炭坑の町の記憶と旅芝居 筑豊に復活した常打ちの芝居小屋 「飯塚セントラル劇場」
炭坑の町の記憶と旅芝居 筑豊に復活した常打ちの芝居小屋 「飯塚セントラル劇場」
エネルギー資源が石炭から石油に転換される以前の日本では、石炭の産地は国内経済発展に多大な役割を果たしてきました。特に第2次大戦前後の20年間は石炭需要が多く、石炭は黒ダイヤと呼ばれ、石炭産業は繁栄しました。
筑豊炭田は、石狩炭田、常磐炭田とともに日本の三大炭田地域でした。歴史が古く広大な地域をかかえる筑豊炭田地域の中心都市だったのが飯塚です。
このブログをお読みの方ならばご存知でしょう、飯塚には大衆演劇の聖地、あの嘉穂劇場があります。あまりにも立派すぎる嘉穂劇場では座長大会が行われることはあっても通常の大衆演劇公演はありません。飯塚の方々は、近くに嘉穂劇場がありながら皮肉にも大衆演劇を身近に楽しめない状況にありました。
そんな飯塚に常打ちの大衆演劇場として2017年12月にオープンしたのが飯塚セントラル劇場です。

新飯塚駅
博多駅からは約45分
駅から飯塚の中心地までは少し距離があります。
途中で遠賀川(おんががわ)を渡ります。
遠賀川は筑豊を流れる一級河川でかつては石炭運送の大動脈を担っていました。

遠賀川を渡る橋からの眺め。
遠くに「筑豊富士」と呼ばれるピラミッドが連なったような山が見えます。
飯塚セントラル劇場が入っているセントラルビルも見えます。

セントラルビルの屋上を望遠で撮影
「大衆演劇上演中」の垂れ幕が見えます

セントラルビルに着きました
飯塚セントラル劇場はこのビルの4階にあります

ビルの1階
ここからエレベータに乗って劇場へ
昼の部は13時開演
夜の部(平日以外開催)は18時開演

エレベーター前に劇場からの案内文書と時計が置いてありました。
ごめんなさい
昼の部12:00まで入場できません
夜の部17:30まで入場できません
お掃除やリハーサルや作戦会議をしております
といった内容。
開場時間が開演30分前や1時間前というのは別に標準的であります。
それでも「ごめんなさい」と書いてあるのは、
大衆演劇場は芝居を見る場所であるとともにお客さんがゆっくりくつろぐ場所、という前提意識を劇場の方がお持ちだからでしょう。

別の掲示には飲み物を注文した方やお弁当を予約注文した方は11:15から入場可ということが書いてあります。
それではエレベーターで4階へ。
降りると正面に受付カウンターがあります。ここで木戸銭を支払う。

受付から左を向くと劇場の入口が見えます。

受付から右を向きますと、「芝居茶屋」の暖簾がかかった部屋の入口が見えます。

芝居茶屋内部。
お客さんが飲食してくつろげるスペースになっています。

受付近くの掲示
お手ごろ価格のお弁当

いよいよ劇場内部へ
客席後方からの眺め

このように客席は段差になっています。
一番前のフラットなスペースには座布団が敷かれている。

その後ろに椅子席

後方の高くなっているフロアの席。
この一番前の長テーブルが置かれている席が、きっと一番見やすいいい席でしょう。

花道

舞踊ショーの様子

天井のミラーボール
観劇後は街の中心地、本町(ほんまち)商店街を散歩しました。

飯塚セントラル劇場オープンののぼりと動画ディスプレイがありました。
さて、この旅行で私は九州の旅芝居に思いをめぐらすことが多くありました。
大衆演劇の劇団はよく出自の系統から「九州」「関西」「関東」と3つに分類されます。
「九州」は橋本正樹先生の著書から引用させていただくと「ドサ周りのメッカ」
かつては旅役者を受け入れる土地や小屋がたくさんありました。

嘉穂劇場内に掲示されている「明治末期~昭和中期の劇場群 筑豊の芝居小屋(遠賀川流域)」というポスター。
地図には50の劇場が示されています。実際にはここには記されていない公演地もたくさんあったことでしょう。
黄金期の九州の旅芝居は力強い魂のこもった芸が評判だったそう。
そのような芸が人気を得た土壌がなぜ九州にあったのか。
筑豊という土地と炭坑の歴史に私の意識は向いました。

