WIKIレンタル 大衆演劇探訪記
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岩手県にある全国屈指のゴーヂャス大衆演劇場 「森の風鶯宿」

岩手県にある全国屈指のゴーヂャス大衆演劇場 「森の風鶯宿」

今回は大衆演劇場密度がたいへん薄い東北地方の探訪レポートです。

東北地方の大衆演劇場砂漠化が着実に進んでおります。
郡山にあった常打ちセンターの東洋健康センターが2017年に閉館。同じく福島県の常打ちセンターカッパ王國も2020年8月末で閉館。福島の大衆演劇場は都市近郊にはなくなり、到達するのにになかなか骨が折れる温泉地での不定期公演のみとなります。福島の北、大都市仙台がある宮城県が常打ちも単発も劇場ゼロ。演劇グラフ2005年1月号の特集「おっかけガイド」では釜房温泉さくら劇場が宮城県唯一の大衆演劇場として紹介されていましたが2007年には廃業した模様。山形県も大衆演劇場はほぼないに等しい。あの仙台ですらペンペン草一本も生えない宮城・山形の大衆演劇場大砂漠が福島にまで南下しているのです。

その北の岩手県が最近注目のエリア。一関には東北で貴重な常打ち大衆演劇場「山桜桃の湯」があります。桃の湯を縁として、一関の近く(所在は宮城県)にとんかつ屋さんが店内に「金太郎劇場」を設けたのはすでにブログでお伝えしたとおり。2020年1月には北上市に待望の常打ちセンター「ま~す北上」が生まれました。
今回レポートしますのは、雫石町にある高級リゾートホテル「森の風 鶯宿(おうしゅく)」です。ここでは2018年から大衆演劇の単発公演が行われています。

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東京から新幹線で盛岡へ。
この写真は東口から見た盛岡駅。
森の風鶯宿の送迎バスはこちらとは逆の西口から出ます。

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盛岡駅西口バスターミナル
森の風鶯宿の青い送迎バスが見えます

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送迎バスに乗って移動。
鶯宿温泉街は雫石中心地の南にあります。
「ようこそ 鶯宿温泉」の看板が見えてきました。

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盛岡駅から約40分で到着しました。
森の風鶯宿は「森の館」「風の館」「うぐいすの館」から構成されます。この写真はメインゲートのある森の館です。でかい!

まだチェックインには早い時間。
大衆演劇が始まる時間までも2時間以上あります。
界隈を散歩しました。

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森の風鶯宿は小高い丘の上にあります。
それがわかる場所まで降りて写真をとりました。
大自然の中に森の風の大きな建物が建っているのがわかると思います。
メイン建物の森の館はこの上の写真の反対の側面が見えています。

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ホテル敷地内にて。
広大な土地を活用したスケールの大きいホテルであることがわかるでしょう。

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敷地にはフラワー&ガーデン森の風という瀟洒な庭が広がっています。

ホテルのパンフレットには「世界的なランドスケープアーティストである石原和幸氏による日本最大級の本格的ガーデニング公園です」と書かれています。

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花畑

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これはメイン建物の森の館の窓から見下ろしたガーデンの景色

ではホテルの中も探検してみましょう

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フロントがあるメインエントランス。
ゴーヂャス

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ロビー
ここもゴーヂャス

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和モダンな空間もゴーヂャス

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大衆演劇昼の部は13時から。
そろそろ開場時間ですので、気になる大衆演劇場に行ってみましょう
森の館3階にある大宴会場「岩鷲」の入口。

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岩鷲のロビー
広い。このロビーの空間だけで芝居小屋できるんじゃないか。

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開場時間までこのゴーヂャスソファで待つことができますね

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ここで靴を脱いで岩鷲に向かいます。
奥の襖の松が殿中な雰囲気を出しています。

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場内
カーペット&椅子で洋館仕様になっていました。
ここも広いです!

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客席の椅子

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前方は指定席。
約50ある指定席は完売しておりました。

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前方
花道が設けられております。

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場内右手に投光3器設置

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場内にジュース・お菓子売り場が設置されていました。
おお、ここは庶民的!
高級ホテルであっても、大衆演劇場内のこういうコーナーは大事。おさえるところおさえてますねー。

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今月の森の風の単発公演を請け負っているのは劇団錦。
錦一座薄皮栗まんじゅうが売っていました。

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鶯宿温泉街は盛岡駅から離れていますし、交通の便がよいところにあるわけではありません。むしろリゾートの観光客がくつろぎを求めてやってくるような大自然の中にあります。
大衆演劇の公演をやっても地元の方がそんなに集まらないのでは?・・・という私の直感は見事に外れ、開演時間が近づきますとどんどんお客さんがやってきて、あの広い会場の客席がほぼ埋まりました。

岩手いや東北の旅芝居ポテンシャルの高さが見えた気がしました。

13時開演
第一部:お芝居
第二部:舞踊ショー

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錦はやと座長
私は後ろの方の席で舞台から遠く、持っていたカメラもコンパクトデジカメでしたが、比較的キレイに役者さんを写すことができました。
この会場の照明がしっかりしていることの証左です。

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カムイ☆龍虎若座長
今は単にカムイという名になったのでしょうか。☆がとれただけ?
この時にはまだカムイ☆龍虎名義でした。

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公演中の様子

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昼の部の公演が終わってチェックイン

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大浴場入口
大自然を眺めることができる露天風呂があります

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ここはお祭り広場
毎日イベントが開催されているよう

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今回私は
【劇団錦一座 観劇付き】森の風特別公演2019!温泉&観劇満喫♪ご夕食は季節の創作和食
というプランにて宿泊いたしました。

温泉も観劇も楽しんで、残る楽しみは季節の創作和食!
夕食開場へ向かいました。

前菜-椀物-造り-中皿-揚物-焼物-食事-留椀-水菓子-甘味・コーヒー
以上のコースを
エレガントな女性スタッフが気品ある佇まいで一皿ずつ提供してくれました。

その一部を写真でご紹介しましょう。

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前菜:胡麻豆腐/丸十の檸檬煮/網茸みぞれ和え/合鴨のスモーク/秋刀魚柚子庵焼き

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中皿:太刀魚グリル 葱ベシャメルソース 香草バター風味 パン添え

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焼物:岩手県産黒毛和牛の焼きしゃぶ 野菜添え 特性タレ

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水菓子:モンブラン特製ブラマンジェ

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夜はあの広大なガーデンにイルミネーションが灯ります。
私はイルミネーションが好きなのでここで過ごす時間がとてもよかった。

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劇団錦夜の部はお祭り広場での舞踊ショー(約30分)
カムイ☆龍虎若座長を中心に若手が踊りました

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あるお客さんが、踊っている役者の足元に割りばしおひねりを置きました。
このような旅役者を愛でる文化、気に入った旅芸人にご祝儀する文化を日本全国津々浦々絶やさないためにも、地方での単発公演には意義があると思います。

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劇団錦の舞踊ショーの後に太鼓ショーと民謡歌手による唄のショーがあります。
太鼓を叩いているのは、、おお、あの食事会場のエレガントお姉さん!
太鼓衣裳を着て踊るように元気よく太鼓を叩いています。この時の私のグッとくる感は大衆演劇をよく見る方ならご推察いただけるでしょう。芝居で三枚目だった役者が舞踊ショーでクール美形になるあのギャップが与える感興のような。

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太鼓ショーの後は餅つき大会。
子供たちや外国人観光客は喜んで参加しています。
ついたお餅はきな粉をまぶしてお客さんに振舞われました。

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お祭り広場、最後は踊り大会。民謡歌手の炭坑節に合わせてスタッフとお客さんが一緒になって輪になって踊ります。エレガントお姉さんも踊っていました。

イベントが終わったら再度温泉へ。
湯上り処に無料のアイスキャンデーが用意されています。

満喫度の高い一日でした。

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森の風鶯宿はじゃらんで泊まってよかった宿大賞(岩手県1位)に輝いたのですね。
大いに納得します。

岩手県の単発大衆演劇会場は、全国屈指のゴーヂャス公演地でした。
そして多くのお客さんで賑わっていました。
是非絶えることなく続いていってほしいです。

(2019年9月探訪)

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~

「河内十人斬り」 史実から現代まで ~河内音頭・大衆演劇・小説~
2020.8.6最終更新(スーパー兄弟×章劇公演追記)


河内音頭、浪曲、大衆演劇そして小説とさまざまなジャンルで扱われている「河内十人斬り」は実際にあった事件がきっかけとなって芸能化されました。
史実と芸能、両方の側面から河内十人斬りについて、私が調べ見聞したことをまとめました。


【もくじ】  ※項目をクリックするとその項へ移動します

≪史実編≫
■場所、時代
■人物
■何が起こったか
 ◆十人斬りの夜
 ◆金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索
 ◆犯行の動機・二人の遺恨
 ◆事件前の二人
≪「河内十人斬り」編≫
■事件から芸能へ
■河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」
 ◆河内十人斬り十段
 ◆京山幸枝若の「河内十人斬り」
 ◆錦糸町河内音頭
■大衆演劇
 ◆劇団炎舞の「河内十人斬り」
 ◆たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」
 ◆劇団新の「新 河内十人斬り」
 ◆劇団花吹雪の「河内十人斬り」
 ◆スーパー兄弟×章劇の「河内十人斬り」
■小説 町田康「告白」
 ◆物語の舞台を訪ねて

 
≪史実編≫


場所、時代

大阪府東部の河内地方(旧河内国)の南、つまり南河内地方に、その名も南河内郡という郡があり、南河内郡の南に大阪府で唯一の村、千早赤阪村があります。その中の水分(すいぶん)という土地、当時の表記に直すと河内國石川郡赤阪村字水分で事件は起きました。
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 ↓千早赤阪村
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水分という土地で起きたので、この事件を「水分騒動」と呼ぶこともありす。
事件が起きたのは明治26年5月25日です。


人物

※★印の付いている者はこの事件で亡くなった十人
※年齢は事件当時

城戸熊太郎(きどくまたろう)(36)酒と博打と女に身を持ち崩す村の無頼者
谷弥五郎(たにやごろう)(26)熊太郎の弟分。賭博が好きで喧嘩は飯より好き。窃盗二犯の前科あり。

平次(68)熊太郎の父
たか 平次の前妻 熊太郎を生むが熊太郎3才のときに他界
とよ(57)平次の後妻 幼い熊太郎を育てる
光蔵(17)熊太郎の異母弟

やな(19)弥五郎の妹 奉公に出ている

森本ぬい(19)熊太郎の内縁の妻★
森本とら(44)ぬいの母★
森本うの(15)ぬいの妹

松永傳次郎(50)
松永たけ(54)傳次郎の妻★ 
松永左五郎(20)傳次郎の三男★
松永すゑ(13)傳次郎の三女★

松永熊次郎(28)傳次郎の長男★ 熊太郎からの借金を踏み倒す
松永りゑ(26)熊次郎の妻★
松永久太郎(5)熊次郎の子★
松永幸太郎(3)熊次郎の子★
松永はるえ(乳児)熊次郎の子★

松永虎吉(23)傳次郎の次男 ぬいと姦通する

浅井てる(27) 弥五郎と親しい仲
浅井傳三郎 てるの父 弥五郎からてるを嫁にくれと言われるが断る
浅井ふで てるの母


何が起こったか

当時の朝日新聞・毎日新聞の記事および「残害事件河内十人斬り」(事件直後に刊行された事件をまとめた本)を主に参考として事件のあらましをまとめました。ただし、当時は噂話レベルの不確定な情報でも新聞に掲載していたようで、各記事の間に齟齬が生じている部分もあります。それを取捨選択してまとめたものであることをご了承ください。なお、新聞には被害者死体の様子が具体的に描写されており そのむごたらしい殺され方から、加害者の異様なまでの憎悪の念を推し量ることができますが、このブログにおいてはグロテスクな惨殺状況の描写は割愛いたします。


河内の国、石川郡赤阪村字水分は忠臣の誉れ高い楠正成公が誕生した霊地であり、金剛山の千早の渓谷から水が清く流れ落ちる由緒ある土地である。
この村で恐ろしい残害事件が起こった。


十人斬りの夜

明治26年5月25日。
嵐のような暴風雨が昼から続く物凄まじい夜。
熊太郎と弥五郎は松永傳次郎宅前でズドンと砲声を鳴らすと戸口を激しく叩いた。出てきた傳次郎は斬りつけられ、深手を負ったまま家の後ろの竹藪を潜って辻繁蔵宅に逃げ込んだ。熊太郎らは、家の中に居た傳次郎の妻たけ、三男左五郎、三女すえを惨殺し、家に火を放った。

二人は傳次郎の長男、松永熊次郎の家を襲った。熊次郎は兇漢を見て「賊よ賊よ」と叫んだが誰も出てこない。熊次郎は家の近くの道路を越えて逃げたが、ついに麦畑でズタズタに斬られて死んだ。家の中にいた熊次郎の妻りゑ、子供の久太郎、幸太郎、赤ん坊のはるえの4名もむごたらしく斬殺された。

森本とらも自宅前で背中を銃で撃ち抜かれて死んだ。

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 事件があった場所の略図(明治26年5月29日毎日大阪新聞に掲載された図をもとに作成)
 ①松永傳次郎宅、②谷弥五郎の借家、③浅井傳三郎宅、④森本とら宅、⑤城戸熊太郎宅、⑥松永熊次郎宅

熊太郎の父平次は傳次郎の家が火事だと聞き現場へ駆けつけていた。家の外で火事を見ていた平次の妻の肩をつかんだ者(おそらく熊太郎)があったが、何だばあさんかと言い捨てると家に向かった。その者は、火事を見ようと庭先に出ていたぬいを見つけて斬りつけた。ぬいは逃げたが家近くの納屋で頭を打ち砕かれて死んだ。ぬいの妹うのは家に居合わせていたが、逃げなかったらお前も殺すぞと言われて逃げ、警察署に通報した。

浅井傳三郎の家の寝床の下からズドンと音がした。傳三郎は驚いて近所の者を集めて畳をひきあげてみると、大きな竹に火薬を詰め込んで発火させた跡があった。誰の仕業だろうと話しているところに、三発の砲声とキャっという叫び声が聞こえた。皆顔が青ざめて、現場を見にゆく者はいなかった。

熊太郎、弥五郎は金剛山へ逃げ隠れた。
弥五郎は村で最もこの辺の山の地理に詳しく、山猫というあだ名まである。

意図したものか偶然か、5月25日は楠正成公の命日である。


金剛山に潜んだ熊太郎と弥五郎の捜索


5月26日
富田林警察署から警部・巡査が、大阪地方裁判所から判事・検事が、また大阪府警部長が水分村に出張してきた。

はじめは、犯行者は複数人であること、そのうち一人は城戸熊太郎であること程度しか見当がついていなかったが、事件後行方をくらました城戸熊太郎と谷弥五郎を捜索対象と見定めた。

事件は村の内外に瞬く間に知れ渡った。誰が言いふらしたか、熊太郎は村中を焼き払って黒土にして一人残らず殺す、と噂がたって皆恐れた。老人や子供を他村の親戚に預ける者もいた。村中の者は家業を休んで昼の間は寝て、夜は竹槍、鋤、鍬などを持って村内を巡回した。
皆寝食を忘れ腰弁当を付けて捜索に従事した。

夜11時頃、熊太郎は二河原辺にいる親戚の竹次郎の家に入った。竹次郎は留守で妻のかめがいた。飯を炊くよう頼むがかめは断った。二人は炊いてあった粥を食べて立ち去った。

5月27日
大阪の新聞にこの事件が報じられた。以降約半月にわたってこの事件の速報が紙面を賑わす。犯人追跡の状況や事件の背後関係などが新聞で詳細に伝えられた。
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夜、森本うのは何者かが門の戸を叩いているのを聞いた。庭先で別の人の声がして、それを聞いたのかその者は逃げ去った。

5月28日
午前8時、大阪府の鈴木警部長は富田林から電話で大阪南、東、堺の三警察署に警部巡査の非常招集を発した。これにより警部・巡査らが総勢147名現地に集まった。探索エリアを16区に分け、それぞれに指揮官をおき、午後1時に捜索を開始した。

午後3時頃、金剛山の千早の炭焼窯に血の付いた草鞋があった。また二河原辺ゴセ谷の炭焼窯にも焚火の跡があった。

午後5時頃金剛山の中、大字二河原辺字餅子坂に、熊太郎と弥五郎が来た。二人はそこに居たきこりの庄太郎に銃口を向けて逃げねば殺すと言った。庄太郎は逃げて出張所に届けた。中津原・東坂・千早などから各村10人が竹槍を持って二人を捜索していたが見つからなかった。

午後7時頃、飴寅こと寅蔵および藤太郎の二人が寝泊まりしている山の中の木挽小屋に熊太郎らが現れた。熊太郎は普通の着物に羽織を着て短刀と村田銃を携えていた。右の指三本に傷を負っていた。弥五郎は普段着の上に法被を着て仕込銃と短銃を携えていた。二人とも腰に弾薬を多数着けていた。
熊太郎はここに警部巡査が来たかと尋ねた。前日午後4時頃まで警部巡査が来ていたが木挽小屋の二人はこのことを隠した。熊太郎らはここで一泊すると言い、藤太郎らには我々が去るまで便所にも行くなと言った。
警察は我等を発狂人のように云っているようだが可笑しいことだ。松永伝次郎一家をはじめ恨みのない者は殺さない。まだ恨みのある者が4,5人いる。旧暦9月ごろまで逃げてその間に宿志を晴らして自首するか自殺する覚悟、人の手にかからぬ積りだ。
熊太郎は木挽小屋の二人にそのように語った。
藤太郎と寅蔵は抜け出して密告しようと鼾をかいて寝たふりをしたが、熊太郎らはそれを察したのか一睡もしなかった。朝が近づくと、飯を炊かせ、米一升を奪った。熊太郎は二十銭を出したが、木挽小屋二人が受け取らないのでそれを投げた。熊太郎らは朝4時頃去った。

5月29日
雨が降った。捜索者はビショ濡れになり、その心労は甚だしかった。

5月30日
夕方、木挽小屋近くの山中で煙が立っているのを5名の巡査が認めた。

金剛山腹の村に熊太郎の親戚の新田達次郎の家があった。巡査がこの家に忍んでいたところ、戸外から兄貴兄貴と呼ぶ声がした。巡査が躍り出たが、呼んだ者は逃げてしまった。家の者はあの声は熊太郎に違いないと言った。

5月31日
事件7日目である。遺族は僧に仏供養を依頼した。

夜11時頃、熊太郎、弥五郎は水分村の赤松瀧造の家に現れた。瀧造はいなかったが妻の小りうに何か炊いて食わせてくれと頼んだ。幼児を抱いて横になりながら具合が悪くて弱っていると小りうが答えると、熊太郎らは仕方ないと戸外に出た。小りうは幼児を抱いたまま出張所に届け出た。水分の老若男女は賊が村内に入ったと聞いて逃げまどった。

