、雨傘の勘次を名乗っていた10年前に甲州で人を殺して金を奪ったことがある。それが改心して繁蔵のもとでは念仏ばかり唱えていた。なのに、今になってなぜ10年前の兇状がばれたのか、繁蔵はくやしくてならない。
実はこのことをばらしたのは助五郎の身内の甲州者であった。人殺しを匿えば同罪。助五郎は、岩松と同時に繁蔵も捕えさせようと役人に訴人したのだ。けれども繁蔵は農民救済の花会の一件があったからお目こぼしがあって捕えられなかった。
それを知った繁蔵の胸のうちに助五郎への憎しみが湧きあがる。
月夜の晩、繁蔵は平手造酒・勢力富五郎ら十数人を従えて助五郎斬り込みに向かう。
助五郎は蛇園(へびぞの)村の別宅で月を肴に吞んでいる。
繁蔵はその屋敷に押し入った・・・

『平手の駆けつけ』
繁蔵の用心棒平手造酒が病にかかり養生している。その情報を入手した助五郎は繁蔵一家皆殺しを企てる。
助五郎の子分が武器を調達しようと荒生の留吉の家へ槍を借りに来た。留吉の息子の留次郎は、助五郎が笹川に喧嘩に行くことを知って、すぐにそれを笹川方へ知らせた。実は笹川方の清滝の佐吉は留次郎にとって大恩人なのである。
助五郎は300名の軍勢を従え高瀬舟3艘で利根川を笹川へ向かった。
平手造酒が静養している尼寺。笹川の方が騒がしい。事の次第をさとった造酒は、尼僧が止めるのを振り切って月明かりを笹川土手へ駆けつける・・・

以上二代目玉川福太郎の「徹底天保水滸伝」でした。
玉川のお家芸「天保水滸伝」は、
二代目玉川勝太郎~三代目玉川勝太郎~二代目玉川福太郎~玉川奈々福・玉川太福、と現代に受け継がれております。

『飯岡助五郎の義侠』
2016年8月玉川奈々福さんが天保水滸伝の新作を発表しました。
飯岡で大海難事故が起き漁夫が全滅しかけた際に助五郎が故郷の三浦から男を集めてきて飯岡の漁業を復興させたエピソードを中心に、伊藤桂一の小説を下敷きにして浪曲に仕立てました。
それまで浪曲では悪役一辺倒だった助五郎が、情と度胸のある魅力的な男として描かれています。特に、助五郎が岩井滝不動の賭場に目をつけたのは、単に強欲だったわけではなく、飯岡を救うために拵えた莫大な借金を返すための苦肉の策だったとしているところが肝で、助五郎の義侠が繁蔵との抗争に発展したという流れを従来の浪曲のストーリーの文脈に追加した点で意義のある作品だと思います。
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以下は2014年7月以降の浪曲天保水滸伝の私の体験記です。

◆2014年7月5日、「奈々福・太福のガチンコ!浪曲勝負 天保水滸伝の巻」という、浪曲天保水滸伝の今に触れることのできる公演に行きました。
太福「鹿島の棒祭り」、天保水滸伝にまつわるトーク、奈々福「平手造酒の最期」(=平手の駆けつけ)という内容。
入門したばかりの太福さんが初めて福太郎師匠の仕事のお伴をした栃木の公演場所で、師匠が「平手の駆けつけ」を演じ、奈々福さんはその凄さに圧倒された、それから間もなくして福太郎師匠は亡くなってしまった。
玉川一門の教えのいいところは、師匠の芸をそっくりそのまま受け継ぐだけではよしとせず、師匠の芸を受け継いだうえで自分なりの新しい芸をつくりあげることを目指している(一人一芸という)ところにある。
二代目福太郎師匠はその師匠三代目勝太郎が現役で活動していた頃は天保水滸伝をほとんどかけなかった。勝太郎師匠が亡くなってから、二代目福太郎師匠は独自の天保水滸伝をつくりあげていった。その途上で亡くなってしまったのは本当に残念でならない。
という話が印象的でした。
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二代目福太郎師匠のテーブルかけ

これから先どのような浪曲天保水滸伝が生まれるのか楽しみです。

◆2015年3月7日~8日「天保水滸伝の里めぐり」ツアーが開催されました。
浪曲師2名(玉川奈々福、玉川太福)、曲師1名(玉川みね子)と浪曲ファン30名が笹川、飯岡を中心に天保水滸伝関係の史跡をめぐるという旅です。
奈々福さんの念願であったこのツアーは東庄町の企画によって実現し、史跡めぐりには笹川・清滝・飯岡の現地ボランティアの方もご協力くださいました。
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東京からはとバスで移動

【1日目】
・香取神宮
・昼食(笹川 たなか庵)
・笹川 天保水滸伝の里めぐり(天保水滸伝遺品館、諏訪神社、延命寺、十一屋ほか)
・いちご狩り(高橋いちご園)
・浪曲会(笹川 鯉屋旅館)
 1「鹿島の棒祭り」太福 みね子
 2「平手造酒の最期」奈々福 みね子
・夕食会、懇談会
【2日目】
・清滝佐吉伝承碑
・座頭市物語の碑
・玉崎神社
・飯岡刑部岬展望館
・昼食(銚子 ウオッセ21)
・鹿島神宮

1日目の夜は、浪曲会には約100名、夕食会には約30名の地元の方がご参加されました。なんと町長もご出席されていました。
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イベントと夕食会が行われた鯉屋旅館の歓迎札
「浪曲でまちおこし 天保水滸伝 様御一行」


ご案内くださった大勢の地元の方がみな良い方でみな天保水滸伝という物語を愛している。このツアーは史跡めぐりの旅というだけでなく天保水滸伝に育まれた地元愛に触れる旅でもありました。
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観光会館に貼ってあった貼り紙
離れた場所に住む人々が同じ夢を見ているかのように、天保水滸伝の世界が東京と東庄町の人々を包んでいる。そんな
淡い仲間意識がそっと胸に沁みてなんとなく嬉しい気分になる。
素敵な旅だ。このツアーがこれからも続くといいな。