新飯塚駅から遠賀川を渡る際に見えた「筑豊富士」
この正体は<住友石炭鉱業忠隈炭坑のボタ山>です。ボタというのは選炭した後に残る石や岩石です。この山は半世紀近くボタを積み上げてできました。炭坑全盛期の頃のこの山は不夜城のように照明が灯っていたそうです。
筑豊には石炭遺産がたくさん残っており観光スポットとなっています。
今回私が飯塚セントラル劇場で観劇したのは九州大衆演劇協会所属の劇団正道。私は別の劇場で司大樹座長が「織江の唄」を女形で踊っているのを観たことがあります。
五木寛之「青春の門」は筑豊(田川・飯塚)を舞台とした大河小説で「織江の唄」はそのイメージソング。作詞は五木寛之、作曲・唄は山崎ハコ。

「織江の唄」を踊る司大樹座長
遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす
信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに逢いとうて カラス峠ば 超えて来た
この歌を九州の役者が踊ることに感懐を覚えました。
筑豊が「炭坑の町」であった記憶を大衆演劇役者がつなぎとめているかのような・・・
ここから先は、筑豊の炭坑について私が本で読み知ったことを綴りたいと思います。

昭和33年の筑豊の炭坑分布
昭和30年の筑豊には274の炭坑、10万人以上の石炭労務者があって日本最大の産炭地域でした。昭和30年代から炭坑閉山が進み、昭和50年の筑豊はわずか5の炭坑、35人の石炭労務者となりました。翌51年に筑豊から石炭産業は姿を消しました。
昭和30 炭坑274 労務者10万人以上
昭和50 炭坑5 労務者35
このように書くと約20年の間に筑豊の町から人がほとんどいなくなってしまったような印象を受けるかもしれませんが、実際にはそんなことはありません。
飯塚市の人口推移は以下のとおり。
昭30 10万7千人
昭31 10万4千人
昭60 8万2千人
平 2 8万3千人
それほど人口は落ち込んでいません。鉱業従事者や農業従事者は減りましたが製造業や第3次産業が増えました。
筑豊においては、炭坑と旅芝居が同じ時期に急激に衰退しましたので、両者の間に小さくない因果関係があるのではないかと思っていたのですが、石炭から石油へのエネルギー転換のタイミングとテレビの台頭による娯楽文化の激変のタイミングが重なった、と考えるのが妥当なのかなと思っています。
では炭坑労働者の娯楽はどのようなものだったのでしょう。
とある手記より(おそらく大正か昭和初期)
この沈滞した炭坑の空気も賃金支払日になると少し活気がみなぎっていた。各所から勘定日目当てに物売りや香具師の連中が押し寄せて、店の近くの広場には、のぞき、硝子蓋のなかからゴム管を数十本出して耳に当てて聞く浪曲、アメ細工、もち米細工、操り人形、薬売り、バイオリンを弾いた流行歌売り、雑貨類売り、玩具売りなどの市がたち、 (後略)
盆休みは酒瓶がよく動き、バクチも始まっていた。近くの飯塚の町に出てゆく者も多くなり、その頃には活動写真館が二、三軒できていて、芝居は榮座(後に吾妻座と改座)、中座(嘉穂劇場)があり(中略)働く者は気前よく金を使い、若者は赤線地区に走り、年配者は活動写真か芝居見物に行っていた。
七月十三日から始まる飯塚の祇園祭りは賑やかだった。 (中略)お宮の境内や、神社下、遠賀川の河川敷にも、テント張りの小屋掛けのいろいろな見世物小屋が立ち並んだ。ことに河川敷のサーカス小屋は、電気を明明とつけ、音楽を高々と響かせて、人の心を扇情的に誘っていた。
上山田(筑豊南部)での聞き取りより
賭博・花札をする抗夫が多かった。昭和20年代上山田大橋に玉突きが6件ほどあった。常盤座には、芝居、浪花節、万歳、舞踊など近辺の劇団がやってきた。後に映画館になった。永楽館という映画館があった。吉田座という劇場があってどさ回りがやってきて演芸をやっていた。
遊郭は炭坑街にはいずこでもあって、上山田大橋には20軒が並んでいた。赤線が廃止になって姿を消した。
筑豊の炭坑夫の暮らしを最も活き活きと現代に伝えてくれる資料は、山本作兵衛の炭坑記録画でしょう。作兵衛の作品群はユネスコの世界記憶遺産に日本で初めて登録されました。山本作兵衛は明治39年から昭和30年まで約50年間抗夫として働き膨大な絵と文章を残しました。
先ほど引用した「ゴム管を数十本出して耳に当てて聞く浪曲」も文字だけでは何のことかよくわかりませんが作兵衛の「発音機」という文と絵では克明に説明されています。
作兵衛の絵に芝居文化に関係する記述がないか探してみました。
明治時代のヤマにはいまのように映画、パチンコ、ビンゴ、競馬、競輪、オートレースなどなんの娯楽施設も福祉施設もありません。上三緒抗の場合、約五キロ離れた飯塚の町に養老館があるばかり。そこまで運炭線路を通って歩いて往復するとなるとよほどよほど芝居好きでも何ヶ月ぶりということになります。(中略)公休日も月に1日で、観劇するにも作業を休まなければならないし、切符金券制度が足かせになって金が自由になりません。こんなわけで、酒、バクチ、ケンカがうっぷんのはけどころとなっていました。
「ケンカ」より
「明治末期の青年は盆会休の二、三日間カケ小屋を造って芝居をしていた。」
下はその稽古中の場面