弥五郎は養父谷善之助を訪ねた。隣家には巡査が張っていて、弥五郎が家の中に入ったら取り押さえる算段になっていたが、善之助は臆して戸を開けなかった。弥五郎が立ち去ろうとするところを巡査が追いかけたが、弥五郎は東條川の向う岸の竹藪に逃げて銃を二発放った。

その後、青木谷の地蔵堂近くに張っていた巡査が、熊太郎・弥五郎が通りかかったのを見つけ取り押さえようとした。熊太郎らは二発発砲して逃げ、巡査に間近まで追い詰められたが、黒鞘一尺三寸ほどの刀を投げて、水分の徳赤という難所に逃げ込んだ。

熊太郎らが三カ所に現れたことを受けて、警部巡査はますます警戒を厳しくした。応援の部隊も続々と到着した。

松永傳次郎の縁故者や熊太郎らに金銭の貸し借りがある者20名を警察が保護することとなりそれぞれの家に巡査が詰めた。

* * *
森本うのは谷口警部が引き取り、妻に世話を見させ読み書き裁縫を教えることになった。

熊太郎の親は村人に合わす顔がないと自害しようとも思ったが、熊太郎の異母弟の光蔵はまだ17才でその難儀を思うと死ぬこともできない。熊太郎が売り残した田地一反あまりを松永傳次郎に送って謝罪したいと言った。
森本とら親子の仏事料として、所有していた藪・畑地・山林を遺族に与えたいと村人に申し出た。そして十人の霊魂を慰め、熊太郎の懺悔を祈るために光蔵を連れて四国88カ所西国33カ所の霊場を巡礼する積りだと涙ながらに言った。

事件の日、松永虎吉は宇治へ製茶の仕事で出かけていて不在であったが、事件を聞き急いで帰村した。親兄弟の無残な死を見て遺恨やる方なく、熊太郎の所在がわからなかったら、残った父平次と継母と光蔵の三人に対して鬱憤をはらそうと力んだが、そこへ村人が仲裁にはいって虎吉を宥めすかして、以後恨みをもたないとの約束をさせた。

6月3日
8時頃、熊太郎の親族は、熊太郎を探し出して自首させようと親族5名で金剛山に入ったが夕方むなしく帰村した。

6月4日
8時頃、この日も熊太郎の親族は出かけたが夕方帰ってきた。

6月5日
雨が降っており、熊太郎の親族は捜索を見合わせた。

巡査が金剛山の三ツ谷で、杉の皮を屋根にして人が寝た跡を見つけた。また戻ってくるかもしれないのでここで待ち伏せすることにした。すごい雨が降ってきたが結局熊太郎は現れなかった。

金剛山中の別の場所では百合を焼いて食った跡が見つかった。

6月6日
165名の警官が大阪からやってきた。

6月7日
正午、図面と照らし合わせて蜘蛛の巣を張るように探索場所を定め、一隊3名、全部で50余隊が繰り出した。

大阪安治川水上警察署の巡査4名はその日は野宿して、翌日は水分から4kmほど離れた難波山の杉の深林に入った。午後3時頃、とても険しい所にある杉の木に足をかけて仰臥して死んでいる熊太郎を見つけた。その左側より一間離れた杉の根元に谷弥五郎が死んでいた。その様から推測すると、熊太郎が弥五郎を背後から不意に銃殺し、その後熊太郎は銃で胸を撃って死んだのではないかと思われた。
10人が斬殺された事件の犯人捜索は終結した。


犯行の動機・二人の遺恨

(熊太郎と虎吉)
前年11月のこと、松永傳次郎の息子虎吉は、熊太郎の家へ行って夜更けまで遊んだ。虎吉は遅いから泊めてくれと言って、熊太郎・ぬい・虎吉の3人で寝た。その際に、虎吉とぬいが姦通した。熊太郎は怒ったが、仲裁人が熊太郎をなだめて済んだ。
(熊太郎ととら)
ぬいを籍に入れていればよかったと思った熊太郎は、ぬいの母のとらに、ぬいを籍に入れることについて掛け合った。その際16円をとらに貸した。しかしその16円は返済がなく、ぬいの籍が移ることもなかった。
(熊太郎と熊次郎)
城戸熊太郎と松永熊次郎は賭博仲間で懇意な間柄であった。熊次郎は熊太郎に23円50銭を借りた。熊次郎は、熊太郎が催促しても返済しなかったばかりでなく、強いて返せというなら腕ずくで来いと言った。というのが村の人々の話である。
(弥五郎と傳三郎)
弥五郎は浅井傳三郎の娘てると仲がよかった。3月に奈良へ駆け落ちしたが追手に見つかってしまい、てるは親許に引き戻された。弥五郎はてるを嫁にくれと傳三郎に言ったが、傳三郎は弥五郎の身持ちの悪さ故承知しなかった。弥五郎は百円の手切れ金を要求したが、傳三郎は百円は出せぬ、娘はやりたくないと近村の侠客を頼んで対抗した。弥五郎はそれに怒り、眼にものを見せてやると思っていた。


事件前の二人

(熊太郎の墓)
熊太郎は犯行の前に田畑をおおかた売り払った。事件の7日前には赤坂村の眺めのよい場所に自分の墓を建てた。
(弥五郎とやな)
弥五郎は貧しく、竹田市五郎から8畳の家を月10銭で借りていたが家賃を3か月滞納していた。1週間前に弥五郎は30銭を持ってきて家賃を支払った。家の中は鍋釜をはじめ諸道具はなくなり掃除されていた。
弥五郎には19才の妹やながいた。やなは二河原辺の新田兵五郎方に奉公していた。弥五郎は今生の別れを告げにやなを訪ねた。農作業に出ていたやなをみつけると弥五郎は懐から1円を取り出しやなに渡して告げた。私は訳あって死ななければならない、達者で暮らしてくれ、おれのことは心配するな。それを聞いてやなは、たとえ悪人よ無頼者よと後ろ指さされる兄であっても自分にとってはたった一人の身内と泣き伏した。そのように泣かないでくれと諭して弥五郎は立ち去った。
(当日の朝)
25日の午前8時半に字南畑の飲食店池田駒太郎の所で熊太郎と弥五郎は腰かけて酒を飲んでいた。そこを通りかかった井上貞次郎に一杯飲めよと勧めた。貞次郎は断ったが無理に勧められたので10時頃まで一緒に飲んだ。
(当日)
午後四時ごろ熊太郎とぬいは相合傘で仲むつまじく家路に帰った。
夜は一同揃って夕飯を食べた。


≪「河内十人斬り」編≫


事件から芸能へ

6月7日に熊太郎と弥五郎の遺体が見つかり事件が終息を迎えました。それから間もない頃から水分村の責任者に対して、演劇関係者等からの上演の依頼書が次々届いたそうです。大阪の大劇場や、富田林の興行者をはじめ朝日新聞社員からも「十人斬恨の刃」という小説にしたいという依頼があったようです。

6月に、富田林警察の署長付きの人力車夫で江州音頭を得意としていた岩田梅吉が事件を物語化して音頭にアレンジして道頓堀の演芸場で発表しました。これが当たって45日のロングランを達成しました。

6月14日の大阪朝日新聞には「四十人斬」という見出しを付けて、道頓堀の浪花、中、朝日、辨天の四座が来月の興業には十人斬りを出してどこの十人斬りがよいか見てくれと互いに競争する、という記事が書かれています。
6月18日の同新聞には、浪花座が河内の十人斬りを狂言に仕組むにあたって村長を経て関係者へ金を送り興行の承諾書をとった、とあります。このときの演題は「河内十人斬」で、金剛山から里に出てきて何杯も何杯も飯を食べる場面が好評だったそうです。

また、私が今回参考文献とした「残害事件 河内十人斬り」という本は、奥付に「明治26年6月12日印刷」とあるとおり、事件直後に発刊されています。

当時の大衆芸能が耳目を集める事件をいかに敏速に取り入れていたか、また河内十人斬りの事件が市井でいかに話題性が高かったかを上記のことからうかがい知ることができます。



河内音頭のスタンダードナンバー「河内十人斬り」


江州音頭をベースした「改良河内音頭」という節回しによる岩田梅吉の「河内十人斬り」がヒットしたことは、それまで河内のそれぞれの村で独自に歌われていた音頭に大きな影響を与えたに違いありません。梅吉はその後レコードも出し、戦後も梅吉の名を継ぐ後継者が十人斬りのレコードを発表していたようです。
河内音頭が現在のスタイルに確立されるまでは明治・大正・昭和にかけてさまざまな変遷がありました。梅吉考案の音頭は、河内音頭が現在の形に至るまでの系譜には直接つながらないようです。にもかかわらず現在の河内音頭の代表的なナンバーが「河内十人斬り」であるのは興味深いことです。兇漢二名による惨殺事件というまことにネガティブな内容の外題が、現在に至るまで語り継がれてきたのは何故なのでしょうか。
私にそれを考察する見識はありません。ただ、人々が「河内十人斬り」という事件を語り継いで来た、というより、事件としての「河内十人斬り」は後世の人々が関心を抱くような物語として変容し続けてきた、というべきでしょう。
例えば、6代目梅吉の「河内十人斬り」には、日暮れ後に虎吉がおぬいのもとに這っていって乳繰り合っているところを同じ目的でそこに訪れたと思しき弥五郎がその様子を盗み見る、という場面があります。それを朝倉喬司氏は当時のムラ社会に当たり前に流布していた夜這いのゴシップが盆踊りという場で歌われる音頭に昇化した例だと指摘しています。(参考文献:朝倉喬司著「流行り唄の誕生」)
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「梅吉節 河内十人斬り 序・姦通発覚の段」が収録されているレコード「河内音頭総集大会 伝承河内音頭」のジャケット

河内音頭の「河内十人斬り」は演者めいめいが独自に物語をアレンジして演じてきました。そのバリエーションは多岐にわたりますが次の点においてはほぼ共通しているようです。
・二人が本職の博徒として描かれている。
・松永一族も格をもった博徒の松永一家とされている。
・熊太郎は頼りなさそうな男である。
・弥五郎は私的な恨みから犯行に及んだのではなく兄弟の義に殉じて死んだ男とされている。



河内十人斬り十段

平岡正明著「浪曲的」に「河内十人斬り全段」という項があります。十の音頭(段)それぞれについて、平岡先生がさまざまなバリエーションの中からピックアップしたバージョンを独自の視点の解説を加えながら紹介しています。以下その要約です。

序段「河内あばれ獅子」(京山幸枝若)
十人斬りの一年前、旱魃に苦しめられている農民が田に引く水を求めて争っている。その喧嘩を仲裁した谷弥五郎は禁断の池の水門を開く。弥五郎は責任をひとりで引き受け官憲にひいてゆかれる。

二段目「火花散るだんじり囃子」(京山幸枝若)
建水分神社の祭礼では近隣十八カ村のだんじり(山車)が繰り出して大賑わいとなる。今年の山車の先陣は松永伝次郎の息のかかった中村と寄合が決めていたが、弥五郎はそれを無視して水分村の山車を先頭につっかけようとしたものだから、揉め事が起こって弥五郎は富田林の刑務所に入れられる羽目に。その後、弥五郎と松永一家とのイザコザがあって、次の年の祭礼がやってきた。

三段目(花沢義若)
ぬいは盆踊りに出かける。輪の中で踊っているぬいに若い衆がちょっかいを出すがおぬいは肘鉄をくらわす。これに逆上した男どもはおぬいをかついでさらう。おぬいの悲鳴をきいた松永虎次郎はかけつけておぬいを救う。そのまま二人は草むらでいい関係になってしまう。このことが噂となり、それを聞きつけた谷弥五郎が、兄貴分の熊太郎に、お前の女房のおぬいにへんな噂がたっていると告げる。

四段目「姦通発覚の段」(六代目岩井梅吉)
熊太郎が大阪に出かけて留守にしている。ぬいの母お梅婆あ(史実ではとら)は虎次郎を気に入っておぬいとの縁をとりもとうとする。虎次郎もその気になっておぬいの家に忍んびゆく。そこに弥五郎がやってきて板戸の破れ目から中をのぞくとおぬいと虎次郎の濡れ場。不義者を見つけたと弥五郎は座敷に上がりこもうとする。

五段目「谷弥五郎の韋駄天走り」(初音家太三郎)
おぬいと虎次郎の密会現場をおさえた弥五郎は、道頓堀にいる熊太郎に告げるべく河内の夜を走る。

六段目 城戸熊太郎が半殺しにされる話 (京山幸枝若)
盆踊りの夜、熊太郎は内縁の妻おぬいが虎次郎を密会しているのを見つけ、おぬいをどつく。そこへおぬいの母親のお角婆あ(史実ではとら)が割って入り、熊太郎がお角への養い料を滞納していることを罵る。悔しがる熊太郎は、その金を工面しようと、以前賭場で金を貸した松永熊次郎のもとへ行く。熊次郎は、その金なら返したと言って、松永方と内通していたおぬいが取り寄せた借金の証文を破る。さらに熊太郎を蹴飛ばし、敷居の根石に頭をぶつけた熊太郎は血まみれになる。悔し涙にくれてよろよろと帰る熊太郎は、堀川監獄から出てきたばかりの谷弥五郎と出くわす。弥五郎は、兄貴の傷が治ったら仇討ちを手伝うと約束する。

七段目「道頓堀弁天座での狼藉」(鉄砲光三郎)
熊太郎と弥五郎は道頓堀の弁天座で「吉原百人斬り」を観劇する。芝居の中で女に騙され金をとられ眉間まで割られた登場人物に同情するあまり、芝居と現実の見分けがつかなくなった弥五郎が二階の客席から花道めがけて飛び降りて、憎い役者を殴る蹴るする。

八段目「弥五郎、妹おやなとの別れ」(鉄砲光三郎)(京山幸枝若)
熊太郎の傷は癒え、武器の準備も整った。弥五郎は妹おやなを訪ね別れを告げる。

九段目 熊太郎、弥五郎、猿沢の落ち合い(三音会)
妹おやなとの別れをすませた弥五郎と、武器の調達を終えた熊太郎が、奈良の猿沢の池で落ち合う。二人は今生の名残に暴れ太鼓を打ち鳴らす。

終段 斬り込み金剛山の最後
十人斬りから金剛山での最後まで。二人の最後の場面は、京山幸枝若版では、覚悟を決めた熊太郎が差し出した首を弥五郎が斬り、弥五郎は村田銃の銃口を銜えて自決する。鉄砲光三郎版では、熊太郎が弥五郎を背後から撃ち、熊太郎は自分の喉元に銃口をあて足の親指を引き金を引いて自決する。


京山幸枝若の河内十人斬り


大衆演芸の歴史を生き抜いてきた「河内十人斬り」の現代における継承者の第一人者は浪曲師(そして河内音頭の唄い手でもある)二代目京山幸枝若師匠でしょう。
「河内十人斬り」は河内音頭だけでなく浪曲の演目にもなっています。
二代目の師匠であり父親の、亡くなった初代京山幸枝若の「河内十人斬り」のうち、大衆演劇のベースにもなっている、よく知られている部分のストーリーを浪曲や河内音頭の音源をもとにまとめました。

※幸枝若版の登場人物は史実と名前が変わっているところがあります。
とら→お角(かく)、虎吉→虎次郎

南河内富田林の松永親分の弟の虎次郎は、水分村の城戸熊太郎の女房おぬいと、ここ数ヶ月ちょいちょい逢引をしていて村の噂になっている。盆踊りの日も虎次郎はおぬいを連れ出して逢引していた。それを1ヶ月ぶりに村に帰ってきた熊太郎(熊太郎は仕事にでかけるといって家をでては博打場を遊びまわって何日も帰ってこないことが常である)が見つけ、熊太郎はおぬいをなぐってなじる。おぬいは、米を買う金がないので虎次郎に金を借りたが皆の前で返金の督促をされたので恥ずかしくてここにひっぱってきた、と咄嗟に嘘をつくが、熊太郎は許さず大喧嘩となる。そこにおぬいの悲鳴を聞きつけたおぬいの母のお角が現れる。この婆さんは銭が大好きな金の亡者である。お角は熊太郎に、嫁にやったといってもまだ籍はやってない、おぬいが間男したと腹立てるのなら日頃から亭主らしいことをしろ、となじる。熊太郎がおぬいを嫁にもらう際に、熊太郎からお角へ毎月二円五十銭の仕送りをするという約束があったが、熊太郎はそれを十ヶ月滞納している。お角は熊太郎に、亭主面をする前にたまっている二十五円を払えとまくしたて、おぬいには熊太郎と別れて虎次郎と一緒になれと言う。弱みをつかれ何も言えなくなった熊太郎を前に「ざまぁみくされこのド甲斐性なしめ。悔しかったら銭持ってきくされ、このガシンタレが」と毒づいて、お角はおぬいの手を引いて立ち去る。
二十五円の金があればお角婆あにたたきつけて、おぬいとも縁を切り、男の意地が立つのだけれど、と熊太郎は悔し涙を流す。熊太郎は下手な博打に明け暮れたあげく、家も屋敷も田んぼも畑も山も人手に渡してしまっていて金がない。金の算段を考えているうちに、思い出した。昨年の暮れに、博打場で虎次郎の兄の松永親分に五十円を貸していた。翌日熊太郎は貸した金を返してもらおうと松永親分のいる富田林へ向かった。

お角とおぬいは熊太郎が怖くて家に帰らず虎次郎の家に泊まっていた。虎次郎は熊太郎との間男の件をおさめてもらおうと、お角・おぬいを連れて兄の松永親分の屋敷へ相談に行く。お角からも松永親分へお願いしているところに、熊太郎がやってきて、松永親分は虎次郎・お角・おぬいを奥の部屋に隠す。熊太郎は松永親分に借金を返してほしいと証文を見せた。松永親分はその借金のことをすっかり忘れていたが、下手な言い訳は男が廃ると高飛車に出て、その金は八尾の博打場で返したはずだと出鱈目を言いながら凄み、証文を破り、利子をやるから持ってけと銀のキセルで殴って熊太郎の額を割った。さらに親分は熊太郎を蹴り倒し、熊太郎は後頭部を打って浴衣が血に染まった。熊太郎が反撃しようと手にかけたものは、見覚えのある下駄、熊太郎がおぬいに買ってやった下駄であった。おぬいがここにいるということは、おぬいの間男は松永親分までもが手を引いているのか、それを知らないのは自分だけだったのかと悔しがっているところに、虎次郎・お角・おぬいがでてきて、お角は殴られたおぬいの仇と熊太郎を蹴っ飛ばす。熊太郎は塩をまかれて屋敷の外につまみだされた。