天保水滸伝だけでなく東庄町のうまいもんも楽しむ旅でした。
特産のポーク、ブランドこかぶ「ホワイトボール」、いちご、、、旅館の料理も含めて何もかも旨い。
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アイベリー

合宿の夜といえば、誰かの部屋に集まって語りと酒。これも楽しい思い出。
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笹川の酒屋の入口扉の貼り紙「清酒 笹川繁蔵 有ります」

最後の訪問地は鹿島神宮。折しも「鹿島の棒祭り」(祭頭祭)の前日でした。昨晩の浪曲の余韻を楽しむ一行。
鹿島神宮の茶店には、タコの足を肴として持ち込み酒と甘酒を前にしてやたらテンションが上がっている、店員さんからは奇態に見えたであろう一群がありました。

◆2016年3月26日「天保水滸伝の里めぐりモニターツアー」が開催されました。
昨年に引き続きの開催ですが、今回は日帰りです。同行するのはもちろん、このツアーの発起人玉川奈々福さん。そして沢村豊子師匠と弟子の美舟さん。
天保水滸伝遺品館見学の後、土善旅館で昼食。誰が買ったか清酒「笹川繁蔵」「平手造酒」がテーブルを行き来する。これはうまいと、食事の後清酒を求める人が多数。地元の世話人の方が希望者の分の清酒を集めてきてくださいました。
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今回の目玉は岩井滝不動(龍福寺)での浪曲口演!
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笹川繁蔵と飯岡助五郎がともに手に入れようとして衝突の発端となった賭場がここにありました。
浪曲の後は本堂で護摩祈祷。

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帰りのバスの中で、東庄町手話教室の方が作った「手話で天保水滸伝」をいただきました。

いちご狩も組み込まれた美味しく楽しいツアーでした。

◆2016年10月22日に天保水滸伝の里東庄町にて「講談と浪曲で聴く天保水滸伝」が行われました。
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チラシの左下にさりげなく「特別公演 当日11時より現・十一屋邸で玉川太福「笹川の花会」を本邦初口演」と記載されています。
なんと、笹川繁蔵ゆかりの場所そして「笹川の花会」の会場である十一屋において天保水滸伝が語られるという。これは浪曲史上記念すべき公演です。キャパの問題もあり関係者のみの公演という扱いになりましたが、私はこの場に出席させていただく僥倖を得ました。
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この会に出席する東京の浪曲ファンの多くは10:30着の電車を利用して自然と笹川駅で顔を合わせました。
十一屋邸前では見知りの浪曲ファンがこの記念公演のスタッフとして我々の到着を待っていました。
受付を済ませ記念品のお饅頭とお茶と受け取り十一屋邸内へ。
1階の広間に座布団が敷きつめられ前方にはテーブルかけがセッティングされています。
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邸主が家具を移動してまで用意した大きな広間にはお客さんがびっしり入りました。
公演に先立ち浪曲好きでもある東庄町の岩田町長から挨拶がありました。町長は小さい頃まだ営業していた十一屋で食事をしたことがあるそう。また「十一屋」とは花柳界の隠語で「お客さんを迎える」という意味合いがあることをお話しくださいました。(その後私がネットの隠語辞典で検索したところ「土臭き客」とでてきました)
いよいよ玉川太福さんと曲師のみね子師匠登場。太福さんはあえてこの場を「笹川の花会」のネタおろしの場としました。
気持ちのこもった素晴らしい口演でした。このような場に参加できたことをうれしく思います。
ご協力いただきました十一屋ご主人ならびに企画を運営してくださった関係者の皆様に篤く御礼申し上げます。

この後午後2時からは東庄町公民館大ホールにて本イベントが行われました。

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講談 神田松之丞「鹿島の棒祭り」
浪曲 玉川太福「笹川の花会」みね子
浪曲 玉川奈々福「亡霊剣法」みね子
講談 神田愛山「三浦孫次郎の義侠」

愛山先生は本をもとにご自身でこの話を講談に仕立てたそうです。三浦屋孫次郎は大衆演劇でも定番の演目。内容は愛山先生のネタとほぼ同じ。講談と大衆演劇の「三浦屋孫次郎」、そのルーツ、元ネタは何かとても気なっています。

公演後は、出演者とお客さん(地元の方&遠足組浪曲ファン)が鯉屋旅館に移動しての懇親会。旅館に泊まる遠足組は懇親会の後居酒屋水滸亭に移動。地元の方も合流して楽しく盃を酌み交わしました。皆で浪曲天保水滸伝の外題付けを合唱したのは忘れられない思い出です。

◆2017年8月11日~16日 朝練講談会 灼熱の六日間連続読みの会
宝井梅湯さんの講談「関東七人男」と玉川太福さんの浪曲「天保水滸伝」の連続読みの会がお江戸日本橋亭で行なわれました。
太福さんは師匠の二代目玉川福太郎が「徹底天保水滸伝」に残した六話を、ネタおろしを含めすべて口演しました。
天保水滸伝が玉川の芸として継承された、天保水滸伝芸能史にとって記念すべき会となりました。
「灼熱の~」と題した会でしたが東京は記録的に毎日雨が降った年でお盆も比較的過ごしやすい気温でした。




大衆演劇

浪曲、映画で人気があった話は当然旅役者による芝居の演目となりました。現在でも大衆演劇において飯岡助五郎や笹川繁蔵の芝居が残っています。しかし「天保水滸伝」という言葉はほとんど用いられていないようです。
大衆演劇はお芝居と舞踊ショーで構成されており、どちらでも天保水滸伝に触れることがあります。
舞踊ショーでいえば、田端義夫「大利根月夜」はよく使われてきた歌なのだと思います。三波春夫の歌謡浪曲「大利根無情」はまさに大衆演劇のためにあるような歌に思えます。「止めて下さるな妙心殿、落ちぶれ果てても平手は武士じゃ、男の散り際だけは知っており申す。行かねばらなん、行かねばならんのだ~」の名セリフを大衆演劇役者の演技とともに聞くのはとても楽しい。三波春夫には「残月大利根」という歌もあります。