「コレハ新派劇の義理のシガラミ、正義快男児山岡金之助が悪党マムシの源太に忠告してフイに眉間を割られ、昂奮して復讐に出かける処を女房や児分が押とどめる場面」
大衆演劇でもありそうな場面ですね~
昔の炭坑生活を知る上で欠かせないのが炭鉱労働者の集合住宅である納屋(なや)の存在です。また差別の問題があったことも無視できません。
最後に、芝居とは離れますが、筑豊の炭坑について私の印象に残った事柄を記します。
江戸の藩政下で採炭が始まって以来長い間、炭坑労働者は人々から蔑まされ社会から隔絶された存在でした。土地を持たず各抗を転々と流浪する抗夫が基幹的な労働力でした。また明治・大正を通じて西日本各県の部落民が筑豊の炭坑に流入し、炭坑のあるところには必ず部落があったそうです。また明治20年頃に大財閥が囚人を炭坑労働に始めたことでも炭坑労働者への賎視が増幅されたことでしょう。
長崎では納屋(なや)という抗夫管理制度が発達しました。炭坑経営者は抗夫を直接管理せずに、納屋と呼ばれる抗夫小屋を取り仕切る納屋頭に管理をまかせました。納屋頭は納屋に住む抗夫を拘禁といってよいくらい厳しく管理し、逃げようとした者には惨い懲罰が加えられました。特に高島炭坑(軍艦島とともに世界遺産に登録されています)の惨状は全国に伝わり社会問題となりました。
明治に蒸気機械が導入されて通年採炭が可能になると出炭高は10~30倍になり抗夫の需要が高まりました。抗夫は季節雇用から常時雇用となり単身者ではない家族持ちの出稼ぎ抗夫も増えました。
筑豊では高島炭坑の納屋問題が落ち着いてきた時期になって納屋制度が普及してゆきました。納屋制度が確立してくると、納屋頭には絶対服従し分身として悪役を引き受ける補佐役が必要となりました。納屋の頭領は親分子分のように補佐役や用心棒を抱えるようになり、仁義をきって渡世する遊び人を留め置くこともありました。また納戸頭は対抗勢力に抵抗するため武闘力も備えてゆきます。男を売ることは精神的に重んじられました。明治後半の抗夫は多少なりとも刺青を入れていない者はいなかったようで、ケンカになると裸になって刺青を見せ、啖呵をきって、ドスを抜いたそうです。どこかで大喧嘩があれば、義理がある抗主や頭領のもとへ子分を連れて加勢に行きました。まるで幕末の侠客の世界のようですね。
現在筑豊には炭坑はありませんし「ドサ回りのメッカ」の面影もありません。
遠賀川を渡る橋から、筑豊富士と呼ばれる3つのボタ山と飯塚セントラル劇場が入ったビルが見えます。いつかもう一度あの橋に立って、往時の筑豊の炭坑と旅芝居の賑わいを想起してみたいと思います。
(2018年9月探訪)
参考文献
「筑豊炭坑絵物語」山本作兵衛
「戦争と筑豊の炭坑」
「筑豊万華 炭坑の社会史」永末十四雄
「旧産炭地の都市問題」
「見知らぬわが町」中川雅子
エネルギー資源が石炭から石油に転換される以前の日本では、石炭の産地は国内経済発展に多大な役割を果たしてきました。特に第2次大戦前後の20年間は石炭需要が多く、石炭は黒ダイヤと呼ばれ、石炭産業は繁栄しました。
筑豊炭田は、石狩炭田、常磐炭田とともに日本の三大炭田地域でした。歴史が古く広大な地域をかかえる筑豊炭田地域の中心都市だったのが飯塚です。
このブログをお読みの方ならばご存知でしょう、飯塚には大衆演劇の聖地、あの嘉穂劇場があります。あまりにも立派すぎる嘉穂劇場では座長大会が行われることはあっても通常の大衆演劇公演はありません。飯塚の方々は、近くに嘉穂劇場がありながら皮肉にも大衆演劇を身近に楽しめない状況にありました。
そんな飯塚に常打ちの大衆演劇場として2017年12月にオープンしたのが飯塚セントラル劇場です。