村の半ばまで戻った熊太郎が柳の根元に倒れこみ痛さ悔しさに泣いているところに、監獄からでてきたばかりの谷弥五郎が河内音頭「石童丸」を歌いながらやってきた。弥五郎はひどい有様の熊太郎を見つけて訳をきいた。いきさつを聞いて弥五郎は、兄貴の仇は俺の仇と怒りをあらわにして、松永兄弟とお角とおぬいの息の根をとめてやると血気にはやるが、熊太郎はそれをなだめる。お前ひとりでやったら俺はどうなる、俺も男の意地を通したい、この傷を養生して元の体に戻ったら、命をかけてもあいつらと渡り合う。それを聞いて弥五郎は、生きるも死ぬも二人連れ、俺も命を捨ててやると、二人での仇討ちを約束する。弥五郎は熊太郎を医者に連れていった後も熊太郎を献身的に看護する。1週間後、熊太郎は監獄放免祝いとして弥五郎に金を遣る。弥五郎は奈良で女郎買いして博打して3日したら帰ってくると言って出て行った。入れ違いに巡査の木村が熊太郎の家に入ってくる。熊太郎が松永親分の家で傷をつけられ、弥五郎が「恨みの奴らを皆殺し」などと歌って村を歩いているという噂をきいて、熊太郎たちが短気な行動をおこさないかと心配してきたのだった。今の世の中では法律が仇をうってくれるからその気があれば診断書を持ってわしのところにこいという木村に対し、熊太郎はこの傷は盆踊りの日に転んでできたものだと嘘をつく。
何日たっても弥五郎が帰ってこない。もしや心変わりしたのかと疑っているところに弥五郎からの葉書が届いた。奈良の博打の帰りにつかまって、前科がたたって八ヶ月の懲役になった、俺が帰るまで決して一人で無理するな、借りは必ず二人で返そうという内容で、熊太郎はうれし泣きする。

たとえ一瞬でも弥五郎を疑ってしまったことが申し訳なく、逢って詫びがしたいと熊太郎は大阪の堀川監獄へ向かった。面会を断れられた帰り、熊太郎は道頓堀で芝居を観劇する。吉原百人斬りの主人公に同情して頭に血が上った熊太郎は「斬れよ斬れ佐野屋、おれも河内で斬る」などと声を荒げ他の客に注意される。熊太郎は村田銃を二丁買い、その後宇治で自分の菩提を弔い経帷子を求め、奈良を見物しがてら刀を二振り買って帰った

明治二十六年春、弥五郎が監獄から帰ってきた。熊太郎と弥五郎は決行の日を決める。親兄弟がいない熊太郎は弥五郎には唯一の身内である妹のおやながいることを気にかける。
弥五郎は妹の奉公先に行っておやなに会う。おやなはまた博打に負けて金を借りにきたのかと思ったが、弥五郎は別れを言いにきたと言う。弥五郎は九州へ石炭を掘りに行くと嘘をつくが、おやなは、そんな危ないところに行かないで、兄やんにもしものことがあったらわてはどうしたらいいのか、お金ならみんなあげる、といじらしいことを言う。弥五郎は後ろ髪を引かれる思いでおやなと別れる。

日は暮れて、暗闇に雨が降っている。熊太郎と弥五郎は茶屋の奥座敷で別れの盃を酌み交わす。南無阿弥陀仏の経帷子に刀と村田銃を携えて、二人は雨夜の闇へ。

お角の家に入りこみ、納戸で寝ていたお角を熊太郎が斬る。次の間にいたおぬいも斬って家に火をつける。
松永宅へ斬りこみ、松永親分ら十人を仕留めたが、肝心の虎次郎がいない。虎次郎を殺さなければ死に切れない、一時姿を隠そうと、二人は金剛山へ逃げ隠れた。

翌日、村は黒い噂で持ちきりで、犯人は金剛山へ隠れたようだと、近隣の警察や消防が出動して金剛山をとりまいた。食料がなくなって山から出てくるに違いないと待ち構えていたが何日たっても二人はあらわれない。
松永一家がやられたことに、厄払いができたと喜んだ村人がいて熊太郎と弥五郎にこっそり食料を届けていた。これに感づいた警察は村人の金剛山への立ち入りを一切禁じた。
熊太郎と弥五郎が食料を断たれて三日目、山狩りが始まった。弥五郎は一人二人斬ってでも逃げ延びようと言うが熊太郎はそれを制する。何の恨みもない、まして恵みを受けた村人に手を出してはいけない。しかし逃げることもできず、縄目の恥を受けなくてはならないのであれば、覚悟は決まっている。熊太郎は、最後の頼みだこれでひと思いにやってくれと刀を弥五郎に渡す。弥五郎は熊太郎を刺し殺すと、村田銃の銃口を自分に向けて引鉄をひいた。

最後に、「~男持つなら熊太郎、弥五郎~」という文句のある節を謳い上げ河内音頭・浪曲は終わります。

■ 2019年8月10日(土)十三浪曲寄席8月EXTRA(於:シアターセブン)にて京山幸枝若師匠の弟子である京山幸太さんが「河内十人斬り」前編・後編それぞれ40分近いネタををかけました(曲師 一風亭初月)。演者の気合は十分、クライマックスはすごい迫力だったそうです。京山幸枝若師匠の河内十人斬りはしっかりと続く世代に引き継がれております。
前編と後編の間にトークコーナーがありました。トークゲストは「告白」の著者町田康先生。
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チラシ(と町田先生の本)
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京山幸太・真山隼人・町田康によるトーク
(本項はchaconne0430さんから情報提供いただきました)


錦糸町河内音頭

現代において普通に生活していて河内音頭に接することはほぼないでしょう。どのように河内十人斬りの口演を楽しめばよいでしょうか。

YouYubeで「河内十人斬り」で検索すると、河内音頭や浪曲のネタがでてきます。京山幸枝若(初代・二代目)のほか、鉄砲光三郎の鉄砲節河内十人斬りもとても味わいがあります。
Amazonで検索すれば中古CDが見つかります。

関東で河内音頭にライブで触れることのできる最大のイベントは2005年から続いている「錦糸町河内音頭」です。

◇2015年の錦糸町河内音頭はは8月26日(水)、27日(木)の2日間行われました。
初日に京山幸枝司師匠が「河内十人斬り」を掛けました。
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2015年8月錦糸町河内音頭 アンコール時の京山幸枝若師匠。後ろには京山小圓嬢と三原佐知子師匠。(chaconne0430さん撮影)

◇2018年8月の錦糸町河内音頭では最終日のトリに鉄砲光丸師匠が「河内十人斬り 金剛山の最後」を掛けました。
ラストステージは会場も大勢の踊り手が密集する大盛況。
熊太郎に撃たれた弥五郎が目を見開いて「恨まへんで兄貴。兄貴に抱かれて死んだら本望や・・・」
熊太郎も後を追う。銃口を喉にあて、足の親指を引き金にかけて「ズドーン」
ここで会場の踊り手からうねるような歓声。ステージと踊りの場が融合し最高潮のボルテージを迎えました。
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2018年8月錦糸町河内音頭 鉄砲光丸師匠のステージ



大衆演劇

大衆演劇でも昔から多くの劇団が「河内十人斬り」をかけてきたそうです。

劇団炎舞の「河内十人斬り」

2016年6月12日、浅草木馬館で劇団炎舞の「河内十人斬り」を観ました。同月、ファンクラブのtwitterに「(河内十人斬りは)ボスが一番最初に大衆演劇界で、芝居として書き上げました」とありました。ボス・橘魅乃瑠が劇団のお家芸として大切に育ててきた演目なのでしょう。
主な配役・・・谷弥五郎:橘炎鷹、城戸熊太郎:沢田ひろし(ゲスト)、松永虎次郎:橘光鷹、松永伝次郎:橘ひろと、おかく:橘魅乃瑠、ぬい:渋谷めぐみ(外部客演)、やな:橘麗花、愛媛県:橘ひろと(二役)、飴虎:橘魅乃瑠(二役)、警察の頭:北条嵐(ゲスト)、松永一家の身内:橘鷹勝・橘鷹志・橘美炎・橘もん太・橘炎子

ストーリー・構成は上述した京山幸枝若のものとだいたい同じです。
ラストシーンに大衆演劇らしい脚色がされています。
山狩りが始まり、追い詰められた二人。熊太郎は弥五郎に自首しようと言うが、弥五郎は、それでいいのか兄キ、まだ虎次郎をやっていない、これでは死に切れないだろうと熊太郎が抑えている思いを代弁する。その言葉に感謝した熊太郎だが、追手から逃れるために山狩りに参加している村人を傷つけるのは本望ではなく、覚悟を決めると、弥五郎を背後から刀で刺す。弥五郎も熊太郎の思いを悟り兄キのことは恨まんと言う。あの世でも兄弟分でいようと誓い合い、熊太郎は銃で自害する。
炎舞版河内十人斬りで強調されているのは「義兄弟の美学」です。
義兄弟の契りというのは当初は「契約的」なもののはずです。それが、お互いの心が触れ合ってゆくうちに「心情的」なものに変わってゆく。さらに絶望的な状況で身体が極まると、心情的な距離はどんどん近づいてゆき、ついには「同一化」してしまう。この状態こそが自分の命よりも重い意義があると自覚するようになる。
この義兄弟の契りの結晶化こそ炎鷹版河内十人斬りクライマックスの見どころでした。
あきらめようという熊太郎に、個人的恨みをもっていないはずの弟分の弥五郎は完全に熊太郎の本心を我が思いとし、自分の命をかけて恨みを晴らそうとする。最後は二人とも「恨みを果たすこと」よりも「あの世にいっても義兄弟としてかたく結ばれること」の方が自分たちにとって大事なことだと認め合う。そうなることを確信できた二人はその喜びをかみしめる時間がほしかったに違いない。熊太郎は突然弥五郎に「石童丸」を唄ってくれと頼み、弥五郎は残された力を振り絞って唄う。弥五郎が唄い終わると熊太郎は自分に向けて銃を撃つ。
おそらく、このような義兄弟の美学の表現は昔からの大衆演劇の芝居の本領だったのではないでしょうか。旅役者が演じてきた人物は、博徒のように世間から隔絶された立場の者が多かったでしょう。そのような人物に力強い生の息吹を与えることに旅役者は生きがいを感じ、そのための美学を大切にしてきたのではないかと想像します。
そんな私の憶測を証明するかのように橘炎鷹座長はこの芝居で見事な演技を見せました。また、炎鷹座長がこの芝居をやるなら相手は絶対この人と切望した、熊太郎役の沢田ひろしの演技も素晴らしかった。
これが自分の生き方だと決めたからには、自らを損ねることになっても信念を曲げない。その信念によって「義」が磨かれてゆくほど、「義」以外のものに対する生きるべき価値が薄くなってゆく。
そんな男の生き様は、「大衆演劇役者」が心身とも染み付いた二人は感覚的に諒解しているでしょう。だからたった1日限りの芝居でほとんど稽古ができなくても、本番の舞台では二人は阿吽の呼吸で義兄弟の美学を紡ぎたすことができる。大衆演劇役者の本領を堪能できた芝居でした。
炎鷹版のもうひとつの見どころは、十人斬りの場面での大量の血のり演出です。熊太郎が松永一家の子分の腹を刺す。子分の着物が血に染まる。そして子分は口から血を吐いて倒れる。このような調子で、やられる子分が皆、刺された所から血を流し口から血を吐く、の出血2点セットで役者の衣服、床はおびただしい血で染まります。こんなに血のりをたくさん使った芝居をはじめて観ました。血が嫌いなお客さんがいるから(私もそうですが)血のりはあまり使いたくないという劇団もあります。でもこの芝居のように、復讐の場というシチュエーションの盛り上がりを目的としていて殺陣自体にリアリティを追求していない場合は、血は単に「恨みの象徴」として映るので見ていて気持ち悪いものではありません(あくまで 私の感想ですが)。とにかく大量の血のりを使った凄惨たる恨みの現場は見ごたえがあるシーンでした。
炎舞版河内十人斬りは男である私としては大いに感じ入るところがありましたが、若い女性のお客さんにとってはどうだったのでしょうか。
おそらく最近の、というかこれからの大衆演劇において多くのお客さんに求められるのは「ストーリーに納得できて登場人物に感情移入し感動できる」芝居になってゆく気がします。テレビで紹介されている大衆演劇像も、どんな世代の人でも泣いて笑って楽しめる、というものです。確かに大衆演劇の喜劇の大半はそういうものです。
一方、今の世の中では時代錯誤だと思われている、しかしまったく無視してよいとは誰もが思っていないだろう、「忠」や「義」や「意地」といったテーマを大真面目に扱うことで、お客さんの普段触れない琴線を揺さぶり非日常的で理解しがたいながらも肯定したいと思える幻想を立ち上がらせることにも、大衆演劇らしさがあると私は考えています。
つまり大衆演劇「らしさ」を芝居の内容面から捉えた場合、私の思う「らしさ」には相反する二つのものが共存します。
今は前者を目指す傾向が強く(その典型的なあらわれが松竹新喜劇の芝居の増加でしょう)後者のような芝居が少なくなってきたように思います。
「親の血をひく兄弟よりも かたいちぎりの義兄弟 こんな小さな盃だけど 男いのちをかけてのむ」・・・北島三郎「兄弟仁義」は今から約50年前の日本でミリオンセラーとなりました。多くの日本人が義兄弟という幻想に心を寄せていたのです。
炎鷹座長が炎舞版「河内十人斬り」をこの先ずっとお家芸としてかけ続けて行くことを強く願っています。
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2016年6月12日劇団炎舞浅草木馬館公演「河内十人斬り」カーテンコール


たつみ演劇BOXの「河内十人斬り」

たつみ座長が中学生の頃までは劇団でやっていたそうです(たつみ座長の父親二代目小泉のぼるが弥五郎役)。永らくこの芝居を舞台にかけていなかったのが、2015年3月の三吉演芸場での小泉ダイヤ誕生日公演で復活しました。私はその誕生日公演と2016年8月の木馬館公演を観ました。
主な配役・・・谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男(2016大蔵祥)、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:葉山京香、やな:辰巳満月、愛媛県:辰巳小龍(二役)、鹿蔵・飴寅::嵐山瞳太郎(二役)、松永一家の身内:大蔵祥・小泉ライト・辰巳花
小泉版「河内十人斬り」は辰巳小龍演じるおかく婆あが絶品です。河内十人斬りの前半の影の主役はコメディリリーフも担うおかく婆あではないでしょうか。
体型は細身で腰の曲がった弱弱しそうなばあさんだが、その性格のどぎついこと。何より機関銃のように罵詈雑言をまくしたてる勢いが凄い。捨て台詞「このド甲斐性なしのガシンタレが」も最高。小龍さんはこの芝居をたてるにあたって町田康「告白」を読んだそう。あの小説の強烈なキャラクターにひけをとらない小龍さんのインパクトさすがです。
小泉版の構成の工夫のひとつは、オープニングで幕が上がると、紋付袴姿のダイヤ座長が現れて河内音頭を唄いだすところです。この演出はうれしい。思わず「エンヤコラセードッコイセ」と合いの手を入れたくなります。
十人斬りの場面は、父親の芝居では大量の血のりを使ったそうですが、たつみ版は「血が嫌いなお客さんもいるから」と血は使いませんでした。
金剛山に逃げ隠れている際に、少ない食料をお互い譲り合う場面を入れるなど、兄弟の情を強調した脚色となっていました。
最後は一緒に死のうとお互い差し違えますが、弥五郎の情愛が強調された演出だと思いました。
芝居全体の完成度は、言うまでもなく、さすがたつみ演劇BOXとうならせる高さでした。

炎鷹版もたつみ版も、金剛山で熊太郎らにこっそり食料を差し入れる愛媛県と呼ばれる村人と彼が面倒を見ている飴虎という青年と、やつらを見かけたらこれを吹けと笛を渡す役人が出てきて、他愛もない喜劇的場面が挿入されます。
「愛媛県」という名前の由来は何なのだろう?気になります。

◇2019年8月16日木馬館で観劇
谷弥五郎:小泉ダイヤ、城戸熊太郎:小泉たつみ、松永虎次郎:愛飢男、松永伝次郎:宝良典、おかく:辰巳小龍、ぬい:辰巳あさみ、やな:辰巳満月、愛媛県:黒潮幸次郎、鹿蔵・飴寅::小泉ライト(二役)、松永一家の身内:辰巳花・小泉龍之介他


劇団新の「新 河内十人斬り」

2017年3月5日、大島劇場で劇団新の「新 河内十人斬り」を観ました。
龍新座長の脚本演出の「新しい」河内十人斬りです。炎舞版、たつみ版ともに浪曲河内十人斬りを下敷きとしていますが、新版はそれによらないオリジナルな構成です。
大きな特徴は、熊太郎(龍錦)の父親(龍児)および弟(小龍優)が登場するところです。熊太郎の父は侠気を持ち男の意地を立てることに生きる美学を見出す親分肌の人物。この父親がいかにも大衆演劇という行動を起こします。弟は新版河内十人斬りの影のキーパーソン。河内十人斬りという演題は史実を元としているからどうしてもある問題点をはらんでしまう。10人も殺したのに最も殺したい人物(虎次郎、史実では寅吉)は討ち逃している点です。新版では独自の新解釈を加えることによって、この点に関する観客のモヤモヤ感を解消してくれています。ここに熊太郎の弟がかかわってくるのですが、詳細は見てのお楽しみということで・・・。
史実では熊太郎は十人斬りの前に自分の墓を建てています。新版はこれを巧みに取り入れていました。墓を建てるというのはもちろん死を覚悟したということを意味します。新版熊太郎は、弥五郎(龍新)を巻き添えにしたくない(死んでほしくない)と強く思っています。しかし弥五郎は、熊太郎とは一身同体、運命共同体だと思っていて、一緒に連れてってくれないのなら、ここで二人で死んでしまおうとまで言います。そして弥五郎は、熊太郎の墓に自分の名前を刻みます。これは名シーンでした。
また新版の熊太郎と弥五郎の関係は、兄弟分ではあるけれど「友情」に近い心情でつながっているように思えました。例えば弥五郎は熊太郎を「兄キ」とは呼ばずに「熊ちゃん」と呼びます。熊太郎と弥五郎が最後は心情的に深く結ばれることを望み、それがかなったという確信のもとに果てる、という点では他劇団版も新版も同じです。しかし、それが義兄弟からの純化か、友情からの純化かという点は似ているようで大きな違いがあると思います。昔からの大衆演劇では「義兄弟という共同幻想」を客も演者も持っていることを前提に作られていたでしょう。大衆演劇の新しい時代を開いてゆかなければならないと自負しているだろう龍新座長のセンスはその前提を見直してゆく必要を認めたのではないでしょうか。この友情ベースのドラマは若い方を含めて多くのお客さんに感動と共感を与えることができると思いました。友情ドラマのクライマックス、龍新座長演じる弥五郎の最期がこの芝居の一番の見所でした。
BGMに河内音頭を使用するのは必然としてそれに現代の若者の歌をつなげ、大胆な曲構成となっていました。ここにも若い座長ならではのセンスが光っていました。
龍新座長の力量に心地よくのれた芝居でした。しかし、まだまだ役者の力量的にも内容的にも進化の余地がたくさんあると思います。これから長い年月をかけてこの芝居が劇団新の中で育ってゆくことを楽しみにしています。