以下大衆演劇で演じられた天保水滸伝関連の芝居を紹介します。ここに挙げたのは私が観たうちのいくつかに過ぎません。私が観たことのない演題もたくさんあります。

『大利根月夜』
鹿島神宮の祭礼。平手は酒を飲むことを禁じられていたが、お神酒ならいいだろうと飲んでしまう。飯岡の一味が通りかかった際に、平手の酒に埃が入ってしまう。平手は飯岡一味をやっつける。
飯岡助五郎が惚れた女は繁蔵の子分とできていた。そこから喧嘩がおこりそうになるが平手が仲裁する。
労咳にかかり尼寺で養生する平手。平手を千葉周作道場の娘の早苗が訪ねる。夫の兵馬が変わってしまい道場が落ちぶれたので平手に帰ってきてほしいと告げるが平手は断る。出入りがあることを知った平手は繁蔵のもとに駆けつける。
笹川と飯岡の決闘。兵馬は飯岡の用心棒になっていた。平手と兵馬の一騎打ち。兵馬は負けるが平手も深手を負う。平手は繁蔵の腕の中で息をひきとる。


『笹川の花会』
飯岡助五郎の子分、洲崎の政吉が主人公。
【芝居あらすじ】
笹川繁蔵主催による花会の案内状が助五郎に届いた。花会というのは親分だけが集まる博奕の会で、近隣の親分衆を集めるとあって主催する親分にとっては名をあげる大きいチャンス。花会には各親分が大金を持ち寄る。繁蔵は飢饉に困窮する農民を救うという名目で花会を開いたのであった。
助五郎は敵対視している繁蔵が開く花会がおもしろくない。子分の洲崎の政吉に代理出席を命じて義理(奉納金)として5両というはした金を託す。
会場の十一屋に赴く政吉。国定忠治・大前田英五郎といった大侠客も来ている。各親分が持参した義理が貼り出される。どれも五十両・百両といった大金である。親分の名代としてわずかな金しか持参しなかった政吉は、身が縮む思いで義理の金額が発表されるのを聞いている。が、政吉はそれを聞いて驚いた。飯岡助五郎金100両、代貸洲崎の政吉金50両、飯岡若衆一同金50両との発表。政吉はこれが繁蔵のはからいだと気づく。

というのが基本的な話です。大衆演劇ではこれにさまざまなバリエーションがあるようです。最後に白無地の単衣を着た平手造酒と政吉が一騎打ちするというものもあります。
【史実は】
十一屋は当時は商人宿で回船問屋も兼ね家の前には馬つなぎ場などがあり渡世人はここをよく利用していたそうです。繁蔵はよくここにいました。
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 十一屋のあったところ。右は桁沼側。左手近くに諏訪明神がある。
天保13年の7月27・28日の諏訪明神の祭礼日に、繁蔵は、境内に相撲の租、野見宿禰の碑を建てるという名目で花会を催しました。この花会に誰が出席したかははっきりしません。芝居では、国定忠治・清水次郎長・大前田英五郎など大侠客が出席し、忠治が政吉に対して助五郎本人が来ないことを罵るという場面があります。しかし役人に追われて転々と逃亡していた忠治のもとに花会の案内状が届いて忠治が下総まで出かけたということがあるでしょうか。また次郎長はこのとき22歳で一家をかまえる前ででる。大侠客が出席したというのは作り話でしょうけれど、芝居としては面白いです。脇役にも貫禄ある有名な親分が幾人も出てくるので、座長大会の芝居に向いていると思います。

『三浦屋孫次郎』
大衆演劇ではよくかかる定番演目です。
【あらすじ】
助五郎は繁蔵の闇討ちをたくらみ、その遂行を子分の三浦屋孫次郎に命じるが、孫次郎は断る。7年前に母と妹を連れて銚子の五郎蔵に紹介された助五郎を訪ねて旅をしていた。その途中で母が持病で苦しんでいた際に繁蔵に助けてもらったろいう恩義が孫次郎にはあった。助五郎は7年間の義理と1度の義理は天秤にかけたらどちらが大事だと詰問し、孫次郎は闇討ちを承諾する。助五郎は成田屋を後見にさせる。
ある夜。孫次郎は繁蔵に斬りかかる。しかしそれは本気ではない。孫次郎は繁蔵にわざと斬られるつもりでいる。そこに成田屋が背後から現れ繁蔵を斬る。
虫の息の繁蔵は、恩義のために自分の命を捨てようとした孫次郎に、自分の首を助五郎のもとに届けて義理を立てた後にその首を笹川一家に届けてほしいと頼む。
成田屋が助五郎に孫次郎を裏切ったことを告げる。孫次郎は繁蔵の首を助五郎に渡しに行くが、助五郎から盃を水に流すと言われ、母妹ともにこの土地から出て行けと命じられる。
繁蔵の妻が葬儀の準備をしているところに正装の孫次郎が訪れる。




長谷川伸作品と天保水滸伝

長谷川伸原作の「瞼の母」「関の弥太っぺ」は大衆演劇の演目としてもおなじみです。どちらの話も物語背景に天保水滸伝を借りています。
瞼の母
大衆演劇では水熊横丁の場面から始まることが多いと思いますが、原作戯曲では第一場は次のような場面から始まります。

飯岡助五郎の身内の喜八と七五郎が、江戸川沿岸金町にある瓦焼をしている惣兵衛の家を訪ねる。二人は惣兵衛の弟の半次郎を探している。
前の年に繁蔵が助五郎の身内に殺された。その仕返しとして、笹川一家の身内のやくざ2名が助五郎を斬りに行った。それが番場の忠太郎と金町の半次郎。助五郎は掠り傷で済んだが、助五郎身内の友蔵、金四郎が死んだ。喜八と七五郎はその敵討ちのため、半次郎を追ってここまで来たのである。
半次郎の身を案じて、忠太郎も瓦焼の家を訪ねるが、半次郎の妹や母は、半次郎は家にいないと必死に隠す。忠太郎はその親身の情を羨ましく思い、わが身の悲しさ憂う。
忠太郎は、半次郎とともに、喜八と七五郎を返り討ちにする。
忠太郎は紙に「この人間ども 叩ッ斬ったる者は江州阪田の郡 番場の生れ忠太郎」と書くが、字を知らない忠太郎は、半次郎の母に手をとってもらう。その際忠太郎は母を思い出して涙ぐむ。