新飯塚駅
博多駅からは約45分
駅から飯塚の中心地までは少し距離があります。
途中で遠賀川(おんががわ)を渡ります。
遠賀川は筑豊を流れる一級河川でかつては石炭運送の大動脈を担っていました。

遠賀川を渡る橋からの眺め。
遠くに「筑豊富士」と呼ばれるピラミッドが連なったような山が見えます。
飯塚セントラル劇場が入っているセントラルビルも見えます。

セントラルビルの屋上を望遠で撮影
「大衆演劇上演中」の垂れ幕が見えます

セントラルビルに着きました
飯塚セントラル劇場はこのビルの4階にあります

ビルの1階
ここからエレベータに乗って劇場へ
昼の部は13時開演
夜の部(平日以外開催)は18時開演

エレベーター前に劇場からの案内文書と時計が置いてありました。
ごめんなさい
昼の部12:00まで入場できません
夜の部17:30まで入場できません
お掃除やリハーサルや作戦会議をしております
といった内容。
開場時間が開演30分前や1時間前というのは別に標準的であります。
それでも「ごめんなさい」と書いてあるのは、
大衆演劇場は芝居を見る場所であるとともにお客さんがゆっくりくつろぐ場所、という前提意識を劇場の方がお持ちだからでしょう。

別の掲示には飲み物を注文した方やお弁当を予約注文した方は11:15から入場可ということが書いてあります。
それではエレベーターで4階へ。
降りると正面に受付カウンターがあります。ここで木戸銭を支払う。

受付から左を向くと劇場の入口が見えます。

受付から右を向きますと、「芝居茶屋」の暖簾がかかった部屋の入口が見えます。

芝居茶屋内部。
お客さんが飲食してくつろげるスペースになっています。

受付近くの掲示
お手ごろ価格のお弁当

いよいよ劇場内部へ
客席後方からの眺め

このように客席は段差になっています。
一番前のフラットなスペースには座布団が敷かれている。

その後ろに椅子席

後方の高くなっているフロアの席。
この一番前の長テーブルが置かれている席が、きっと一番見やすいいい席でしょう。

花道

舞踊ショーの様子

天井のミラーボール
観劇後は街の中心地、本町(ほんまち)商店街を散歩しました。

飯塚セントラル劇場オープンののぼりと動画ディスプレイがありました。
さて、この旅行で私は九州の旅芝居に思いをめぐらすことが多くありました。
大衆演劇の劇団はよく出自の系統から「九州」「関西」「関東」と3つに分類されます。
「九州」は橋本正樹先生の著書から引用させていただくと「ドサ周りのメッカ」
かつては旅役者を受け入れる土地や小屋がたくさんありました。

嘉穂劇場内に掲示されている「明治末期~昭和中期の劇場群 筑豊の芝居小屋(遠賀川流域)」というポスター。
地図には50の劇場が示されています。実際にはここには記されていない公演地もたくさんあったことでしょう。
黄金期の九州の旅芝居は力強い魂のこもった芸が評判だったそう。
そのような芸が人気を得た土壌がなぜ九州にあったのか。
筑豊という土地と炭坑の歴史に私の意識は向いました。