劇団花吹雪の「河内十人斬り」

2017年9月25日、浅草木馬館で劇団花吹雪の「河内十人斬り」を観ました。
基本的な物語設定は炎舞版と似ていますが、弥五郎が妹に会う場面と金剛山の山中で役人が熊太郎らを探す場面はありません。それでも約2時間の大作でした。若干の脚色により弥五郎の出番が多くなっています。(例えば、熊太郎が松永親分の家に借金を返しに行く際も弥五郎が同行する)
この弥五郎の描き方が他劇団とまるで違っていました。「殺す」が口癖。ほぼ殺人狂といって差し支えないでしょう。松永一家への襲撃にしても、兄貴分の熊太郎の悔しさを我が想いとして復讐の手助けを買って出る、というより自分の殺人趣味を満たすために熊太郎に起こったことを口実に行動しているように見えます。二人が金剛山へ逃げ込んだ場面では、他劇団では松永一家を良く思っていなかった村人がこっそり二人に食事の差し入れをしますが、花吹雪版では弥五郎が村人を脅して飯を奪いとります。また、他劇団では、二人は恨みのない村人には手を出そうとしませんが、花吹雪版の弥五郎は討ち逃した寅吉を殺すためには、邪魔をする村人も殺してしまえと意気込みます。このように弥五郎の非情さ・凶暴性が強調されています。
花吹雪版河内十人斬りの眼目は松永一家襲撃の場面でしょう。殺戮のシーンはリアルな演出で血もかなり出ます。弥五郎はものすごい迫力でぬいの母親のおかく婆あを殺します。熊太郎がおかくを殺すならわかるが、なんで弥五郎がおかく婆あにあそこまでの殺意を持てるのだろうか。ここまで書きますと、弥五郎はさぞ恐ろしい迫力の人物だろうと思われるでしょうが、ある場面では役人を相手にヘラヘラした軽い態度をとりノーテンキなヤンキーみたいになります。弥五郎の人間性を理解できませんでした。また、こんな人間が血のつながりもない兄弟分に堅い絆を持ちうるとは到底思えません。

あくまで私の勝手な感想ですが、花吹雪版の芝居は当初は熊太郎と弥五郎の絆が物語の幹としてあったが、一時的な笑いをとるために、弥五郎が誇張した言動(短絡的に殺すと言うなど)や軽薄な言動(他の登場人物をおちょくる)をするようにしてしまった結果、弥五郎の人物像がブレブレになってしまったのではないでしょうか。結局、弥五郎の人格の主幹を「凶暴さ」で形成したために、深みのない薄っぺらな登場人物になってしまいました。笑いをとる言動を入れてしまったために物語や人物像にブレが生じることは大衆演劇ではよくあります。しかしこのような大芝居の場合にはしっかりしたテーマを据えて、そのテーマを愚直に貫くことで大衆演劇らしい良い意味でクサく、見応えのある芝居にしてほしいと個人的には思います。刹那的にお客さんを楽しませることにはまさに大衆演劇らしさがあるでしょう。しかし、それが芝居に矛盾を生むことになれば、媚態のために芝居の芸術性を損ねている行為、と見ることもできると思います。

熊太郎、松永親分、おかく婆あは良かったです。しかし弥五郎の凶暴さと十人斬りの場面の凄惨さを強調したために、スプラッター映画のように楽しみ方が通常とは異なる芝居になりました。ある意味劇団花吹雪の挑戦とも言えます。他劇団とは違うアプローチで独自の見せ場を作ろうというもくろみはよいと思います。が、この演目に関しては、弥五郎の行動原理を整理して納得できるものにしないと、花吹雪版のアレンジは完成しないと思います。



スーパー兄弟×章劇の「河内十人斬り」

2020年7月の篠原演芸場はスーパー兄弟と章劇の合同公演。7月28日に河内十人斬りを昼夜役替えで公演しました。昼の部主演は、城戸熊太郎:龍美麗、谷弥五郎:三代目南條隆でした。
ここでは、澤村章太郎と瀬川伸太郎が主演を務めた夜の部を以下ご紹介いたします。(ネタばれ注意)

主な配役…城戸熊太郎:澤村章太郎、谷弥五郎:瀬川伸太郎、松永伝次郎:澤村蓮、松永虎次郎:美月流星、松永一家の身内:南條勇希、熊太郎の母:大路にしき、やな:天生蛍、おかく:南京弥、ぬい:一条椿、愛媛県:龍美麗、子供達:三代目南條隆、龍魔裟斗

スーパー兄弟版河内十人斬りでは熊太郎の母が登場しドラマに深くかかわります。つまりこの芝居では、澤村章太郎(熊太郎役)と大路にしき(熊太郎の母役)の姉弟ががっつりと競演しました。
オーソドックスな河内十人斬りでは、テーマを義兄弟の絆に収斂させ、[情けないところがある熊太郎][粗野だけれど情に厚い弥五郎]という対比構図のもと、剥き出しの一途さを持つ弥五郎の方が力強く描かれます。スーパー兄弟版は、復讐譚に[母子間の情愛]もからませることで熊太郎の人格に奥行きを与え、[熊太郎の物語]であることが強調されます。
熊太郎は死を賭して松永一家に復讐しようと念じているが、母と弥五郎の前ではまるでその逆のように振舞い、一人家を出て行きます。
母をこの世で一人ぼっちにさせてはいけない。母を慕ってくれている弥五郎はこれからもずっと母のそばに居てほしい。だから弥五郎をこの復讐に加担させるわけにはいかない…このような心中を、熊太郎役の章太郎後見は表情や何げない会話だけで表現します(このシーンのために、[弥五郎・やなの兄妹]と[熊太郎・母の親子]が普段からとても親しい関係になっているという設定上の工夫がなされています)。
一方の母(大路にしき)は、必ずけじめをつけてやるという強い意思が熊太郎にあることを察します。熊太郎が男を立てるためにはすべてを捨ててもよいと考えている母は、自分の存在が熊太郎の行動を鈍らせていることも、弥五郎の力なくしては松永一家への復讐は果たせないこともわかっている。母は自害し、「熊を男にしてくれ」と弥五郎に頼みます。そして弥五郎も、熊太郎の男としての行動に殉ずるためにおやなと一生の別れをする。
このようにスーパー兄弟版では、大衆演劇ではよく描かれるが現代では失われつつある「男を立てる」というテーマも強調されています。
この後、墓場の場、十人斬りの復讐の場、金剛山山小屋の場と続き、ラストは金剛山鉄砲の場。(場面名は適当につけました)
おなじみの熊太郎と弥五郎が命を捨てる場面です。熊太郎は弥五郎を撃った後、ここでも母を想起します。
「おかん、ごめんな、わしはおかんのところに行けへんのや。こいつが待ってるさかい、地獄でな」
なんて悲哀に満ちた最後なのでしょう。通常このような場面は「死んでもあの世で再開できる」ことを救いとして果ててゆきます。しかし熊太郎は天国にいる母と地獄に行く自分とは永遠に会うことはできないことを悟りながら、自らの腹に銃口を向け足で引き金を引いたのです。

澤村章太郎後見と瀬川伸太郎座長、ふたりだけの静かなラストシーン。緊迫感が最高潮に達すると、舞台袖から舞台にむかって「サワムラー!」「せがわ!」「章太郎!」という掛け声がかかりました。舞台袖から固唾を飲んで芝居を見守っていた大路にしき、龍美麗、三代目、澤村蓮によるものだったようです。
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左:瀬川伸太郎座長(谷弥五郎)、右:澤村章太郎後見(城戸熊太郎)

ところで、スーパー兄弟は何をしていたのか?龍美麗総座長は山小屋の場の愛媛県役、三代目南條隆座長は同じく子供役。なんというゼイタクな座長の使い方なんでしょう。この場面は、龍魔裟斗花形や美月流星座長(ザビエル役)も登場してたいそう面白かったみたいです。

独自の解釈を加え、熊太郎の人間性に厚みを持たせたスーパー兄弟版の「河内十人斬り」。龍美麗・三代目南條隆の両座長主演版もいずれレポートできればと思います。
※本項目(スーパー兄弟×章劇の河内十人斬り)はフルギー@frugiiiさんのレポート・写真をもとに作成しました。


小説 町田康「告白」

町田康先生の「告白」は河内十人斬りを題材とした長編小説です。史実および芸能の演目としての河内十人斬り(町田先生は浪曲がお好きです)どちらも内容に反映されています。
とにかく面白いです。心地よいです。すべてのページに天才町田先生の言葉のイリュージョンが散らばっています。人間描写のおかしさがたまらない。

主人公は城戸熊太郎で、熊太郎の少年時代から最後までを以下のような時間経過で描いています。(ネタばれ注意:小説の内容に少し言及しています)
・慶應3年(熊太郎10歳)
世の中には基準が複数あることを知り、大人が発する言葉に疑問を抱く。
・明治4~5年(熊太郎14~15歳)
葛城山の岩室で人を殺めてしまう。このことは熊太郎しか知らないが、以降このことが熊太郎の脳裏に暗い陰を落とす。
・明治14年(熊太郎24歳)
熊太郎は酒・博打と遊蕩に身を持ち崩す。賭場で少年谷弥五郎と出会う。村会議員松永伝次郎の息子松永熊次郎と出会う。村の女に惚れるが失恋する。
・明治24年(熊太郎34歳)
弥五郎と再会する。奈良の遊郭で寅吉に会い、つるむようになる。美しく成長した17歳のぬいに村中の若者が夢中になり熊太郎も惚れる。弥五郎の協力で熊太郎とぬいはよい仲になる。
・明治25年(熊太郎35歳)
とらが金を目当てに、ぬいを松永熊次郎に添わせようとするが、熊太郎は金で解決し、熊太郎とぬいは所帯を持つ。熊次郎は熊太郎に30円を借りる。寅吉とぬいの仲がよくなる。熊太郎、とらに養い料を請求される。熊太郎は熊次郎から金を返してもらおうとするが、熊次郎の計略に遭い受け取れない。熊太郎、伝次郎宅に行くがふくろだたきに遭う。
・明治26年(熊太郎36歳)
3月、熊太郎の傷が治る。弥五郎は浅井てると所帯をもとうとするが父親の浅井伝三郎に反対され、手切れ金100円を要求する。
5月、十人斬りの決行。金剛山中に逃げる。二人の最後。

河内音頭や浪曲で主に語られるストーリーに相当するのは小説の最後の1/4か1/5くらいです。この小説の大部分はそこに至るまでの熊太郎の遍歴が描かれています。といっても、史実に明らかにされていない部分をこうだったのではないかと史実補足する目的で書かれているのではなく、町田先生の妄想の翼が自由闊達にかけめぐるフィクションとして創作されています。
この小説の主人公熊太郎はあまりに思弁的なため、自分の感情を直接的に感じてそれを言動にダイレクトに反映させることができない。自らを説明するように客観視している自分が常に同居していて、その思考が渦巻く結果、自分の本音を見失っている。また、本音や直感に対して素直に生きているらしい周りの人々の思惑を慮ることができない。自分に素直に(悪事も含めて)生きている周りの人間の言動と熊太郎の言動とはことごとくフィットしない。その様子を、イキイキとした河内弁の台詞回しと飄逸な心情吐露を用いて描いている。これがこの小説の最大の魅力だと思います。だから河内十人斬りを描いた小説というより、思弁的すぎて思うように世間と渡り合えない男を描いた小説と言った方がよいでしょう。小説の最後の1/5は史実および河内音頭の河内十人斬りをなぞるような内容になっていて、それまでのユーモラスさはあまりありません。けれども、河内十人斬りに興味がある者にとっては、実に楽しめる内容になっています。


物語の舞台を訪ねて

小説「告白」には事件があった水分村界隈のさまざまな場所が描かれています。
2015年夏、物語の舞台を訪ねました。
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大阪唯一の村、千早赤阪村の水分に来ました。

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建水分(たけみまくり)神社境内。建水分神社は地元では通称水分(すいぶん)神社として親しまれています。
正面奥に建水分神社拝殿、右の鳥居は南木(なぎ)神社。

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建水分神社摂社の南木神社。楠木正成を祀ったお社です。
熊太郎が白く輝く正三角形が浮遊するのを見たのはこの鳥居の前の空中です。

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建水分神社の拝殿はこの階段の上。

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拝殿下の階段付近から見た境内。
前方右側にあるのが旧絵馬堂。熊太郎が森の子鬼と角力をとったのはこの前あたりだろうか。

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小説にたまにでてくる「牛滝堂」という場所に行ってみようと思いましたが、Googleマップでは表示されているものの、現場ではいったいどこなのかがわかりませんでした。

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小説にはでてきませんが建水分神社近くにある奉献塔も訪ねました。
楠木正成の没後六百年を記念して、昭和15年に建てられた記念塔です。

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奉献塔の近くから金剛山方面を眺める。

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熊太郎が森の子鬼を探しにいった御所(ごせ)方面へ向かいます。
進行方向に金剛山の山並みが見えます。

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奈良県御所市に入りました。
熊太郎も訪れた一言主(ひとことぬし)神社の参道です。願いごとを一言だけきいてくれる神様を祀っています。
小説では、ちょっと迷っている人の前に突然現れて一言言い放って去ってゆくという不気味な神様(笑)になってます。

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地元の方には「いちごんさん」として親しまれています。

一言主神社は葛城山の麓近くにあります。

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葛城岩橋図
葛城山には巨岩・奇岩があります。図には「胎内めぐり」として大きな岩の間から抜け出そうとしている人が描かれています。
葛城ドールの岩室も葛城山中のどこかにあったのでしょう。

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一言主神社から少し離れた道路に「蛇穴」という地名表示が見えました。「さらぎ」と読みます。
岩室の帰りに、大小数百以上の蛇が生きてぬるぬるおごめいている蛇穴に鹿造が落ちて発狂した場面を思い出します。
珍しい土地の名だなと思って地名事典で「蛇穴」を調べたら「例祭に蛇綱引汁掛祭が行われる。大蛇をかたどった蛇綱を造り境内に奉納、参拝する人々にワカメの味噌汁をかけた」と書いてありました。なんちゅう奇祭でしょうか。

小説の舞台を訪ねる旅は以上です。

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御所にある大衆演劇場「御所羅い舞座」で観劇して別の旅先へと向かいました。

■あとがき
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・京山幸枝若(初代、二代目)
・町田康
・小泉たつみ、小泉ダイヤ、辰巳小龍(たつみ演劇BOX)
私が大好きなそして尊敬している先生方です。先生方の豊かな表現を堪能すると、日本に生まれてきてよかったなあ、もう少し言えば、日本語を母国語とする国に生まれてきてよかったなあとわが身の幸運を祝福したくなります。
この先生方が皆同じ題材「河内十人斬り」を扱っているということで興味が募り、いろいろ調べたのを機に、このブログを作成いたしました。
「河内十人斬り」がもっと演芸ファンの人気を集め、浪曲でも大衆演劇でも多くかけられるようになればいいなあと願っております。

(2016年8月投稿)

戦前の講談で語られた天保水滸伝

大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門 別ページ
戦前の講談で語られた天保水滸伝

天保水滸伝は江戸時代に講釈師宝井琴凌によって生み出されました。
それから、バリエーションが生まれたり淘汰されたりを繰り返して現代に至っています。
かつて講談は寄席で「連続物」がかかることが多くありました。天保水滸伝のストーリーも、いかに連綿とした流れを作るか、いかに切れ場をつくるかの工夫を重ねて形成されていったはずです。
ところが連続物の話もその場限りの一席として語られることが多くなってきます。ですから、本来たくさん続く話のうち、人気のある話だけを抜き読みすることになります。するとその話は、それだけ単発で聞いても楽しめるようさらにアレンジされてゆきます。
現代に残る天保水滸伝の各話もそのような経緯で今に至っているでしょう。
昔の連続物としての講談を読むことで、現代の演目が完成する前の大きな源流を感じ取ることができます。

以下、私が確認できた戦前の講談天保水滸伝を紹介いたします。
残念ながら一番古いと思われる宝井琴凌の初編「天保水滸伝」は目にしたことはありません。
しかし以下紹介する大正期の天保水滸伝によって現代の天保水滸伝の基礎がかたまったのではないかと思っています。

※天保水滸伝全体について知りたい方は、別ページ 「大衆演芸ファンのための天保水滸伝入門」 を御覧ください。

※現代の講談天保水滸伝に重なる内容が多く含まれております。予備知識なして講談を楽しみたいという方は読むのをご遠慮ください。


【もくじ】

※項目をクリックするとその項へ移動します
■宝井馬琴の講談 「長講天保水滸傳」全30席 大正時代
■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 全79回 大正13年
■三代目神田伯山のラジオ講談 「天保水滸伝」 全4回 昭和4年
■松廼家太琉の講談 「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年


■「長講天保水滸傳」(全三十席)


私が所持している講談本宝井馬琴講演「長講天保水滸伝」(全三十席)のあらすじをご紹介します。
文中に「大正の今日に至っても」「この川は大正八年にかの鈴弁の大トランク事件で一層名を売った大川だ」等語り手が大正の世にいることを示す文がいくつかあり、大正時代後期に語られた内容だと推測されます。

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第一席 井上伴太夫助五郎を斬る事、並(ならび)に助太郎銚子の五郎の養子となる事
相模国の三浦岬。水神宮に台を置いて易をみている井上伴大夫という常陸国笠間の浪人があった。魚売りの助五郎は酒癖が悪く、通るたびにこの辻占に喧嘩を売っている。いつもは相手にしない伴大夫であったが、とある水神祭りの日は酒を飲んでいて助五郎の喧嘩を買ってしまう。刀を抜いて助五郎を斬り殺し、そのままどこかへ行ってしまった。助五郎の息子の助太郎はまだ十二歳であるが、父の仇を討つために江戸で剣術の修行がしたいという。それを聞いた土地の顔役天野屋の松五郎は助太郎を銚子の大親分の五郎蔵に引き合わせる。五郎蔵に気に入られ養子となった助太郎は七年間の修行を終え、親の名の助五郎を継ぐ。ある日助五郎が義兄弟の鶴五郎と観音前の旅籠で飲んでいて、下の階で飲んでいた男と一緒に酒を酌み交わすこととなった。話を聞くうちにその男が親の仇の井上伴太夫とわかり、助五郎は勝負を申し出た。

第二席 助五郎親の仇を討つ事、並に福松昔語りの事
助五郎は井上伴太夫を斬って見事に親の仇を討つ。銚子の五郎蔵が死んで助五郎は一本立ちし、居を飯岡に移した。銚子の陣屋に取り入って、貸元でありながら御用を預かる二足の草鞋となる。さらに飯岡では大きな船を拵えて網元となった。
話は変わって下総干潟八万石、須加山村の入口に茶屋旅籠をしている流鏑馬(やぶさめ)の仁蔵という明石出身の貸元がいた。ある日仁蔵は一家の者を家に集めた。干潟八万石の内に狼、厄病神、貧乏神といくつも綽名を持っている福松もやってきた。福松は他の賭場は荒らしても仁蔵の賭場には迷惑をかけない。その訳を訊かれ福松は昔のことを語り出した。福松が生まれたその年に、仁蔵は明石からやってきたものの身寄りもなくついに雪の中に倒れた。それを助けたのが福松の父親だった。