ちなみに映画「瞼の母」(昭和37年、加藤泰監督)は金町の半次郎(松方弘樹)が飯岡助五郎に斬り込みにゆく場面から始まっています。

関の弥太っぺ
主役は関の弥太っぺこと弥太郎。準主役が箱田の森介。
戯曲には天保水滸伝でおなじみの人物、笹川繁蔵、勢力富五郎(戯曲では留五郎)、清滝の佐吉、神楽獅子の大八がでてきます。

下総菰敷の原。夜更け。神楽獅子の大八は子分数名を従えて繁蔵を待ち伏せしている。
一方、清滝の佐吉のもとに草鞋を脱いでいた森介と、勢力留五郎のもとに草鞋を脱いでいた弥太郎は今晩勝負をつけることを決めており、それぞれやっかいになった家を出る。佐吉と留五郎が見守る中、森介と弥太郎の一騎打ちが始まる。そこに籠に乗った繁蔵が通りかかる。繁蔵の口ききで森介と弥太郎は仲なおりする。一同は歩いて帰ってしまい、大八の待ち伏せは失敗する。



【あとがき】
忠臣蔵(義士伝)は講談・浪曲・映画・芝居・テレビなど大衆芸能・大衆娯楽によって国民に広く親しまれた物語です。しかし昨今では「国民的物語」というほど広く認知されなくなったように思います。どうしてそうなったのでしょうか。
物語の内容が現代の世相に乖離してきたからという見方が一般的なのかもしれませんが、私は芸能や娯楽に親しむ人々の「楽しみ方」が変わってきたからという側面もあるような気がします。
義士伝に親しんでいた人たちは<自分の義士伝の世界>をそれぞれの心の中に持っていたのだと思います。芸能や映画を通じて義士伝に触れる楽しさは、自分の中の義士伝の世界が広がったり変容したりしてゆく楽しさだったのではないでしょうか。だから同じネタであっても、それが自分の中の世界を色濃くしてくれるものであれば、何度見ても飽きることがない。いろいろな脚色があってもバリエーションとして楽しむことができる。銘々伝など脇役の話もさらに世界が広がって面白い。寄席や映画館に足を運ぶ人々の胸中には、自分の中の物語を育てる楽しみがあったのではないでしょうか。多くの人々が育てて楽しんだ物語こそ国民的物語といえるのだと思います。現代の消費文化では、暮らしの中でたまに思い出したりしながら長い月日をかけて育てるという悠長な楽しみ方はそぐわないのかもしれません。また、物語を育てる楽しみがあっても、その世界に触れる機会が身の回りにないと継続してゆきません。上演・上映の機会が減る→育てる楽しみがそがれる→人気が落ちる→上演・上映の機会が減る、という負のスパイラルも義士伝の人気の衰退の一因のように思います。
天保水滸伝もかつては国民的物語だったのだと思います。かつてのように誰でも知っている物語として人気がよみがえることもないと思います。しかし大衆演芸好きな人々にとっては、おなじみの演目であり自分の中で育てて楽しむ物語であり続けてほしいと私は願っています。しかし現在の大衆演劇では天保水滸伝関係の演目は人気がないのかあまり上演されないのが残念です。
このブログは、大衆演劇ファンの方がもっと天保水滸伝を楽しむきっかけになればという思いから作成しました。大衆演劇は将来の衰退があやぶまれています。何度見ても楽しめて自分で育ててゆけるような物語を劇団とお客さんが共有することはその活路のひとつではないでしょうか。

□参考文献
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「遊侠奇談」子母澤寛
「任侠の世界」子母澤寛
「実禄天保水滸伝」野口政司
「天保水滸伝余録」
「飯岡助五郎正伝」伊藤實
「大原幽学と飯岡助五郎」高橋敏
「博徒の幕末維新」高橋敏
「考証天保水滸伝」今川徳三
「八州廻りと博徒」落合延孝
「国定忠治」高橋敏
「河岸に生きる人びと」川名登
「利根川東遷」澤口宏
その他いくつかの書籍を参考にしました。
また小説として次の本を読みました。
「巷説天保水滸伝」山口瞳
「私家版天保水滸伝」高橋義夫
「天保水滸伝」柳蒼二郎
「燃える大利根」伊藤桂二
巷説天保水滸伝は飯岡助五郎と笹川繁蔵がどちらもとても魅力的に描かれており、天保水滸伝に興味がある方に是非おすすめしたい小説です。

「天保水滸伝」ゆかりの地、飯岡・笹川・銚子旅日記

「天保水滸伝」ゆかりの地、飯岡・笹川・銚子旅日記

2013年12月某日。大衆演劇でおなじみの「天保水滸伝」ゆかりの地を訪ねる旅に出かけました。大衆演劇は好きだけれども天保水滸伝にはさして興味がない私の妻も銚子のうまいものに惹かれて同行しました。
(「天保水滸伝」についてはこちらのブログをご覧ください)

■飯岡へ

朝早く車で東京品川区を出発、首都高湾岸線を東へ。千葉県近くになって渋滞にはまる。ところが右の方の車線は車が流れている。自分のいる左の車線が何故か進まない。車線変更しようにも右車線は走行する車がなかなか途切れなくて出来ない。葛西のあたりで渋滞が解消する。そう、左車線の渋滞は東京ディズニーランドを目指す車の行列だったのです。よけいな時間をくってしまった。