新飯塚駅から遠賀川を渡る際に見えた「筑豊富士」
この正体は<住友石炭鉱業忠隈炭坑のボタ山>です。ボタというのは選炭した後に残る石や岩石です。この山は半世紀近くボタを積み上げてできました。炭坑全盛期の頃のこの山は不夜城のように照明が灯っていたそうです。
筑豊には石炭遺産がたくさん残っており観光スポットとなっています。
今回私が飯塚セントラル劇場で観劇したのは九州大衆演劇協会所属の劇団正道。私は別の劇場で司大樹座長が「織江の唄」を女形で踊っているのを観たことがあります。
五木寛之「青春の門」は筑豊(田川・飯塚)を舞台とした大河小説で「織江の唄」はそのイメージソング。作詞は五木寛之、作曲・唄は山崎ハコ。

「織江の唄」を踊る司大樹座長
遠賀川 土手の向こうにボタ山の 三つ並んで見えとらす
信ちゃん 信介しゃん うちはあんたに逢いとうて カラス峠ば 超えて来た
この歌を九州の役者が踊ることに感懐を覚えました。
筑豊が「炭坑の町」であった記憶を大衆演劇役者がつなぎとめているかのような・・・
ここから先は、筑豊の炭坑について私が本で読み知ったことを綴りたいと思います。

昭和33年の筑豊の炭坑分布
昭和30年の筑豊には274の炭坑、10万人以上の石炭労務者があって日本最大の産炭地域でした。昭和30年代から炭坑閉山が進み、昭和50年の筑豊はわずか5の炭坑、35人の石炭労務者となりました。翌51年に筑豊から石炭産業は姿を消しました。
昭和30 炭坑274 労務者10万人以上
昭和50 炭坑5 労務者35
このように書くと約20年の間に筑豊の町から人がほとんどいなくなってしまったような印象を受けるかもしれませんが、実際にはそんなことはありません。
飯塚市の人口推移は以下のとおり。
昭30 10万7千人
昭31 10万4千人
昭60 8万2千人
平 2 8万3千人
それほど人口は落ち込んでいません。鉱業従事者や農業従事者は減りましたが製造業や第3次産業が増えました。
筑豊においては、炭坑と旅芝居が同じ時期に急激に衰退しましたので、両者の間に小さくない因果関係があるのではないかと思っていたのですが、石炭から石油へのエネルギー転換のタイミングとテレビの台頭による娯楽文化の激変のタイミングが重なった、と考えるのが妥当なのかなと思っています。
では炭坑労働者の娯楽はどのようなものだったのでしょう。
とある手記より(おそらく大正か昭和初期)
この沈滞した炭坑の空気も賃金支払日になると少し活気がみなぎっていた。各所から勘定日目当てに物売りや香具師の連中が押し寄せて、店の近くの広場には、のぞき、硝子蓋のなかからゴム管を数十本出して耳に当てて聞く浪曲、アメ細工、もち米細工、操り人形、薬売り、バイオリンを弾いた流行歌売り、雑貨類売り、玩具売りなどの市がたち、 (後略)
盆休みは酒瓶がよく動き、バクチも始まっていた。近くの飯塚の町に出てゆく者も多くなり、その頃には活動写真館が二、三軒できていて、芝居は榮座(後に吾妻座と改座)、中座(嘉穂劇場)があり(中略)働く者は気前よく金を使い、若者は赤線地区に走り、年配者は活動写真か芝居見物に行っていた。
七月十三日から始まる飯塚の祇園祭りは賑やかだった。 (中略)お宮の境内や、神社下、遠賀川の河川敷にも、テント張りの小屋掛けのいろいろな見世物小屋が立ち並んだ。ことに河川敷のサーカス小屋は、電気を明明とつけ、音楽を高々と響かせて、人の心を扇情的に誘っていた。
上山田(筑豊南部)での聞き取りより
賭博・花札をする抗夫が多かった。昭和20年代上山田大橋に玉突きが6件ほどあった。常盤座には、芝居、浪花節、万歳、舞踊など近辺の劇団がやってきた。後に映画館になった。永楽館という映画館があった。吉田座という劇場があってどさ回りがやってきて演芸をやっていた。
遊郭は炭坑街にはいずこでもあって、上山田大橋には20軒が並んでいた。赤線が廃止になって姿を消した。
筑豊の炭坑夫の暮らしを最も活き活きと現代に伝えてくれる資料は、山本作兵衛の炭坑記録画でしょう。作兵衛の作品群はユネスコの世界記憶遺産に日本で初めて登録されました。山本作兵衛は明治39年から昭和30年まで約50年間抗夫として働き膨大な絵と文章を残しました。
先ほど引用した「ゴム管を数十本出して耳に当てて聞く浪曲」も文字だけでは何のことかよくわかりませんが作兵衛の「発音機」という文と絵では克明に説明されています。
作兵衛の絵に芝居文化に関係する記述がないか探してみました。
明治時代のヤマにはいまのように映画、パチンコ、ビンゴ、競馬、競輪、オートレースなどなんの娯楽施設も福祉施設もありません。上三緒抗の場合、約五キロ離れた飯塚の町に養老館があるばかり。そこまで運炭線路を通って歩いて往復するとなるとよほどよほど芝居好きでも何ヶ月ぶりということになります。(中略)公休日も月に1日で、観劇するにも作業を休まなければならないし、切符金券制度が足かせになって金が自由になりません。こんなわけで、酒、バクチ、ケンカがうっぷんのはけどころとなっていました。
「ケンカ」より
「明治末期の青年は盆会休の二、三日間カケ小屋を造って芝居をしていた。」
下はその稽古中の場面