第三席 福松笹川繁蔵と改名して売出しの事、並に勢力富五郎繁蔵と兄弟分となる事
福松の母は病弱で乳が出ない。仁蔵は貰い乳にまわって幼い福松の面倒を見た。福松は成長して乱暴者になったが母からは決して仁蔵の賭場では騒ぎを起こすなと釘をさされていた。
仁蔵は福松に娘のお千代と結婚して家を継いでほしいと持ち掛ける。福松はこれを受け、お千代と三々九度を交わし、親の名である岩瀬の繁蔵を名乗る。繁蔵は乾分の信頼も篤く、身内一統が弱い者を助ける義侠心を持っているから世間の評判もよい。萬歳村で親分をしていた相撲上がりの博徒勢力富五郎もこの噂を聞いて、笹川の繁蔵と飲み分けの兄弟分となった。

第四席 笹川一家花会を催す事、並に飯岡助五郎洲の崎政五郎を名代とする事
付き合いの広くなった笹川一家は懐具合が苦しくなった。勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分に相談する。忠吉の兄貴分の信夫の常吉もひと肌脱ぐことになり、忠吉・常吉という大親分が後見・世話人となって花会を催すことになった。天保九年の七月、諏訪神社の境内に野見宿彌の碑を建てる名目で花会が開催された。これが気に食わない飯岡助五郎は一家から名代として洲の崎政五郎に出席させた。しかももたせた義理(祝い金)はたったの十五両。
花会の会場には全国の錚々たる親分が集まっていた。政五郎は国定忠治に飯岡一家から助五郎が出席しないことについて意見される。大前田英五郎の兄の田島要吉が政五郎と忠治の間を取り持つ。

第五席 助五郎の乾児(こぶん)清滝佐吉と相撲の事、並に神楽獅子大五郎清滝と復讐相撲の事
花会の場に各親分の義理の金額が貼りだされる。どの親分も大層な額で政五郎は顔を赤くしている。ところが自分の一家の貼り出しを見て驚く。親分乾分合わせて二百両の義理の金額が書かれている。これは繁蔵のはからいだろうと政五郎は心の中で感謝する。
同じ日、諏訪明神の境内では奉納相撲が行われていた。清滝の佐吉は助五郎の乾分の目玉の長太、芝浜の勘太を次々倒した。これを知った飯岡助五郎は翌日乾分の神楽獅子大五郎に清滝の佐吉と相撲をとってこいと命じる。諏訪明神の奉納相撲の二日目、神楽獅子大五郎は清滝佐吉を土俵の外に倒した。
第六席 勢力富五郎神楽獅子を打負かす事、並に助五郎味内(みうち)笹川の乾分を打擲する事
清滝の次に土俵に上がった勢力富五郎は神楽獅子大五郎を打ち負かす。
笹川繁蔵の乾分、花笠の六蔵・水谷の六蔵・西尾の與市の三人が、飯岡の縄張りの松岸の茶屋旅籠で芸者騒ぎをしている。先ほどの神楽獅子の負けっぷりを茶化して踊っているところを、たまたま旅籠を訪れた神楽獅子に見られてしまう。この三人が駕籠に乗って帰るところを待ち伏せしていた飯岡一味が襲った。一人は逃げたが二人は斬られて虫の息。これを飯岡助五郎の後見をしている松岸の半次(別名風窓の半次)が見つける。これは大きな喧嘩の引き金になりそうだと半次は須加山に向かうべく駕籠に乗った。

第七席 風窓半次繁蔵に和解を申込む事、並に飯岡笹川手打の事
飯岡一味に襲われて逃げてきた西尾の與市が笹川一家に転がり込んで顛末を話すと屈強な乾分衆が集まって飯岡方に押し込もうと息巻いた。そこに繁蔵が帰って来て、松岸の半次の駕籠も到着する。半次が事を収めたいと申し出ると、繁蔵は飯岡の縄張りの旅籠であんなことをすれば喧嘩を売るようなものだとして仕返しは考えず、半次に始末を頼む。
佐原に松島屋権平という目明しがいてその娘は助五郎の妾だ。半次は権平の家で手打ち式を行うことに決め笹川方と飯岡方を呼び出す。この手打ち式の様子を目明しの三八と洲の崎政五郎の父の政右衛門が隠れて見ていた。政右衛門は笹川方の出席者の雪崩の岩松の顔を見て驚いた。あれはかつて政右衛門を襲ったことがある甲州街道名代の胡麻の蠅、雨傘勘次だ。このことを目明しの三八から聞いた助五郎は、松島屋権平に岩松を召し捕らせようとたくらんだ。二ヶ月後、笹川繁蔵は八州廻りに呼び出されて松島屋権平の家へ向かった。

第八席 雪崩の岩松旧悪露見して召捕らるる事、並に平手造酒二日禁酒を破る事
松島屋権平の家で繁蔵は八州廻りの旦那長井五郎兵衛、伊藤文助から雪崩の岩松が捕らえられたことを告げられる。八州廻りの情けで繁蔵は岩松と最期の面会をする。繁蔵は残された岩松の母を面倒みると約束するが、岩松の母は自害してしまう。
鹿島の祭礼が近づいてきた。本来繁蔵自ら出向いて賭場を開くところだが、繁蔵は岩松の件ですっかり気落ちしており、勢力富五郎に任せることとなった。繁蔵は用心棒の平手造酒に賭場の守りを頼む。その際、酒癖が悪い平手に二日間の禁酒を約束させた。
祭の一日目は酒を我慢した平手だが二日目は料理屋でしこたま呑んでしまう。そこに現れた三人の侍が店に入る際に払った砂が平手の酒に入ってしまう。平手が怒っていたところに、鹿島の犬婆ァが現れた。平手は婆ァが連れていた犬を侍にけしかけた。
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第九席 平手造酒喧嘩の事、並に繁蔵雪崩の岩松を召捕らせし仔細を聞知する事
三人の侍は飯岡助五郎の用心棒秋山要助の弟子だった。秋山要助はかつて、平手の師匠の千葉周作に無礼を働いたことがある。平手は師匠の恥辱をはらさんと刀の鯉口を切った。
一人は平手にすぐに斬られて絶命する。そこに勢力富五郎が来て平手を止めたので残りの二人(下寺十郎次、笠井庄助)は逃げおおせた。
鹿島の棒祭りの後日。繁蔵一家の般若の六蔵が繁蔵に勘当された。六蔵は女房を連れて全国の湯治場を歩き回ることとした。六蔵が伊香保の風呂場で偶然知り合ったのは下寺十郎次・笠井庄助だった。六蔵は二人の話から、雪崩の岩松が捕らえられたのは、泥棒を乾分にした廉で繁蔵を役人に挙げさせようという飯岡助五郎の策略だったことを知る。六蔵はただちに須加山へ帰り、繁蔵にそのことを告げる。平手と六蔵は伊香保に行き、十郎次・庄助の二名を証人として笹川一家に連れ帰った。

第十席 笹川一家評議の事、並に飯岡方へ斬込む事
下寺十郎次、笠井庄助は繁蔵に事の次第を話し、証人になると約束する。怒った繁蔵は平手造酒、勢力富五郎と談合して八月十五日に助五郎方へ斬り込みに行くことに決めた。当日、夏目の新介、清滝の佐吉ら乾分も合わせて総勢十八人が、他の乾分に勘づかれぬように飯岡に向かった。助五郎は妾のおかめの宅で月見をしていた。
まず平手が踏込み、飯岡の乾分を斬って笹川一家が家に押し入った。平手は飯岡の用心棒赤鬼の源次と対峙する。繁蔵は助五郎の寝室に向かう。夏目の新介、清滝の佐吉の前に飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。

第十一席 飯岡助五郎復讐に苦心する事、並に勢力富五郎厚意の事
新介、佐吉は鰐の甚助に斬られ、これはかなわないと逃げ出した。そこに平手が現れ、甚助と平手の決闘となった。平手の技に後れをとった甚助は退散する。繁蔵たちは助五郎を追詰めるが、助五郎は物干から屋根伝いに外に出て難を逃れた。
この襲撃の後、飯岡一家がすぐに仕返しに来るに違いないと笹川一家は身構えていたがいつになっても来ないので笹川方の緊張は解けていった。
翌年になると繁蔵の乾分は散り散りに過ごすようになり、平手造酒は酒の飲みすぎで腹を痛めて尼寺に療養することとなった。その状況を知った助五郎は九月十三日に笹川方に斬り込むことを決めた。
銚子五郎蔵の片腕に風窓の半次、荒生の留吉の二名がいた。留吉は助五郎と折り合いが悪く、今では堅気になって造り酒屋をしている。留吉の息子の留次郎が潮来の遊女雛鶴とよい仲になった。雛鶴の馴染みの客で飯岡一家の身内の土鼠(もぐら)の真助と留次郎との間にいざこざがあった。勢力富五郎と清滝の佐吉が留次郎の用心棒となって争いをおさめた。勢力は自ら五十両を出して雛鶴を落籍し、雛鶴を留次郎のもとに嫁入りさせた。

第十二席 荒生の留吉急を笹川へ知らす事、並に洲の崎政五郎妻子を斬って門出の事
九月十三日、飯岡一家の乾分衆が留吉の家を訪ね、酒を注文する。飯岡一家が笹川一家へ喧嘩出入りする前祝いの酒なのだが、留吉が笹川と通じていることを知らない乾分衆はそのことを留吉に伝えてしまう。留次郎は留吉に命じられて飯岡の計画を笹川一家に密告する。笹川一家は飯岡一家を迎え討つ体制を万全に整えた。
助五郎の家では飯岡一家が出入りの準備をしているが、洲の崎政五郎がなかなかやってこないと気をもんでいた。政五郎は自宅で、この喧嘩で命を捨てるつもりだから諦めろと女房に因果を含めていた。政五郎の女房は、後に残されて憂き目を見るよりもあの世で親子諸共夫婦仲睦まじく暮らしたい、冥土の道連れにしてほしいと懇願する。政五郎は息子、娘、女房の首を斬り落とし、三つの首を持って助五郎の家へ向かった。
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第十三席 飯岡の同勢大利根を遡って笹川方へ斬込む事、並に洲の崎政五郎富田の弁蔵に討たるる事
飯岡一家は利根川を上って須加山村に向かった。一番船は洲の崎政五郎を大将とした八十五人。二番船は成田の甚蔵を大将とした八十人。三番船は飯岡助五郎を大将とした百二十余人。一番船が桟橋に着くと、待ち受けていた笹川方から鉄砲が放たれた。陸にあがった飯岡一味は飛び道具にひるんで後退するが、洲の崎の政五郎は樫の棒を打ち振るって応戦する。遅れて二番船が到着し、河岸の争いは政五郎に任せ、甚蔵らは繁蔵の家に向かった。政五郎は笹川一家の者を十一人打倒し、残りの笹川一味は退散した。政五郎は一番船に戻り一息ついていたが、この船には笹川方の飛田の弁蔵が逃げ隠れていた。弁蔵は背後から槍で政五郎を突き刺した。乗員が多くて船が進まず遅れた三番船は政五郎が死んでからようやく到着した。

第十四席 勢力富五郎神楽獅子大五郎と一騎打ちの事、並に平手造酒の事
笹川方の勢力富五郎と上州友太郎の組は、陸地から攻めてくると思われる松岸の半次を待ち伏せする役目だったが、飯岡方二番船の成田の甚蔵・神楽獅子大五郎が繁蔵宅へ向かうのを見ると、勢力はじっとしていられずに飛び出していった。勢力と神楽獅子とはいつか果し合いすべしとお互いが思っていた間柄。双方丸太を持って畑の中に対峙し一騎打ちとなった。
一方、尼寺で療養していた平手造酒は、まわりが止めるのを聞かずに酒場でしこたま飲んでいた。寺に戻り、繁蔵から届いていた手紙を読んで驚いた。これは一大事と須加山へ駆けつける途中、飯岡方の松岸の半次を見つけた。造酒は福岡一文字宗則の一刀を抜いて半次に斬りかかった。
ところでこの平手造酒は神田お玉ケ池で北辰一刀流の道場を構える千葉周作の門弟であった。剣の腕前は達人だが酒癖が悪かった。ある日、酔っぱらって小塚原の処刑場を通りかかった際に、番人を脅して死体を出させ、試し斬りをした。斬り落とした片腕を懐に入れて遊女屋の前を歩いていると店の若い衆が平手を呼び止めた。花魁が店に引き入れようと平手の腕を強くひっぱるとその腕が抜け花魁は卒倒した。

第十五席 造酒団左衛門方へ出稽古に赴く事、並に造酒師匠に勘当される事
新町に居を構える団左衛門の親子は剣術を習いたいが、廓町にあるという理由で教えに来てくれる先生がいない。平手も団左衛門の遣いの者から剣術の指南を頼まれるが一度は断る。だがこの遣いの者に小塚原での悪戯を目撃されていたことを知り、口止めするためにも引き受けることとした。団左衛門の屋敷では酒は飲み放題、金は貰い放題、着物は着せてもらい放題で平手は足繁く出稽古に通うようになる。最近の平手の様子がおかしいと千葉周作は不審に思う。ある日、西新井大師の参詣の帰り、周作は偶然団左衛門屋敷で稽古をつけている平手を目撃する。即日、周作は道場で平手に勘当を言い渡す。ばれてしまっては先生のご立腹はごもっともと平手は道場を去ろうし、日頃から平手に反感をもっていた道場の連中は平手を笑った。平手は、お前らに嘲り笑われる筋合いはない、笑った者は出てきて尋常に勝負しろ、とすごんだ。

第十六席 平手造酒奮闘する事、並に造酒最後の事
もちろん平手の相手をする者などいない。平手は団左衛門から貰い受けた福岡一文字宗則で千葉道場の柱を切り落として去っていった。周作はあまりにも見事なその技を見て勘当してしまったことを嘆いた。平手ははじめは周作の弟子がいるという飯岡に行くつもりだったが、途中櫻井の茶屋旅籠に泊まったのが縁で繁蔵一家に世話になることとなった。
それから六年、天保十三年九月十三日、平手造酒は櫻井の尼寺を飛び出し、笹川を攻めようとする風窓の半次の一味を見つけて斬りかかった。飯岡の一味が次々と平手に斬り倒されていることが助五郎に伝わった。助五郎は白井田権蔵ら四人の用心棒に平手の相手を頼んだが、四人とも笹川河岸であっけなく平手一人にやられてしまった。成田の甚蔵や三浦屋孫次郎ら飯岡一家の十二人は命を捨てる覚悟で平手に襲いかかった。平手は何人かを返り討ちにするが、平手の刀が折れてしまい、槍を突かれて遂に平手は絶命した。
一方、勢力富五郎と神楽獅子大五郎はお互い丸太を振り回して一騎打ちをしている。勢力の丸太が折れると、神楽獅子も丸太を放り捨て、二人は素手で組み合って闘った。

第十七席 笹川繁蔵助五郎を追い詰める事、並に笹川一家国を売る事
勢力と神楽獅子は組み合っているうちに川辺に落ちた。そこで勢力が大きな石を神楽獅子の額にたたきつけて勝負があった。
繁蔵の家の前では笹川一家と飯岡一家の喧嘩が長時間続きどちらも疲弊している。そこに役人がやってきて喧嘩を止めた。飯岡一家は船で退却し、風窓の半次の家で体を休めた。繁蔵と勢力らは決着をつけようと半次の家へ向かうが、それに気づいた助五郎は半次の家から逃げた。
名主の平左衛門が役所に何か申し出たらしく、須加山では大勢の役人が繁蔵らを召し捕ろうと待ち受けていた。それを知った繁蔵らは家には戻らず、兄弟分の倉田屋文吉の家に行った。笹川一家は全国に散り散りとなって旅することとなった。
翌年二月、明石で養父の流鏑仁蔵の法事を済ませた繁蔵は須加山に戻ってきた。四月になりその噂を耳にした助五郎は乾分の久太に様子を見にいかせた。

第十八席 繁蔵飯岡方へ踏込む事、並に繁蔵成田の甚蔵他二人を懲らす事
久太は堂々と繁蔵の家の表玄関を訪ねればよいものの、格子窓から中を覗いていたのでそれに気づいた繁蔵の女房のお由は久太を罵倒した。騒ぎを聞きつけて番頭らがやって来たので久太は逃げた。
次の夜の深夜二時。繁蔵は刀を携え一人で助五郎の家に乗り込んだ。助五郎はいなかったが、くだらない詮索をせず堂々と果状を持ってこいと言い捨てて帰っていった。
そのことを聞いた助五郎の右腕の成田の甚蔵と乾分の地曳の寅松、柴山の大蔵の三人は怒って家を飛び出し繁蔵を追いかけていった。
助五郎が家に帰ってきて事の次第を聞いた。本当は繁蔵が戻ってきたら仲直りをしようという算段で久太を向かわせたのだが逆効果になってしまったと嘆いた。
甚蔵ら三人は繁蔵に追いついたが、三人とも繁蔵にあしらわれて肥溜や小便桶に落ちてしまった。

第十九席 成田の甚蔵勘当さるる事、並に甚蔵繁蔵を討取る事
助五郎は一家の跡を継ぐべき男が思慮の浅い行動をしたということで成田の甚蔵に勘当を言い渡す。甚蔵は土産を持って帰ったのなら勘当を解いてほしいと懇願し一家を出る。甚蔵は繁蔵を討取ってその首を持って一家に戻るつもりである。甚蔵の親友の三浦屋孫次郎は助太刀を申し出る。二人は、繁蔵と仲が悪い須加山村の名主の半左衛門に協力を求め、しばらく半左衛門の家に身を隠すこととなった。
繁蔵は乾分とともに大山を参詣して江の島、鎌倉を見学して笹川に戻ってきた。繁蔵は乾分を先に帰して熊谷範次の家で呑んでいる。そのことを知った甚蔵と孫次郎は、帰り道を待ち伏せ、繁蔵を殺害した。繁蔵の首を落とし、胴体は地蔵を巻き付けて大利根川に投げ入れた。
繁蔵の帰りが遅いので笹川一家の乾分が探しにゆくと、繁蔵の腕や草履が夥しい血とともにみつかった。江戸にいた清滝の佐吉や奥州にいた勢力富五郎、夏目の新介はこのことを手紙で知り須加山に戻ることとした。