東京と銚子の緯度はほとんど同じ。だから双方を結ぶ交通路を最短距離で整備しようとするならば、真横に直線的な道路なり線路なりを作ればよい。しかし実際は千葉県中西部の線路は大きくうねっている。これは線路敷設の計画があった当時に、最短距離線上に、敷設反対を通すことのできるほど強い力を持った土地があったからだ。飯岡の近くにも鉄道駅はない。線路は飯岡をよけるように北にふくらんだカーブを描いて銚子につながっている。これは当時の飯岡の経済力・発言力の強さを物語っている。漁業で繁栄していた飯岡にとって鉄道に魅力はなく、むしろ近づけたくなかったのだろう。しかしその結果、現在の飯岡はいいようもないさみしい街になってしまった…というような話が山口瞳「巷説天保水滸伝」に書いてありました。

車は高速を降りて国道126号線へ。旭駅の近くを通過。飯岡は旭市にあります。目指す土地が近いことがわかります。
運転中「蛇園」という地名が目に入り、浪曲「蛇園村への斬り込み」を思い出す。

飯岡に着きました。
カーナビにインプットしてあった最初の訪問地光台寺へ。カーナビは「到着しました」と言っているのに、入口と駐車場がみあたらず、ちょっとぐるぐる走ってようやく正面に到着。

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光台寺。飯岡助五郎の菩提寺です。
掲示板に助五郎の墓の場所の案内があります。

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助五郎の墓。近くに看板があります。

●飯岡助五郎之墓●
 助五郎は相模国(神奈川県)三浦に生まれ、若い頃飯岡へ来て漁夫をしていましたが、義理人情に厚いうえ度胸が良いので人々にたてられ関東屈指の大親分と言われるようになりました。笹川繁蔵との大利根河原の決選は、天保水滸伝として世に知られております。
 天保年間、この浦で大海難事故があいつぎ漁夫が全滅しかけてたとき、自費で生地の三浦から漁夫を集め復興の礎をつくり、飯岡町再生の恩人として町民より感謝されていましたが、安政六年(1859)四月十四日、当町川端町の自宅で[67歳]を以て大往生を遂げました。

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墓に供えられた花
もう何日もたっているよう

次は笹川繁蔵の首塚があるという定慶寺に向かいます。くねくねと細い道をゆかねばならないようです。また車で迷いたくないし近いので歩いて行こうかと考えながら歩いていると、誰かが私を呼び止めました。見ると軽トラックの近くに昔かたぎ風のおじさんがいて、指で地面を差しています。そこには私が落とした手袋がありました。
農作業か何かの途中らしきおじさんは何しに来たのかと尋ね、私は簡単に事情を説明しました。おじさんは飯岡にある史跡について朴訥な言葉でいろいろ教えてくれた後、首塚なら車で行けばいいよ、と助言してくれました。
おじさんにお礼を言って、車に乗り込み、カーナビで定慶寺をチェックしようとしたら、クラクションの音が聞こえました。軽トラックの運転席に乗り込んだおじさんがだまってこちらを見ています。その顔には「俺についてこい」と書いてあるのがわかりました。私が車をゆっくり動かすと、おじさんのトラックは軽やかにターンを描いて光台寺の駐車場を出て行き、私はその後についてゆきました。

雲ひとつない青空の下、2台の車が起伏のある小道をすべりゆき、墓地がある石垣の前を通りすぎたところで止まりました。そこは定慶寺の墓地でした。
おじさんは首塚の場所や助五郎の家があった場所を指差して教えてくれた後、トラックに乗り込み去ってゆきました。
おじさんありがとう~。

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笹川繁蔵の首塚

次は玉崎神社に向かいます。
助五郎は玉崎神社の社地を借りて家を建てて漁業の商売を始めました。

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玉崎神社入口。

かつての飯岡の街は玉崎神社を中心に賑わっていたのだと思います。
でも今は閑散としてさみしい感じ。

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飯岡助五郎の碑があります。

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助五郎の碑の下に力石(ちからいし)が置いてあります。昔のひとは石を持ち上げて力比べをしたそうです。ここに置いてあるということは助五郎がこれを持ち上げたということでしょう。石には「六拾貫目…」と彫られています。
私もちょっと持ってみましたがまるで歯が立ちませんでした。

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神社の奥の森には助五郎稲荷神社がありました。

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玉崎神社近くの待合所。
ガムテープで貼られたポスター。
右:アサヒスーパードライ
左:飯岡観光協会「海よし食よし花火よし」 砂浜をバックに白いビキニの女性が微笑んでいる
飯岡の魅力を伝えようとしているポスターが皮肉にも飯岡のさびれた雰囲気を演出している。

さっきのおじさんは、玉崎神社の近くの洋服屋さんが昔助五郎の賭場があったところ、と教えてくれました。洋服を売っていそうなお店はいくつかあってどこだかわかりませんでした。

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次の目的地「飯岡歴史民俗資料館」へ。
資料館は「いいおかユートピアセンター」の敷地内にあります。ユートピアセンターの駐車場がいっぱいだったので、近くの海辺の駐車場に車を止めました。

資料館の見学には事前にユートピアセンターへの連絡が必要とのことで、数日前に電話を入れておきました。
土曜日だからか、センターの事務室には職員さんが1名しかいませんでした。資料館の見学に来たことを告げると、職員さんは窓口をいったん離れて別棟の資料館の入口扉を開錠してくださいました。

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資料館内部。
助五郎関係の古文書が展示してあります。

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資料館内には白い扉があり「天保水滸伝 飯岡助五郎関係資料展示」と書かれた紙がセロテープで貼ってあります。
魅惑の白い扉へイザ。

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助五郎関係資料室内部。
浮世絵の複製、明治時代の出版物の複製、新聞の切り抜き、浪曲のカセットテープ、などが飾られています。
飯岡町史編集委員で「飯岡助五郎正伝」の著者伊藤實氏の入念な調査の結晶がこの資料館につまっているようです。
「助五郎・繁蔵の勢力図」など伊藤氏が作成したと思われるわかりやすい資料もたくさん展示してあります。
飯岡にある助五郎の遺跡の地図も展示してありました。先にこの地図を確認してから史跡めぐりをするべきでした。

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助五郎の女房が使用していた手鏡

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平成7年の朝日新聞に「浪曲 天保水滸伝」という連載記事があったようです。全9回。
天保水滸伝のあらすじを9回にわけて紹介する文章と浪曲における天保水滸伝のレポート記事の2段構成になっています。