「コレハ新派劇の義理のシガラミ、正義快男児山岡金之助が悪党マムシの源太に忠告してフイに眉間を割られ、昂奮して復讐に出かける処を女房や児分が押とどめる場面」
大衆演劇でもありそうな場面ですね~
昔の炭坑生活を知る上で欠かせないのが炭鉱労働者の集合住宅である納屋(なや)の存在です。また差別の問題があったことも無視できません。
最後に、芝居とは離れますが、筑豊の炭坑について私の印象に残った事柄を記します。
江戸の藩政下で採炭が始まって以来長い間、炭坑労働者は人々から蔑まされ社会から隔絶された存在でした。土地を持たず各抗を転々と流浪する抗夫が基幹的な労働力でした。また明治・大正を通じて西日本各県の部落民が筑豊の炭坑に流入し、炭坑のあるところには必ず部落があったそうです。また明治20年頃に大財閥が囚人を炭坑労働に始めたことでも炭坑労働者への賎視が増幅されたことでしょう。
長崎では納屋(なや)という抗夫管理制度が発達しました。炭坑経営者は抗夫を直接管理せずに、納屋と呼ばれる抗夫小屋を取り仕切る納屋頭に管理をまかせました。納屋頭は納屋に住む抗夫を拘禁といってよいくらい厳しく管理し、逃げようとした者には惨い懲罰が加えられました。特に高島炭坑(軍艦島とともに世界遺産に登録されています)の惨状は全国に伝わり社会問題となりました。
明治に蒸気機械が導入されて通年採炭が可能になると出炭高は10~30倍になり抗夫の需要が高まりました。抗夫は季節雇用から常時雇用となり単身者ではない家族持ちの出稼ぎ抗夫も増えました。
筑豊では高島炭坑の納屋問題が落ち着いてきた時期になって納屋制度が普及してゆきました。納屋制度が確立してくると、納屋頭には絶対服従し分身として悪役を引き受ける補佐役が必要となりました。納屋の頭領は親分子分のように補佐役や用心棒を抱えるようになり、仁義をきって渡世する遊び人を留め置くこともありました。また納戸頭は対抗勢力に抵抗するため武闘力も備えてゆきます。男を売ることは精神的に重んじられました。明治後半の抗夫は多少なりとも刺青を入れていない者はいなかったようで、ケンカになると裸になって刺青を見せ、啖呵をきって、ドスを抜いたそうです。どこかで大喧嘩があれば、義理がある抗主や頭領のもとへ子分を連れて加勢に行きました。まるで幕末の侠客の世界のようですね。
現在筑豊には炭坑はありませんし「ドサ回りのメッカ」の面影もありません。
遠賀川を渡る橋から、筑豊富士と呼ばれる3つのボタ山と飯塚セントラル劇場が入ったビルが見えます。いつかもう一度あの橋に立って、往時の筑豊の炭坑と旅芝居の賑わいを想起してみたいと思います。
(2018年9月探訪)
参考文献
「筑豊炭坑絵物語」山本作兵衛
「戦争と筑豊の炭坑」
「筑豊万華 炭坑の社会史」永末十四雄
「旧産炭地の都市問題」
「見知らぬわが町」中川雅子