第二十席 勢力富五郎上総へ戻る事、並に猿(ましら)の伝次の事
清滝の佐吉ら笹川の身内は集まっていたが、奥州にいる勢力は病気のためなかなか戻ってこない。佐吉は勢力抜きで仕返しに行こうと言うが誰も従う者はいない。繁蔵の先代の仁蔵の頃から一家にいた古参の乾分衆は新参者の佐吉に指図されるのが気に食わない。佐吉は俺だけで親分の仇を討つと言い捨て清滝村に帰っていった。
やがて勢力富五郎が笹川に戻ってきた。だが佐吉はそれを知っても勢力のもとへ挨拶にゆかない。江戸で佐吉の乾分になった猿(ましら)の伝次という美男は、勢力は繁蔵の兄弟分だから佐吉にとって叔父にあたりこちらから挨拶にゆくのが道理だ、と佐吉に意見する。佐吉や佐吉の乾分の勘次、勘六は怒ってこれをきかない。伝次は単身勢力のもとに赴き、佐吉に成り代わって挨拶をした。その男っぷりの良さは勢力の一家で評判となった。伝次が佐吉の家に戻ると、飯岡へ偵察に行っていた勘次と勘六が戻ってきて、先方は油断しているから今夜ゆけば皆殺しにできると報告し、佐吉は斬り込みを決める。だが伝次は勘次・勘六の二人は飯岡方に通じているのではないかと疑っていた。

第二十一席 飯岡へ二度目の斬込みをかける事、並に勢力富五郎助五郎を追詰める事
伝次は佐吉には内緒で、弟分の長次に命じて勢力のもとに手紙を届けさせた。手紙には、佐吉の手助けをするのではなく繁蔵親分の仇を討つと思って加勢してほしいと書いてある。これを読んだ勢力らはもっともだと感心し支度を始める。
天保十三年十月十七日、佐吉の一味は総勢五十二人で清滝を出発し飯岡へ向かった。だが、途中の広い空地では飯岡一家が待ち伏せしていて、佐吉の一味が近づくと火を放った。奇襲を受け、三方を敵に囲まれ絶体絶命になった佐吉を猿の伝次が救った。もとは旗本の三男で貞宗の名刀を操る伝次はめっぽう強く飯岡一家の者を次々倒す。佐吉が助五郎を狙うと飯岡の用心棒鰐の甚助が立ち現れた。佐吉は甚助に肩先を斬られたが、また伝次に救われた。鰐の甚助と猿の伝次との一騎打ちになり伝次が勝った。しかし小勢の佐吉の一味は大勢なだれ込んできた飯岡一家に囲まれてしまった。全滅かと思われたとき、勢力富五郎の一隊七十五人が乗り込んできた。勢力はただならぬ強さで飯岡一家の強者を次々と倒す。勢力に追われた助五郎は船に飛び乗って逃げた。

第二十二席 伝次清滝に勘当さるる事、並に佐吉捕吏(ほり)に囲まるる事
助五郎を取り逃がした勢力は須加山に戻った。猿の伝次は怪我を負った佐吉を連れて清滝に戻った。伝次は一人で勢力富五郎を訪ね喧嘩場で助けてもらった礼を言う。
佐吉は喧嘩場で勢力からの加勢があったのは伝次の計らいによるものだったことを知るが、伝次が勢力にへつらっているのが気にいらない。遂に口論となり佐吉と伝次は喧嘩別れする。勘次、勘六以外の乾分は皆伝次に付いてしまい、佐吉の一家はたった三人になってしまった。伝次に付いた者のうち、伝次の弟分の長次は堅気になるため江戸に行き、佐吉の乾分だった者は勢力の乾分となり、猿の伝次はどこかに旅に出た。勢力は伝次を引き留めて仲間にしたかったが気付いた時には伝次はいなくなっていてとても悔しがった。
佐吉の家に突然目明しがやってきて佐吉を捕らえようとする。佐吉は勘六が間者だったことに気付き、伝次の意見に耳を貸さなかったことを後悔した。

第二十三席 佐吉お由忠吉を殺害する事、並に佐吉処刑さるる事
佐吉は目明しから逃げ切ると江戸へ身を潜めた。三年後の弘化二年。佐吉は麻布市兵衛町の煙草屋に繁蔵の妻のお由を見かける。どういうことかと下総に探りにゆくと、お由は繁蔵の乾分の羽計の勇吉の弟の忠吉と良い仲になって、十一屋を売りとばした金で二人で行方をくらましたことがわかった。繁蔵親分に申し訳ないと怒った佐吉は煙草屋に忍び込みお由と忠吉を殺害して金を奪った。この金で派手に博打をうっていたことから佐吉の素性が割れ、佐吉は役人に捕らえられて鈴ヶ森で獄門となった。
話は戻って天保十三年。飯岡助五郎は前回の喧嘩の後、銚子の陣屋に身を移したため勢力の一家は手も足もでなかった。勢力は、繁蔵を殺害した成田の甚蔵が柴山の観音祭りで盆を開くことを知り甚蔵を討つことにした。勢力らは祭りに忍び込み賭場に斬り込んだが、偶然甚蔵はその場を離れていた。勢力は柴山の大蔵と地曳の寅松を斬り倒して引き揚げた。成田の甚蔵は一人で成田山新勝寺へ逃げて寺に匿ってもらった。

第二十四席 助五郎銚子の陣屋に隠るる事、並に富五郎鍋掛ヶ原にて危難の事
八州廻りの役人が銚子陣屋の役人と協力して勢力を捕らえようとしていることが勢力の耳にはいった。勢力は女房子供を義父の善兵衛に託し離縁をした上で萬歳村の家を去った。役人は追い探すが勢力は別の土地へ逃げた。
天保十五年二月の始めの嵐の日、勢力富五郎、夏目の新助ら十八名は助五郎を討とうと銚子の陣屋に斬り込んだが、待ち構えていた役人に返り討ちに会い、生き残ったのは勢力、新助、友太郎、忠吉の四名だけであった。勢力と新助と忠吉は、助五郎が銚子の陣屋から出てくるまで奥州で待機することにした。三人は旅商人に成り済まして北へ向かったが、大田原鍋掛ヶ原の旅籠で滞在しているところを役人に見つかってしまう。役人は人数をそろえて旅籠に乗り込んだ。

第二十五席 猿の伝次富五郎を救う事、並に富五郎奥州路へ入込む事
旅籠の中で役人を返り討ちにした三人は往来へ逃れるが、外にも大勢の役人が待ち構えていた。上州友太郎と夏目の新助は斬り殺され、勢力も風前の灯となった。そこに猿の伝次が現れ、何十人もいる役人を次々と斬り倒す。その隙に勢力はその場から逃げることができた。
奥州路の山道で勢力は悪人に殺されかけている百姓の伝兵衛を救う。しかし伝兵衛の家で寝ていたところを役人に捕らえられ代官所に連行される。勢力の身柄は下総に送られることとなった。八州廻りの手下の永井五郎三郎が勢力を駕籠に乗せ代官所を出発した。ところが駕籠は下総ではなく奥州に向かっている。実は永井五郎三郎というのは偽役人でその正体は大盗賊天狗小僧霧太郎だった。

第二十六席 太田屋新兵衛伊勢山田に於て危難の事、並に倅(せがれ)庄五郎安藤伊織に従って剣術を学ぶ事
ここからしばらく天狗小僧霧太郎の話となる。
阿波国徳島本町通りに太田屋新兵衛という豪商がいた。新兵衛が伊勢参詣の折、大勢の雲助との揉め事が起り、命が危ないところを安藤伊織という侍に助けられた。新兵衛は伊織を阿波の太田屋に連れ帰る。伊織は新兵衛の息子庄五郎に神影流の剣術を教えた。庄五郎は十二歳から十五歳まで熱心に剣術を勉強し確かな腕前となった。ある晩太田屋に役人三十人がやってきた。役人が言うには、安藤伊織は関東で大罪を犯した盗賊とのことである。

第二十七席 茨木十太夫悪事露見して召捕らるる事、並に太田屋倅庄五郎入牢となる事
安藤伊織の正体は茨木十太夫という常陸土浦の浪人で、江戸で罪を犯した強盗であった。十太夫は庄五郎に神影流の腕前は自分のように悪事には使わないくれと言い残して自害した。盗賊を五年間匿っていたという嫌疑で新兵衛は捕まりついに牢死した。新兵衛の後妻およしは以前から店の若者の和助と密通しており、新兵衛が死ぬと庄五郎の存在が邪魔になった。およしは庄五郎を盗賊だと吹聴し、世間でもそのような噂がたった。ある晩庄五郎は、およしと和助が庄五郎を始末して店の金を持ち出して江戸に高飛びしようと相談しているのを聞きつける。庄五郎は継母のおよしと和助を斬り殺して自首するが、およしと和助の姦通の証拠がなく庄五郎は牢に入れられる。三年たったある日、牢名主の勘十郎と源右衛門が牢破りを決起する。

第二十八席 太田屋の倅庄五郎牢破りの事、並に庄五郎賊の群に入る事
脱獄に成功した庄五郎、勘十郎、源右衛門ら十一人は日野屋に押し入る。日野屋の倅はかつて庄五郎を盗賊だと喧伝し、日野屋は太田屋の商売を横取りした強欲非道な金満家だと庄五郎は恨んでいた。勘十郎らは日野屋から八千五百両もの金を奪うと、持ちきれない分は街中の辻々に捨てながら逃げた。
庄五郎は勘十郎、源右衛門とともに盗賊となり諸国を転々とする。庄五郎は京都で、飯泉七郎右衛門という浪人から剣術と伊賀忍術を学んだ。力をつけた庄五郎は勘十郎をはじめ二三十人の乾分をもつようになり、名を木隠(こがくれ)の霧太郎と変えた。霧太郎の一味は甲州荒澤村の金満家佐野文蔵を狙った。

第二十九席 小天狗霧太郎偽役人となって大金を奪う事、並に天目山に於て乾分に分れて江戸で出府の事
甲州荒澤村の佐野文蔵の女房のお花の母親が大病という知らせが届いた。お花は駕籠に乗って実家に向かったが関所の通行手形の発行には日数がかかるので抜け道を使った。
後日、名主の要右衛門のところに江戸奉行所から御用状が届いた。江戸から役人もきて、関所の裏道を通った嫌疑で取り調べるということで、文蔵の店の者は名主の要右衛門に引き渡され、店の財産は取り押さえられた。要右衛門は文蔵らを代官の元に送り届けるが、代官は覚えがないという。役人に化けていた霧太郎らは佐野文蔵の家から千五百両を奪い山分けした。
霧太郎と源右衛門は堅気となり江戸で商売を始め成功していた。勘十郎は放蕩して金を使い果たしてしまい、霧太郎と源右衛門の店をたびたび訪ねては旧悪をばらすと強請って金を無心する。霧太郎と源右衛門は店をたたんで江戸を去ることにするが、霧太郎はその前に勘十郎を片付けようと考えた。

第三十席 霧太郎柳川無宿の勘十郎を斬って江戸へ立退く事、並に国定忠治富五郎を金毘羅山へ尋ぬる事
勘十郎はまた霧太郎のところへ金をせびりに行ったが今度は喧嘩となった。勘十郎は訴人をし、大勢の役人が霧太郎の店にやってきた。霧太郎は往来にでて役人に刃向かうと、勘十郎をみつけて叩き斬った。そのまま霧太郎は逃げ行方知れずとなった。
話は戻って、霧太郎に助けられた勢力富五郎は奥州仙台の鈴木忠吉親分のもとへ落ち延びた。助五郎が銚子陣屋から出てくるのを三年間待ったが我慢しきれず、忠吉親分に書置きを残して下総へ向かった。忠吉のもとに国定忠治がやってきて助五郎の一件を聞いた。忠吉に恩がある忠治は、勢力を奥州に連れ戻すと言って乾分の頑鉄、定八と共に下総へ旅立った。忠治は助五郎の首を討とうと助五郎の家を訪ねたが、助五郎は銚子陣屋に居るため留守だった。忠治は萬歳村の名主で勢力の義父である善兵衛を訪ね、勢力の居所を訊いた。勢力は乾分の鶴吉、亀吉と共に金毘羅山のてっぺんに小屋を建てて潜んでいた。忠治は金毘羅山に登って勢力に会い、時機が来るまで奥州に戻るよう説得するが勢力は応じず、忠治は上州へ帰った。
ある朝八州廻りの役人と銚子の役人が合同で金毘羅山に登ってきた。勢力らは鉄砲で応戦する。銚子の陣屋から頼まれて来た笠間浪人の斎藤新十郎という弓の達人が弓を放ちながら近づいてゆくと、勢力の方からの鉄砲の音がやんだ。頂上に来てみると、勢力・鶴吉・亀吉の三人は死んでいた。勢力の脇腹には矢が刺さっており、もはやこれまでと見た勢力は乾分二人の首を落として息絶えたようである。新十郎は勢力の見事な最後に感じ入り、三人の死体を引き取って善兵衛に届け三百両を渡した。猿の伝次も下総まで弔いにやってきた。新十郎は剃髪して坊主となり勢力の菩提を弔った。後に金毘羅山の麓に勢力大明神というお堂ができて土地の者が崇めた。助五郎は勢力の死を知って銚子の陣屋を出て飯岡に戻り天寿をまっとうした。

以上全三十席の内容をご紹介しました。
助五郎も繁蔵ももともと力士であったという設定にはなっていません。
全体として実に連綿と組み立てられた構成で、飯岡への斬り込み(名垂の岩松の件)と鹿島の棒祭りの話が絡み合っているところが興味深いです。
後半は猿(ましら)の伝次や木隠(こがくれ)の霧太郎といった現代ではきかない脇役の登場人物がヒーローとして描かれています。
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近世侠義伝 猿の伝次
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近世侠義伝 木隠霧太郎




■悟道軒圓玉の新聞連載 講談「天保水滸伝」 


明治から昭和初期に活躍した講釈師悟道軒圓玉の講談天保水滸伝が大正13年6月26日から9月12日まで、全79回にわたり読売新聞に掲載されました。
79席それぞれの内容を書くと煩雑ですので、数席ずつまとめてあらすじをご紹介いたします。タイトルは私が便宜的につけたものです。


第一席~第六席 飯岡助五郎
田沼主殿頭の浪人青木源内が相州三崎に居を構えていたとき、常陸の侠客井上伴太夫と武芸上の言い争いとなった。論破された伴太夫は夜中に忍び込んで源内を斬った。青木源内の息子、青木助五郎は親の仇をとるべく武芸に励む。井上伴太夫が下総か常陸の侠客のもとに忍んでいるという噂を聞いた助五郎は、土地の大親分のもとにいれば伴太夫を見つけられるのではないかと思い銚子の五郎蔵を訪ね、五郎蔵は助五郎を乾分にする。助五郎は五郎蔵の元で剣術の修行に励み神影流の極意を得る。五郎蔵は大病を患って死に、その跡目は助五郎が継いだ。
銚子観音前の料理屋で助五郎は伴太夫を見つける。助五郎は伴太夫との決闘に勝ち親の仇を討った。助五郎は銚子陣屋から十手捕縄を預かる身分にもなった。

第七席~第九席 笹川繁蔵
紀伊家の家臣の岩瀬重右衛門は酒の上で間違いを犯し浪人となって下総笹川に流れた。そこで土地の提灯屋の娘と結婚し、福松という子供ができた。子供ながら気性が荒い福松に、土地の親分流鏑(やぶさめ)の仁蔵は喧嘩をしてもよいが母親を大切にしろと意見する。金を集めれば母親が喜ぶだろうと思い福松は賭場荒らしをするようになった。
流鏑の仁蔵は賭場を福松に譲って隠居した。福松は名を繁蔵と改め、十一屋という店を開いた。

第九席~第十一席 勢力富五郎
勢力富五郎は江戸角力で十両をはる力士。金貸屋の妾と好い仲になったことが元となって暴力沙汰を起こし江戸を去ることになった。故郷の下総に戻った勢力は繁蔵の乾分となり屈指の兄株となった。

第十一席~第十八席 清滝佐吉
清滝の酒造家茂右衛門の奉公人佐吉が茂右衛門の縁者櫻井村の与兵衛の娘おつねと駆け落ちした。茂右衛門と与兵衛は二人の行方を捜すため銚子の陣屋に通じている飯岡助五郎に協力を頼んだ。助五郎は、いずれ二人を夫婦にすることを条件に引き受け、乾分に探索させた。佐吉とおつねは成田不動で助五郎の乾分に捕らえられた。助五郎は二人を与兵衛に引き渡したが、後日与兵衛から結婚の話が無かったことになるよう佐吉を説得してほしいと頼まれる。助五郎は佐吉にいずれ夫婦にしてやると口約束して金を渡し旅に出す。旅先で遊んでいるうちにおつねのことは忘れるだろうと考えてのことだったが、一か月して帰ってきた佐吉は心変わりしていなかった。縁談が一向に進まないので、佐吉は足繁く助五郎の元に通うが、助五郎はそれがだんだん煩わしくなって、この話はまとまらないから今までの話は夢とあきらめろと佐吉に諭した。このままでは引き下がれない佐吉は繁蔵に相談する。繁蔵はおつねを連れてきたら親元にかけあって夫婦にしてやると約束する。佐吉は江戸の親類のもとにいるというおつねをようやく探し出し、繁蔵は与兵衛を説き伏せて佐吉とおつねは夫婦になった。これが縁で佐吉は繁蔵の乾分になった。

第十八席~第二十席 平手造酒
江戸神田お玉が池の千葉周作道場の門人で剣術の達人の平手造酒は、車善七という非人頭と懇意になった廉で破門となった。平手は関東で有名な侠客飯岡助五郎を頼ることとした。旅の途中、市川の小料理屋で笹川一家の夏目の新助に出会う。二足の草鞋で強大な力を持つ飯岡助五郎よりも、力が弱くても生一本の博打打ちの方がよいと平手は笹川一家の食客になることを決める。
平手は繁蔵を気に入り一家の若い者に剣術を教える。しかし平手は酒癖がよくなかった。

第二十席~第二十五席 鹿島の棒祭り
翌年五月鹿島神宮で鹿島の棒祭りが行われた。繁蔵は体調が悪く代わりに勢力が出向くことになった。繁蔵は酒癖の悪い平手が祭りに行くことを止めるが、平手は三日間の禁酒を誓う。
祭礼では勢力の他、飯岡助五郎や風窓半次など近郊の顔役がそろって賭場を開いている。祭りの三日の間、賭博は公許。役人は「賽銭勘定場」と高札がかかっている賭場を見回っては、賽銭のうちいくらかをお初穂として俺に差し出せと金をせびっている。
平手は最初の二日は酒を我慢したが三日目の昼になって顔色が悪くなってきた。これを見た勢力が甘酒代として平手に金を渡した。結局平手は料理屋で酒をたくさん飲んでしまう。そこに飯岡一家の食客で賭場に出張してきている高島郷太夫、志麻一角、鷹取運平がやってきた。この三人は神蔭流の達人秋山要助の弟子である。三人がはらった塵が平手の杯洗に入ったことから揉め事が起った。四人はこの勝負で落命しても一切構わないという証書を交わして表に出た。実力差は歴然としていて、平手は三人の耳や鼻は削いだが命は助けてやった。港の市兵衛、東金の仁兵衛という二人の侠客が仲裁して喧嘩が終わった。
市兵衛と仁兵衛は事を荒立てないよう飯岡助五郎に勧告する。助五郎は祭礼に来ている商人に迷惑をかけたくないと穏便におさめ、食客の三人は旅費を持たせて放逐した。