①1970年から浪曲定席となった木馬亭の紹介。席亭の根岸さんの談話。木馬亭はもうからないけれども二階を大衆演劇に貸しているので何とかつないでいる。
あらすじ:助五郎と繁蔵の紹介、花会の開催

②浪曲評論家芝清之氏の紹介。吉田奈良丸の「勧進帳」をきいた歌舞伎の中村吉右衛門がそのうまさに感心して祝儀をつけた。
あらすじ:両者の縄張りの境目の清滝村岩井不動尊の縁日の帰りに助五郎は闇討ちにあった。助五郎はそれを繁蔵側の仕業とみた。

③天保水滸伝を研究している郷土史研究家の野口政司さんの話。観光資源として利根川岸に碑を建てることになった。首相が浪曲好きだと聞いて、碑文の揮毫を田中角栄に頼んだ。
あらすじ:助五郎と繁蔵の出自

④三代目玉川勝太郎の紹介。「多少不良っ気もあったし、啖呵をきらせたらおれはだれにも負けないって気持ちがあったもんですから、先代の語り口と違う水滸伝をやってやろうなんてね。考えましたよ」
あらすじ:助五郎は十手持ちとなって笹川へ乗り込んだ。飯岡側は負けたが、平手は死んだ。

⑤天保時代の利根川の様子。富裕商人や地主層と貧しい小作人とにわかれた。食い詰めた農家の次男三男が博徒になった。一つの村に二人も三人も領主がいて警察権が行き届かなかった。情報ネットワークはできており、下総の喧嘩の話は江戸の講釈師のもとにわたったと思われる。
あらすじ:平手造酒の出自。決戦では諏訪神社で殺される。

⑥三代目玉川勝太郎の芸について語る。会場の広さや客層に合った芸をしないと受けない。
あらすじ:座頭市と大原幽学について

⑦飯岡で郷土史研究をしている伊藤實氏の紹介。浪曲や講談では史実とははなれて助五郎が悪役として描かれてることを残念に思う。昔は玉川勝太郎が飯岡に来ると帰れという心無い町民もいた。
あらすじ:繁蔵は放浪の旅に出て、助五郎は牢に入れられた。

⑧玉川勝太郎の「あいじゃみ」の吉野静さんの話。演者がのらない時は三味線がひっぱらなければならないから骨が折れる。演者がのっている時は自然にいい手が出る。これが不思議。
あらすじ:笹川に戻った繁蔵は飯岡側の闇討ちにあう。

⑨浪曲界に入りたての春日井あかりの紹介。弟子の生活は厳しい。アルバイト、恋愛はご法度。三年間は給料なし。師匠の興行について行って身の回りの世話もしなければならない。
あらすじ:笹川一家は勢力富五郎が跡を継いだ。金毘羅山を逃げ回りついには自殺。


資料館で飯岡の探訪はおしまい。これから笹川へ移動します。
飯岡の資料館で思いの他時間をくってしまって、予定の時間を過ぎてしまいました。
途中で清滝の佐吉の碑や岩井不動を見ようかと思っていたのですが、昼食の時間がとれなくなりそうなので、清滝はスルーすることにしました。移動の途中、車窓から「佐吉まんじゅう」の看板が見えました。

■笹川へ

北へ車を走らせ笹川に到着。
まずは腹ごしらえ。

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諏訪神社の近くの食堂「青柳」に入りました。

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しじみ丼をいただきました。

食事を終えて、諏訪神社へ。神社の敷地内に東庄町観光会館および天保水滸伝遺品館があります。

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諏訪神社の駐車場にはためいていたのぼり。

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東庄町観光会館・天保水滸伝遺品館

事前に東庄町の観光課に電話を入れて、ここを訪ねる旨とできればガイドしていただきたい旨と伝えてありました。
観光会館には二人の男性がいらっしゃいました。おじさんとかなりお年を召していそうな(けれどもとても元気な)方。(Tさんと老Tさんと呼ぶことにします)

老Tさんが、まず東庄町関係の展示コーナーをご案内してくれました。
ここは主に「相撲」「澪つくし」「天保水滸伝」についての展示があります。

近年は出羽の海部屋が夏合宿でここに来るとのこと。

むかし、NHK連続テレビ小説に沢口靖子が主演していた「澪つくし」という番組がありました。
銚子の醤油醸造家を舞台としたドラマです。撮影は笹川にある入正醤油で行われたそうです。その縁で「澪つくし」という商品を入正醤油で製造販売しています。

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展示部屋には浪曲関係の掲示もありました。天保水滸伝を持ちネタとしている浪曲師玉川奈々福さんの写真が2枚貼ってあります。うち1枚は、いつ撮影されたものか、髪に大きな飾りをつけた10代の女の子に見える奈々福さんのかわいらしい写真で私は思わず「若っ」と声を発しました。老Tさんは「奈々福さんをご存じ?」と訊いてきました。自分が浪曲好きで奈々福さんのファンでもあると告げると、老Tさんのテンションがにわかにあがり私に握手を求めてきました。老Tさんは大の奈々福ファンのようです。その後、木馬亭の話や玉川福太郎の話などをしてくださいました。ここ諏訪神社では天保水滸伝のイベントを行うことがあり、近年は玉川奈々福さんが毎年出演されているようです。

東庄町のコーナーを見終えた後、隣の天保水滸伝遺品館をご案内くださいました。こちらは入館料が200円かかります。

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遺品館内部

笹川の花会が行われた十一屋で使用されていた食器や、繁蔵らが使用していた遺品がたくさん展示されています。

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平手造酒が愛用したという尺八

遺品館の見学後、諏訪神社内を散策しました。

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土俵

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野見宿彌命の碑

神社の見学後、観光会館に戻りそこで販売されている天保水滸伝グッズ(冊子、CD、DVD等)をありったけ購入したところ、こんなに売上がでることは珍しいらしくTさんは喜んでいました。
この後訪ねる予定の勢力富五郎終焉の地(金毘羅山)の場所を訊いたところ、老Tさんは紙に手書きで地図を書いてくれました。
平手造酒が療養していたという尼寺の場所も訊くと、今はもうなく崖の下にお地蔵さんがあるだけだ、とのことでした。
Tさん老Tさんにお礼をして観光会館を後にしました。