第二十五席~第二十七席  笹川の花会
笹川繁蔵は末世に名を残そうと、小見川の宿禰神社を修繕し、宿禰の碑を笹川に建てることとした。そのために大金が必要なので花会を催すこととし、繁蔵は花会の回状を諸方の侠客に送った。助五郎は、花会の名目は立派だが内実は繁蔵の金集めだとして自らは出向かず、洲の崎政吉を名代として遣わすこととした。助五郎が用意した義理(祝い金)は、助五郎が五両、乾分が三両あわせてたった八両と少なかった。
政吉は一家の三人を連れて花会が行われる繁蔵の家に出向き、助五郎は陣屋の要件があって来ることができないと告げて、義理を差し出した。それを見た繁蔵はその金を帳場に渡さず自らの懐に入れた。政吉が二階にあがると各親分の義理の金額が貼りだしてあり、どれも三十両から五十両と大金である。政吉はここに八両と書かれたビラを貼りだされたら助五郎親分の恥になると思い逃げたくなった。ところが貼りだされたビラは助五郎五十両、若い者三十両と合わせて八十両であった。政吉は帳場に降りて繁蔵に感謝を述べた。

第二十七席~第三十五席 神楽獅子大五郎の騒動
政吉が花会に出席している頃、同行の乾分は素人角力に参加したが負けて帰ってきた。繁蔵のもとで行われている角力で乾分が負けたことを知った助五郎は翌日、江戸の角力で二段目までいった玄人である神楽獅子大五郎を連れて出かけた。
笹川一家の清滝佐吉と神楽獅子との取り組みとなった。これに神楽獅子は勝ち、その後も神楽獅子に敵う者はいなかった。繁蔵の乾分にせかされた勢力富五郎が土俵にあがることなった。神楽獅子は勢力との取り組みでみっともない負け方をした。
後日、繁蔵の乾分の西尾の与一、花形の宇吉、水田の六蔵が飯岡の八幡宮の祭礼の見物をしたついでに飯岡の料理屋に上がって芸者を呼んで遊んだ。六蔵らは先日神楽獅子が勢力に角力で負けた様子をからかって歌い、それを階下にいた神楽獅子がききつけたことから喧嘩になった。表を通りかかった洲の崎政吉がこれを仲裁した。政吉は医者を呼んで三人を手当して金を渡した。政吉はこの喧嘩のことで繁蔵に詫びを入れに行こうと思ったが助五郎が放っておけというので風窓の半次に繁蔵へのとりなしを依頼した。半次は繁蔵に会い政吉に代わって詫びを入れた。
半次は政吉に、このままにしておくと騒動になりそうだから助五郎が直接笹川方と和解した方がよいと忠告した。

第三十五席~第三十九席 名垂の岩松の捕縛
九月八日、風窓の半次のとりなしにより松岸の料理屋酔月楼にて飯岡一家と笹川一家の手打ち式が行われた。双方二百人も集まる式において助五郎と繁蔵は盃を交わして兄弟分となった。
手打ち式に参加していた助五郎の乾分で甲州生まれの元吉が、笹川方の出席者に雨傘勘次を見つけた。雨傘勘次はその昔、身延山下で上州の絹商人を殺して三百両を奪った泥棒であるが、今は名垂の岩松と名をかえて繁蔵の乾分となり念仏を唱えてばかりいる。
元吉が助五郎に報告すると、助五郎は岩松こと勘次を捕縛すれば、悪党を匿った廉で繁蔵もお縄にかかるだろうと考えた。
ある日、繁蔵は目明しの岸島屋権兵衛に呼び出された。役人が待っているというので金の入った菓子折りを用意して訪ねた。権兵衛の家では名垂の岩松が籠の中に捕らえられていて、関八州の役人は岩松が乾分になった経緯を繁蔵に問いただした。役人は繁蔵に岩松の本名は雨傘勘次で人殺しの兇状があることを伝え、本来繁蔵も江戸に送るべきところ、日ごろの行いがよいので目こぼしすると伝えた。籠の中の岩松は笹川一家から人殺しの悪党を出したことを繁蔵に詫びた。繁蔵はその帰りに寄った料理屋で、岩松が捕まったのは助五郎の密告によるものだということを小見川の丑松から聞く。繁蔵は助五郎の策略を卑怯だと怒りこの恨みを晴らしてやろうと念じた。

第三十九席~第四十七席 飯岡への斬り込み
繁蔵は喧嘩の種を蒔こうと助五郎の乾分の舎利の源次の賭場を荒らす。それに対抗して洲の崎政吉が笹川の縄張り内に賭場を開く。その賭場を荒らそうと小南の庄助ら笹川一家の者が出向くが返り討ちにあう。
繁蔵は、勢力富五郎、夏目の新助、清滝の佐吉ら主だった乾分二十余人と平手造酒を集めて相談し、飯岡方に喧嘩を持ち込もうと意見がまとまった。
ある晩、繁蔵らは助五郎の妾の家に斬り込んだ。平手は奥州浪人川口伴助ら飯岡の用心棒を倒す。騒ぎをききつけた成田の甚蔵、荒町の勘太、下緒伊之助ら助五郎の乾分二三十人も喧嘩に加わった。
庭では繁蔵と助五郎が一騎打ちをしていたが、助五郎乾分の松崎の庄蔵が繁蔵を背後から切りつけようとした隙に、助五郎は塀を乗り越えて逃げた。この喧嘩で笹川方に怪我人は出たが死人はでなかった。飯岡方は十三人が怪我をして七人が即死した。
繁蔵は助五郎が仕返しにくるだろうと用心していたがその気配がない。やがて平手造酒は酒の飲みすぎで喀血し、桜井の幸福寺で養生することとなった。

第四十七席~第五十三席 新生の留吉・留次郎
かつては銚子の五郎蔵の乾分で助五郎とは兄弟分だった新生の留吉は足を洗って小間物屋を開き店は繁盛していた。留吉の息子の留次郎は親孝行で道楽もせず学問ばかりしている青年だ。留次郎は留吉の名代として銚子の参会に出席し、その後仲間に連れられて潮来の遊女屋に入った。留次郎は雛鶴という遊女と相思相愛となり、雛鶴のもとに通うようになる。雛鶴の客に飯岡助五郎の乾分の土鼠(もぐら)の又蔵がいた。ある日、雛鶴は又蔵の相手をして又蔵の懐から金を取ったうえで散財させた。その金を留次郎に渡しているのが又蔵にみつかり騒ぎとなった。勢力富五郎と清滝佐吉がいる座敷に留次郎と雛鶴が逃げてきた。訳を聞いた勢力は、雛鶴と又蔵との間に入って和解させた。勢力は留次郎と雛鶴の中を割いたら心中するだろうと思い、雛鶴を身受けして留次郎と一緒にさせた。
笹川一家が飯岡一家に斬り込んだ後、助五郎は笹川へ乗り込むことを決め、松岸の半次のもとに乾分を集めていた。このことを知った留吉留次郎の親子は、ここは恩に報いるところと勢力と繁蔵のもとにこのことを知らせに行った。

第五十三席~第六十席 洲の崎政吉
館山領洲の崎の村に磯右衛門という顔役とその娘のお定がいた。磯右衛門の後妻おしんはお定をいじめ、お定は磯右衛門の弟の藤次のもとに逃げた。柿の栽培を生業としていた磯右衛門はある日柿泥棒を棹で叩いて木から落とした。柿泥棒は当たり所が悪く死んでしまったがそれは名主の倅の与之助だった。磯右衛門は自主しようとしたが、藤次の提案で与之助の屍骸を棄てることとし、柿の木の下に埋めた。その後、おしんは利助という男とよい仲になって金をさらって逃げた。三年後、おしんはたびたび磯右衛門の元にやってきて、与之助の件をばらすと脅して金をせびりとるようになった。我慢できなくなった磯右衛門がおしんを斬りつけようと追いかけているところを役人につかまった。おしんは役人に、磯右衛門と藤次が与之助を柿の木の下に埋めたと証言するが、藤次はそれをきっぱり否認した。役人が柿の木を掘ると人骨ではなく犬の骨がでてきた。おしんと利助は悪巧みして嘘をついたと役人に捕らえられ、入墨のうえ追放となった。藤次は磯右衛門に、お定の入れ知恵によって与之助の代わりに犬の死骸を埋めたことを伝えた。お定は父親の磯右衛門の元に戻った。
洲の崎村の政右衛門という漁師がお定の賢さに惚れた。政右衛門の倅の政吉とお定は結婚し、夫婦仲睦まじく市太郎という息子もできた。
政吉は飯岡助五郎に見いだされて乾分になった。力が強く道理がわかり金離れも綺麗で、やがて助五郎の右腕となった。
笹川への出入り前に飯岡一家が松岸に集まっている際、政吉は家に帰ってきた。政吉はお定に、今夜親分と一緒に笹川に斬り込むこととなった、俺の命はないだろう、俺が仏になったと聞いたなら市太郎を連れてどこかに再縁しろ、市太郎は堅気にしてくれ、と伝えた。お定は政吉に、どうか人に笑われないように死んでおくれ、いずれわたしも後から行くと告げた。

第六十一席~第六十六席 笹川の決闘
八月二十日、松岸の支度場を出た飯岡一家は船に乗り込んだ。一番船には荒町の勘太はじめ二十余名、二番船には洲の崎政吉はじめ二十余名、三番船は飯岡助五郎はじめ三十余名、その他の者を合わせて八十有余名が利根川を上った。
繁蔵の元には新生の留吉留次郎の親子から今夜飯岡方が攻めてくるとの手紙が届いた。乾分は散らばっていて手近には二十人しかいなかった。勢力は鉄砲を使って飯岡方を動揺させる作戦を立てた。繁蔵、勢力富五郎、夏目の新助らは飯岡方の到着を待ち構えた。
笹川に上陸した飯岡方は河岸で待ち受けている笹川方を見て、出入りがばれていたことに気付いたが敵が小勢であると見とって斬り込んでいった。笹川方は逃げたがこれは策略である。追いかける飯岡方の背後から藪の中に潜んでいた夏目の新助らが鉄砲を放った。鉄砲により飯岡方は三四人倒れた。洲の崎の政吉は笹川一味を数人斬って進むと勢力富五郎が樫の棒を持って応戦した。そこを荒町の勘太が切りかかる。繁蔵も必死になって斬り合う。
桜井村の幸福寺では酒のために体をこわした平手が療養していた。八月二十日の夜は医者から止められていた酒を寺で飲んでいた。笹川の若い者が幸福寺に行き、飯岡方の出入りを平手に伝えた。平手は笹川に駆け付け、平手を見た笹川一家は元気になった。平手造酒の前に洲の崎政吉が進み出て決闘となった。平手は洲の崎政吉と荒町の勘太の二名を同時に切り倒した。その技に驚いた飯岡方は崩れて笹川河岸まで下がったが、このとき松岸の半次ら三十人を乗せた船が笹川に到着した。飯岡方は半次らの到着に元気づいて再び攻め入った。だが飯岡方はだんだん不利になりついに退却した。
笹川方は三人の死者があった。飯岡方の死体は洲の崎政吉を始め十三あった。笹川方はこれを棺に納め、翌日松岸の半次のもとに届けた。
陣屋と通じている助五郎がこの後役人を笹川に差し向けると予想されたので、笹川一家はめいめいこの土地を離れることにした。繁蔵の持ち金が足りなかったので、勢力は女房おりきの父親で清滝村の名主善兵衛から二百両を借りた。繁蔵はこの金を一家の者に分配し、繁蔵は上方へ、勢力は仙台の信夫の常吉の元へ、清滝佐吉は伯父のいる江戸へ、平手は上州大前田栄五郎のもとへそれぞれ向かった。

第六十六席~第七十席 笹川繁蔵の最期
下総の神崎の友五郎という侠客が助五郎と繁蔵の仲を納めたいと申し出た。助五郎はお互い縄張りに手をかけないという条件で和解したいと頼み、友五郎は尽力した。その後繁蔵の身内の者は笹川に戻ってきた。友五郎は繁蔵に隠居を勧めたが、まだ助五郎はこちらを狙っているようだしの助五郎に恐れをなして隠居したと思われるのはいやだからと断った。友五郎はそれなら用心してなるべく外出しない方がよいと忠告した。
繁蔵は用心をして外出を控えていたが、名主宇右衛門の倅市太郎と豪農藤本嘉兵衛の娘が結婚することとなり、婚礼の日は宇右衛門の家を訪ね、そこでおおいに飲んだ。
その帰り道、繁蔵は飯岡一家の成田の甚蔵、花輪の弁吉、八木の音松、銚子の次郎その他二名に襲われて命を落とした。
魚売の万蔵が竹藪の中で血に染まって倒れている繁蔵をみつけて笹川一家に知らせた。笹川一家は諸方の侠客に知らせて繁蔵の本葬を行った。四十九日が終わり、勢力富五郎は、親分繁蔵を殺したのは飯岡の奴らに違いないと乾分を集めて斬り込みを決める。

第七十席~第七十三席 平手造酒の最期
八月六日の夜、勢力、平手造酒ら笹川一家の約十六人は繁蔵の仇を討つため飯岡に向かった。ところが助五郎の家の周りを四五十人が取り囲んでいる。どうも笹川方の斬り込みがばれていたらしい。
こちらの方が人数は少ないが、勢力や平手は退くことは考えず死ぬ覚悟で斬り込んだ。勢力、清滝佐吉、夏目の新助らは脇差が折れるまで戦ったが、飯岡方はますます人数が増えて勝つ見込みがない。平手の指示で笹川方は退却し、平手はそのしんがりにいた。
笹川の決闘で平手造酒に斬られた政吉の女房のお定は政吉の仇を討とうと喧嘩場に来ていた。お定は退却する平手造酒の背後から槍を突き出した。おさだの槍は平手の脇腹に刺さった。平手は槍を引いておさだの首を討ち落とした。平手は傷を負いながら待っている味方のもとに戻ったが、ついに勢力の腕の中で息をひきとった。平手は繁蔵の菩提寺に埋葬された。

第七十三席~大団円(第七十九席) 勢力富五郎の最期
飯岡での決闘の後、関八州の役人や銚子の陣屋から役人が次々と笹川一家の者を捕縛して江戸に送るようになった。笹川一家は身を隠した。勢力は、女房おりきの父である清滝村の名主善兵衛のもとに乾分の鏑木の栄助と隠れた。勢力は元乾分で今は小見川で鰻屋をやっている村吉こと村田屋吉五郎を呼び寄せ、村吉に自分の女房のおりきを娶ってほしいと頼み、善兵衛もこの話を承知した。
勢力を探す役人の警戒がなかなかゆるまず、勢力は隠れているのが見つかる前に行動しようと、ある夜飯岡に向かった。一人で助五郎の店にあがりこんだが、助五郎は留守であった。乾分に「助が帰ってきたら勢力はまだ生きているとそう云え」と言い残して帰ってきた。乾分の栄助もさすがにこの豪胆な行動には戦慄した。
芝居好きの勢力は桜井の町に芝居が来ていることを知り栄助を連れて顔を隠して観に行ったが、芝居の途中で八州廻りの役人が入ってきた。芝居が終わったら捕らえられると思い、芝居中に栄助が役人を背後から斬り、その隙に勢力は逃げた。その夜栄助も逃げのびて善兵衛の家に帰ってきた。栄助が沼に捨てた血染めの衣類が見つかって、役人は勢力がこの近くにいるに違いないと目をつけ、一軒一軒調べ始めた。勢力は善兵衛に別れを告げ、善兵衛は勢力に金と猟銃を渡した。勢力と栄助は夏目にある金刀毘羅山に身を隠した。
五日程経つとどうしてばれたか、八州廻りの役人中山誠一郎や飯岡助五郎の身内など三百人が山を取り巻いた。
勢力富五郎と鏑木栄助の食べ物が尽きた天保十四年十一月末、村吉こと吉五郎が裏山から登ってきて勢力に米を渡した。山を下りて助五郎をしとめる最後の機会を勢力は狙っていたが、吉五郎の話からそれができないとわかると、ここで死ぬ覚悟を決めた。
三日後、勢力はまだ齢十八の栄助の首を斬り落とした。勢力は鉄砲で自分の胸を撃って自害した。

以上全79席のあらすじです。
新聞には石井滴水の挿絵が添えられていていい味を出しています。
長講天保水滸伝によりも構成がすっきりして現代の講談に近づいている気がします。ただし笹川の決闘で平手造酒が命を落とさず、繁蔵殺害の仕返しとして乗り込んだ喧嘩で政吉の女房によって殺されているのは注目すべき点でここに悟道軒圓玉のオリジナリティーがあるのかもしれません。
また鹿島の棒祭りで、侍の払った埃が平手造酒の杯洗に入ってしまう場面では、平手は最初は落ち着いて酒を捨てて新たに酒を注文し、その後犬婆アの犬の賢さと侍の無礼さを比較するという描写になっており、現代版の短絡的な平手よりかっこいいなと思いました。



■三代目神田伯山のラジオ講談「天保水滸伝」


昭和初期はラジオで浪曲や講談は人気番組で、放送日にはその内容が新聞に掲載されることもありました。
八丁荒しの異名を取った三代目神田伯山は昭和4年2月12日から15日の4日間、ラジオで天保水滸伝の連続講談を語っています。その内容が読売新聞の朝刊に毎日掲載されています。かなり紙面を使って詳細に掲載されていることからこの番組の注目度が推し量れます。以下新聞に掲載された4話の内容を簡潔にご紹介します。

二月十二日 第一席 岩松の旧悪
天保十二年六月十五日、笹川繁蔵は十一屋の二階でなだれの岩松がここ二三日見えないことを気にかけていた。助五郎の妾の父親の岸島屋権蔵が繁蔵を訪ね、念仏の岩松が召し捕らえられたことを告げた。繁蔵がその罪過を訊くと、岩松はもとは雨傘勘次という甲州の長脇差で商人二人を斬って三百両の金を奪ったお尋ね者だと云う。役人の松村小三郎が呼んでいるというので繁蔵は子分の佐吉を連れて佐原の岸島屋に行った。繁蔵は袖の下として金の入った菓子折りを松村に渡して、お叱りを受けた後、籠の中に捕らえられている岩松に会った。岩松は涙を流して別れを惜しんだ。
その帰りに料亭で飲んでいると、蟒(うわばみ)の六蔵という男が大きな鼾をかいて寝ていた。六蔵は繁蔵に気付くと、今回岩松の旧悪が露見したのは、先日の松岸での手打ち式にいた文吉があれは盗賊だと助五郎に告げ口し、助五郎が岩松と繁蔵を役人に捕らえさせようと手をまわしたからだと告げた。怒り心頭に燃えた繁蔵は助五郎を斬って岩松の恨みを晴らそうと決心した。

二月十三日 第二席 変な侍が来た
やるせない気持ちで繁蔵は帰って来た。繁蔵は二階でしばらく考え込むと女房に草履を用意させた。これからどこへ行くのか子分にも女房にも伝えない。平手造酒が繁蔵に訳を聞いた。平手は江戸お玉が池の千葉周作の門弟で道場の八天狗と言われた逸材だが酒の失敗で破門になり今は繁蔵方の食客である。繁蔵は平手に今夜助五郎を斬りにゆくという本心を打ち明けた。それを盗み聞きしていた子分たちは我も我もと同行を願い出た。平手も行こうと申し出る。有名な剣客が博徒と斬り合いをしたら恥になるからと繁蔵は断ったが、平手の意思が強く平手も加わることとなった。繁蔵は平手や子分たちと飯岡に斬り込んだ。

二月十四日 第三席 留吉の恩返し
繁蔵の刀を助五郎の刀はガッチリ受けた。じりじりと助五郎が後ろに下がり背が雨戸についた際、助五郎は雨戸と一緒に庭に転げ落ちた。繁蔵は庭に飛び降り、助五郎を池のふちまで追い詰める。助五郎は池の中の弁天堂に飛び移った。繁蔵も飛んだが足を踏み外して池に落ちた。今度は助五郎が池にはまっている繁蔵に斬りかかる。それを見た勢力富五郎が投げた刀が助五郎をかすめた。富五郎に気付いた助五郎は塀を乗り越えて逃げた。喧嘩が終わり笹川一家は引き揚げた。笹川方はそのうち助五郎が斬り込んでくるだろうと警戒していたが、翌月が過ぎても来ないので、人の手配も緩んでいった。
昔銚子の五郎蔵の身内として男を売っていた留吉は今では堅気になって下総荒生村で質屋をしていた。風窓半次の子分の小吉が、質に入れた脇差を一文無しで受け取りに来たことから質屋の番頭ともめた。留吉が訳をきくと、子吉は今晩助五郎が繁蔵方へ夜討ちをかける助太刀のためだと答えた。留吉は子吉に脇差を返してやった。留吉の倅の富次郎は勢力富五郎に世話になったことがあるので、その恩返しとして留吉は駕籠を飛ばしてこのことを繁蔵に伝えに行った。

二月十五日 第四席 平手造酒の報恩
留吉から報告を受けた繁蔵は、子分にバラアミ(博徒の急場の身内集め)を命じた。勢力富五郎、清滝の佐吉、夏目の新助、四の宮の権太らが世間を騒がさないようにとひっそりと繁蔵のもとに集まった。子分九十名は、笹川河岸の藪と明神の森で鉄砲と竹槍を持って潜み飯岡勢を待ち構えた。飯岡方は風窓半次の家を出て利根川から笹川に向かった。一番船の大将獅子神楽の大五郎らは笹川河岸に着くと繁蔵宅を目指して駈けたが、笹川方の鉄砲に撃たれバタバタ倒れた。笹川方は続いて竹槍で攻撃する。二番船、三番船の飯岡方も上陸し、繁蔵方と決闘となる。漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい。
平手造酒は酒の飲みすぎで心臓を痛め吐血するようになり尼寺で養生していた。喧嘩を知った平手は笹川へ駆け付けた。平手の愛刀一文字の早業に助五郎方は崩れる。助五郎方の成田甚三、札の兵十、石の川の石松、三浦屋の孫次郎等が平手に立ち向かった。平手の刀が折れ、石に躓きよろめいた平手の脇腹を石松が竹槍で突き、平手は倒れた。
夜が明けても決着がつかないとみた助五郎と半次は引き揚げを命じた。しんがりの洲の崎の政五郎、政吉兄弟は笹川方を食い止めたが、清滝の佐吉と姉ヶ崎の伝次に斬られて死んだ。助五郎方は船で風窓の半次方へ退却した。繁蔵は平手造酒を探し、明神の森に深手を負ってあえいでいる平手を見つけた。

以上4席のあらすじでした。
おなじみ名垂の岩松捕縛から大利根河原の決闘まで。決闘の場面の「漸くあがった月光を浴びて入り乱れて切り結ぶ三百余刀の白刃は光を放って凄惨ながらも美しい」は美しい描写なのでそのまま転載しました。三代目神田伯山の美学が伝わってくるかのようです。

長講天保水滸伝では「洲の崎の政五郎」、圓玉の新聞講談では「洲の崎の政吉」、三代目伯山のラジオでは「洲の崎政五郎・政吉兄弟」となっているのが面白いです。

また注目すべきは、上記のどの平手造酒も胸の病にはかかっていないことです。酒の飲みすぎで具合が悪くなり寺に療養したことになっています。それではかっこわるいので現代の話では労咳を患っていたのことになっているのでしょう。平手造酒が労咳持ちなのは比較的新しい設定なのでした。どこからこの設定が生まれたのか興味があるところです。




■松廼家太琉「改良天保水滸伝飯岡助五郎」 明治33年


明治初期から天保水滸伝は語られていましたが、虚説が多いうえに飯岡側が悪役のように描かれていることに飯岡の人々には耐えがたいものがありました。
飯岡玉崎明神前にいた辰野万兵衛は講釈師の松廼家太琉(この講談本では「松の家太琉」と表記)に依頼して「改良天保水滸伝 飯岡助五郎」を作らせました。

松廼家太琉とはどんな人物なのか。大西信之「浪花節繁盛記」から引用します。
初代勝太郎は二代目神田伯山と親交が深く、広沢虎造が伯山のあとを追いかけて伯山の次郎長伝をついに自分の売物にしたというその次郎長伝を、伯山がやるより前に松廼家太琉から伝授されて得意の読物にしていたのだというから凄い。松廼家太琉は荒神山への次郎長一家と共に乗りこんで行って、そこで見たり聴いたりしたことを講談にしてやっていた、いわば次郎長伝の原作者である。
「改良天保水滸伝」も作家としての能力の高さを見込まれて依頼されたのでしょう。

明治33年に刊行されたこの講談本は国立国会図書館デジタルコレクションにてネット上で無料で読むことができます。
ここでは全20席の演題を記すにとどめます。(タイトルのない回もあります)

第一席
第二席
第三席
第四席 大勝刺客を助五郎の許へ遣す
第五席 庄の助と九重の痴情
第六席 庄の助の最期おはなの危難
第七席 助五郎一世一代の大難
第八席 助五郎再度の大難
第九席 湊の小十、助五郎の出逢ひ
第十席 助五郎網主船主トナル
第十一席
第十二席 助五郎勢力の不和
第十三席 繁蔵江戸を去て故郷へ戻る
第十四席 笹川飯岡の手切れ
第十五席 笹川勢飯岡へ初度目切込
第十六席 荒生の留吉笹川へ注進
第十七席 飯岡勢笹川へ切込む
第十八席 助五郎無罪放免
第十九席 岩瀬の繁蔵殺し
第二十席 勢力佐助の自殺

冒頭でいきなり、
講談では助五郎の父が井上伴太夫に殺されて助五郎はその仇討ちのために銚子の五郎蔵の子分になったとされているが、それは事実ではない、相模国三浦郡の石渡助右衛門の長男というのが正しい。
などと言うことが書かれており、助五郎周辺の取材に基づき史実に近い内容を書き残そうとした意図がよくわかります。もちろん物語は助五郎中心に進み、大衆演芸の天保水滸伝とはすいぶん内容が異なります。
講談本でありながら、書状が書状の体裁で記載されている箇所もあります。第十六席には、荒生の留吉が繁蔵に宛てた手紙が興味深かったので(さすがにこれは創作と思いますが)紹介します。半之丞というのは留吉の婿(娘の亭主)です。

取急ぎ一寸申上候 予て噂さの如く飯岡の助五郎と貴殿不和の赴き然る所 今日助五郎子分の者拙宅へ質受けに参り其者ども話しには今晩笹川へ切込むとの事依而(よって)等閑(なおざ)りにも相成不申段々様子を相尋ね候処 野尻河岸忍村の博多川の家より伝馬三艘にて押出だし人数百人余りの由 御油断あっては一大事に候間取敢えず御知せ申上候何分とも親分様御身体大切に成被下度尚拝顔の節万々申上候以上
八月廿三日 荒生ニテ 半之丞
笹川親分様へ


史実を伝えるために作られたこの講談は世間に広まることがなかったと思います。
しかし辰野万兵衛の孫の伊藤實氏が詳細な史実調査をもとに「飯岡助五郎正伝」を上梓しており、現代に天保水滸伝の実像を伝えています。私のブログでもこの本は大いに参考にさせていただいております。


北九州市にあるリゾートホテルで旅芝居公演 「アクティブリゾーツ福岡八幡」

北九州市にあるリゾートホテルで旅芝居公演 「アクティブリゾーツ福岡八幡」

福岡県にある不定期の大衆演劇公演地、アクティブリゾーツ福岡八幡を訪ねました。

小倉駅からJR鹿児島本線で博多方面へ4駅目、枝光駅が最寄り駅です。
私の職場に枝光で生まれ育ったという方がいて、どんな場所ですかと訊いたことがあります。
「近くにスペースワールドというテーマパークがあった」とのこと。
ただそのテーマパークも数年前に閉園し、今はとりたてて紹介するものはない普通の街のようです。

今回私が訪ねたアクティブリゾーツ福岡八幡は大きなリゾートホテル。
かつてはスペースワールドに遊びに行く多くの観光客がお世話になったことでしょう。
大衆演劇公演は2011年から始まったようです。
このホテルが「Active Resorts 」名を冠するようになったのは2018でそれ以前は「北九州八幡ロイヤルホテル」という名だったようですね。演劇グラフの「不定期劇場・センター」のページによく「〇〇ロイヤルホテル」の名を目にします。

一般的に演劇の劇場やビジネスホテルの立地は人口の多い栄えた都市の駅の近くが良いとされるでしょう。
しかし全国各地に展開しているロイヤルホテルは、リゾート観光目的の旅行者がメインターゲットでしょうから、あんまり人がごちゃごちゃしていない場所かつ豊かな自然観光地の近くに多く建っていると思います。
つまり、ロイヤルホテルは、あまり商業演劇が成り立ちにくい場所で演劇公演を積極的に展開しているということになります。
ロイヤルホテルの大衆演劇文化への貢献はとても大きいと思っています。
演劇グラフでロイヤルホテルの名を見るたびにダイワロイヤルホテルグループの大衆演劇事業について取材をしたいなと思ってしまいます。

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JR枝光駅

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駅前の歩道橋から西方を眺める。
小高い場所に建つ大きなホテルが見えます。

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駅前の国道を西に歩きますと、やがて大きな道路と交差します。
車の場合信号機のある交差点を左折しなければなりませんが、歩行者はこの写真のとおりショートカットできる道があります。

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「近道」と書かれた看板と階段がありました。
ホテルは目の前に見えています。

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アクティブリゾーツ福岡博多
ヤシの木がリゾートっぽい雰囲気を出している

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ロビーに入るとすぐに大衆演劇公演の大きな看板がありました。
今月は「筑紫桃太郎一座 花の三兄弟」

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フロントでチケットを購入

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会場は3階の「八幡の間」

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「こちらの扉は開演1時間前に開錠します。中にお入りいただき受付前に並んでお待ちください」

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八幡の間入口
ここで靴を靴棚に収納

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この和モダンな廊下を進む。
突き当りで開場を待つお客さんが並んでいました。

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開場して、いよいよ場内へ

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大衆演劇会場

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前方は座椅子席

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その後ろの椅子席

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最後方の椅子席

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このように3種の椅子が並んでいます

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前方

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お菓子、ドリンク販売コーナー

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公演中の様子

私はこの日、久し振りの「花の三兄弟」の観劇でした。
桃之助座長がふとした瞬間に見せるかっこよさにうなりました。

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筑紫桃之助座長
かっこいい役者さんは、どんな年齢であっても、そのお年なりの魅力を具えるものと思います。が、この日見た桃之助座長の立ち役には「絶対今見るべき」と思うカッコよさを感じました。若造から脱し男として独り立ちし、年齢的衰退がなく男の活力がみなぎっている、そして人生を楽しむ粋さがある、そんな男として理想的な状態としての時分の花を私は桃之助座長に見出しました。

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博多家桃太郎弟座長は声が良かった。体の大きな役者さんは女形は不利と思われがちですが、桃太郎弟座長の女形の魅せる力はすごい。

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強力な二人の兄のもと玄海花道花形も今後ますますかっこよさを増してゆくでしょう。

筑紫桃太郎一座の公演地は九州・関西が中心で私の住む関東にこないのは残念です。

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500円で入浴できるとのことで、観劇の後お風呂に入りました。

この後私は小倉の宝劇場に行き大衆演劇のハシゴをしました。
数年前まで小倉にあった「バーデンハウス」や「バーパス」はなくなってしまいましたので、同じ北九州市にあるアクティブリゾーツ福岡八幡の存在は大きいですね。

今後もアクティブリゾーツ福岡八幡をはじめダイワロイヤルホテルグループの事業展開に注目しています。

(2019年9月探訪)

「和」と「海」を堪能できる和倉温泉の大衆演劇場 「宿守屋寿苑」

「和」と「海」を堪能できる和倉温泉の大衆演劇場 「宿守屋寿苑」

今回は石川県の和倉温泉にある宿守屋寿苑(やどもりやじゅえん)を訪ねます。

金沢駅から能登半島方面に延びる電車JR七尾線に乗って約1時間半。七尾駅に到着しました。
七尾駅でのと鉄道に乗り換えます。JR七尾線は本数が少ないですがのと鉄道はさらに本数が少ない。
私が乗ったJR七尾線はのと鉄道への接続が悪く、七尾駅時間をつぶすこととなりました。

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七尾の町を散策してから七尾駅に戻りました。
左がJRの改札、右がのと鉄道の改札。

17時58分に和倉温泉駅に到着しました。
冬なのでもう外は暗い。
宿守屋寿苑からは車の送迎のお申し出がありましたが、私はそれをお断りして歩いて向かうことにしました。

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駅から20分くらい歩きますと「海の和風館 宿守屋寿苑」前に着きました。

今日はここで宿泊して明日大衆演劇を観劇します。

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客室
入口近くは普通の和風ホテルの佇まいですが奥の小上がりに注目

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海が見える窓の近くに掘りごたつがあります

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昔ながらのテイストでいて瀟洒な趣きがある和のデザイン

宿守屋寿苑の和室はとても居心地がよい

夕食は食事処の半個室で「能登キュイジーヌ"旬"コース」という和の料理。
1品づつ食卓に供されるコース料理です。
その1部をご紹介しましょう。

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能登近海鮮魚の造り5種盛り

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あたたかい旬菜4種盛り

この後、黒毛和牛のローストビーフ地元野菜添えがでました

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鰤大根

ご飯、汁物、デザート、コーヒーと続きます。
とても美味しゅうございました。

お食事の後はお風呂でくつろいで就寝。

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翌朝。
昨日は暗くてよくわかりませんでしたが窓から海がみえます。宿守屋寿苑は海に面して建っています。ということは全部屋オーシャンビューが臨めるのかな。
この写真は部屋の中(掘りごたつスペースのとなり)にある眺望風呂。

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朝食の和食も凝っています。

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宿守屋寿苑は和倉温泉街の東の方にあります。
館内の窓から西側を眺めました。大きな温泉旅館がたくさん見えます。

大衆演劇公演は13時から。
チェックアウトしてから公演開始まで時間が空きますので和倉温泉街を散歩することにします。

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ありました、日本一の旅館「加賀屋」

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和倉温泉街の西の端にあるのが能登湾を一望できる「多田屋」
多田屋の若女将には以前仕事でお世話になったことがあります。

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2011にリニューアルしたという町の温泉「総湯」
和倉温泉の源泉は熱いのですが、熱交換器を設置することで加水せずに楽しめます。さらに入浴料は銭湯料金。故に地元の方に人気があります。
私も総湯に入りました。私の最近のマイブームのサウナは無料でした!

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総湯のお向かいにあるアイスクリーム屋さん。
お風呂の後だとなお美味しい。

さて大衆演劇の時間が近づいてきました。

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宿守屋寿宴に戻ってきました。

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建物に入ってすぐ左にフロントがあります。そのちょっと先に大衆演劇用の受付が設置されていました。

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1階ロビー
開場時間までここで待つこともできます。

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大衆演劇場は2階の宴会場です。

この日は花柳願竜劇団の公演です。

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入口近くに外題が貼ってありました。
おっ今日の芝居は「暗闇の丑松」だ。

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もちろんお座敷に上がるには靴を脱ぎます。
靴を入れるビニール袋が用意されています。小さいですが靴置き棚もあります。単にここで靴を脱ぎっぱなしにしているのは慣れている常連さんでしょうか。

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大衆演劇場内後方より

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前方は座椅子席

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後方は椅子席

13時、花柳願竜劇団の公演が始まりました。

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第1部お芝居が終わって口上挨拶と物販。
口上を務めるのは花柳竜乃若座長。お芝居では主役の丑松を演じました。
竜乃さんは2019年3月に若座長に就任されたようですね。現在劇団の世代交代の過渡期というところでしょう。

14時30分に第二部が始まりました。
花柳願竜劇団といえば生バンド。楽しみ。と思ってたらオール舞踊ショーでした。
生バンドを見られなかったのは期待はずれだったのだけれど、舞踊ショーはとてもよかったです。

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花柳願竜座長
花柳願竜劇団は大阪や東京の芝居小屋ではない比較的地方の公演地を巡ることが多かったと思います。お客さんの質・数や客席の雰囲気など変化が大きかったことでしょう。お客さんとのコミュニケーションをとる座長を見ておりますとまさに百戦錬磨の旅芸人と思わせるものがあります。

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花柳竜乃若座長
背が高くて舞台映えします。かっこいい。他に類を見ないタイプの女大衆演劇役者だと思います。
舞踊の所作がとてもしなやか。

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二代目香賀峰子
以前は学業を優先されていたと思いますが、今はすっかり旅役者ですね。

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花柳さつき
今日は見られなかったけれど次回こそさつきさんのアコーディオンが見たいです

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花柳竜乃若座長とあつし若頭

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ラストショー

思い返せば女形はなかったですね。大衆演劇の舞踊ショーでは女形を入れるのが必須みたいな風潮がありますけれど私は全然なしでもよいと思っています。
花柳願竜劇団の舞踊オンリーショーなかなか良かったです。

舞踊ショーが終わったのは15時30分すぎ
私が乗りたい電車は15時47分に和倉温泉駅を出る電車
公演が終わるやいなや私は急いでフロントへ。前もって宿の方に車送迎をお願いしていました。

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車だとあっという間に和倉温泉駅につきます。

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こんなものが駅に置いてあります。
前日に七尾の町を歩いた際も街中にでっかいこれが置いてありました。
これは「でか山」の車輪とのこと。
毎年5月に七尾市で開催される青柏祭(せいはくさい)では日本最大級の曳山(でか山)が曳かれるそうです。

帰りは金沢から新幹線に乗って東京へ。
北陸新幹線ができてから石川県への旅がとても便利になりました。

(2020年2月探訪)




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Author:notarico
東京在住。大衆芸能(大衆演劇、落語、浪曲、講談等)が好きです。特に大衆演劇の世界に興味をもっています。
twitterアカウント:notarico

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