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諏訪神社近くの延命寺へ。
助五郎らが笹川に乗り込んで来た際に繁蔵一味の一部が潜んでいたという寺です。

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笹川繁蔵の碑

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勢力富五郎の碑(昭和3年建立)

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平手造酒の墓(昭和3年建立)
↓この墓の裏に嘉永3年に建てられた本当の?墓があります
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「平田」と書かれています。

延命寺にはその他、お豊(繁蔵の妻)の石碑、繁蔵の墓などたくさんの石碑があります。
浪曲師玉川勝太郎、春日井梅鶯の名が刻まれた柱もありました。

次に、繁蔵がよく出入りしていたという十一屋があった場所を確認します。

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桁沼川沿いに十一屋はありました。
諏訪神社・延命寺・十一屋はお互い歩いて3分くらいのご近所にかたまっています。

天保水滸伝では「大利根河原の決闘」が有名です。実際に河原で喧嘩があったかどうかは知りませんが、利根川の河原がどんなところかを見てみたい。
諏訪神社の駐車場に戻り車に乗りました。

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笹川近くの利根川沿いは昔とだいぶ変わってしまったようです。今では河原ではなく田んぼが広がっていました。

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続いて繁蔵が闇討ちにあったビャク橋の跡へ。すでに川の面影もありません。
きれいに花が植えられています。

次は勢力富五郎が立てこもった金毘羅山と富五郎自刃跡を目指します。

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観光協会で老Tさんが手書きで書いてくれた地図をたよりに、ゆっくり車を走らせました。
が、細い道が多くあっという間に迷ってしまいました。カーナビを頼りに行くことにします。
老Tさん、せっかく書いていただいたのにすみません。

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老Tさんが目印だと教えてくれた「白い山門」が見つかりました。
その近くに「天保水滸伝遺跡遊歩道」と書かれた案内看板がありました。

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遊歩道に入ってすぐ、休日にピクニックに来た家族ための広場、という感じの場所がありましたが、見てのとおりテーブルも椅子も苔むしていて、しばらく人が訪れたような気配がありません。

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遊歩道を進みます。
勢力富五郎はこのような林の中を移動しながら潜んでいたのでしょうか。

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遊歩道の終点に勢力富五郎自刃跡があります。

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「勢力霊神」と書かれた碑

以上で笹川の探訪を終わります。
まだ西光寺跡など史跡は残っているけれども、銚子のうまいもんが自分を呼んでいる。

■銚子へ

銚子駅近くのホテルに着いたときにはもう空は暗くなっていました。

今回の旅のメインの目的はもちろん天保水滸伝の史跡めぐりですが、別の大きな目的は「銚子のうまいもん」です。
特に寿司を最大の楽しみとしていました。
私と妻の共通の友人が銚子出身でそのお姉さんが寿司屋に嫁ぎました。今晩はその寿司屋「辰巳寿司」に行くことに決めておりました。
辰巳寿司は銚子観音の近く、駅でいうと銚子電鉄の観音駅の近くにありますが、銚子駅からも歩いてゆける距離ですので、ホテルから歩いてゆきました。

銚子の夜の街を歩いていると醤油の匂いがしてきます。ヤマサ醤油の工場が近くにあるのです。

銚子の名物の菓子といえば「ぬれせん」
銚子のぬれせんのお店は「柏屋」と「福屋」がいいと聞いておりました。

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寿司屋に向かう途中に福屋があったので立ち寄ってぬれせんその他を買いました。

福屋のすぐ近くに「辰巳寿司」はありました。

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辰巳寿司。
日本人なら誰しも暖簾をくぐりたくなるような店のたたずまい。

私たちが来ることは友人から伝わっていたようで、大将とおかみさん(友人の姉)が迎えてくれました。
きさくでざっくばらんな大将。お店の雰囲気もよく居心地がいい。

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「これ弟から・・」といっておかみさんが持ってきたのはキンキ。
「弟からキンメを出してくれっていわれてたんだけどね、しけでキンメがあがらなかったんだ」と大将。
キンメとは金目鯛のことで、銚子の名物なのです。銚子すし商組合のチラシの文言を引用します。
「銚子沖は金目鯛漁の北限とされ、他の漁場より水温が低いことから、ここで獲れる天然の金目鯛は脂ののりが別格。魚体を傷めずに"釣り"上げる漁法や漁獲制限も影響し、築地ではブランド魚として高値で取引されています。(後略)」
次に来たときは是非キンメを食べよう。
でもこのキンキも美味也。

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続いて出てきたのがイワシ。
ちょうど先ほど妻とイワシ食べたいね、と話をしていたところです。
「頭からがりがり食べられますよ」とおかみさん。
絶妙なる焼き加減、香ばしい。イワシでこんなに幸せになれるなんて。

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「これも弟から」とおかみさんがキンキの煮付けを出してくれました。
ありがとうF(友人)さん~
これも美味也。

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ビールの後はもちろん酒。千葉九十九里の地酒「梅一輪」
「たまんね~な~」とつぶやく私の心。

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握り。
美味しいっ!!
ネタはもちろんシャリがまろやかで旨い。
寿司好きの妻も銚子まで来た甲斐があったと大将の腕前に感嘆しておりました。
大将は話をしていると豪快な印象なのですが、料理は繊細。食材にもこだわりを持っている。絵にかいたような職人さん。

銚子であがる一番いい魚はふつう銚子の店にはでないそうです。それらは東京に運ばれて築地で高値で取引される。ここの大将は銚子のうまい魚を東京より安い価格で仕入れる努力をしてクオリティを高く保っているようです。

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銚子の名物だという「伊達巻」をお願いして出していただきました。
この写真は伊達巻だけですが、真ん中にご飯が入った伊達巻寿司が一般的なようです。

一般的な伊達巻と違って魚のすり身が入っていません。一口食べてびっくり。つるっとした食感、カスタードクリームのような甘み、まるでプリンのよう。これは初めて体験する美味しさ。

銚子にある寿司屋さんは皆「おれんとこの伊達巻が一番うまい」とプライドをかけて作っているそう。
辰巳寿司はこれを作るためにお正月前に4日間店を閉めるそうです。何日も閉めるのは、ものすごく大量に作るからというより、とにかく手間と時間がかかるからとのこと。なじみのお客さんからの注文分を作るので手いっぱいでもう新規の注文は受けられないようです。

銚子の寿司屋さんのパンフレットをもらいました。そこには伊達巻が「漁師のプリン」と紹介されていました。ちなみにこのパンフレットに写っている伊達巻は大将が作ったものだそうです。

大将の楽しいトークと美味しい料理・寿司・酒。大満喫の一夜でした。
途中で寿司の予約注文の電話も入っていました。地元の方に愛されている店なのでしょう。ネットにもほとんど情報がでてこないし観光客は来ない店なのかなと思います。そのような店をこのようにブログでPRするのもどうかと思いましたが、たいして読者がいるブログでもありませんし、大将からも許可をもらいましたのでブログに書かせていただきました。

銚子の寿司屋はどこもこんなに旨いのでしょうか。余談ですが、翌日は別の寿司屋(風呂で偶然知った元寿司職人さんに教えてもらった店)に行きました。でもそこでは辰巳寿司で得たような感動は味わえませんでした。(大将も「しけで船がでてないから明日寿司屋に行ってもいい地元の魚はないよ」と言っていましたが)

地元の呑み仲間を連れてまた辰巳寿司にくるぞと誓いつつ、歩いてホテルに戻りました。

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銚子駅近くのかもめホテルという見た目新しそうな宿。
古いビジネスホテルを若者むけのおしゃれな内装にリニューアルしたようです。
ホテルの諸案内が書かれたカードがリングでとじられています。

翌日は日曜日で、朝7時から銚子市役所前で朝市が行われるという情報をホテルのHPから入手していました。

翌朝。
ちょっと寝坊してしまい、7時20分頃に銚子市役所に行きました。
しーん。
誰もいない。何かが行われる気配はありません。情報を見間違えたのか?
市役所の中でやっているのだろうかと建物に近づく。入口は開いていたものの、中はやはり何の気配もありません。
警備員さんがいたので、朝市のことをきくと、もう終わってしまったとのこと。「まだその辺にいると思うから呼んであげるよ」と警備員さん。私と奥さんが「いや、それは‥」と言おうとするのを、いいからいいからとさえぎって警備員さんはつかつかと建物の外に出てゆきました。

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市役所の駐車場のかたわらでおばちゃんたちがお茶菓子を並べて歓談していました。警備員さんがおばちゃんに話しかけ
るとおばちゃんたちがこちらを見て腰を上げました。

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おのおののおばちゃんがいったん車に収納した農作物をまた出して私たちに見せてくれました。
大根1本100円。どの野菜も安い。

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たくさん買いました。東京に帰って食べるのが楽しみ。ありがとう警備員さん、おばちゃん。

さて、旅の再開です。
銚子にも天保水滸伝に関連した場所があるので、まずはそこをめぐることにします。

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坂東二十七番観音霊場 圓福寺。
この付近の土地は飯沼といって飯沼観音として親しまれています。銚子市街は観音様の門前町として発達したそうです。

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観音堂からちょっと離れた場所に本坊大師堂があります。ここに銚子五郎蔵と飯岡助五郎が寄進したという釜と五郎蔵の墓があることを調べていました。

まず御朱印をいただきました。俗世のことは興味はありませんといった風情の無表情な若いお坊さんは、明らかに観光客然とした私に御朱印帳を返しながら、どこから来たのかと尋ねました。私は東京から来たことを告げて、五郎蔵の釜のことを聴いてみました。お坊さんの眼鏡が一瞬光り、「ではご案内しましょう」と無表情で沈着な様子をくずさずお坊さんは立ち上がりました。

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五郎蔵と助五郎が寄進した釜。「銚子勝五良」「飯岡助五郎」の名が刻まれています。
実は本物の大釜は戦後の物資不足の際に盗まれて、その後有志が復元したものが新たに寄進されたようです。

今度は若いお坊さんに銚子五郎蔵の墓のことを聞きました。
わかりにくい場所にあるのでまた案内してくださるとのこと。本堂を出てお坊さんの後について広い墓地を進みます。
ここですと静かに言うと、無表情なお坊さんは本堂に戻って行きました。親切なお坊さん、ありがとうございました。

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銚子五郎蔵(木村勝五郎)の墓
新しそうな花が供されています。

銚子五郎蔵は銚子の陣屋の十手取縄を預けられていました。

利根水運が江戸に通じるようになってから銚子は東北各藩の物資を運ぶ中継港として重要性が増し、幕府は親藩高崎藩を銚子の統治に当らせました。高崎藩の陣屋は飯沼村に置かれ、飯沼陣屋ともいいます。

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圓福寺の近く、陣屋町にある陣屋公園の一隅に旧陣屋跡の碑がありました。

史跡を見た後、食いしん坊のわれわれは銚子にある魚市場「ウオッセ21」に向かいました。

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ウオッセ21に隣接する銚子ポートタワー

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ポートタワーの展望台から見た利根川の河口付近

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同じく展望台から見たウオッセ21

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ウオッセ21の水産物直売センターにて。
昨日辰巳寿司で教えてもらったいわしの「アゴ刺し」を見つけ購入。
その他お土産用にたくさんの缶詰を買いました。

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続いて、銚子のぬれせんの元祖「柏屋」へ。
ふつうの民家のような場所でした。辰巳寿司の大将はぬれせんではなく「わりわり」という割ったせんべいをおすすめしていました。

車の中はお土産でいっぱいになりました。
この後、犬吠埼で大衆演劇を観て、銚子で再び寿司を食べて東京に帰りました。

とても充実した2日間の旅でした。

この旅以降、早く銚子に連れてって寿司を食わせてくれ、と妻からしばしば催促されています。
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Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
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